翌朝。
教室に入ると、いつもと少し違う空気が流れていた。
妙にそわそわしているクラスメートたちの視線が、黒板の隅へと集まっている。
視線を向けると、大きく手書きされた「席替え」という文字が飛び込んできた。
──あ、席替え……。
朝のホームルームで行われるらしい。
あちこちで「次は近くになりたいね」「窓際がいいな」なんて、期待と不安の入り混じった声が飛び交っている。
──窓際の一番後ろも、今日で終わりか……。
ぼんやりと鞄を肩から下ろし、ため息混じりに席へと向かう。
教室の特等席から眺める景色も、今日で見納めだ。
「結衣、おはよう」
軽やかな声が耳に届いた。
隣の席の蒼真が、いつものように声をかけてくる。
「おはよう」
私もいつものように笑って返す。
隣の席になったばかりの頃は、ぎこちなく取り繕うような挨拶しかできなかった。
でも今はもうそんなこともなくて、自然に言葉が出るようになっている。
だけど今日は──ほんの少しだけ違った。
「結衣の隣も今日でおしまいかあ」
何気なく言った彼の言葉に、一瞬心臓が跳ねる。
──私は、どう感じているんだろう。
名残惜しい? 残念? しょうがない?
ぐるぐると巡る感情に整理が追いつかず、私は「あっという間だったね」と、ありきたりな言葉を返した。
「また結衣の隣になったら、もう運命じゃね?」
蒼真がさらりと、イタズラっぽく笑う。
──う、運命……!?
驚いて顔を上げたけれど、本人は特に深い意味もなさそうに、ただ楽しそうに笑っているだけだった。
蒼真は、きっと誰に対してもこんな風なんだろう。
私が特別なわけじゃない。
そう思った瞬間、心臓がズキッと捻れるように痛んだ。
まもなく本鈴が鳴り、先生が教室へ入ってくる。
普段なら誰もが気だるそうに迎えるところなのに、この日ばかりは違っていた。
待ちわびていたかのように、みんなが素早く席につく。
「おはよう。じゃ、さっそく席替えするぞ」
先生が手に持っているのは、小さな紙が詰まった箱。
くじ引き方式の席替えは、前回と同じらしい。
箱を抱えた先生が手際よく生徒たちの席を回っていく。
みんな箱に手を入れる前に「頼む! 一番後ろ!」「友達の近くに……」「一番前じゃなきゃどこでもいい!」などと思い思いの願いを口にしていた。
──私は残り物か……。
前回の席替えのとき、蒼真が「残り物には福がある」と先生からツッコミをされていた席だ。
あのときは、まさか自分がこの席に座って、蒼真が隣になるなんて思ってもいなかった。
正直、席なんてどこでもいいと思っていたのに。
「最後に高見澤が引いておしまいだな」
先生が目の前に立ち、箱を差し出す。
クラス中の視線がこちらに集まった気がした。
静かに息を吐いて、そっと箱の中に手を差し入れる。
指先が小さな紙に触れた。
どれを選んでも結果はもう決まっているのに、心臓はやけにうるさく跳ねていた。
紙を引き抜き、そっと開く。
──十七番……。
どこの席なのかは、まだわからない。
「じゃ、番号貼り出すぞ」
先生が黒板に紙を広げると、みんなが固唾を呑むように黒板に注目した。
貼り出された席順の数字と自分の引いた番号を照らし合わせる。
──あった。
自分の新しい席を確認したと同時に、教室のあちこちから歓声や落胆の声が飛び交った。
「結衣はどこになった?」
うずうずしたように蒼真が身を乗り出してくる。
「入り口側二列目の、後ろから二番目」
「そっかあ。俺、正反対だわ。この列の前から三番目」
がっかりとした口調で椅子に深くもたれて、唇をとがらせた。
──蒼真くんとは、遠くなっちゃったんだ。
意識してなかったつもりなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「でもすごね、また窓側の方だなんて」
少しでも明るい話題にしようとして言葉を探すと、蒼真は「まあね」と言いながら、黒板の席表をちらりと見やる。
「どうせ変わるなら、もっと違う場所がよかったよ」
はあ、と大きくため息をついて、彼はポケットに手を突っ込んだ。
そして、ぽつりと独り言のように呟く。
「運命、あると思ったんだけどなあ」
私と目を合わせた彼は、ふっと微笑んだ。
──ああ、そうか……。
わかった気がした。
窓際の特等席から離れるのが惜しいんじゃない。
ただの席替えで名残惜しさを感じてるわけでもない。
私、寂しいんだ。
彼と離れることが。
それは、ただ「今まで隣だった人と席が遠くなるから」という単純な理由じゃない。
誰とでも分け隔てなく話して、いつも周りに誰かがいる彼が、こんなふうに私にだけ「運命」なんて言葉を投げかける。
その特別みたいな響きが、嬉しかったのかもしれない。
だけど、それもおしまい。
これからは新しい席の隣の人と、彼はまたあの調子で話すのだろう。
──私じゃなくても、きっと……。
心臓がぎゅっと縮まる。
この気持ちの名前はまだわからない。
ただ、蒼真の存在が、いつの間にか私の中で大きくなっている気がした。
◆
席替えが無事に終わり、朝のホームルームもひと段落した。
教室はまだ少しざわついていて、みんな新しい環境に胸を躍らせているようだった。
「お、結衣じゃん。隣になるなんて、高一の秋以来?」
新しく隣になった男子の少し驚いた声が響く。
にっと笑って声をかけてきたのは、日下部龍二だった。
おおらかで気さくな性格で、特別目立ちはしないけど明るい男の子。
すごく親しいわけではないけれど、高一のときにも同じクラスだったし、これまで普通に話したこともあった。
「うん、久しぶりだね」と、私は軽く笑って答える。
気が楽だな、と思った。
彼には深く踏み込まれることもないし、私も踏み込まない。
上部だけの「私」でいれば、余計なことを考えずに済むし、ほどよい距離感でいられる。
「結衣は窓側だったよな。俺、窓側の一番後ろって一回もなったことないから羨ましいわ」
「そうなんだ。すごいよかったよ」
そう言って、わずかに自嘲する。
よかった理由は、特等席だったから──ではなかった。
「なんか俺、けっこう教室の入り口側になること多くてさ。だから、今回もそっちかーって感じ」
「すぐに帰れていいじゃん」
あははと笑ってみたものの、龍二がいつもどこに座っていたかなんて考えたこともなかった。
──龍二くんは私の席を覚えてたんだ……。
そんな風に思うと、少しだけ申し訳ない気がした。
やがてホームルームが終わり、授業が始まる。
先生が教科書を開くように指示し、教室内に紙をめくる音が広がった。
黒板に書かれる文字を目で追っていたはずなのに、ふと視線が逸れる。
──あ……。
気づいたら、遠くにある斜め前の席を見つめていた。
頬杖をつきながら外を眺めている横顔──。
近くにいたときは、こんなふうに彼をじっくり見ることなんてなかったのに。
遠くなった途端、目が勝手に追いかけてしまう。
──これって、なんなんだろう。
心臓がとくんと跳ねた。
こんな鼓動、今まで感じたことがない。
ふわふわとした熱が胸の奥に広がって、じわりと頬が火照る。
このままじゃだめだと慌てて目をそらし、ノートに視線を落とした。



