店の入口、家の入口ともなる引き戸を開けて「ただいま」と仕込みをしていた母に呼び掛ける。手を止めて「おかえり」と微笑んでくれる母はとても美人だ。

 赤みがかった栗色の髪をクリップでまとめ、垂れ目がちな目元を優しく緩める母に近づき、鮮やか包丁さばきに感嘆する。母は器用で、料理もお菓子作りも裁縫も、基本的に何でもできてしまう。

 その上、衰えない美貌に魅入られた周りの男たちから未だにアプローチされる。軽く受け流す母の手腕も天晴れだけど、懲りない常連の男たちも男たちだ。

 娘がいる前で、「綺麗だ」と恥ずかしげもなく口にするの、どうなの?


「千青、いつものとこで胡瓜とトマト買ってきてくれる? ちょっと足りないかもしれなくて」
「おっけー、わかった。着替えて荷物置いたら買ってくる。他には?」
「大丈夫よ、ありがとう。財布はそこにあるから」


 母の言葉に頷いて、私は階段を上がる。

 一歩、一歩、上に行くにつれて不快感と嫌悪感が滲み出るから歯を食いしばった。

 このお店は、母が1人で切り盛りしてるわけじゃない。店内はカウンター6席と4人座れるテーブル席が3つで広くもなければ狭すぎることもないが、仕事を終えた漁師たちがほぼ毎日飲みに来るので集客率は高めだ。

 料理を作るだけじゃない。自営業なため、食材やお酒の買い付け、仕込みや経理も自己負担となる。

 そんな目の回る忙しさ、過労を心配したくなる働きぶり。それは、どれもこれもあのクズのせい。碌に子育てにも参加せずに放任、母に面倒な仕事を押し付けた挙句、さも自分の手柄のようにする。

 私や母を力の弱い女だと見下し、献身的で優しい母を蔑ろにし、酒が入ると暴力的になるクズの極み。死んでしまえばいい。


「アァ、帰ってきたのか。もう学校終わる時間か」


 住居スペースとなる2階に上がり、殺風景な自室で制服を着替えて荷物を置いたところで、自室からだらしないスウェット姿の男が出てくる。

 見目だけはいいが、到底母と釣り合わない学のないクソ男。声だけでも私の神経を逆撫でする。


「……お母さん1人で仕込みしてたけど。お父さんはまだ寝てたわけ?」
「学生と違ってこっちは疲れてんだ」
「寝てるだけで疲れることなんてしてないじゃん」


 お父さんなんて呼びたくないものの私が決定的な亀裂を作るわけにもいかない。だから激情を抑えて言葉を紡ぐも、嫌味は無意識に出てしまった。

 不機嫌そうに顰めて、無言で洗面所に向かったクソ男に中指立てながら、やってしまったと深い溜め息を肺から送り出す。