新しい席──蒼真が隣にいない空気にも慣れてきた、ある日の終礼。
 担任が黒板の前に立ち、手元の資料をめくりながら口を開いた。

「はい、これから文化祭の実行委員を決めるぞ」

『文化祭』という響きに、教室内がざわめく。
 文化祭実行委員は、各クラスから男女一人ずつ選ばれることになっている。
「もうそんな時期か」「何やる?」「楽しみーっ!」と言う声はあちこちから聞こえるものの、肝心の実行委員になることには誰も触れない。

「いないと思うが、やりたい人ー?」

 沈黙。
 みんな揃って先生から目を逸らす。
 案の定、進んで手を挙げる人はいなかった。

「うーん。多数決か、くじか。とりあえず、決めないとみんな帰れないぞー」

 強制するでもなく、先生は気の抜けた声で教室を見渡す。
「早く決めよ、帰りたい」「クジでいんじゃね?」「絶対やりたくない」と、わずかに不穏な空気が流れ始めた。

 このままだと無理やり決められるか、くじ引きコースになってしまう。
 面倒そうに視線を落とす子もいれば、「押しつけられるのだけは避けたい」と言わんばかりに、そっと身を縮める子もいる。
 
 ちょうどそのとき、隣から声がした。

「先生、俺やりますよ」

 驚いて横を見ると、龍二(りゅうじ)がひょいと片手を上げていた。

「お、さすが日下部(くさかべ)だな」
 
 先生が少しほっとしたように(うなず)く。
 教室内にも「まあ、いいんじゃないか」と小さな波が広がった。

「男子は決まりだな。女子は、誰かいないか?」

 先生が視線を向けると、女子たちは気まずそうに目を逸らす。
 ざわざわとした空気の中で、明らかに「私はやりたくない」という雰囲気が漂っている。

 その沈黙を破ったのは、またもや龍二だった。
 
「先生。推薦でもいいですか?」
「おお。本人がやるかは置いといて、誰を推薦したいんだ?」

 不穏な気配を感じ、私は隣を見る。
 すると、龍二がイタズラっぽく口角を上げていた。

 ──これは……いやな予感が……。

「結衣がいいです」
「わ、私!?」

 あまりにも予想通りの展開に、思わず声が上ずる。
 そんな私をよそに、龍二はどこまでも軽やかに続けた。

「みんなの意見を聞いてくれるだろうし、結衣はそういうの上手いと思うんです」

 教室内の何人かが「確かに」と(うなず)いた。
 私の少し前の席になった瑛美梨(えみり)も、「結衣が適任だと思う」と明るい声で賛同する。
 波紋が広がるように、賛成の声が次々と生まれた。
 
高見澤(たかみざわ)か。いい人選だと思うが、どうする?」
「私は……」

 本音を言えば、やりたくない。
 三十五人の自由奔放な十六歳をまとめるなんて面倒だし、祭りごとは適度に参加して、美味しいところだけ楽しむのが一番だ。

 だけど。
 クラスの視線が集まる中で、じわりと広がるのは困惑と、少しの嬉しさ。
「結衣にやってほしい」「結衣なら」と言われて、「私は向いてないよ」なんて言えない。断れない。
 
 でもそれ以上に、みんなの視線を心地よく感じてしまう。
 頼られる「私」。求められる「私」。
 誰かに必要とされるたびに、「私」が満たされる気がした。

「わかりました、やります」

 決まっていた答えを出すと、どっと拍手が起こった。
 先生は「ありがとう。この二人なら大丈夫だな」とメモを取る。
 その間、龍二が「よろしくな」と親指を立てていた。
 私は「うん」と(うなず)きながら、斜め前の席を一瞥(いちべつ)する。

 ──目が……合った。

 蒼真がこちらを見ていた。
 でも、いつものような笑顔じゃない。
 わずかに眉を下げて、ただじっと。
 見据えるように。

 息が詰まる。
 何か言われるわけでもないのに、鼓動が強くなるのがわかった。

 ──なんで、そんな顔するの……。

 思わず視線を外す。
 さっきまでの拍手の余韻が遠くに聞こえて、心音がうるさく響く。

 ──まだ見てる……?

 もう一度、おそるおそる目を向けた。
 今度は、何かを言いたげに微笑んでいた。

 その意味も、自分の気持ちも、何ひとつわからない。
 私は膝の上でこっそりと拳を握りしめることしかできなかった。
 

 文化祭の実行委員も決まり、終礼が終わった教室はすっかり文化祭モードに変わっていた。
 
「何の出し物にする?」
「お化け屋敷とか!」
「ヤダよ! 準備大変そうだし」
 
 あちこちでいろんな話題が飛び交う中、私は誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。

 ──選ばれた以上は、ちゃんとやらなきゃ。

 気合いを入れ直すように心の中で呟いけれど、さっきの蒼真の視線がずっと引っかかっていた。

「結衣ー! 頑張って! 私も出来ることは手伝うから!」

 明るい声が飛んできて、顔を上げる。
 瑛美梨と莉子(りこ)千奈津(ちなつ)が、私の席まで来て励ましてくれた。

「ありがとう、頑張る! 楽しい文化祭にしようね」

 ふっと笑顔を作って返しながら、胸の奥に広がるもやもやを押し込めた。

 ──大丈夫。

 文化祭の準備が始まれば、そんなこと気にしてる暇もなくなるはず。
 そう言い聞かせながら、三人の話に耳を傾ける。

「莉子はこれから部活だっけ?」
「そうそう。先生が急に難易度高い振り付け入れてきてさ! それがもうマジでしんどい!」
「莉子のダンス、去年もすごかったよね。今回も期待してる!」
「やめて、プレッシャー!」

 莉子はダンス部で、文化祭でもパフォーマンスを披露することになっている。
 元陸上部だった彼女のダンスは、しなやかで芯がある。一言で言うなら、すごくかっこいい。
 ボーイッシュな彼女のステージを楽しみにしている人は多い。
 
「で、千奈津は?」
「私はカレシに会うの」
「え、彼氏?」

 思わず聞き返すと、千奈津はツインテールの毛先を指でくるくるともてあそびながら得意げに笑った。

「そう、つい最近付き合いはじめたの! ユウくんって言うんだけど、優しくて超カッコいいんだあ」
「え、つい最近って、この前の彼氏と別れたばっか……」
「そうだけど。恋しない人生とか、ありえなくない?」
「千奈津らしいわ」

 莉子が苦笑しながらツッコむ。
 千奈津の恋愛の切り替えの速さは相変わらずだけど、本人はとても楽しそうにしている。
 恋するたびにキラキラして、それを全力で楽しんでるのが千奈津らしい。

「じゃ、私は部活行くね!」
「頑張ってねー!」
「私もユウくんに会う前にメイク直ししなきゃ」
「今度はすぐ別れちゃダメだよ」

 昇降口に向かう途中で、莉子と千奈津がそれぞれの予定へと消えていった。
「また明日ね」という千奈津の明るい声が、廊下に響く。

 そして昇降口に着くころには、瑛美梨と二人だけになっていた。
 靴箱の前には、すでに二人の男子生徒。
 その姿を見て、私は足を止めた。

 ──蒼真くん……。

 彼と一緒にいたが(りょう)がこちらに気づいて、軽く手を上げる。

「お、瑛美梨と実行委員!」

 軽い調子で言われた「実行委員」という言葉に、私は少し肩の力を抜いて笑った。

「遼!」

 瑛美梨がパァッと表情を輝かせて、乙女のような声色で駆け寄っていく。
 彼の腕を軽く引っ張りながら、楽しそうに会話を弾ませる。
 そのまま二人だけの空間が出来上がってしまい、なんとなく視線のやり場に困った。

「結衣なら安心して任せられるな」

 ふいにかかった声に、私は顔を上げる。

「え?」

 蒼真は特に何かを考える風でもなく、靴を履きながら続けた。

「実行委員。結衣なら大丈夫でしょ」

 何気ない言葉なのに、妙に心がざわつく。
 みんなにも言われたけれど、蒼真に言われると少し違う気がした。

「うん、頑張るよ」

 そう返した声色は、自分でも少し歯切れが悪いと思った。
 それを誤魔化すように靴箱を開け、上履きを脱ぐ。
 その間、隣では瑛美梨が遼と小声で話していた。

「ねえ、私たち先に帰ってもいいかな?」

 瑛美梨がちらりと私を見て、控えめに笑う。
 すでに遼とは並んで立っていて、彼女の意図は明らかだった。

「もちろん、気にしないで」

 そう答えると、瑛美梨は嬉しそうに微笑んで「ありがとっ」と小さく手を振る。
 遼のそばにいる彼女の横顔が輝いて見えた。

 ──恋する女の子って、可愛いな。

 目を輝かせて、少女漫画のヒロインみたいにときめいて。
 千奈津がいつもキラキラしている理由が、少しわかった気がする。
 昇降口を出ていく二人の背中を、蒼真と一緒に見送った。
 
「うーん、青春だね」

 蒼真がくつくつと笑う。
 私もつられて、くすりと笑った。

「本当。いつ見てもお似合いって感じ」
「だな。あいつら、前からああいう雰囲気だったし」
「そうそう、見てるこっちが幸せな気持ちになるやつ」

 蒼真は「わかる」と(うなず)いて、少しだけ間を置いてから私を見た。

「結衣はさ。そういうの、いいなって思う?」

 思わぬ質問に、私は言葉を詰まらせる。
 瑛美梨と遼みたいな──お互いに気を許して、自然に隣にいる関係。

「……うん。素敵だなって思うよ」

 正直な気持ちを口にすると、蒼真は少しだけ目を細めて「そっか」と小さく笑った。
 その表情がいつもと違って見えて、心の中がまたざわめいた。