祝ってほしかったわけじゃない。女のところに行くのが嫌だったわけじゃない。
正しいことを言っただけの母を、突き飛ばした。それが耐えられなかった。
怪我はしなかったものの、夜明け頃に目を覚ました私は母の啜り泣く声を聞いてしまった。細い身体で擦り切れそうになりながらも耐えていた母が、声を押し殺して泣いている。
「(……アイツ、殺してやる)」
途端、芽生えてしまった明確な殺意にブレーキなんてものはかからない。
母に気取られないよう外に飛び出し、雪が解けて濡れている道をがむしゃらに走った。自分の中の殺意を理解していたものの、寒さで滅却された思考で冷静になった私は、アイツを詰ってやろう、程度のことを考えていたと思う。
まだこの時は、本気で殺すつもりはなかったのだ。
山を超えて乾燥した空っ風の冷たい空気が布の隙間を縫って体温を冷やす。走ると凍てつく冷気が肺を刺激した。感覚が鈍くなっていく指先や耳が寒すぎて痛いと、青くなっていく世界を横目に感じる。
「はっ、はっ、はぁ……っ」
車も通らなければ、近くに船もいない、人の気配もない堤防の上。酒と女で気分を良くした父親が、千鳥足で闊歩している。
何もしなくても、足を滑らせて落ちそうだ。
だけど、なんだか、ふと湧き上がる殺意が衝動的に私を突き動かした。
コイツを、殺せ。
「あの優しい人を泣かせた罰だ」
「ア? 誰だぁ、お前」
「────死ね」
ゴト、と肉体が落ちる音がする。
堤防上に同じように登った私は、酔って娘の判別すらままならない男を、両手でしっかりと、明確な殺意を持って、真下に突き落とした。
堤防の下にあるテトラポットの石に、頭を打ち付けた父親は血を流して、糸の切れたマリオネットのように無防備に四股を投げ出している。
……あ、殺した。死んだ。ようやく死んでくれた! あの汚い口が言葉を紡ぐことも、暴力的な手が振り上げられることも、母の手柄を横取りして、母を蔑ろにして、優しい母を泣かせることも今後一生ない!
ああ、なんて素晴らしい日だろう!
「千青……」
「もっとはやく、こうしてれば」
「千青!」
「ふ、ははっ」
「千青! こっち見ろって! 千青!」
ぷちん、脳内で音がする。
肩を痛いほど掴んで揺さぶられ、私の名前を呼んだ相手のことを、その時はじめて認識した。縹色の瞳が焦燥感を滲ませて汗をかいている。
「……あ、おみ……」
これは夢か、現実か。
震える手のひらを掴んだ彼が走り出す。この場から一刻もはやく去ろうと、姿を消そうとする彼の背を眺めて、目が醒めた。
大丈夫、これは、現実だ。
