「空、晴れねーなー」
翌日の放課後、ぼんやりと外を見ていたら、瀬戸くんが近づいてきて言った。
あたしはちらりとその横顔を見る。
「梅雨だからしょうがないか」
瀬戸くんの視線があたしに移り、にかっと笑う。
昨日のことなど、もう忘れてしまったように。
この人、本気で死ぬつもりなんだろうか。
なにを考えているのか、全然わからない。
外は雨が降っていた。水浸しでぐしゃぐしゃになったグラウンドには誰もいない。
「ヒマだなぁ」
「だったら帰れば」
つい応えてしまったら、瀬戸くんが食い気味に言ってきた。
「えっ、神楽坂さん、つめたくね? 一緒に死のうとしてる仲なのに」
「一緒に死ぬなんて言ってない」
「は? 約束したじゃん。空が晴れたら死にましょうって」
「約束なんてしてない」
「やっぱりつめたいなぁ、神楽坂さんは」
瀬戸くんがなぜかおかしそうに笑っている。
あたしは小さくため息をつく。
瀬戸くんはあたしに「なんで死にたいの?」って聞かない。
まぁ、母のことは話してしまったし、なんとなくわかっているとは思うけど。
そしてあたしも、瀬戸くんがなんで死にたいのか知らない。
知っているのは、お母さんに認めてもらうためにやっていたサッカーを、もうやる必要がなくなったっていうことくらい。
でもそんなのはどうでもよかった。
あたしはただここで、空が晴れるのを待っている。
空が晴れたら、青空の下で今度こそ――。
ブブッとスマホが振動した。
【寧々。早く帰ってきて】
あたしはその文字を見てから、スマホをポケットにつっこむ。
それからまた、雨の降り続く外を見た。
「帰らなくていいの?」
瀬戸くんが隣で聞く。
「お母さんに呼ばれたんじゃないの?」
「……いいの。今日はもう」
あの汚れた家を想像する。
腐った食べ物の匂いと、風呂を拒む母の体臭が充満した、ゴミまみれのきたない家。
あたしは小さいころからずっと、きたないものしか見ていない。
だからさいごの日くらいはぜったいに――。
「じゃあ遊びに行こうか」
声が聞こえて、あたしは思わず隣を見てしまった。
「と言っても金ないし。あっ、でも、コンビニのアイスくらいはおごってあげるよ」
「なにそれ。なんであたしが瀬戸くんと?」
「いいから行こうよ。ここにいてもヒマだしさ」
たしかに暇だ。家にも帰りたくない。
リュックを背負った瀬戸くんが、教室の出口まで歩いて振り返る。
「神楽坂さん! 早く!」
あたしはその声に向かって、重い足を一歩踏み出した。
***
「神楽坂さんはどれにする? おれはこれ!」
コンビニのアイスケースを見下ろした瀬戸くんは、迷わず水色のソーダアイスを手に取った。
「じゃああたしもそれで」
瀬戸くんはあたしの分も手に取ると、レジでお金を払ってくれた。
あたしはそんな瀬戸くんの横顔を見る。
そこには昨日はなかった青い痣がついていた。
コンビニを出ると、雨がやんでいた。
曇り空の下をふたりで歩いて、目についた児童公園のベンチに座ると、瀬戸くんがアイスを差し出してきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
なんだか不思議な気分のまま、アイスを受け取る。
なんであたし、こんなところにいるんだろう。
なんで瀬戸くんと、アイスを食べようとしているんだろう。
ポケットの中ではメッセージが届き続けている。
母があたしを呼んでいる。帰らなきゃ。
あたしがいないとお母さんは――。
『それってべつに、神楽坂さんのせいじゃなくね?』
本当はもう、とっくに気づいていた。
あたしの家庭が普通じゃないってこと。
『ヤングケアラー』って言葉があることも知っていた。
だけどいまさら誰に相談したらいいかわからないし、世間体を気にする父は、母のことを人に知られたくないと思っている。
だからあたしはどこにも逃げ場がない。あるとすればただひとつ――。
隣でシャクッとアイスをかじる音がした。
「つめてー! でもやっぱアイスはこれだな!」
瀬戸くんがうれしそうに目を細めている。
手には水色の透き通ったアイス。
雲の隙間からかすかにオレンジ色の陽が差して、氷の粒が光る。
あたしも同じアイスを袋から出して一口食べた。
歯がキンッと冷えて、つめたいものがすうっと喉を通り過ぎていく。
「……つめたくて、おいしい」
「だな!」
隣で瀬戸くんが笑っていた。
かじりかけのアイスを持って。
あたしはぼんやりとその顔を見る。
彼の後ろには青いあじさいが咲いていた。
「あじさい……咲いてる」
つぶやいたあたしの声に、瀬戸くんが振り向く。
「あー、ほんとだ。けっこう咲いてるじゃん」
公園にはたくさんのあじさいが咲いていた。
全部青いあじさいだった。
「神楽坂さん、あじさい好きなの?」
「べつに」
べつに好きではない。なんとなく目についたから言葉にしただけ。
きっと瀬戸くんとここに来なかったら、あじさいなんかに目を止めることもなかっただろう。
「でもおれ、もっといっぱいあじさいが咲いてる場所知ってるよ」
「へぇ」
「今度連れてってやろうか?」
瀬戸くんが身を乗り出すようにして、あたしの顔をのぞきこむ。
あたしはそんな瀬戸くんにつぶやく。
「死ぬのに?」
「あっ」
瀬戸くんがハッとしたような表情をする。
「もうおれたち死ぬんだから、そんなとこ行けないか」
あたしはなにも言わずに、ポケットからスマホを取り出した。
もし明日晴れたら……あたしは死ぬ。
瀬戸くんは……本気なのかわからないけど。
天気アプリを開くと、太陽マークがたくさん並んでいた。
「明日の天気……晴れだって」
つぶやいたあたしの隣で、瀬戸くんがシャクッとアイスをかじった。
「そっか」
ブブッとスマホが震え、画面にメッセージが現れた。
【寧々。どこにいるの? 早く帰ってきて】
あたしはスマホの電源を切って、ポケットに入れる。
それからゆっくりゆっくりアイスを食べて、瀬戸くんとふたり、暗くなるまでそこにいた。
***
家に帰ると言ったあたしに、瀬戸くんが「送ってく」と言った。
断ったのに、「どうせヒマだし」とついてくる。
しかたなくあたしは、瀬戸くんと家に向かって歩く。
途中でまた雨が降ってきた。
透明な傘を開きながら、本当に明日は青空になるのだろうか、なんて考える。
だけど見慣れた家が見えたとき、あたしはひゅっと息を吸い込んだ。
「お母さん?」
家の前に赤いランプをつけた救急車が止まっている。
「お母さん!」
あたしは瀬戸くんを残し、救急車に向かって走り出す。
ちょうど家の中から、担架にのせられた人が運び出されてくるところだった。
「お母さん! お母さん!」
担架に駆け寄ると、救急隊の人が教えてくれた。
「娘さんですか? お母さんは薬の過剰摂取で意識が朦朧としているようです」
母の顔を見る。半開きの目があたしを捉える。
わずかに動いた唇が、「寧々」と呼んだ気がした。
途端にあたしは吐きたくなった。
「寧々!」
立ちすくむあたしに声がかかる。
久しぶりに会う父が、険しい顔であたしに怒鳴った。
「なんでお母さんを見てなかったんだ!」
「お父さん……」
「お前がちゃんと見てないからこんなことに!」
なにそれ。全部あたしのせいなの?
自分はなにもしないで、なんでもかんでもあたしに押しつけて。
こういうときだけ戻ってきて、えらそうにしないでよ。
言いたいことを呑み込むあたしの耳に、父を呼ぶ救急隊の人の声が聞こえた。
父が救急車に乗り込むと、サイレンを鳴らして走り出す。
あたしは呆然とその様子を見送る。
「神楽坂さん?」
瀬戸くんの声にハッとした。
あたしは彼を無視して家の中に入る。
部屋はいつも以上に散らかっていて、嫌な匂いがした。
テーブルの上に空の薬シートがたくさん落ちていて、床には吐瀉物が飛び散っている。
オーバードーズした母が嘔吐したのだろう。
以前もこういうことはあったから。
あたしは薬の包装シートをゴミ箱に全部捨て、ぞうきんで床を拭く。
「これがあたしのうちなの」
一緒に部屋に入ってきた瀬戸くんに、床を拭きながらつぶやいた。
「きたないでしょ?」
目の奥が熱くなった。
あたしは必死にそれをこらえる。
泣くな。こらえろ。もうちょっとだから。
いつものように心の中で唱える。
そう、明日雨が上がったら、空が晴れたら、あたしは青空の下で……。
だけど今日は無理だった。
こらえようとすればするほど、目の奥から熱いものがあふれ出す。
「神楽坂さん」
ハッと気づくと、目の前に瀬戸くんがいた。
しゃがみ込んで、あたしのことをじっと見ている。
あたしは慌てて顔をそむける。
「帰って」
ぎゅっと床の上のぞうきんを握る。
そこにぽたりと水滴が落ちる。
「もう帰ってよ」
すると瀬戸くんの手がすっと動いて、あたしの目元に触れた。
あたしの透明な涙が、瀬戸くんの指先のあたたかさと混じり合って溶けていく。
「きれいだな……」
「え?」
「神楽坂さんの涙」
思わず瀬戸くんの顔を見た。
瀬戸くんはじっとあたしを見ている。
あたしたちの視線が、すえた匂いのする部屋の中でぶつかり合う。
「バ、バカじゃないの?」
やっと吐いた声が、みっともなく震えていた。
瀬戸くんはふっと笑ってあたしに言う。
「明日、あじさい見にいこ」
その声がじんわりと胸に響く。
「朝になったら迎えにくる」
瀬戸くんの指先があたしの涙を拭う。
そしてほんの少し笑いかけると、立ち上がり、ひとりで部屋を出ていった。
翌日の放課後、ぼんやりと外を見ていたら、瀬戸くんが近づいてきて言った。
あたしはちらりとその横顔を見る。
「梅雨だからしょうがないか」
瀬戸くんの視線があたしに移り、にかっと笑う。
昨日のことなど、もう忘れてしまったように。
この人、本気で死ぬつもりなんだろうか。
なにを考えているのか、全然わからない。
外は雨が降っていた。水浸しでぐしゃぐしゃになったグラウンドには誰もいない。
「ヒマだなぁ」
「だったら帰れば」
つい応えてしまったら、瀬戸くんが食い気味に言ってきた。
「えっ、神楽坂さん、つめたくね? 一緒に死のうとしてる仲なのに」
「一緒に死ぬなんて言ってない」
「は? 約束したじゃん。空が晴れたら死にましょうって」
「約束なんてしてない」
「やっぱりつめたいなぁ、神楽坂さんは」
瀬戸くんがなぜかおかしそうに笑っている。
あたしは小さくため息をつく。
瀬戸くんはあたしに「なんで死にたいの?」って聞かない。
まぁ、母のことは話してしまったし、なんとなくわかっているとは思うけど。
そしてあたしも、瀬戸くんがなんで死にたいのか知らない。
知っているのは、お母さんに認めてもらうためにやっていたサッカーを、もうやる必要がなくなったっていうことくらい。
でもそんなのはどうでもよかった。
あたしはただここで、空が晴れるのを待っている。
空が晴れたら、青空の下で今度こそ――。
ブブッとスマホが振動した。
【寧々。早く帰ってきて】
あたしはその文字を見てから、スマホをポケットにつっこむ。
それからまた、雨の降り続く外を見た。
「帰らなくていいの?」
瀬戸くんが隣で聞く。
「お母さんに呼ばれたんじゃないの?」
「……いいの。今日はもう」
あの汚れた家を想像する。
腐った食べ物の匂いと、風呂を拒む母の体臭が充満した、ゴミまみれのきたない家。
あたしは小さいころからずっと、きたないものしか見ていない。
だからさいごの日くらいはぜったいに――。
「じゃあ遊びに行こうか」
声が聞こえて、あたしは思わず隣を見てしまった。
「と言っても金ないし。あっ、でも、コンビニのアイスくらいはおごってあげるよ」
「なにそれ。なんであたしが瀬戸くんと?」
「いいから行こうよ。ここにいてもヒマだしさ」
たしかに暇だ。家にも帰りたくない。
リュックを背負った瀬戸くんが、教室の出口まで歩いて振り返る。
「神楽坂さん! 早く!」
あたしはその声に向かって、重い足を一歩踏み出した。
***
「神楽坂さんはどれにする? おれはこれ!」
コンビニのアイスケースを見下ろした瀬戸くんは、迷わず水色のソーダアイスを手に取った。
「じゃああたしもそれで」
瀬戸くんはあたしの分も手に取ると、レジでお金を払ってくれた。
あたしはそんな瀬戸くんの横顔を見る。
そこには昨日はなかった青い痣がついていた。
コンビニを出ると、雨がやんでいた。
曇り空の下をふたりで歩いて、目についた児童公園のベンチに座ると、瀬戸くんがアイスを差し出してきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
なんだか不思議な気分のまま、アイスを受け取る。
なんであたし、こんなところにいるんだろう。
なんで瀬戸くんと、アイスを食べようとしているんだろう。
ポケットの中ではメッセージが届き続けている。
母があたしを呼んでいる。帰らなきゃ。
あたしがいないとお母さんは――。
『それってべつに、神楽坂さんのせいじゃなくね?』
本当はもう、とっくに気づいていた。
あたしの家庭が普通じゃないってこと。
『ヤングケアラー』って言葉があることも知っていた。
だけどいまさら誰に相談したらいいかわからないし、世間体を気にする父は、母のことを人に知られたくないと思っている。
だからあたしはどこにも逃げ場がない。あるとすればただひとつ――。
隣でシャクッとアイスをかじる音がした。
「つめてー! でもやっぱアイスはこれだな!」
瀬戸くんがうれしそうに目を細めている。
手には水色の透き通ったアイス。
雲の隙間からかすかにオレンジ色の陽が差して、氷の粒が光る。
あたしも同じアイスを袋から出して一口食べた。
歯がキンッと冷えて、つめたいものがすうっと喉を通り過ぎていく。
「……つめたくて、おいしい」
「だな!」
隣で瀬戸くんが笑っていた。
かじりかけのアイスを持って。
あたしはぼんやりとその顔を見る。
彼の後ろには青いあじさいが咲いていた。
「あじさい……咲いてる」
つぶやいたあたしの声に、瀬戸くんが振り向く。
「あー、ほんとだ。けっこう咲いてるじゃん」
公園にはたくさんのあじさいが咲いていた。
全部青いあじさいだった。
「神楽坂さん、あじさい好きなの?」
「べつに」
べつに好きではない。なんとなく目についたから言葉にしただけ。
きっと瀬戸くんとここに来なかったら、あじさいなんかに目を止めることもなかっただろう。
「でもおれ、もっといっぱいあじさいが咲いてる場所知ってるよ」
「へぇ」
「今度連れてってやろうか?」
瀬戸くんが身を乗り出すようにして、あたしの顔をのぞきこむ。
あたしはそんな瀬戸くんにつぶやく。
「死ぬのに?」
「あっ」
瀬戸くんがハッとしたような表情をする。
「もうおれたち死ぬんだから、そんなとこ行けないか」
あたしはなにも言わずに、ポケットからスマホを取り出した。
もし明日晴れたら……あたしは死ぬ。
瀬戸くんは……本気なのかわからないけど。
天気アプリを開くと、太陽マークがたくさん並んでいた。
「明日の天気……晴れだって」
つぶやいたあたしの隣で、瀬戸くんがシャクッとアイスをかじった。
「そっか」
ブブッとスマホが震え、画面にメッセージが現れた。
【寧々。どこにいるの? 早く帰ってきて】
あたしはスマホの電源を切って、ポケットに入れる。
それからゆっくりゆっくりアイスを食べて、瀬戸くんとふたり、暗くなるまでそこにいた。
***
家に帰ると言ったあたしに、瀬戸くんが「送ってく」と言った。
断ったのに、「どうせヒマだし」とついてくる。
しかたなくあたしは、瀬戸くんと家に向かって歩く。
途中でまた雨が降ってきた。
透明な傘を開きながら、本当に明日は青空になるのだろうか、なんて考える。
だけど見慣れた家が見えたとき、あたしはひゅっと息を吸い込んだ。
「お母さん?」
家の前に赤いランプをつけた救急車が止まっている。
「お母さん!」
あたしは瀬戸くんを残し、救急車に向かって走り出す。
ちょうど家の中から、担架にのせられた人が運び出されてくるところだった。
「お母さん! お母さん!」
担架に駆け寄ると、救急隊の人が教えてくれた。
「娘さんですか? お母さんは薬の過剰摂取で意識が朦朧としているようです」
母の顔を見る。半開きの目があたしを捉える。
わずかに動いた唇が、「寧々」と呼んだ気がした。
途端にあたしは吐きたくなった。
「寧々!」
立ちすくむあたしに声がかかる。
久しぶりに会う父が、険しい顔であたしに怒鳴った。
「なんでお母さんを見てなかったんだ!」
「お父さん……」
「お前がちゃんと見てないからこんなことに!」
なにそれ。全部あたしのせいなの?
自分はなにもしないで、なんでもかんでもあたしに押しつけて。
こういうときだけ戻ってきて、えらそうにしないでよ。
言いたいことを呑み込むあたしの耳に、父を呼ぶ救急隊の人の声が聞こえた。
父が救急車に乗り込むと、サイレンを鳴らして走り出す。
あたしは呆然とその様子を見送る。
「神楽坂さん?」
瀬戸くんの声にハッとした。
あたしは彼を無視して家の中に入る。
部屋はいつも以上に散らかっていて、嫌な匂いがした。
テーブルの上に空の薬シートがたくさん落ちていて、床には吐瀉物が飛び散っている。
オーバードーズした母が嘔吐したのだろう。
以前もこういうことはあったから。
あたしは薬の包装シートをゴミ箱に全部捨て、ぞうきんで床を拭く。
「これがあたしのうちなの」
一緒に部屋に入ってきた瀬戸くんに、床を拭きながらつぶやいた。
「きたないでしょ?」
目の奥が熱くなった。
あたしは必死にそれをこらえる。
泣くな。こらえろ。もうちょっとだから。
いつものように心の中で唱える。
そう、明日雨が上がったら、空が晴れたら、あたしは青空の下で……。
だけど今日は無理だった。
こらえようとすればするほど、目の奥から熱いものがあふれ出す。
「神楽坂さん」
ハッと気づくと、目の前に瀬戸くんがいた。
しゃがみ込んで、あたしのことをじっと見ている。
あたしは慌てて顔をそむける。
「帰って」
ぎゅっと床の上のぞうきんを握る。
そこにぽたりと水滴が落ちる。
「もう帰ってよ」
すると瀬戸くんの手がすっと動いて、あたしの目元に触れた。
あたしの透明な涙が、瀬戸くんの指先のあたたかさと混じり合って溶けていく。
「きれいだな……」
「え?」
「神楽坂さんの涙」
思わず瀬戸くんの顔を見た。
瀬戸くんはじっとあたしを見ている。
あたしたちの視線が、すえた匂いのする部屋の中でぶつかり合う。
「バ、バカじゃないの?」
やっと吐いた声が、みっともなく震えていた。
瀬戸くんはふっと笑ってあたしに言う。
「明日、あじさい見にいこ」
その声がじんわりと胸に響く。
「朝になったら迎えにくる」
瀬戸くんの指先があたしの涙を拭う。
そしてほんの少し笑いかけると、立ち上がり、ひとりで部屋を出ていった。



