拝啓、夜空かかった虹をみつけてくれた君


 その笑みを見た瞬間、張りつめていた何かがほどけていくのを感じた。
 どうしてこんなにも優しくて、あたたかくて、苦しくなるんだろう。
 心の中は触れたら壊れてしまいそうなのに、涙が出そうになるくらい安心する。

「……わたしもね。ずっと誰にも言えなかったことがあるの」

 声に出すのは、思ったより怖くなかった。
 彼の笑顔と勇気に背中を押されて、ようやく一歩踏み出せた気がした。

「……中二のとき、仲良しのグループがあって。そのうちの一人に美咲(みさき)って子がいてね」

 懐かしい名前を口にするだけで、胸がきゅっと締めつけられる。
 けれど蒼真(そうま)は黙って、ちゃんとこっちを見てくれていた。

「ある日、美咲が『賢治(けんじ)くんのことが好き』って、相談してきて。『みんな応援してくれるよね?』って。もちろん、喜んで『うん』って答えて応援してた」

 けど──と言葉を継いで、指をぎゅっと絡めた。

「……賢治くんが、他の子に冷たい態度を取ってたのを見ちゃったんだ。それが気になって、ぽろっと『ちょっと冷たいとこあるよ、大丈夫?』って言っちゃったの」

 蒼真の目が優しく揺れる。

「すぐに『結衣(ゆい)が賢治くんの悪口言ってた』ってグループ内に広がっちゃって……それだけじゃなくて、『本当は結衣も賢治くんのことが好きなんじゃないか』って噂まで出てきちゃったんだ」

 そこまで言ったとき、目頭が急激に熱くなった。

「それから……グループの空気が変わったの。メッセージの返信が遅くなって、教室で話してても私だけ浮いてる感じで……美咲とも、だんだん目が合わなくなって……」

 言葉にするだけで胸の奥がずしんと重たくなる。涙がこぼれ落ちそうになる。
 だけど私は、蒼真にちゃんと伝えたかった。

「悪気なんてなかった……でも、『私が余計なこと言ったからだ』って思っちゃって。誰かを不快にさせた自分が悪いんだって」

 唇が震える。
 でも、蒼真の前では泣きたくない。
 空を見上げて、言葉を続けた。

「美咲ね、結局、賢治くんと付き合えたんだよ。ちゃんと想いが届いて、仲良くなって……それを聞いたとき、安心した。おめでとうって心から思った」

 本当にそう思ったはずなのに、何かがぽっかり抜けた気がした。
 
「気づいたら、私はいつも通りのグループの一員に戻れてた。全部なかったことみたいに、普通に話して、普通に笑って……でもあのとき、何も言わなければよかったのかなって。私が言ったあの一言が全部を壊したんだって、ずっと引っかかってて」

 蒼真は「うん」と小さく(うなず)きながら話を聞いてくれた。
 
「美咲が幸せそうに笑ってるのを見て、よかったって思った。みんなと笑い合える日が戻ってきてよかったって。……なのに、なんでだろ。すごく寂しかった。嬉しいのに、私ひとり、置いてかれたみたいな気がしたんだ」

 自分でもわからない感情だった。
 ずっと一緒だった友達と笑ってるのに──その笑顔の中に、私はもういなかった。

「それからはね、なるべく余計なこと言わないようにしようって思ったの。誰かの気分を害さないように。誰にも嫌われないように。……そうやって、少しずつ『いい子』になっていった」

 そして、それが「私」になった。
 明るくて、空気を読んで、自分を誤魔化して、誰にでも、どんなときにでも否定せずに笑顔を向ける「私」。

「でもね……」

 言葉が震えて、目の奥からは熱いものが込み上げてくる。

「そのうち、自分が何を考えてるのかわからなくなっていった。『いい子』でいる私が、いつのまにか本当の私みたいになって……」

 誰かのために笑って、誰かの顔色を見て、誰かの期待に応えて。
 でもそれは全部、私じゃなかった。

「……たまにね、ふっと苦しくなるの。本当の私は、どこにいるんだろうって。誰かに嫌われるのは怖いのに、自分のことがどんどん嫌いになっていった」

 涙が一粒、そっと手の甲に落ちた。
 泣きたくなんてなかったのに、もう止められそうにない。
 ずっと隠して押し込めていた言葉たちが、(せき)を切ったようにこぼれ落ちていく。
 
「そんなふうに過ごしてるうちに、中三になった。受験も近づいてて、親には『しっかりしなさい』って言われて、先生からも『期待してるぞ』って言われて……相手を見ながら言葉を選んでるうちに、たくさんの「私」が出来上がってたの。友達の前の「私」、親の前の「私」、先生の前の「私」。ずっと、『いい子の私』でいようとしてた」

 私は涙を軽く拭って、震えている息を深く吸い込んだ。
 その先の言葉が詰まりそうになるのを必死に堪える。
 
 蒼真はなにも言わずに、そばでじっと待ってくれていた。
 否定も肯定もせず、ただ私の言葉をちゃんと聞いてくれている。
 だから次の言葉も、逃げずに伝えたかった。
 
「ある日の夜……急に限界がきたの。頭が真っ白になって、感情も、思いも、自分自身も……なにもかもがわからくなって、どうでもよくなって。涙は止まらないし、息は苦しいし、胸は押し潰されそうだし……気づいたら……カッター持ってた。それが……最初で最後」

 中三の冬。
 空気が澄んでいて、指先はじんじんと痛いくらに冷たかった。
 でも、その冷たさが心地よかった。
 心の中まで凍って、なにも感じなくなるような気がしたから。
 
 それは溶けてしまった雪みたいに誰にも気づかれなくて──でも、それが救いだった。