もう、何もない。守るべきものも、秘密も、生きる意味さえもなくしてしまった。心ここに在らず。私の心は何処にあるのだろう。
「千青」
航海からまだ30分。小型船に揺られて渺々とした海原をぼんやり眺めていた私は、背後から包むようにお腹に腕を回してきた彼の心配を気取って笑みが零れた。
潮の匂いよりも遥かに心地いい彼の香りが鼻腔を擽り、戻ってきた心に安堵する。
「後悔してる?」
小型船に付いてるエンジンの音と波の音に掻き消されてしまいそうな声で訊かれ、迷わず首を横に振る。
間違いも後悔も、彼とならきっとない。
「してないよ。今も昔も、きっとこの先も、後悔なんてしない」
「そっか。そうだといいな」
「……碧海くんは、後悔する?」
「うーん、有り得ないね。千青を嫌いになるくらい有り得ないと思うよ」
形のいい唇が紡ぐ言葉は、どこまでも透き通っていて愛おしい。
海よりも空よりも、何よりも綺麗な彼の縹色の瞳がキラキラと海面に反射した太陽によって輝いた。彼の瞳に映りこんでる自分にも、光が射す。
カモメが鳴いた。生まれ住んだ港町から遠く離れていく。もう二度とあの地を踏むことはないだろう。
ささやかで、美しい、静かな思い出だけを切り取って。あの日の屈辱も、苦しみも、怒りも、憎しみも、
────消えない罪も、全て置いていってしまおう。
「さようなら」
誰に届くわけでもないその言葉は、地平線の向こう側に吸い込まれていった。
