ある日の放課後。
 
「はー、もう無理! 数学なんて、意味わかんない」

 隣に座っている瑛美梨(えみり)が教科書を机に投げ出し、頬杖をついた。

 夏休み前の期末テストに向けて、私と瑛美梨、蒼真(そうま)くんと(りょう)くんの四人で勉学会を開いている。
 席替えをしてから話す時間が増えたせいか、最近はこのメンバーでいることが自然になっていた。

 教室にはまだ残って勉強している生徒がちらほらいるが、瑛美梨はすでに集中力が切れかけている。

「どこで詰まってるの?」

 問いかけると、彼女は「全部」と頬を膨らませた。

「瑛美梨は本当に数学が苦手だね」
「だって、公式とか意味わかんないし!」
「覚えれば解けるよ」
「その覚えるのが無理なの!」

 半ばヤケになっている瑛美梨の横で、遼くんが「わかるわー」と笑っている。

 瑛美梨のプリントを覗き込む。
 ぱっと見た限り、計算ミスが多い。
 大雑把で大胆な瑛美梨らしい間違いだ。

「瑛美梨は理解力あるから大丈夫だよ。だって、ここのマイナスが逆になってるだけだもん」
「あ、本当だ……」

 瑛美梨は真面目な顔をしながら呟いてノートを書き直す。

高見澤(たかみざわ)さんって、頭いいんだね」

 斜め前にいる遼くんが羨ましそうな瞳で私を見つめる。

「頭いいってほどじゃないよ。苦手な教科だってあるし」

 私は謙遜気味に答えた。
 成績は上から数えた方が早い。
 でも、勉強が好きなわけじゃない。
 良い点を取ると親が喜んで褒めてくれるから、そのために勉強しているようなものだった。

「結衣は何が苦手なの?」
 
 蒼真くんが興味深そうに聞いてきた。
 彼は私のことを「結衣」と呼ぶようになっている。
 今ではすっかり慣れてしまったけれど、最初は驚いた──。

「結衣、傘持ってるけど、今日雨降るの?」

 席替えをしてから数日後、蒼真くんからこんなふうに尋ねられた。
 机にかけていた折り畳み傘を見て、そう言ってきたのだろう。

「え、あ、うん。天気予報だと、夕方から雨って」

 思わずたどたどしく返事をしてしまった。

 ──今、『結衣』って呼んだよね……?

 蒼真くんの距離の詰め方には驚かされるばかりだ。
 
 私は特別人見知りなわけじゃない。
 むしろ表面をなぞるような、当たり障りのない会話は得意なほう。
 だって相手に合わせた「私」を作ればいいんだから。
 そうすれば、適度な距離感を保ちながら誰とでもうまくやっていける。

 それは窮屈なようでいて、心地よくもあった。
 たぶん、そうすることに慣れすぎたせいだ。
 
 ──だから「私」は、上部だけしかすくい取れない。

 誰かと深い関係を築くのに時間がかかる。
 距離を測り間違えないように。
 嫌われないように。

 でも蒼真くんは違った。
 気づいたら、するりと踏み込んでくる。
 ためらいもなく、あっさりと。
 
「あ、ごめん。『結衣』って呼ばれるのイヤ?」

 蒼真くんがふっと表情を和らげて、少しだけ申し訳なさそうに尋ねてくる。
 眉をわずかに下げたその顔は、普段の屈託のない笑顔とは違っていて、なんだか意外だった。

「ううん、全然。みんな『結衣』って呼んでくれるし」
 
 私がそう返すと、蒼真くんの表情がパッと明るくなった。
 心のどこかで不安に思っていたものが一瞬で晴れたみたいな笑顔。

「よかった。じゃあ、『結衣』って呼ぶわ」

 そんなことを言いながら無邪気に笑う。
 なんてことのないやり取りのはずなのに、彼のその笑顔が妙に胸に残った。

 ──やっぱり、なんて人タラシな男の子なんだろう。

 けれど、まったく嫌じゃなかった。
 むしろ──

「結衣?」

 名前を呼ばれて、思考がふっと現実に引き戻される。
 目の前にいる蒼真くんが不思議そうに私を見ていた。

「あ、うーん。苦手なのは、現代文とかかな」

 煮え切らないような答えを出すと、「マジか!」と遼くんが声を上げた。

「現代文とか、一番楽まであるけど。やっぱ、頭のいい人は感性が違うのかなあ」

 遼くんは頭の後ろで手を組んで椅子に寄りかかる。
 
「感性だなんて、別に普通だって。たまにあるでしょ、『このときの主人公の気持ちを述べよ』みたいなやつ。ああいうのが苦手なんだよね」

 だって主人公の本当の気持ちなんて、そんなのきっと物語を書いた本人にしかわからない。
 それに同じ文章を読んでも、人によって感じ方が違うに決まっている。
 そんなふうに思ってしまう。
 
 生身の人間だって同じだ。
 どれだけ近くにいたって、どれだけ言葉を交わしたって、本当の気持ちなんて結局のところ本人にしかわからない。

 それを読み取るなんて、数学の引っ掛け問題よりも難しい超難問だ。

「知らなかった。結衣はそういうの得意だと思ってた」

 瑛美梨が「意外」と目を見開いていた。

「そう見えてた?」

 私は照れくさそうに頬をかく。
 嬉しかった。
 私が人の気持ちを汲み取るのが苦手だなんて、少なくとも彼女は思っていなかったんだ。
 誰かと接するときはできるだけ空気を読んで、その場に合わせた「私」でいるようにしてきた。
 それが間違ってなかったと実感できた。

 ふと蒼真くんと目が合う。
 彼はあのとき──左手首の傷跡の話をしたときのような、何かを考えているような目をしていた。

「どうか、した?」

 気になって問いかけると蒼真くんは一瞬だけ驚いたようにまばたきをして、それからふっと笑った。

「いや、なにも」
 
 蒼真くんは軽く首を振ったけれど、その仕草とは裏腹に目はまっすぐ私を見ていた。
 じっと何かを確かめるように。
 
 彼の瞳には、私はどう映っているのだろう。