翌朝の教室は、何事もなかったかのような当たり前の空気だった。
楽しげな会話、誰かの眠そうなあくび、チャイムの音。
変わらないはずなのに、今日は自分だけ取り残されたみたいに遠く聞こえた。
「結衣、おはよ!」
瑛美梨の声が隣で響く。
私は笑うタイミングを間違えたみたいに、曖昧に返事をした。
教室のドアが開いて蒼真が入ってくる。
姿を見た瞬間、心臓がぎくりと動いたけれど、彼の目は私に気づくことなくあっさりと通り過ぎていった。
見ないようにしてるのか、それとも本当に見てないのか。
どっちにしろ、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「え、なんか……結衣と蒼真、なにかあった?」
不思議そうに瑛美梨が尋ねてきた。
いつもなら軽く挨拶を交わすのに、それがなかったからだろう。
「……全然、なにもないよ! 蒼真くん、今日は眠たいとか?」
必死に笑ってごまかす。
上手に嘘をつけてる自信はなかった。
──蒼真くんとあんなふうになるなんて、思ってなかった。
話を聞いてほしかっただけなのに。
どうしてあんな言い合いになってしまったんだろう。
それに、龍二の告白の返事だってまだ出していない。
ずっと引っかかってるのに、考えようとすると胸が苦しくなる。
ちゃんと気持ちを伝えてくれた人に対して、私は何日も何も言えずにいる。
申し訳ないとも思っている。
だけど、蒼真とまでこんなことになって──もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。
誰にも気づかれたくないのに、周りはじわじわと違和感に気づき始めている。
落ち着かない心のまま、私は席に着いた。
◆
放課後のチャイムが鳴っても、蒼真とはまともに会話すらできなかった。
けど、ふとした瞬間──たとえば授業中、彼が後ろの席の誰かに話しかけるとき。
その流れで、ほんの一瞬だけ視線をこちらに向けてくるのがわかった。
ちらりと何気ない視線だけど、明らかに「見ている」とわかる視線だった。
それでも、一言も、なにも言ってこなかった。
私も声をかけようとは思えなかった。
どんな顔をすればいいのか分からなかったし、もしまたぶつかるようなことになったら、もう戻らない気がして怖かった。
「結衣、なんか今日元気ないね」
瑛美梨たちが声をかけてきたけど、私は「そんなことないよ」と首を振って答えた。
蒼真はとっくに教室を出て行った。
無言のまま、何もなかったみたいな顔をして。
まただ、と思う。
ちゃんと向き合いたいのに、自分から距離をつくってしまう。
誰からも嫌われたくないって、いい子だと思われたいって──そうやって取り繕ってきた。
その結果が、今のぐちゃぐちゃの自分。
──蒼真くんは、なにも間違ってない……。
昨日の彼の背中を思い浮かべる。
怒ったような顔と飾らない真剣な言葉。
普段どんなにくだらないことで笑っていても、彼が本音を言うときは、いつだってまっすぐだった。
だからこそ、あの背中が遠くて仕方なかった。
帰り道、ふとスマホを見ても、蒼真からのメッセージはなかった。
◆
次の日の放課後。
空はどんより曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。
──雨、振ればいいのに……。
普段なら思わないことを、ぽつりと呟く。
今のこの苦しい気持ちも、全部洗い流してくれたらいいのにって思った。
この日も蒼真とほとんど話さなかった。
というより、蒼真があえて私を見ないようにしている感じがした。
「ねえ、本当になにもないの? 喧嘩したなら間に入ろうか?」
瑛美梨がそっと問いかけてきた。
声のトーンも眼差しも優しくて、気を遣ってくれているのがわかる。
でも、どう説明すればいいのかわからなかった。
本当のことを話したら、自分がどれだけ幼稚でひどいことをしたかが露呈してしまう気がして。
「ちょっとだけ……喧嘩っていうか。でも平気! 蒼真くんもガンコだからさ!」
口元だけ笑って、なんとか明るく言ってみせた。
──ああ、なんでまた、こんなふうに言っちゃうんだろう。
悪いのは蒼真じゃない。
自分勝手で、ズルくて、誤魔化して、ちゃんと向き合わなかった自分なのに。
そんな自分に気づきながらも、言い訳みたいな言葉しか出てこない。
──本当は全部、私のせいなのに。
頭ではちゃんとわかってる。
わかってるのに、「私が悪い」って認めるのがどうしてこんなに怖いんだろう。
ごめんねって言いたいのに。
言えたら、きっと少しは楽になれるのに。
蒼真があんなふうに怒るなんて思ってなかった。
わかってくれるって思ってたから。
でも、彼に頼りすぎていたんだ。甘えてすぎていたんだ。
──このまま終わっちゃうのかな……。
そんな考えがよぎるたび、喉の奥がぎゅっと詰まって苦しくなる。
前みたいに笑って話せたらって思うのに、どうすればそこに戻れるのかもわからなかった。
帰り道、ふとスマホが震えた。
《今日、話せる? あの公園で待ってる》
名前を見ただけで、心臓がひときわ大きく跳ねた。
蒼真からのメッセージ。
短くて、でもちゃんと向き合おうとしてくれてるのが伝わってきて、身体中が熱くなる。
──また、話してくれるんだ…。
涙が出そうになるのをぐっとこらえながら、私はスマホを握りしめた。
──ちゃんと話さなきゃ……。
怖い。
でも、このままじゃきっと、もっと後悔する。
《うん、行くね》
そう打ち込んで、私は足を速めた。



