「神楽坂さん?」
放課後の、誰もいない四階の教室。
窓を全開にし、じっとグラウンドを見下ろしていたあたしに声がかかる。
「なにやってんの?」
振り返ると、同じクラスの男子生徒が立っていた。
この人は……サッカー部の瀬戸優弥。
高校二年生になってから二か月、クラスにまったく馴染んでいないあたしでも知っている。
瀬戸くんはこの教室の中で、誰よりも目立つ人気者だから。
あたしはしゃべったこともない彼に向かって答える。
「なにって……べつに外見てただけ」
「ふうん……」
少しだけ不満そうに瀬戸くんがつぶやく。
窓から差し込む午後の日差しが、彼の茶色い髪に当たってキラキラ光る。
あたしはそっと目をそむけ、もう一度窓の外を眺めた。
梅雨の晴れ間の青空の下、青い練習着を着たサッカー部員たちが、ボールを蹴りながら走っている。
そういえばサッカー部であるはずの瀬戸くんは、なぜ制服姿でここにいるのだろう。
「あー、あったあった」
すると静まり返った教室に、瀬戸くんのやたら明るい声が響いた。
ちらりと声の方向を見ると、彼は自分の机からプリントを取り出し、笑いながらリュックに入れている。
さっき不機嫌そうに感じたのは、気のせいだったのかもしれない。
「校門出ようとしたとき、英語のプリント忘れたことに気づいてさー。また課題提出できなかったらヤバいじゃん?」
たしか今日の授業で、瀬戸くんは先生に怒られていた。
そんなことを思い出していたら、じっと見られていることに気がついた。
「な、なに?」
「あー、いや。まだ帰らないのかなぁって」
「もう少ししたら帰るけど」
「そっか」
瀬戸くんは少し考え込んでから、「じゃあ、また」と笑顔を見せて去っていった。
なんだろ、あれ。変な感じ。
あたしはいつもの騒がしい教室を思い出す。
常にクラスの中心である、運動部の元気な人たちが集まっているグループ。
その中でいつもにこにこ笑っている瀬戸くん。
男子にも女子にも好かれていて、運動神経がよくて、顔もいい。
体育の時間、サッカーをしている瀬戸くんを見て、クラスの女子がキャーキャー騒いでいたのを知っている。
つまり瀬戸くんは、イケメンでスポーツマンの陽キャってやつだ。
クソ真面目で人づきあいが悪いと陰で噂されている、あたしなんかとは正反対の。
ブブッとポケットの中でスマホが震えた。
画面を見るとメッセージが浮かんでいる。
【寧々、どこにいるの? 早く帰ってきて】
小さく息を吐く。
ぬるりと黒い感情が、胸の奥に広がりはじめる。
ピーッ。
窓の外でホイッスルの音が響いた。
グラウンドに散らばっていたサッカー部員が集まり、青い色が固まっていく。
あたしが絶対入ることのできない、鮮やかで眩しい青の世界。
あたしは窓を閉めると、重い足を無理やり動かし、ひとりで教室を出た。
***
「寧々。遅かったじゃない」
「ごめんね。お母さん」
家に一歩足を踏み込む。朝きちんと片付けたはずのリビングが、ひどく散らかっている。
「寧々、どうしよう。ご飯作れなかったの、お父さんのご飯」
「いいよ、そんなの。あたしが作るから」
あたしはリュックを床に置くと、いつも通りキッチンに向かう。
「ねぇ、お父さんに怒られちゃう。どうしよう、寧々。ご飯、どうしよう」
そんなあたしのあとを、母が泣き出しそうな子どものようについてくる。
あたしは小さく息を吐き、振り返って母に言う。
「大丈夫だよ、あたしがやるから。お母さんは寝てていいよ」
すると母があたしの腕をぐっとつかんだ。伸びた爪が肌にぎりっと食い込む。
「お母さん、だめだね。ご飯も作れないなんて、もうだめだね」
「だめじゃないよ」
胸の奥から湧き出てくるものを押し戻し、なだめるように言う。
でも母はもっと強くあたしに爪を突き立てる。
「ねぇ、もう死んだほうがいいよね? 寧々、お母さんもう死んだほうが……」
腕にじわりと赤い血が浮かんだ。
それを見た瞬間、押し返したはずのどす黒い思いが、口の中からあふれ出た。
「いいから! ちょっとあっち行ってて!」
つい怒鳴ってしまって後悔した。
母があたしの腕をつかんだまま、ずるずると床に沈み込んでいく。
「もう死にたい……殺して、寧々。お母さんを殺して」
また始まった。
あたしはその場に座り込み、母の顔を見つめて言う。
「お母さん、お薬飲もうか?」
「死にたい。殺して……」
「お母さん……」
青白い蛍光灯の下、母の真っ青な顔を見てぞっとした。
まるで鏡に映る自分の顔を見ているみたい。
今日十七歳になったあたしは、いつしか母とそっくりになっていた。
もっと大人になったら、あたしもこの人みたいになるのだろうか。
考えたら虫唾が走って、同時に実の親をそんなふうに思っている自分に吐き気を覚えた。
「お願い、殺して。死にたい。死にたいの!」
母が叫ぶ。
その途端、あたしも叫んでいた。
「うるさい! 離して!」
思いっきり母の身体を突き飛ばす。
床にひっくり返った母が、子どものように泣きわめく。
あたしは咄嗟に両手で耳を覆った。
「……死にたいのは、こっちだよ」
逃げるようにその場を離れ、病院でもらった母の薬を用意する。
母はしばらくこの調子だろう。
母にうんざりしている父は、きっと今夜も帰ってこない。
この家でまともなのはあたしだけ。
ううん、違う。
あたしもとっくにまともじゃない。
いつものように、母に睡眠薬を飲ませた。
その青い錠剤を、なにげなく数えながら考える。
この薬をいくつ飲んだら死ねるんだろう。
今日もあたしは、そんなことを考えている。
放課後の、誰もいない四階の教室。
窓を全開にし、じっとグラウンドを見下ろしていたあたしに声がかかる。
「なにやってんの?」
振り返ると、同じクラスの男子生徒が立っていた。
この人は……サッカー部の瀬戸優弥。
高校二年生になってから二か月、クラスにまったく馴染んでいないあたしでも知っている。
瀬戸くんはこの教室の中で、誰よりも目立つ人気者だから。
あたしはしゃべったこともない彼に向かって答える。
「なにって……べつに外見てただけ」
「ふうん……」
少しだけ不満そうに瀬戸くんがつぶやく。
窓から差し込む午後の日差しが、彼の茶色い髪に当たってキラキラ光る。
あたしはそっと目をそむけ、もう一度窓の外を眺めた。
梅雨の晴れ間の青空の下、青い練習着を着たサッカー部員たちが、ボールを蹴りながら走っている。
そういえばサッカー部であるはずの瀬戸くんは、なぜ制服姿でここにいるのだろう。
「あー、あったあった」
すると静まり返った教室に、瀬戸くんのやたら明るい声が響いた。
ちらりと声の方向を見ると、彼は自分の机からプリントを取り出し、笑いながらリュックに入れている。
さっき不機嫌そうに感じたのは、気のせいだったのかもしれない。
「校門出ようとしたとき、英語のプリント忘れたことに気づいてさー。また課題提出できなかったらヤバいじゃん?」
たしか今日の授業で、瀬戸くんは先生に怒られていた。
そんなことを思い出していたら、じっと見られていることに気がついた。
「な、なに?」
「あー、いや。まだ帰らないのかなぁって」
「もう少ししたら帰るけど」
「そっか」
瀬戸くんは少し考え込んでから、「じゃあ、また」と笑顔を見せて去っていった。
なんだろ、あれ。変な感じ。
あたしはいつもの騒がしい教室を思い出す。
常にクラスの中心である、運動部の元気な人たちが集まっているグループ。
その中でいつもにこにこ笑っている瀬戸くん。
男子にも女子にも好かれていて、運動神経がよくて、顔もいい。
体育の時間、サッカーをしている瀬戸くんを見て、クラスの女子がキャーキャー騒いでいたのを知っている。
つまり瀬戸くんは、イケメンでスポーツマンの陽キャってやつだ。
クソ真面目で人づきあいが悪いと陰で噂されている、あたしなんかとは正反対の。
ブブッとポケットの中でスマホが震えた。
画面を見るとメッセージが浮かんでいる。
【寧々、どこにいるの? 早く帰ってきて】
小さく息を吐く。
ぬるりと黒い感情が、胸の奥に広がりはじめる。
ピーッ。
窓の外でホイッスルの音が響いた。
グラウンドに散らばっていたサッカー部員が集まり、青い色が固まっていく。
あたしが絶対入ることのできない、鮮やかで眩しい青の世界。
あたしは窓を閉めると、重い足を無理やり動かし、ひとりで教室を出た。
***
「寧々。遅かったじゃない」
「ごめんね。お母さん」
家に一歩足を踏み込む。朝きちんと片付けたはずのリビングが、ひどく散らかっている。
「寧々、どうしよう。ご飯作れなかったの、お父さんのご飯」
「いいよ、そんなの。あたしが作るから」
あたしはリュックを床に置くと、いつも通りキッチンに向かう。
「ねぇ、お父さんに怒られちゃう。どうしよう、寧々。ご飯、どうしよう」
そんなあたしのあとを、母が泣き出しそうな子どものようについてくる。
あたしは小さく息を吐き、振り返って母に言う。
「大丈夫だよ、あたしがやるから。お母さんは寝てていいよ」
すると母があたしの腕をぐっとつかんだ。伸びた爪が肌にぎりっと食い込む。
「お母さん、だめだね。ご飯も作れないなんて、もうだめだね」
「だめじゃないよ」
胸の奥から湧き出てくるものを押し戻し、なだめるように言う。
でも母はもっと強くあたしに爪を突き立てる。
「ねぇ、もう死んだほうがいいよね? 寧々、お母さんもう死んだほうが……」
腕にじわりと赤い血が浮かんだ。
それを見た瞬間、押し返したはずのどす黒い思いが、口の中からあふれ出た。
「いいから! ちょっとあっち行ってて!」
つい怒鳴ってしまって後悔した。
母があたしの腕をつかんだまま、ずるずると床に沈み込んでいく。
「もう死にたい……殺して、寧々。お母さんを殺して」
また始まった。
あたしはその場に座り込み、母の顔を見つめて言う。
「お母さん、お薬飲もうか?」
「死にたい。殺して……」
「お母さん……」
青白い蛍光灯の下、母の真っ青な顔を見てぞっとした。
まるで鏡に映る自分の顔を見ているみたい。
今日十七歳になったあたしは、いつしか母とそっくりになっていた。
もっと大人になったら、あたしもこの人みたいになるのだろうか。
考えたら虫唾が走って、同時に実の親をそんなふうに思っている自分に吐き気を覚えた。
「お願い、殺して。死にたい。死にたいの!」
母が叫ぶ。
その途端、あたしも叫んでいた。
「うるさい! 離して!」
思いっきり母の身体を突き飛ばす。
床にひっくり返った母が、子どものように泣きわめく。
あたしは咄嗟に両手で耳を覆った。
「……死にたいのは、こっちだよ」
逃げるようにその場を離れ、病院でもらった母の薬を用意する。
母はしばらくこの調子だろう。
母にうんざりしている父は、きっと今夜も帰ってこない。
この家でまともなのはあたしだけ。
ううん、違う。
あたしもとっくにまともじゃない。
いつものように、母に睡眠薬を飲ませた。
その青い錠剤を、なにげなく数えながら考える。
この薬をいくつ飲んだら死ねるんだろう。
今日もあたしは、そんなことを考えている。



