「ありがとう、蒼真くん。すごく楽しかったし、嬉しかった」
ホットティーを両手で包み込むように持ちながら一息ついた私は、心からの感謝を彼に告げた。
「実はね、私、誕生日ってちょっと苦手なんだ」
「そうなの?」
蒼真の穏やかな問いかけに、私はカップの中でゆらゆらと揺れる紅茶を見つめながら「うん」と頷いて答えた。
「もちろん、毎年ちゃんとお祝いしてもらってたよ。親も友達も、プレゼントをくれたり、ケーキを用意してくれたり……そういうのは、本当にありがたかった。でもね、自分のために誰かが何かしてくれるってことが、どこか申し訳ないような気がして……」
言葉を選ぶようにゆっくりと話していたのに、ふとしたところで思考が止まる。
それだけじゃない、って気づいた。
──たぶん、違う。
自分でも気づかないふりをしていた気持ち。
それにゆっくりと触れていくように、私は続けた。
「そうじゃ……ないかな。歳を重ねたのに、「私」は「私」のままで。変わらなかったし、変われなかった。むしろ「私」は増えていく一方で」
窓の外に目をやると、街路樹の葉が風に揺れていた。
さわさわと音を立てそうなその景色に、心も揺らめく。
「誕生日だけは、『特別』でいられた気もした。けど、次の日にはまたいつも通りの日常が戻ってくる。昨日の『特別』が、嘘みたいに。……それがちょっと、寂しかったんだ。結局私は、何者にもなれないんだなって」
ティーカップのふちをそっとなぞって、蒼真の顔を見た。
「でも……今日は、違った。蒼真くんのおかげで変われた気がする。誕生日がこんなに嬉しいものなんだって、初めて思えたんだ。だから、ありがとう」
心の奥からあふれてきた言葉。
ほんのりと頬が熱を帯びるのを感じながら、私は自然と笑みをこぼした。
蒼真は少しのあいだ黙っていた。
何かを考えるように視線をアイスコーヒーのグラスに落として、ほんの少し口を引き結んで。
そして、まっすぐに私の目を見て、ゆっくりと口を開いた。
「何者にもなれないって言ったけど、俺から見たら、結衣はちゃんと誰かの特別になってるよ」
真剣な顔。
気の利いたことを言おうとしてるんじゃなくて、本当にそう思ってくれているのが伝わってきた。
「嬉しそうにケーキ食べてる顔とか、ああいうの見ると……ああ、今日一緒にいられてよかったなって思う」
少し照れたように、でも笑わずに言葉だけを丁寧に重ねてくる。
「無理に変わる必要なんてないと思う。結衣が思ってるより、ちゃんと大事に思ってる人、いるから」
彼の言葉がすっと胸に染み込んでいった。
誰かからそう言われるのを、私はずっと待っていたのかもしれない。
気の利いたことでも、優しいだけでもない。
でも、嘘じゃない。
ちゃんと私を見てくれている人の声だっていうのがわかる。
蒼真の顔を見ていると泣いてしまいそうで、私は代わりにカップを持ち上げて紅茶に口をつけた。
ほんの少し冷めた紅茶が、涙をこぼす前に喉を通っていく。
言葉にしきれない嬉しさを包み込むような、優しい温度だった。
「俺も、ありがとう」
ティーカップの向こうに、そっと目を細めるようにして微笑む彼がいた。
しばらくして、蒼真がふと思い出したように言う。
「……なあ。帰る前に、ちょっと寄り道しないか?」
「寄り道?」
「いつもの公園。あの日の続き……じゃないけどさ」
冗談っぽくつけ加えた言葉とは裏腹に、蒼真の瞳は真剣で、そこには迷いのない光が宿っている気がした。
──あの日の、続き……。
すれ違って、傷つけ合ったあと。
お互いの過去を話して、思いを知って、距離が近づいて。
でも、その先の言葉は、まだ聞けていなくて──。
「うん……行きたい」
ティーカップに残った紅茶を飲み干して、小さく頷く。
それはどこか、ひとつの決意にも似ていた。
◆
夜の気配が降りてきた公園は、子どもたちの賑やかな声が引いて静けさが戻りつつある。
二人で並んで歩くと、すぐにあのベンチが見えてきた。
今日も誰も座っていない。
「空いてるもんだなあ」
蒼真がぽつりと呟く。
その横顔は、心なしか緊張しているようにも見えた。
「なんかもう、私たちの席って感じだね」
そう言って、ふふっと笑った。
私が先にベンチに腰を下ろすと、蒼真が少し間をおいて隣に座る。
以前とは違う距離感。
心も身体も、手を伸ばせばすぐに触れられそうで──それが少しだけ緊張した。
「さすがにちょっと寒くなってきたな」
「あと半月もしたら十二月だもんね」
「なんか……あっという間だな」
「うん。本当に、あっという間」
そこで会話がふっと途切れた。
気まずいわけじゃない。
今だけは、その静けさが照れくさくて、恥ずかしくて。
私は唇をきゅっと軽く結んで目線を下に向ける。
そのとき、蒼真が鞄の中をごそごそと探り、小さな紙袋を取り出した。
「はい。改めて、誕生日おめでとう」
蒼真が差し出してきたのは、ベージュ色の優しい風合いをした小さな紙袋。
上の方には赤いリボンが結ばれていて、それだけで『特別』が伝わってくるみたいだった。
彼は照れたように目を細めながら、私の前にそっと差し出した。
「プレゼント……用意してくれてたの?」
「当たり前じゃん」
驚きと嬉しさが混ざった声で問いかけると、蒼真はあっさりと、でも誇らしげに言った。
「……ありがとう」
胸の奥がきゅっとなる。
一言で済ませるには足りないくらいなのに、それ以外の言葉が浮かばない。
「中身、見てもいい?」
そう聞くと、蒼真はこくんと頷いた。
「うん。気に入ってくれればいいんだけど」
少しだけ不安そうに笑う彼の顔が愛おしく思えた。
私は紙袋の口をそっと開いて、中から小さな箱を取り出す。
紙袋と同じ色の箱には、金色のブランドロゴがさりげなく刻まれている。
指先でリボンをほどき、蓋を開けると──中にはシンプルなブレスレットが入っていた。
細めのチェーンの間に一つだけ、小さく光る粒がついている。
主張は控えめだけど、淡いピンクのその粒は光の加減でキラキラと輝きを変える。
「……すごく、かわいい」
自然とこぼれたその声に蒼真がふっと肩の力を抜いて、安堵したように微笑んだ。
「よかった。派手なのはあんまり似合わない気がしてさ。なんかその色、結衣っぽいなって思って」
──結衣っぽい……。
蒼真のその言葉は、誰に言われるよりも心に響いた。
「私」を知ってくれた彼の言葉だから。
ちゃんと私を見て、私のことを思って、そう言ってくれてるんだってわかる。
胸がいっぱいで、言葉にならなくて。
私はただ、ブレスレットを手のひらに包み込んだ。



