金鳳花の咲くころに

次の日、放課後のカフェで、アリサと向かい合った。

二人で並んで座っているだけなのに、
胸の奥がずっとあたたかかった。

「これ、昨日描いたやつ」

わたしは、ノートをそっと差し出した。

アリサはぱらぱらとページをめくる。

途中、笑ったり、眉をひそめたり、じっと見入ったり。

その反応を見ているだけで、胸がくすぐったくなる。

 

「……なんか、表情が変わったね。前より」

「え?」

「キャラの顔。迷ってない顔してる。いいじゃん、これ」

「ほんと?」

「うん。あんた、ほんとに戻ってきたんだなって思った」

 

うれしかった。

褒められたことももちろんだけど、
「戻ってきた」って言ってもらえたのが、一番うれしかった。

わたしが、自分の「好き」を捨てずにいられたことが、
ちゃんと誰かに伝わってる。

それだけで、心がぽかぽかした。



「アリサはさ、いつ夢を『これにする』って決めたの?」

「んー、たぶん、ちゃんと決めたのは……金鳳花やめてからかな」

「え?」

「それまでは、できることの中から選んでた。
英語得意だから海外行こうかな、とか、
数学好きだから理系もアリかな、とか。
でも、やりたいかって言われると、なんか違っててさ」

「……うん」

「退学して、空っぽになってからやっと気づいたんだよね。
あたし、本当は、自分が楽しかった学校に行きたかったんだって。
それで、自分でそういう学校つくろうって、思ったの」

わたしは目を見開いた。

「自分で……?」

「うん。自由で、居場所のある学校。
ちゃんと『好き』が肯定されるようなとこ。……なんか、欲張りかな?」

アリサは照れくさそうに笑った。

でも、その目は、少しも曇っていなかった。

あたし、この人のこと、
ほんとうにかっこいいって思う。


「アリサって、すごいね」

わたしはそう言った。

本心だった。

「自分のやりたいこと、ちゃんとわかってて、言葉にできてて」

「んー、でも、わたしも時間かかったよ」

アリサはストローを指でくるくる回しながら、わたしを見た。

「みのりは? いま、『やりたい』って思ってること、ちゃんとあるでしょ?」

「……ある」

わたしはうなずいた。

「描くこと。……わたし、漫画、ずっと描いてたい」

その言葉を口に出したとき、
胸の奥がぽっと灯ったみたいに、あたたかくなった。

「プロとか、仕事とか、そういうのはまだわからないけど……
でも、ずっと描いてたいって思うの。
描いてるときの自分が、いちばん『わたし』な気がするから」

アリサは、にっと笑った。

「それでいいんだよ。夢って、最初は『好き』だけで充分だから」

「……うん」

わたしは、そっとノートを閉じた。

「わたしさ」

アリサが言った。

「たぶん、学校が変わってなかったら、みのりと出会わなかったよね」

「うん……そうかも」

「変わっちゃったこと、最初はすごく悔しかったけど、
でも、変わったから会えた人がいるって思えたら、
ちょっとだけ、救われる気がするんだ」

その言葉に、わたしは心の奥で静かにうなずいた。

「ねえ、みのり」

アリサがふいに、まっすぐな声で言った。

「これから、どんな道に進んでもさ。
あんた、描くのはやめないでよね」

その言葉が、心にまっすぐ刺さった。

「……うん。やめない。絶対」

わたしは、すぐにそう言えた。

「それ、約束」

アリサが小指を出す。

「約束」

わたしも小指を差し出して、絡めた。

わたしたちは笑い合った。

「じゃあさ、十年後」

アリサが目を細めた。

「わたし、日本で学校つくってると思う。たぶん。
でもまだ、現場に立つ準備してる途中かな」

「うん」

「で、みのりは?」

「え?」

「十年後、なにしてる?」

わたしは少しだけ考えてから、答えた。

「出版社とかで働いてるといいな。
漫画に関われる場所で。……そしたら、誰かの『描きたい』を応援できる気がするから」

「いいじゃん、それ」

「……で、自分の作品も、こっそり描き続けてる。たぶん」

アリサが笑う。

「こっそりじゃなくて、堂々とやりなよ」

「そのときは、アリサの学校の壁に貼ってよ」

「えー、校長の許可が要るけど、わたしか。よし、検討します!」

ふたりで声を立てて笑った。

あの日の不安も、涙も、あの沈黙も。

全部この笑いの中で、遠くなっていく気がした。




カフェを出ると、空はすっかり夜になっていた。

街灯の下を、制服姿のわたしとミニスカートのアリサが並んで歩く。

笑い合ったあとの沈黙は、まるで安心の証みたいに、心地よく続いた。


「ねえ、アリサ」

「なに?」

「ありがとう」

アリサは、ふっと笑ってわたしの頭を軽くたたいた。

「礼なんかいいって。あんたもわたしの背中押してくれたんだから。
……こういうの、持ちつ持たれつって言うんでしょ?」

「……うん」

笑いながら、胸の奥がぽっとあたたかくなる。

わたしたちは、互いの夢に光を灯し合った。
 
わたしたちは、それぞれの『好き』を選んだ。

わたし、ちゃんと、生きてるよ。

夜空にぽっかり浮かぶ月が、私たちを照らしていた。