金鳳花の咲くころに

アリサからの返信は、来なかった。

既読すらつかないまま、三日が過ぎた。

電車でも、カフェでも、駅のホームでも、姿を見かけることはなかった。

それだけで、わたしの世界は、少し色を失ったような気がした。

 
わたしは今、アリサに何も言えない。

怖かった。嫌われるのが。

でも、それ以上に怖いのは、
また何も言えないまま、わたしが自分を捨ててしまうことだった。

アリサが言った言葉が、何度もよみがえる。

「そんな簡単にあきらめられる夢には見えなかったけど」
「ばかなのは、あんただよ」

あれは、わたしの夢の姿を一番近くで見てくれていた人のことばだ。

本気だった。信じてくれていた。

それをわたし自身が踏みにじった。

わたしは、ノートの片隅にペンで書いた。

「描きたい。まだ、終わってない」

文字はにじんで、少しゆがんでいた。

でもそれでも、自分の気持ちを自分の手で書いたことで、
胸の奥が、ほんの少しだけ、あたたかくなった。



「お母さん、今日も遅いの?」

そう聞いたのは父だった。

リビングのソファで新聞を読んでいた父は、
わたしの声にちらりと目を向けた。

「会議らしいよ。最近多いね」

「……うん」

それだけの会話が、やけに重たく感じた。

母が家にいない夜。
わたしはほっとする反面、少しだけさびしかった。

さびしいと思ってしまう自分に驚いた。

 

本当は、話したかったのかもしれない。

母に、怖くても。

わたしがいま何を思っていて、
何を描いていて、
なぜそれを手放したくなかったのか。

でも、あの人の前では、いつも言葉が消えてしまう。

 
「また漫画、描いてるのか?」

父が不意に言った。

びくっとした。

「……ちょっとだけ」

「お母さんには、言ったのか?」

「言ってない。言えるわけない」

そう返した声が、思ったより強かった。

 
父はそれ以上、何も言わなかった。

それが優しさなのか、関心のなさなのか、
わたしにはわからなかった。

でも、わたしは立ち上がって、ノートを抱えて自室に戻った。


自分の部屋のドアを閉めた瞬間、
ようやく息ができた。

開いたノートの前で、
「わたし、ちゃんと描いてるよ」と心の中でつぶやいた。

誰にも聞こえなくても、
この言葉だけは、自分に届けておきたかった。

アリサにメッセージを送ってから、もう一週間が過ぎた。

既読はついていたけれど、返事はなかった。

『ちゃんと話したい』って、たったそれだけの言葉が、
こんなにも届かないものなんだと知った。

わたしの手は、毎晩ノートを開いていた。

だけど、ページの半分も埋まらない。

描いては、止まり、
また描いては、消す。

自分の線に、自信が持てなくなっていた。


(わたし、また逃げてるのかな)

母にもまだ何も言えていない。

アリサにはあれ以来、顔すら見せられない。

そして、わたし自身にも――
ほんとうの「やりたいこと」を、まっすぐ認めることが、まだできないでいた。

でも、その気持ちをごまかせない時間がある。

夜。ひとりきりの部屋。

誰にも見られていない場所で、
わたしの心が一番素直になる。

 

だからこそ、はっきりする。

「やりたい」って気持ちは、まだここにある。

悔しいほど、消えてくれない。

だったらもう一度、ちゃんと見てやろうと思った。

自分の本音を。

自分の弱さを。

そして、自分の『好き』を。

机に置いたスマホの画面を見つめる。

「返信ください」なんて、もう送らない。

でも、アリサに伝えたい言葉はまだ、たくさんある。



その日の夜も、わたしは机に向かっていた。

ノートの前で、ただ一点を見つめる。

鉛筆を握って、何かを描こうとして、手が止まる。

(これって……誰のために描いてるんだろう)

ふと、そんなことを思った。

母に認められたくて。
アリサに応援してもらいたくて。

でも――それだけじゃなかった。

ほんとうは、誰にも見られなくてもよかった。

描いている間だけは、
自分の心に正直でいられる気がしたから。


「ばからしいから、やめた」

あの瞬間、夢を捨てようとした自分を、
いちばん許せていないのは、たぶん――わたしだ。

わたしは、描き始めた。

誰かに見せるためじゃない。

ただ、「わたしのため」に。


ペンを持つ指に力を込めた。

ノートのページに、新しい線が引かれていく。

泣いている女の子が、ページの中に立っていた。

でも、その表情は前よりも少しだけ強かった。
 

描き終わったあと、深く息を吐いた。

静かな部屋の中で、自分の心の音だけが聞こえる。

あの日、アリサが言ってくれたあの言葉が、
わたしを止めてくれた。

「ばかなのは、あんただよ」

それが、わたしにとっての「本当のはじまり」だった。

まだ何も変わっていない。

だけど――わたしは、もう逃げない。

夢を守るって、
たぶん、こういうことなのかもしれない。