金鳳花の咲くころに

「成績、このままでいいと思ってるの?」

日曜の朝、朝食の食卓にて。

母はトーストをかじる手を止めずに、
そう言った。

わたしの顔は見なかった。

でも、その声は鋭かった。

「……別に、よくないけど」

「『よくないけど』? あなたね、少しは危機感持ってるの?」

「持ってるよ。でも……」

わたしの声が、途中でかすれる。

言葉が喉で引っかかる感覚。

心臓がどくどくする。

でも、もう逃げないって決めたんだ。

描くことを、夢を、自分の「好き」を。

 

「わたし、描きたいの。漫画。
自由に、もっと好きなことやって生きていきたい」

母のフォークが、皿の上でカチンと音を立てた。

顔を上げた母の表情は、想像していたよりずっと冷たい。

「いいかげんにして」

その言葉が、わたしの胸をぐらぐら揺らす。

「あなたは高校生なの。
『自由に生きたい』なんて、そんなの社会に出てから言いなさい」

「じゃあ、高校生は夢見ちゃいけないの?」

声が大きくなった。

「わたし、好きなことすら言っちゃいけないの?」

母の顔がこわばった。

わたしも、怖かった。

でも、この言葉だけは、言いたかった。

「わたし、本当は――」

言葉が唇にかかった瞬間、父が入ってきた。

空気が一気に冷える。

わたしは、それでも続けた。



「わたし、遊びたい。自由になりたい。……漫画家になりたい!」

声が少し震えた。

でも、言い終えた瞬間、胸の奥がすうっと軽くなった。

両親は、何も言わなかった。

ただ、沈黙があった。

わたしにとって、それが答えだった。


沈黙は、予想以上に長かった。

母はわたしを見たまま、ひとことも発しなかった。

父も同じだった。
いつものように「まあまあ」と笑って間を埋めることもなかった。

ただ、ふたりの目が、まるで何かを確認するように、じっとわたしを見つめていた。


怖くなかったといえば、嘘になる。

でも、叫んだあとのわたしの胸の中には、
確かな「すっきり」が残っていた。

ようやく言えた。

ほんとうに言いたかったこと。

ずっと言えなかったのは、
夢を壊されるのが怖かったから。

でも今はちがう。

言えたことで、ようやく自分が自分に戻れた気がした。

 
「……ごちそうさま」

わたしは食べかけのトーストを置いて、立ち上がった。

自分の部屋に戻ると、ドアを閉めて背中を預けた。



それから数日間、わたしたち家族の間に会話はなかった。

朝は「いってきます」と「いってらっしゃい」だけ。
夕食の時間も、テレビの音だけが部屋に響いていた。

母は相変わらず忙しそうで、
帰宅してもわたしの部屋の前を素通りする。

父は気まずそうに、でもどこかあきらめたような空気をまとっていた。

そんな静かな家の中で、
わたしの心だけが、少しずつ変わっていた。

夕暮れどき、机に向かってノートを開く。
迷わずペンをとるのは、久しぶりだった。

キャラクターたちは、わたしの手の中でゆっくりと動き出す。

泣いていた子が笑い、うつむいていた子が前を向く。

それは、まるで今のわたしそのものだった。

誰にも見せなくても、
誰にも認められなくても、
この時間だけは、ほんとうに自由だった。

(アリサ……会いたいな)

ふと、そう思った。

わたしはスマホを手に取り、
画面を見つめながら、そっとメッセージを打った。

「元気にしてる? 少しだけ、話したいことがあるんだ」

送信ボタンを押したあとの胸の高鳴りは、
夢を語るときのそれと、きっと同じだった。

メッセージを送ったあとの数時間は、永遠のように長かった。

スマホを何度も確認しては、画面を伏せて、また手に取る。

その繰り返しの中で、わたしは自分の呼吸を整えるように、ゆっくりノートを開いた。

線を引くたび、心の奥にしまい込んでいた“わたし”が、すこしずつ戻ってくる。

あの日、アリサに言われたあの言葉。

「ばかなのは、あんただよ」

あの言葉には、
「信じてたのに」って気持ちが込められていた。

信じてくれてたから、怒ったんだ。

だからこそ、わたしも今――ちゃんと向き合いたい。

夢に。

そして、アリサに。

スマホが震えた。

一瞬、鼓動が止まる。

アリサからだった。

「話したいこと、って何?」
「今から会える?」

わたしは目を見開いて、その画面を見つめた。

心臓が高鳴る。

でも、こわくない。

もう、伝えたいことが決まってるから。

わたしは深呼吸をして、返信した。

「うん。伝えたいこと、ちゃんとあるから」

ページの上では、主人公の女の子が前を向いていた。

わたし自身も、その続きを描ける気がしていた。




駅前の小さなカフェ。

ドアを開けると、アリサがいた。

窓際の席に、肘をついてこちらを見ている。

目が合うと、ふっと視線を外した。

でも、その表情が怒っていないことに、少しだけ安心した。

「ひさしぶり」

「……うん」

ぎこちないけど、それでも、わたしたちは目を見て話せた。
 
カフェラテを前に、沈黙が落ちる。

わたしは、自分の指先を見ながら、少しずつ言葉を探した。

「この前……ごめん」

アリサは、何も言わない。

「夢、やめたって言ったけど、やっぱりうそだった。
ほんとは、あきらめきれなかった。……描いてる。今も」

言いながら、胸の奥がじんとあたたかくなった。

やっと言えた。ちゃんと、自分の言葉で。

「ばからしいって、自分で言って、
そのあと、すごく苦しくなって。
だから、もう一度描いてみたの。そしたら……」

わたしはアリサの目を見て、笑った。

「やっぱり、すきだった」

アリサは、わたしをまっすぐ見つめたまま、ぽつりと言った。

「……ふーん」

わたしは、何か言われるのを待った。

怒られるかもしれない。呆れられるかもしれない。

でも、その次の瞬間、アリサの口元がふっとゆるんだ。

「――あんた、よくやったよ」


その言葉に、胸の奥が、じんわりと熱くなった。

涙が出そうになるのをこらえて、わたしはうなずいた。

「ありがと」

ほんとうに、心からそう思った。

窓の外は夕焼けで、空がにじんでいた。

ふたりで見る景色が、少しだけ違って見えた。