その日からというもの私は『夢散る場所』にたどり着くことも望にもう一度も会うことも鈴の音を聞くこともない生活を送った。私から『夢散る場所』が消えたのだ。寝てもすっきりと朝に目が覚める、普通の日常に戻された気分だ。
だからと言ってあれは私が作り出した仮想世界で夢で__ちゃんちゃんと軽い音楽をつけて終わらせることはどうやらできないらしい。いくら日数を経ても指輪も手紙も消えることなどなかったから。指輪に触れれば金属特有の冷たさを感じるし紙も触れば柔らかく稀に私の肌に攻撃を仕掛ける。
「……どうしたら、いいのかな。」
なんとなく呟く独り言が風に攫われた。この指輪だって手紙だって家族に認識された、学校に何となく着用していけば友達には珍しいと言われ先生から指導を食らってしまった。それにしても見覚えの或る指輪だ。完全に同じ指輪を見たわけではないが、既視感がある。
指から外し光にあてじっくりと見るものの既視感の正体はわからないまま。頭を悩ませる種がまた一つ増えてしまった。非生産的な考えなど簡単に排除できてしまえばいいがどうやら人間とは単純ではないらしい。
「鈴ー!」
「はーい、なにー?」
聞きなれたお母さんからの私を呼ぶ声、多分下の階から私へ叫んだのだろう。一歩も動かず対話ができるよう精一杯の大声で返事を言葉にする。
「おばあちゃんのところ行ってくれないー?煮物届けてほしくてー!」
「わかったー」
本当ならこのまま部屋で自堕落な時間をめいっぱい取りたいところだが、頼まれて行かないでいるよりお母さんの機嫌も幾分かよくなるだろう。おばあちゃんは家からそう遠くないところに住んでいるし軽い運動と同じだ。指輪をいくら見ていたって誰かが答えを教えてくれるわけではない。重い体を持ち上げ重力を極限なまでに恨みながらお母さんがいるであろうキッチンへと向かう。
部屋から一歩出れば煮物の甘じょっぱい香りが体内を巡る。鍋の上には柔らかい白色の水蒸気が浮かび、キッチンの色をぼかしている。
「はい、これ。」
渡されたのはガラスのタッパーに放り込まれた煮物、お弁当のように布に包まれ暖かさを手で感じる。
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
貰った煮物を小さな手提げバッグの中に放り込み道路を自転車で駆け抜ける。雪はすっかり解け私の新旧が近づいてくる、温かくて寂しくてそんな春の匂いが漂い始めていた。どこかの野鳥が飛び立つ前のお別れのように高い鳴き声を定期的に響かせる。
おばあちゃんの家は一軒家で大きくも小さくもない。インターホンを鳴らせば反響する呼び出し音、カメラなどはついていない。
「はい、どなた様?」
「おばあちゃん、鈴だよ。お母さんが煮物をって。」
「鈴ちゃんね、今出るからね。」
プツンと通信が途切れ、数秒誤差がありドアが開いた。
「よく来たね。寒いし入りなさい。」
「ありがとう。」
一歩家に入れば暖かくておばあちゃんの匂いがする。柔らかい花みたいな香りと太陽の香り。
「はい、これ。」
「ありがとうね。」
おばあちゃんが大切そうに私から煮物を受け取る。そういえばおばあちゃんの指にも指輪がはまってたはず……
「おや__鈴それは、」
「……あ、指輪?」
おばあちゃんは驚いたように目を見開いた。私が付けていた指輪に視線が向く。
「懐かしいねぇ。」
「懐かしい?」
「立ち話もなんだ。お菓子でもどうだい?」
「うん、ありがとう。」
私が聞こうとしたことはサラッと焦らされてしまい、私がよく遊ばせてもらっていた客間に通される。少し待つように言われ数分が経っただろうか。おばあちゃんは両手に写真と指輪を持ってきた。
「おばあちゃんの大切なもの。」
「金色……だけど私のと似てる?」
同じように鈴が彫られていて色以外はそっくりだ。まるでセット商品みたいな……
「そうだね。だって、おばあちゃんの妹のものだったから。」
「妹?」
「あまり、話してはいなかったけれど__この写真の子。」
「望__!」
見せられた写真は額縁の中で黄色く紙が変色し白黒の中で笑う少女。その少女は望そっくり、まるで閉じ込められたようにそのままで話し声まで聞こえそうだった。子供用の袴を着て少しおしゃれをしていそうな望の顔には笑顔が浮かぶ。
「名前も知っているのかい?」
「望は……私の、友達で。」
おばあちゃんは表情を変えずただ愛おしそうに写真を撫でるだけ。
「それで、その……ごめん、うまく言えない。」
今すぐにでも全てを話してしまいたかったが、どうにも言葉がまとまらない。一つになってなどくれなくて、ため込んだ空気だけが口から溢れてしまう。
「鈴、少し昔話でもしようか。」
そんな私の様子を察したのか、おばあちゃんは私の頭にポンと手を置くと私の知らない望の話を童話のように聞かせてくれた。それは柔らかくて辛くてずっとずっと綺麗で、黒曜石のような話だった。
「__おばあちゃんありがとう。」
「いいのいいの。煮物ありがとうね。」
「うん、お母さんに伝えとく。じゃあ、私行ってくる。」
「はい、また来てね。」
おばあちゃんに見送られながら私は自転車を反対方向に漕ぐ、夕暮れ空は淡いラベンダーに染まり太陽の暖かさを失った風が顔に吹き付ける。頬が真っ赤になりながら花屋で花束を買う。私は望が眠っているお墓まで行くことにした。うちのお墓と同じ墓場におばあちゃんの一家が眠る場所がある。
少し手前で自転車を止め花束を抱え歩き出す。砂利は踏みつければ音が鳴りたまにどこかへ吹っ飛んでしまう。『高月』と書かれたお墓を通り過ぎ『花住(はなすみ)』と書かれた墓石の前で足を止める。おばあちゃんの旧性が『花住』だからだ。望はずっとここに眠っている。お花を供え、しゃがむ。途中で買ったからか強く花の匂いが香った。まるで初めて『夢が散る場所』に来た時と同じだ。
「望、話聞いたよ。」
おばあちゃんから聞いた話は望の一生を簡潔に伝えたようなものだった。当時は小さな農村だった場所に生まれ物語に魅入り魅入られ、字を綴り字の世界へ飛び込むのが大好きだった少女。小説家になりたいという強い思いを持って夢を抱いていたそれが望。おばあちゃんの末の妹で年が近かったおばあちゃんとはまるで親友のような仲。都市のほうへ遊びに行きそのたびに何かお揃いのものをお小遣いで買い自慢するようなこともあったとか。そのお揃いの品に数えられるのがこの指輪らしい。
「そんな大事なもの、私が持っていいのかな。」
話しかけても目の前にあるのは墓石だけ、風に揺られる花は頷いているようにも首を振っているようにも見える。
少し不自由なところもあったけれど望は人生を謳歌するただの少女、その理が簡単に覆されたのはある秋の日だったらしい。望の時代では不治の病であった病気に掛かってしまったのだ。齢は私と同じぐらいか少し下で、両親も医者もどうしてやることもできずただ床に臥す日々だった。そんな状況でも隙あれば原稿用紙を手に取り文字を綴っていた。物語も日記のようなものでもなんでも記して収拾がつかなくなった原稿用紙は所々皺ができ、部屋に散乱していたという。布団にインクをこぼして怒られたり、おばあちゃんをはじめとした姉妹に頼み父親の万年筆を勝手に使い大目玉を食らったり。元気な表情は崩れることなく日々が消化された。
「おばあちゃんは望のこと『ただひたすらに明るくて優しい子』って言ってたよ。私はちょっと不思議な子だなって思ってたけど。」
急変したのは冬の木枯らしが吹くような季節、部屋の窓から唯一見えた銀杏の木を苦しそうに顔を歪めて見ていたとおばあちゃんは語っていた。最期の最期までこの子は文字を書くんだって家族は思っていたらしい。だけれどその予想は裏切られる。何度望があこがれていた万年筆を差し出そうとも取ることはなく、すっかり葉が散り終わった銀杏をまるで美しいものを見るような目で見つめていた。
空はどんよりとした灰色の雲で覆われ星も夕日も何も見えずお世辞にも美しい景色とは言えなかったという。遺言のようなものをポツポツ話し、おばあちゃんには指輪ずっと大事にしてね。と笑いかけた。最期の言葉はずっと覚えているとおばあちゃんは前置きをし教えてくれた。
「『大きな木、きれいで黒いものが輝いている』だっけ。葉っぱ一つ残ってない銀杏の木に向かって。ねえ、望それってさ。」
太陽が沈めばまだ凍るような空気で肺を満たす。例え行けなくなっても忘れるはずがない、大きくてきれいででも黒い霞にたまにぼかされてそんな木は一つだけだ。
「『夢散る木』のことだよね。その時からずっと望は……」
きっと望はその時からあの場所で過ごしているんだ。どうやってなったのかはわからない、私がどうしてあの場所へ誘われたのかもわからない。ただただ望の顔が姿が私の記憶でぐるぐると回る。
「望、もう本当に会えないんだね。」
ずっとずっと怖くて口に出せていなかった。会えないと言ってしまえば本当に会えなくなってしまう気がしていた。もしかしたらまだ行けるかもと眠りにつくとき毎回期待してしまうから。
「望とは、もう__」
視界が霞む、暖かくて冷たい水が頬の上を滑り落ちた。冷気で目が痛い、目頭が熱くてたまらない。私を望と結び付けているものはこの指輪とあの花の甘い香りと鈴の音。
手を合わせぎゅっと目をつむる。そうすればもう一度あそこに飛ばされる気がして飛べる気がして。耳の奥で誰かの声が聞こえる。話しているみたいな。
「__!」
もしかして、と目を見開いてあたりを見るもお墓参りに来た方が一人二人いただけ。もう一度あそこに行けることも望と会うこともきっとない。これから誰かにこの思い出を話しても勘違いかウソかで片づけられてしまうだろう。将来私自身も何だったのかわからなくなる時が来てしまいそう。もし望との体験を忘れてしまうようなら指輪がきっと繋いでくれるはずだから。
「指輪ありがとう。借りていくね。」
少し借りるだけ。望の大切なものをいくら望がいいと言おうと私は貰うことはきっとできない。また会えたら絶対に返す、それまで望を忘れたくなどないから。
「また、来るね。」
人が来た墓地から逃げるよう私は自転車に乗り家まで速度を出す。信号待ちでふと空を見上げれば夕闇の中で輝くのは青白い一番星。命のように輝く光に見惚れるように時が止まる。私はこれからどうしたらいいのだろうか。指輪と手紙と『夢』と大切なものはすべてもらった。貰ってしまった。
チリン、ひとつ鈴の音が聞こえた気がした。振り向いてもどこを見ても音の持ち主はいない。信号を見上げれば色が変わっていた。ペダルにもう一度力を加える。いつの間にか向かい風だったものが追い風に変わっていた。それは望が私の背中を押すようだった。
ある人が残した言葉を私は強く思い出す。夢を叶えるのは願う強さと執念が関係しているのだと。その言葉が正しいかどうか私はわからない、だけど願う強さはきっとその人を強くする。望はきっと強く強く願って望んだ。叶わなかった夢だとしても無駄だってことは絶対にないから。
息を吸い込めば遠く、本当に遠いところから春の空気を吸い込めた気がした。