翌日の土曜日は朝から晴天だった。
いつも学校に行く時間に、私服姿の瀬戸くんが家に来た。
「お母さんの具合は?」
尋ねてきた瀬戸くんにあたしは答える。
「無事。少し入院したら帰ってくるって」
「そっか」
黙り込むあたしに、瀬戸くんが手を差し出した。
「じゃあ、行こっか」
戸惑うあたしの手を、瀬戸くんは強引に引っ張って家を出た。
***
近くのバス停から、ふたりでバスに乗った。
着いた場所はあたしが来たことのない、高台にある公園だった。
遊具などはなく、ただ自然の中に遊歩道が続いているだけののどかな公園。
瀬戸くんはあたしの手を引っ張って、その道を歩く。
やがて開けた場所に着くと、目の前に青い色が広がった。
「あじさいだ……」
そこはあじさいの群生地だった。
すべて青いあじさいが、これでもかというほど咲き乱れている。
そして花や葉の上で、昨日の雨粒が、雨上がりの光を浴びてキラキラと輝いていた。
「すごい……」
「だろ?」
瀬戸くんが自慢げに笑顔を見せる。
「よく知ってたね。こんなところ」
「小さいころ、母さんと兄ちゃんと三人で来たんだ」
瀬戸くんはあたしの手を引き、あじさいの中の小道を歩く。
鮮やかで眩しい青の世界。
やがて一番奥にある展望台で、瀬戸くんが立ち止まった。
目の前は崖になっていて、町の中心を流れる広い川が見下ろせた。
「うちの兄ちゃん、知的障害があってさ」
しばらく黙り込んだあと、瀬戸くんが口を開く。
「おれは小さいころから兄ちゃんの食事やおむつの交換を手伝ったり、兄ちゃんに付きっ切りだった母さんの代わりに家事をしたり留守番したりしてて……でもそのたびに『優弥、ありがとうね』って言ってもらえるのがうれしくてさ。だから母さんに褒められたくてなんでもやった。最近は暴力を振るうようになった兄ちゃんから、母さんの代わりに殴られることだって……」
あたしは瀬戸くんの横顔を見る。
瀬戸くんの頬にはまた新しい痣がついていた。
「家ではもちろん、学校でも明るくふるまって、サッカーも頑張った。試合に出れれば、いつか母さんに見てもらえるかもって思ってさ。でも全部無駄だった」
風船がしぼむように、瀬戸くんの声が小さくなる。
「うちの親、離婚するんだって。母さんは兄ちゃんだけ連れて、家を出るんだって。『優弥はしっかりしてるから、お父さんとふたりで大丈夫だよね』って……」
瀬戸くんがあたしの手を強く握る。その手が震えている。
「バカみたいだろ、おれ。いままでやってきたこと、なんだったんだよって」
あははっと笑った瀬戸くんの目に、きらりと光るものが見えた。
「小さいころここに来たとき、おれ、母さんの手を振り払ってはしゃいでたんだ。母さんと出かけることなんか、めったになかったから。でも母さんはそんなおれを見ながら、兄ちゃんの手を握ったまま泣いてた。あの日、母さんはおれたちを連れて、ここから飛び降りて死のうとしたんじゃないかって、いまは思ってる」
あたしは黙って瀬戸くんを見つめる。
「やっぱバカでしょ、おれ。あのとき三人で死んでたら、こんな思いをしなくてすんだのに。大好きだった兄ちゃんのこと……殺してやりたいほど憎まなくてもよかったのに」
笑顔の瀬戸くんの目から、涙がぽろぽろとこぼれた。
それが朝の日差しに当たってキラキラ光る。
「……ごめん、自分の話ばっかりして」
手で目元をこすった瀬戸くんが、ハッと驚いた顔をする。
「神楽坂さん?」
頬を熱いものが伝わった。
あたしの目からも、涙があふれていた。
「あたし……昨日……」
喉の奥から言葉があふれる。あたしは瀬戸くんに聞いてもらいたかった。
「お母さんに……死んでほしかったの」
ずっと胸の奥に押し込んでいた言葉。
誰にも言えなかった言葉。言ってはいけなかった言葉。
「死にたい死にたいってあたしに言うから……だったら死ねばいいのにって思ってた。勝手に死ねばいいのに、早く死ねばいいのにって……いつもいつも……思ってた」
あたしが生まれたせいだからとか、お母さんはあたしがいないとだめだからとか、そんなのは全部きれいごと。
本当のあたしは、親に死んでほしいと願っている、きたない人間。
じっとあたしを見つめている、瀬戸くんの顔がぼやけていく。
「なのにやっぱりお母さんは生きてて……あたしは絶望した。あたしにすべてを押しつけるお父さんにも殺意が湧いた。死ねばいいのに。ふたりとも死ねばいいのに……そうしたらあたしは……」
あたしは……どうしたいんだろう。
自分が死ぬことばかり考えていたあたしは、母や父がいなくなったらどうしたらいいのかわからない。
「……っ」
声にならず、息だけが漏れる。
そんなあたしの目元に、瀬戸くんの指先が触れた。
昨日と同じ、あたたかい感触。
「死なないで」
かすれるようなその声に、あたしは瀬戸くんを見る。
「おれ、神楽坂さんに死んでほしくない」
涙でぐしゃぐしゃなあたしの前で、瀬戸くんも泣きながら困ったように笑う。
「だから……死なないで」
その言葉が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
たぶんあたしは、誰かにそう言ってほしかったんだと思う。
あたしは生きていていいんだと、この世界に生まれてきてよかったんだと、誰かに言ってほしかったんだと思う。
返事の代わりにぎゅっと強く、瀬戸くんとつながっている手を握った。
そして空を見上げて洟をすすり、泣き声でつぶやく。
「じゃあ……今日はやめとく」
隣から小さな息が漏れる。
あたしは視線を下ろし、瀬戸くんの顔をもう一度見る。
「その代わり、瀬戸くんも死なないで」
瀬戸くんとあたしの視線がぶつかる。
「あたしが死ぬとき一緒に死のう……だからそれまで勝手に死なないで」
しばらく見つめ合ったあと、瀬戸くんがくしゃっと笑った。
「うん。わかった」
瀬戸くんの目に光る涙が、すごくきれいだ。
死ぬ瞬間、さいごに見るのが青い空だったらいいのに、なんて思ってた。
だって人生さいごの日くらい、きれいなものを見たいじゃない?
でもあたしは、もっと他にもきれいなものがあるって知ってしまった。
青い空だけじゃない。
透けるような水色のアイスも、青一色のあじさいも。
雨上がりの水滴も、瀬戸くんの涙も。
そんなたくさんのきれいなものを、あたしはもっと見ていたいって思ってしまった。
もっと知りたいって思ってしまった。
できれば隣にいる、この人と一緒に。
「とりあえず……今日は帰ろうか」
瀬戸くんの声にうなずいた。
「うん。そうだね」
「アイスでも食べようよ」
「今日はあたしがおごる」
青いあじさいの小道をあたしたちは歩く。
つないだ手を、離さないまま。
この先どうなるのかなんて、わからないけど。
まずはコンビニまで、歩いていこう。
あたしたちの上には、青い空がどこまでも広がっていた。
いつも学校に行く時間に、私服姿の瀬戸くんが家に来た。
「お母さんの具合は?」
尋ねてきた瀬戸くんにあたしは答える。
「無事。少し入院したら帰ってくるって」
「そっか」
黙り込むあたしに、瀬戸くんが手を差し出した。
「じゃあ、行こっか」
戸惑うあたしの手を、瀬戸くんは強引に引っ張って家を出た。
***
近くのバス停から、ふたりでバスに乗った。
着いた場所はあたしが来たことのない、高台にある公園だった。
遊具などはなく、ただ自然の中に遊歩道が続いているだけののどかな公園。
瀬戸くんはあたしの手を引っ張って、その道を歩く。
やがて開けた場所に着くと、目の前に青い色が広がった。
「あじさいだ……」
そこはあじさいの群生地だった。
すべて青いあじさいが、これでもかというほど咲き乱れている。
そして花や葉の上で、昨日の雨粒が、雨上がりの光を浴びてキラキラと輝いていた。
「すごい……」
「だろ?」
瀬戸くんが自慢げに笑顔を見せる。
「よく知ってたね。こんなところ」
「小さいころ、母さんと兄ちゃんと三人で来たんだ」
瀬戸くんはあたしの手を引き、あじさいの中の小道を歩く。
鮮やかで眩しい青の世界。
やがて一番奥にある展望台で、瀬戸くんが立ち止まった。
目の前は崖になっていて、町の中心を流れる広い川が見下ろせた。
「うちの兄ちゃん、知的障害があってさ」
しばらく黙り込んだあと、瀬戸くんが口を開く。
「おれは小さいころから兄ちゃんの食事やおむつの交換を手伝ったり、兄ちゃんに付きっ切りだった母さんの代わりに家事をしたり留守番したりしてて……でもそのたびに『優弥、ありがとうね』って言ってもらえるのがうれしくてさ。だから母さんに褒められたくてなんでもやった。最近は暴力を振るうようになった兄ちゃんから、母さんの代わりに殴られることだって……」
あたしは瀬戸くんの横顔を見る。
瀬戸くんの頬にはまた新しい痣がついていた。
「家ではもちろん、学校でも明るくふるまって、サッカーも頑張った。試合に出れれば、いつか母さんに見てもらえるかもって思ってさ。でも全部無駄だった」
風船がしぼむように、瀬戸くんの声が小さくなる。
「うちの親、離婚するんだって。母さんは兄ちゃんだけ連れて、家を出るんだって。『優弥はしっかりしてるから、お父さんとふたりで大丈夫だよね』って……」
瀬戸くんがあたしの手を強く握る。その手が震えている。
「バカみたいだろ、おれ。いままでやってきたこと、なんだったんだよって」
あははっと笑った瀬戸くんの目に、きらりと光るものが見えた。
「小さいころここに来たとき、おれ、母さんの手を振り払ってはしゃいでたんだ。母さんと出かけることなんか、めったになかったから。でも母さんはそんなおれを見ながら、兄ちゃんの手を握ったまま泣いてた。あの日、母さんはおれたちを連れて、ここから飛び降りて死のうとしたんじゃないかって、いまは思ってる」
あたしは黙って瀬戸くんを見つめる。
「やっぱバカでしょ、おれ。あのとき三人で死んでたら、こんな思いをしなくてすんだのに。大好きだった兄ちゃんのこと……殺してやりたいほど憎まなくてもよかったのに」
笑顔の瀬戸くんの目から、涙がぽろぽろとこぼれた。
それが朝の日差しに当たってキラキラ光る。
「……ごめん、自分の話ばっかりして」
手で目元をこすった瀬戸くんが、ハッと驚いた顔をする。
「神楽坂さん?」
頬を熱いものが伝わった。
あたしの目からも、涙があふれていた。
「あたし……昨日……」
喉の奥から言葉があふれる。あたしは瀬戸くんに聞いてもらいたかった。
「お母さんに……死んでほしかったの」
ずっと胸の奥に押し込んでいた言葉。
誰にも言えなかった言葉。言ってはいけなかった言葉。
「死にたい死にたいってあたしに言うから……だったら死ねばいいのにって思ってた。勝手に死ねばいいのに、早く死ねばいいのにって……いつもいつも……思ってた」
あたしが生まれたせいだからとか、お母さんはあたしがいないとだめだからとか、そんなのは全部きれいごと。
本当のあたしは、親に死んでほしいと願っている、きたない人間。
じっとあたしを見つめている、瀬戸くんの顔がぼやけていく。
「なのにやっぱりお母さんは生きてて……あたしは絶望した。あたしにすべてを押しつけるお父さんにも殺意が湧いた。死ねばいいのに。ふたりとも死ねばいいのに……そうしたらあたしは……」
あたしは……どうしたいんだろう。
自分が死ぬことばかり考えていたあたしは、母や父がいなくなったらどうしたらいいのかわからない。
「……っ」
声にならず、息だけが漏れる。
そんなあたしの目元に、瀬戸くんの指先が触れた。
昨日と同じ、あたたかい感触。
「死なないで」
かすれるようなその声に、あたしは瀬戸くんを見る。
「おれ、神楽坂さんに死んでほしくない」
涙でぐしゃぐしゃなあたしの前で、瀬戸くんも泣きながら困ったように笑う。
「だから……死なないで」
その言葉が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
たぶんあたしは、誰かにそう言ってほしかったんだと思う。
あたしは生きていていいんだと、この世界に生まれてきてよかったんだと、誰かに言ってほしかったんだと思う。
返事の代わりにぎゅっと強く、瀬戸くんとつながっている手を握った。
そして空を見上げて洟をすすり、泣き声でつぶやく。
「じゃあ……今日はやめとく」
隣から小さな息が漏れる。
あたしは視線を下ろし、瀬戸くんの顔をもう一度見る。
「その代わり、瀬戸くんも死なないで」
瀬戸くんとあたしの視線がぶつかる。
「あたしが死ぬとき一緒に死のう……だからそれまで勝手に死なないで」
しばらく見つめ合ったあと、瀬戸くんがくしゃっと笑った。
「うん。わかった」
瀬戸くんの目に光る涙が、すごくきれいだ。
死ぬ瞬間、さいごに見るのが青い空だったらいいのに、なんて思ってた。
だって人生さいごの日くらい、きれいなものを見たいじゃない?
でもあたしは、もっと他にもきれいなものがあるって知ってしまった。
青い空だけじゃない。
透けるような水色のアイスも、青一色のあじさいも。
雨上がりの水滴も、瀬戸くんの涙も。
そんなたくさんのきれいなものを、あたしはもっと見ていたいって思ってしまった。
もっと知りたいって思ってしまった。
できれば隣にいる、この人と一緒に。
「とりあえず……今日は帰ろうか」
瀬戸くんの声にうなずいた。
「うん。そうだね」
「アイスでも食べようよ」
「今日はあたしがおごる」
青いあじさいの小道をあたしたちは歩く。
つないだ手を、離さないまま。
この先どうなるのかなんて、わからないけど。
まずはコンビニまで、歩いていこう。
あたしたちの上には、青い空がどこまでも広がっていた。



