花火大会当日。
 朝から容赦ない真夏の日差しが降り注ぎ、雲ひとつない青空が広がっている。
 セミの声が家の中にまで響き渡っていた。

 ──絶好の花火日和だなあ。

 窓から外を見ると、ひらりと浴衣の袖が揺れた。

 オフホワイトの生地に、淡いピンクや紫色で描かれた花柄の浴衣は、花火大会に行くと決まった日にすぐ通販で選んだもの。
 派手さはないけれど、シンプルで優しい色合いが気に入って、これなら自分にも似合うかもしれないと思えた。
 浴衣を着るのはずいぶん久しぶりで、袖を通すたびに気持ちがそわそわとした。
 
 母に着付けの手伝いをしてもらい、肩下まで伸びた髪も、ヘアアレンジの動画を見ながらなんとかまとめ上げた。
 少し手間取ったけど、鏡に映る自分はいつもより少しだけ特別に見える。
 
 普段とは違う装い。
 帯の効果もあってか、歩くたびに背筋がシャンと伸びるような感覚があった。

 そうして支度を整えて家を出る。
 外に出ると真夏の日差しが容赦なく照りつけていた。
 親に借りた扇子(せんす)を早くも広げたいくらいだ。

 親に車で送ってもらい、待ち合わせの駅に到着した。
 集合時間は十五時半だけれど、今はまだ二十分前くらい。

 ──やっぱり、誰もいないか。

 改札の近くで足を止め、ちらりとスマホの画面を見る。通知はなし。
 待ち合わせをするとき、だいたい私が一番乗りになる。
 人を待たせるのが、どうにも落ち着かないからだ。

 それに、待っている時間は苦ではない。
「先に着いたよ」と連絡を入れることもしない。
 連絡を入れたら相手を急かしてしまう気がして、それも落ち着かないからだ。
 そして、この静かな時間が、私を「私」へと切り替えるための準備時間になっている気がする。

 日陰になっているベンチに腰かけ、ぼんやりと行き交う人を眺める。
 ちらほらと浴衣姿の人も見かけるようになり、駅に華やいだ空気が漂いはじめてきた。

「お、結衣だ。早いね」
 
 聞き覚えのある声に顔を上げると、蒼真が軽く手を振りながら歩いてくるところだった。
 白いサマーニットに淡いベージュのパンツ、それと黒いボディバッグ。
 シンプルなのにおしゃれに見えてしまうのは、彼の長身なスタイルと整った顔立ちのせいだろう。
 普段のブレザー姿とは雰囲気が違って、ほんの少しだけドキッとする。

「蒼真くんも、早いね」

 そう言いながらスマホを見ると、待ち合わせの十分前だった。

「結衣の方が早いって。今日は浴衣なんだ、可愛いじゃん」

 にこりと笑いながら、ごく自然にそう言った。
 軽い口調なのに、不思議と冗談には聞こえない。
「天気いいね」とでも言うみたいに、当たり前のことのように口にするから、余計にドキッとしてしまう。

「ぜんぜん、そんなことないよ」

 ほんの少し熱のこもった(ほほ)を隠すように、視線を彼から外した。

「そんなことあると思うけどな」

 信じられないくらい飄々(ひょうひょう)とした口調で言って、私の隣に腰掛けた。
 蒼真の「あっつー」という声が近くで聞こえる。

 ──通りで、モテるわけだよなあ……。

 こんなふうに何気なく褒められたら、誰だって意識してしまうに決まっている。
 それが彼の性格で、自分が特別扱いされているわけじゃないとわかっているのに、胸の奥がざわつくのを止められなかった。

「蒼真くんも、私服姿だとイメージ違うね。大人っぽい」

 話題を変えたいのと、胸のざわめきを抑えるために、わざと声を弾ませた。
 
「よく言われる。たまに大学生と間違えられるけど、高二が大学生って、無理ありすぎるっしょ」

 蒼真があははと笑う。
 屈託のない笑顔につられて、私も小さく笑った。

 ──教室で話すときとは、全然違う。
 
 何気ない会話のはずなのに、なんとなく落ち着かない。
 普段の教室では感じない距離感に、心臓の鼓動がわずかに速くなる。
 
 扇子を持つ手に力が入ってしまう。
 風を送るためというより、何かを誤魔化すためみたいに、ぱたぱたと(あお)いだ。

「お待たせー! 二人とも早いね!」

 軽やかな足音とともに駆け寄ってきたのは、瑛美梨(えみり)だった。
 藍色の浴衣には、白いボタンの花が涼しげに広がっている。
 髪も編み込んであったりと、いつも元気いっぱいの瑛美梨が今日はおしとやかな女の子に見えた。
 
「まだ五分前だし、全然待ってないから大丈夫」

 私はベンチから立ち上がって軽く手を振った。
 
「結衣、その浴衣似合ってるね!」

 瑛美梨がぱっと目を輝かせて、私の袖をそっとつまむ。
 
「瑛美梨もすごく似合ってるよ、可愛い」

 そう言うと、瑛美梨はふふっと得意げに笑う。
 
「でしょ? お店まで行って、どの浴衣にするか真剣に悩んだんだもん。蒼真も、どう?」

 不意に振られた蒼真だったが、戸惑うこともなくすぐに言葉を返した。

「いいじゃん。似合ってる」

 微笑みながらさらりと言った彼の言葉に、瑛美梨は「ありがとっ!」と満足そうに(うなず)いた。

 ──私にはできないな。

「どう?」なんて、怖くて聞けない。
 自分が好きで選んだものなのに「似合わない」って言われたらどうしよう。
 微妙な反応をされたらどうしよう。
 考え出すと、不安が膨らんでしまう。

 だから、ためらいなく言葉を投げかけて素直に受け止められる瑛美梨が、少し羨ましかった。
 
「あぶねー! 間に合った!」

 顔に汗を(にじ)ませて、肩で息をしている(りょう)が最後にやってきた。
 (かたわ)らには自転車。乱れた髪の毛から、猛スピードで漕いできたのが一目瞭然だった。

「親に車で送ってくれって頼んだら、『近いんだからチャリで行け』って! マジひどくね?」
「暑い中、お疲れ様だね」

 くすりと笑いながら、瑛美梨がペットボトルを差し出す。

「はい。まだ飲んでないから、あげる」
「神かよ! サンキュー!」

 瑛美梨からペットボトルを受け取ると、一気に半分ほど飲み干していく。
 喉を鳴らしながら飲み終えると、「生き返るー!」と空を仰ぐように息をついた。

「ちょっとチャリ停めてくるわ」
 
 瑞々(みずみず)しい声で告げた遼は、自転車を押して駅前の駐輪場へと向かう。
 数分後、戻ってきた彼が「よし、準備完了」と手を叩いた。

「じゃ、行くか」

 蒼真が軽く手を上げる。
 十五時三十四分。
 私たちは改札を通り抜けた。