電車の速度が緩やかに落ち、私と蒼真(そうま)の最寄り駅へと滑り込んだ。

「じゃあ、またな」
「二人も気をつけてね」

 電車が完全に停止し、私と蒼真はホームへと降りる。
 瑛美梨(えみり)(りょう)に手を振ると、瑛美梨が「バイバイ、また連絡するね」と手を振り返し、遼は蒼真の方を見て「ちゃんと結衣のこと送ってやれよ」とへへっと軽く笑った。

 遼の何気ない一言に、心臓がドキンと跳ねる。

 ——送ってやれよ、って。
 
 それだけの言葉なのに、なんでこんなに意識してしまうんだろう。

「お前も、ちゃんと瑛美梨のこと送ってやれよ」

 蒼真が軽く手を上げて、ひらひらと振ってみせる。
 何事もなかったかのように振る舞う蒼真を横目で見ながら、私はぎこちなく微笑み続けた。

 扉が閉まり、電車が動き出す。
 窓越しに瑛美梨と遼が手を振っている。
 私もそれに応えるように、手を振り返した。

 電車の光が星のように小さくなるまで見送っている間に、何人もの人たちが改札を抜けていく。
 私は電車から降りた場所から動けずにいた。
 隣にいる蒼真も、同じように電車を見送っている。
 その場に残った私たちの沈黙が、ゆっくりと駅のホームを満たす。
 風が吹き抜けて、遠くで踏切の音が響いた。
 
「結衣、まだ時間ある?」

 蒼真の声に、私は顔を上げる。
 
「時間?」
「そ。ちょっと公園寄らない?」
「……うん」

 私はスマホの画面を見ることもなく答えていた。

 ◆

 駅から歩いて三分ほどの場所にある公園のベンチに腰掛けた。
 ブランコや鉄棒、小さな滑り台があり、ベンチもいくつも並んでいる。

 この地域では一番大きな公園で、時間帯によって訪れる人の顔ぶれも変わる。
 主婦たちが集まる午前中、サラリーマンの憩い場となる昼頃。
 子どもたちが遊ぶ放課後に、学生たちが行き交う夕暮れ時——その時々で違った雰囲気を見せる公園だ。

 でも、照明灯のわずかな光でライトアップされた夜の公園は、どこにも属していないように見えた。

 私は昔から、ここに一人で来ることが多かった。
 悩んだとき、迷ったとき、そして何より、反省するとき。

 どうすればよかったのか、どうすれば正しかったのか。
 そのときの「私」は間違っていなかったのか。
 左手首を見つめながら何度もそんなふうに考えて、けれど、明確な答えが出せたことはほとんどなかった。

 その公園に、今は蒼真と二人並んで座っている。
 
「疲れたけど、楽しかったな」
「うん、楽しかったね」
 
 蒼真が口にした言葉に(うなず)いて、なんとなく視線を公園の中に向けた。

 ブランコのそばでは大学生くらいの集団が楽しそうに話している。
 他のベンチでは何組かのカップルが寄り添い、小声で言葉を交わしていた。
 顔を近づけながら微笑み合って、そのままキスをしてしまうんじゃないかと思うほどの甘い雰囲気。
 そんな光景に気まずくなって、私は咄嗟(とっさ)に話題を振る。

「あ、そういえば蒼真くんも同じ駅だったなんて、最初びっくりしたよ」
「それな。まあ、線路挟んだら学区が変わるしな」
「ね。北と南なだけで中学校違うんだもん」

 近い場所にいたのに、赤の他人だった。

 ──高校が同じじゃなかったら、今だって他人のまま。

 (へだた)っている線路の向こう側がやけに遠く感じて、それはなんだか天の川のように思えた。

 ──織姫や彦星みたいな関係じゃないのに……。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、顔がぼわっと熱くなった。
 柄にもなくロマンチックなことを考えてしまったせいだ。
 きっと、さっきまで綺麗な花火を見てたから。
 それで気持ちが浮ついているせいに違いない。
 誤魔化したくて、何か言わなきゃと口を開こうとしたとき。
 
「もしかしたら、俺たち会ってたかもよ」

 蒼真がにこりと微笑んで、呟くように言った。
 風が髪を揺らして、照明灯の下で表情が淡く(にじ)む。
 花火大会のときとは印象が違って、その顔は少し大人っぽく見えた。
 
「そうかもね」

 否定するのも変な気がして、心臓が大きく脈打つのとは裏腹に、唇にふわりと微笑みを乗せた。
 
 この駅を利用するようになって何年も経つ。
 でも、蒼真に気づいたことはなかった。
 
 それが普通だと思う。
 すれ違っていたとしても、ただの他人だったんだから。
 名前も顔も、なにも知らない人に目を留める理由なんてない。
 
 けれど、今は。
 目の前の蒼真は、はっきりと存在していて、そして私に笑いかけている。
 くすぐったくて、もどかしくて。
 不思議な気持ちだった。

「家まで送ってこうか?」

 不意に出てきた蒼真の優しい一言に、一瞬戸惑った。
 家まで送るという響きに、胸がざわつく。
 そんな距離の近さを、私はまだ意識したことがなかった。
 
「あ……電車の中で親に迎え頼んじゃった。夜道は危ないから連絡しろって言われてて」

 誤魔化しじゃない。
 事実、親にそう言われていたし、すでに連絡も済ませていた。
 
「それもそうか。じゃあ、もう迎えも来る頃かな」
「そうかも」

 スマホの画面を開く。
 親からの着信はまだないけど、そろそろ来るはず。
 画面を見つめる指先に、わずかな力がこもる。

 ──まだ連絡しなきゃよかったかな……。

 そう思った瞬間、ふと息を呑んだ。
 親に迎えを頼んだことを、こんなふうに後悔するなんて思ってもみなかった。

「駅まで送る?」

 蒼真はさっきみたいに優しく言う。
 ほんの少し、心が揺れた。
 けど。

「あ、えと。なんか、その……二人でいるとこ親に見られるの、ちょっと気まずいっていうか……」

 言葉を選ぼうとしたがどう言ったらいいのかわからず、結局ストレートに言ってしまった。
 自分で言ったことなのに、恥ずかしくなってくる。
 
 蒼真は「なるほど」と口角を上げて、ベンチにもたれかかった。

「確かに。結衣の親に『この男、誰?』とか警戒されたら、俺、もう結衣と遊べなくなるかも」

 蒼真はイタズラそうに笑っている。
 冗談だとわかっているのに、なぜか胸の奥がチクリとした。
 もし本当にそうなったら──。
 なんて考えてしまったからかもしれない。

「そんなこと、ないよ」

 不安を打ち消すように小さな声で答えると、蒼真は「ならいいけど」と肩をすくめた。

「じゃあ、結衣が駅のロータリーに戻るまで、ここで見送るわ」

 そう言いながら、蒼真はベンチから立ち上がる。
 隣から感じていた温もりがふっと消えて、少しだけ夜風が冷たく感じた。
 
「蒼真くんは、迎えとか来るの?」

 私も立ち上がって問いかけると、彼は軽く伸びをしながら答えた。
 
「歩いて帰る。俺ん家、こっから五分くらいで近いから」

 蒼真は公園の奥を指差した。
 
「そうなんだ。……なんか、ごめんね」
「なんで謝んの?」

 蒼真は笑いながら顔をこちらに向ける。

「結衣の気持ちもわかるからさ。また遊ぼうな」

『また』という言葉が、あまりにも自然で、あまりにも温かくて。
 それが嬉しかった。
 私はわずかに息を吸って、蒼真と目を合わせる。
 
「うん、ありがとう。本当に、楽しかった」
「俺も。じゃあ、気をつけて」

 蒼真が軽く手を上げる。
 彼の仕草に寂しさを感じたのは、たぶん、私が心のどこかでそう思っているからかもしれない。
 
「蒼真くんも、気をつけね」

 一瞬沈黙して。
 
「おやすみ」

 そう言った彼の低い声が、夜の空気に溶けていく。
 私も「おやすみ」と小さく手を振った。