翌日、私は目覚めてすぐに制服に着替えた。といっても今日は休日、帰宅部ベテランの私は着替える必要すらないはずなのだが。空は鬱陶しいほど晴天で冬とは思えない程だ。バッグもせっかくなら、とスクールバッグを選ぶ。まるで女子高生のコスプレみたいだ。
西中さんに会いに行くと決めていた。記憶で見た病院の様子とネットの検索を照らし合わせ、病院を探した。小児病棟まで行けば位置もわかるだろう。転院しているかもしれないとか色々事は考えたけど、立ち止まっても仕方ないなって初めてそう思った。
重苦しい寒さに微かな苛立ちを覚えながらも自室から階段を下りリビングへと向かう。
「鈴、おはよう。」
「お母さん、おはよう。」
「制服着てお出かけ?友達と?」
お母さんはいつものように私に笑いかける。優しくて今の私には鬱陶しくもあり幸せな高尾でもある。
「まあ、そんなとこかな。」
さっと話を濁す。元々友達と出かけるとか休日に制服とかそういう私はこの家にいなかったわけだから、お母さんも新鮮で嬉しいのだろう。
「遅くならないうちに帰るから。行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
ドアを開け、手を離せば蝶番が軋み耳障りな音が鳴る。外は肌寒く、仕方ないほどに冬が目の前に立っている。乾燥した空気を思いっきり吸めば肺が凍り付きそう。一歩踏み出すのにすら時間が必要になってしまう。
バスを一つ乗って駅まで行って、電車に揺られたどり着いたのが病院だった。クラスメイト、といっても面識の浅い私がきっと彼女にしてあげられることはない。私の自己満足にすぎないのだから。人の気持ちなんてわからない、わかってたまるかって思う。
何処かの絵本で見た人の気持ちがわかる少女。強くて優しくて誰かを励ませる才能があったから役に立っていただけ。見たとき幼かったけれど幼いながらにも嫌で嫌で顔をしかめた記憶がある。当時から私は平凡でただの幼子だったのだ。
病院に入れば記憶を伝った時と同じ匂い、まずはアルコールの匂いが飛んできて次に感じるのは無機質な匂い。香りはするのにきっと言葉にするには『無』が相応しいような、息を何度吸っても肺の中に納められない空気の匂いがする。
小児病棟を探し、階層を上がる。そこは記憶と変わらない場所だった。ナースステーションの位置もパステルカラーのポスターもキャラクターに象られた画用紙も折り紙も。
あとは、一つ一つ名前を確認して部屋を探すだけだ。
「あれ、鈴じゃん!」
聞きなれた声がした。
「佐奈ちゃん?」
「ここにいるなんて珍しいね。」
佐奈ちゃんは私服で淡いアイシャドウが瞼の上で輝いている。スラっとしたスタイルが一目でわかるようなストリート系統の服。
「佐奈ちゃんこそ。」
「わたしは……ちょっと用があっただけ。それより、鈴はなんで?制服だし。」
「えっと、西中さんに会いたいなって__」
優しく息を吐いて出てきた言葉は弱くて迷って視線は揺らいだ。佐奈ちゃんは驚いたように一瞬目を見開いた。
「優香?……あー、あのレポート?」
「あっ、うん……」
しばらく考えたように佐奈ちゃんは沈黙を選択し、そのあと出てきた都合のいい用事に私は乗っかった。そのあとに、あってみたかったからとでも付け加えればよかった。そう後悔してももう遅い。
「丁度わたしも行くところ。一緒に行く?」
「じゃあ。」
さっと前に出された佐奈ちゃんの少し日焼けした手に私は手を重ねる。
「優香とは中学のころから一緒でさ、わたしもこうやってよくお見舞いに来てたの。」
「そうなんだ。」
「一方的だったし、何度も無視されたよ。わたしの質問にも答えてくれなかったしスケッチブック片手にいつも窓の先を見つめて、わたしが『なに描いてるの?』なんて言った時には『覗かないで!』と一喝されちゃって。」
笑いながら佐奈ちゃんはそんなことを口にする。これから私は会いに行こうとしているのに大丈夫なのだろうか。
「ふふっ、鈴顔怖いよ。大丈夫、私と違って鈴は優しいから。」
「そう、かな。」
明るくて高い佐奈ちゃんの笑い声。手のひらは温かくて夢の微睡の中のようだった。
「ここだね。__優香、入るよー!」
ノックもそこそこに返事も聞かず佐奈ちゃんはガラッと勢いよくドアをスライドさせる。ちょうど窓が開いていて半分ほどまでしまったカーテンが優しい風に揺れていた。カーテンのせいで顔も西中さんも見えない。
「優香、またカーテン開けてんの?風邪ひくよ。」
「うっさい。いいでしょ別に。」
「だーめ、この時期寒いんだから。」
自然と病室に入って佐奈ちゃんは会話を続ける。私は高鳴る鼓動を無視しながらそっと後をついていくようにして入った。
「その言葉遣い、やめたほうがいいよ。今日お客さん来てるんだし。」
佐奈ちゃんは窓際へと向かい、窓を閉め鍵をかける。
「は……お客?__あ、」
ずっと佐奈ちゃんのほうを見ていた視線が私のほうへと向いた。西中さんは記憶の中より瘦せていてでも声は負けない程大きく、少し気の強い話し方に少し驚いた。
「えっと、高月鈴です。」
「あのペアレポートの相方さん。わざわざ制服着てきてくれたんだよ。」
佐奈ちゃんは私と西中さんの間を取り持つようにそう続けた。
「……変なところ見せちゃってごめんね。西中優香です、よろしく。」
「よろしくね。」
西中さんはカラッと笑い、優しい顔になる。差し出された手に私は手を重ねる。佐奈ちゃんより微かな暖かさ、でも体の内側から温かくなるような気がした。
「それで今日は、何か課題のこと?私しょっちゅうサボっちゃうからさー」
「優香は毎回叱られるもんね。」
「それは余計だってー、私は絵が描ければいーの。」
サラッと西中さんはそんなことを口にする。
「描いてるの?」
「うん、私の大切なものだからさ。」
西中さんは大きなスケッチブックを私に見せる。中にはいまにも動きそうな勢いのある絵が並んでいた。風景、動物、抽象画。沢山の絵が隙間すらも惜しいように並んでいる。色遣いはポスターで見たようなビビッドのものから淡いグラデーションまでバリエーションが豊か。
「画家には例えなれなくても私と絵は切り離せないんだよ。」
「そっか。」
目を細めながらぎゅっとスケッチブックを抱きしめる西中さんが綺麗で強くて見惚れてしまう。画家になる夢をあきらめたからと言って生きる理由がないことにはならないのだろう。彼女の絵は生き生きとしていてなんだか彼女の魂を生き移したようだ。
「それで、用件は?」
「__な、仲良くなりたいなって。」
必死に喉の奥から絞り出した言葉は最初のほうが上ずって変に震えて、間抜けな音程で響いた。一瞬時が止まったように佐奈ちゃんも西中さんも目を見開く。
「あははっ、私と仲良くなりたい?」
「う、うん。迷惑じゃ、なかったら……」
「えっと、鈴だっけ?」
きょとんとした表情から一変、西中さんは楽しそうに笑った。スケッチブックを開き、いつの間にか鉛筆を握っている。
「嬉しい。会いに来てくれる人なんて家族か佐奈それか__死神?」
「縁起悪いこと言わない。」
横に立っていた佐奈ちゃんに西中さんは軽く頭を叩かれていた。ごめんって~と笑いながら西中さんは言葉を返す。
「私のことは優香って呼んでよ、せっかく会いに来てくれたんだし……描いてもいい?」
「何を?」
「もちろん、鈴を!」
楽しそうに優香ちゃんは鉛筆をぎゅっと握りしめデッサンを始める画家のように片目を細め私をじっと見る。
「私でいいの?」
「うん。私が描きたいの。」
私の了承を取るような言葉でありながらもう筆は進んでいるようで、黒鉛の仄かな香りとスケッチブックに擦れる特徴的な音が響いた。
「鈴、よかったね。」
「……?」
「優香はね、友達とか大事な人をデッサンする癖があるの。だから鈴もその一人になったってこと。」
佐奈ちゃんは嬉しそうに私にそう言った。視線は優香ちゃんの方向を向いていた。
「あ、わたし用事あるんだった。優香ーわたし帰るねー!」
さっきまでのふんわりとした優しい和んだ空気は何処へやら。すっかり佐奈ちゃんはいつもの明るい天真爛漫さに戻っていた。大きな声で優香ちゃんに呼びかければ、んー、と曖昧な返事が返ってくる。視線はスケッチの先に落とされていて佐奈ちゃんのことはきっと捉えていない。
「鈴もまたね。」
「うん、また。」
小さく手を振り返す。ドアが開く音がしてその後閉まる音がする。二人っきりになってしまい、優香ちゃんも書くことに集中していて私もモデルになるなど初めてでどうしていいかわからない。現代の簡単な言葉で片づけてしまえば気まずいのだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。」
「ご、ごめん。モデルになるとか初めてで……」
私が緊張していることを察したのか優香ちゃんは私に柔らかい笑みを向ける。
「ちょっとぐらいなら動いても大丈夫。でもずっと静かなら気まずいか、私の話聞いてくれる?」
「わかった。」
返事をすればニコッと笑顔が返ってくる。ずっと描く手は止まっていない。不安定な点滴の水滴音、心地のいい紙と鉛筆が擦れる音。凍るような空気がここには蔓延していないみたいにどこか暖かい。
「私、小さいころから病気でこんな調子。それでも絵を描くのはずっとずっと大好きだったの。こんなこと言ったら舐めてるのかって言われるけど才能もあると思ってた。」
息が続かなくなったと言いたげに話を途切れさせ、小さな呼吸音が響く。
「その証拠に賞状も沢山もらったし何度も展覧会で展示された。私は画家になるんだってなれるんだってどこかでありえない程信じてたの。でもね、私もうここから出られないから。」
「それ、って……」
「あ、死んじゃうってことじゃないよ!私はまだまだ生きるんだけど、本当は海外に飛んで勉強を積む。それが夢だったから。」
最悪の事態じゃなかったことに胸を撫でおろす。てっきりもう病院から出れないという意味かと思ってしまった。
「勿論画家になるのも夢だったんだけど。この前ポスターコンクールで一番上の賞を取ったら留学を歓迎するって誘ってくれた学校があって、一番は取れたけどもう私は__退院は出来ても日本から出れない。この体とは一生付き合っていかなきゃいけないからね。」
寂しそうに発された言葉だった。きっと優香ちゃんの中でもう整理はついていて、あの様子は画家を諦めたのではなく海外での勉強をしたいという夢を諦めた瞬間だったということだろう。
「画家にはなるよ。私の夢だし。」
「諦めそうになったことって__ごめん。」
心のままに言葉を発してしまい、途中で口をつぐむ。どうしていいかわからず置かれた浅い謝罪の言葉と共に。
「ううん。謝ることじゃないよ、そうだなぁ。」
優香ちゃんは考えるように小さく上を向き、鉛筆の頭で机をコンコンと叩いた。
「諦めるっていう概念がないのかも。どれだけ苦しくてももしダメだったとしても、探してこんな小さなベッドの上で藻掻いてるんだ。大事で大切で死んでも手放したくない夢だよ。」
「……そう、だよね。」
自分の気持ちをスラスラと連ねる優香ちゃんの顔は楽しそうで少し苦しそうで何よりも輝いていた。
「鈴は?鈴に夢はあるの?」
私はその質問に自分の言葉で答えることができず、小さく横に首を振った。
「そっか。じゃあ好きなことは最近始めたことは?私は、鈴のことが知りたいの。」
「私のこと__」
「モデルを知ってからのほうが描きやすいからね。」
笑顔を向け優香ちゃんは私の目を見る。スケッチブックにではなく私に視線を向けている。
私はゆっくりと言葉を探しながら口を開く。佐奈ちゃんとか優香ちゃんみたいに夢も何かも持っていないけど、好きなことも胸を張れるほど立派じゃないけれど。
大きく息を吸う、乾燥した喉がちくっと痛む。
西中さんに会いに行くと決めていた。記憶で見た病院の様子とネットの検索を照らし合わせ、病院を探した。小児病棟まで行けば位置もわかるだろう。転院しているかもしれないとか色々事は考えたけど、立ち止まっても仕方ないなって初めてそう思った。
重苦しい寒さに微かな苛立ちを覚えながらも自室から階段を下りリビングへと向かう。
「鈴、おはよう。」
「お母さん、おはよう。」
「制服着てお出かけ?友達と?」
お母さんはいつものように私に笑いかける。優しくて今の私には鬱陶しくもあり幸せな高尾でもある。
「まあ、そんなとこかな。」
さっと話を濁す。元々友達と出かけるとか休日に制服とかそういう私はこの家にいなかったわけだから、お母さんも新鮮で嬉しいのだろう。
「遅くならないうちに帰るから。行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
ドアを開け、手を離せば蝶番が軋み耳障りな音が鳴る。外は肌寒く、仕方ないほどに冬が目の前に立っている。乾燥した空気を思いっきり吸めば肺が凍り付きそう。一歩踏み出すのにすら時間が必要になってしまう。
バスを一つ乗って駅まで行って、電車に揺られたどり着いたのが病院だった。クラスメイト、といっても面識の浅い私がきっと彼女にしてあげられることはない。私の自己満足にすぎないのだから。人の気持ちなんてわからない、わかってたまるかって思う。
何処かの絵本で見た人の気持ちがわかる少女。強くて優しくて誰かを励ませる才能があったから役に立っていただけ。見たとき幼かったけれど幼いながらにも嫌で嫌で顔をしかめた記憶がある。当時から私は平凡でただの幼子だったのだ。
病院に入れば記憶を伝った時と同じ匂い、まずはアルコールの匂いが飛んできて次に感じるのは無機質な匂い。香りはするのにきっと言葉にするには『無』が相応しいような、息を何度吸っても肺の中に納められない空気の匂いがする。
小児病棟を探し、階層を上がる。そこは記憶と変わらない場所だった。ナースステーションの位置もパステルカラーのポスターもキャラクターに象られた画用紙も折り紙も。
あとは、一つ一つ名前を確認して部屋を探すだけだ。
「あれ、鈴じゃん!」
聞きなれた声がした。
「佐奈ちゃん?」
「ここにいるなんて珍しいね。」
佐奈ちゃんは私服で淡いアイシャドウが瞼の上で輝いている。スラっとしたスタイルが一目でわかるようなストリート系統の服。
「佐奈ちゃんこそ。」
「わたしは……ちょっと用があっただけ。それより、鈴はなんで?制服だし。」
「えっと、西中さんに会いたいなって__」
優しく息を吐いて出てきた言葉は弱くて迷って視線は揺らいだ。佐奈ちゃんは驚いたように一瞬目を見開いた。
「優香?……あー、あのレポート?」
「あっ、うん……」
しばらく考えたように佐奈ちゃんは沈黙を選択し、そのあと出てきた都合のいい用事に私は乗っかった。そのあとに、あってみたかったからとでも付け加えればよかった。そう後悔してももう遅い。
「丁度わたしも行くところ。一緒に行く?」
「じゃあ。」
さっと前に出された佐奈ちゃんの少し日焼けした手に私は手を重ねる。
「優香とは中学のころから一緒でさ、わたしもこうやってよくお見舞いに来てたの。」
「そうなんだ。」
「一方的だったし、何度も無視されたよ。わたしの質問にも答えてくれなかったしスケッチブック片手にいつも窓の先を見つめて、わたしが『なに描いてるの?』なんて言った時には『覗かないで!』と一喝されちゃって。」
笑いながら佐奈ちゃんはそんなことを口にする。これから私は会いに行こうとしているのに大丈夫なのだろうか。
「ふふっ、鈴顔怖いよ。大丈夫、私と違って鈴は優しいから。」
「そう、かな。」
明るくて高い佐奈ちゃんの笑い声。手のひらは温かくて夢の微睡の中のようだった。
「ここだね。__優香、入るよー!」
ノックもそこそこに返事も聞かず佐奈ちゃんはガラッと勢いよくドアをスライドさせる。ちょうど窓が開いていて半分ほどまでしまったカーテンが優しい風に揺れていた。カーテンのせいで顔も西中さんも見えない。
「優香、またカーテン開けてんの?風邪ひくよ。」
「うっさい。いいでしょ別に。」
「だーめ、この時期寒いんだから。」
自然と病室に入って佐奈ちゃんは会話を続ける。私は高鳴る鼓動を無視しながらそっと後をついていくようにして入った。
「その言葉遣い、やめたほうがいいよ。今日お客さん来てるんだし。」
佐奈ちゃんは窓際へと向かい、窓を閉め鍵をかける。
「は……お客?__あ、」
ずっと佐奈ちゃんのほうを見ていた視線が私のほうへと向いた。西中さんは記憶の中より瘦せていてでも声は負けない程大きく、少し気の強い話し方に少し驚いた。
「えっと、高月鈴です。」
「あのペアレポートの相方さん。わざわざ制服着てきてくれたんだよ。」
佐奈ちゃんは私と西中さんの間を取り持つようにそう続けた。
「……変なところ見せちゃってごめんね。西中優香です、よろしく。」
「よろしくね。」
西中さんはカラッと笑い、優しい顔になる。差し出された手に私は手を重ねる。佐奈ちゃんより微かな暖かさ、でも体の内側から温かくなるような気がした。
「それで今日は、何か課題のこと?私しょっちゅうサボっちゃうからさー」
「優香は毎回叱られるもんね。」
「それは余計だってー、私は絵が描ければいーの。」
サラッと西中さんはそんなことを口にする。
「描いてるの?」
「うん、私の大切なものだからさ。」
西中さんは大きなスケッチブックを私に見せる。中にはいまにも動きそうな勢いのある絵が並んでいた。風景、動物、抽象画。沢山の絵が隙間すらも惜しいように並んでいる。色遣いはポスターで見たようなビビッドのものから淡いグラデーションまでバリエーションが豊か。
「画家には例えなれなくても私と絵は切り離せないんだよ。」
「そっか。」
目を細めながらぎゅっとスケッチブックを抱きしめる西中さんが綺麗で強くて見惚れてしまう。画家になる夢をあきらめたからと言って生きる理由がないことにはならないのだろう。彼女の絵は生き生きとしていてなんだか彼女の魂を生き移したようだ。
「それで、用件は?」
「__な、仲良くなりたいなって。」
必死に喉の奥から絞り出した言葉は最初のほうが上ずって変に震えて、間抜けな音程で響いた。一瞬時が止まったように佐奈ちゃんも西中さんも目を見開く。
「あははっ、私と仲良くなりたい?」
「う、うん。迷惑じゃ、なかったら……」
「えっと、鈴だっけ?」
きょとんとした表情から一変、西中さんは楽しそうに笑った。スケッチブックを開き、いつの間にか鉛筆を握っている。
「嬉しい。会いに来てくれる人なんて家族か佐奈それか__死神?」
「縁起悪いこと言わない。」
横に立っていた佐奈ちゃんに西中さんは軽く頭を叩かれていた。ごめんって~と笑いながら西中さんは言葉を返す。
「私のことは優香って呼んでよ、せっかく会いに来てくれたんだし……描いてもいい?」
「何を?」
「もちろん、鈴を!」
楽しそうに優香ちゃんは鉛筆をぎゅっと握りしめデッサンを始める画家のように片目を細め私をじっと見る。
「私でいいの?」
「うん。私が描きたいの。」
私の了承を取るような言葉でありながらもう筆は進んでいるようで、黒鉛の仄かな香りとスケッチブックに擦れる特徴的な音が響いた。
「鈴、よかったね。」
「……?」
「優香はね、友達とか大事な人をデッサンする癖があるの。だから鈴もその一人になったってこと。」
佐奈ちゃんは嬉しそうに私にそう言った。視線は優香ちゃんの方向を向いていた。
「あ、わたし用事あるんだった。優香ーわたし帰るねー!」
さっきまでのふんわりとした優しい和んだ空気は何処へやら。すっかり佐奈ちゃんはいつもの明るい天真爛漫さに戻っていた。大きな声で優香ちゃんに呼びかければ、んー、と曖昧な返事が返ってくる。視線はスケッチの先に落とされていて佐奈ちゃんのことはきっと捉えていない。
「鈴もまたね。」
「うん、また。」
小さく手を振り返す。ドアが開く音がしてその後閉まる音がする。二人っきりになってしまい、優香ちゃんも書くことに集中していて私もモデルになるなど初めてでどうしていいかわからない。現代の簡単な言葉で片づけてしまえば気まずいのだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。」
「ご、ごめん。モデルになるとか初めてで……」
私が緊張していることを察したのか優香ちゃんは私に柔らかい笑みを向ける。
「ちょっとぐらいなら動いても大丈夫。でもずっと静かなら気まずいか、私の話聞いてくれる?」
「わかった。」
返事をすればニコッと笑顔が返ってくる。ずっと描く手は止まっていない。不安定な点滴の水滴音、心地のいい紙と鉛筆が擦れる音。凍るような空気がここには蔓延していないみたいにどこか暖かい。
「私、小さいころから病気でこんな調子。それでも絵を描くのはずっとずっと大好きだったの。こんなこと言ったら舐めてるのかって言われるけど才能もあると思ってた。」
息が続かなくなったと言いたげに話を途切れさせ、小さな呼吸音が響く。
「その証拠に賞状も沢山もらったし何度も展覧会で展示された。私は画家になるんだってなれるんだってどこかでありえない程信じてたの。でもね、私もうここから出られないから。」
「それ、って……」
「あ、死んじゃうってことじゃないよ!私はまだまだ生きるんだけど、本当は海外に飛んで勉強を積む。それが夢だったから。」
最悪の事態じゃなかったことに胸を撫でおろす。てっきりもう病院から出れないという意味かと思ってしまった。
「勿論画家になるのも夢だったんだけど。この前ポスターコンクールで一番上の賞を取ったら留学を歓迎するって誘ってくれた学校があって、一番は取れたけどもう私は__退院は出来ても日本から出れない。この体とは一生付き合っていかなきゃいけないからね。」
寂しそうに発された言葉だった。きっと優香ちゃんの中でもう整理はついていて、あの様子は画家を諦めたのではなく海外での勉強をしたいという夢を諦めた瞬間だったということだろう。
「画家にはなるよ。私の夢だし。」
「諦めそうになったことって__ごめん。」
心のままに言葉を発してしまい、途中で口をつぐむ。どうしていいかわからず置かれた浅い謝罪の言葉と共に。
「ううん。謝ることじゃないよ、そうだなぁ。」
優香ちゃんは考えるように小さく上を向き、鉛筆の頭で机をコンコンと叩いた。
「諦めるっていう概念がないのかも。どれだけ苦しくてももしダメだったとしても、探してこんな小さなベッドの上で藻掻いてるんだ。大事で大切で死んでも手放したくない夢だよ。」
「……そう、だよね。」
自分の気持ちをスラスラと連ねる優香ちゃんの顔は楽しそうで少し苦しそうで何よりも輝いていた。
「鈴は?鈴に夢はあるの?」
私はその質問に自分の言葉で答えることができず、小さく横に首を振った。
「そっか。じゃあ好きなことは最近始めたことは?私は、鈴のことが知りたいの。」
「私のこと__」
「モデルを知ってからのほうが描きやすいからね。」
笑顔を向け優香ちゃんは私の目を見る。スケッチブックにではなく私に視線を向けている。
私はゆっくりと言葉を探しながら口を開く。佐奈ちゃんとか優香ちゃんみたいに夢も何かも持っていないけど、好きなことも胸を張れるほど立派じゃないけれど。
大きく息を吸う、乾燥した喉がちくっと痛む。

