エピローグ
「結論から言いよう、奈々絵の精神は安定している」
井上先生はカルテを手にしながら、状況を読み上げる。
今はメガネを外している井上先生。どちらかといえば、ちょっと怖い方の井上先生の性格だ。
しかし、俺はそんな彼女の人格に慣れていたので、なんとも思わなかった。
ただ、口調が強めな人としか思わなかった。
奈々絵の和解から一週間が経過した。
日曜日、俺は井上先生に呼び出されて、面談を受けている。
奈々絵の検査をした結果、奈々絵の精神が安定しているという報告を受けるのだった。
「キミ、なにをしたんだ?」
「何もしていませんよ。ただ、奈々絵自身のことを受け入れただけです」
「受け入れた? というのは、2つの性格を受けれたということかね?」
「はい。奈々絵は奈々絵です。普通の女の子です」
ペンをくるくるとさせる井上先生。
そこで、カルテのページをめくり、何かを確認する。
「およそ、キミのいうことは本当のことなのだろう。ネグレスされた少女の治療は、受け入れることしかできないからな」
そういうと、カルテを机に置いてから、井上先生はメガネをかける。
「よく頑張ったね。北沢さんは普通の女の子になったよ」
そして、優しい井上先生は微笑む。
その井上先生の言葉に、俺はどこかほっとする。
学校で奈々絵のことを観察していたけど、奈々絵が二重人格になるような仕草は見えなかった。どちらかといえば、奈々絵には善良な奈々絵がいた。
あれから、ドッペルゲンガー奈々絵は登場することはなく、奈々絵は普通の女の子、奈々絵になったのだ。
本当にあの夜。満月の夜に二人は和解をしたのだ。
俺はそんな彼女が和解したところを見届けたのだ。
「わたしの出番はもうないかもしれないけど、北沢さんがストレスを感じたときは、またもう一つの人格が現れる可能性もある」
「そうなんですか?」
「ああ。なにしろ、人生というのは不思議なものだからだよ。とくに人の心は無知数で、計測できない領域。何が起きるかわからない。でも、あなたがいるなら、あの子は大丈夫でしょう」
「そうですか」
俺はそれだけを返事をしながら、頭をかりかりと掻く。
「あなたは自信をもっていいのよ? 一人の女の子を救ったって」
井上先生はそういうが、俺は実感がない。
だって、何をしたかと言われれば、なにもしていない。
ただ、奈々絵を受け入れただけだった。
「俺、まだ実感がないですよ。奈々絵が治ったなんて」
「英雄はみなそういうのさ」
からかうように、井上先生はからからと笑う。
本当にそうなのか?
まあ、俺は本を読まないからよくわからないけど。
井上先生はポケットの中のタバコを取り出すと、ライターで火を付ける。
本当にマイペースな医者だなあ、と思った。
「まあ、北沢さんの件は一件落着。もしも、何かあったら、わたしから連絡する。あなたは気長にまっていてくれ」
「はい」
「じゃあ、面談はこれにて終了。次は北沢さんを呼んできて」
井上先生がそういうと、俺は椅子から立ち上がる。
外に奈々絵が待っている。
俺は診断室の外に行く。
「あ、正広さん!」
そこで、奈々絵と会った。
彼女はハニカムように、俺の方を見つめる。
「面談、どうでした?」
「とくに異常はないって、奈々絵はよく頑張った」
そういうと、俺は奈々絵の頭を撫でる。
奈々絵は、えへへ、と笑い出した。
そこで、俺は奈々絵が自分を取り戻せたのを実感する。
彼女は普通の女の子だ。喜怒哀楽もあり、何も変哲もない女の子であるのだ。
「さあ、奈々絵。井上先生が待っている」
「はい!」
奈々絵はそう返事をすると、診断室の中に入っていく。
俺は彼女の背中を見送る。
これから、奈々絵は中で井上先生と何を会話をするのか、気にはなるが、何も驚くことはない。
奈々絵の新たな一歩が始まろうとする。
俺は、そんな彼女の幸せを願いながらも、病棟を歩く。
次は俺の検査の時間だ。
俺の頭のMRI検査を受ける時間になる。
異常がないことを祈り、俺は主治医と面談を行う。
◇ ◇ ◇
「で、奈々絵とのデートはどうだった?」
「あ?」
病院の帰り道。
幼馴染のまなかが俺を迎えに来てくれた。
理由は単純。俺のことが心配だからだ。
でも、開口、奈々絵のことを尋ねられると、俺は少々戸惑う。
「先週、奈々絵とデートしたのでしょう?」
「今更聞く?」
「だって、あのデートが終わってから、奈々絵の人格が安定したようで、イタズラっ子が出てこなくなった」
「そうなんだ」
「いや、なんで他人事なの?」
「だって、奈々絵はみんなといる時間が多くて、俺と話す時間がないだもん」
少しつねるそういうと、まなかは、はいはい、と俺を励ます。
実際、学校では、俺と奈々絵の口数は減った。
それは、奈々絵に嫌われたのではなく、奈々絵はみんなと仲良くしているからだ。
「そうねえ、いい子だから、みんなに親しんでいるのよ」
「それはいいことだ」
「で、あんた、なにをしたの?」
まなかはジト目で俺を睨む。
また、井上先生の話を最初から話さなければいけないの?
同じ話をするのは、面倒なんだけど?
「何もしていないよ。遊園地を楽しんで、夜の海を遊んだだけ」
「ふーん」
まなかは信じないような仕草をする。
だから、詳細を話すのが面倒なんだけど!
なので、俺は話題をすり替えることにする。
「で、まなかは奈々絵に会ったの?」
「会ったわ。彼女、イタズラっ子のことは和解して、自分自身だけにしたって言っているわ」
「まなかはそれを信じるの?」
「信じるもなにも、あの子。わたしの前では、イタズラっ子の方は出てこないし、みんなと仲良くやっているわ。クラスメイトのあんたのほうがあたしより詳しいと思うけど」
……ご尤もだ。
奈々絵はいい子、善良な奈々絵しか出てこない。
少なくとも、今週は、ドッペルゲンガー奈々絵は見ていない。
完全に消えたのだろうと思った。
「まあ、無事に事が終わってちゃんちゃんだ」
「あんた、なにかしたよね?」
「いや、何もしていないって」
「嘘をおっしゃい」
まなかは軽く、俺の足を蹴る。
ちょっと痛いけど、まあ、俺が悪い。
そういうわけど、奈々絵の精神は安定していることを聞くと、俺は奈々絵の友達であるまなかにこう放つ。
「なあ、まなか」
「なによ?」
「これからも、奈々絵のことをよろしくな」
「……あんた、また頭打ったの?」
「至って健康なんだけど!?」
「そういうたちが悪い事は言わないの。あんたも奈々絵の友達でしょうが」
「そうだな」
「……そうだなって……」
「あれから、奈々絵と話せてないだよなあ、俺」
「同じクラスなのに?」
「そう。善良な奈々絵はいい子だから、みんなの輪に囲まれる事が多かった。俺はお邪魔虫だから、話せてないだ」
トホホ、と俺は肩を落とす。
まなかは、怪訝な眼差しを送る。
同じクラスなのに、なんで話せていないの? という疑問だった。
「奈々絵に声をかければいいのに」
「俺、人見知りでね。人がいっぱいいると、怖くなっちゃうだ」
「嘘おっしゃい!」
……また蹴られた。
「でも、なんだかわかるわ。奈々絵、かなり人気になったしね」
「人気ものか……」
「そう、少なくても、蛆虫のあんたに話しかける余裕はないわね」
「恩人なのになあ」
「あのデートの日。なにをしたのよ?」
……なんだか、話がループしているような気がする。
この話題はもう終わりにしよう。
そんな他愛もない会話をしていると、俺は住宅街までやってくる。
そろそろ、家に到着する距離だ。
「じゃあ、あたしは買い物があるから、また明日」
「おう。また明日」
俺はまなかと別れる。
彼女が商店街の方に向かっていくと、俺は家に入る。
父さんと母さんは家にいた。
俺は軽く挨拶と、健康状態を報告する。
そろそろ、病院に通わなくてもいいと言われたので、両親とも、ほっとする。
病院は少々苦手だ。消毒液の匂いや、老人とすれ違うと、なんだか気が重く感じた。
その病院に通うのも、本日で最後だ。
俺は胸を撫で下ろすと、自室に戻る。
そして、机に置いてある本を見つめる。
田中先生からもらった、Kの昇天だった。
あの夜。奈々絵は魂だけで、月に昇天しようとした。
俺はその行為を止めただけだった。
それをまなかに話さなかったのは、途方もないくだらないことだと思ったからだ。
まなかはこのことを信じないだろうから、話さなかった。
まあ、俺がなにかして、奈々絵が決断して、二人は和解した。
それだけ分かればいいと、思ったのだ。
「なんだか、眠いなあ」
瞼が重く感じた。
俺は身体をベッドの上に横になる。
そして、目を閉じる。
すぐに夢の世界に入る。
俺は奈々絵と出会った。
あの夜のことを再現したのだ。
奈々絵は、二人二一つになって。奈々絵は奈々絵になったのだ。
◇ ◇ ◇
憂鬱な月曜日になる。
今週は、長期休暇のゴールデンウイーク前の週になる。
俺は、いつものように登校すると、奈々絵と出会う。
彼女は、ギターを手にしていた。
それを見た俺は、心臓を強く打つ。
……もしかして、奈々絵の人格は、ドッペルゲンガー奈々絵の方ではないかと?
善良な奈々絵がギターを手にすることはないのだ。
「奈々絵?」
恐る恐ると、奈々絵の名前を呼ぶ。
すると、彼女は俺の方に振り向き、挨拶をする。
「はい。おはようございます。正広さん」
そう聞くと、俺はほっと、胸を撫で下ろす。
彼女が放つ声、人称、仕草は善良な奈々絵だからだ。
……ドッペルゲンガー奈々絵の仕草はもうなくなっているのだ。
「おはよう。奈々絵」
「はい。おはようございます。正広さん」
「そのギターどうしたの?」
俺は奈々絵が担いでいるギターケースに指を指すと、奈々絵はああ、と声を漏らす。
「はい。わたし、本日から部活をしようと思って」
「部活?」
「はい。軽音部です」
奈々絵がそう答えると、俺は顔を頷かせる。
「そうか。頑張ってね」
「はい。では、朝練があるので、失礼します」
奈々絵はペコリと頭を下げてから、コテコテと廊下を駆け抜ける。
俺は彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
……この放課後。俺は、奈々絵の様子を伺ってもいいかもしれない。
善良な奈々絵がギターを弾く姿は新鮮で、楽しそうだ。
だから、軽音部の見学をしてもいいかもしれない。
「おはよう。正広」
そう考えていると、背後からまなかの声がした。
振り向くと、まなかがジャージで朝練の姿をしていた。
汗も出ているし、きっと、今日のメニューはハードだっただろう。
「月曜日は朝練がないのでは?」
「今日は走りたい気分だから、走っただけ、別に部活がなくても、走っていけない校則はないわよ」
「そうか、今日は気持ちいい朝だしな」
俺がそういうと、奈々絵は俺を見つめる。
「奈々絵。ギターもっていなかった?」
「ああ、軽音部の朝練があるらしい」
「ふーん。軽音部に入るのね。あの子」
まなかはどこか信じられない仕草で声をかける。
どうも、部活に入部したことを信じていないのだろう。
「じゃあ、あたしは着替えてくるわ。またね、正広」
「おう、またな」
そういうと、俺はまなかと別れをいう。
廊下を歩くと、俺は掲示板を通る。
そこで、水泳部の部員募集があった。
俺はそれを見て、どこか懐かしく感じる。
中学校のころ、水泳部だった俺は、懐かしさを感じた。
あの水の中を前に進むことは、身体を動かして、うきうきとする。
全身を水をかき分ける体感は今でも覚えている。
でも、今の筋肉は衰えているため、中学校みたいにタイムは出せないだろう。
「筋トレ……するか」
と、俺はそう呟いてから、クラスに行ったのだ。
◇ ◇ ◇
放課後になる。
俺は、奈々絵の部活、軽音部を見学する。
軽音部に入ると、奈々絵とバンドメンバーが音楽を演奏していた。
奈々絵は楽しそうに、アコースティックギターを手にして、演奏をする。
「北沢さん、ギターうまいねえ。エレキギター引いてみない?」
とあるバンドメンバーのドラムの女の子が、感嘆の声を上げる。
「え、エレキギター? わたしにはできるかな?」
「まあまあ、やってみてもいいじゃないの」
今度はベースの男子がそう言い放つ。
そして、キーボードの子は軽音部にある、エレキギターを手にして、奈々絵に差し渡す。
「北沢さん。やってみて!」
「う、うん。やってみる」
みんなでエレキギターをセットアップする。
そして、準備が整えると、キーボードの子は、丸サインを出す。
「……」
奈々絵は恐る恐るエレキギターを弾いてみる。
甲高い音がエレキギターの音が鳴り響くのだった。
「おお! 鳴った、鳴った!」
「それは鳴るでしょう! ギターなんだから!」
ドラムの子が感激していると、ベースの男の子はツッコミを入れるのだった。
笑える声が一斉に部室を包んだ。
そこから、奈々絵は一度深呼吸をする。
そして……エレキギターを弾いてみた。
「……」
俺は黙って、奈々絵が演奏する曲に耳を傾ける。
完璧ではないが、奈々絵が演奏している曲は知っている。
それは、魔法少女ドッペルゲンガーミオのオープニング曲だ。
繊細に、楽しそうに、躍動的に鳴る音楽に、みんなもその音に合わせて、演奏する。
俺は、ふと、奈々絵の影が踊りだすのを感じた。
ドッペルゲンガー奈々絵だ。彼女が善良な奈々絵と重なるようにエレキギターを演奏する。
幻のように、二人は心を一つになって、エレキギターを演奏する。
その姿に俺はどこか涙を流す。
奈々絵は、もう大丈夫だ。
ドッペルゲンガー奈々絵は奈々絵の心のどこかで生きている。
完全には消えていない。でも、二人は一つになることを決断したのだ。
それに改めて、思った俺は、感動するのだった。
あの夜の決断は間違っていない。
奈々絵を説得したこと、言いたいことを言ってよかったと。
彼女はそう聞いて、成長して、前に進むようになった。
小鳥が巣を飛び立つように、大空に羽ばたけたのだ。
やがて、音楽が終わると、俺は涙を拭いたのだ。
「すごいよ! 北沢さん! 初めてとは思えないよ!」
キーボートの子が感激すると、みんなはうんうんと顔を頷かせていた。
「これなら、俺達はバンドを結成できるね」
「バンド結成だけじゃないよ。普通にバンド出演することもできるよ!」
「ふふふ、私達の夢が叶うのね」
バンドメンバーは感激をするように、声を上げる。
みんなは奈々絵の方に集まって話をしていたのだ。
どうやら、奈々絵は歓迎されている。音楽できない俺からすれば、すごいことだ。
「そうだ。北沢さん。わたしたち、世界を目指そうよ」
とある、ドラムの子がそう言い放つ。
奈々絵は目を丸くして、尋ねる。
「世界ですか?」
「そう! 私達の音楽で、世界を目指すの! 世界一ってね」
ドラムの子がそう叫ぶと、奈々絵は苦笑する。
「そういえば、北沢さんには夢があるの?」
今度は、ベースの男子が奈々絵に尋ねる。
奈々絵は考える仕草をすると、口を開く。
「はい。わたしの夢は、月の上でギターを演奏することです。勉強して、NASAに入って、月に行って、ギターを演奏するのです」
そういうと、今度はバンドメンバーが目を丸くする。
奈々絵の無茶振りに、メンバーは困惑したのだった。
……物理的に無茶振りな奈々絵の夢に俺も驚いた。
まさか、奈々絵が魂ではなく、物体で月に行き、ギターを演奏するなんて、夢でも見えているのか、と思った。
そこで、ドラムの子は調子よく、声を放つ。
「世界一じゃなくて、月一なのね! 北沢さんは!」
「月一ってなんだよ!」
「月で初めて演奏できるバンドだから、月一?」
そういうと、バンドメンバーは笑いあった。
そこで、俺は席から立ち上がり、軽音部を退出する。
……奈々絵は新たな一歩。踏み出す事ができた。
それも、月に行くことという新たな目的をもったのだ。
物体で月に行き、そこで、ギターを演奏すること。
まるで、魔法少女ドッペルゲンガーミオの物語のようでもある。
俺は彼女の決断を慎重し、彼女の夢が叶うことを夢を見る。
奈々絵がドッペルゲンガー奈々絵と共演し、月に演奏するのは、そう遠くない未来なのかもしれないのだ。
こうして、俺と二重人格の少女の物語はここで終わる。
俺は奈々絵の手助けをすることができたのだ。
ドッペルゲンガー奈々絵、善良な奈々絵は一つになり。音楽になった。
それだけ知れば、俺の役目も終わったのだ。
「俺も筋トレして、水泳部に戻ろう」
奈々絵を見ていると、自分にも新たに進む道ができた。
だから、俺もこれからも、頑張っていかないといけないのだ。
完
