私は自分の名前が嫌いだ。
 この世界で、それが私だと識別されるための手段にすぎないのに。私は親から『太陽みたいに明るく真っ直ぐ。人を照らす光になるように』なんて、綺麗事みたいな願いを込められて名付けられた。皮肉なものだ。高校生になった私は、背中に貼られたそのレッテルの重さに耐えられなくて、いつも項垂れて地面を見ている。
 まるで夏の終わりの太陽の花みたいに。


 ♢


 カーテンが揺れて、海の匂いが鼻をつく。私は教室の窓から、遠くの港に停まる大型漁船をぼんやり眺めていた。十一月の東北は空も海も灰色で、まるで色を吸い取られた絵の具みたいだ。教室の窓枠は冷たくて、指で触ると少しだけ湿っぽい。誰かがスナック菓子をガサガサと漁る音と、明るい笑い声。外の景色とは対照的に、昼休みになった二年生の教室はざわめきに満ちている。けど、私の周りだけ静けさが漂う。誰も話しかけてこないわけじゃない。ただ、私がそうさせてるだけ。

 「向日葵(ひまわり)! ねえ、ちょっと見てよこれ!」
 隣の席から彩花(あやか)の声が弾けた。私はゆっくり顔を向ける。彩花はスマホを握り、画面を私の方に傾けている。今流行りのショート動画だった。猫が段ボールに飛び込むやつ。彩花の茶色い髪が、蛍光灯の下でほんのりオレンジ色に光る。そんな無邪気な彼女の笑顔は、いつも教室の空気を明るくする。社交的な彼女の方が、私に付けられた名前がよほど似合うだろう。クラスで人気者の彩花だが「向日葵といると落ち着くんだよねーー」と、なにかと私と一緒にいてくれる。そんな彩花がそばにいると、私はちょっとだけ息がしやすいと感じる。唯一、このクラスであまり気を遣わない存在だ。
 「⋯⋯かわいいね」
 私は小さく笑った。今日、初めて発した声は自分でも頼りなく聞こえる。彩花は「でしょ! もう何回も見た!」とクスクスと笑いながら、スマホをポケットにしまった。そんな彼女の手首で、水色のビーズのブレスレットが揺れた。去年の文化祭で一緒に作ったブレスレットだ。私の手首にも控えめに着いている。お揃いのブレスレットをしてるけど、私のはビーズが一つ取れてる。それに気づいたときに、なぜか胸がちくりとした。
 「そういえばさ。向日葵、今日って美術部行くの?」
 彩花がカバンから弁当箱を出しながら私に聞く。蓋をパチンと開く音が、私の耳に軽く響いた。
 「ん? ううん。ちょっと顔出すだけだよ」
 私は曖昧に返事をする。実は美術部には入ってない。絵を描くのは好きだけど、誰かと一緒に何かするのは、なんだか窮屈だ。だから場所だけ借りている。
 「向日葵、どんな絵書いてるの? そういえば見せてくれたことないよね」
 スケッチブックは、私だけの世界。唯一安心出来る場所だ。彩花には言ったことないけど、そこに私の心の全てを描いている。悩みとか、葛藤とか、モヤモヤした気持ちを話したい! と、思う時もある。けど、言葉にしたら、全部が重くなりそうで怖い。腐っていても私はヒマワリだ。そんな感情は全部絵にしてスケッチブックに吐き出しているのだ。自分で自己完結してしまえばいいと思っている。
 「見てもつまらないよ。花瓶とか、リンゴとか」
 「ふーん。相変わらず向日葵はマイペースだねーー。私だったら見せびらかして褒められたいけど」
 彩花は笑って、おかずの卵焼きを口に放り込んだ。私も小さく笑みを返す。彼女の目は、私をじっと見るでもなく、でも私を見てる。私から無理に話を引き出さない。境界線をわきまえているというか、黙っているだけでも、私は居心地がいい。
 仲良くなったきっかけは去年、入学したての頃だった。ノートに何気ない落書きをしていた私に気がついた彩花が「逢沢さんって、なんか絵うまそう!」って話しかけてきてくれた。どこをどう見てそう思ったのかは謎だけど、キラキラと輝く笑顔に吸い寄せられるように、私は彩花に顔を向けた。愛嬌のある彩花は、私にとっての太陽みたいな存在だった。クラスメイトにも分け隔てなく接している。誰からも愛されるように振舞っていた。そんな姿に、自己肯定感の低い私は僅かばかり憧れを抱いた。私が初めて、この学校で「大丈夫かも」って思えた瞬間だった。
 中学生の頃からひとりが好き。本質は今も変わらないけど、教室でひとり浮いていては悪目立ちする。だから、高校受験は背伸びをしてレベルの高い高校を選んだ。中学の同級生はほとんど居ない。私は学んだんだ。花畑の中で、みんなと同じように振る舞わなければ平穏ではいられない。彩花だって「私ね、中学の時は友達少なくて⋯⋯」と零したことがある。気にするのは世間体。それから、爽やかな青春時代を過ごさなきゃってプレッシャー。そんなものに興味はないけれど、私を守るために擬態する必要がある。だから彩花と一緒に居ることが、いつも下を向いている私という存在を、このクラスに紛れ込ませてくれる。彩花の方を向き続ければ、平穏な学校生活をおくれる。ありがたい存在だ。そんな彩花との距離感が心地よかったはずなのに、今日は少しだけ違った。彩花の声に、ほんの少しだけ、焦った響きがある気がする。
 「ね、向日葵さ、週末なんだけど⋯⋯みんなでカラオケ行かない? クラスの子たち、めっちゃ向日葵のこと誘ってるんだよね」
 彼女の指が、弁当箱の縁をトントン叩いてる。ピアノを習っていた彩花の癖だ。いつもより速い。
 「⋯⋯カラオケか」
 私は一瞬、目を逸らした。みんな? クラスの子たち? 私には、その『みんな』がぼんやりしてる。友達じゃない、ただのクラスメイト。顔も名前も曖昧な分類は同じ生態系の仲間。彩花は友達が多い。気持ちはわかる。私が、その『みんな』と仲良くすれば、彩花の立ち回りも楽になるんだろう。いや、きっと彩花は優しい子だから、私がもっと社交的になれるよう手を差し伸べてくれているのかもしれない。私は、彩花のそばにいて安心するけど、時々、置いていかれるんじゃないかと、不安になる時もある。でも追いかけられるほど、私は強くない。臆病だ。
 「みんな向日葵と仲良くなりたいんだよ!」
 「私、行けるかな⋯⋯? 人見知りだし、絵、締切とかあるし」
 彩花の箸が止まった。ほんの一瞬、顔から表情が消えた。彩花は口角だけを上げた顔のまま口を開く。
 「えー? 向日葵もさ、たまには来なよ! 楽しいって! 絵もいいけど、ちょっと息抜きしない?」
 声は明るい。でも、私は気づいてしまう。彩花の言葉に、少しだけ冷たさが混ざっているのを。いつもなら、さっきみたいに「向日葵はマイペースだねーー」なんて言って、笑って流すのに。
 「⋯⋯うん、考えてみるよ」
 胸の奥が、なんだかモヤモヤとする。彩花が私を誘ってくれるのは嬉しい。でも、カラオケで笑ってる自分を想像できない。彩花の隣で、知らない子たちと歌って、ヒマワリの玩具みたいに体を揺らしながら踊って。そんなの、私じゃない。
 「よし、決まりね!」 彩花がパッと立ち上がり、別の子に話しかけに行った。「ねぇ、向日葵も来るかも!」彼女の笑い声が、教室のざわめきに混じる。私は、唇に触れた冷めた鯖の塩焼きをそっと戻し、弁当の蓋を閉じた。

 昼休みが終わっても、胸のモヤモヤは消えなかった。授業中も、先生の声が遠く聞こえる。そんな私の隣で、彩花はご機嫌に、ノートの切れ端に落書きしてるのがちらっと見えた。可愛らしいハートの絵だった。その落書きの下に文字を添えて、小さく折りたたむと、前に座る子の背中をペンで突っついた。誰か好きな人でもいるのかな? 私は持っているシャープペンをギュッと握りしめた。きっと彩花には、私に話したことない話しがたくさんあるんだろうな。別に私じゃなくても、それを聞いてくれる友達も沢山いるんだろうな。だけど私には、こんな本音を打ち明けられる場所はスケッチブックしかないんだ。

 放課後、私は職員室で美術室の鍵を借りた。「逢沢さんは、いつも真面目ね」と美術部顧問の先生が笑う。
 「入部する気はないの?」
 「えっと⋯⋯考えてみます」
 「逢沢さんみたいな真面目な生徒は大歓迎よ!」
 苦手だ。そもそも美術部とは名ばかりで、幽霊部員が数人在籍するだけ。顧問も滅多に顔を出さない。別に入ってもいいけど、今と何も変わらないのなら、めんどうは避けたい。
 私が放課後になると、生真面目に美術室に籠るのは、家に帰りたくないからだ。私は母親と二人暮し。父親は私が物心つく前に、出ていったと聞いている。そうなった理由はあえて聞かなかった。
 介護士をしている母は、今日は夜勤でいない。そんな狭いアパートの静けさが私には重い。それに母はいつも疲れた顔で、私に「勉強しなさい」と口煩く言う。それが母の愛情なんだろうけど。勤勉で、几帳面な母親らしい。そんな母が考えた名に恥じぬよう、ひとりでも真っ直ぐに上を向いて、背筋を正して太陽に顔を背けないように生きること! そんなプレッシャーも感じる。
 母にだって、母の人生があるはずなのに。私にはその母の言葉が「私のことはいいから」と突き放したように聞こえる。冷蔵庫の中で冷えたおかずの残り物と、母の書き置きだけが待つ家。考えるだけで、足が止まる。

 美術室の鍵に付いた小さな鈴をちりんと揺らしながら、足早に廊下を歩く。校舎の壁は色褪せ、遠くでバスケ部のボールが跳ねる。港町にある学校だから、鉄の錆びた匂いがする。
 美術室のドアを開けると、今度は絵の具と木材の匂いが鼻をついた。しんと冷えた教室に、案の定誰もいない。私はホッと息をつき、スケッチブックに向かった。
 やっぱり私はひとりが好きだ。
 パラパラと捲ったページの描きかけの絵。錆びたフェンスに、打ち寄せる波。鉛筆を握り、線を重ねる。波の白い泡。港の鉄骨。沖合に停泊する貨物船。線を描きながら、彩花の「息抜きしない?」と言った声が、頭の隅で響き、胸に重たい空気が沈む。
 息抜きって、何? 絵を描いてる今だけは、自分で居られる。今、私はやっと呼吸してる。それでいいと思えるのに。母の声も、彩花の笑顔も、それから教室のざわめきも。全部、ぜんぶ私の遠くに感じる。『みんな』と同じように咲いた方がいい。それは教室で嫌ってほど感じている。「みんなに認められたい」「共感してほしい」という欲求が磁石みたいにくっ付き合う世界だ。私には息苦しい。そんな疎外感の真ん中で、私だけが咲く色を間違えたのかな?『みんなちがって、みんないい』なんて、都合のいい綺麗事。本音を言えない私には、何も刺さらない。花屋の隅で萎んでる花を、誰も手に取らないでしょ? 『みんなおなじで、それでいい』って、きっちりと仕分けされた規律のとれた小さい世界で、私はひっそりと息をしているんだ。

 ──じゃぁ、私ってなんだろう?

 ガタッ。
 ガラガラとドアが開く音に、私は肩を震わせた。ゆっくりと振り返ると、背の高い人影が床に見えた。顔を上げると、立っていたのは雪宮奏叶(ゆきみやかなと)、隣のクラスの男の子だ。去年、私と彼は同じクラスだったから知っている。髪の毛はまだらな金髪で、私とは対照的に悪目立ちをしている存在だ。
 「雪宮には気をつけろ」「怒ると何するか分からないヤツ」そんな噂を教室で耳にしたことがある。実際、学校もサボり気味で、ワイシャツの上に羽織った黒いパーカーの袖が擦り切れている。目元には疲れた影があった。そんな彼が、美術室に用があるとは到底思えない。私の心臓が、急にドクンと鳴った。 「⋯⋯何か?」その言葉が口から出ずに、喉の奥に引っかかる。
 彼から見れば何も言えない私に「驚かせて悪い、忘れ物取りに来ただけ」 と、奏叶は低い声で言った。教室の一番後ろの机をゴソゴソと漁って、お目当てのものを見つけたようだ。私に隠すようにポケットにしまった。私も慌てて絵を隠そうとしたけど、イーゼルに置かれたスケッチブックに奏叶の目が止まってしまった。
 「それ、お前が描いたの?」
 私の喉がもっと詰まった。スケッチブックの絵は誰も見せたことがない。私の心を覗かれているようで恥ずかしい。
 「⋯⋯う、うん。」
 辛うじて出だ声は震えている。奏叶は眉を上げ、私の絵をじっと見た。
 「うわーー、めっちゃリアルだな。あそこの港だろ? 写真みたいだ」
 彼の声には、笑いも嫌味もなかった。 私の絵を素直に褒めてくれるのがわかる。私は咄嗟にスケッチブックから目を逸らす。思いがけない賛辞に、恥ずかしさで頬が熱くなっていた。
 「⋯⋯そんなこと、ないよ。適当に描いただけだもん」
 奏叶は小さく鼻で笑った。
 「適当に描いて、こんなにリアルに描けるなら、それはそれですげぇじゃんか!」
  彼はふんふんと頷き終えると、ポケットに手を突っ込み、くるりとドアに向かった。それから、思い出したようにフッと立ち止まって振り返る。
 「お前さ、いつも絵描いてんの?」
 「えっ⋯⋯たまに、だけど」
 私は曖昧に答えた。なんで彼と話してるんだろう? それに奏叶みたいな奴が、私に話しかけてくるなんて意外すぎる。
 「ふーん。⋯⋯なんかいいな、それ。なんて言うか、自由っぽくて羨ましいわ」
 奏叶の目は一瞬、遠くを見た。私は彼の発したその言葉に、なぜか引っかかった。自由かな? 私にとって絵は逃げ場だ。確かにスケッチブックは、窮屈な世界のなかにある私の小さな秘密基地だけど。生きていて、常に息苦しさを感じている私に、自由って言葉はいまいちピンとこない。
 「じゃあな」
 黙り込んだ私にひらひらと手を振る奏叶は教室のドアに手をかけた。
 「雪宮くんが、学校にいるなんて珍しいね」
 私は、思わずその背中に聞いてしまった。自分から話しかけるなんて。それを言った後に、こんな大胆な行動をした自分に驚いて後悔した。絵を褒められてテンションがおかしくなっていたんだろう。口元が引き攣っている。私の方を振り返った奏叶は少し黙って、肩をすくめる。それから、苦笑いを浮かべた顔で口を開いた。
 「んー⋯⋯バイトのシフト変わって、暇だっただけ。家、あんまりいたくねえし」
 最後の言葉は小さく、まるで自分に言い聞かせるみたいだった。 聞いてはいけないことを聞いてしまったかな? と、私の胸がちくりと刺された。でも「家にいたくない」と、奏叶か発したその一言が、私の心をくすぐった。あの冷たいアパートの静けさと、母の疲れた背中が脳裏によぎる。私と同じように、奏叶も何か抱えてるんだろうか。奏叶も私と同じなのかな?
 「⋯⋯わかる、かも」
 私はぽつりと呟いた。その小さい声に、奏叶が「ん?」と顔を傾けた。
 「家ってさ、なんか⋯⋯重いよね」
 私の言葉を最後に、静寂が美術室を包んだ。
 奏叶はしばらく私をじっと見て、口元に微かな笑みを浮かべた。
 「ハハッ。逢沢、お前って変な奴だな。⋯⋯嫌いじゃないけど」
 彼はそう言って、美術室を出て行った。
 また教室に静寂が戻る。
 ふぅーーと息を吐き、私はキャンパスの絵を見つめた。
 奏叶の言葉が、頭に残る。
 「自由か⋯⋯」
 この窮屈な世界で、自由なんてあるんだろうか。自由は不自由な中にあるって言うけど、私にはどうも腑に落ちない。不自由に押しつぶされそうになって、消えてしまいたいなんて思うのに。


 ♢


 あれから数日が経過しても、美術室の静けさの中にいるといやでも思い出してしまう。小さな針が刺さったように、ちくりと私の胸にまだ残っている。奏叶と交わした会話が頭の中でぐるぐるする。今日は集中できかった。
 「変な奴って⋯⋯私は普通なのに」
 私は唇を噛み、美術室の鍵を閉める。相変わらず、廊下の錆びた匂いが鼻をつく。日も落ちて外はもう暗くなってしまった。遠くに見えた港の灯りが、冷たい風に揺れている。
 「⋯⋯家に帰りたくないな」
 今朝も「今日は夜勤だから」と、母は朝食と一緒に冷蔵庫におかずをつめていた。きっと熱の冷めた部屋とおかずだけが、今日も私を待っている。あの場所に帰ると思うとやっぱり足が止まる。でも、他に行くところなんてない。

 ふらふらと歩きながら、気がつくとコンビニの白い蛍光灯の下にいた。頭を空っぽにしたまま、随分と歩いた気がする。お腹が空くのは自然の摂理だ。家にある冷えたおかずよりはましかな。コンビニに入り、私はカップ麺の棚をぼんやり眺めた。
 今日も彩花は「向日葵、いつカラオケ行こうか!? みんなと行ったら絶対楽しいから!」 と誘ってきたけど、私は「ごめん、締切あるから」と言って誤魔化した。そんなの嘘だ。コンクールに出すわけじゃないのに、私の絵に締切なんてない。ただ、何度想像してみても、彩花の言う『みんな』と笑う輪の中に、どうしても自分がいるイメージが持てなかった。彩花はいつもキラキラしてる。出会った頃からずっと変わらない。今の私には、それが眩しすぎる。顔を背けたくなる。左の手首のブレスレットが重たい。

 「あれ? 逢沢、こんな時間にどうした?」
 背後からの声に、私は肩をビクッと震わせた。振り返ると、気だるそうな奏叶が立っている。後ろの壁に掛けられた店内の時計は、夜の十時を指していた。
 「そっちこそ」
 奏叶の金髪が蛍光灯でぎらっと光った。パーカーの袖は相変わらず擦り切れてる。
  「⋯⋯別に、ちょっとぶらぶらしてるだけ」
 私は適当なカップ麺を手に取り、目を逸らした。ドキドキと心臓がうるさい。なんでまたこいつに会うんだろ?
 「私も、ご飯を買いに来ただけ」
 制服姿の私を一瞥した奏叶は「ふーん」と言い、レジに向かうと棚のタバコを指さした。店員と親しげに話す彼の声は、妙に落ち着いてる。背も高いし、大人びている雰囲気に店員も疑いすらしていない。タバコ、吸うんだ⋯⋯。「彼は未成年です!」と騒ぎ立てるほど、私にも変な正義感なんてない。それに、奏叶ならなんか納得だ。私は知らぬフリをして自分の買い物を済ませる。店を出ると、フーッと口から電子タバコの煙を吐きながら、奏叶がこっちを振り返った。
 「家に帰りたくねぇの?」
 「別に⋯⋯、そろそろ帰るし」
 奏叶は私の顔色を伺いながら、見透かしたように笑った。
 「なぁ。暇ならさ、お前の描いてたとこ行かない?」
 私は一瞬固まった。 今から? もう高校生が出歩いてちゃいけない時間だ。それに、私は制服のままだし。そんな不良みたいな事をしたことも無ければ、放課後に誰かと出かけたことなんてない。それでも、私の口から零れた言葉は一言。
  「⋯⋯うん」
 無意識にそんなことを言った自分に驚いた。ふたりでどこかへ行くなんて、彩花ともしたことないのに。

 その港は、コンビニから数分の場所にある。私の家もすぐ側にあり、見慣れた景色だ。何かあれば家に帰る途中と言い訳しよう。港に隣接された公園の、錆びたフェンス沿いのベンチに座ると、スカート越しでも冷たさが滲む。もうすぐそこに迫った冬の夜 。びゅうびゅうと吹く海風が頬を刺す。私は、ハァーっと白い息を手に吹きかけた。
 奏叶が袋から缶コーヒーを取り出し「ほら」と私の手に投げた。私は慌てて受け取ったけど、指が冷たい缶にさらに震えた。温かいのじゃないんだ、と奏叶を見上げたが、彼は缶を開け、お構い無しにグビっと飲んでいる。
 「逢沢ってさ、絵の道に進むの? なんかガチで描いてるじゃん」
 彼がぽつりと言った。
 私は持っていた缶をギュッと握りしめた。ガチ? 絵は私の逃げ場なだけで、そんなに深く考えて描いていなかった。
 「聞いてる?」
 私は急いで言葉を並べた。
 「⋯⋯将来なんてわかんない。絵は好きだけど。これでどうなるかなんて、全然思えない」
 「なんだよ。お前さ、画家になるのが夢なのかなって思ったのに」
 「ううん、違う。絵を描いてると素直になれるだけ」
 奏叶は不思議そうに私を見ている。だけど、それ以上は何も聞かない。奏叶も彩花と同じように、私の境界線が見えているようだ。距離感が丁度いい。
 私はどこか安心して、ついポロリと本音を漏らしてしまった。
 「でも、いつかこの街からは出たいかも。私を誰も知らない街で、ひっそりと生きてたいかな」
 奏叶はくすりと小さく笑った。
 「うそ? 俺も同じこと考えたことある。バイトして、金貯めて⋯⋯でも、どこ行くんだよって話なんだけどな。母さんのこと、放っとけねえし」
 そう言った奏叶の声には、僅かに苛立ちが滲む。
 私は思わず聞いてしまった。
 「雪宮くんの家って⋯⋯なんか、あるの?」
 聞いた手前、声が震えた。やっぱり聞いてはいけない気がした。
 缶コーヒーを口に運ぼうとした奏叶の手がピタリと止まる。波の音に紛れて、私の心臓の鼓動がうるさく聞こえる。
 「言いたくなかったら無視して⋯⋯」
 「⋯⋯父親がクズだっただけ。借金残して消えて。それに母さんが体弱くてさ。今は二人きり。ま、別にいいけど」
 私に気を遣ったのか、乾いた笑いと一緒に奏叶は軽く言った。だけど、彼の目は重たく沈んで海の向こうを睨んでる。
 「ごめん⋯⋯」
 聞いてはいけないことを聞いてしまったと、私は謝罪した。
 「別にいいよ。隠すことじゃない」
 奏叶の父親はトラックの運転手をしていたらしい。娯楽の少ない街だ。ギャンブルと酒に溺れて、ろくに会話も無かったという。気がついた時には奏叶の前から姿を消したと話してくれた。私も父親がいないけと、鮮明に記憶があるわけじゃない。奏叶は堕落していく父の姿を傍で見てきたんだ。話す表情からも、深い憎しみが滲み出ている。簡単じゃなかったと思う。
 「だけど、雪宮くんがひとりで背負うことじゃないよ。雪宮くんのせいじゃないんだから」
 「まぁ、あんな親父のとこに生まれてきちゃったんだから仕方ない。恨んだところで、もう何も言えねぇし」
 私の胸の鼓動は波のようにすっと引き、今度はギュッと締め付けられた。頭に母の疲れた顔が浮かぶ。体力勝負の介護士の仕事。それに稼ぎがいいからと夜勤の連続。私には、母の人生がわからない。私のために一生懸命なのは感謝している。感謝はしてるけど、母といるあの空間は息が詰まる。私がいなければ、母はもっと楽に生きれたんじゃないか? 私を鬱陶しく思っているんじゃないか? そんな自己嫌悪に陥る時もある。
 「⋯⋯私もひとり親なんだ。でもお母さんと話せない。いつも仕事で⋯⋯。口を開けば勉強しろ! ちゃんと大学にいけ! ってそればっか。私の事なんて見てないんだと思う。私の話なんか聞いてくれないだろうし⋯⋯」
 私の声はだんだんと小さくなる。 母にぶつかるのは怖い。本音なんて口が裂けても言えない。
 奏叶が私を見つめた。まっすぐ。静かに。
 「それ、キツいな。⋯⋯でも、わかるよ。家って、安心できる場所のはずなのに。なんか重いよな」
 その一言に、私の目頭が熱くなった。私とおなじ人がいる。泣くつもりなんてなかったのに。慌てて缶コーヒーのプルタブを開け、口元に運んだ。彼から顔を逸らしたかった。奏叶は何も言わず、隣にいてくれた。海風が髪を揺らす。彩花のキラキラした笑顔とは違う。奏叶は月みたいに静かに笑う。似ている私たちにしか分からない安心をくれる。ぽろぽろと涙があふれた。こんな気持ちを私は知らない。私と同じ方を向いている花も咲いているんだと知った。
 「あーーごめん、俺ハンカチとか持ってないわ」
 私は制服の袖で頬を拭った。
 「うん、知ってた」
 「あと女の涙に慣れてない⋯⋯」
 奏叶は気まずそうに空を仰ぎ、私を見ないようにしている。それからどんよりと雲で霞む空を見上げたまま、私に言った。
 「お前の絵、俺は好きだよ」
 「えっ?」
 「頭悪いから、上手いこと言えないけど。俺の心には響いた」
 否定されるのが怖くて、隠してた私の心を奏叶は認めてくれた。私はそれが嬉しくて、にやけてしまいそうな顔を袖で隠す。
 「うわ、言ってて俺が恥ずかしいわ」
 奏叶も、顔を手で覆っている。
 「あのさ、また話聞いてくれる?」
 「俺でよければ」
 奏叶はまた優しく笑ってくれた。

 それから、私たちはよく話すようになった。放課後の美術室、それから港の公園で。奏叶は私のスケッチブックの絵を褒めてくれて、私は彼のバイトの愚痴を聞いた。共鳴していく私たちの心に、感じたことの無い安心を覚える。この時間は特別だった。


 でも、全部が上手くいくわけじゃなかったんだ。


 ♢

 「ねぇ、帰りにカフェ寄ってかない?」
 「ホワイトチョコの新作今日からだっけ? 私も飲みたかったの!」
 「だよね!? 飲むなら初日だよね! 行こ」
 私は賑わう放課後の隅で、机からスケッチブックを取り出しカバンにしまっていると、先に帰り支度を済ませた彩花が私を見下ろしていた。
 「向日葵さ、今日も美術部?」
 「うん」
 「そっか、最近なんか忙しそうだよね。また締切におわれてるの?」
 声は明るいけど、目が私を探ってる。
 「うん、ちょっと⋯⋯」
 彩花は「ふーん」と笑う。その笑顔が、いつもより硬い。
 「ね、向日葵。カラオケの約束、わすれてないよね? みんな、向日葵のこと待ってるし。行こうよ」
 彩花の指がビーズのブレスレットをいじる。私は咄嗟に目を逸らす。その仕草に、私たち友達でしょ? と無言の圧を感じてしまった。
 「⋯⋯うん、考える」
 彩花はフンッと鼻を鳴らして、皮肉に笑った。
 「考えるって。またそれ? 向日葵ってさ、いろいろ隠すよね」
 「えっ?」
 「私見たんだよね。港の公園で、雪宮とは放課後会ってるくせに。私の誘いは断ってばっかり」
 「違う、偶然会って、それで」
 彩花はニコッと顔を作る。それでも目だけは笑っていなかった。
 「へーー。偶然なんだ。でも放課後にそんな時間あるならさ、みんなとも遊べるよね?」
 胸がモヤモヤする。だから『みんな』って、誰? 彩花の『みんな』の中に、もう私はいない気がする。でも私は取り繕って、うなずきはした。
 「何にも言わない向日葵から距離感じるんだよね。別に、嫌ならもう来なくてもいいけど」
 彩花は捨て台詞を吐いてくるりと背を向ける。
 積み上げてきた積み木が、支柱を抜かれてガラガラと音を立てて崩れた。咄嗟に何か言わなきゃと思っても、私の脳は処理に時間がかかる。すぐに言葉が出ない。小さい頃から、頭の中の選択肢から最善の言葉を選ぶ癖がついてしまっている。まっすぐな向日葵を演じる上で大事だったからだ。「彩花との友情は大事だよ」って安直に言えればいいのに、私は最適な答えを出せずにフリーズしたまま、その背中を見つめることしか出来ないでいた。仮に『みんな』と友達になったとする。学生時代の友達は一生の宝物だよね! って思い出なんか作って。
 じゃぁ、その先ずっとそうなの?
 ずっと『みんな』でいるメリットって何?
  そんな綺麗事を抜きにしたら人間関係って損得でしかないとさえ思う。もうこの教室には、私の安息は無くなってしまった。

 次の日、登校すると教室で誰かが囁くのが聞こえた。
 「逢沢、あの雪宮と付き合ってんの? やばくね?」
 「逢沢さんって、真面目そうに見えてあんな不良が好きなんだね」
 「頭の中お花畑だよ。だって名前がさーー」
 胃がキリキリとした。
 どういうこと? 彩花が変な噂を流した? まさか。
 でも、疑いが頭を離れない。あの彩花の笑顔がフッと頭をよぎる。教室の隅で、彩花は知らぬ顔でみんなと談笑している。クスクスと笑う顔が、全部自分に向いているんじゃないかと錯覚に陥る。
 「彩花が逢沢さんのこと誘っても来なかったもんね」

 「彼氏の方が大事なんじゃない?」
 彩花は同調するように、愛想笑いを浮かべている。
 ほら、これが『みんな』の得なんだ。『みんな』で私を標的にすれば自分に向くことの無い損から逃げられる。ばかばかしい。でも、私も人間だから心はある。四方から刺さる視線に耐えられなくなって、そのまま教室を飛び出してしまった。

 行くあてもないまま、気がついたらあの公園にたどり着いた。
 公園のシンボルにもなっているタコの滑り台の影に身を潜めて、日が落ちるのを待った。頃合いを見て家に帰ると、母がキッチンに立っていた。今日は珍しく夜勤じゃないようだ。顔を合わせたくなかったな⋯⋯。そんな私の気持ちとは裏腹に「向日葵、早かったね。勉強、ちゃんとしてるの?」 と相変わらず、耳障りな声が私に刺さった。その母の声はやっぱり疲れている。私は「うん」とだけ答え、冷蔵庫を開けた。昨日食べなかったおかずがそのまま残っている。ゴミ箱には、コンビニで買ってきたカップ麺の容器。きっと母もそれを見ただろうけど、何も言わない。怒ればいいのに。まな板の上の野菜を切りながら、冷静な声で「そろそろ進学のこと、ちゃんと考えなさいよ。大学出て安定した仕事を選ばないと」と続けた。腹の底からジワジワと怒りが沸き上がる。ほら、私に興味なんてないんだ。いい子ちゃんの向日葵しか見てないんだ。

 「お母さんって、⋯⋯夢とかなかったの?」
 「そんなの無いわよ。早くに結婚して、あなたを産んで。仕事が忙しかったから」
 「そっか⋯⋯」

 ──お前の絵、俺は好きだよ。

 奏叶の言葉を思い出した私は、ギュッと拳を握った。
 「私、絵を描くのが好きなんだけど。好きなことを追いかけたい。美大とかじゃ⋯⋯ダメなのかな?」
 私の言葉に、母は手を止めて黙った。それから疲れた顔で私を見つめる。
 「絵なんて趣味でも描けるでしょ」
 私は鞄からスケッチブックを取り出して、あの絵を広げた。
 「ほら、これ私が描いたんだよ! 上手いって褒めてもらったし」
 「褒めたって、言っても素人でしょ? ⋯⋯それに、絵で食べていけると思うの? 現実見なさい」
 「お母さん⋯⋯私の事、ちゃんと見てる? 見てないよね」
 「馬鹿なこと言わないで。あのね、向日葵。昔から、あなたは素直な子だったはずよ。まっすぐに正しい道を歩きなさい。冷静に考えたらわかるよね?」
 私は唇を噛み、母を睨みつけた。
 「わかんないよ! 私も、お母さんもわかんない! 私はお母さんの何なの?」
 「⋯⋯向日葵?」
 「こんな名前で生まれてこなきゃ良かった⋯⋯」
 きびすを返し、自分の部屋のドアを力いっぱいに閉めた。バタンと激しい音が部屋に響く。机にスケッチブックを開いて、感情に任せて握りしめた鉛筆で黒い線を殴り書いた。誰も私を知らない。誰も私の事なんか見てない。何度も、何度も繰り返し、バキッと芯が折れてようやく手を止める。それからベットの枕に顔を埋めて、グチャグチャな感情を声に出さずに叫んだ。

 気がつくと部屋の電気は消えたままだった。暗い部屋のカーテンの隙間から、港の街灯がぼんやりと差し込む。泣き疲れて少し眠ってしまったみたいだ。部屋を見渡すと机の上のスケッチブックは、さっきの黒い線でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。鉛筆は折れた先を下にして転がっている。制服のままベッドに突っ伏したから、スカートがシワになっている。そんなことなんて気にならないくらい、胸の奥がまだモヤモヤと重たい。

 「向日葵はまっすぐで素直な子」
 「向日葵ってさ、いろいろ隠すよね」
 「頭の中までお花畑だよね」

 ──五月蝿い、うるさい。ウルサイ。

 母の疲れた顔と、彩花の冷たい笑顔と、薄ら笑を浮かべた教室の囁き。全部が頭の中でぐるぐるして、どれが本当の自分なのかわからなくなる。

 ──私って何? 私って誰?

 「向日葵なんて、名前負けだよ⋯⋯」
 自分は、ただの陰日向に咲く存在なんだ。唇からぽつりと零れた言葉は、暗い部屋に吸い込まれた。
 暗闇の中で目をつむると、瞼の裏に港の波がしぶく。あの錆びたフェンスと、冷たく吹きつける風に揺れる髪。それと奏叶の優しい笑顔。
 「お前の絵、俺は好きだよ」
 どうして奏叶の言葉だけ、こんなに胸に刺さるんだろう。絵を描く事を、私は誰かに認められたかったわけじゃない。見せたかったわけじゃない。絵は私の逃げ場で、それでいいと思ってたのに。偶然見られてしまった絵を褒めてくれた奏叶の言葉で、私は欲をかいてしまった。共感されたことが嬉しかった。諦めなければ夢は叶うなんて言うけど、私も⋯⋯。いや、この現実を見れば私にはスタートラインに立つ資格も無いのかもしれない。

 翌朝、鏡の前で髪を()く手が止まる。腫れた目の下に、うっすらクマができている。今日は早番のシフトのようで、母はもう家を出ていた。キッチンにはいつもの書き置きと、ラッブで包まれた小さいおにぎりが二つ。冷蔵庫には昨日作っていたおかず。ダイニングテーブルに置かれたメモには、母の几帳面な文字で『ちゃんと朝ごはん食べなさいね』とだけ。花瓶に生けられたヒマワリの造花が憎い。それを見ると、胸がちくりとする。いつも見てるよ、と。当てつけみたいに置かれた造花。これも母親の愛情なんだろうけど、やはり遠く感じる。そっと壁の方に花瓶を向けた。造花は影を見ている。
 私は、本当はきっと天邪鬼なんだと思う。高校だって、大学だってお金が掛かる。あの疲れきった母の表情に、私は我儘にはなれない。美大の授業料を調べて、愕然とした。高校まではちゃんと卒業して、働くこと。それが今思いつく限りの親孝行だろう。頭では分かっていても、どこか心が認めない。

 学校に向かう足取りは重たかった。鞄に入れたスケッチブックも重く感じる。案の定、教室の空気が昨日よりも刺々しくなっていた。噂は水面に広がる波紋のようで、誰かが囁けば、別の誰かが笑い、それから視線が私に突き刺さる。彩花はいつものようにクラスの輪の中心で笑ってるけど、私を見ようともしない。
 「逢沢さん、彼氏と夜な夜な会ってるらしいよ」
 「真面目な子ほどさ、本性隠してるんじゃない? 逢沢さんあんまり喋んないし、何考えてるか分かんないよね。夜に会うってことはさ⋯⋯」
 「えー、やだやだ。想像したくない」
 わざと私に聞こえるように話すクラスメイトは、何を信じているんだろう。彩花が噂を流したって確信があるわけじゃない。でも、彼女の冷たい笑顔が頭から離れない。私は机に突っ伏して、耳を塞いだ。

 放課後になると、すぐに私はスケッチブックを抱えて美術室に逃げ込んだ。美術室の静けさはいつもと同じなのに、今日は息が詰まる。鉛筆を握っても、線が震えて上手く描けない。ぐちゃぐちゃの黒い線にしかならない。その線が、ぼんやりと形を変えて「向日葵なんて、名前負けだ」と、暗い部屋で呟いた言葉が浮かぶ。からんからんと乾いた音を立てて、鉛筆が床に転がった。私の絵を描く手が止まる。スケッチブックは私の逃げ場だったはずなのに。今はそこにも居場所がない気がした。

 その夜、気がつくと港の公園にいた。ベンチに項垂れるように座り、ため息をつく。冷たい海風が頬を刺す。温かい缶コーヒーを握りしめ、目を閉じて波の音に耳を澄ます。ブブッとスマホが震え、画面を確認する。奏叶にすがるように送ったメッセージにようやく既読が付いた。制服の袖で目を擦ると、泣いたつもりはないのに目元が濡れてる。

 「よお!逢沢。こんな時間にどうした?」
 暫くすると、奏叶がやって来た。その声に項垂れていた顔を上げる。奏叶は擦り切れたパーカーのポケットに手を突っ込んで、気だるそうに笑ってる。
 「聞いてほしいことって?」
 「⋯⋯学校、なんか嫌で」
 その声は震えていた。自分でも情けないと思う。強がるくせに弱くて、ひとりが好きなくせに、都合よく人にすがる。
 奏叶は隣に腰を下ろし、電子タバコの煙を吐き出した。奏叶は海の向こうを見つめたまま言葉を吐いた。
 「あーー。もしかして、あの噂? 俺とお前が付き合ってるってやつ?」
 私はハッと驚いた。奏叶も知ってるんだ。胸が締め付けられる。彩花が噂の発端なら、私のせいで奏叶まで変な目で見られてるのかもしれない。
 「ごめん、雪宮くん。私が⋯⋯」
 途中で言葉が詰まる。奏叶は小さく鼻で笑った。
 「別にいいよ。俺、いろいろ言われるの慣れてるし。噂なんて、放っとけばそのうち消えるだろ」
 彼の声は軽いけど、どこか投げやりだ。私はやっぱり唇を噛む。そう言った彼の言葉が、本心かどうかもわからない。私たちは似た者同士だと思っているけど、唯一すがった奏叶も少しだけ遠くに感じる。でも、奏叶がそばにいてくれるだけで、胸のモヤモヤは少しだけ薄れる。どうしてだろう?
 私は焦っていた。生きることも、考えることも。
 「全部、もうぜんぶ嫌になったの」
 スケッチブックにも拒絶された本音が零れた。
 「ぜんぶって⋯⋯逢沢、お前、絵もやめる気なの?」
 突然の質問に、目を見開く。スケッチブックを握る手が震える。
 「⋯⋯わかんない。絵は好きだけど、最近、描いてても楽しくなくて。描くの怖くて。」
 また本音がぽろっと零れる。奏叶は黙って私の言葉を拾ってくれる。波の音だけが、ふたりの静寂を埋めていた。
 「私なんかが、夢なんて見ちゃいけないんだよ」
 十七歳の向日葵には絶望だけが残った。
 「俺さ、お前の絵見てさ、このつまんない景色がちょっとマシに見えたんだよ。そこの錆びたフェンスとか、灰色の海とか、見てると虚しくなるんだよ。終わってく、みたいな街に未来なんか見えなくて。でもさ、全部お前の絵を通すと、なんか⋯⋯生きてるみたいに感じた」
 彼の声は低くて、不器用なりに真剣に伝えようとしている。
 私はごくりと息を呑む。「上手いね!」とか上っ面な感想じゃなく、こんな風に絵を認められたことなんてなかった。
 「やめんなよ、逢沢。逃げ場でもなんでもいいよ。描けよ。お前の絵は、お前そのものだろ?」
 奏叶の言葉が、胸の一番奥に刺さる。膝に置いたスケッチブックをギュッと抱きしめた。涙がこぼれそうになるけど、それをグッと堪えた。けど、私はやっぱり疑心暗鬼な天邪鬼だ。
 「だったらさ。そう言うんだったらさ、雪宮くんも、未来を諦めないでよ⋯⋯」
 「え?」
 「私にばっかりいいこと言って、雪宮くんは逃げるの?」
 私の言葉に、奏叶の目が一瞬、揺れた。いつも気だるそうに海を見てる彼の顔が、初めて何かを見透かされたみたいに強張る。いつもの缶コーヒーを握る手が、微かに震えている気がした。
 「逃げるって⋯⋯何だよ、それ」
 彼の声はもっと低く、どこか刺々しい。でも、私は目を逸らさなかった。自分でも驚くほど、言葉が喉から滑り出る。
 「だって、雪宮くん自身はどうなの? お母さんのこともさ、ひとりで全部背負って。仕方ないって諦めて。雪宮くんが生きてく未来のこと考えないでいるのって、現実から逃げてるんじゃないの?」
 心臓がうるさい。こんな大胆なこと、生まれて一度だって言ったことない。奏叶は黙ったまま、電子タバコの煙をゆっくり吐き出す。海の向こうを睨む目は、さっきよりも暗く沈んだ。

 「⋯⋯お前って、ほんと嫌な奴だな」
 やっと奏叶が口を開いた。
 「逃げてる⋯⋯か。まあ、図星かもな。ふたりで生活する金を稼ぐだけで精一杯で、未来とか考える余裕ねえよ。この街で腐っていくだけでも、悪くないかなって思ってるし」
 その言葉に、胃をギュッと掴まれたように苦しくなる。私と同じだ。諦めることで、傷つかずに済むと思ってる。私も、スケッチブックの中に閉じこもって自分を隠してきた。でも、奏叶の言葉が、私の中に小さな火を灯した。逃げ場だった絵が、誰かに届くかもしれないって希望を持ってしまった。 未来に夢を見たけど⋯⋯。
 「雪宮くんがそう思うなら、私も絵を描くのやめる」
 「は?」
 「だってズルいもん。雪宮くんが私に夢を見せたんだよ。知らない感情を教えたんだよ。知らなきゃ傷つかなかったのに」
 自分でも何を言ってるのかわからなかった。頭で考える前に、感情に任せてポロポロと口から零れていく。ただ、奏叶が自分に対して投げやりになるのが嫌だった。
 「人のせいにするなよ」
 「私の絵が私のものなら、奏叶くんの人生は、奏叶くんのものだよ!」
 奏叶の目が、初めて私を睨みつける。
 「お前に俺の何がわかんの?」
 「わかるよ。だって私たち似てるもん」
 ガン! と音を立ててベンチが揺れる。奏叶の拳がベンチを突き刺すように振り下ろされた。
 「俺とお前は違うだろ」
 威嚇するような目つきで、奏叶は冷たく突き放す。
 「だって⋯⋯」
 「あーー。お前、ウザイんだよな。ちょっと気を許せば友達ヅラして。綺麗事を振りかざして説教なんて。気分が悪いわ」
 奏叶の言葉は、冷たい海風よりも鋭く私の胸を切りつけた。ベンチの軋む音がまだ耳に残り、彼の睨む目が私の心臓を締め上げる。『友達ヅラ』その一言が、頭の中で何度も反響する。私が彩花に感じていた感情に似ている。奏叶の踏み込まれたくない境界線を踏んでしまったのだ。奏叶と似てると思ったのは、私の一方的な勘違いだったのかもしれない。 私はスケッチブックをぎゅっと抱きしめ、ベンチから立ち上がった。
 「⋯⋯ごめんなさい。余計なこと、言った」
 声が震える。泣きたかったけど、涙はもう枯れてるみたいだ。奏叶は私を見ずに、無視して電子タバコの煙を吐き出した。海の向こうをじっと睨む彼の横顔は、さっきまで感じていた安心をずっと遠くに押しやる。怖い。私は逃げるようにくるりと背を向け、港の公園を後にした。

 ベットに突っ伏しても、いつまでも眠れなかった。奏叶の言葉がずっと頭の中でこだましている。「友達ヅラ」「ウザイ」何度も繰り返される。それに、あの鋭い目つきと、ベンチを叩いた拳の音が忘れられない。オオカミに睨まれて怯えたウサギみたいに、私は布団の中で今も震えている。後悔はそれだけじゃない。私がいちばん忌み嫌う綺麗事を、奏叶にぶつけてしまった。彼に何を期待してしまったんだろう。結局、私には何も無くなってしまった。友達も、安心も、唯一の居場所すらも。それもこれも自分で撒いた種だ。

 次の日、私は学校を休んだ。
 部屋のカーテンを閉め切ったまま、無気力にベッドに横たわっている。港の汽笛が、時折ぼんやりと聞こえる。
 携帯の画面は暗いままで、誰からの通知もない。彩花からのメッセージも、奏叶からのメッセージも、もちろん来ていない。来るはずもないか。私は彩花にも、奏叶にも友達ズラをしていたんだから。
 床に投げ出されたスケッチブックは、黒い線がぐちゃぐちゃに絡まったページが開いていた。この絵は私の心そのものだ。解けることなく、どこにも進めない。

 「もう。消えちゃいたいな」

 夕方には母親が帰ってきてしまう。
 学校を休んだことを知られては、あとあと面倒くさい。
 私は制服に着替えて、そっと家を出た。
 あの公園の近くを通らないように、わざと遠回りした。もしかしたら居るかもしれない奏叶の顔を見たくなかった。いや、見るのが怖い。
 パッと思いついた港の先端にある灯台の影に身を隠すことにした。
 灰色の空を映した海は、どこまでも深く感じる。楽になるのなら、このまま飛び込んでしまうのもいいな。私なんか消えたところで、誰も困らないし。ふらふらと防波堤の先に立ち、つま先を揃えた。
 大きく息を吸い込んで、目を閉じる。

 「よぉ、逢沢。そこ、思ってるより浅いからな」

 心臓がドクンと跳ねる。振り返ると、奏叶がいつもの擦り切れたパーカーと、港の漁師がよく履いているサロペット姿で立っていた。電子タバコを手に、気だるそうに笑ってる。私は一瞬言葉に詰まり、ペタンと地面に尻もちをついた。
 「⋯⋯なんで、ここにいるの?」
 「これからバイト。んで、さっき学校行ったらお前が学校休んでるて聞いたけど、港で見かけて」
 「そっか⋯⋯」
 「俺たちの噂、めっちゃ広まってんぞ。ウケるよな、昨日の喧嘩見せてやりたいよな」
 ケタケタと笑う奏叶に、拍子抜けしてしまった。
 ため息をひとつ吐き出すと、奏叶は私のずっと遠くを見つめた。
 「別に止めないけど、楽になりたいんならあっち」
 奏叶はテトラポットが積まれた方を指さす。
 「違うっ⋯⋯海を見てただけ」
 「そっか、珍しい魚でもいたか?」
 微笑む奏叶は少年のような顔で、昨日の鋭い顔つきはどこかに忘れてきたのか? と、不思議な顔をする私に、少し照れくさそうに言った。
 「⋯⋯なあ、逢沢。昨日は、キツイこと言って悪かったな」
 私はハッとして彼を見上げた。奏叶は海の方を向いたまま、眉を少し下げてる。いつもの気だるい雰囲気とは違う、どこかぎこちない表情だ。落ち着かないのか、頭を掻きむしっている。
 「ウザイとか、友達ヅラとかさ。⋯⋯わりぃ。言いすぎた。お前、別にそんなんじゃなかったよ」
 心臓がまたドクンと跳ねる。謝られるなんて思ってなかった。胸の奥で何か熱いものが込み上げてくるけど、私はそれを押し込めるように首を振った。
 「ごめん。私の言い方も悪かったし。雪宮くんの気持ち無視して、勝手に踏み込んだ」
 「いや、お前が言ったこと、間違ってなかったし」
 奏叶は小さく笑い、電子タバコをポケットにしまった。
 「俺、確かに逃げてた。未来とか考えるのめんどくさくて投げ出してた。お前に図星つかれて、ムカついたんだ」
 「私も、逃げてるんだ。絵を描くのだって、現実から目を背けるための逃げ場所だった」
 私の声は小さく、波の音にかき消されそうだった。奏叶は黙って聞いている。奏叶の視線が海から私に移った気がしてたけど、私は項垂れて下を向いたまま、顔を向けられない。
 「雪宮くんが私の絵を好きって言ってくれて、初めて⋯⋯逃げ場じゃない何かが見えた気がしたの。私の絵も誰かに届くかもしれないって、欲が出ちゃった。けど⋯⋯」
 「けど、なに?」
 素直に気持ちを言葉にしたら、恥ずかしさが込み上げてきた。同時に胸が熱くなり、視界が滲む。
 「私なんかが、おこがましいよね」
 奏叶はしばらく黙ってから、ポツリと言った。
 「この世界って綺麗事で塗りつぶされてるけどさ。お前は、もっと我儘でいいんじゃない? 」
 「えっ?」
 顔を上げると、奏叶は優しい顔をしていた。
 「 つまんない綺麗事なんて、お前の色で塗り替えちゃえばいいよ」
 その一言が、胸の奥にじんわりと染みた。泣きそうだったけど、グッと堪えて、無理やり口角を上げる。
 「私の色⋯⋯」
 「くすんでたって、濁ってたって。お前が好きならそれでいいんじゃね? 絵のことわかんねぇけど」
 「じゃあ、雪宮くんも未来のこと、ちょっとだけ考えてよ。私も我儘になるの怖いけど⋯⋯雪宮くんと一緒に逃げないように、頑張ってみるから」
 奏叶は、清々しくニカッと笑った。
 「俺は、もう全部壊してきた! ついでにお前の足枷も。先に言っとく。俺、学校辞めるけど、お前のせいじゃないから。逃げるわけじゃない。前に進むための選択だ」
 「待って、そんな急に? 壊したって⋯⋯」
 私は奏叶の言っている意味がわからずに眉をひそめた。
 「そんな怖い顔すんなよーー」
 学校を辞めるって、急すぎる。壊したって、何を? 私の足枷? 頭の中でぐるぐるする言葉達に、考えても答えが見つからない。
 「どういう意味? ちゃんと話してよ」
 「別に大したことじゃねえよ。学校、俺には合わないってだけ。あーーなんかスッキリしたわ」
 「ひとりでスッキリしないでよ!」
 奏叶は思い出したようにクスクスと肩を揺らした。
 「けっこーー派手にやったからな。明日おまえも見たらスッキリするぞ、あれ」
 ずっと頭にクエッションマークしか浮かばない。
 「まぁいいや⋯⋯学校辞めてどうするの? 雪宮くん無鉄砲なとこあるから、なんにも考えて無さそうだし」
 「ハハ、相変わらずズケズケ言うな、お前。俺だって、ちゃんと考えてるよ。ほら、ヒントはこの格好」
 奏叶は自分を指さす。
 海風に混じって、生臭い香りが漂う。
 「⋯⋯漁師?」
 「おっ! 正解。体力だけはあるからな!」
 奏叶はグッと腕に力を込めて、上腕二頭筋を見せびらかした。
 「俺、春から青森のマグロ漁船に乗るんだ。だからこの街ともお別れ。しばらくは海の上だけど、その分稼げるし」
 「急すぎて話が入ってこない!」
 私は首を横にぶんぶんと振った。
 「親戚が漁師なんだ。そこでバイトさせてもらってて。もっと稼ぎたいって話したら口きいてもらって」
 「お母さんは?」
 「一緒に行くよ。いつまでも親父の残り香のするこの街にいたら、余計に体悪くなるしな」
 それから彼の目が、まっすぐ私を捉える。いつも海の向こうを見てるような気だるい目じゃなくて、真剣な眼差しで私を見ている。
 「お前はどうする?」
 「私は⋯⋯」
 卑屈になるな、私。雪宮くんは一歩踏み出した。彼には置いていかれたくない。
 「私は、逃げたくない。好きな絵を描き続けたい。知らない街の、見たことない景色を描きたい」
 「お前らしいな。⋯⋯ってかお前って呼び方、失礼だよな。⋯⋯向日葵。前から思ってたんだけどさ、向日葵って、いい名前だな」
 私は眉をピクッと潜めた。
 「私は嫌い」
 「なぁ、知ってるか? ヒマワリの花言葉」
 「⋯⋯知らない」
 「憧れ⋯⋯それと、まぁいいや。とにかく、逢沢は俺の憧れだから」
 私は険しい顔で首をひねる。
 「逢沢さ、春に一年の教室の黒板に絵を描いただろ? 新入生歓迎のやつ」
 「なんで知ってるの!?」
 その黒板アートは美術部の顧問に頼まれて描いたものだ。誰にも見られたくなかったから、私は先生に頼み込んで、春休みに入った学校の夜に作業させてもらったのに。
 「進路のことで呼び出されて、偶然見かけたんだ」
 「そうだったんだ⋯⋯」
 「絵を描いてる逢沢の顔がさ、教室で見たことない顔で。根暗って思ってたやつがさ、こんな顔になるくらい好きなことあるんだって羨ましかった」
 奏叶の耳は、赤い絵の具で塗られたみたいに染まっている。
 「根暗って、失礼だよ」
 「わりぃ」
 「雪宮くんって、たまにキャラに似合ってないこと言うよね」
 奏叶は気まずそうに後頭部をガシガシと搔いている。
 「じゃぁ、もうひとつだけ。太陽じゃなくて、月に顔向ける向日葵だって、あっていいんじゃね? それが逢沢らしいんなら」
 「なにそれ」
 私が冷たく笑うと、奏叶は小さく鼻で笑い「なんでもない」と言った。私の強がりだった。その言葉が嬉しくて。自分は自分のままでいいよと、私をちゃんと見てくれた言葉。私の嫌いな名前を、初めて受け入れてもいいかなと思えた。
 「私は、私でいいんだね。私も逃げずに向き合えるかな?」
 「バーカ。俺ができたんだから、お前もできるよ」
 「うん」
 「だから、明日はちゃんと学校行けよ? 美大目指すんだったらさ」
 私は大きく頷いた。
 「それとさ。あの絵、完成したら俺にくれないか?」
 「⋯⋯考えとく」

 スケッチブックに描いた絵は、私の心だ。すぐに「いいよ」と言えなかったのは、ちょっとした恥ずかしさ。もう、奏叶には十分に私の心を見せたのに。照れくさくて、すこしだけ甘酸っぱい気持ちが、私の胸を満たしていた。


 ♢


 私が教室のドアを開けると、みんなの空気がピタリと止まった。みんなが私をハッとした顔で見つめ、数人はバツの悪そうな表情を浮かべた。
 その理由は明白だった。教壇の後ろにある黒板には、無数の亀裂が入り、目も当てられない状態だった。その真ん中にハートで縁取られた私と奏叶の名前がある。ふたりのちょうど真ん中を、いちばん大きな亀裂が裂いている。
 派手に壊したと言った奏叶を思い出し、私は口を抑えて笑ってしまった。
 「バカ。やりすぎだよ、ほんと⋯⋯」
 ヒソヒソと聞こえる話し声で、なんとなく事の顛末を知った。
 昨日の昼休み、あのハートの落書きを見つけた奏叶が金属バットを持ち込んで派手に暴れたそうだ。それから「俺と逢沢は付き合ってない! 誰だ? 勝手なこと言ったやつ」とクラスに睨みをきかせたところで、生活指導の体育教師に連行されていったらしい。
 奏叶の処分は一週間の停学。「やっぱりアイツはヤバいやつだった」「もう学校、辞めてくんないかな」噂の標的は私から奏叶へと変わっていた。

 「ねぇ、向日葵⋯⋯。ちょっと話せるかな?」
 私の肩をトントンと指で叩く。彩花はいつものキラキラした笑顔を封印し、どこか硬い表情で私を見つめている。
 「いいよ。私も話さなきゃって思ってたから」
 彩花は私の手を引き、廊下の隅に連れ出した。
 私の番だ。奏叶くんが私の足枷を壊してくれたんなら、逃げずに向き合う。だって約束したから。

 「ごめん。向日葵、私勘違いしてた!」
 彩花は臆する色もなく言下に話し始めた。
 「だって雪宮と二人きりで会ってるの見て、そうなのかなって思うじゃん!」
 「私、偶然会っただけって言ったよ?」
 「だから、ほんとごめんねってば」
 「なんで信じてくれなかったの?」
 彩花はブレスレットを揺らしながら、指で頬をかく。
 「ちょっと嫉妬しちゃったんだよね。だって向日葵さ、私の誘いはいつも断るから」
 「あの噂、彩花が流したの? 付き合ってるって」
 彩花は大きく横に首をふった。
 「私じゃない。私じゃないよ? みんなと話してる時に、つい口が滑って。そしたらみんなが⋯⋯」
 「みんな、か」
 「みんな言ってる。雪宮とは関わるなって。だから向日葵も雪宮と仲良くするのやめなよ」
 私の中で、プツンと何かが切れた音がする。ジャラジャラとビーズが床に散らばった。
 「彩花に何がわかるの? 雪宮くんの何を知ってるの?」
 「でも、みんな雪宮は⋯⋯」
 「私さ、その彩花がみんな、みんなって言うの嫌いなんだ」
 「えっ⋯⋯?」
 「みんなって何? みんなって誰? 私、カラオケ苦手だし。集まってお喋りも苦手。みんなと同じになるなら、ひとりでいいって思う」
 彩花は目を点にして、口をパクパクとさせている。
 「ごめんね。これが私なの。今まで言えなくてごめん。彩花が嫌いじゃないよ。ただ、私、彩花の『みんな』にはいられない。なりたくない」
 「私は向日葵ともっと仲良くなりたくて。向日葵と一緒に楽しい思い出作りたくて。それでみんなとも⋯⋯ごめん。向日葵の気持ち知らなくて、ごめん」
 「彩花には、彩花の青春があるよ。ほら、みんな心配してる」
 「やだよ、私、誰にも嫌われたくない⋯⋯ねぇ」
 教室からクラスメイトが様子を伺っている。
 「私といたら、彩花も『みんな』といられなくなるよ」
 私は彩花にくるりと背を向けて、顔を上げて歩き出す。ひとつ、逃げなかった。後悔がないといえば嘘になる。彩花のことが嫌いじゃないの。私が私を好きになるために。天邪鬼な私を許して欲しい。
 すれ違った数人の生徒が彩花に駆け寄る。
 「彩花、大丈夫?」
 「何か言われたの?」
 彩花の背中が教室のざわめきに溶けていった。


 ♢


 翌日、美術室に足を踏み入れると、いつもの絵の具と木材の匂いに安心をおぼえる。しんとした静けさは変わらないのに、今日はどこか軽い。ひとりでもひとりじゃない感じがする。私はスケッチブックを開き、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされたページをじっと見つめた。あの黒い線は、私の絶望だった。震えた線は弱々しい。私はそのページを思い切り引きちぎる。ビリビリと床に破り捨てて、それから描きかけの絵をイーゼルに置いた。
 錆びたフェンスに、打ち寄せる波。色を吸い取られた景色でも、どこか光が差すような、そんな絵にしたい。奏叶の未来が晴れるように⋯⋯そんな色を乗せて。
 「これ、素敵な絵だね。逢沢さん、こんな絵を描くのね」
 「へっ!?」
 集中していた私は、入ってきた美術部の顧問に気がつかず、椅子から落ちそうになった。
 「ごめんなさい、急に声をかけて」
 「いえ、大丈夫です」
 私はきちんと背筋を伸ばし、椅子に座り直す。
 「雪宮くんが言ってたのよ。逢沢さんは素敵な絵を書くから。誰かに見てもらえるチャンスはないか? って、私のところに聞きに来て」
 「雪宮くんが⋯⋯?」
 「それでね、逢沢さん。よかったらこれに応募してみない?」
 差し出されたチラシは、東北の企業が主催する美術展の案内だった。昭和八年から続く伝統ある公募美術展で、全国から多くの美術愛好家が参加する。展示会場は東北の美大のギャラリー。私はチラシにかじりつきそうな距離で隅まで目を通した。
 「美大、目指してるんだよね?」
 「⋯⋯はい」
 「いいチャンスだと思うよ。いつでも相談に乗るからね。考えてみて!」
 先生はニコッと笑って、小さくガッツポーズをした。
 私がエントリーするであろう高校生の部門。募集要項にテーマが記載されている。

 『綺麗事じゃない青春』

 生きるって簡単じゃない。
 いい事も、いやなこともある。
 私を好きになることも、私を偽ることも。
 真面目に生きるだけが正解じゃない。
 綺麗で立派な言葉を並べても、背中合わせに闇がある。
 私はおもむろに筆を取った。
 私は知ったんだ。偽りで並べられた綺麗事よりも、ドロドロとした本音の方がずっと光っているって。
 鮮やかな黄色い向日葵じゃなく、真っ黒なヒマワリがあったっていいじゃないか。太陽に愛想を振りまかず、月と一緒に哀愁に浸る寂しいヒマワリだって美しい。
 私は、思うままに我儘に筆を振るう。

 これが私。
 私は、向日葵。
 自分にまっすぐに生きる花。


 美術室の窓から差し込む光は、冬の終わりを告げるように柔らかかった。三月の東北はまだ肌寒い。窓を開けると冷たい風が頬を撫でる。港の匂いに混ざって、春の香りがほのかに漂う。
 私はイーゼルの前に立ち、キャンバスに描いた絵をじっと見つめた。月夜に花咲く黒いヒマワリは、誇り高く空を見上げている。

 「つまんない綺麗事なんて、お前の色で塗り替えちゃえばいいよ」

 奏叶の言葉が、私の筆をを動かし続けた。

 美術展の締め切りは明日だ。
 「逢沢さん、できた?」
 美術部顧問の先生が、そっとドアを開けて顔を覗かせる。
 「はい!」
 先生は私の絵に近づき、目を細めてじっと見つめた。それから、ゆっくりと笑顔を浮かべる。
 「素晴らしいわ、逢沢さん。この絵、きっと届くよ。あなたの心が、ちゃんとここにある」
 「私の心⋯⋯」
 「伝わる人にはちゃんと伝わるものよ」
 その言葉に、胸が熱くなる。誰かに届く。奏叶が言ってくれたことと同じだ。
 私はボールペンと応募用紙を手に取った。ボールペンを握る手が、少しだけ震える。フーッと息を吐き、名前を書く欄に、力強く書いた。
 『逢沢向日葵』
 初めて自分の名前を誇らしく思えた。名前負けなんかじゃない。私は私の色で、私らしく。ちゃんと咲いてみせる。


 作品の発送を終えた日の放課後、私は港の公園に向かった。
 いつものベンチに座り、缶コーヒーをふたつ握りしめる。
 もうすっかり海の男の顔つきになった奏叶が、大きく手を振ってやってきた。停学処分が明けるとすぐに、奏叶は宣言通り学校を辞めた。顔を合わせるのはあの日以来だ。
 「わりぃ、待たせた」
 「ほら、おつかれさま!」
 私が放った缶コーヒーを奏叶は器用にキャッチした。
 「で? 話って?」
 「んーー⋯⋯まずはありがとう、かな」
 「なんだよそれ」
 「てか、黒板! 笑っちゃったよ。やりすぎだし」
 奏叶は鼻で笑う。
 「もう忘れたよ」
 「足枷、外してくれたから。逃げずに向き合ったよ」
 「うん」
 私は真新しいスケッチブックをカバンから取り出す。
 「これさ、餞別にあげるよ」
 奏叶はスケッチブックを受け取ると、ゆっくりと捲る。
 「うわ⋯⋯すげぇ」
 奏叶が好きだと言った景色を、奏叶のために描いた。心を込めて奏叶に届くように。
 「それとね、美術展に応募したんだ。もしよかったら見に来てくれないかな?」
 「それって⋯⋯いつ?」
 「来月の日曜日」
 奏叶は、少し寂しそうに笑った。
 「ごめん、俺もう⋯⋯」
 奏叶は目の前の海を真っ直ぐに指した。
 「そっか。もう行っちゃうんだね」
 「あぁ、来週には」
 「あーー、もう、喧嘩相手いなくなってせいせいするのに⋯⋯寂しく、なるね」
 私はハタハタと、手で顔を仰ぐ。
 「逢沢、また会おうな。お互いに信じた先で」
 「うん」
 「よし! 約束な」
 奏叶は拳を私に向けた。首を傾げる私の右手を丸めてコツンと合わせた。
 「グータッチ! 次会う時まで忘れんなよ」


 彩花とは、あれから話していない。
 クラスのみんなも、私と奏叶にすっかり興味をなくし、話題は来年のクラス変えの話で持ちきりだ。
 その中で、彩花もいつものようにクラスメイトたちと笑い合っていた。太陽みたいにキラキラした笑顔は変わらないけれど、どこか無理をしているようにも見える。私の視線に気づくと、彩花は気まずそうに目を逸らし、すぐにまた笑い声に溶けていく。あのビーズのブレスレットは、もう彩花の手首にはない。
  私は『みんな』の輪の中にはいられないけど、彩花にはそこが安心出来る居場所。彼女は、『みんな』の中で青春を駆け抜けて生きていくんだろう。でも不思議と、もう憧れの気持ちは抱かない。憎しみの気持ちだってない。彩花の本音を、私は知らない。知ろうともしなかった。お互いに隠していたから。あの時、もっと素直に話せていたら、違った未来があったかもしれないけど、答えはきっと同じで。私は私で、彩花は彩花だ。


 応募から二ヶ月後、コンクール事務局から届いたメールには「入選」の文字。信じられなくて、何度も読み返した。
 放課後、私は急いで家に帰った。玄関を勢いよく開け、リビングに駆け込んだ。
 「お母さん!!」
 しんと静まりかえる部屋で、ヒマワリの造花が夕日を背に眩しく輝いている。花瓶にメモが挟んである。
 『急に仕事になっちゃったから、行くね。ご飯は冷蔵庫に』
 テーブルの隅に、見慣れない古いアルバムが置いてある。私はそっと捲った。
 アルバムのページは、長い月日が黄ばませたような色を帯びている。最初のページに、私の知らない若い母がいた。白いワンピースを着て、髪はポニーテールに束ね、鮮やかなヒマワリ畑の中で誰かと一緒に笑っている。母の笑顔は、今の疲れた顔とは別人のように軽やかで、まるで太陽そのものだった。

 「こんなお母さん、知らなかった⋯⋯」

 指でページをなぞると、ざらりとした感触が胸の奥をくすぐる。ページを捲る。生まれたばかりの私の写真。母の腕に抱かれた私は、目を閉じて小さな拳を握っている。誰かが撮った写真の母は、私を見て、柔らかく微笑んでいる。
 その写真の横に、ボールペンでメッセージが記されていた。
 いつもの母の几帳面な文字とは違う。震えた文字で。

 『向日葵は私が守る。何があっても、この子を幸せにする』

 次のページ、次のページの写真も私の写真ばかりで、そこに母の姿は無かった。母が、どんな失望を飲み込んで、どんな覚悟で私を育ててきたのか、考えるだけで胸が締め付けられる。自分を犠牲にしてまでも私に愛情を真剣に注いでくれていたんだ。

 「お母さん、私ね、入選したんだ。私の絵、誰かに届いたんだ」

 声に出して呟いてみるけど、静かな部屋に吸い込まれるだけ。母はいない。でも、今日はそれが、ただの寂しさじゃなくて、もっと深い何かにつながっている気がした。
 私はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。おかずがラップに包まれて並んでいる。茄子の煮物と、鮭の塩焼き。私はそれをレンジで温め、テーブルに並べた。
 「いただきます」
 おにぎりを手に持つと、ほのかに海苔の香りが鼻をつく。母の手の温もりが、どこか遠くに感じるけど、確かにそこにある。

 「お母さん、ありがとう」

 ひと口齧ると、じんわりと心が温かく感じる。涙がこぼれそうだったけど、グッと堪えた。泣くのはまだ早い。お母さんにちゃんと話さなきゃ。私の絵を、ちゃんと見てほしい。美大に行きたいって、本気で思ってる!って、伝えたい。ちゃんとぶつかるのは怖いけど、もう私は逃げないって約束したんだ。奏叶が私の足枷を壊してくれたみたいに、私も母との壁を壊してみせる。


 四月の日曜日。
 私は展示会場の美大に足を運んだ。賑わうギャラリーの白い壁に、私の絵が飾られている。まだ、夢うつつで、足がふわふわと宙に浮いているみたいで落ち着かない。
 作品のタイトルは『私』と名付けた。会場にはたくさんの人がいて、知らない誰かが私の絵の前で足を止め、じっと見つめている。やっぱり胸がドキドキする。ほんの少しの恥ずかしさと、言葉にならない高揚感を噛み締めた。

 「逢沢さん、おめでとう」
 振り返ると、顧問の先生が小さく手を振っている。
 「先生! ありがとうございます」
 「うん。やっぱり素敵な絵ね⋯⋯。雪宮くんにも見せたかったわね」
 「⋯⋯はい」
 「そうだ! これ、雪宮くんから頼まれてたの。展示会の日に逢沢さんに渡してくれって」
 それは一輪のヒマワリを囲む小さなブーケ。その中に白い便箋がそっと添えられていた。
 私は会場を出て、便箋の封を開けた。


 【⠀逢沢向日葵さま

 会場に行けなくて、ごめん。
 いつか、逢沢の作品を見れるのを楽しみにしてる。
 それまで、描き続けろよ。
 俺も諦めないから。いつか、逢沢みたいに俺も夢見つけて、胸張って会いに行くよ。
 辛い時は空を見上げてみろよ。
 同じ空の下で頑張ってるやつもいるって思ったら、ちょっとは気が楽だろ?
 俺たちはいつも、同じ空で繋がってる。

 それから、ヒマワリの花言葉。
 恥ずかしくて言えなかったのは──⠀】

 「あなただけを見つめています、だよね」
 私は涙が零れないように、空を見上げた。
 「同じ空で繋がってるなんて⋯⋯いつもキャラじゃないこと言うんだから」
 空は、私の知らない色だった。
 爽やかで明るい青がどこまでも広がっている。
 
 「ありがとう。また会おうね」

 私は握った拳を、青穹の空に突き上げる。
 呟いた言葉は、風に運ばれて海の向こうへ消えた。
 私はもう一歩、踏み出す。私の色で、私の未来を描くために。

 「⋯⋯向日葵? どうしたの? こんな所に来て欲しいって」
 今朝、私がダイニングテーブルに置いた手紙を手に、唇に紅をさした、いつもより着飾った母が立っている。

 「お母さん、来てくれてありがとう。私ね本気なんだ。美大に行きたいの。だから私の絵、見てくれる?」

 私はブーケをしっかりと抱きしめた。
 君に胸を張って会えるように。
 胸の中で、ヒワワリが凛と揺れていた。