私は静かに泣いていた。
涙が止まらなかったけけど、心の中はどこか晴れやかで。
自分の正直な気持ちを言葉にするのは、やっぱりとても大変だった。
それでも、少しだけ「私」から解放された気がする。
「……話してくれて、ありがとな」
蒼真の声が優しく胸に響く。
「ううん。蒼真くんも……話してくれてありがとう」
言葉が通じて、自然と肩の力が抜けていった。
しばらくの静寂が流れる。
けれど、それは苦しくなかった。
きっと、お互いが少しずつ自分の中の「過去」や「痛み」や「弱さ」をさらけ出したからかもしれない。
私たちは前よりずっと近づいたんだ。
「結衣はさ、すごいと思うよ」
「……どうして?」
問い返しても、蒼真は変わらずにまっすぐ答えてくれた。
「辛いことを一人で我慢して、耐えてきて。それでも誰かのために笑って、頑張って。それってさ、普通に生きるより、しんどいと思うんだよね」
そんなふうに考えたことなかった。
だって、それが当たり前で──。
「俺なら『もう無理、めんどい』って投げ出してるよ」
彼は少し笑顔を交えて言った。
冗談っぽいのに本音にも聞こえて、私もふっと笑みがこぼれた。
涙はもう引いていて、穏やかな空気だった。
「私は、そういう蒼真くんに憧れるけど」
「俺たちってきっと正反対で、だから、ないものねだりなのかもな」
「ないものねだり?」
「そ。俺は『嫌われてもいい』って自分のこと優先、でも結衣は『嫌われたくない』って他人のこと優先するでしょ」
「そうかも」
言われてみたら確かに、と頷く。
「だから俺は、結衣のことが気になってしょうがないんだと思う」
どくん、と心臓が跳ねた。
今までに感じたことのない胸の高鳴り。
風の音も、歩く人たちの声も、遠くの踏切の音も、全部消えて、蒼真の声だけが耳に残る。
嘘も偽りもしない彼のまっすぐな瞳に射抜かれて、息すらも忘れてしまうほど。
「それって……」
続きを聞こうとしたけれど、蒼真はイタズラっぽく笑って、人差し指を一本立てた。
「ま、この続きはちゃんと結衣が日下部に返事してからだな」
はじめて蒼真に誤魔化された。
でも、不思議と嫌な感じはしなくって。
むしろ、ドキドキして胸があたたかくなった。
「……そうだね。龍二くんは、ちゃんと断らなきゃ」
小さく息をつくと、蒼真は目線だけをこちらに向けた。
「やっぱり、まだ返事してなかったのか。もう四日だろ? さすがにちょっと同情するわ」
軽くからかうような口調だったけど、その奥には優しさが滲んでいるように聞こえた。
「だって、頭の中ぐちゃぐちゃで……! 蒼真くんとも喧嘩みたいになっちゃったし……!」
私は少し困惑気味に返した。
以前の私だったら、どう返していたんだろう。
きっとヘラッと笑って誤魔化しながら「そんなつもりじゃないよ」「ちゃんと考えてるよ」なんて言い訳して、自分を守る言葉ばかり並べていたと思う。
だけど、今は違う。
気づかせてくれたのは、隣にいる蒼真のおかげだった。
「俺もさ、結衣も怒るんだって驚いた。……結衣って、怒ると目が真っ赤になるんだな」
「そんなの……知らないよ! 蒼真くんだって、いつもにこやかなのに、あんな冷たくなるんだなって……」
私はふいに視線を落とした。
蒼真の横顔がやけに近く感じられて、うまく顔が上げられない。
沈黙がふわりと流れて──そして、すぐにおかしくなって、ふたり同時に小さく笑った。
目が合うと、なんだか恥ずかしくて、でも嬉しくて。
心にやわらかい灯がともるような、そんな笑みだった。
「……でも、蒼真くんの言った通りだなって思う。龍二くんのこと、なにも考えてなかった。だから明日、ちゃんと謝るよ」
「うん」
蒼真は短く頷いた。
──ちゃんと龍二くんと向き合って、本心を伝えよう。
それが本当に彼を思うことなんだと、やっと理解できた。
「本当の自分なんてさ、わからなくていいんだよ」
ふいに、優しくて力強い声が響いた。
「だって、誰といても、どんなときでも結衣は結衣だろ? まあ、ちょっと周りに気を使いすぎちゃうってだけでさ」
「私は、私……?」
その言葉を反芻するように呟いたとき、そっと蒼真の手が重なった。
「『結衣』は、ここにいる」
ずっと迷子だった「私」を、迎えに来てくれたような言葉。
そして、積み重ねてきた「いい子の私」から、やっと降りられた気がした。
「……うん。ありがとう」
あふれてきた涙を、もう隠そうとは思わなかった。
涙は確かにこぼれていたけれど、心は軽くなっていた。
◆
翌朝。
いつもより早めに登校した私は、屋上の手前の踊り場で龍二を待っていた。
かすかに朝の日差しが差し込む踊り場は、今日一日の始まりをしっとりと照らしているかのようだった。
その光をじっと見つめていると、少しだけ心が落ち着くのを感じる。
でもすぐに階段を踏みしめる足音が鳴って、ピンと緊張の糸が張り詰めた。
「おはよ」
決して軽くはない足取りで現れた龍二の声が、踊り場に小さく反響した。
「おはよう」
対面したけれど、私はまっすぐ彼の顔を見れなかった。
「ごめんね、朝早くに呼び出して」
少し気まずさが混じった声で言うと、龍二は一瞬黙って、そしてすぐに口を開いた。
「いや、大丈夫。大事な話ってなに……なんて、聞かなくてもわかるか」
龍二は眉を下げて、苦笑いにも似た笑みを浮かべている。
私が何を言おうとしているのか、なんとなく察しているんだろう。
「返事するまでに時間がかかって、ごめんなさい」
深く息をついて、私は頭を下げた。
「……うん」
龍二は優しく、でも寂しそうに頷いた。
「龍二くんの気持ちは、すごく嬉しい。告白されたのだって初めてだったし、私、舞い上がっちゃって……」
だから、自分ことしか考えてなかった。
「でも……ごめんなさい。龍二くんの「好き」と私の「好き」は、違うんだってわかった」
これが私の本心。
嘘でも、誤魔化しでもない。
優しい嘘は、龍二を傷つけてしまうだけなんだ。
その言葉が口をついて出ると、龍二はため息をついて笑ってみせた。
「……知ってる」
やっぱりな、という落胆と、やっと返事が聞けたという安堵が混じっているようだった。
私の答えは、彼が察していた通りのものだったんだろう。
「告ったときにも言ったけど、俺は自分の気持ちを伝えずに終わるのがイヤだったんだよ。だからまあ……わかってた」
龍二はきっと、どんな結果になっても自分の気持ちを伝えたかったんだ。
だから、こうして私と向き合ってくれている。
それがどんなに強くてかっこいいことなのか、私はもう知っている。
「……ごめんなさい」
「あー、ストップストップ。『ごめん』って言われるの、今は辛いわ」
笑いながら、龍二は軽く手を振った。
その笑顔が少しだけ歪んで見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
「……ありがとう」
私は笑顔で言った。
感謝も、寂しさも、全部込めて。
「おう……。また今日から、よろしくな」
そのあと少しの間があって、龍二がふいに口を開いた。
「結衣さ……渡辺のこと、好き?」
夏休み明けてすぐ。
瑛美梨たちからも似たようなことを言われた。
そのときは「好きじゃない」って笑って誤魔化した。
けれど、今は──。
「うん……。好き」
はじめて自分の気持ちを言葉にした。
迷いも嘘もなく、確かな、本当の気持ちだった。
「そっか。それが聞けてスッキリした」
そして、踊り場に予鈴のチャイムが大きく鳴り響く。
「……じゃあ、俺、先に行くわ」
そう言って階段を下りていく背中に向かって、私は心の奥から声を絞り出した。
「龍二くん、ありがとう」
聞こえるか聞こえないかの声だったけれど、彼の背中は私の言葉をちゃんと受け取ってくれた気がした。



