「なぁ! やろうよ! 死体蹴りやろうよ! な? 一回だけ! 騙されたと思って、蹴ってみて! 癖になるから」
「やりませんって! そんな不快な遊び」
ヘラヘラしている先輩を見ながら、僕はあきれた気持ちになる。大学1年生の春という貴重な時間を、なぜ、こんな変なやつと過ごしているのかと切ない気持ちになる。
「やれやれ。後輩は、面白味に欠けてるよ。退屈なやつだな」
僕はできる限りうんざりした態度をして見せて、先輩の行為を暗に非難しているのだが、先輩には通じていないようだった。自身の行いを反省するどころか、謎の暴言を吐きながら、僕からスマホに視線を戻して、“死体蹴り”という遊びを再開しはじめていた。
“死体蹴り”というのは、先輩が生み出したクソみたいな遊びだ。
ネットには“炎上案件”というものが常時存在している。そんな案件に、正論のコメントを書いて、炎上している人やモノを叩くという遊びだ。投稿したコメントに、「いいね」や「返事」といった反応が2桁以上ついたらゲームクリア。
2人以上でやる場合は、同一の炎上案件に、同時にコメントを投稿して、より多くの反応を既定の時間内で稼げたほうが勝ち! というルールを設けているのだという。すでに批判対象となっている物事を、さらに叩く遊びだから、“死体蹴り”なのだ。
非常にバカバカしいし、実に悪趣味な遊びだから、「そんなことをすべきじゃない!」「人の心がないんですか!!」と、何度も注意をしているのだが、先輩は嬉しそうな表情でニヤニヤと僕のことを見返してくるばかり。クソみたいな行為をやめるどころか、「一緒にやろう!」とすすめてくるのだった。
たった今も、『虐待をしたシングルマザーが逮捕された』というニュースに対して、「母親も悪いかもしれないけど、先に父親が逮捕されるべきだ。この女性も被害者だ! 父親を去勢して死刑にしたほうがいい!」という趣旨のコメントをすごい勢いで先輩は入力していた。僕はどうしようもない不快感を覚えたから、先輩からスマホを取り上げて、コメントを削除する。
「なにすんだよ! せっかく人がうまいコメントを書いてたってのに!」
荒々しい動作で先輩の行為を止めてやったというのに、先輩には、まったく悪びれた様子がなかった。信じられないとでもいうかのように、目を大きく見開いて非難してくる。
「先輩って、いつもこんなことされてるんですか?」
「まぁな。退屈な講義とかあるだろ? そういうときにはいつもこうやって死体蹴りしてるんだ。俺の同学年の奴らも去年の9月からずっとこんな感じでやってる。暇さえあれば、死体蹴りしてるぞ?」
大学4年生ってそんな感じなのかよ。もっとまじめにやればいいのに。
「それは実に有意義な時間の使い方ですね。大学1年生の僕なんかには、理解できない高尚な遊びって感じがします」
「や、実際、有意義だよ。死体蹴りしてるとさ、身につくんだよ。就活で無双できる技術がな!」
「就活で無双できる技術……!?」
僕は思わず身を乗り出してしまう。僕はまだ大学1年生だけれど、就活では失敗をしたくないと思っている。就活を有利に進めていける情報というものは、少しでも多く得ておきたい。
「ほら、死体蹴りをしようと思うとさ、絶えずニュースに関心を払うことになるだろ? 面接で「最近のニュース」について質問されたときにうまく受け答えができる。それにな、うまく死体を蹴ろうと思ったら、炎上している案件に、人とは違う観点から切り込んでいかないといけないんだ」
先輩は真剣な表情で“死体蹴り”という遊びの魅力を語り始めた。僕はゴクリっと唾を飲み込んで、頷きながら、先輩の次の言葉を待つ。
「死体蹴りをしていると、独自性やアイデア力……さらには説得力といったスキルが自然とついてくるんだよな。これらのスキルってな、就活の“グループディスカッション”で求められる力なんだ!」
先輩はそれはもう堂々とした様子で言い切った。僕は、これだけハッキリというんだから、なにかしらのうまみがあるのではないかと思えはじめて、「死体蹴り、悪くないかも!」「今日からスタートしてみようかな!」という謎の誘惑を感じ始めた。しかし、ハタっと立ち止まる。
「騙されませんよ! 先輩、また嘘をついてるでしょ!?」
「バレたか! ちょっとは成長したな」
先輩はゲラゲラと笑ってみせる。僕はあきれた気分で先輩を見る。
いつもこうなのだ。
先輩と出会ってから1か月になるが、彼は、僕に馬鹿げた嘘ばかりをついている。「うちの大学の図書館にはGHQが隠していった軍の機密文書がある」「シラバスの講義説明文が教科書体でなく明朝体になっているのは、楽勝科目」といったアホみたいな嘘をつくのだ。
それらの嘘は、冷静になって考えると、嘘だということはわかるのだけれど、先輩の口調があまりにも真に迫っているから、僕はたびたび騙されてしまうのだった。
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僕が先輩に出会ったのは、1か月前のことだ。出会った場所は、図書館の屋上庭園だった。
屋上庭園――。
その字面だけを見ると、ずいぶんとおしゃれな場所という印象を受けると思う。僕もそうだった。大学に入学したてのころ、大きな講義室に集められて、施設説明のオリエンテーションを受けた。そのときに「図書館には屋上庭園がある」という説明を受けて、非常にわくわくしたものだ。
屋上というのは素敵だ。
小説やアニメの主人公たちは、屋上でランチをしたり友情を育んだり秘密の告白をしたりしているものだ。青春の舞台という感じがする。うちの高校にも屋上はあったけれど、立ち入り禁止で入らせてはもらえなかった。
――大学生にもなると、屋上に自由に出入りできるようになるんだな!
なんだか自分が一気に大人になったようで……屋上で青春っぽいことを楽しめそうで、期待で胸がわくわくしたものだった。そんな感想を持ったのは、僕だけではなかったようだ。「屋上庭園がある」という説明を聞いた同級生たちの何人かは友人と顔を見合わせて、何かを言い合っていた。ちょっとした高揚感が周囲を支配していた。
しかしだ。僕らの期待はあっさりと裏切られることになった。
教室内での施設説明が終わって、引率の先生につれられて、キャンパスの主要施設を次々とみていくことになった。いろんな施設を見て行って、ようやく図書館にたどり着いて、「屋上庭園」に足を踏み入れて……みんな一気に失望してしまった。
だって、屋上には何もなかったから……。
屋上庭園というと、自然豊かで、柔らかな日光が降り注いでいる見晴らしの良い空間を多くの人は想像すると思う。
しかし、図書館の屋上庭園にはなにもなかった。
延々と続く無機質なコンクリートの地面。だだっ広い空間には、「ビーチパラソル」と「プラスチック製のテーブルとチェアセット」という悪趣味極まりないものが、まばらに置かれていた。
庭園というからには、草木のある庭でなくてはならないだろう。しかし、屋上には、木なんてものは一本も植えられておらず、大きめのプランターにツツジの花やよくわからない花が雑に植えられていた。
これだけでも最悪なのに、加えて日当たりも異常に悪かった。屋上庭園がある図書館は12階建てなのだが、ちょうどその西側に14階建ての大学の本館があり、ちょうど影が差すようになっていたのだ。
そのせいで、昼間なのに、屋上はどこか薄暗くて寒々しかった。日光不足のせいで、プランターに植えられた花々は、光合成に失敗していて、花びらもどこか白っちゃけていて色彩に乏しく、「もっと光を!」という叫びが聞こえてきそうだった。
さすがに管理者の人もまずいと思ったのだろう。色彩をプラスしたいと思ったのか、天然の花々には、造花が添えられていた。しかし! その造花のセンスが非常にマズかった。
なにを思ったのか、よりにもよってハイビスカスの造花なんてものを天然の花々の間にぶっさしていた。極彩色のハイビスカスたちからは、変に南国っぽい愉快な雰囲気が出ていて、それが光合成不足の花々とはいかにもミスマッチ。いかんなく安っぽさを演出していて、なんか汚らしいなぁ、という感想を僕に抱かせた。
同級生たちも僕と似たような感想を持ったようで、反応に困ったのだろう。友人たちとそれぞれ視線を交わして、苦笑していた。
――まぁ、こんなもんだよね。学用品なんかに期待するのはアホダヨネ!
そんなことを言いたげな視線だった。一部の同級生は毒舌でも披露したそうにしていたが、まだ大学に入学して日が浅く、周囲の同級生に遠慮があったのだろう。ふぅ、と肩をすくめて、自身の不満感を表明する以上のことはできないようだった。
「屋上を開放している大学って少ないんですよ! みなさんも勉強や研究に疲れたときは、この屋上庭園にあがってきて、夜景でも眺めて癒されてくださいね!」
施設説明をしてくれた司書さんは、白けた雰囲気の僕らを前にして、ヤケクソのような説明をしていた。
さて、肝心の眺望であるが……非常に悪かった!
やはり屋上を開放するとなると、自殺というものが気になるのだろう。屋上は、高さのある鉄網にぐるりと二重に囲われていて、良い景色なんて1つも見えやしなかった。こんなとこから景色を見ようとすると、動物園の動物ごっこをするはめになるのではないだろうか? 僕は疑問に思った。
屋上庭園……名前負けにも程がある空間を後にした僕は、脳内からその存在を消し去って、「あんな面白みのない場所には、間違っても二度と足を踏み入れないでおこう」と密かに決意した。
しかしだ。4月も中旬になった頃。不本意にも、僕は屋上庭園の常連となることになってしまったのだった。
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僕は中・高時代から友人を作るのがうまくはなかった。用事もないのに、周囲の同級生に話しかけるのが、なんだか怖くて、なかなか会話の輪に入れなかった。
それでも、中・高時代は、顔見知りというものはいるから何とかなってはいた。しかし、大学という顔見知りがまったくいない環境では、どうしようもない。なんの関係もない相手に話しかけるということが僕にはできなかった。
「隣、座ってもいい? 1限からって眠いよな?」
「なぁ、この課題のやりかたってこれであってるっけ?」
「そういえば、月曜の3限の講義でも一緒だったよね?」
雰囲気が似ている同級生に何度か話しかけようとはした。しかし、「なんだよ、こいつ?」「だれ、お前?」みたいな視線を向けられるのが怖くて、気持ちは空振りするばかり。
入学式から一週間もすると、ポツポツと親しい友人グループができはじめているというのに、僕は誰とも会話することができず、一人で寂しく講義を受けることになっていた。
――誰でもいいから話しかけてきてくれ! もしも、話しかけてきてくれたら、大学4年間の友として、めっちゃ大事にするから!
そんなことを考えながら、始業時間よりも早めの時間には教室に入ってきて、講義が終わったあともダラダラと教科書類をカバンに収納して、同級生との接触時間を増やしてみたりしていた。
しかし、同級生から見ると、僕は面白みに欠ける人物に感じられるのか。誰も僕に話しかけてこようとはしてくれなかった。受け身な態度でいたらマズいことはわかっていたのだけれど、一歩踏み出すことができずにいた。
――やっと大学生になれたっていうのに何をやってるんだろ……。
入学して2週間も過ぎるころには、そんな自己嫌悪で胸が苦しくなりはじめていた。親しく話している同級生を見ているのが苦しくなって、空き時間は、二度と行くまいと考えていた屋上庭園に足を運ぶようになっていた。
屋上庭園は魅力に欠ける場所だからだろう。いつ行っても人はおらず、森閑としている。
どこに行ってもざわざわとしているキャンパス内から切り離されているようだった。僕は、図書館の屋上庭園の悪趣味なプラスチック製のチェアに座って、図書館で借りてきた本やスマホを見ながら時間をつぶすようになっていた。
――大学なんて勉強をするために通うもんなんだから、これでいいんだ。知識がついていいじゃないか。
そんないじけたことを考えながら、日当たりの悪い屋上で、一人でコソコソと昼食を取ったり、ざわざわとした心を癒したりしていたのだった。
✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧
先輩と出会ったのは4月も下旬になったころのことだった。その日も、僕は、一人飯をしようと、購買で買ってきたパンを片手に屋上庭園に足を踏み入れた。そして、先輩に出会ったのだ。
初めて出会った日。先輩は、無機質なコンクリートの上に倒れこんでいた。僕は、その姿をみとめるや否や、彼に駆け寄っていた。病気か何かで具合が悪くなって卒倒でもしているのかと思ったからだ。
「あの! 大丈夫ですか!?」
救急車を呼ばないといけないのではないか。大変なところに遭遇してしまった! そんなことを考えながら、慌てふためきながら、彼に声をかけたのだ。
しかし、声をかけてから、即、後悔した。
先輩からは、こっちまで酔いそうになるくらいのアルコール臭がしたからだ。「学内飲酒」という最悪な単語が僕の頭をかすめた。さらに、
「うわ! びっくりしたなぁ! なんだよ?」
僕が声をかけるや否や、実に溌剌とした様子で、彼は飛び起きたのだ。不健康な感じは一切しなかった。そして、心配してやっている僕のことを、不審者を見るような目でジロジロと見てきたのだ。
「や、こっちもびっくりしたんですよ。体調不良で、倒れているのかと思ったんですよ」
弁解と批判を込めて僕は言った。僕のほうも彼のことを改めて観察した。細い男性だ。言動に比べて、どこか繊細で儚げな雰囲気がある。ダークトーンのシャツに同じく黒っぽいパンツを履いている。黒い色が映える色白な肌。目鼻立ちははっきりとしていて、どこかミステリアスな雰囲気の漂う人という印象を受けた。
彼はしばらく僕のことを探るような目で見ていたが、やがて表情を和らげて、楽しそうに笑った。
「なるほどな。まぁ、そう思うよな! うん。俺が悪かったな」
納得したかのように彼は頷いた。
そして、昨日は夜遅くまで飲み会をしていたこと。飲み放題だったから、少しでも代金の元を取ろうとして、とにかくアルコールを大量に飲んだこと。そのせいで二日酔いがひどくて、講義の空き時間に、ここで寝ていたことを愉快げに話してきた。
僕は、彼が学内で飲酒をしていたわけではないと知って安心したが、翌日も体にアルコールのニオイが残るくらいに大量の酒を飲むなんて、どうかしてるとも思った。
「こんなところで寝るよりも保健センターで寝たほうがよくないですか?」
大学には保健センターという施設がある。
施設説明で立ち寄ったが、高校の保健室とは比較にならないような立派な施設だった。ベッドも何台も準備されていて、看護師さんも何人か常駐しているようだった。
屋上庭園のコンクリートの地面なんかで寝るよりかは、保健センターのベッドで寝たほうが圧倒的に良いにきまっている。しかし、彼は、僕のことを馬鹿にするような目で見てきた。
「さては、お前、新入生だろ? 知らないのか? 保健センターってメンドクセーおじさん看護師がいてさ、しょうもない理由でベッドを使おうとしたら、説教してくるんだよ。二日酔いなんかではベッドを使わせてくれないんだな、これが。高い学費を払ってるんだから、ベッドくらいは気持ちよく使わせろって話だよな」
いやいや。保健センターの看護師さんの言うことが正しいよ。二日酔いになるくらい飲むなんて間違っている。僕はついつい呆気に取られてしまう。どう反応したらいいのかわからない。
先輩はというと、ゆっくりと立ち上がって伸びをした。それから、ちらっと僕のほうを見ながら、ごそごそとポケットをまさぐって、茶色の薬が入ったアルミシートを手渡してきた。
「まぁ、いいよ。心配してくれてありがとな。お礼にこれやるよ」
「なんですか? これ?」
「カフェインの錠剤だよ。使ったことないのか? これ、2つまとめて飲むと、気分良くなるぞ! だるい講義の前とかに飲むといい! 特にな、モンエナの「ゼロシュガー」で流し込むとサイコーな気分になれるぞ! 大学生活の知恵だな」
「ちょ、困りますよ。変な薬なんて渡さないでくださいよ!」
わけのわからない先輩から、わけのわからないものを渡されて僕は動揺する。関わってはいけない人と関わってしまったのではないかと、逃げたくなった。しかし、先輩はというと、そんな僕の様子が面白かったのか、肩を揺らしながら笑う。
「変な薬のわけがあるか! 普通に薬局で買える薬だよ。エスエス製薬の『エスタロンモカ』だよ。ねむけ・だるさに『エスタロンモカ』って有名だろ? 簡単にハイになりたいときにはカフェインを錠剤でキメるのがいい! そんなの大学生活の常識だろ?」
そんな常識は知らないし、知りたくもない。僕は、ハイになる薬なんてもらっても困るから、薬を先輩に返そうとした。しかし、先輩はというと、近くの椅子に置いていたリュックを肩にかけて
「じゃあな! 後輩!」
そんな一言を残して、屋上から立ち去ってしまった。しばらく僕は呆気に取られていた。
なんというか……悪い意味で大学生らしい人だったな。外交的で、ああいう性格をしてたら、大学生活も楽しめたんだろうな。そんなことを思った。
それから、気が付く。大学で初めて誰かと交わした会話っていうのが今の問答だったのではないか、と。
初めての会話がわけのわからない先輩との意味不明なやり取りなんて。あまりにも酷い。僕は、思わず、暗澹たる気持ちになったのだった。
✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧
僕とはあまりにも性格が違う先輩。彼とはふたたび会うこともないだろうと思っていたのだが、先輩とは、翌日以降も屋上庭園でたびたび会うようになった。
僕が先に屋上にいることもあったし、先輩のほうが先に来ていることもあった。いずれにせよ、先輩は、僕の姿を見ると、気軽に話しかけてくるのだった。先輩からは、アルコールのニオイがすることが多く、「いくらなんでも飲みすぎじゃないか?」と、僕は呆れた気分になっていた。
さらに、僕を呆れさせたのは、先輩がとんでもない嘘つきである点だ。
僕が履修登録を確定させようとしてスマホを前に悩んでいたら「シラバスの字体が明朝体の科目を選べ! それが楽勝科目だ」などという下らない嘘をついて僕を混乱させてきたし、また、ある時は、存在していない教授の悪口を言って僕を義侠心で憤慨させてみたりして、先輩は楽しんでいた。
なお、先輩が屋上庭園によく来ている理由は、数回会った時点でわかった。
先輩はいつも一人でいるから、明るそうに見えるけど、もしかして友人がいないのではないかと気になって尋ねてみたのだ。
「俺さ、院に進むんだよ!」
返ってきたのは予想外の言葉だった。先輩はいかにも不真面目そうだったから、わざわざ大学院に進学してまで、勉強を続けようとしていることが意外に感じられた。
「それでな、友人の中に院に進むやついないんだよな。みんな就職の話しててさ、そんな中で『院に進むので、就活なんて関係ありません』みたいな感じだとさ、なんか居心地悪くてな。みんなも俺がいるときは、俺が輪に入れないことに遠慮してさ、就活の話を避けようとするし。というわけで、定期的にみんなから離れてるわけだよ」
「驚いた。先輩にも思いやりみたいな感情があったんですね」
「失礼だな。俺、道徳とか倫理とか得意だったんだから。暗記科目は得意なんだから」
倫理も道徳も暗記科目じゃねぇよ、とツッコミを入れたくはあったのだが、先輩の言葉にいちいち正論で返すのは正気の沙汰ではないということに僕は気が付きつつあったので、さらっと受け流すことにした。
「高校で倫理の授業があるのって珍しいですね。うちの高校はなかったですよ」
先輩との会話はほとんど中身というものがなかった。お互いに相手に何かを求めているわけではない。
偶然、同じタイミングで屋上を利用していて、時間をつぶしたいという目的が一致しているから、なんとなくで会話をしているだけの関係だった。
時間を無駄使いしているようにも感じたが、ある意味では、こういう無意味な感じが大学生らしいのかもしれない。僕はそんなふうに思っていたのだった。
さらにだ!
僕は、甚だ不本意なことに、先輩と将来の夢について語り合ったこともあった。それは僕のふとした発言がきっかけだった。
「先輩って作家とか目指してみたらどうですか? これだけポンポンと嘘をつけるんですから、すごく向いていると思いますよ?」
先輩が馬鹿げた嘘をあまりにもいうものだから、ある時、僕は怒りにまかせてそんなことを言ったのだ。すると、先輩は非常にいやそうな顔をしてみせたのだ。
「俺さ、コスパとかタイパが悪いことってしたくないんだよな。小説って、書き上げるのに半年くらいかかるんじゃないのか? ダルすぎるだろ? それでさ、書き上げて、賞とか取れたらいいけど、取れないケースのほうが多いだろ? なんか時間と努力の無駄使いって感じがするよ。んなことやってる暇があったら、資格取得のための勉強でもするね! 資格は時間をかけたら必ず手に入るし、金にもなる! 一生モンだからな! 有意義な時間の使い方をしなくちゃな!」
どこか誇らしそうに意地の悪いことを言う先輩を前にして、僕は意気消沈してしまった。“小説を書く”という行為をそんなふうに言うなんて。
「先輩。いま、僕は非常に傷ついています。僕は作家志望だったりするんですよ」
口にすべきか迷ったが、先輩を非難してやるために、僕は自分の夢を語った。受験生のときから、僕は小説を書いてみたいと思っていて、大学に入学してからというもの、チマチマと小説を書き進めていたのだった。
僕の告白を聞いて、さすがに先輩は申し訳なく思ったのだろう。気まずそうに、頭を掻きながら、すまなそうに眉を下げた。
「うわー。ごめん。でも、お前も悪いよ? そういう情報は、先に出しとけよ。「僕は作家志望なんですけど、ホラ吹きな先輩は作家向きだと思います。小説でも書いてみたらいかがでしょう?」とかって言ってくれてたら、そうは言わなかったのに……。「小説を書くのもいいかもな! 輝く青春だな!」くらいのことは言ってやったのに」
「なんか白々しい感じですよ。なんなんですか輝く青春って」
僕の反応が面白かったのか、先輩は「ごめんごめん」と言いながらも、からからと笑う。ちょうどそのとき、屋上を強い風が吹き抜けて、パラソルをざわざわと揺らしていった。
「でもさ、すごいよ、小説家って」
少し間を置いて、先輩がそんなことを言った。そう言う先輩は、どこか寂しげに見えるような笑みを浮かべていた。僕は、初めて見る先輩の表情に少しドギマギした。
「俺さ、思うことあるもん。小説家って、何もないところに何かを生み出すんだもんな。自分の頭だけで何かを作るってすごいよな。……なんだっけ。昔の人も言ったじゃん? “力をも入れずして天地を動かし”……なんだっけ? 高校で習ったけど忘れたな」
「“力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、 猛き武士の心をも慰むる”ですよ」
僕は、『古今和歌集』の仮名序の一節を暗唱する。高校の古典で覚えさせられた有名な部分だ。意味は、“洗練された言葉は、天地をも人をも、さらには神をも動かす。言葉には力がないように見えて、その実 とんでもないパワーがある”ということを述べた一節だ。
「さすがだな! やっぱり去年まで受験生やってたやつは違うな」
先輩は感心したかのように言う。大学4年生が受験勉強の知識を忘れてしまっていて恥ずかしくはないのかよ、と思ったけれど、僕は黙っている。先輩は機嫌よさそうにしている。
「でもさ、そういうことだと思う。小説を書こうとすると、言葉を磨くわけだろ? そうやって、言葉を磨いていたら、後輩の言葉が、天とか地とか……多くの人の心を動かしちゃうこともあるよ。それって魔法みたいですごいな」
普段の態度とは打って変わって、先輩はまっすぐとこちらを見て、迷いのない声で話す。
僕は少し戸惑いつつも、先輩の意見に共感する。僕が作家になろうと思ったのは、受験生だった時に自分と同じような境遇にある小説を読んで、感動して、励まされたから……自分も誰かを支えられるような小説を書きたいと思って、小説家を目指すことにしたのだから。僕は言葉の魔法のような……不思議なパワーのようなものに惹かれて、作家を目指そうと思ったのだと思う。
僕は、どう反応したらいいのかわからず、言葉につまる。少し視線を下げて、先輩の目ではなく、首元のあたりを見つめる。すると、急に先輩は急に笑い始めた。
「だ・か・ら、仮に、作家デビューできなかったとしても、費やした時間は無駄にはならないよ。人生のどこかで役に立つよ! せっかく賞に出した小説が、箸にも棒にもかからなかったとしても、あんまり気を落とすなよ! きっと何かしら役には立つはずだから」
「ちょっと待ってくださいよ! なんで僕が作家デビューできない前提で、慰めの言葉なんか口にしちゃってるんですか?」
急にふざけたことを言い出した先輩を前に、僕はおおげさに顔をしかめて見せた。すると、先輩は意外なものを見たかのように、驚いたような表情をする。
「後輩! お前、かわいくないぞ! ここは『先輩、ありがとうございます! 優しい先輩に僕は生涯服従します』くらいのことを言う場面だろ? 綺麗ごとを言ってやったんだからさ」
なんだよ、綺麗ごとって……。こいつ、やっぱり、最低だ。
僕は、さっきまでの妙にまじめな先輩の表情や態度がきにかかりはした。しかし、口をついて出るのは反抗の言葉ばかりだった。
「白々しいんですよ! 厭らしい下心が見え隠れしてるんですよ!」
「うわー! 後輩ってば失礼なやつー。無理でーす! 失礼でかわいげのない後輩は、作家になるのはもちろん、人を動かすような洗練された言葉を生み出すことすらできません! バーカ! バーカ! バーカ!!」
さらには、先輩は、「バカ」などといって、僕の前途を呪う言葉を口にしつづけるのだった。まったく紀貫之もびっくりだろう。
そんなふうに実のない話をしながら、僕と先輩は4月と5月を屋上庭園で過ごしつづけたのだった。
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4月と5月の間は、頻繁に先輩と屋上で会っていた。
しかし、6月になって、梅雨が到来してしまうと先輩に会いにくくなってしまった。屋上という場所柄、雨の日は、さすがに出ていけない。屋上のビーチパラソルの下にでもいれば、雨は防げるが、そこまでして屋上で過ごす必要性は感じられなかった。
僕は、いずれは先輩と会えなくなる。そのことに気が付いて、ふと悲しくなった。
屋上には冷暖房器具なんてものは存在していない。だから、夏がきたら、先輩もさすがに屋上にこなくなるだろう。数分過ごすにはいいが、数時間もいたら熱中症になってしまうはずだ。実際、5月も下旬のころになると、互いの首筋にうっすらと汗がにじむこともあった。
「それにしても、屋上にいるのも限界に近くなってきたな。そろそろ別の場所を探さないとな」
先輩はそんなことを独り言のようにこぼすこともあった。「どこに行くんですか? いい場所ってありますか?」と訊きたくなることもあったけれど、踏み込んでみて、拒まれるのが怖くて、「そうですね。こんなとこに夏もい続けるのはアホですよね」などと、アマノジャクな返事をしていた。
ちなみに、僕は何度か先輩に「連絡先を交換したい」と、伝えてはいた。連絡先を交換して何かをしたいわけではない。ただ、細い細いこの関係を少しでも太いものにしたいと思ったのだ。しかし、先輩はというとヘラヘラしながらはぐらかすばかり。
「お互いにさ、名前とか知らない関係っていうのもいいもんだろ? 半分匿名だから、言いたいことが言い合える関係なんだって」
結局、僕は先輩に自分の名前を名乗ることすらできず、先輩から名前を聞き出すこともできなかった。僕たちの関係は、どちらかが屋上に来るのをやめたら終わってしまう関係。
先輩との関係は、僕に何らかのメリットをもたらすようなものではない。ただの時間つぶし。目的があって何かをしているわけではない。ただ、そのなにもなさに、僕は救いというか……心の支えのようなものを見出し始めていた。
しかし、先輩にとっては、違うのだろう。僕との時間は、ほんとうに何でもないのだと思う。
先輩は就活をしている友人への配慮で屋上に来ているわけだけれど、後期になれば、先輩の友人たちの就活もずいぶんと落ち着くはずだ。そうしたら、彼は友人たちとずっと毎日を過ごせるようになるのではないか?
大学生活を楽しむために、思い出つくりをしたりしながら……屋上のことなんて思い出さず、日々を過ごすようになるのではないだろうか? そんなことを考えると、ついつい悲しくなってしまう。せっかくの関係があまりにも儚いように感じられて……。
✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧
梅雨の雨が5日間も降り続いたある日。
僕はなんとなく屋上にあがってみた。先輩はいないだろうとは思ったけれど、屋上庭園の何もない景色を見たくなったのだ。しかし、屋上に出てみて、驚いた。
雨のせいで、どこか霧が出ているようになっている屋上。
そのビーチパラソルの下に、先輩がいたからだ。先輩は、プラスチック製の椅子に座って、何やら文庫本を熱心に読んでいた。まじめな表情で、少し首をかしげて、文庫本にまっすぐな瞳を向けていた。
「先輩! こんな雨の日になにをしてるんですか!?」
僕は大きな声をあげて、先輩に駆け寄っていた。雨がさっと体に降り注いだが、そんなことは気にならなかった。
「お! 後輩じゃないか!」
人懐っこそうな笑みを浮かべながら、先輩は僕を迎える。少しためらったものの、僕は、テーブルをはさんで先輩の向かいの椅子に腰を下ろす。椅子は少し湿っているし、屋上庭園全体はなんだかジメジメとムシムシしているし……こんな場所にいるのは、正気の沙汰とは思えなかった。僕は先輩に駆け寄ったはいいが、なんと話を切り出したらいいのかわからず当惑する。
「俺さ、雨の日の屋上って割と好きなんだよ。こうやって雨の中で読書をしてると、船旅でもしてるような気分になるよ」
先輩は、能天気にそんなことをいう。湿気のせいで、やや乱れている髪を、気だるげにかき上げる。
「船旅。されたことあるんですか?」
「ないよ。ヨットにすら乗ったことない」
「なんなんですか、それ」
「ちょっと憧れないか? 俺、船に乗ってみたいな。雨の日の船ってどんな感じなんだろうな? 大海原でゆらゆら揺れる船の中で、雨の日にのんびりと寝てみたいな」
先輩はいつも通り、変なことを言いながら文庫本をリュックにしまう。『文選』の文庫本だった。先輩は、中国文学が専門なのかな? ちらっとそんなことを思った。
「なぁ、飛び降り自殺するやつって、どこを見ながら死ぬと思う?」
唐突な質問に僕はギョッとする。先輩は悪趣味なことを言うことはあったけれど、自殺とか殺害とかのあからさまな話題は避ける傾向にあったから。
「なんなんですか? その最悪極まりない質問は?」
「そうか? 屋上でするには、ふさわしい会話だと思うけどな」
「いや。しませんよ。気持ち悪いなぁ」
先輩は軽く笑った。そして、僕から視線をそらして、雨にけぶる金網のほうに視線を向ける。僕も金網のほうに視線を向ける。金網には、『危険』とデカデカと書かれた看板が、等間隔に結わえ付けてある。ほんとにセンスを疑う。
「でもさ、気にならないか? 飛び降り自殺でこれから死のうとしてるやつが最後に見る景色がなんなのかって」
先輩の言葉に、ふと彼のほうを見る。そして、僕は困惑する。僕を見つめる先輩の顔があまりにも真剣で、普段とは違って見えたから。
「これから飛ぶとして、どこを見ながら死ぬ? まっすぐ前を向く? それとも地上を見る? 空を仰ぎながら飛ぶ?」
先輩は言葉を続ける。発言の意図がわからず、僕は先輩の瞳を凝視した。しかし、何も読み取ることはできない。
「わかんないですけど……。自殺するくらいに追い詰められてるんですよね? 空を見ながら死のうとかってロマンティックな気分にはならないんじゃないですかね。まっすぐ前を向く気分にもなれませんし……僕だったら、地上を見つめながら、そのままフラッと落ちると思いますね」
何もわからないまま、僕は思ったままの感想を口にした。屋上では考えたくないことだけれど、もしも僕が飛び降り自殺するなら、これから落下することになる地面を見ると思う。なにも考えず地面を見つめて、そのまま死ぬと思う。
「だよな。俺も絶対にそうする!!」
さっきまでは妙に真剣そうな表情をしていたくせに、先輩はいつものようにあっけらかんとした笑顔になった。そして、僕の当惑なんて意に介さずに、最悪な話をし始めた。
「実際、それが正解なんだって。地面を見ながら飛び降りるのが正解なんだ。頭から地面にたたきつけられるから、苦しまずに楽に死ねるんだ」
悪趣味な話に僕はうろたえる。先輩は、脚を組みなおして、髪の毛先を指でいじりながら、話を続ける。なんでもない話をするかのように。
「天を仰ぎながら飛んだりしたら最悪なんだって。脚とか胴体から着地するはめになってな、せっかく飛び降りたのに致命傷にならず、激しい痛みと後悔を感じながら、出血多量でじわじわと」
「やめてください!」
気が付くと僕は大声を出していた。そして、先輩を睨む。先輩は、驚いたように何度かまばたきをする。
「ほんとにやめてください! 気持ち悪いです。悪趣味過ぎます!!」
僕は先輩を凝視したままで繰り返す。声のトーンが自分でも嫌になるくらいに、ヒステリックなものになっていた。しかし、先輩の話がなんだかあまりにも不快で、激しい口調で非難せずにはいられなかったのだ。
先輩は、そんな僕を見て、少し笑った。その笑みが少し寂しそうに見えて……なんだか先輩がとても脆い人のように見えた。
「ほんとにな。悪趣味だよな、こんなこと考えるのは」
先輩は僕からゆっくりと視線をそらせて、金網のほうに目を向ける。僕は、思わず、手を差し伸べて、先輩の服の袖を引っ張っていた。なんだか先輩が今にも消えてしまいそうに見えたから。
「やめてくださいよ?」
「何が?」
先輩はそんな僕の動作を不思議そうに見て、首を傾げた。僕は、なんだか混乱してしまう。その後、先輩はいつものように僕のことをからかうような話をし、僕はいつものように笑って返していたのだけれど、ひっかかりは消えなかった。
――先輩。先輩は、以前、友人に配慮をして屋上に来ているといいましたよね? でも、こんな雨の日まで友人を避けるのですか? 本当は友人なんていないんじゃないですか? 嘘をついてたんじゃないですか?……
僕はそんなことを聞きたかった。先輩のことを知りたいと思った。しかし、そこに踏み込んでしまうと、先輩が逃げてしまうのではないかと感じて、どうしても尋ねることができなかった。僕はただただ与えられるままに、先輩との楽しい時間を堪能することしかできなかった。
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先輩に一歩踏み込むことができずにいるうちに、6月も中旬になった。暑さがジリジリと本格化し、屋上にいる限界が近づいてきた。そんなある日のこと。先輩が唐突に僕に質問した。
「というか、後輩って文芸部には入らないのか? うちの大学って文芸部もあるだろ?」
「確かにありますけど……」
「あるんだろ。なら、入部したらいいじゃないか? 部の活動を通じて、同学年の友人もできるだろうし、先輩とも仲良くなれるかもしれない。うまくいったらかわいい彼女なんかもできちゃうかもしれないだろ?」
先輩にしては珍しく現実的な助言をしてきたので、僕は驚く。僕は少し迷ったが、先輩に自分のことを……隠していたことを言おうと思って口を開く。
「そう思って、文芸部の入部説明会にはいきましたよ。入学してすぐに。ただ、その……高校の知り合いも説明会に来てて」
「なんだよ。その知り合いの子に話しかけたらよかったじゃないか」
先輩はあきれたような調子でいった。僕は自分の事情をどう説明したらいいのか、少し悩む。しかし、一呼吸置いてから告白をする。
「先輩、僕の誕生日は2月なんです。でも、僕は、19歳なんです」
先輩は僕の言葉を聞いて、不思議そうに首を傾げた。そして、ハッとしたような表情をして、手を叩く。
「うわ! 後輩、浪人生か! 一浪して、うちに来た感じか! なるほどなるほど! じゃあ、説明会で出会った高校の知り合いというのは……」
「そうですよ。高校時代は僕の後輩だった子が、入部説明会に来てて……先輩から同級生になってしまった僕を見て……なんか申し訳なさそうな表情をしたんですよ」
僕はその日のことを思い出して苦しい気分になる。ようやく大学生になれたのだから、部活にでも入って友人を増やそうとした。しかし、高校時代の知り合いに出会って、なんだか恥ずかしくなって、大慌てで説明会から抜けてきたのだ。他の部活に入っても意外な知り合いがいるような気がして……なんだか部活に入るのが億劫になってしまった。
「うわぁ。後輩、かわいそう。でも、後輩の後輩の子もかわいそう」
後輩の後輩の子ってなんだよ。ほらみろ。名前を名乗っていないから、こういうときの呼称がやっかいじゃないか。
「そんなわけですよ。僕は浪人生で、対人関係のブランクがあるんです。だから、他人に話しかけるのが怖い。ただでさえ、僕はコミュニケーション能力が低いので……。うまく会話ができなくて、周囲の奴から『ヘンなことを言う年上のやつ』みたいにみられるのが怖くて、友人もできずにいるんですよ」
僕は自分の状況や心情を素直に吐露した。こういう告白を聞いたら、ほとんどの人は痛ましそうな顔をして、「苦労したんだね」「かわいそうに」と同情するものだと思う。しかし、先輩は「なるほど! なるほど!」などと、謎の肯定をしながら、ケラケラと笑っている。僕の境遇がよっぽど面白かったのだろう。
「ていうか、後輩って、あんまり本屋とか行かないんだな。作家志望なのに」
「なんなんですか! めっちゃ行ってますよ。僕が買うものなんて本しかないんですから」
楽しそうにしている先輩に憤慨しながら僕は言う。同情しろ! とは言わないが、悩んでいる相手を前にして笑うのはどうかしていると思ったのだ。しかし、先輩は、やれやれと首を振って話を続ける。
「じゃあ、今度、本屋に行ったら、ベストセラーの棚とか見てみろよ。売れてる本の棚とか、平台の上とかにさ、『会話術』とか『面白い話し方』とかいう本が大量に並んでるから」
並んでいるからどうしろというのか? そういう本を読んで、僕にコミュニケーション能力を磨け! とでも言うのだろうか? 僕は、ムッとした態度で先輩は見る。彼は、僕のことをまっすぐに見つめる。
「そういう本が売れてるってことは、そういうことなんだよ。みんなコミュニケーションに自信がないんだよ。後輩だけが特殊じゃないよ。みんな「うまく会話ができない」「どうにかしたいぜ」なんて思いながら生きてるんだよ」
僕は先輩の言葉にハっとする。もしかして、慰めてくれている?
「僕だけじゃない……?」
「そうだよ。後輩だけじゃない。ちゃんと自信をもって会話をできてるやつなんていないよ。みんな自信がないから、『会話術』みたいな本にも需要があるわけ。みんな自信がないんだからさ、誰かが変なことを言っても責めないよ。「ミスったな」と思ったら、謝ればいいんだって。そしたら、割となんとかなる」
先輩は自分の言葉を肯定するかのように頷きながら言う。
僕は少し泣きそうになった。先輩の言うことが、まともな論理のように聞こえたし、彼が不器用ながらも僕のことを励ましてくれているように感じられて嬉しかったのだ。
「とりあえずさ、話さないことには何も始まらないよ。なにも言わないのって一番悪いと思うんだ。嫌な出来事とかあったらさ、言葉を発しにくくなるとは思うよ。でもさ、何かを言わないと、何も始まらずに終わっちゃうからな」
僕は今だと思った。だから、先輩のことをまっすぐに見つめながら、勇気を出して言ってみた。
「じゃあ、先輩。連絡先と名前を教えてください。僕、先輩と親しくなりたいです」
先輩は驚いたように目を見開く。それから、何かを考えるような表情をしてから、笑った。
「いいそ。後輩が作家デビューとかしたら、そのときに、名前と連絡先を教えるよ。自分が作家になるのは嫌だけど、作家の友達っていうのは欲しいからさ!」
「もう! なんなんですか!」
先輩がはぐらかすようなことを言ったことに、僕は苛立ってしまう。先輩はそんな僕を見ながら、笑う。そして、話題をそらしてしまう。僕は苛立ちながらも、「まぁ、また聞けばいいか」と考えて、そのままにしてしまった。
しかし、その日が最後になってしまった。
その日以降、屋上で先輩に会えなくなってしまった。僕は暑い中、未練がましく屋上に出てきて、彼のことを待ってみることがあったが、何度あがっても先輩には出会えなかった。屋上には、ほんとうに何もなくなってしまった。
――もっと話せばよかった。どうせ伝わらないとかって、いじけてないで。自分の思いが伝わるまで、何度も何度も話せばよかった。
ガランとした屋上で僕は何度も思った。そして、伝わらないことを恐れるばかりで「言う」ということを避けていた自分の過去を悔やんだ。もう二度とそういう失敗をしたくないと思いながら、僕は「言う」を求めて、屋上をあとにしたのだった。



