拝啓、夜空かかった虹をみつけてくれた君


 教室に戻ると、すでに蒼真(そうま)(りょう)、それから衣装を持参した他の男子たちも着替えを終えていたようで、それぞれが談笑していた。
 視界に入った蒼真は、落ち着いた色の(はかま)に詰め(えり)の白シャツという装いをしている。
 カジュアルな私服姿とはまた印象が違って、蒼真がいつも以上に大人びて見えた気がした。

 ──かっこいい……。

 何を考えるでもなく、そんな感想がふっと浮かぶ。
 そして、すぐに恥ずかしさがこみ上げた。
 彼がかっこいいのなんて、今に始まったことじゃない。
 なのにどうしてか、心臓がどきんと大きく跳ねたように感じた。
 自分でも驚くほど、顔が熱くなる。

 ──落ち着け、私。

 そんなふうに自分に言い聞かせていたときだった。

「お、瑛美梨(えみり)! 似合ってんじゃん!」

 着替えから戻ってきた私たちに気づいた遼が声をかけたが、その視線の先には瑛美梨しか映っていないようだった。
 
「ありがとっ。頑張って髪も綺麗にしたんだ」
「超かわいい!」

 早くも二人の世界が出来上がる。
 その微笑ましい姿に、莉子(りこ)千奈津(ちなつ)の三人で目を合わせて「やれやれ」と笑みを交わした。
 
「結衣は? どうすんの?」
「蒼真くんのとこ、行ってきなよ~」

 莉子と千奈津が、ニヤニヤと笑いながら顔を覗き込んでくる。
 冗談めかした声色。
 でも、この二人のことだから本気でそう言ってるのかもしれない。

「私は……別にいいよ!」

 焦るように言いながら、つい蒼真のほうを見てしまった。
 ちょうどそのとき、彼もこっちを向いていてバチッと目が合った。

 ──わっ……。

 どきん──と、さっきよりもっと強く心臓が跳ねた。
「蒼真くん……」と小声で呟きそうになったとき、教室に陽気な声が入る。
 きらびやかな和風のヘアアレンジに、手の込んだアクセサリー。

「蒼真〜! なにその和服姿、反則じゃん! 写真撮っていい?」
「うわ、やば、めっちゃ似合ってんじゃん!」

 奈々たちがきゃっきゃと声をあげながら、蒼真に駆け寄っていく。
 彼は少し驚いたように笑って、すぐに奈々たちの方へ顔を向けた。
 
 視線が、外れる──。

 たったそれだけのことで、胸に小さな穴が開いたような気がした。

「ほら。やっぱり、私じゃなくてよかったんだよ」

 私は笑顔を作った──つもりだったけど、上手く笑えているか自信がなかった。

「えー、そんなことなかったのに」
「絶対今のチャンスだったよ〜!」

 二人が口をとがらせて抗議してくる。
 だけどその言葉は、もう作った笑顔の奥に消えてしまった。

 笑いながら蒼真の隣に自然と入り込んだ奈々。
 距離が近くて、ふいと視線を逸らしてしまう。

 ──なんだろう、この感じ。

 蒼真が悪いわけじゃない。
 でも、さっきまでほんの少しだけ近く感じていた距離がスッと遠ざかっていく──そんな気がした。

「私……ちょっと、準備の確認してくるね」

 そう言って、ひとり教室から出ていく。
 準備の確認なんて本当はなかったけれど、どうしてもその場に居られなかった。
 胸の奥で、正体のわからないモヤモヤが静かに広がっていた。

 ◆

 元気なアナウンスと陽気な音楽が校舎に響き渡る。
 ついに、文化祭が幕を開けた。

 教室を開け放ったクラスのカフェには、開始早々からお客さんがひっきりなしに訪れている。
 みんながそれぞれに割り振られた仕事をこなし、袴姿で動き回る。

 教室は笑顔であふれていて、みんな楽しそうだ。

 それに、飲食店でアルバイトをしている子たちが先陣を切ってテキパキと接客してくれていたおかげで、流れは思っていたよりずっとスムーズだった。
 私も、自分にできる範囲でお客さんの誘導や案内、出入り口の整理、掲示物のチェックと、気づけばあちこちを駆け回っていた。

 ──忙しいけど、楽しい。

 そんなふうに思ったのも束の間、気がつけば二時間経っていて、慣れない接客に足も少し重たくなっていた。

「じゃあ、私は見回りに行かなきゃだから抜けるね」

 声をかけると、ようやくほっとした気持ちが込み上げてきた。
 見回りが終わったら休憩できる。あともう一息だ。
 
「おっけー! カフェのことは任せて!」

 接客慣れしている子たちのあまりの頼もしさに、気が楽になった。
 彼女たちがいれくれるなら、カフェは大丈夫に違いない。
 
「ありがとう」

 私は周りに声をかけてから教室を出た。

 ◆

 見回りの仕事は、本番ぶっつけだったこともあって想像以上に(せわ)しなかった。
 教室から教室へと足を運び、円滑に進んでいるか、トラブルが起きていないかを一つひとつ確認していく。
 クラスごとの出し物の進行具合をチェックしつつ出店の配置にも目を配り、最後に「頑張ってください」と声をかけて回っていった。

 時間が経つにつれて少しずつ慣れてきて、最初はバタバタしていたけれど、なんとか見回りを終えることができた。
 三年生の実行委員長に報告を済ませた瞬間、ようやく肩の力が抜ける。

「はあ〜……終わったあ……」

 声が漏れた。
 思った以上に疲れていて、立っているだけなのに足が重たい。
 気づけば、お昼の時間はとっくに過ぎていた。

 ──どこか、静かな場所でひと息つきたいな。

 なんとなく人混みを避けたくて、私は校舎裏のスペースへと向かうことにした。
 軽音部の演奏が聞こえてきて、どこかの教室からは甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
 活気に包まれた文化祭の空気を背に、私は足を速めた。

 校舎裏にある、誰もいないベンチ。
 そこに腰を下ろした瞬間、やっと胸いっぱいに息が吸えた。

「……疲れたなあ」

 ぽつりと呟き、空を見上げる。
 気持ちがいいくらいの秋晴れの下、文化祭の喧騒から隔離されたように、金木犀のかすかな香りが風に乗ってきた──そんなときだった。
 
「見つけた」

 突然、後ろから声がして振り返る。

 そこには蒼真がいた。
 袴姿のまま、手にペットボトルを二本ぶら下げて、わずかに息を切らしている。
 額にかかった前髪が風に揺れていた。

「はい。実行委員、お疲れ様」

 蒼真は片方のペットボトルを差し出す。

「……え、いいの?」
「これは結衣の分だから。学校の自販機って、無糖の紅茶ないんだな。だから無難に水にしてみた」

 あの夏の花火大会で瑛美梨と話していたことを、蒼真は覚えてくれていた。
 私がよく無糖の紅茶を選ぶという、ほんの些細なこと。

 ──わ……どうしよう、嬉しい……!

 高鳴る鼓動をごまかすように、小さく「ありがとう」と呟いて、差し出されたペットボトルを受け取った。
 ずっと動き回っていたはずなのに、今になって心臓の音がやけに大きく響く。

「となり、座っていい?」
「……うん」

 木々の葉がさらさらと揺れ、遠くからはライブの音と誰かの笑い声が届く。
 でも、ここだけは時間の流れが少しだけ遅れているような、そんな気がした。