金鳳花の咲くころに

放課後にまっすぐ帰らない日が来るなんて、
数週間前のわたしには想像もできなかった。

 

それは金曜日のことだった。

アリサから「今週、描けてる?」とLINEが来て、
「まだ途中だけど……」と返したら、すぐに「じゃ、放課後行こう」と返ってきた。

「行こう」――つまり、「寄り道しよう」ってことだ。

 

わたしは、制服の襟を見つめながら、
(ほんとうに大丈夫かな)と何度も心の中で問い直した。

でも、不思議と、罪悪感はあまりなかった。

学校が終わって、駅へ急ぐ足取りは、
どこか浮き足立っていた。

 

今日のカフェは、この前と違うお店だった。
アリサが「新しくできたばっかで、めっちゃ映えるの」と言って案内してくれた。

ガラス張りの店内は明るくて、
ドライフラワーが吊るされた天井と、
淡い色のクッションが置かれたベンチソファがかわいらしい。

「どう? 制服でも入りやすいでしょ?」

「うん……すごく、いい感じ……」

「でしょー!女子高生っぽいことしようぜ!」

アリサのテンションに引っぱられて、
わたしの口元にも自然と笑みがこぼれる。

 

店内は放課後らしいお客さんで賑わっていたけど、
そのざわめきが、どこかやさしく感じた。

学校でも家でもない場所で、
制服のままおしゃべりして、甘いものを食べて、漫画を描いて――

そんな時間を過ごしている自分が、
まるで違う世界の住人みたいだった。

 

「ほらほら、描いて〜。わたし、今日ストーリーの展開予想してきたから!」

「ちょ、ちょっと待って……!」

わたしの放課後が、静かに変わりはじめていた。


「てかさ、前回のラスト、絶対キスすると思ったのに……」

「しないってば!あそこは、まだ我慢のとこ!」

「えー、じれったい〜。読者としては、そこはキスしてほしかった〜!」

「うぅ……そ、それは次回のお楽しみ……かも」

わたしがごにょごにょ言うと、アリサはにんまり笑って、
クリームが山盛りのパンケーキをすくって口に運んだ。

その無防備な横顔を見て、
わたしはふっと、今が不思議な時間の中にいるような気がした。

 

アリサは、ほんとうにいろんな表情を見せてくれる。

無邪気に笑ったかと思えば、
ふとしたときに遠くを見るような顔をする。

だけど、誰よりも言葉がストレートで、
ごまかさない。

それが、まぶしくて、少しだけうらやましかった。

 

「……ねえ、アリサって、将来なにかやりたいことあるの?」

わたしはふと思って、そんな質問を口にしていた。

アリサはスプーンを止めて、目を丸くする。

「うん。あるよ」

「ほんと?」

「うん。あたしね――
将来、日本で“自由な学校”を作りたいの」

「自由な……学校?」

「うん。制服も、髪型も、メイクも、スカート丈も、
そーゆーの一切なし。生徒が自分で決められる学校」

 

その言葉に、わたしの心がひゅっと揺れた。

まるで、それはわたしがずっと夢見ていた世界だった。


「自由な学校って……どうして、そんな学校を作りたいって思ったの?」

わたしがたずねると、アリサはちょっとだけ口元を引き結んだ。

さっきまでパンケーキの山を攻めていた手が止まり、
静かに、テーブルの端をなぞるように指が動く。

 

「……あたし、金鳳花女子にいたころね」

 

金鳳花女子。
それは今、わたしが通っている学校の名前だった。

「髪の色がどうとか、スカートの長さがどうとか。
わたし、けっこう規則きっちり守ってたのに、
それでも『あの子だけなんか違う』って言われた」
 

アリサの声は、どこか遠い場所を見つめているみたいだった。

「それでね、思ったの。
『正しさ』って、誰かが決めるもんじゃないんだって。
だから、自分で選べる学校を作りたいって思ったの。
髪の色も、服も、言葉も、ぜんぶ、
『自分で決めていい』って場所」

 

その言葉に、わたしはなにも言えなくなった。

だって、わたしは逆だったから。

校則の中にいることでしか、自分の価値を見いだせなかった。
誰かが決めたルールに従うことでしか、ちゃんとしている自分を保てなかった。

「すごいね、アリサは」

やっとの思いで、そう言うと、
アリサはふっと微笑んだ。

「ううん、すごくないよ。
むしろ、怖がりなんだと思う。
ふつうに縛られるのが、こわいだけ」

 

その言葉が、わたしの胸に、深く沈んでいった。


アリサの話を聞いていたら、
ずっと胸の奥にしまっていた言葉が、
少しずつ、うずうずと動き出していた。

 

「……わたしもね、ほんとは」

声に出すと、自分でも驚くほどかすれていた。

アリサがこちらを見た。
そのまなざしは、急かさず、でもまっすぐで。

だから、わたしも少しだけ、言ってみることにした。

 

「わたし……漫画家になりたいって、思ってるの」

 

言った瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

夢、なんて言葉。
自分にいちばん似合わないと思っていた言葉。
それを口にしてしまった、という事実が、
恥ずかしくて、でも、どこかすっきりしていた。

 

「ふーん……」

アリサは、ゆっくりうなずいた。

「やっぱ、そういう顔してたもんね」

「え?」

「好きなことの話してるときの顔って、ばれやすいんだよ。
目がね、きらきらするの。あんたの目、よく光る」

「うそ……」

「ほんと。
てか、わたしも結構うれしいよ。
なんか……仲間ができたって感じ?」

 

仲間――その言葉は、あたたかくて、
まるでカフェの窓から差しこむ光みたいだった。

 

「描き続けてよ、ちゃんと。
わたし、ずっと読みたいし。
……あんたの描く世界、好きだもん」

その一言で、わたしはもうだめだった。

涙が出そうになるのを、必死でこらえながら、
「ありがとう」とだけ、小さな声で返した。

日が傾いて、カフェの窓から差し込む光が、
すこしオレンジ色に染まりはじめていた。