拝啓、夜空かかった虹をみつけてくれた君


 日が傾きはじめた公園は子どもたちの姿も少なくて、ベンチのあたりは静かだった。
 花火大会の後、二人で座ったベンチに蒼真(そうま)がいる。
 ポケットに手を突っ込んで、空をぼんやり見ていた。

 私はそっと足音を忍ばせながら近づいて、少しだけ距離を取って隣に座った。

「……来てくれて、ありがとな」

 小さく呟くような声。
 でも、それだけでじゅうぶんだった。
 冷たくなかったことが、すごく嬉しかった。

「……うん」

 返事をしたけれど、どうしていいかわからなくて、しばらく沈黙が落ちた。
 遠くでブランコが軋む音がする。
 冷たい秋風が吹き抜けて、スカートの裾がふわりと揺れた。

「なんか、悪かった」

 不意に蒼真が言った。
 力が抜けていて、でもちゃんと本音で話してくれているのがわかった。
 彼は少しだけ前を向いたまま続ける。

「言いすぎた。あの日……結衣(ゆい)のこと、ちゃんと考えようとしてたのに、俺のほうが感情的になってた」
「……私も。蒼真くんならわかってくれるって、そればっかり考えてた。自分のことしか頭になくて……」

 顔を見合わせる。
 ふっと空気がやわらかくなったのがわかった。

「ごめん。結衣の気持ちもしらずに勝手に怒って、最低だった」
「……ううん。私こそ、ごめんなさい。蒼真くんが言ってたこと、なにも間違ってなかったのに」

 ちゃんと謝ることは、こんなにも緊張するんだと思った。
 でも蒼真の声を聞いたら、それだけで少しほっとしてしまって。
 謝ったことで、あのとき止まってしまった何かがまた少しだけ動き出した気がした。

 花火大会のときとは違う空気。
 ふわふわして、心がくすぐったくなるような感じじゃなくて。
 確かに蒼真の存在を感じるような、そんな空気だった。

「俺さ……」

 風に乗せるように、蒼真がぽつりと口を開いた。

「結衣と違って、人に嫌われてもいいって思ってるんだよね」
「……え?」

 唐突な言葉だった。
 
「いや……っていうか、『好き』とか『愛してる』とか、そういうのってどうせ嘘じゃんって。ずっと信じられなかったんだ」

 蒼真の声はどこか投げやりなようで、それでも真剣だった。
 視線を外したまま、彼は話を続ける。
 
「家ん中ではさ、仲よさそうに見えたんだよ。親。でもさ、どっちも浮気してた。笑えるよな。愛してるフリして、外じゃ他の人と平気で手つないでた」

 あまりにも衝撃的すぎて、言葉を返せなかった。

「バレたの、中二のとき。いろんな噂も立ってさ。俺もグレたっていうか、無気力になって。そしたら今度は、学校でも浮いて。なんか、もう、どうでもよかった」

 自嘲している彼の横顔は、どこか遠くを見ているようようだった。

「で、その頃、よく家の近所の公園で時間潰してたんだ。そしたら、大学生くらいのお姉さんがいてさ。たまたま話すようになったんだ」
「……優しかったの?」
「うん、すごく。明るくて大人っぽくて、飾らない人で。俺の話もちゃんと聞いてくれてさ。だけど、ある日、言われた」

 私は続きを待つように、黙って(うな)ずいた。

「真面目な顔で、『全部どうでもいいって顔してるけど、本当は誰より『わかってほしい』って思ってるんでしょ?』って」

 ふっと、蒼真は口元だけで笑った。

「なんか、そのときハッとしたんだよね。俺、本当は『どうでもいい』んじゃなくて、『もうしんどい』って言えなかっただけなんだって。言えないで黙ってるとさ、勝手に誤解されて、勝手に嫌われてくんだ。だったらもう、自分を誤魔化して過ごすより、本音を言って嫌われた方がマシだなって思った」

 蒼真は軽く肩をすくめて、弱々しく笑う。
 
「だから次の日からは、本音をぶつけた。『気持ち悪い』って親に言ったし、『うるせえ』ってクラスの連中にも言ってやった。そしたら、なんかスッキリした」

 その微笑みからは、今も消えていない痛みが残っているような気がした。
 だけど、蒼真は自分自身と向き合って、乗り越えた。
 自分で自分を変えた。
 そんな彼が人としてかっこいいと思えた。

「でも」

 声色を変えた蒼真は目を伏せて、口元をきゅっと引き結んだ。
 
「その人の手首には、傷があったんだ。最初は何かわかんなかったけど……ある日、増えてて」

 その言葉に、私は反射的に自分の左手首を押さえていた。
 
「明るくて、大人で、優しい人だったのに……いや、そんな人だったから、裏ではずっと辛かったんだと思う。でも何もできなかった。まあ、俺も中学生でガキだったし……どうしたらいいかわかんなくて。たぶん向こうも、そう思ってたと思う」
「そのお姉さんは……どうなったの?」

 私がそっと聞くと、蒼真はかすかに笑って首を振った。

「……わからない。中三のときに、叔父に引き取られたから。それで、この街に引っ越してきた。あの人とは、それっきり」

 静かで穏やかな声。
 だけど、そこから感じたのは、当時の無力さと後悔のようなものだった。
 
「それで、思い出したんだ。高一のとき、ここで結衣を見かけたときに」

 蒼真はついにこちらを向いて、私と目線を合わせた。

「高一……?」
「そう。一人でベンチに座ってた。ちょうど今日みたいな日だったかな。すごく寂しそうな顔して。そのとき袖から見えたんだ……似たような傷」

 思わず自分の左手をぎゅっと握る。

「見間違いかもしれない、何かで怪我したのかもしれない。そう思った。思いたかった。でも……気になって、ずっと結衣のこと見てた」

 知らなかった──。
 蒼真がそんなふうに見ていたなんて。
 私が知るよりも前からずっと、彼は私のことをちゃんと見てくれていたんだ。
 
「いつも元気で明るくて、廊下ですれ違うときも笑ってて……どうしても、自分で手首を切るような子には思えなかった。でも、またこの公園で泣きそうな顔をしてるのを見たとき、確信したんだ」

 蒼真は視線をそっと落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
 
「今度こそ、見てるだけで終わらせたくなかった」

 押しつけじゃない。
 憐れみや同情でもない。
 過去を背負った彼の「決意」だった。
 
「同じクラスになって、すぐに隣の席になったとき……この子の力になろう、って。そう誓ったんだ。何ができるかわかんないけど、それでも、何かできるかもしれないって」

 そう言った彼は、見たことないほどの優しい微笑みを浮かべている。
 悲しさも、辛さも、寂しさも、全部を抱きしめてくれるような、あたたかい笑顔だった。