「結衣、左手だして」
「左手?」
「ブレスレット、俺がつけてもいい?」
「……うん」
手を差し出すと、彼の指先がすっと私の手首に触れた。
その瞬間、かすかに空気が揺れた気がした。
──蒼真くんは、もう知っている。
この手首にある一筋の傷のことも、その理由も。
でも、何も言わなかった。
ほんの少しだけ目を伏せて、それからゆっくりとブレスレットを私の手首に回す。
指先が肌をなぞるたび、くすぐったいような、胸が締めつけられるような感覚が広がった。
だけど、彼の目はずっとまっすぐだった。
変に傷を隠すようでも、見ないふりをするでもなくて──そのまま受け止めてくれているのが、わかった。
「はい、できた」
彼が選んでくれたブレスレットが、傷跡をなぞるように静かに光っている。
その輝きは「もう大丈夫だよ」と、過去を包み込んでくれるようで。
淡いピンク色の光は、ずっと欲しかった安心を結晶にしたみたいに、あたたかく瞬いていた。
「……ありがとう」
私の声は少し震えていたかもしれない。
でも、それもきっと彼には伝わってるのだろう。
蒼真の気配が、深くゆっくりとこちらに向いているのがわかった。
そして、彼は低い声で口を開く。
「俺さ……誰かを好きになるの、ずっと怖かったんだよね。想えば想うほど、その人を失うのが怖くなって……なのに、いつか自分が壊してしまうんじゃないかって」
ふと落ちた声には、迷いや不安がそのまま滲んでいて、聞いている私の胸を激しく揺らした。
「ほら、親が親だったじゃん。だから……自分からそういうのを遠ざけてたんだと思う」
自嘲めいて笑う彼の横顔は、どこか痛々しく見えて。
明るくて、いつも誰かの中心にいて、軽やかに笑う彼の奥にそんな想いがあったなんて、考えたこともなかった。
「最初は……正直、よくわからなかった。でも、気づいたら目で追ってたし、声が聞こえたときは無意識に反応してた」
蒼真は私の目をしっかりと見つめて、言葉を選ぶようにゆっくり話す。
それが私のことだって、すぐにわかった。
「あとになって思ったんだ。俺、自分に言い訳してたなって。『同情だった』とか、『中学のとき、なにもできなかったから』とか。そう思えば楽だったし、距離を取る理由にもできた。……でもそれは、本当の気持ちから逃げてただけだった」
わずかに震えた声。
その小さな震えが、どれだけ本気で話しているのかを教えてくれた。
「結衣を見てるうちに、ちゃんとわかったんだ。人一倍頑張り屋で、誰よりも強くて。なのに、触れたら壊れそうなくらい繊細で、危うくて。そんな結衣のそばにいたいって思った。力になりたいって思った。でも、それ以上に……」
一度、言葉が途切れる。
そして──まっすぐな目で私を見て、静かに言った。
「結衣のことが、好きなんだって」
その言葉が届いた瞬間、世界が静まり返った気がした。
自分の心音すらも聞こえなくて、彼の声以外のすべてが霞んでいく。
嬉しいとか恥ずかしいとか、そんな単純な言葉じゃ足りなかった。
こんなふうに、私を想ってくれていたなんて。
こんなふうに、大事に言葉を重ねてくれるなんて。
夢みたいで、でも確かに目の前の蒼真は伝えてくれたんだ。
過去の私は、ずっと怖がっていた。
傷つくのが怖いから距離をとって、卑屈になって。
嫌われるのが怖いから誤魔化して、笑顔を貼り付けて。
でも今──。
彼のまっすぐな言葉は、そんな私ごとちゃんと受け止めてくれている気がして。
ここにいる「結衣」を選んでくれた。
過去の私もひっくるめて、今を生きてる私を選んでくれた。
自分の気持ちに正直になるのは、まだ少し怖い。
だけど、こんなふうに誰かを信じたくなる気持ちを、もう否定したくなかった。
ようやく自分自身のことを、少しずつだけど好きになれそうな気がした。
「ありがとう」
その先の言葉は、もう怖くない。
ちゃんと自分の気持ちで応えられる。
「私も……蒼真くんのこと、好き」
言い終えた瞬間、胸の奥がふわっと軽くなった。
心があたたかくて、幸せな気持ちで満たされていく。
私がそっと目を伏せると、蒼真は少しだけ照れたように笑った。
そのまま、何か思い出したように「そうだ」と言って、鞄の中をもう一度覗く。
「もう一個だけ、あるんだ」
彼が差し出したのは小さな封筒だった。
真っ白で、飾り気のない便箋。
「……手紙?」
「うん。なんか、口じゃうまく言えなかったこと、あるかもって思って」
そう言って彼は視線を逸らした。
それが照れ隠しだとわかっていても、胸の奥がきゅっとなる。
「今ここで読むの、なしな。恥ずいから」
唇をつんと尖らせて、頬が少し赤く染まっている。
その横顔は、まっすくで、不器用で、でも愛おしいほど優しい。
指先で確かめるように封筒に触れる。
真っ白な紙の中に、彼の想いがたくさん詰まっている気がした。
「……ありがとう。ちゃんと、家で読むね」
封筒を大切に抱えて、私はまた小さく頷いた。
空はすっかり暮れて、照明灯の灯りが淡く路面を照らしていた。
木々の枝が風に揺れて、乾いた葉の音が耳に届く。
「……そろそろ帰るか」
「うん」
そう言って、私たちは並んで歩き出す。
少し冷たい風が吹き抜けたとき、ふと、左手にぬくもりが触れた。
繋がれたのは──やわらかくて、あたたかくて、離れがたい手。
驚いて横を見ても、蒼真は何も言わずに前を見たまま。
だけど、その耳がほんのりと赤くなっているのがわかって、私はそっと笑った。
手を繋ぐ。
それだけのこと。
でも、あの頃の「私」にはできなかった。
誰かを信じることも、寄りかかることも、甘えることも、怖くて遠ざけてきた。
──今は、もう違う。
彼の手のぬくもりが、それを教えてくれた。



