金鳳花の咲くころに

廊下の掲示板の前に、人だかりができていた。

成績一覧。中間テストの結果。

貼り出された紙を前に、みんながざわざわと声を交わすなか、
わたしは、その端っこの列に、自分の名前を見つけた。

(……下がってる)

それは、はっきりと「落ちた」と言える順位だった。

(漫画なんて描いてるから……)

頭の中で、母の声が響く。

それはまだ聞いてもいないはずなのに、はっきりとした責め言葉になって、
喉の奥をぎゅっと締めつけた。

放課後、家に帰ると、母はリビングで待っていた。

机の上には、成績通知のコピー。

わたしが部屋に入るのと同時に、
母の視線が、鋭く突き刺さる。

「なに、これ」

第一声は、それだった。

 

「……ごめんなさい」

「『ごめんなさい』で何とかなる点数じゃないわよ」

静かな怒気を含んだ口調。

「努力の結果がこれ? なにが原因? 言ってみなさい」

わたしは、下を向いたまま答えた。

「……描いてたから。漫画。ちょっとだけ」

次の瞬間、空気が凍った。

「漫画?」

「……うん。でも、もうやめる。……ばからしいって思ったから」

口をついて出たその言葉に、わたし自身が一瞬、驚いた。

(本当にそう思ってる?)

でも、母の目は緩まなかった。

「そう。じゃあ、さっさと勉強に戻りなさい。
もう、無駄なことはしないようにね」

「……うん」

 
その夜、わたしはノートを開かなかった。

ページの上で止まった線が、今にも泣き出しそうだった。

次の日、アリサと電車でばったり会った。

「おっす」

いつもと変わらない声。
だけどわたしは、なんとなく視線を合わせられなかった。

「昨日、LINEの返事なかったね。元気してた?」

「……うん。まあ」

「てかさ、こないだ描いてた漫画、続き見せてくれるって言ってたじゃん」

「……やめた」

アリサの足が止まる。

「は?」

「描くの、やめた。漫画家になるの、あきらめた。
ばからしいなって思っただけ」

自分で言ったその言葉が、耳の奥で反響する。

胸の奥に何か冷たいものが広がっていく。

でも、もう『夢を持ってる自分』でいるのが苦しかった。


アリサは、しばらく黙っていた。

電車のアナウンスが流れて、乗り込む人たちの声が重なるなか、
その静けさだけが妙にくっきりしていた。

「……そんな簡単に、あきらめられる夢には見えなかったけど?」

低い声だった。

「……」

「ずっと描いてたじゃん。楽しそうだったし、本気だったじゃん。
それを『ばからしい』って、自分で言うの? ほんとに?」

「……だって、親に怒られて、成績も下がって」

「それが理由? だから『やめる』?」

アリサの声が、少しだけ震えていた。

そして、はっきりと。

「ばかなのは、あんただよ」

その一言が、電車の揺れよりずっと強く、わたしの心を突き動かした。




アリサは別の車両に歩いて行った。
何も言い返せなかった。

ずっと黙っていた。

スマホも見られなかったし、ノートも開けなかった。

夢を描くノートは机の上にあるのに、
手が震えて、開けなかった。

アリサの目が頭から離れない。

いつもはきらきらしていて、
明るくて、まっすぐで、まるで太陽みたいな彼女が、
あのときだけは本当に怒っていた。

(わたしのこと、信じてくれてたんだ)

「本気で描いてたくせに、何言ってんの」
って、あの目が言ってた。

わたしは、なにを守ったんだろう。
わたしは、なにを手放したんだろう。

答えが出ないまま、夜が更けていった。



机の上のノートに目をやる。

そこには、まだ最後のページを迎えていない物語がある。

描きかけの主人公の女の子が、
こちらを見ている気がした。

「あなた、ほんとにそれでいいの?」

そう問いかけられているような気がした。

そっと、ページを開く。

ペンを持つ手は、まだ震えている。

でも、線を描き始めたら――すこしだけ、呼吸が整った。

「やっぱり、描きたいよ」

口に出したら、少しだけ涙が出た。



昨日の会話が、胸の奥に残ったままだ。

「ばかなのは、あんただよ」

描くだけじゃなく、
言葉にしなくちゃ――わたしの気持ちを。

通学路を歩きながら、スマホを取り出す。

ゆっくりと、震える指でメッセージを打った。

「アリサ、昨日はごめん。
 本当は、まだ描きたい。
 ちゃんと話したいから、会える?」

送信ボタンを押すとき、胸がドキドキした。

でも、迷いはなかった。