蒼真とふたり、私たちはまた校舎裏のベンチに並んで座っていた。
あと数時間で終わってしまう文化祭。
最後の盛り上がりを見せるように、楽しげな声が校庭から聞こえてくる。
風が少し冷たくなってきて、私は両手をひざの上に置いて指先をもぞもぞと動かした。
さっきまで握られていた手。
あんなに恥ずかしかったのに、いざ離されると変に意識してしまって手の置き場に困った。
「さっきの遠藤さんのやつ……」
蒼真がぽつりと言った言葉に、私は思わず背筋を伸ばす。
「結衣、断れなかったでしょ?」
「……あ、うん」
「でも、嫌だったよね?」
確信めいた声音で蒼真は私の目をまっすぐ見つめてくる。
その目を逸らせなくて、息が詰まりそうになる。
「誰かのために動けるのは、結衣のいいところだと思う。でも、ちゃんと『嫌だ』って言わなきゃ自分が壊れちゃうよ」
静かに、でも深く胸の奥に染み込んでくる。
優しいのに、甘くない。
蒼真の言葉に、心の奥の何かがふるえた。
「自分を後回しにし続けるのって、優しさじゃなくて、我慢だと思う」
目頭がじんわりと熱くなって、視界が少しだけ滲んだ。
顔を上げられない。
どこかでずっとわかってた。
でも、それをちゃんと誰かに言われたのは初めてだった。
「そうかも、しれないね」
うつむいたまま、私は精一杯の笑顔を作って答える。
蒼真はそれ以上なにも言わず、ただ私の隣でそっと微笑んでくれていた。
◆
日が傾きはじめ、校舎の影が長く伸びたころ。
「以上をもちまして、今年度の文化祭はすべてのプログラムを終了いたします。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました」
スピーカーから流れるアナウンスが、夕方の空気にゆっくりと溶けていった。
楽しかった時間は、夢の終わりのように余韻だけを残して幕を下ろしていく。
人の波が引いていき、さっきまでの喧騒が嘘のように校舎が静まり返った。
「いやー! 疲れたけど無事に終わったし! めっちゃ楽しかったな!」
龍二が大きく伸びをして、肩を回す。
ざっと片づけを終えた教室にはオレンジ色の日差しが差し込んでいる。
残っているのは実行委員の私と彼のふたりだけだった。
「うん、ほんと。実行委員やってよかったって思える」
瑛美梨と遼、それに千奈津は恋人同士で楽しそうに過ごしていたし、莉子のダンスもすごくかっこよかった。
クラスの子たちも、みんな「お疲れ!」「楽しかった!」と声をかけてくれるのが嬉しくて、達成感で溢れている。
──でも、やっぱり……。
今日いちばん胸に残ってるのは、蒼真と過ごした時間だった。
「俺はもう実行委員はいいかなあ。男手が足りないって、ステージの裏方ばっかりだったし」
肩をすくめながら、どこか苦笑いみたいな顔をして龍二が呟く。
「自由な時間もあんまなかったしさあ。結衣は誰と過ごしてた?」
「私? 見回りしたり、瑛美梨たちと莉子のダンス見たり……あと蒼真くんと過ごしたりしたかな」
思い返して、また少し頬が熱くなる。
甘いもの好きなのがバレていて、一緒にクレープやいちご飴を食べて、手を引かれて──。
「……渡辺と、ふたりだけで?」
わずかに声の低くなった問いかけに、頭の中で再生されていた思い出が急に止まった。
ただの確認のようでいて、探るような響きを含んでいる。
「うん。そうだけど……」
言葉に詰まる自分がいた。
やましいことなんて何もないのに、なぜか罪悪感のような気持ちが胸をかすめる。
「結衣と過ごせる時間が増えると思ってたのに……やっぱ、実行委員なんてなるんじゃなかった」
彼の言葉がぽつりと落ちたとき、教室の空気が揺れた気がした。
冗談とは思えない口調の中には、切実な響きも感じる。
楽しかった、と思っていた一日の終わりが、急に別の色に変わり始めた気がした。
静寂が気まずくなり、なにか声をかけようとした矢先、龍二が重々しく口を開いた。
「俺さ、高一のときからずっと……結衣のこと、好きだったんだ」
その言葉は教室の静けさを切り裂くように、まっすぐに届いた。
ふざけるような色は一切なくて、龍二の目は正面からブレることなく私を見ている。
「最初はさ、ただ『可愛いな』って思ってただけなんだ。でも、同じクラスで過ごすうちに……いつの間にか、目で追ってて。話しかけられた日は、ちょっと嬉しくてさ」
彼は言葉を選びながら、丁寧に、慎重に、でもどこか苦しそうに言葉を紡いでいく。
私は何も言えず、ただその声に耳を傾けるしかなかった。
「結衣が誰かのことを好きになってるかもしれないって、わかってた。……でも、伝えずに終わるのはもっと嫌だったんだ」
龍二が目を伏せ、笑うように小さく息を吐いた。
「だから……一度でいいから、俺とちゃんと向き合ってほしい。返事、すぐじゃなくていいから」
何かを言わなきゃって思うのに、声が出なかった。
喉の奥がぎゅっと縮こまる。
向き合わなきゃいけない。
でもすぐに答えを出すには、あまりにも龍二は優しすぎて、誠実すぎて──。
龍二のことは好き。
一緒にいて苦ではないし、優しいところも、気遣ってくれるところもちゃんと見てる。
でも、私の『好き』と彼の『好き』はたぶん、違うもの。
──だけど……。
はっきりと言う勇気が出ない。
どんなふうに答えれば、彼は傷つかずに済むんだろう。
どんな言葉を選べば、私は嫌われずにいられるんだろう。
自分でもよくわからなくなった。
ちゃんと向き合わなきゃいけないって、わかってるのに。
それでも嫌われるのが怖くて、口を開くのが遅れた。
「すぐに答えは出せなくて……。ごめんね、ちゃんと考えるから」
そう言うしかなかった。
龍二は少しだけ眉を下げたけど、すぐに笑ってくれた。
「うん……ありがと。それだけで、十分」
彼の声には少しだけ安堵が滲んでいる。
無理やりな笑顔がやけに大人びて見えて、小さな罪悪感を抱いた。
「じゃあ、また明日」
軽く手を振った龍二が先に教室を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
──告白……はじめてされた……。
私は一人その場に残って、呆然としながら誰もいない教室を見渡した。
飾り付けの名残がちらほらと残る教室。
机の上には誰かの忘れた紙コップ。
窓の外には夕焼けに染まった空。
世界はこの日の終わりを告げるかのように、そっと静まっている。
──ちゃんと、答えるから……。
心の中で呟いてみても結論は出そうにない。
まだ揺れていた。
けれど──もう心の奥では答えが決まりかけているのかもしれない。
誰かの顔を思い浮かべそうになって、私はそっと目を伏せた。



