プロローグ

「ぴぴるぴぴるぴ♪」
 俺、二階正広の耳にはイヤホンを付けていた。耳に鳴り響く音声と合わせて、歌い始める。それは、今期に放送を開始したアニメ、魔法少女ドッペルゲンガーミオだ。春に放送開始して、ちょうど一話が開始されたアニメだ。
 そのオープニング曲が耳に染み付いたため、思わず歌ってしまう。
 俺は家を出ると、そう一人で歌っていたのだ。
 今日は入学式。4月の春が、桜の花びらが空を染めていた。
 登校するように、俺は交差点を渡る。
 そこで、ちっこいツインテールの少女と出会うのだった。
 彼女の名前は神谷まなか、俺の幼馴染だ。
「よ、まなか」
「遅いわよ。正広。いつまで待たせるのよ!」
 まなかは俺を見ると、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
 家を出る前にアニメを視聴したため、少々遅れてしまった。入学式である日なのに、朝からアニメ見るのは反省しないと。
 そう思いながらも、俺は腕時計を見る。そこには、朝の7時と表示されていた。
「まだ、7時だぜ? 遅くはないよ?」
「遅いわよ! どうせ、アニメ見ていたのでしょう?」
「ギク」
「ほら、早く行くわよ!」
「ちょっと待って。このアニメの素晴らしさを教えさせてくれ。一話しか放送していないが、豪華な声優陣に、腕の良い脚本家、そして演技にうるさいスタジオが手掛ける素晴らしいアニメなんだ!」
「はいはい。行くわよ。話は入学式終わってからちゃんと聞くわ」
 ……それって、話を聞かないのでは?
 でも、そうツッコミを入れたら負けだ。
 なので、俺は大人しく黙って、彼女の後をついていくことにする。
 目的は日昭にっしょう高等学校。俺達は今春からお世話になる高校だ。
 これから三年間、この学校で学び、卒業し、大学に進学してから社会人になる。人生は短い。なので、楽しむのが正義だ。
「で、そのイヤホン、どうしたの?」
「よくぞ、気づいてくれた。これはなあ、ネット通販の特売日で購入したものなのさ。渋沢さんを3枚を犠牲にして召喚したものだ」
「高!?」
「それくらい、性能がいいのさ。耳がいい人は必須のアイテムだぜ」
「うざいわね」
 まなかはジト目をすると、俺を眺める。
 うん、ちょっとセールストークっぽく宣伝してしまった。ここは反省しないといけない。でも、俺が言っている言葉は何も間違っていない。このイヤホンをつけてから、周りの景色の音が変わって聞こえる。ノイズキャンセリング機能を搭載しているから、音楽の音が繊細に聞こえるんだ。
 まあ、そのことをまなかに説明してもわかってくれないだろうし、言っても無駄なのだけれど。
「ん?」
 俺がイヤホンを再度、耳につけようとすると、目はなにかを捉える。
 子供だ。横断歩道の向かい側にいる子供がボール遊びをしていた。そして、そのボールを道路に転がす。
 ボールを取ろうとする子供は横断歩道の信号を無視し、道路に飛び出す。そこに、なにかが走ってくる。高速で走行している軽トラだ。
「危ない!?」
 俺は理性より身体が反応し、道路を飛び出す。
「正広!?」
 まなかは驚いて、声を上げる。でも、俺は止めることができなかった。だって、子供が危ないのだ。
 軽トラがすぐに眼の前にやってきた。
 ……一か八か!
 急いで、子供の体を手で掴み、歩道の方へと向かう。
 軽トラのブレーキ音が鳴り響く。減速するけど、どうやら間に合わない。
 子供は歩道に押されて、転倒する。
 しかし、俺は間に合わなかった。
 ドン、と軽トラが俺に直撃する。
「がっ!?」
 痛みがじんと、腹から広がっていく。
 そして、俺は吹き飛ばされていく。
 ゴンゴン、と道路を二回か三回叩きつけられてから、止まる。
 何メートルかは飛ばされた。俺は立ち上がろうとする。
 ……あれ? 力が入らない。
 俺はぴくりと小指しや動かせなかった。全身が痛い。動くことは出来ない。
「正広! しっかりして!?」
 と、まなかは俺の方に飛び出し、声を掛ける。
 でも、あまりの痛さで俺は言葉を失う。
 ……くそ、いてえ。交通事故ってこんなに痛いのかよ。
 俺は目を子供の方に向ける。
 子供は何がおきたのか、まだわかっていない。情けない顔をしていた。
 まあ、子供が無事なら、いいか。
 どんどんと意識が遠くなっていく。
 俺は全身から力が抜けていくのを感じた。
 そうか、俺、死ぬのか。
「正広! 目を開いて!」
 と、まなかが俺に声をかけるけど、俺はその声似反応することができない。
 すっと、視界が真っ暗になる。
 そして、俺の意識は完全にブランクアウトしてしまった。

◇   ◇   ◇

第一話 目覚めたら、見知らぬ少女との出逢い






「ん……」
 目が覚めると、俺は見知らない白い天井が視界に入ってきた。真っ暗である部屋に、夜だとわかる。
 あれ? 俺はどれくらい時間が経過したのだろうか?
 あの子は無事なのか? 俺は、いったい、どこにいるのか?
 隣に花壇の花瓶がある。
 花が咲いているのを見ると、心が安らぐ。
 誰かがちゃんと手入れをしているのだ。
 俺が眠っている間にちゃんとお見舞いされているのがわかる。
「嬉しいな。まだ、生きているなんて」
 生きている実感がするのは嬉しいことだ。
 俺がベッドから降りると、腕にはチューブが繋いでいるのが見える。なので、それを連れて、病室から出ようとする。
 病室を出ると、暗い廊下が広がっていた。
 最初はナースステーションに行き、状況を確認しようと思った。
 でも、なにか言われると面倒なことになると思い、階段の方を向かっていく。
 下に降りていき、外に出る。
 幸い、誰もいないため、見つかることなく病室を脱出出来た。
 とはいっても、脱出するのが目的じゃない。
 ただ、外の空気を吸いたかった。
 外に出ると、海岸が近くにある。そこで、俺は理解する。
 俺が寝ている病院はあの病院か。家から徒歩で15分かかる、近所の大病院。
 海岸に隣接している景色のいい病院だ。
「まさか、俺が、この病院に入院するとはなあ」
 と、俺はそうぼやきながら、浜辺に出る。
 浜辺の砂はきれいで、冷たい風が吹く。
 これは夏ではないことがわかる。こんなに肌触りがいい風はちょうどいい季節の春が秋である。
 しかし、カレンダーを見ていない俺からすれば、どちらでも構わないのだ。
 学校に行く時期をずらしてしまったことには残念に思う。
「あの子。元気かな?」
 俺は助けた子供のことを思い出す。
 歩道には戻ったけど、その後の記憶が曖昧だ。
 軽トラに衝突したのか、あるいは無事に元気に走り回っているのか。わからない。
 ……まあ、あのとき一緒にいたまなかに訊けば、すぐわかることだ。
 そんな他愛もない事を考えながらも、浜辺を歩く。
「ぴぴるぴぴるぴ♪」
 と、俺は大好きなアニメの魔法少女ドッペルゲンガーミオのオープニング曲の鼻声で歌う。
 いまになって、この作品の放送はどんな感じに行ったのだろうか?
 放送終了してしまったら、悲しいな、と思いながらも、浜辺を歩く。
 ちゃりちゃりと靴は砂を踏む音が鳴り響く。
 悪くない。こんな一人で浜辺を歩いているのも気分がいい。
 色々ともやもやしている気持ちが開放されていく。
「ん?」
 俺は何かに気づく。
 海の中に何かがある。
 よくみると、少女が歩いていた。
 行ったり、来たりしている。
 なにか様子がおかしいのが一目みてわかる。
 最初は何か落とし物でもしたのか、と思ったので、俺は彼女の声を掛ける。
「おーい」
 俺が叫ぶと少女はこちらを見る。
 ちゃんと聞こえているらしい。
 なので、俺は手を上げて振ってみる。
「何が落とし物でもしたのか?」
 そう叫ぶと、少女は俺の方に歩いてやってくる。
 そこで、俺は彼女の顔が見えた。
 小さな容姿。髪型はショートボブ。顔立ちはよく、どこか可愛らしい女の子に見える。二重眉に、黒い双眸。卵のような輪郭の顔はどこかわわかしく見える。服は俺が知っている制服、日昭高等学校の制服だ。
 ということは、彼女は高校生なのだろう。
 そんな可愛らしい女の子が浜辺に出てくる。
 そして、俺の方に歩いてくる。
「どうしました? 大きな声を叫んで」
 素っ頓狂のような表情を浮かべると、俺を怪訝そうに尋ねる少女だった。
「いや、海を行ったり来たりしているから、何がおきたのか、気になって」
「ただの散歩です? 海を歩いていました」
 少女がそう答えると、今度俺は怪訝に首を傾げる。
「散歩に海まで行くか?」
「本当は影を見ていました」
「影?」
「そう。わたしの影」
 またも不思議に言う少女に俺は頭上にはてなマークを浮かべる。
 影を見るために、海に入るのか?
 俺は思わず、夜空を見る。
 そこには満月の月があったのだ。
 今宵の月はきれいだった。これなら、しっかりと月で自分の影が見える。
「それより、あなたはなにしていたの?」
「え?」
「さっき、歌、歌っていたでしょ?」
 少女がそういうと、俺はどこか照れてしまう。
 あの、鼻歌が聞こえたのか?
「うん。魔法少女ドッペルゲンガーミオのオープニング曲だね」
「わあ。そのアニメは知っている。わたしも見ました!」
「本当!?」
「でも、ちょっと受験勉強があって、一話しか見れていないです」
 てへへ、と少女は照れくさそうに答える。
「それより、落とし物はいいの?」
 俺は話題を変えるように言い放つと、少女は顔を左右にふる。
「もう大丈夫です」
「本当に? 大人に相談したほうがいいんじゃないか? 子供が一人で夜の海の中でもの探すのは危ないよ」
「大人はわたしのことを信じませんから、大丈夫です」
「信じない? どういうこと?」
「落としたものは、わたし自身です」
 少女の言葉に俺ははてなマークを浮かべる。
 一体、彼女は何を言っているのか、意味不明だった。
 彼女自身を落とした、それはどういう意味なのか?
「……冗談です」
 俺が考えていると、彼女は苦笑いを浮かべる。
「そんなこと、ありえないですよ。人が自分自身を落とすことはありません」
 と、小馬鹿されるように笑う少女。
 でも、それは何かをごまかすような気がした。
 まるで、本当に信じてもらえないから、誤魔化しただけだ。
 だから、俺は彼女の力になりたいと思った。
 なので、俺は彼女のほうに顔を向けて、真剣な表情を作る。
「手伝うよ」
「え?」
「もし、キミが本当に、自分自身を落としたと思うなら、俺も一緒に探すよ」
「お兄さん……」
 少女はどこか、感激したのか、うるうると涙目になる。
 夜風が吹いてくる。
 ザザ、と波が打つ音が強くなっていた。
 どうやら、満潮になる日だ。だから、早く帰った方がいい。
「でも、今日はもう遅い。帰ろう」
「はい」
 少女は頷き、立ち上がる。
 そして、歩道の方へと向けてコテコテと小走りしていった。
 そう見ると、俺も彼女のあとを行こうと思い、歩き出す。
 そんなときだった。
「フフフ……」
 ……海のほうから不気味な笑い声がした。
 なので、俺はその海の方へと顔を向ける。
 しかし……
「なにもない?」
 ……海はなにもなかった。
 ただ、ざざー、ざざーと、波が撃つ音が響くだけだ。
 海はいつものような海で、特に変わった様子はない。
「気の所為か……」
 俺は、自分の幻聴を疑わなかった。
 きっと、疲れすぎたのだろう。
 俺がこの浜辺を歩いてきたら、相当疲れてしまった。筋肉が落ちているのが、すぐでもわかる。
 だから、早く病院に戻って、ベッドに戻ったほうがいい。
 俺は歩道の方へと向かって行く。
 そこに、少女は先に立っていた。
「お兄さん。大丈夫ですか?」
「ごめん。少し考え事をしていた」
 俺は誤魔化すように笑って答えると、少女はどこか怪訝そうな顔を浮かべる。
 でも、俺は前へと歩く。
「さあ、帰ろう。途中まで送るよ」
「お兄さんは病人ですよね? 病人は病院に戻ったほうがいいのでは?」
「う、そうだね」
 と、俺達はそんな会話を交わすと、歩道を歩く。
 歩道はあまりにも静かだった。車さえも走っていない。そんな田舎な場所でもあった。
 俺はそんな静かな場所に落ち着きをなくしたので、口笛をする。
「ぴぴるぴぴるぴ♪」
 すると、隣で歩いている少女はハニカムようになり、一緒に歌い出だす。
「ぴぴるぴぴるぴ♪」
「お、いいね。キミもこのアニメが好きなんだね」
「はい! 大好きです。受験勉強がなかったら、最後まで鑑賞していたと思います」
「受験か……大変だね」
「はい。大変でした」
 少女は過去のように笑い出すと、一瞬顔を曇らせる。
「わたし、馬鹿な事考えているんだ」
「馬鹿なこと?」
「うん、いつか月に行って、歌を歌うのです」
 そういうと、少女の足を止める。
 俺も同じく足を止めて、彼女を見つめる。
 どこか、憧れのように少女は手を伸ばし、月の方に向けた。
「月って、どんなところなんだろう? 冷たいのかな? 暑いのかな? するとも、なにもないのかな?」
「さあね。でも、月に行かないとわからないんじゃないの?」
 俺は率直にそう答えると、少女はむくと、頬をふくらませる。
 どうやら、俺の意地悪な答えが機嫌を損ねてしまったのだ。
「まあでも、月か……」
 俺は魔法少女ドッペルゲンガーミオを思い出す。
 魔王の月の鏡に照らされて、悪霊のミオが登場する。ミオは魔法少女に変身し、悪霊のミオを倒す物語だった。
 本当に事故がなかったら、俺は毎週このアニメを楽しめたはずだ。
 いまは、どれくらい時間が経過したのかわからない。
 だから、放送がどのようになっているのか、わからないのだ。
「行けたらいいね。月」
「はい!」
 こうして、俺と少女の出会いだった。
 不思議な夜。目覚めて、気分転換に浜辺に出たら、少女が海を往来しているのを見つける。落としたものは、自分自身で、いつか月に行くことを夢見ている。
 本当に、不思議な少女だと思った。
 メルヘンチックだとは思わない。
 だって、少女の瞳は本気だったからだ。
 なので、もしも、彼女を月に行けるように、俺は彼女を手助けしたいと思った。
 そして、交差点で、俺は少女と別れた。
 名前も聞くことなく、素性を明かすことなく、お互い知らないまま別れたのだ。
 きっと、彼女とまた出会えると、心の底からそう思った。
 なぜ、そう思ったのか、わからないけれど、不思議に自信を持っていたのだ。
 だから、次に少女と会ったら、月に行く方法を模索しようと思う。
 俺はそんなことを考えながらも、病室に戻る。
 そして、ベッドの上で横になる。
 不思議な夜を思い出しながらも、目を瞑る。
 意識がだんだん遠くなり、眠りの世界に入っていくのだ。

◇    ◇   ◇

第二話 目覚めれば時間が経過していた。

 目覚めると、外の小鳥の囀りをBGMになる。
 俺は、上半身を起きあげると、窓の外を見る。
 朝だとすぐにわかった。
 桜が咲いていた。春という季節がわかる。昨夜は窓を見ていないから、桜の木のことを見ていなかった。
 俺がそんな桜を見ていると、がちゃん、となにかを落とした音がする。
 振り向くと、そこには看護師が花瓶を落としたのだ。
「大変! 昏睡状態の患者が起きた!」
 そう慌てるように、看護師は来た道を振り返って、走り出した。
 ……ああ、そうか。俺は昏睡状態に落ちていたのか。
 昏睡状態の患者が起き上がると、パニックになるよね。
 それは完全に忘れていた。でも、昏睡状態から回復したのに、眠っているままなのも、良くないと思う。
 うん、タイミングってあるよね、こういうの。
 俺は自分が昏睡状態に落ちていたことを完全に忘れていたのだ。
 それから、主治医がやってきて、俺の体の具合を尋ねる。
「気分はどうかね?」
「特に異常はないです?」
「ふむ。念の為、CTスキャンをして、レントゲンを取ろう。特に異常はないと思うけど、念の為にね。君は丸々一年間も寝ていたのだから」
「え、ちょっと待ってください。俺は一年間眠っていたのですか?」
「そうだよ。あの事件から一年が経過した。だから、色々と検査しないとね」
 主治医の言葉に俺はなんとなく、納得する場面もあった。
 それは、昨夜、俺が浜辺に歩いたときに、かなり疲労してしまったことだ。
 歩くだけで疲れるなんて、筋肉が衰えているのだ。
「それから、一週間のリハビリをいてから退院ね。キミの筋肉はかなり落ちている。もとに戻るには時間がかかるのだろう」
「はい」
 俺は渋々と返事をし、どこか残念な気持ちになる。
 日昭高等学校に入学したら、水泳部に入部しようと思ったのだけれど、こんな貧弱な体では、水泳すらできないな。まずは朝のジョギングで筋肉を取り戻そう。
 それから、俺は色々と検査を受けた。
 結果は言うまでも、特に異常はないと言われた。
 そのあとは、リハビリプログラムを体験し、筋肉を取り戻す運動をする。
 一年間も寝たきりになっているためか、簡単な運動でもすごく疲れる。
 ……こんなに俺は貧弱になったのか?
 そう思うと、悲しく感じる。

◇   ◇    ◇

 午後の時間になる。
 リハビリプログラムを終えて、疲れているところ。俺は再び病室のベッドに戻る。
 ハードなリハビリプログラムだった。まさか、こんな運動がこうも辛いとは思わなかった。早く一日でも筋肉がもとに戻るように頑張らないといけない。
「つかれ~た~」
 と、俺がベッドに悶えていると、扉のほうからコンコンコンとノックがあった。
 一体誰だろう? と思うと、俺はどうぞ、と返事をする。
 すると、扉が開かれる。
 現れたのは、幼馴染のまなかだった。
 花を手にしている。
「目覚めたのね」
「あ、うん。朝に目覚めた」
 そういうと、まなかはどこか不機嫌な表情を浮かべると、俺の方に歩いてくる。
 そして、花を机に置いてから、俺に抱きつく。
「もう! 馬鹿!」
 開口は罵倒の言葉だった。
「あんた、死んだんじゃないかと思ったわ!」
「……心配かけてごめん」
 俺は謝罪する。
 あのとき、もしかすると、もっとできる事があったかもしれない。
 でも、俺の頭脳と全力活動した結果、あの子供を救うのは、それしかないと思った。
 だから、俺はその子供を突き飛ばし、自分が軽トラに衝突した。
 本当に二度と出来ない奇跡なことだ。
「それより、花をいつも変えているのは、まなかなの?」
 俺は隣に置いてある花瓶に植えてある花を見つめる。
 手入れされていることがわかる。なにせ、花はきれいに咲いているからだ。
「そ、そうよ。悪い?」
「いや、ありがとうね。俺のために花を変えてくれて」
 そういうと、まなかは顔を赤くして、どこか不機嫌になる。
「べ、別にあんたのためじゃないからね」
 ふん、と鼻を鳴らしてから顔を背く。
 これは定番のツンデレと言うやつなのか。
 俺はこんなツンデレな幼馴染がいて幸福だ。
「あ、来週には退院できるから、そのときは一緒に登校しようね」
「わ、わかったわ。でも、あんた、一年から始まることになるわ」
「それは仕方がないよ。一年間も勉強できていなかったから、ニ年生になったほうが勉強についていけないよ」
 自分が頭が良い者ではないことは理解できている。だから、ニ年生になったら、勉強に追いつけないのだろう。
 だから、高校一年生からスタートするのも問題ないのだ。
「じゃあ、花を変えるわ」
「おお。よろしく」
 そういうと、まなかは花を入れ替えるのだった。
 馬鹿な俺はその花の名前を知らない。
 ただきれいな花を植えていることしかわからないのだ。
 きっと、まなかは季節の花を入れ替えているのだろう。
「そうだ。まなか」
「なに?」
「子供は無事?」
 そういうと、まなかは手を止める。そして、笑みを浮かべて、俺の方を見つめる。
「ええ。無事よ。あんたが助けたせいでね」
「それを聞いて安心したよ」
「感謝もされたわ。慰謝料、あの子供の親から来ているのよ?」
「そうなの!?」
「そうよ。でも、彼からすれば、安いものだって、息子を失ったほうが、耐えられないってことよ」
 ……なるほど。あの子は無事なんだ。
 なら、俺の行動は何一つ間違っていない。
 そう聞くと、俺は体の力が抜けていく。
「ふわあ。なんだか、眠くなってきた」
「はいはい。寝ていいわよ。私もすぐに行くから」
「じゃあ、遠慮なく」
 俺は頭を枕に起き、力を抜く。
 意識がどんどんと遠くなっていき、心地いい風が体を通していくのを感じる。
 そして、俺は眠りの世界に行ったのだ。

◇   ◇    ◇

 リハビリのプログラムを通して、俺は筋肉の力を取り戻す。
 歩くことが苦痛には思えず、普通に歩くことが出来た。
 主治医によると、明日には退院できるそうだ。
 やることがない俺は病室で勉強することをする。
 4月の中旬に入学する手続きをしたので、俺はみんなと遅れて入学することになる。
 なので、その二週間の遅れを取り戻すために勉強をするのだった。
 その際には、子供とその親がやってきて、俺にお礼をする。
 俺は帰り土産を求めていないので、普通に挨拶して、慰謝料を受け取らなかった。
 受け取ったら、俺は報酬を受けたいからその子供を救ったことになる。罪悪感を感じるのだった。
 翌日になり、俺は退院することになった。
 俺は主治医にお礼を伝えてから、家に帰る。
 家につくと、両親から歓迎された。
 長いあいだ、よく頑張ったね、と褒められた。
 俺は、恵まれている人生で、よかったと思う。
 幼馴染のまなかやいい両親に恵まれている運命を祝福する。
 それから二階家は小さなパーティーを開く。
 退院祝いということで、俺たちは色々と話した。
 この一年間変わったことはないかと。
 でも、一年というのは短いようで長いようなものだった。
 特に変わったことがなく、近所の子が小学生に上がったことだけが驚きだった。
 パーティーが終わると、俺は自室に入る。
 部屋はそのまんまだった。特に変わったようなことはなかった。
 母いわく、部屋はそのまんまにしてあると、何も手を付けていない。
 それは母の心遣いなのだ。
 俺は嬉しく思った。
 だって、出た部屋と戻ってきた部屋が同じであるのだ。
 俺は、忘れられていないことを思うと、嬉しく思う。
「さて、明日は高校生活だ」
 自分の顔を叩き、高校のカバンを見てみる。
 去年の登校したものとほぼ変わらない物が入っていた。
 まるで、時間が停止したかのようなものだった。
 電気を消し、俺は久しぶりの自分のベッドに潜る。
 居心地のいい、ベッドの柔らかさと久しぶりの枕に涙を感じる。
 ああ、戻ってきたんだ。
 俺はこの家に戻ってきたんだな、と思えた。
 異世界に転生することなく、天国に行くこともなく、地獄の閻魔様に訪問することなく、普通に生活出来ていることに感謝。
 神に感謝、運命に感謝。
 そして、俺は眠りに入るのだった。
 明日はいい日でありますように、と信仰している神に祈ったのだ。

◇   ◇   ◇

第三話 学校生活にて
 翌朝。俺は素晴らしい朝とともに目覚める。
 気持ちのいい朝だと、窓の外を眺める。桜の木が咲いていた。
 春もそろそろ終わる頃だ。
 4月中旬の季節は肌心地がよく、冷房をつけるまでもない朝だ。
「さあ、学校の時間だ」
 俺は、去年楽しみにしていた、学校生活を送ろうとしていた。
 高校を一からやることではあるけれど、特に問題はない。
 儚い命を一つ救ったことを比べれば、俺の楽しみはそんなに大したことはない。
 だから、俺は顔を叩き、気合を入れて、ベッドから飛び出す。
 着替えをすると、鏡の前に立つ。
 自分の高校制服姿は新鮮のようなだ。
 本来は去年着るものであるけれど、今年も着れる。体重が少し減っただけの体重はよほど、制服のサイズには影響がないのだ。
「よし、行くか」
 俺はそう言うと、寝室から出ていき、一階の方に歩いていく。
 そこで、母さんが朝食の用意をしているのを見られる。
 父さんは新聞を広げていた。片手にはコーヒーを持っていた。
 なので、俺は二人に朝の挨拶を送る。
「おはよう。父さん、母さん」
「おお、おはよう。正広」
「おはよう。正広」
 父さんと母さんの声を聞くと、俺はなんだか安心をする。
 なんだか、家に戻ってきた感じがした。病院の居心地はなんだか、さみしく、誰とも会話しないせいか、どこか心が遠く離れていくようでもあったのだ。
 だから、病院生活はどこか好きではない。
 こうして、家にいて、両親がいるのは幸福に感じた。
 俺はそんな幸福を噛み締めながらも、席につく。
 トーストと目玉焼きが用意されていたのだ。
「いただきます」
「はい。召し上がれ」
 と、俺は母さんが作った朝食を口にする。
 うん、朝のトーストはどこか洋風の感じで、素晴らしい。
 たまには和食ではなく、このような洋風もいいものだ。
「正広。学校大丈夫? 送っていこうか?」
「大丈夫だよ。母さん。子供じゃあるまいし、一人で歩けるよ」
「本当? リハビリが必要だったから、歩けないと思って」
「それは偏見だよ。母さん。それにほら、今は元気だし、歩けるさ」
 俺が自分の足を数回叩くと、母さんはまだどこか心配そうになっていた。
 どうやら、まだ信頼されていないらしい。
 でも、母さんの言う分もなんとなくわかる。
 だって、俺は一年間寝たきりなんだ。浜辺に歩くだけで疲れを感じるくらいだ。
 でも、リハビリプログラムを終えたし、俺はこうして元気にいられる。
「まあ、正広が一人で歩けるなら、いいんじゃないか? 母さん」
「父さんがそういうなら、そうね。信じるわ」
「正広よ。無理はするなよ?」
「うん、大丈夫だよ。父さん」
 俺はそう返事をしてから、朝食を手にした。
 やがて、皿が空になってから、俺はカバンを手にして、出かける。
「じゃあ、行ってきます。父さん、母さん」
「行ってらっしゃい。正広」
「無理するなよ。正広」
「過保護だよ、二人共」
 俺はそれだけ冗談を放ってから、扉を開く。
 外に出ると、気持ちのいい春風が俺の体を通っていく。
 うん、春の風は気持ちがよくていいね。
 そんな春風を噛み締めて、俺は前へと歩く。
「待ちなさいよ。正広」
 と、俺は呼び止められた。
 振り向くと、ちっこい少女がいた。幼馴染のまなかだ。
「アタシを捨てて、勝手に行くのはどうにかと思うわ」
 と、まなかは俺に嫌味を言い放つ。
「ごめん、ちいちゃくて、見ていなかった」
「むきー。心配して、向かいに来たのに、その態度なの!?」
「ごめんって。一緒登校しよう」
 軽く謝罪すると、まなかはふん、と顔を背ける。
 あらら、怒らせてしまった。
 まあ、俺のミスでもあるけれど、そこまで怒るかな?
 と、俺はどうしたら、まなかの機嫌を直せるか、考えていると、まなかは右手を差し伸べる。
「手、繋いで登校するなら、ゆるしてあげるわ」
「……」
 あまりにも子供っぽい提案でもある。しかし、それで機嫌直しができるならお安い御用だと思い、俺は黙って従った。
 でも、彼女の立場からすれば、そうかもしれない。
 去年、俺は一人で飛び出したせいで、昏睡状態になってしまった。
 今回はしっかり手を握っていると、事故は起こらないのだろう。
 なので、俺は苦笑し、彼女の右手をつなぐ。
「そうだな、リードよろしくね。まなか先輩」
「むきー。アタシを馬鹿にしたね?」
「いや、まなかは高校二年生だから、先輩だよ。俺は一年から再スタートだ」
「でも、年齢的には変わっていないわよね。同級生のようなものじゃない」
「そうか?」
「それに、あんたから先輩呼ばれされるのは、なんだかくすぐったいわ」
「わかったよ。まなか。これからもよろしくな」
 俺がそういうと、まなかは機嫌を直したかのように、満面な笑みを浮かべて、顔を頷く。
「うん。よろしくね、正広」
 そういうわけで、俺達は仲良く、手を繋いで、前へと歩いた。
 日昭高等学校に向かって歩いていったのだ。
 道の途中、生徒たちの的になるが、まなかは手を離そうとしなかった。
 よほど、去年の事故がトラウマになったのだろう。
 俺の勝手な行動で、トラウマを植え付けてしまった。
 なら、仕方がない。ここは、彼女の言う通りにしよう。
 と、俺達は昇降口にやってくる。
「じゃあ、靴履き替えていくから」
「あんたは一年のほうね」
「うん」
 そういうと、俺は一年生の下駄箱に行く。自分の名前を探す。すると、最後の列にあった。どうやら、あとから付け加えてくれたのだろう。
 俺はもってきた上履きを履き、靴を下駄箱にいれる。
 そして、まなかと集合する。
「じゃあ、俺は職務室に行ってくる」
「うん。がんばりなさいよ。正広」
「わかっているよ」
 そういうと、俺はまなかと別れた。
 この高校は初めてか、というと、そうではないのだ。
 その前に見学したことがあるため、学校の位置はなんとなく覚えている。
 うろ覚えだけど、職務室は知っていた。
 そこは、この廊下の奥の方にある部屋だ。
 俺が職務室にやってくると、田中先生に話をするように言われた。
 なので、俺は田中先生の机を探す。
 そこで、一人の二十代後半の先生が俺を見て、声を上げる。
「ああ、キミね。二階正広くんだね?」
 名前をフルネームで呼ばれたので、無視するわけにはいかない。
 彼女のほうに顔を向けて、俺は返事をする。
「はい。そうです。二階正広です」
 自己紹介するような名前を復唱すると、彼女は、よかった、と言い出す。
「はい。私が、キミの担当。1年A組の田中美海です」
「あ、よろしくお願いします」
 ペコリと頭を下げて、彼女にお辞儀すると、田中先生はにんまりと笑顔を向ける。
「そんな堅苦しいのはいいのよ。それより、困ったことがあったら、相談してね。一年、眠たきりなんでしょう? 体調不良とか起こしたら、すぐに言ってね」
「ありがとうございます。でも、今はピンピンと元気です」
「わお。頼もしい」
 田中先生は手を叩く。
 どうも、テンションが高い先生でよかった。
「さて、キミの教室は一階の階段のとなりにある。一年A組。私が、キミを紹介するから、キミは私についてきて頂戴。そうだなあ、キミの設定なんだけど、転校生でいいかな? 一年間昏睡状態に落ちてましたなんて、言うのはみんなも驚いてしまう」
「そうですね。一年間寝てました、なんてかっこわるいですからね」
 顔を頷かせる。
 確かに、一年間、昏睡状態に落ちて、入学するのが遅れました、なんていうのはどこかカッコ悪い。というより、みんなから心配される。
 そのほうがなんだか嫌だ。特別扱いされるのには慣れていない。
 というか恥ずかしいのだ。
 そんな雑談をしていると、予鈴のチャイムが鳴り響く。
 田中先生は手を叩き、合図をする。
「じゃあ、キミは私についてきて、そろそろホームルームの時間だよ」
「あ、はい」
 というわけで、俺は田中先生についていき、一年A組の前に立つ。
 先生が先に教室に入ると、俺は外で待機をする。
 中から合図されるまで待つのだった。
 そして、田中先生が合図をすると、俺は教室の中に入る。
 教壇の前に立つと、自己紹介をする。
「二階正広です。ちょっとわけあって、このタイミングで入学しました。よろしくお願いします」
 ペコリ、と頭を下げるとみんなから拍手が送られる。
 うん、なんだかこのタイミングが少し恥ずかしいものだ。
 拍手で送られるのは、なんだか心がかゆい。
 そこで、田中先生は手を叩き、みんなの方に声をかける。
「はい。じゃあ、二階さんの案内をこの教室の人にお願いしたいと思います。誰か案内してくれる人はいますか?」
「はい!」
 と、一人の少女が手を挙げる。
 俺はその彼女を見つめる。
「あ、キミは……」
 そう、あの浜辺にいた少女だった。
 一週間ぶりではあるが、彼女がどこの誰か、名前を尋ねるのを損ねてしまった。
「じゃあ、北沢さん。二階さんの学校の案内をお願いするわね」
「はい。任せてください!」
 北沢と言われた少女は元気よく返事をする。
 本当に元気な女の子だ。
 どうも、浜辺と合った様子とは若干違うような気がする。
「それでは、二階さんの席は北沢さんの隣。窓際の席ね」
「はい」
 と、俺は指定された席に向かっていき、窓際の席に向かっていく。
 席につくと、俺は北沢という女の子にお礼を言う。
「ありがとう。北沢さん」
「ううん、いいよ。それに、アタシのことをドッペルゲンガー奈々絵とよんでね」
「ドッペルゲンガー奈々絵?」
「うん、アタシはあのときとあったアタシとは違うから」
 そういうと、奈々絵はにししと笑い出す。
 そう言われると、確かに変だ。
 浜辺にあった彼女は、もっとおとなしい性格だ。
 でも、今の彼女はどこかアグレシフな感じがする。
 ……まあ、いいか。考えても仕方がない。
 と、俺はそう思うと、彼女のほうに手を差し伸べる。
「じゃあ、握手をしよう。これからも、よろしくね、奈々絵さん」
「うん。正広君こそ、よろしくね」
 こうして、俺達は友情を結んだ。
 ドッペルゲンガー奈々絵という浜辺で出会った不思議な少女と再び会えたのだ。
 時間があったら、彼女の夢、やりたいことを訪ねようと思う。
 そんなことをしていると、チャイムが鳴り響く。
 一限目が始まる。
 担任の田中先生が教室をでると、数学の先生が教室に入ってくる。
 そして、退屈な時間が始まろうとしていた。
 数学の先生は呪文を唱えるように、ぼそぼそと聞き取れない声を上げる。
 俺は必死にノートを取り、数学の数式をノートに写す。
 そんなときに、俺は隣のドッペルゲンガー奈々絵に目を向ける。
 彼女は真面目に勉強をしていると思っていたが、そうではなかった。
 前の席の女子生徒が居眠りをしている。
 すーすーと寝息を立てている。
 数学の先生もそれを見ていないのか、授業を続ける。
 まあ、老人の先生だから、注意する力がないのだろう。
 それと、数学という退屈な授業だし、真面目に受けていない生徒もあるのだろう。
ドッペルゲンガー奈々絵はその生徒を起こすと思いきや、実は違っていた。
 まずはちょんちょんと常規で背中を叩く。
 起こすのか、と俺は思ったけど、そうではなかった。
 前の席の少女が起きないと確認すると、彼女はいたずらを開始した。
 彼女の長い髪の毛を手に取ると、ジェールで髪の毛を弄りだす。
 数分後には、少女の髪はソフトクリームみたいなふわっとした髪型になっていた。
 ……うん、子供並のいたずらだ。
 少女が起きたら、びっくりするだろう。
 と、俺はそんなことを考えていると、チャイムが鳴り出す。
 一限目が終わりを告げるのだった。
「じゃあ、ここ試験であるから、覚えてね」
 と、数学の先生はそう言ってから、黒板を消す。
 ……そういうのは消す前に伝えるべきだよ、先生。
 そして、次の授業が始まる。
 社会の授業だ。今度は若い先生が担当する。
 しかし、この先生も生徒に関心がないようでもあった。
 少女がソフトクリームの頭になっているのを気にすることなく、授業を始める。
 ……それより、この子。寝すぎじゃね?
 一時間丸々寝ていたのだけど、起きる気配がないよ。
 きっと、起きたら、自分の頭がソフトクリームになっていることにびっくりするのだろう。
 と、俺は授業に集中し、ノートを取り出すのだった。

◇   ◇   ◇

 昼休みになる。
 寝ている少女は起き上がり、みんなから笑われる。
 一体、何事か、と思うと自分のスマホを取り出して、鏡代わりに自分の様子を確認する。すると、自分の髪がソフトクリームになっていることに気づくと、なんじゃこれ!?、と驚くようになり、慌てて教室の外に向かっていった。
 きっと、トイレに行って、髪型を直しに行くのだろう。
「ふふふ、作戦成功!」
 と、犯人であるドッペルゲンガー奈々絵はブイとポーズを取る。
 そして、彼女の悪事はここで止まることはなかった。
 女子生徒が会話をしているのを確認すると、近くに忍び込み、魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズをこそっと、お弁当箱の袋にいれる。
 それにしても、神業だ。
 こそっと、入れられるタイミングを見計らって、やるのは、もはや盗人の領域を超えている。
 でも、何も盗んでいないし、モノを入れただけだから、盗人にはならないのだろう。
 うーん、悪戯魔?
「じゃあ、正広君。学校の案内をするよ!」
 俺は首を傾げて奈々絵のことを考えていると、奈々絵は俺の方にやってきて、声を掛ける。
 俺と言うと、奈々絵の誘いを断ることなく、顔を頷かせる。
「あ、うん。案内よろしくね。奈々絵さん」
「さん、はいらないよ? アタシたちの仲じゃない」
「奈々絵?」
「うん。改めて、任せて! この学校をすぐにマスターできるようにするから」
 と、自信満々に答えるドッペルゲンガー奈々絵だった。
 それから、俺達二人は教室を出て、いろんな場所に案内される。
 まずは図書館、部活棟、体育館、グラウンド、屋内プール、屋上、食堂。最後には購買にやってくる。
 俺は焼きそばパンと牛乳を購入してから、外に出るのだった。
 そこで、奈々絵は俺に尋ねる。
「で、次に行きたい場所はある?」
「昼食を食べたいのだけど、どこかいい場所ない?」
「それなら、校舎の隣にある庭だね!」
「庭?」
「うん、日陰があって、すごく気持ちいい場所だよ?」
 ドッペルゲンガー奈々絵はそう言うので、俺は少し期待する。
 きっと、ドッペルゲンガー奈々絵が言ういい場所なのだろう。
 というわけで、俺達は移動する。
 靴を履き替える。
 校舎の外に行くと、そこには小さな庭が出来ている。
 庭には生徒たちが座り、花見状態になっていたのだ。桜が散った今、花見をするのは少々おかしいが、みんなシートを使って、席を確保していた。
「こんな人がいると、ここで食事をとるのは難しいのでは?」
「大丈夫! とっておきの場所があるの!」
 と、奈々絵が自信満々に語る。
 うん、彼女はどこか頼もしい。
 この学校が始まって一週間もしないのに、色々と理解している。下手したら、まなかよりこの学校を理解しているかもしれない。
 俺が彼女のあとについていくと、事件は起きた。
「あ、奈々絵!」
 と、ドッペルゲンガー奈々絵は呼び止められる。
 声のもとに振り向くと、そこには女子生徒がいた。
 それは、弁当箱の袋に魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズを仕込まれた生徒だ。
 彼女はどこか、困った表情を作り上げる。
 そして、彼女は魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズを弁当箱の袋から取り出す。
「もう! また仕込まれたよ!」
「ごめんごめん。仁美ちゃんが好きかなと思ったから」
「好きなのは否定しないけど、びっくりするじゃない。こういうおもちゃが弁当箱の袋に入っていたら!」
 仁美と呼ばれた少女はどこかかわいい怒りを表す。
 どうやら、奈々絵には本気で怒っていないらしい。
 ともあれ、奈々絵のイタズラには驚き、機嫌を損ねていた。
「次、やったら、めっだからね!」
「ごめんって」
 と、仁美は魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズを奈々絵に返す。
 そして、てこてこと友達の方に向かっていった。
「怒られちゃった」
「いや、それはびっくりするでしょうよ。お弁当箱の袋を開けたらおもちゃが入っていると」
「そうだね。でも、そこか面白いんじゃない。驚かせるところ」
「子供かよ……」
「にしし……」
 どこか楽しげに笑う奈々絵だった。
 そこから、空いている席を確保できて、俺達はシートを床に敷く。
 二人が座れるようなスペースで、絶景の場所だった。
 日陰がいいところに鎮座すると、俺達は互いに購買から買ってきたパンとジュースを取り出すと、封を開ける。
 それから、手を合わせて、いただきます、という通過儀礼をしてから食事を取るのだった。
 焼きそばパンを口の中にいれる。
 あまりにも美味!
 もちもちの焼きそばに濃厚なソースの相性が素晴らしかった。
 まさか、購買の焼きそばパンに感動する日が来るなんて、思いもしなかった。
 俺が焼きそばパンに感動していると、奈々絵は魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズで遊ぶ。
 ボタンを押下すると、ピカーンと光だし、音も出る。
「クオリティーが高いな」
「そうでしょう? これ結構高いだよ?」
「そうなんだ。俺、その玩具が発売する前に眠っていたから、値段とかわからないな」
「まあ、渋沢さんが一人かな?」
「高!?」
「でも、最終形態の魔法少女の変身できるよ?」
「ネタバレになるから、やめてくれ」
 そんなわけで、俺達は食事をしながらも、雑談しつつあった。
 学校の雰囲気について尋ねると、賑わっている傾向にあると。
 特に問題が発生するような学校ではないのだ。
「それより、奈々絵」
「ん? 何かな? 正広くん」
「先週会ったときと様子が違うのだけど、気の所為か?」
「ううん、それはそうだもの。だって、あたしはドッペルゲンガー奈々絵だから」
「どういう意味?」
 思わず首を傾げる。
 先週会った少女奈々絵は、どこか物静かでどこか、悲しげで、儚いような気がする。放っておけないような態度だった。
 でも、今目の前にいる少女はどこか、まっすぐで、イタズラ好きで、みんなから愛されているような感じがする。
 その違和感が俺の心の何処かに引っかかっていた。
「よくわからないけど、二重人格というやつかな?」
「二重人格って、人格が2つあること?」
「そそう。アタシは元気の方? 本物の奈々絵は先週会った人格だよ」
「え? 覚えているの?」
「もちろん。覚えているよ」
 イタズラ好きの奈々絵は胸を張って言い出す。
 これはちょっと興味深い。二重人格というやつは本来、互いに互いを知り得ないようでもある。でも、これはちゃんと自分のことを覚えているし、記憶を共有している。違うのは、性格だけだった。
 珍しい子にあったな、と俺はそう思う。
「じゃあさ、自分を取り戻すってのは、自分がどうありたいのか、という意味?」
「半分正解。半分不正解」
 奈々絵はイタズラっぽく笑い出す。
「アタシはね、魔法少女ドッペルゲンガーミオみたいに、月に行って、自分を取り戻すの。いつか、月に行ったら、本当の自分に出会えるんじゃないかって」
「本当の自分……」
 俺は復唱すると、奈々絵について考えてみる。
 先週会った奈々絵は月に行くこと、それから、自分自身を探し求めることを指していた。
 でも、イタズラ好きの奈々絵は本当の自分を取り戻すと言っている。
 ……つまり、二人の目的は一致しているということか?
 でも、何かが引っかかるような、なにもないような気がする。
 ともあれ、俺は奈々絵を全力で助けることを決めた。
 なら、彼女がどちら側であっても、俺のやることは変わることがない。
 それは……
「わかった。前の奈々絵にも言ったけど、君にも言う。俺は君の願いを叶えてあげる」
 ……全力で助けることだ。
「本当? アタシのこと馬鹿にしていない?」
「本当さ。馬鹿にしていない」
「神に誓ってでも?」
「神って、誰のこと?」
「神様は神様だよ」
 ……わからないの? みたいにイタズラな奈々絵は首をかしげる。
 まあ、言いたいことはわかる。俺は馬鹿だった。
 神様は神様だ。
 なら、俺は神様に誓う。
「わかった。神に誓うよ」
「言ったね? 嘘ついたら針千本だからね」
「指切りかい!?」
 と、俺はツッコミを入れると、奈々絵はにししと笑い出す。
 どちらにせよ、俺は、奈々絵の力になりたいと思う。
 だって、困っている人がいたなら、助けるのが筋だと、父さんは言っていた。
 その困った人が助けを求めているなら、俺は助けたいと思う。
「それよりも、君のことはなんて呼べばいい?」
「だから、ドッペルゲンガー奈々絵?」
 ドッペルゲンガー奈々絵はイタズラな笑みを浮かべる。
 なるほど、イタズラな彼女にぴったりな名前だ。もう一つの人格だから、ドッペルゲンガーか。
 それにしても、ドッペルゲンガー奈々絵はどこか名前が長い。
 なら、省略するのもありかもしれない。
「じゃあ、君のことはドッペルちゃんと呼ぼう」
「それいいね!」
 ドッペルゲンガー奈々絵は笑って答える。
「じゃあ、名前が決まったことだし、改めてよろしくね。ドッペルちゃん」
「はい! よろしくお願いします。正広さん」
 と、俺達は再び握手をする。
 友情を結び、これから奈々絵を助ける合図でもあるのだ。
「それと、昼休みが残り少ないので、昼食を食べましょう」
「そうだね」
 というわけで、俺達は昼食を取るのだった。
 焼きそばパンを堪能し、コーヒー牛乳を胃袋に流す。
 うん、これでエネルギー充電できた。
 ちょうど、食べ終えるときに予鈴のチャイムが鳴り響き、生徒たちはシートをしまい出す。
 俺達もシートをしまって、シート置き場に戻す。
 誰でも自由に使える校庭はいいものだ。この日昭高等学校の魅力を一つ見つけて、なんだか嬉しく感じた。
 というわけで、俺達は校舎に戻り、1年A組に戻った。
 そして、席につくと同時に本鈴が鳴り響く。
 英語の先生がクラスにやってくる。
 退屈な時間が再び始まろうとしていた。
 そして、ドッペルゲンガー奈々絵の前の席の女の子は船を漕ぐ。
 ……また、イタズラされるぞ? 頭をソフトクリームになるよ?
 ともあれ、ドッペルゲンガー奈々絵はイタズラをする。
 それは、前の席の子の筆箱を魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズに入れ替える。
 起きたら、きっと、びっくりするだろう。
 筆箱が玩具になったことに。

◇   ◇    ◇

 やがて、放課後になる。
 チャイムが鳴り響くと、生徒たちは緊張感から開放されていく。みんなはどこか活き活きとしている。部活に向かう生徒たち、放課後で予定が決まっていない生徒たちは雑談をする。
 俺といえば、やることがないので、この放課後はなにをすればいいのかわからない。
 最初は水泳部に入部しようかと思ったが、筋肉が衰えるため、水泳はすぐにはできない。
 筋肉を取り戻すトレーニングをしないといけない。
「正広君」
 と、俺が考え事をしていると、隣席の奈々絵が声をかけてくる。昼間と同じドッペルゲンガー奈々絵の方だ。
「どうした、ドッペルちゃん」
「放課後、どっか遊びに行きませんか?」
 と、放課後の予定を尋ねられる。
 特に予定は入っていないので、奈々絵と過ごすのも問題ないと思った俺は顔を頷かせる。
「そうだな。どこか遊びに行こう」
「はい!」
 と、奈々絵は教室の後ろにあるロッカーに向かって、何かを取り出す。
 そして、それを俺の前にもってくる。
「それは……」
「ギターです! クラシックギターになります」
 ギターケースを担ぐ奈々絵だった。
 小さな体に大きなギター。どうも、楽器とは似合わないのが第一印象だった。
 でも、彼女が楽しんでいるのであれば、俺から口出しするのも、よくないと思ったので、ただただ頷くだけだった。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
 ということで、俺と奈々絵は出かけることになる。
 教室を出ると、廊下を出る。
 活き活きとした生徒たちとすれ違う。どんな部活があるのだろうか、俺は何も知らなかった。
 明日は、部活の見学とかでもしようかな、と思った。
 廊下を出ると、昇降口で靴を履き替える。
 そして、俺達は校門を出る。
 校門には生徒たちが出ていくのを確認できる。
 なんだか、青春という感じがする。
「さて、俺達はどこに行くの? ドッペルちゃん」
「にしし、実は、この近くの公園で屋台をやっているのです。そこに行きましょう」
「いいね。春の屋台」
 珍しさに、思わず頷けてしまう。
 そして、俺達は移動し、徒歩10分くらいにある公園につく。
 そこには、ドッペルゲンガー奈々絵が言った通りに、屋台があった。
 夏祭りのような屋台ではなく、どこかキッチンカーで食品を販売していた。
 ホットドック、クレープ、フレンチフライ、炭酸水、たこ焼き、お好み焼きのキッチンカーがあったのだ。
 子供たちにも人気があるキッチンカーだった。
 同じ放課後になり、この公園に通う生徒たちはキッチンカーに群がっていた。
 俺は一瞬悩みだす。
 こんなにキッチンカーがあれば、なにを手にすればいいのか、迷ってしまう。
 そんな迷っていると、ドッペルゲンガー奈々絵は何かを提案する。
「正広君! 正広君! クレープ食べましょう」
「クレープね。いいね」
 というわけで、俺達はクレープ屋さんの列に並ぶ。
 子供たちは前に並び、チョコレートクレープを注文する。
 俺というと、なにがいいのか、悩みだす。けれど、結局はバナナチョコクレープにしようと思った。
 順番がやってきて、俺はバナナチョコクレープを注文する。
 受付のお姉さんは俺の注文を受け取ると、すぐにクレープを焼き出す。
 クレープを焼き上げると、バナナとチョコレートとクリームを入れて、丸める。
 これでバナナチョコクレープの完成だ。
 包みに入れて、俺の方に差し出す。これで、600円。かなり良心的な価格だ。
 クレープを受け取った俺は、クレープを一口いれる。
 ……甘い。チョコレートの甘さとバナナの香りの相性がよくて、美味しい。
 これが、バナナチョコクレープだ。
「ドッペルちゃんは何注文したの?」
「アタシは、ストロベリーアイスです」
「それ美味しそうだね」
「はい!」
 そういうと、ドッペルゲンガー奈々絵はストロベリーアイスクレープを頬張る。
 うー、と美味しく食べる。
 本当にいいリアクションをするな、ドッペルゲンガー奈々絵は。
 なんだか、情緒が安定して、人生を楽しんでいるようだった。
「あ、正広君のもらい」
「あ……」
 俺が油断をしていると、奈々絵はぱくりと、俺のクレープを一口食べる。
 あ、美味しいところであるチョコレートとバナナがドッペルゲンガー奈々絵の口の中に入っていく。
「うー! チョコレート美味しい!」
「はは、そうだよね。ここのクレープうまいな」
 と、いうわけで、俺達は空いているベンチに座り、二人でクレープを食べる。
 食べきると、近くにあるゴミ箱にクレープの包みを入れる。
「あ、猫ちゃんだ」
 と、ドッペルゲンガー奈々絵はベンチに寝ているオレンジ色をした猫を見つける。
 猫はすやすやと気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。
 そこで、奈々絵は猫の顔に近寄せると、ばあ!、と猫を驚かせる。
 猫は驚き、慌てて樹木の方に走っていったのだ。
「やりすぎじゃないか? ドッペルちゃん?」
「あはは。面白い。猫かわいい!」
 と、腹を抱えて笑いだすドッペルゲンガー奈々絵だった。
 子供のようにイタズラ好きで、どこか、人生を謳歌しているようだったのだ。
 そんな彼女を見ていると、小さな子供を思い出す。
 イタズラ好きで何もかも興味津々な子供みたいだった。
「さてと、いい天気だし、一曲歌を歌いますか」
 そういうと、奈々絵はギターケースを置き、ケースを広げる。
 中からクラシックギターを取り出す。そして、ギターを構える。
 ピックで、ギターの弦の上に置く。
 そして、彼女はギターを奏でる。
「らーらーらー♪」
 その演奏する音楽は、俺は知っている。
 それは、魔法少女ドッペルゲンガーミオのオープニングテーマだ。
 有名な作曲家が作曲した音楽は素晴らしく、耳に残るリズムだった。
 なので、俺は思わず鼻歌を歌ってしまうのだった。
 子供たちは魔法少女ドッペルゲンガーミオの曲を聞くと、この曲しっている、と言い出し、奈々絵の方に群がる。
 そして、楽しそうに奈々絵と一緒に歌うのだった。
 ドッペルゲンガー奈々絵と子供たちは楽しそうに音楽のリズムに乗り、魔法少女ドッペルゲンガーミオの主題歌を歌う。
 俺はこの瞬間を逃す事はできないと思い、スマホを取り出し、動画撮影をする。
 子供とドッペルゲンガー奈々絵が楽しく歌を歌う姿。
 それはもう、みんなが初心に戻って歌を楽しむ姿になっていたのだ。
 やがて、歌を歌い終えると、子供たちは拍手し、奈々絵のことを褒めだす。
「お姉ちゃん。また、歌ってよ」
「ごめん、ギターはじめたばっかりだから、この曲しか演奏できない」
「えー。こんなにうまいのに?」
「そ、結構練習したんだからねえ」
 と、ドッペルゲンガー奈々絵は威張るように自慢をしたのだった。
 いや、この曲を練習するなんて、どんだけ、魔法少女ドッペルゲンガーミオが好きなんだよ。
「じゃあ、リクエストにお答えして、もう一回、魔法少女ドッペルゲンガーミオの主題歌を歌うよ」
「やったー!」
 と、子供たちは喜び、ドッペルゲンガー奈々絵は歌い出す。
 やがて、夕日が傾き出し、夕方の時間がやってくる。
 子供たちは帰る時間になったためか、俺達と別れを言い出す。
 そして、バイバイと手を振りながら、子供たちと別れを言う。
「ねえ。正広君」
「ん?」
「また、放課後、一緒に楽しましょうね」
 奈々絵の意外な言葉に俺はちょっと驚く。
 でも、命の危機に落ちた事がある俺は一つだけわかる。
 それは、人生を楽しむことだ。ひとはいつ死ぬかわからない。だから、人生を楽しむのが、正しい生き方だと思うのだ。
 だから……
「ああ。また、一緒に過ごそう」
 ……俺はその奈々絵の提案を受け入れたのだ。

◇   ◇    ◇

第四話 善良な奈々絵

 翌日の朝。俺は家を出る。
 本日は先日と同じ時間で学校に登校する。
 朝7時前であるためか、生徒たちの姿はあまりなかった。朝の部活活動がある生徒の姿しか見なかった。
 あるいは、朝の時間に余裕を持たせるために学校にやってきたものしか、この時間やってこない。
 一限目は8時半に始まる。この街の住人の数を考えると、そこまで活発的に動くものではないため、そんなに生徒の姿がなかった。
 1年A組の教室の中に入ると、数人の生徒の姿があった。
 そこで、俺は異変に気づく。
 奈々絵だ。彼女は優しい微笑みをしながら、花壇に水やりをしていたのだ。
 昨日とはまるで、別人な微笑みを浮かべる彼女に、俺は考え込む。
 今、眼の前にいる奈々絵は一体、どんな奈々絵なのか? あのとき、浜辺にあった奈々絵なのか? するとも、昨日、彼女が自己紹介したドッペルゲンガー奈々絵なのか?
 そんなことを考えていると、奈々絵は俺のことに気づき、挨拶をする。
「おはよう。正広さん」
 その挨拶で、俺は理解した。
 彼女は浜辺であった奈々絵だ。言葉や動作からすると、昨日みたいな、イタズラ、ドッペルちゃんではないのだ。
 なので、俺はいつものようにフランクな挨拶をする。
「おはよう。奈々絵」
 すると、彼女はにっこりと微笑み、花壇の水やりを続ける。
 その仕草は絵になるような行動だ。
 しかし、花壇に水を入れるとは園芸部なのか?
 気になった俺は、彼女に尋ねることにする。
「奈々絵は園芸部なのか?」
「ううん。違うの。わたしはただ、花が可愛そうだからと思って、手入れをしているだけ」
「……花が可哀想だから?」
「うん。知っている。この花の管理は委員長がやるんだけど、委員長は陸上部だから、中々花の手入れする時間がないの。だから、わたしがこうして、花の面倒を見ているの」
 誇らしげに語る奈々絵に俺はどこか感動する。
 なるほど、この奈々絵は心が広い。
 自分の分でもない、花の手入れを自分でするようにしている。
 彼女のことを善良な奈々絵と呼ぼう。
「あ、奈々絵!」
 俺が彼女に感心していると、そこには違う女子生徒がやってきた。
 確か名前は、仁美だった気がする。
 そう。昨日、弁当箱の袋に魔法少女ドッペルゲンガーミオの変身グッズを仕込まれた少女だ。
 仁美は奈々絵を見ると、慌てるように小走りで走ってくる。
 そして、奈々絵の前に立つと、どこか懇願するように手を合わせる。
「お願い! 奈々絵さん! 数学のノートを写らせて」
「いいよ。ちょっとまってね」
 と、奈々絵は如雨露を置いてから、自分の鞄からノートを取り出す。
「はい。数学のノート」
「助かる! 先生、いつもボソボソしているから、何言っているかわからないよ」
「うんうん。それ、よくわかるよ。そのときは黒板の数式を見ればいいの。そうすると、なんとかわかるよ」
 ……いや、わからんが?
 昨日の数学の授業は確かに老人がぼそぼそとしているのは間違いないけど、奈々絵はドッペルちゃんの方じゃなかったっけ?
 でも、記憶が共通しているのか、なら、黒板のことはわかるのか。
 それにしても、人の頭をソフトクリームで遊んでいたけど、映す暇があったんだ。
「じゃあ、昼休みに返すから、借りるね」
「はいはい」
 そういうと、仁美ちゃんは自分の席に戻り、数学のノートを写し出したのだ。
 うん、なんだか、タイミングが悪いようないいような。
 それより、仁美は奈々絵のことをどこまで知っているのか?
 気になった俺は、奈々絵に直接確認する。
「なあ、奈々絵」
「はい。なんでしょうか?」
「他の人は二重人格のことを知っているか?」
 そう尋ねると、奈々絵はどこか顔を曇らせる。
 ……あれ? ちょっと、むかしい質問をしたつもりではないが、答えにくい質問なのだろうか?
 でも、よく考えれば、この症状を他に話すわけにはいかない。
 いや、信じ難いことだ。
 自分にほかの人格がある、というのは、自分が率先して口外するものではない。
「恥ずかしながら、ドッペルちゃんのことはみんな知りませんよ。主治医と正広さん以外は知らないと思います」
「なるほどね」
 まあ、当然の答えに俺は納得する。
 みんな、奈々絵のことをよく見ていない。見ていれば、彼女の人格が少々おかしいのはすぐに気づく。
 でも、ドッペルゲンガー奈々絵は人に迷惑をかけていない。
 どちらかというと、人をイタズラするけど、そこまで害悪な人格ではない。
 なので、放っておいても特に問題ないかもしれない。
 しかし、やはり、気になる。
 彼女はどうして、二重人格になったのか。
 ……これは、昼休みに少し独自調査したほうがいいかもしれない。
「なあ、奈々絵」
「はい、なんでしょうか?」
「キミの主治医に話と話してもいいか?」
 そう言うと、奈々絵は目をパチパチとする。
「というのは?」
「二重人格で困っていることがあったら、サポートできると思ってね。主治医に俺からできることがないか、訊きたくて」
 自分でいうと、なんだか恥ずかしく感じる。
 人の力になりたいのは直接いうとどこか恥ずかしく感じたからだ。
 まるで、プロポーズのようなものだと思った。
「ふふ、正広さんはお優しいのですね」
「優しいかはどうかは違うと思う。ただ、約束を果たしたいのだよ」
「約束?」
「ほら、浜辺で言っただろ? 自分を取り戻すって」
 そういうと、奈々絵はどこか顔を曇らせる。
「そうですね。そんな約束しましたね」
「奈々絵?」
 彼女の意味深な言葉に首をかしげる。
「でも、それは気持ちだけで嬉しいです。わたしは大丈夫ですから?」
「大丈夫?」
「はい。わたしは大丈夫です。月に行って、本物の自分を取り戻します」
 奈々絵はそう言うと、乾いた笑顔を向ける。
 それは、魔法少女ドッペルゲンガーミオのセリフにも似ている。
 ……魔法少女ドッペルゲンガーミオは、月の鏡に照らされた少女が、もう一人現れる。それが、悪意なミオだった。ミオは彼女を止めるために、いつか月に行き、魔法の国の魔王を止めるのだった。
 それが、奈々絵が魔法少女ドッペルゲンガーミオに似ているところだ。
 それにしても、奈々絵の様子がなんだか、おかしく感じる。
 しかし、その違和感はなんなのか、俺はよくわからない。
「では、日直の仕事があるので、失礼します」
「あれ? 今日の日直って奈々絵だっけ?」
「仁美ちゃんだよ。でも、仁美ちゃんは自分が日直だと忘れていると思う。だから、わたしが代理に努めます」
「あ……」
 そういえば、黒板の日直の欄に仁美と書かれている。
 そして、俺は仁美の方に視線を向けると、頭を抱えながら、必死に数学を写している。
 ……こりゃ、完全に自分の責任を完全に忘れてしまったな。
 今から、声を掛けるのも悪いような気がする。
 昨日の数学の授業は確かに難易度が高かった。ここで、集中を切らせるのは、なんだか悪い気がする。
 そんな事を考えていると、奈々絵は日直の作業を始める。
 彼女は、教室から出ていく。
 きっと、職務室でプリントを受取に行くのだろう。
 俺も彼女を助けたいけれど、足手まといになるような気がする。
 なにせ、俺はこの高校に詳しくない。どこかにいかせたりすると、迷うこと間違いないだろう。
 なので、奈々絵のことについて考える。
「どうしたもんかな……」
 自分の席に座ると俺は唸る。
 ドッペルゲンガー奈々絵と善良な奈々絵。
 どちらが本物の奈々絵なのだろうか?
 まずは、奈々絵を治療している主治医の話を聞くのが一番効率的ではあるけど、簡単に行くような気がしない。善良な奈々絵は何かを隠しているような気がする。
 それは一体なんのことだろうか?
「うむ……」
 考えても答えは出てこない。
 憶測が悪い方向にしか働かない。
 こうなったら、昼休みにリサーチするしかない。
 図書館で、調査するしかない。
 と、そんなことを考えながら、俺は窓の外を眺める。
 まなかがグラウンドに走っている。そういえば、まなかも陸上部だったような。
 朝はやくから、走るなんて、きっと、気持ちのいい朝なのだろう。
 と、俺はそんなことを思いながら、窓の外を見ていた。

◇   ◇    ◇

 昼休みになる。チャイムが鳴り響くと、生徒たちはどこかへと走り出す。行き先はきっと、食堂なのだろう。
 昨日の説明で聞いた話だと、本日は月一の牛丼が提供される。それも、神戸牛という贅沢なものを提供してくれるのだ。先着30名ということで、欲しい人は走り出すのだ。
 俺といえば、その牛丼に気にはなるが、それ以上に気になることがある。
 それは……
「奈々絵さん。英語のノート貸して!」
「いいよ。はい。英語のノート」
「サンキュー! 助かった」
「奈々絵さん。この資料を運ぶのを手伝ってくれないか?」
「わかりました」
「助かる~。やはり、奈々絵さんは天使だな」
 ……奈々絵が教室の中心で活躍していた。
 昨日とは、まるで別人のように活躍する奈々絵に、俺は首をかしげる。
 昨日はみんなが奈々絵に頼らなかったからとはいえ、こんなに人柄が変わってしまうと、本当に違和感を感じる。
 そして、俺の頭には一つの疑問を抱くようになる。
 それは……先週、浜辺であった奈々絵はどっちの奈々絵なのだろうか?
 考えても仕方がない。
 俺は調査することにする。
 席から立ち、足を動かせる。教室を出ると、俺はとある場所へと向かっていった。
 そこは、人影が多くなく、人気がない場所だ。
 この時間に、この場所にいく生徒はそんなに多くはないのは、知っている。
 なにせ、そこは食事する場所ではないからだ。
 やがて、俺は三階に上がってきて、その場所を目指す。図書室だ。
 ここには、奈々絵の答えがあるのではないかと思った。
 スマホで検索してもいいけれど、俺はマニュアルで調査するのが得意の方だと思ったからだ。
 重い扉を引くと、中に入る。
 シーン、という静かな空間が広がっていく。
 図書委員が一人、受付に座っていた。
 迷わずに、俺は図書委員の方に足を向かせる。
「すいません。ちょっと探している本があるのですけど」
 そう尋ねると、図書委員の三つ編みをした女の子は首をかしげる。
「はい。どのような本でしょうか?」
「えっと、説明しにくいのだけど、心理学入門書っていうのは置いてある?」
 俺は二重人格について知りたくて、この分野を選んだ。
 とはいえ、いきなり高度のものに手を突っ込むのは問題だと思ったので、入門書を選んだ。もしかすると、奈々絵が抱えている問題を解決できないかと思ったのだ。
「申し訳ございません。心理学書は置いてないですね」
「そうか……」
 俺はため息を吐く。
 まあ、そんな簡単にはいかないよな。
 よく考えたら、高校にそんな高度なものが置いてあるわけがないよな。
 大きな図書館、大学か、市の図書館に行くべきか。
 と、俺がその場から去ろうとすると、三つ編みの図書委員は心配そうな声を上げる。
「あの……何か悩みでしょうか?」
「ん?」
「心理学入門書はおいてありませんが、近いものがあるかもしれません。どの分野について知りたいのでしょうか?」
 ……なるほど。その手があったか。
 さすがは図書委員。心理学入門書ではないけど、他の本で勉強にできるかもしれないことを提案する。
 なので、俺は知り合いの話のように、言葉を濁す。
「実は、知り合いの話なんだけど……二重人格になっていると思うだ。だから、なにか手掛かりを知りたくて」
 現実離れしているのか、図書委員は目をパチパチとする。
 きっと、俺が言った言葉を信じていないのだろう。
 ここは出直そう……
「えっと、ごめん、無理を言って」
「い、いいえ。それって本当に実在するのですね」
「え?」
 今度は俺の方が図書委員の言葉に驚く。
 実存する、というのは、どういうことだろうか?
 俺がそんなことを考えていると、彼女はすっと、一つの本を差し出す。
「これなら、貴方が知りたいことに近づけると思います」
「ジキル博士とハイド?」
「はい。1886年に出版されたイギリス小説です。通称、ジギルとハイド」
 彼女はそう説明すると、俺はパラパラとページを開く。
 日本語で書かれている小説ではあり、特におかしなことはない。
「小説は二つの構成になっていまして、前半が弁護士のアンダーソンの回想と後半はジギル博士の告白になっています。物語の内容としては、善良なジギル博士が開発した薬を飲み、醜い姿と心がハイド氏に変身するのです。二重人格が一般に知られる物語になっています」
「なるほど。小説か……」
 あまり小説を読まないけど、興味を唆るような内容だ。
 これなら、ドッペルゲンガー奈々絵のことをより理解できるかもしれない。
「これを借りていいか?」
「はい。可能です。図書カードをお作りしますので、少々時間をください」
 そういうと、俺は図書カードを作り、その本を借りる。
 一週間後には返すようにする。その前にこの小説を読破して、彼女の正体を掴まないといけない。
 俺はその本を手にしながら図書室を出る。そして、お腹が鳴る。
 昼ご飯を食べていない事に気づいた俺は、購買の方に向かって歩く。
 そこで、奈々絵とすれ違った。奈々絵は楽しそうにみんなと会話をしている。輪の中心になり、みんなの冗談を受け止めていた。
 昨日のイタズラな奈々絵とは大違いだ。
「あ、正広さん」
 俺が立ち止まって、考え事をすると、奈々絵は声をかけてくる。
「どうした、奈々絵?」
「いいえ。正広さんと合ったので、もしかして、迷子なになったのか、と思いました。この学校を来て間もない正広さんですから、困っていると思いまして」
「ああ。ううん、大丈夫。ただ、考え事をしているだけ、とくに困っていることはないよ」
「本当ですか?」
「うん、大丈夫」
 奈々絵はどこか心配そうに俺のことを眺める。
 けれど、彼女の後ろに立っている友人たちが「どうしたの? 奈々絵」 と訪ねてくる。
 なので、俺は奈々絵に大丈夫だと言い出す。
「大丈夫だから、ほら、友達が呼んでいるよ」
「はい。でも、困ったことがありましたら、どうぞ遠慮せずにわたしを呼んでください」
「うん。その時はそうするよ」
 そういうと、奈々絵は友達の方へと向かって小走りした。
 さすがは善良な奈々絵。最後まで、俺のことを気にしているようにも見えた。
「さてと、俺は、昨日と同じく焼きそばパンとジュースでいいか」
 と、俺は購買の列に並び、順番を待つ。
 順番になると、昨日と同じく焼きそばパンとリンゴジュースを注文する。
 そして、会計をすると、俺はそれを手にして、屋上に向かっていった。
 屋上にはグループができて、生徒たちは食事を取っていた。
 俺は空いている日陰の下に座り、食事を摂る。
 手にしている本を改めて見る。
「ジギル博士とハイド氏か……」
 善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵。
 それはあまりにも似ている構図でもある。まさか、こうして小説のように奇妙なことになるとは思わなかった。
 俺は焼きそばパンを頬むりながら本の表紙だけを見る。
 実際に読むのは、家についてからだ。
 今は時間がない。なので、俺はゆっくりと昼休みを楽しむのだった。
「それにしても、ここの焼きそばパンはうまいな……」
 焼きそばパンを噛み締め、味を堪能する。
 昨日と全く同じ感想を言葉にする。片手にリンゴジュースを飲みながら、俺は屋上から下を見下した。
 そこには、奈々絵の姿があった。
 奈々絵は友達の輪の中心になり、笑っていた。
 どうも、昨日の奈々絵と様子は違っていたのだ。
 その奈々絵を見ていると、俺の頬も思わず緩んでしまった。
 奈々絵が幸せなら、それでいい。
 でも……
『落としたものはね、私自身なの』
 ……あのときの奈々絵の顔がどこか悲しげだった。
 落とした自分とはどういう意味なのか? 気になってしまう。
 ……月に行って、自分を取り戻す。
 それも、魔法少女ドッペルゲンガーミオの1話の話に似ていたのだ。
「それって、自分探しなのか?」
 俺は焼きそばパンの袋をゴミ箱にいれるとそう呟く。
 彼女が落とした自分とはどういう意味か? もしかして、第三の人格のことか? あるいは、この2つの人格の中和のことか?
「ともあれ、馬鹿な俺にはわからんな」
 そうだ。馬鹿な俺は答えを知らない。
 だから、彼女と対話によって、答えを導くしかない。
「大丈夫だ。二階正広。お前はやればできる子だ」
 と、俺は過去に俺に言い放った言葉を思い出す。
 俺はやれば、できる子だ。
 世界征服でさえも、やればできる。
 そんな馬鹿げたことを思いながら、りんごジュースを飲み尽くす。
 そして、そんなときにチャイムが鳴る。
 授業まで5分前だ。
「やべ、図書館で時間をとってしまった」
 俺はリンゴジュースをゴミ箱に入れると、急いで、教室に戻るのだった。
 教室につくと、奈々絵はすでに席に座っていた。
 俺はそっと、彼女のとなりの席に座り、借りた小説を鞄にいれる。
 そんなときに、国語の先生が教室にやってくる。
 退屈な時間が始まろうとしていたのだ。
 俺は勉強体制に入り、ノートを広げる。シャーペンをカチカチと押してから、ノートの上に走らせる。
 学生の本分は勉強だ。だから、俺はこの勉強を怠ることはしない。

◇   ◇   ◇
 
 やがて、放課後になる。
 放課後のチャイムが鳴り響き、みんなは解放感に浸る。
 火曜日であることを思い出すと、まだ、3日残っていることに絶望する。
 ……早く土日にならないかな?
 ちらっと、俺は隣席の奈々絵を見る。
「じゃあね、奈々絵」
「はい。気を付けて帰ってね。仁美さん」
「奈々絵、この問題を教えて!」
「いいよ。ここはね……この単語を使うの」
「すごい。わかりやすい! ありがとう。奈々絵」
 と、奈々絵はすごく人気者だった。
 教室の生徒の大半は奈々絵に集まってきた。
 やはり、奈々絵は善良な奈々絵であり、人気者だった。
 昨日は、俺の案内をした影響で、みんなと話せなかったらしい。
 ふむ、どうしたものか……
「あの。正広さん」
「あ、うん? どうした奈々絵」
「何か困っているようで声をおかけにしたのですが……案内役として、何か助けが必要でしょうか?」
「あ、いや。ちょっと考え事をしていただけだ。とくに助けが必要ではない」
「そうでしょうか?」
「ああ。そうだ。だから、俺のことは気にしなくていいよ」
 そういうと、奈々絵はどこか怪訝な顔をする。
 きっと、俺が困っていると勘違いしているのだろう。
 なので、俺は鞄を手に取り、立ち上がる。
「うん、じゃあ、俺は帰るよ……」
「はい、気を付けてお帰りください。正広さん」
「奈々絵もね」
 と、俺が教室を出ると、奈々絵はみんなの輪の中にいる。
 そこで、俺は廊下を一人で歩きながら、考え込む。
 奈々絵は人気ものになった。それは、奈々絵が善良な奈々絵の性格だからだと思う。みんなのことをよく見て、よく考えて、人の気持ちに寄り添うことをする。
 だから、人気にはなるのだろう。
 だけど、ドッペルゲンガー奈々絵はどうだろうか?
 イタズラ好きで、人を困らせるくらいはする。
 けれど、線を超えることをやっていない。
 ある意味、人の心の限界線をよく理解している。
「うーん、悩ましい問題だ」
「なにがよ?」
 俺が唸り声を上げていると、俺の声を被らせるように不機嫌な少女の声がする。
 振り向くと、そこには幼馴染のまなかが手を腰に当てながら、不機嫌な表情を浮かべていた。
「どうした? まなか?」
「どうしたもこうしたもないわよ。昨日は女子と帰ったんだよね?」
「いや、奈々絵は部活だよね?」
「そんなの関係ないよ。アタシに知らせる権限はあるでしょう?」
「なんで?」
「アンタ、病み上がりのことを忘れていない? アンタに何があったら、責任はアタシにあるのよ?」
 まなかの言う文はちょっと無茶苦茶だ。
 責任云々は、俺にあると思うけど?
 でも、病み上がりなのは間違いない。俺は数日前に目覚めたばかりだ。
 だから、彼女の言うことはなんとなくわかる。
「ごめん、昨日は彼女とちょっと話をしたくて」
 なので、俺は謝罪をする。
 まなかの機嫌をこれ以上損ねないためにも、謝罪をするのだった。
「ふん、わかれば良し。じゃあ、一緒に帰るわよ」
「はい……」
 というわけで、俺達は昇降口に行き、靴を履き替える。
 そして、校門の方に歩いていき、生徒たちと同じく帰路を歩く。
 生徒たちが歩くのは、駅の方向だ。
 俺達は反対の方向、住宅街の方向を歩く。
 なので、帰路は俺と奈々絵、二人になる。
「で、何を企んでいるの?」
「企んでいる?」
「とぼけないでよ? 女の子といい感じなんでしょう?」
「女の子といい感じではないけど、そう見えるの?」
「昨日の夜。おばさんの子供たちがアンタと歌を歌ったと言っているわ」
「子供たちか……」
 まさか、あの子供たちがまなかの親戚に面識があるとは思わなかった。
 近所の子供たちだと思っていたが、そうではなかった。
 ならば、昨日のことは知っているわけか。
「で、あの子とどんな関係?」
「まなか……一旦、落ち着こう。奈々絵さんは俺のクラスメイトだよ」
「そう思わないわ。あの子から嫌な予感を感じるわ」
「嫌な予感?」
「そう、女の勘というやつ」
 まなかは人差し指をぐるぐると宙に輪を描く。
 それは彼女の手癖というものでもあった。理屈ではなく、感情のことを指す仕草だ。
 だから、俺はまなかに奈々絵のことを踏み込んで訊いてみる。
「まなかは、奈々絵のことをどこまで知っているの?」
「変な子という噂は知っているわ。たまに、生徒をイタズラする子で、顔が広い、優等生、みんなから信頼を獲得しているけど、そのたまにイタズラされるから、むやみに彼女に踏み込まない」
「なるほど。周囲は彼女をそう見ているのか……」
 たまにイタズラされる生徒もいるけど、彼女たちは奈々絵の知り合いでもある。
 そして、それはドッペルゲンガー奈々絵の仕業であり、善良な奈々絵の仕業ではない。ともあれ、善良な奈々絵は善良なことをしているため、彼女は教室では人気者でもある。
 しかし、ドッペルゲンガー奈々絵のイタズラもあるけれど、善良が加点したため、周囲からはちょっと変な子として片付けられる。
 ……みんな、本当に奈々絵のことを知らないのだ。
「そうか、まなかからすると、奈々絵は変なのか」
「変人とはちょっと語弊があるわ。でも、仲良くするべき人ではないことは確定ね。イタズラされるのはちょっといやかも」
「まあ、彼女のイタズラはそんなエスカレートしないと思うけど?」
「そうかもしれないけど、やられた本人は溜まったもんじゃないわよ?」
「はい、そうですね。すみません」
 確かに、頭をソフトクリームにされたら、困るよな。トイレで髪型を直しにいくよな。
 やっぱり、奈々絵にイタズラされるのは大変になるかもしれない。
「まあ、アタシは忠告するよ。あの女と関わるべきではない」
「それは、女の勘?」
「それもある。でも、彼女には妙な噂があるわ」
「妙な噂?」
 俺は思わず首を傾げる。
 すると、まなかは立ち止まってから、口を開く。
「そう、彼女、溺死しようとしているんじゃないかってね」
「溺死?」
「夜の海に、彼女が海の中をウロウロしているのを目撃する証言があったわ」
 ……俺もその状況を見た。
 奈々絵は海の中で行ったり来たりしている。
 なぜ、そんなことをしているか、というと、自分を落としてしまったため、それを取り戻すと言っている。
 ……海に自分を落とすとはどういうことだ?
 首を思わず傾げる。
 あのときの、奈々絵はどの奈々絵なのか?
 善良な奈々絵? ドッペルゲンガー奈々絵?
 どちらだったのか? 俺は、思い出せない。
「というわけで、彼女はかなりいい噂はないわ。彼女と関わるのは、やめたほうがいいよ」
 まなかは再び足を歩み、横断歩道を渡ろうとする。
 でも、俺は彼女の提案を受け入れる事はできなかった。
「すまないけど、奈々絵とは深く関わる予定だ」
 そういうと、まなかは横断歩道の前に立ちとまり、こちらに振り向く。
「あんた、奈々絵の何を知っているの?」
「知らないさ。でも、これから知っていく」
「それは恋?」
「いや、彼女と約束したんだ。助けるって」
 ……嘘は言っていない。
 俺は奈々絵を助けると約束した。
 浜辺で、俺は奈々絵にそう放った。
 その約束は継続で、今も有効だ。
「あんたねえ、また、あのときみたいな事故にあうわよ?」
 まなかは不機嫌な表情を浮かべると、そう言い放つ。
 そして、信号が赤になる。俺達は車が通過するのを待つことになる。
 この信号を渡れば、俺達はそれぞれの道を歩き、自宅に向かうことになる。
 だから、ここが最後に話すチャンスでもあった。
「それでも、俺は約束したんだ。彼女を助けるって」
「馬鹿はしなければ治らないね」
「そうだな」
 車がぶーん、と通りすがり、排気ガスがもくもくと空に舞う。
 俺は排気ガスが舞い上がるのをぼーと見つめて、奈々絵のことを考える。
 ……俺は、彼女の何を助けられるのだろうか?
 再び信号が青になると、俺達は横断歩道を渡る。
 けれど、俺達の関係はギクシャクしたものになる。
「あんたは、自分のことをどうでもいいと思っているけど、アタシはアンタの事心配なんだからね」
「……ありがとう?」
「ふん」
 そういうと、まなかは自分の家の方向に歩いていく。
 俺も自分の方向に向かって、歩いていくのだった。
 また明日、という恒例の別れ言葉を言わずにいた。
 でも、俺達の関係はいつも通りの幼馴染の関係だ。
 そんな関係に俺は甘えていたと思った。

◇   ◇   ◇

第五話 ジギル博士とハイド氏

 夜、俺は夕飯を食べ終えると、自室で、転がる。
 そして、本日の昼に借りてきた、ジギル博士とハイド氏を読む。
 不気味な物語だ。
 まず、冒頭でハイド氏が子供を踏み潰し、100ポンドの要求する悪な行動に吐き気がする。
 でも、ジギル博士の行動は、どうも、あまりにも人間的だった。
 向きは善良な紳士である私の最悪の欠点は快楽への旺盛な欲望の二面性であり、これをひそかに満たすために、完全な二重生活を生きてきた。その後、科学的実験を重ねて善悪二要素の完全な分離の可能性を追求し、人格から悪の側面のみを切り離して別人格を出現させる薬品を発明。これを用いて私はハイドという別人に変身するようになった。
 それが、ジギル博士の最後であった。本当に不気味な物語だ。
 ジキル博士が薬を使用すると、悪系面のハイド氏になる。それも変身という、外形も見苦しいものになる。
 そして、ジギル博士は薬の誘惑に負けて、ハイド氏になってしまうことも悲劇のようなものだった。
「完全に、善良と悪を分ける薬か……」
 俺は奈々絵のことを思い出す。
 本日あったのは、善良な奈々絵だ。昨日はイタズラな奈々絵だった。
 どちらも、奈々絵の記憶をもってあり、ただジギル博士とハイド氏のような完全に善悪を分けていない。
 かわいい方のジギル博士で、イタズラするのがハイド氏なのか?
 ともあれ、俺はイタズラな奈々絵をドッペルちゃんと呼ぶことにした。
 しかし、それは間違いだ。
 奈々絵は二人もいない。
 奈々絵は人格が2つになっているだけだ。
「名を付けしてしまったし、もう変えるのは遅いよね」
 と、俺はそうつぶやきながら、本を閉じる。
 そして、窓の外を眺める。
 今宵は満月ではない。
 でも、俺は奈々絵に会いたかった。
 会って、話をして、確認したかった。
 あの満月の日にあった、奈々絵はどの奈々絵なのか?
 善良な奈々絵なのか? イタズラ好きな奈々絵なのか?
 でも、確認してどうする? 知って、どうする?
「考えても仕方がない。海に出かけるか……」
 俺はそう呟くと、自室から出ていく。
 両親には、外の空気を吸いに行くと言い放ち、俺は病院の方向に歩いていく。
 10分ぶらぶら歩いていると、浜辺につく。
 俺は浜辺に鎮座し、海の方を眺める。
 そこには、一人の少女が行ったり来たりしていた。
 ちょぼちょぼと海を歩く音がする。
 その動作は2週間前に出会った、奈々絵と同じだ。
 あの少女はきっと、奈々絵なのだろう。
「おーい」
 と、俺は奈々絵に声をかける。
 すると、海にいる少女はこちらに気づき、足を止める。そして、こっちに視線を向けるのを感じる。
「奈々絵?」
 俺は彼女の名前を呼ぶ。
 すると、少女は徐々にこっちにやってくる。
 顔がはっきり見えるのは、三日月のせいだ。
 海に歩いている少女は奈々絵だった。
 でも、どの奈々絵なのか、俺はわからなかった。
「正広くん?」
「ああ、俺だ。今日は、ドッペルちゃんなんだな」
 奈々絵の声で俺はそう尋ねると、奈々絵の顔が変貌する。
 どこか、さっきとは違う、落ち着いた様子な顔になる。
「わたしをどう思いますか? 正広さん」
 そして、落ち着いた声で、尋ねる。
 今度は、善良な奈々絵の仕草をする。
 根拠としては、俺の名前を、さん付けするからだ。
 イタズラな奈々絵、ドッペルちゃんは俺のことをくん付けで呼ぶ。
 だから、その呼び超えに俺は戦慄する。
 確認するように、俺は奈々絵に声をかける。
「奈々絵?」
「はい、アタシは奈々絵よ」
 その答えに、俺はゾクリと背筋が凍った。
 なぜならば、奈々絵の人格が読めない。
 彼女はどっちなのか、俺は判断できないのだ。
「キミは……どっちなんだ?」
 その答えに奈々絵は答えない。
 けれど、奈々絵は海の方を向ける。
 そして、言葉を放つ。
「あたしね。自分を海に落としたの。だから、それを探すために、毎晩毎晩、海に入って自分を探している。月が、わたしたちを分けたのと思う」
 その不気味な一人称に俺は理解する。
 眼の前にいる奈々絵は善良な奈々絵でも、ドッペルゲンガー奈々絵でもない。
 彼女の人格が同時に存在している姿だ。
 なので、俺は彼女を救いたいと思って、立ち上がる。
「キミが海に人格を落としたというのなら、手伝うよ」
「本当?」
 奈々絵はふと、俺の方に顔を向ける。
 でも、それがどの奈々絵かは、俺には判断できない。
「ああ、海に落ちたのだろう? なら、掬い上げればいい」
 俺はそういうと、海の中に入っていく。
 奈々絵も俺のあとについてくるように、海の中に入る。
 春の海水はどこか冷えていた。まるで、アイスドリンクの飲み物の中にはいっていくようだった。
 そんな冷たい冷水に耐えながら、前へと進む。
 ちょうど、胸辺りまで海水が届く場所にいると、俺は振り返り、奈々絵に尋ねる。
「奈々絵は、どこらへんに自分を落としたんだ?」
 奈々絵は俺の言葉を聞くと、どこか考える仕草をする。
「きっと、海面だと思う」
「海面か……」
 俺は海面を見てみる。
 そこには、自分の影がふわと海面に浮かんでいた。
 影法師のように、ふわふわとしている影がひとつあった。
 でも、奈々絵がいう、落としたものは見つけることはできない。
「奈々絵。キミの人格はどこだ?」
 奈々絵に振り向くと、そう尋ねる。
 すると、奈々絵は自分の影に指を指して、こう語る。
「わたしが落としたのは、ここにある。アタシの人格はここにある」
 奈々絵が指を指す影を見下ろす。
 そこにはもうひとりの奈々絵がいた。
 彼女は不気味のように笑っていたのだ。
 それは、ドッペルゲンガー奈々絵だと俺はわかった。
 あの不気味な笑顔を浮かべるのは、善良な奈々絵ではない。ドッペルゲンガー奈々絵の方だ。
 その影に俺は捕まえようとする。
 だけど……
「え?」
 ……ぷつん。と、視界が途切れた。
 まるで、テレビの映像が止まったかのように、俺の視界は完全に真っ暗になる。
 何も見えない。何も聞こえない。
 無の中に俺はいたのだ。
 その無の中で、俺は抗ってみる。
 でも、体の四肢に力が入らない。
 まるで、沈むように、落ちていくような、どんどんと、落ちていくようだった。
 一体、何がおきたのか、俺は叫ぶように口を開く。
「まさひろ!? 正広!」
 誰かが、俺の名前を呼んでいる。
 その声に向かって、俺は意識を集中して、向かっていく。
 すると、声がどんどんと大きくなっていく。
「正広!? 起きて!」
「ふは!?」
 と、俺が目を覚ますと、そこには幼馴染の顔があった。
 ……まなかだ。目には水雫がぽたりと流れている。
 一体、何が起きたのか?
 事情をわからない俺は、まなかに尋ねる。
「まなか、俺はどうしていたんだ?」
「おじさんとおばさんに正広を探すように言われたから、探しに来たら、正広が海岸で意識を失っていたのよ! 呼びかけても返事もしないし、死んだかと思った!」
 と、まなかは涙目で訴えるかのように、俺の胸に顔を埋める。
 ……そうか。俺は意識を失っていたのか。
 まだ後遺症が残っているわけで、健康状態ではない。
 夜、一人出歩くときはもっと気をつけるべきだ。
 でも、どのタイミングで、意識を失ったのだろうか?
 で、奈々絵はどこに消えた?
 そもそも、奈々絵はこの海に存在したのだろうか?
 気になった俺は、まなかに尋ねる。
「まなか、奈々絵を見なかったか?」
「え?」
「俺、奈々絵と会話して、彼女の人格を掬い上げる約束をしたんだ」
 左右を見渡す。
 けど、冷たい春風と砂しかない浜辺の殺風景しか存在しなかった。
 どうも、奈々絵の姿は見当たらない。
 まるで、奈々絵はこの場に最初からいなかったようだった。
「アンタ以外、誰もいないわよ」
 まなかはそう言い出す。
 でも、俺は確かに奈々絵にであったのだ。
 奈々絵は浜辺にいたはずだ。
 ……本当にそうか?
 じゃあ、俺はなんで、気絶している?
 考えれば、考えるほど、わけがわからない。
 一体、何が本当で何が嘘なのか?
「正広。帰ろう。ね?」
 まなかは涙を流しながら、そう訴える。
「わかった。帰ろう……」
 腑に落ちないけど、まなかにはこれ以上、迷惑をかけられないので、俺は大人しく帰ることにする。
 この夜起きた出来事は、俺は心の中にしまっておくことにする。
 誰に話しても、信じてくれないからだ。
 俺は、この不思議の夜のことを一生忘れることはない。
「送っていくわよ」
「大丈夫だ」
「だめ、また、倒れるかもしれないわ」
 ……頑固な幼馴染をもったものだ。
 でも、まなかの言う文は理解できる。
 俺はまた倒れるかもしれない。
 なら、元気な幼馴染に送っていくようにするしかない。
 俺は立ち上がり、浜辺を歩く。
 歩道に戻り、帰路に向かって歩く。
 それから、家には無事到着する。
 まなかにはお礼を言って、俺は自室に戻り、ベッドに潜る。
 借りた、ジギル博士とハイド氏の本が机に置いてあるのが視界に入る。 
 不気味な物語とさっきであった不気味な出来事に俺の背筋は凍える。
 一体、何がおきたのか? 俺はまだ理解できていない。
 そして、俺は気になる。
 浜辺であった、奈々絵はどの奈々絵なのか?
 善良な奈々絵なのか? ドッペルゲンガー奈々絵なのか?
 わからなかった。
 一人称がぐちゃぐちゃで、顔もよく見えないし、仕草も見分けられなかった。
 でも、一つ確かなことがあるとすれば……奈々絵の人格は海面に映っている奈々絵とは別人だと思う。

◇   ◇   ◇

第六話 奈々絵という女の子

 土曜日になる。俺は病院にやってくる。
 それは定期健康診断のためだ。俺が昏睡状態から目覚めて、週一は大学病院に来て、定期的に診断をする。
 レントゲンを撮り、結果を待つ。
 主治医からはとくに異常はないとのことを言われたので、俺は主治医にお礼を言う。
 ……無論、あの夜で起きた奇妙なできことは主治医には伝えなかった。
 だって、言っても、現実離れしているからだ。
 頭に異常があると思われるかもしれないと思ったので、黙ることにした。
 俺は消毒液の匂いを我慢しながら、会計のソファに座っていた。
 それにしても、消毒の匂いがここまで蔓延しているとは、この病院の清潔感が肌に感じる。
 入る前にはアルコール消毒をさせられる。
 それは、つい5年前に流行したあのウイルスの関係があるからだろう。
 そんな、名前を呼ばれるのを待っていると、俺はふと、何かが視界に入る。
 一人の女の子だ。
 それは奈々絵と似ている女子が、病棟の奥の方に入っていく。
「奈々絵?」
 気になった俺は、居ても立っても居られず、彼女のあとを追った。
 会計に呼ばれるのは、あとでも問題ないだろうと判断したからだ。
 奈々絵らしき人物のあとについていき、やがて、精神科という文字が浮かんでいる病棟に入る。
 そこで、俺は奈々絵を呼び止める。
「奈々絵!」
 ピタリと、足を止める少女。
 そして、ぐるり、と俺の方に振り向く奈々絵だった。
「正広さん?」
 彼女は俺の名前を呼ぶ。
 俺は彼女のほうへと歩いていき、話かける。
「やあ、奈々絵。学校ぶりだね」
「はい。まさか、正広さんとここで出会うなんて、予想していませんでした」
「実は俺は定期健康診断で来ただけだ」
「そうなんですね」
 奈々絵はハニカムように笑って答える。
 実は、あの夜の浜辺の事件以降に、俺は奈々絵に声をかけていない。
 というか、かけるタイミングがなかった。
 奈々絵はいつものように友達と会話していたり、日直の仕事を手伝ったり、みんなの委員長として仕事を全うしていたのだ。
 それはきっと、善良な奈々絵の人格なのだろう。
 ……じゃあ、浜辺にあった奈々絵はどの奈々絵なんだ?
 と、俺はその質問をしたくて、彼女を呼び止めた。
 ぐっと、拳に力を入れ、勇気を振り絞り、あの夜のことを訪ねようとする。
「あの……」
「北沢さん?」
 と、俺の声を遮ったのは、一人の女子の声。
 声もとに顔を向けると、そこには白衣を羽織った一人の中年女性が立っていたのだ。
 どうも賢そうな仕草で、この病院の医師だとわかる。
 彼女は奈々絵を呼んでいたのだ。
 メガネをくりっと、上げると、主治医は奈々絵の方を見つめる。
「あ、井上先生。どうしました?」
「面談の時間と言いたいところだけど、知り合いかしら?」
「はい。先週、転校してきた生徒です」
「へえ、そうなんだ」
 井上先生は俺を見る。頭の天辺から、靴を見つめる。
 それはまるで、俺のことを観察しようとしているようだった。
「そうねえ。彼の話も聞こうか」
「え?」
 思わず、素っ頓狂な声を上げるのだった。
 なぜならば、まさか、自分が呼ばれると思わなかったのだ。
「転校生君。キミの名前は?」
「二階正広といいます」
「二階くんね」
 ハニカムように答えると、井上博士は近くの部屋の扉を開く。
「じゃあ、北沢さん。悪いけど、彼と少々話してもいい?」
「わたしは大丈夫ですけど、正広さんの迷惑では?」
 奈々絵は俺の方を見る。
 心配そうな眼差しだった。
 でも、俺はまだ状況を理解できていない。一体、どうして、俺は彼女と面談しなければいけないのか?
「ああ、その顔を見ると、状況をまだ理解していないようね。まあ、取って食わないさ。ただ、北沢さんの状況を第三者の意見を訊きたくて」
「なるほど?」
 思わず納得する。けど、まだ疑問は残っている。
 俺に何ができるのか?
「まあまあ、中に入って話はそこからしましょう。はい、二階くん。この診断室に入って」
「あ、はい」
 結局、流れのままに載せられた。
 俺は井上医師のいうこと素直に従ったのだ。
 診断室に入ると、井上医師は扉を閉める。そして、近くのロウソクに火を灯す。
 この診断室は外とは違い。花の香りがふんわりと浮かんでいた。
 ウトウトしそうな香りでもあり、心地のいい匂いだった。
「じゃあ、単刀直入に訊きましょう。キミは、北沢さんのことをどこまで知っている?」
 椅子に座ると、ストレートに井上医師は訪ねてくる。
 俺は、少々迷った。
 だって、いきなり、奈々絵のことをどこまで知っていると言われると、何も知らないといったほうがいい。
 彼女は善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵がいる。
 記憶は共有していることしかしらないのだ。
 そんなことを表情にでてしまったのか、井上先生は笑いながら、手招きをするようにする。
「大丈夫。ここの話は北沢さんには伝えないわ」
「そうではなくて……奈々絵が二重人格のことをどこまで話していいのか、迷っています」
「へえ、2つの人格に会っているのね。なら、話が早いわ」 
 くすくすと、笑う井上先生。
 表情豊かで、いい先生だと思った。
 彼女はメガネをくりと、持ち上げてから、こう放つ。
「解離性同一性障害。まあ、ぶっちゃけ、二重人格というのが、奈々絵の病名ね」
「解離性同一性障害?」
「呼びにくいから、二重人格とよんでいるわ。あなたの感じだと、もう二人にあったでしょう?」
「ええ。会っています」
「で、キミは彼女のことをどう呼んでいるの?」
「善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵です」
「ドッペルゲンガーか。おしいね。遠からず、近からずね」
 井上先生は指を鳴らしてから、俺の方をもっと尋ねる。
「で、キミと彼女はいつ会ったんだい?」
 俺は浜辺のことを思い出す。
 彼女が海に入って、行ったり、来たりしていて。
 何かを探す仕草をしていた。
 俺は最初は奈々絵が二人いると思って、ドッペルゲンガー奈々絵と名付けた。
 でも、実際は違った。奈々絵は二重人格で、善良な奈々絵とイタズラ好きな奈々絵に分けていたのだ。
「一週間前。俺がこの病院に入院しているとき、浜辺に散歩していたら、奈々絵と会ったんです。何かを探しているようで、声をかけてみたら、自分自身を落としてしまったというのです。だから、俺も力になれれば……」
「キミには無理だよ」
 きっぱりと断言する井上先生だ。
 その言葉で俺ははっと、現実に戻って来る。
 井上先生の表情が先程よりちょっと違っていた。
 メガネを取ると、真剣な表情になっていた。
 どこか、眉間に皺を寄せて、目を睨むように俺を見ていた。
「ああ、びっくりさせたらごめん。わたしの悪い癖でね、まあ、こう思えばいい」
 メガネをつけると、井上先生の目つきは優しくなった。
 それはさっき話している井上先生に戻る。
「二階さん。わたしはねえ、北沢さんのことをずっと見ていたけれど、はっきり言って、彼女が治るのは生涯ないと思っている」
「どうしてですか?」
 その問を待ってましたといいように、井上先生は俺を見つめる。
 そして、口を開く。
「じゃあ、キミは正常の彼女の状態とはなにかわかる?」
「それは、二重人格が消えて、一人になることですか?」
「では、ここの問題。キミはどの人格が本当の人格だと思っているのかしら?」
「それは……」
 ……善良な奈々絵。
 と、喉元に声が迫る。
 けれど、理性がそれを許さなかった。
 一瞬だけ、ドッペルゲンガー奈々絵が見える。
 ……そうだ。奈々絵の本当の人格はいったい、どの人格だ?
 あのとき、ギターで演奏する奈々絵も奈々絵だ。
 イタズラ好きの奈々絵も奈々絵だった。
 だから、本当に善良な奈々絵が本当に人格なのか、俺にはわからなくなった。
「そう、彼女の本当の人格がわからない。だから、どのように直そうか、わたしはわからないのよ。どっちが、奈々絵で違うのか、わからない。ジギル博士とハイド氏のように簡単にはいかないのよ」
 井上先生の解説に俺は納得する。
 奈々絵はジギル博士とハイド氏のような簡単にはいかない。
 どっちも奈々絵なんだ。
「一つ質問があります」
「どうぞ」
「井上先生からみて、奈々絵はどっちが本物ですか?」
「それはわたしから答えを出さないわ」
 井上先生は足を組み替える。
「それを答えるのは、北沢さんなの。北沢さんがどのような人格になりたいのか、彼女しかしらないわ」
 その答えに俺は考える。
 奈々絵はこの状況についてどのように思っているのか?
 いいのか? 悪いのか?
 待てよ。何かが引っかかる。
 俺は違和感の正体を口にする。
「でも、少なくても、彼女はこの状況をよく思っていないと思います」
 そういうと、井上先生は片眉を上げて、俺を見つめる。
「どうして、そう思うの?」
「それは、彼女がこの病院にいるからです」
 俺はそういうと、井上先生は言葉が止まる。
「そうです。彼女はこの状況をよく思っていません。じゃなければ、この病院に通っていませんよ」
 そうだ。それが引っかかりの正体だ。
 奈々絵はこの状況をよく思っていないはず。なぜならば、もしも、この二重人格で満足しているなら、この精神科には通う必要性はない。
 ……二重人格のまま生きればいい。
「どうやら、頭が回るようね」
 井上先生は机にあるコップを取り出すと、口に運ぶ。
 水をゴクンと飲んだのだ。
「でも、病院に通っているのは、彼女の意向ではないことだけ伝えよう」
「彼女の意向ではない?」
「まあ、両親に命令されたのよ。だから、しょうがなく通っている。そう考えられるわ」
 両親も、奈々絵の実態を知っているのか。
 そこは災難な気がする。
「でもね、医者が患者の言う事を、はいはい治しますなんて、簡単に言えないのよね」
「それはどういう意味ですか?」
「だって……北澤さんは……」
 井上先生はコップを机に置いてから、俺を眺める。
「いい方を殺そうとしているわ」
 それを聞くと、俺は冷や汗が手の甲から流れ出る。
「どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味よ。キミの視点からすれば、善良な奈々絵を消そうとしている」
「それはおかしいのでは?」
「でも、それが彼女の意思なのよ。それは否定できないわ」
 そんな馬鹿な。善良な奈々絵が自分を消して、ドッペルゲンガー奈々絵の方がいいというのか?
 でも、よく考えたらそうかもしれない。
 善良な奈々絵が自分自身以外の人格が存在するとしったなら、彼女は善良であるため、他の人格に譲渡するのは目に見えている。
 じゃあ、善良な奈々絵を説得するのか?
 それも違うような気がする。
「ともあれ、治療は困難なのよ。だって、患者自体がそう願っているし。わたしもそれが正しいとは思わないわ」
 足を組み替えて、俺を眺める井上先生。
 ちょうど、蝋燭の火が消えるところだった。
 アロマの香りが途絶える。
 そこで、外の消毒の匂いが鼻腔に触れるのだった。
 ……確かに、井上先生の言う分だと、治療は困難だと思う。
 善良な奈々絵が自分を消し、ドッペルゲンガー奈々絵が残る世界。
 それはどういう世界になるのだろうか? イタズラだけする奈々絵が残る世界。
 それで本当にいいのか?
 俺にはわからない。
「解離性同一性障害は小説のように、簡単にはいかないのよ。薬で二重人格がピッタリ切れるなんていうことはないわ」
「じゃあ、どうやって彼女は治療しているのですか?」
「強いて言えば、ただ会話するだけ。彼女が自分自身を見つけるように導くだけかな?」
 置いてある眼鏡をつけると、井上先生はニッコリと微笑む。
 さっきと人格が違っているようでもある。
 もしかすると、井上先生も二重人格なのか? と思わせる仕草だった。
 さっき話した、緊張感がある井上先生と冗談を伝える井上先生。その違いはなにかあるのか? 
 ……わからない。
 善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵のようになるのか?
「そうだ。キミに頼みたいことがある」
「頼みたいことですか?」
「そう」
 井上先生は散らかっている机、資料の山から何かを取り出す。
 紙切れのようなものを手に取ると、俺の方に差し伸べる。
 俺はそれを受け取り、読み上げる。
「猫カフェ……新規オープニング。オープニング記念に、3割引?」
「そう、北沢さんを連れて、楽しんでほしいの」
 柔らかい声で答える井上先生。
 そこから、説明を付け加える。
「北沢さんに、人生の楽しさを教えてほしいの。いい子ちゃんにはいいことをね」
「……」
 ……確かに。いまの善良の奈々絵はどうも、人助けすぎて疲れているのだろう。
 なら、肩の力を抜くことも大事だ。
 俺は井上先生の提案を受け入れるのだった。
「はい。わかりました。奈々絵を連れて、デートしてきます」
「それこそ、男の子ね」
 ウインクして答える井上先生。
 どうも、いつのまにか柔らかい井上先生に戻っていたのだ。

◇   ◇   ◇

第六話 猫カフェのキミへ

 俺が診断室を出ると、次は奈々絵の面談の時間になっているため、俺は待合室で奈々絵を待った。
 老人が多い病院だなあ。どこを振り向いても、老人しかいない。
 それは、ここはニュータウンのせいか?
 にしても、老人の患者が多い。
 自分は間違って、場違いなのだろうか、と思うくらいほど、十代の患者がいなかったのだ。
 そんなどこかモヤモヤした気分を抱いたまま奈々絵を待っていると、診断室から扉が開く。
 奈々絵が診断室から出てくるのだった。
「奈々絵!」
 俺が奈々絵の名前を呼ぶと、彼女は俺を見る。そして、手を振る。
 あとから、井上先生も出て来る。
 俺を見ると、井上先生は笑顔になっていた。
「じゃあ、二階さん。北沢さんのことをお願いね」
「はい。全力で、務めさせてください」
「うんうん。男の子でいいね」
 感心感心、と言ってから井上先生は廊下を出ていった。
 きっと、医者だから、次の予定があるのだろう。
 奈々絵とふたりきりになってしまった。
 奈々絵はまだ状況を理解できていないのか、小首をかしげると口を開く。
「あの、井上先生が、このあと正広さんに任せるように、言われたけど。それって、どういう意味でしょうか?」
「奈々絵。このあと、暇?」
 俺は率直に奈々絵に予定のことを尋ねる。
 奈々絵は一瞬固まる。けど、俺の質問の意図をわかったのか、答えを出す。
「はい、大丈夫です。このあとは特に予定はありません」
「じゃあ、これ……一緒に行こうよ」
 そして、俺は井上先生からもらったパンフレットを奈々絵に見せる。
 猫カフェ、新規オープン。割引中。
 そのパンフレットを受け取ると、奈々絵の目はどこか輝く。
「猫カフェ!」
 まるで、獲物を捉えた猛者の目になった。
 その姿はどうも愛らしく、思わず笑ってしまった。
 まさか、猫カフェという物に釣られるとは、彼女もかわいいところもあるじゃないか。
 いつも、他人の仕事で、姿や本音を見せない奈々絵も、猫カフェの前では無力だ。
 ……もしや、井上先生はこれを見越して、このパンフレットを俺に託したのだろうか?
 まあ、そんなことを考えても仕方がない。今は奈々絵を楽しもう。
「じゃあ、早速だけど、今から行こう」
「はい!」
 満面な笑みで答える奈々絵だった。
 それから、俺達は老人だらけの病院から抜け出して、商店街の方へ向かって歩く。
 春の日。桜はもう散ったけれど、春風はまだ冷たかった。
 そんな冷たさを耐えながらも、俺達は猫カフェを目指した。
「奈々絵。寒くない?」
「大丈夫ですよ。正広さん。ちょうどいい寒さです」
「そうか、寒かったら言ってね。どこかで、カイロを買うから」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。冬は好きな方なので」
「寒いのが得意だ。それは意外だなあ」
「はい、寒さには慣れています。一人で雪だるま作りをしていました」
 ……なんだか皮肉っぽい言い回しだけど、そうじゃないよね?
 一人で雪だるまを作るなんて、めったに出来ないことだ。
 と、俺達はそんな雑談していると、猫カフェの前に到着する。
 看板は『Open』になっているため、店は開店しているのが、わかる。
 俺は中を覗き込む。いろんな猫が飛び交っている。
 それと、チャンスなのか、客があまりいなかった。
 俺は猫の種類がわからない。みんな同じ顔に見える。
 色だけが、唯一の判別方法だ。
「じゃあ、中に入ろうか」
「はい!」
 奈々絵はどこかテンションが高く答える。
 ……やっぱり、猫が好きなんだな。と心の中で俺は笑う。
「いらっしゃいませ~。猫カフェモフモフでようこそ」
 扉を開くと、店員が出迎えてくれる。
 猫たちも同時に走ってくるのだった。
 俺の足に絡む、猫を見ると、どうも、この猫たちは育ちがいいのだろう。
「ご来店は初めてでしょうか?」
「あ、はい。どのようなコースがありますか?」
「三十分600円から一時間1000円のコースもございます。どれにしますか」
「じゃあ、一時間コースを二人でお願いします」
「かしこまりました。猫ちゃんと過ごす前にいくつかルールを説明させてください。まずは、猫ちゃんたちを追わないようにお願いします。それと、食べ物は猫ちゃんに与えないでください」
 このルールは大体把握した。猫カフェに入る前、待合室にいたときに、猫カフェのルールを一通り確認したのだから。
 猫にも猫の自由がある。
 だから、それを邪魔してはいけないのだ。
「はい。わかりました」
 と、俺はそう答えると、店員は俺達を中へ案内する。
 席につくと、店員は注文を伺う。
 俺は春に合うアイスコーヒーを注文すると、奈々絵はアイスティーを注文する。
 店員が厨房の中に入っていくと、俺達は猫と戯れる。
「猫ちゃん……」
 奈々絵は目をキラキラ輝かせる。それはまるで、子供がお宝物を見つけたような目つきに猫を見つめていたのだ。
 猫もその彼女の反応に答えたのか、オレンジ色のパン粉のようなふわふわと毛並みをした猫の一匹が奈々絵の膝に乗る。
「この種はミヌエットですね」
「名前は確か……小次郎だったような」
 俺はメニュー表にある猫の名前を見ながら言い出す。 
 メニュー表では、猫の名前の一覧があった。
 その写真と名前を比較してみただけだ。
「小次郎ちゃん……かわいいですねえ」
 奈々絵はわしゃわしゃと猫の毛なみを優しく撫でる。大事の宝を扱うように撫でる子供のようだ。
 俺は彼女が子供のようになったことに頬を緩める。
 やはり、善良な奈々絵にも好きなものがあるんだ。
 猫という可愛い生き物に心を許すようだった。
 こんな奈々絵がいつまでも生きていくように、俺はそう願った。
「ん?」
 小次郎とは別に、シャム猫の一匹が俺のところにやってくる。
 そいつはどこか憎たらしい表情をしている目の猫だ。
 こいつの名前は……マグロだった。
 ……変な名前だ。
「マグロ」
「シャア!」
 と、俺は手を伸ばすと、猫パンチを食らった。
 痛くはないけど、猛スピードの速さに驚く。
 ……マグロに嫌われたのかな?
 しかし、マグロは俺から離れようとしない。猫パンチをしたものの、俺をじっと見つめている。
 ……なんだ? この猫、一体何を考えている?
「マグロちゃんは嫉妬しているのです」
「嫉妬?」
「はい。正広さんがほかの猫と戯れないように見張っているのです」
「いい迷惑だな! マグロ!」
「にゃあ」
 と、俺の文句に答えるように泣き出すマグロだ。
 そもそも、なんで名前がマグロなんだ?
「ああ、その子が威嚇するの、初めて見たかもしれません」
 店員さんは注文した飲み物を運びに来ながら、そう言い出す。
 思わず、え、と俺は言い出す。
「この子。普段はおとなしいのですけど、気に入った人を見つけると、近づいて猫パンチするのです。まるで、わたしが女王様だ、仕え、と言っているようで」
「傲慢な猫だな」
 俺はそう言いながら、アイスコーヒーをずすっと飲む。
 うむ、アイスコーヒーは美味しい。からからしていた喉が満たされていく。
「すみません。猫のおやつって売っていますか?」
 コーヒーを置いてから、俺がそう尋ねると、店員さんはにっこりと微笑むと違うメニュー表を差し出す。
「もちろん。ありますよ。猫のチュールですね」
「こんなに種類があるんだ」
 と、俺は思わず目からウロコが落ちる。
 まさか、チュールというお菓子にいろんな味があるなんて。
 鮭、マグロ、猫キャンディー、その他諸々。
 マタタビも販売している。品揃えが豊富な猫カフェだ。
「マグロ……お前はマグロが好きなのか?」
「にゃあ」
「はい。この子はマグロのチュールが大好きなんです」
「だから、マグロなのか」
「にゃにゃ」
 ……好物が名前でよかったな、マグロ。
「じゃあ、マグロのチュールをください」
「かしこまりました。すぐに持ってきますね」
 と、店員さんは店の奥に入っていく。
 しばらくすると、手にはマグロのチュールを持ってきてから、俺に差し出す。
「はい。マグロのチュールです」
「ありがとうございます」
 お礼を言うと、俺はそのチュールを受け取る。
 封を開けると、そのチュールをマグロの近くに持っていく。
「はい。マグロ。おやつだよ」
「にゃあ」
 そして、マグロはチュールをペロペロと舐め始める。
 どうやら、お気に召したようだ。
 猫なのに、わかりやすいほど、ご機嫌だった。
「ふふ。わたしもこの小次郎におやつを買うかな?」
「買ったほうがいいんじゃない?」
「でも、小次郎はどこか遊びたいようです。この猫じゃらしで遊んでみましょう」
 そういうと、奈々絵は近くにある猫じゃらしを手にする。
 すると、小次郎は目の輝きを変える。
 ピカーンと、獲物を見つけたような猛獣のように、猫じゃらしに飛び交う。
 けれど、奈々絵はそれを操作して、左右に振る。
 小次郎は動いた獲物を捉えるように頑張って、取ろうとする。
 しかし、デブ猫なので、そんなに動くが鈍く、手に当たることさえできない。
 ただ、左右に動いている猫じゃらしを目で追うことしかできない。
 ……ダイエットしろよ、小次郎。
「うふふ。小次郎さん。運動しましょうねえ」
「な~」
 コテンと寝転がる小次郎だった。
 どうやら、運動というワードは禁句だったらしい。態度から見ると、動きたくないのがわかる。
「お客様。猫じゃらしで猫と遊ぶのはどうでしょうか?」
「猫じゃらしですか?」
「はい。現在、無料で配布していますので、ぜひ、猫ちゃんたちと遊んでいってください」
 そういうと、店員は一握りの猫じゃらしを俺の手に置く。
 猫じゃらしを無料に手に入れたのはいいけど、これをどうやって、遊ぶのか?
 俺は思わず、首を傾げる。
「ん?」
 すると、このカフェにいる猫が集まるように、俺の足元に群がる。
「え?」
 と、その瞬間……猫たちは俺に飛び込んできたのだ。
 え!? どういうこと?
 猫が集団で、俺を襲ってくるんだけど!?
「ちょっと、待って」
 俺は猫を止めるけど、猫は俺の手に群がり、マタタビを奪うとする。
 十匹の猫の群れが俺を襲いかかる。
 猫は俺の背中に乗ったり、胸に飛び込んできたりする。
 ……恐るべし! マタタビ!
「わかった! わかったから、一旦落ち着こう!」
 俺は猫に言う。
 が、猫が人間の言葉をわかるとは思えない。
 こいつらは、俺の手からマタタビを奪うとするのだ。
 そんな俺がピンチの状況に落ちているのを見た奈々絵はクスクス、と笑う。
 俺は奈々絵に助けを求める。
「奈々絵! 助けてくれ! 猫に襲われる!」
「正広さん、ゆっくり手を開けば大丈夫ですよ」
 奈々絵はクスクスと笑いながら助言をくれる。
 ……本当にそれだけでいいのか?
 ええい! ままよ!
 と、思った俺は、奈々絵の助言通りに、手をゆっくりと開く。
 すると、猫たちは手に一点集中し、マタタビを嗅ぐ。
 そして、陶酔するように、踊りだす猫たちだった。
「猫が踊っている……」
 思わず口を開いてしまう。
 猫がマタタビに弱いのは聞いたことがあるけど、こんなにも陶酔するなんて、思いもしなかった。
 猫たちは俺の手からマタタビを奪うと、各自マタタビと遊ぶ。
 踊る猫もいれば、ゴローンと、転がる猫もいる。
 不思議ないきものだ。
 こんなにも頼もしい生き物が、この世に存在するとは思わなかった。
「大人気でしたね、正広さん」
「いや、マタタビの所為だからね?」
 こうして、俺達は笑いあった。
 猫はマタタビに弱いことを知った俺は、猫を観察するようにする。
 寝たり、食べたり、遊んだりする猫たち。
 どれもこれも個性豊かで、かわいい生き物だった。
 俺達は猫と戯れながらも、時間が許す限り、猫と遊んだ。
 結局、小次郎は奈々絵から離れようとしない。奈々絵を独占するデブ猫だったのだ。
 小次郎は奈々絵に魅力を感じたのだろう。
 でも、俺は不思議に思うことがある。
 ドッペルゲンガー奈々絵だったら、この猫たちをどうしているのだろうか?
 大人しくしているのか、するとも、猫たちをイタズラをするのか。
 気にはなったけど、口で奈々絵を尋ねることはなかった。
 だって、善良な奈々絵の前では、もう一人のことを話すのは、ご法度だと思ったからだ。
 ……奈々絵は何を落としてしまったのだろうか?
 どの人格を落としてしまったのか?
 月に人格を取り戻せるのか?
 いろんな疑問が俺の頭に飛び交った。

◇   ◇   ◇
 
「今日はありがとうございました」
 俺たちは猫カフェをあとにすると、奈々絵は俺にお礼を言い出す。
 ペコリと頭を下げて、礼儀正しくお礼を言い出した。
「いいんだ。奈々絵が楽しければ、俺はそれでいいと思う」
「それを聞かれると、ますますお礼を言わないといけないですね」
 奈々絵はにっこりと微笑みながらも、答えるのだった。
 俺はそんな彼女の顔に照れくさい感じがしたので、俺はあの約束を言い出す。
「約束したろ? キミを取り戻すって」
 そういうと、奈々絵は足を止める。
 振り向くと、彼女はどこか眉間に皺を寄せていた。
「あの約束を覚えているのですね」
「おおさ。俺は約束を破らない男だからだ」
「変な人ですね。正広さんは……」
 ……変な人か。
 それを言われると少しショックだ。
「でも、わたしは自分が消えて、あの子にいてほしいと思います」
「それは、ドッペルちゃんが残ることか?」
「そう」
 と、奈々絵は頷いてから、再び足を動かす。
「奈々絵。俺はキミの答えが正しいと思えない」
「でも、わたしが決めたことです」
「じゃあ、ドッペルゲンガー奈々絵の気持ちは?」
 そう尋ねると、奈々絵は再び足を止めて、悲しい表情をする。
「あの子なら、わたしにいてほしいと思います」
 そして、そう答える。
 ……やはり、ドッペルゲンガー奈々絵も同じ答えをするのだろう。
 じゃあ、本当の奈々絵はどの奈々絵なのか?
 俺にはわからなかった。
「ちょっと、昔話をしますが、聞いてくれますか?」
 奈々絵はどこか悲しそうな表情を作ると、昔話を語ろうとする。
 なので、俺は頷き、彼女の話を聞く。
 そして、奈々絵は語りだす。
「わたしは一人っ子でした。両親は忙しく、わたしの面倒を見ることすら出来ない起業家でした。なので、わたしは一人で過ごす事が多くありました。今思えば、ネグレスみたいなものです」
 えへへ、と苦笑いを浮かべる奈々絵。
 でも、その笑顔はどこか悲しく感じた。
「そこで、わたしは本を読むようになり、いろんなものに憧れをもつようになりました。王子様に憧れるように、自分がなんでも解決できるような自分になればいいな、と思いました。そこで、わたしはなんでもできる架空の友達を作ったのです」
「架空の友達?」
「はい。イマジナリーフレンドですね」
 ……聞いたことがある。
 それは、自分自身が架空の存在を友達として扱うようにすること。
 詳しくは知らないが、子供によく起きることだ。
「そこで、わたしは、あの子を作ったのです。彼女は自分にはできないことができて、怖気づくことなく、わがままな自分であるような自分を友だちに作ったのです」
 ……それが、ドッペルゲンガー奈々絵だ。
 ドッペルゲンガー奈々絵はイマジナリーフレンドから始まったのか。
「そして、ある日。わたしは、あの子になりました。記憶は共通していますが、恐怖が消えて、わがままを言えるようになったのです。まるで、自分が幽霊になって、身体が勝手に操作されているようになっています。両親にわがままを言えるような自分、何をしたいのか言えなかった自分が言えるようになりました」
「だから、キミはあの子に生きてほしいのか?」
「はい。わたしは、あの子が自分の代わりをしてくれるのであれば、わたしは消えてもいいと思っています」
 にへへ、と苦笑いをする奈々絵。
 でも、手が震えていた。
 そこで、俺は理解する。それは、善良な奈々絵の死を意味すること。
 奈々絵は死を恐怖していること。
「でも、わたしも限界を感じています」
「限界?」
「はい。どんどん、あの子の夢を見ることがなくなりました。完全に、彼女に乗っ取られたようです。きっと、このままだと、わたしは完全に消えて、彼女になるのでしょう」
 そうなれば、奈々絵は完全な死を迎えることになる。
 俺は馬鹿だから、よくわからないが、一つだけわかることがある。
 それは善良な奈々絵の本当に死ぬことだ。
 だから、俺はどうしても、彼女を生きてほしい。
 でも、一番いい選択はなにか、俺にはわからない。
 本当に奈々絵の幸せはなにか?
 ドッペルゲンガー奈々絵が生きて、善良な奈々絵が死ねば、奈々絵は本当に幸せなのか?
 ……違うと思う。
 本当の正しい道はあるはずだ。
 もっと、別の道が存在するはずだ。
 でも、俺にはわからない。
 なにが、正しいのか。間違っているのか。
「なあ、奈々絵」
「はい。なんでしょうか?」
「明日の自分はどの奈々絵になるんだ」
 俺がそう尋ねると、奈々絵は沈黙する。
 それは、どの人格が明日になるのか、考えているのだ。
「きっと、わたしです」
 そう聞くと、俺はどこか安心する。
 そして、俺はある企画を立てる。
「なあ、明日は、デートしないか?」
「デートですか?」
「魔法少女ドッペルゲンガーミオ……俺一話しか見ていないだ。明日はアニメの鑑賞会でもしないか?」
 そう提案すると、奈々絵は目を大きく見開く。
「そのアニメ、わたしも気になります。去年は受験勉強で一話しか見ていませんでした」
「よし、なら、魔法少女ドッペルゲンガーミオの鑑賞会をしよう」
 約束を交わすと、俺は一つのことに気づく。
 俺の部屋は狭い。彼女二人で、パソコンの前に座ってみるのは、ちょっと狭苦しい。
 もっと、広いテレビで、鑑賞会をするべきだ。
「ああ、でも、どこで見ようか? 俺の部屋は狭いから、鑑賞会出来ないと思う。井上先生に相談したほうがいいか?」
「わたしの家ならどうでしょうか?」
「え?」
 目をパチパチとすると、奈々絵は続けて説明する。
「わたしの家には、ホームティアターセットがあります。ネットに繋げられるテレビなので、アニメ配信サイトに接続すれば、魔法少女ドッペルゲンガーミオを鑑賞できると思います」
「よし、なら、奈々絵の家にしよう」
 と、鑑賞会の約束を交わす。
「一緒に、アニメを見て、だらだらしよう」
「悪い子の誘いですね」
「たまには悪い子でもいいじゃないか? いつもいい子でいるとつかれるだろ?」
 ウインクをすると、奈々絵はクスクスと笑い出す。
「奈々絵の家は遠いか?」
「いいえ。駅前のマンションです」
「かなり豪華なところに住んでいるな」
「そうですね。家はお金持ちなので」
「裏山」
 と、俺達は冗談を交わすと、再び歩き出す。
「じゃあ、駅前まで送るよ」
「え? いいのですか? 正広さんも疲れているのでは?」
「疲れていないさ。キミを送るまでデートだから」
「……正広さんはいい人ですね」
「そんなことないさ。俺は悪い子だ。なぜならば、女の子の家でダラダラしようとしているからな」
「正広さんは変ですね」
 と、奈々絵はクスクスと笑い出す。
 でも、その無理していない笑い方が好きだった。
 どの奈々絵の笑顔も、いいし、どちらも残したいと思う。
 けれど、その時の俺はよくわかっていない。
 ドッペルゲンガー奈々絵は何を思っているのか?
 彼女の考えは善良な奈々絵と一緒になのか?
 するとも、悪巧みをしているのか?
 俺は奈々絵のことを何一つわからなかったのだ。
 でも、彼女二人を救いたいと思っている。
 だから、俺は心の声に従うのだ。

◇    ◇    ◇


第五話 魔法少女ドッペルゲンガーミオ

 翌日の日曜日。4月中旬の朝はどこか、気持ちよかった。
 先週とは違って、肌心地のいい風が吹いている。
 それは、春の香りを感じさせる朝でもある。
 俺は病院の反対側に来ている。そこは、駅前の方向を歩いていた。
 本日は、奈々絵との約束がある。それは、魔法少女ドッペルゲンガーミオを鑑賞する会になったのだ。
 奈々絵の家は確か、駅前にあるマンションだった。
 確か物件情報からすると、かなり高額なマンションであることは知識として知っている。
 奈々絵の家は金持ちなのか?
 と、俺はそんなことを考えながらも、駅につく。
 駅は人数が多く。賑わっていた。
 観光地に近いということもあり、観光客が多かった。
 とくに外国人が多く見受けられる。
 お土産屋で買い物をする外国人が様式美になっていた・
「さて、時間は……」
 午前10時10分前。
 奈々絵との約束まで、あと10分。
 そろそろ奈々絵がやってくると思うので、俺は待ち合わせの場所に立った。
「しまったな……連絡先聞いていなかった」
 根痛のミスに気づく。
 奈々絵の連絡先を聞いていなかったことに気づく。
 学校では、となりの席だし。
 病院のときは偶然あったから、訊かなくても、出会うという勘違いをしてしまったのだ。
 ……ここは、どう動くべきか?
「あ、正広さん。こっちです!」
 俺は奈々絵にどうコンタクトを取ろうかと考えていると、奈々絵の声が聞こえる。
 振り向くと、そこには身だしなみがきれいな奈々絵が立っていた。
 淡い色のワンピースに、ベレー帽、そして、どこかおしゃれなサンダルを着用していた。
 デートには似合う格好だ。
「お、奈々絵。今日はよろしくね」
「はい!」
 奈々絵は柔らかい微笑みを浮かべる。
 そこで、俺は奈々絵の連絡先を尋ねる。
「そうだ。奈々絵。まだキミの連絡先を訊いていなかった。連絡を訊いてもいいか?」
「もちろんです。正広さんなら、大歓迎です」
 そこで、奈々絵はスマホを取り出す。
 それは、りんごマークがついた、最新型のスマホ。
 俺と言うと、去年に購入したロボット型OSのスマホ。
 でも、通話アプリはある。それの互換性はないのだ。
 通話アプリを開くと、QRコードを開く。
「じゃあ、これが俺の連絡先な」
「はい。読み込みました。正広さんの連絡先」
 奈々絵はどこか楽しそうに、スマホを抱きかかえる。
 まるで、俺の連絡先を待ち望んでいたようだ。
 ……なんだか、俺、痛いキャラクターのようになっている。
「さあ、奈々絵の家に行こうか。魔法少女ドッペルゲンガーミオは13話ある。ワンクールのアニメだ。換算したら、6時間の鑑賞会になる」
「そうですね。早く家に行って見ましょう」
 そういうと、俺達は移動する。
 駅前に隣接している大きなビルの前にたったのだ。
 豪華なマンションだ。防犯対策もちゃんとされている。
 まずは、カメラが24時間作動している。その他には、オートロックになっており、警備員もある。
 ……このマンションの価値はどれくらいになるのだろうか?
 父さんの年収を超える物件なのだろう。
 ともあれ、俺達はマンションの中に入っていく。
 エレベーターに入ると、奈々絵は10のボタンを押す。
 それから、エレベーターに揺られて、俺達は10階に登場するのだった。
「さあ、ここがわたしの部屋になります」
 奈々絵はエレベーターを出ると、近くにある大きなドアを指で指す。
 そして、そのまま重たそうな扉の鍵穴に入れる。
 くりっと、回すと扉が開いたのだ。
 ……ここはどこマニュアル感がする。
 豪華なマンションなのに、マニュアルの動作は安全面のためか?
「どうぞ、正広さん」
「お邪魔します」
 俺は恐れ多い豪華な扉を潜る。
 中はどこか豪華だった。まずは、ワニの模型と出会う。
 こんなもの、どうやって輸入してきたのだ? と思わせるような模型だった。
 本物なのか? あるいは、偽物なのか?
 一体、どっちなのか? 気になる。
「正広さん。こっちです」
「あ、うん」
 奈々絵は先行し、ある部屋に案内する。
 その部屋の中に入ると、俺は言葉を失った。
 理由は単純。そこは、俺が想像した以上のものだったからだ。
 ティアタールームといっても過言ではない部屋だ。
 30インチ以上の大型テレビに、ホームシアターのスピーカー、寝転がれる大型ソファ。どちらかといえば、ホームシアターの設備が整っていた。
 どうも、映画館より心地がいい場所なのだろう。
 まるで、高い料金を払って、映画館を鑑賞できるチケットを購入したような。
「正広さん。何か飲みますか? ブドウジュースとコーラがあります」
「なんで、ブドウジュースがあるのか、気になるけど、コーラでお願いします」
 そういうと、奈々絵は近くにある冷蔵庫を開くと、瓶コーラを取り出す。
 ……この家の主はよくわかっている。
 瓶コーラのほうが美味しいのは、都市伝説ではなく、本当のことだ。
 だから、瓶コーラを輸入するとは、よくわかっている。
 コーラと映画は相性がいいものだ。
「じゃあ、魔法少女ドッペルゲンガーミオを見ましょう」
「そうだな。一話から見よう。昔に見たから、内容は覚えていないからね」
 そういうと、奈々絵は大型テレビを弄る。
 テレビをネット環境に繋ぎ、動画配信サイトに入る。そして、アニメの項目に移り、魔法少女ドッペルゲンガーミオの項目に映る。
 星4.5を獲得している神アニメだった。
 去年の春に放送したアニメで、俺が昏睡状態に落ちる前に一話しか見ていないものがたりだ。
 あらすじは、ミオというどこにでもいる少女が、月のひかりを浴びて、もう一人の人格が暴れ出した。
 そこで、魔法の世界から来た、マスコットキャラのムムは、ミオに魔法少女の変身グッズを受け取り、魔法少女に変身する。そして、暴れるもう一つの人格を止めるのだった。
 どこか古いオーソドックスなどこにでもある定番な内容だった。
 でも、何がすごいのかというと、アニメの演出がすごかった。
 すごいというのは、褒め言葉でもある。
 手抜きがなく、一フレーム一フレームが繊細に動いている。
 それもそうだ。なぜならば、監督がもともとアニメを制作したアニメーターだからだ。
 それと、音楽もいい。プロの音楽家、表で活躍している作詞家と作曲家を使って、音楽制作しているからだ。
 オープニング音楽は誰でも耳に残るようなものだった。
「ぴぴるぴぴるぴ♪」
 オープニング音楽が流れると、俺は思わず歌ってしまった。
 だって、耳に残る音楽だからだ。
 奈々絵は俺の様子を見ると、クスクスと笑い出す。
「正広さんって子供みたいですね」
「だって、こんな耳に残る音楽が演奏されたら、歌いたくなるよ」
「その気持はよくわかります」
「じゃあ、奈々絵も歌ってよ」
「えっと、正広サンの前で歌うのは、ちょっと……」
「ドッペルちゃんは抵抗なく、子供と歌ってたけど?」
「う、もう一人のわたしを持ち出すと、恥ずかしいです。彼女はわたしができないことを平然とできますから」
 そこで、俺は奈々絵のことを一つ理解できた。
 ドッペルゲンガー奈々絵は、善良な奈々絵ができないことを平然とできる。それは、善良な奈々絵が心の底に押しつぶした欲望なのだろう。
 本当は、歌いたい。
 でも、歌ってはいけない。と、ブレーキをかける。
 まるで、ジキル博士とハイド氏の関係だ。
 ジギル博士は何がいけないのか、わかってブレーキを掛ける。
 でも、ハイド氏はそのブレーキを平然と壊し、やりたい放題する。
 だから、ドッペルゲンガー奈々絵もハイド氏と似ている。
 善良な奈々絵がブレーキをかけるたびに、ドッペルゲンガー奈々絵は成長する。
 なので、俺はそんな彼女のブレーキを壊す。
 奈々絵の感情をバランス良く調整する。
 それが、奈々絵にとっていいことなのだろうと思ったからだ。
「大丈夫だ。奈々絵は俺より歌がうまいから」
「そ、そうでしょうか?」
「ああ。俺が太鼓判を押す」
 にっこりと親指を立てて、答えると、奈々絵は顔を真っ赤にして、どこか恥ずかしそうに歌い出す。
「ぴぴるぴぴるぴ♪」
 結局、奈々絵は歌い出す。
 それも、俺よりうまく歌い出せている。
 俺はそれを見ながら、いいね、と親指を差し出すのだった。
 それから、俺達は魔法少女ドッペルゲンガーミオの鑑賞をした。
 ノンストップで、長時間の視聴をする。
 話が進むだびに、物語は濃厚になっていく。
 ドッペルゲンガーミオは魔物を召喚し、魔法少女ミオを阻む。
 そこで、ドッペルゲンガーミオは負けるが、彼女を生み出したのは、月の魔王である。
 魔法少女ミオは月の魔王と対面に立つのだった。
 しかし、魔王は強く、魔法少女ミオは歯が立たなかった。
 そんなときに、魔法少女ミオはドッペルゲンガーミオと和解する。
 ……わたしはあなた。
 ……あなたはわたし。
 二人は一つに合体し、新たなフォームになる。
 それが、魔法少女ドッペルゲンガーミオだった。
 二人の人格が一つになり、宇宙を構築できるような魔力をもった。
 そんな圧倒的な力で、月の魔王を倒すのだった。
 話はすごく盛り上がった。
 そして、すごく楽しかった。
 思わず絶叫するほどの、ラストの変身展開に、心が踊らせる。
 いい年にもなって、こんな子供だましに涙を流すとは、本当に自分はガキだな、と思わせる。
 でも、悪いのはこのアニメだ、
 この神展開をもっていけるアニメが悪い。
 演出も、音楽も、シナリオも百点満点だ。
 文句なしの神アニメだった。
 ……くそ、俺が昏睡状態に落ちてなければ、毎週この神アニメを鑑賞して、教室の友達に吹聴できたのに。
 でも、起きたことを悔やむのは仕方がない。
 俺はどこか後悔しながらも、エンドクレジットをずっと眺めていた。
「楽しかったね」
「ああ、本当にすごいアニメだよ」
「正広くんはどうして、このアニメ見ていないのですか?」
「そうだな……まあ、大声では言えないけど、実は……俺は去年はずっと眠っていたんだ」
「眠っていた?」
 奈々絵はどこか懸念な声をあげて、首をかしげる。
 そういえば、奈々絵には話してなかった。
 それは、俺は子供を助けて、頭を強く打ったため、一年間昏睡状態に落ちた。
 奈々絵に話しても問題ないでしょう。
「そうだ。実は……俺、一年先輩になるはずなんだ。でも、去年の入学式の日に、俺は車に轢かれそうになった子供を助けた結果、頭を強く打って、気絶してしまったんだ。起きたときは、一年が経過していた」
 世界の流れは恐ろしく早いことに、俺は驚くのだった。
 そういうと、奈々絵はどこかびっくりしたようになり、声をかける。
「じゃあ、正広くんは異世界転生したのですね」
「いや、異世界転生はしていない。ただ、一年間眠っていただけだ」
「眠った間に異世界に行ったんじゃないですか?」
「いや、そんなことはないよ。だって、昏睡状態は、本当に眠っていただけだ」
「なんだ、つまらないの」
 ぶーぶーと奈々絵は唇を尖らせる。
 でも、その態度に違和感を持った俺は、恐怖を感じた。
 その正体に確かめるために、俺は口を開く。
「なあ、奈々絵」
「なんですか? 正広くん」
「……ドッペルゲンガー奈々絵なんだろ? キミ」
「……」
 奈々絵(ドッペルゲンガー)は一瞬口を閉じる。
 真剣な表情になった。
 そうだ。俺の違和感は、善良な奈々絵がドッペルゲンガー奈々絵になってしまったことだ。
 しかし、どのタイミングで、善良な奈々絵がドッペルゲンガー奈々絵になったのか?
 俺はそこには気付けなかった。
 でも、気づけば、善良な奈々絵は消えて、ドッペルゲンガー奈々絵がいた。
「バレちゃいました?」
 奈々絵は不気味な微笑みを浮かべる。 
 俺の毛が逆立つのだった。
「バレバレだよ」
「うーん。あの子に演技していたのですが、まさかバレるとは……」
 ドッペルゲンガー奈々絵はどこか悔しそうな表情になった。
 そうだ、途中までは善良な奈々絵になっていたはずだ。
 でも、どこかのタイミングでドッペルゲンガー奈々絵にすり替わった。
 こういうことは、初めてで、俺の予想を斜め超えていた。
 日にちごとに奈々絵が変わると思っていた。 
 まさか、彼女が意識がある内に人格がすり替わるとはおもわなかったのだ。
「で、善良な奈々絵はどこに消えた?」
「死んだんじゃないかな?」
 ドッペルゲンガー奈々絵はいたずらにそう放つ。
 もちろん、俺は本気だと思っていない。
 なので、もう一回尋ねる。
「キミの中に眠っているのか?」
「もう、正広くんたら、女の子の言葉を信用しないだから」
「人は完全に死ぬことはない。人格が消えるもありえない」
 ……と俺は持論を取り出す。
 実際に、人格が消えるどうか、俺にはわからない。
 でも、人格が簡単に消えるなんて、ありえないと思っている。
 善良な奈々絵がどこか眠っているのだろう。どちらかといえば、今、奈々絵の体を操作しているイタズラの方で、善良な奈々絵は見ているはずだ。
「奈々絵。返事をして、今は見ているだろう? 人格を乗っ取られてもいいの?」
「ムリムリ。あの子は完全に眠っているよ」
「どういうことだ?」
 そう尋ねると、ドッペルゲンガー奈々絵はクスリと唇の端を橋上げる。
「いつもとは違う。眠りの世界に入ったってこと」
「っつ!?」
 そこで、俺はどこか恐怖を感じる。
 いつもなら、奈々絵という人格は起きていて、体の背後に幽霊みたいに、物事を鑑賞いsているはずだ。
 でも、今回は眠っているという言葉を使っている。
 つまり、善良な奈々絵の人格は完全に消えてしまって、ドッペルゲンガー奈々絵が体を操作している。
 ……この出来事も、善良な奈々絵は覚えていないだろう。
「ねえ、正広くん。どうして、あたしがドッペルゲンガー奈々絵の方だとわかったの?」
 ドッペルゲンガー奈々絵は不思議そうに尋ねてくる。
 なので、俺はきっぱりと答える。
「それは、一人称が違うからだよ」
「一人称?」
「そうだ。善良な奈々絵は『わたし』で。キミは『あたし』を使う。だから、すぐにわかった」
「さすがは名探偵! 星を差し上げましょう」
 ドッペルゲンガー奈々絵は驚いたように口を開く。
「でも、時間があまりないかもしれない」
「どういうことだ?」
「あたし……ドッペルゲンガー奈々絵も長くいられないのです」
「どういう意味だ?」
「あたしはあとから作り上げた、人格。奈々絵の憧れから出来た人格。本当の人格ではない。だから、あたしが消えるのが筋なの」
「でも、善良な奈々絵は自分が消えることを望んでいる」
「だから、あたしが先に消えるようにしないといけないの」
 きっぱりと、答えるドッペルゲンガー奈々絵。
 その瞳はどこかまだ、自信に満ちた表情だった。
「できるのか? そんなこと?」
 俺はそう尋ねると、ドッペルゲンガー奈々絵はどこか疲れ切ったように、声を裏返す。
「わからない」
 そう、諦めるように答えるのだった。
 そこで、俺は理解する。
 ドッペルゲンガー奈々絵も一人の人間であり、子供の悩みをもつ、俺達と変わらない人間だ。
 だから、彼女も善良な奈々絵と考えが同じだった。 
 それは……自分が消えれば、もう別方面が幸せになること。
 だから、俺はドッペルゲンガー奈々絵に尋ねる。
「奈々絵。もう一人の奈々絵と話せるか?」
「……試してみます」
 そういうと、ドッペルゲンガー奈々絵は目を閉じる。
 数秒後には奈々絵は目を開ける。
「あれ? 正広さん?」
「ああ。俺だ」
 奈々絵は善良な奈々絵に戻っている。
 彼女の口調からすると、どうも奈々絵は変われたのだ。
 どういう手品なのか、俺はよくわからない。
 でも、奈々絵がもとの奈々絵になったのだから、俺はどこか喜ぶ。
「どうも、さっきから寝ていたようです」
「うん。そうだね」
「魔法少女ドッペルゲンガーミオ。見ていたようですけど、眠っていたのか、起きていたのか、わからないです」
「いいんだよ。また、一緒に……見ればいい」
 善良な奈々絵はペコリと頭を下げるのを見ると俺の心はどこか締め付けられるような悲しくなる。
 善良な奈々絵が徐々に消えていくような嫌な予感がする。
 彼女が意識ある内に、ドッペルゲンガー奈々絵に変えたのは進捗は進んだのだろう。
 このあとは、完全にドッペルゲンガー奈々絵が善良な奈々絵とすり替えるのだろう。
 それは、ジギル博士とハイド氏のようなものになる。
 永遠にハイド氏になってしまう、ジギル博士だ。
 そんなことを考えると……ぐーと奈々絵の腹に虫が鳴り響く。
「す、すみません。お腹が空いたようです」
「い、いいんだ。そろそろ夕飯の時間だしな」
 俺は窓の外を眺める。夕日がオレンジ色に輝いている。そのオレンジ色で、街を照らしていた。その景色を見て、この夕飯の時間だと、わかる。
「そうだ。奈々絵」
「はい。なんでしょうか?」
「一緒に悪いことをしよう」
 俺はそう提案すると、奈々絵は目をパチパチとする。
「わ、悪いことですか?」
「ああ。そうだ。夕飯はちょっと健康に悪いものを食べよう」
「そ、そんなのがあるのですか?」
「俺を信じろ」
 そういうと、俺はウインクする。
 奈々絵は素っ頓狂になり、俺の意図はわからないようだった。

◇   ◇   ◇

第六話 ラーメンを食べるキミ
 
 そして、俺達は移動し、駅前にある店の前に立つ。
 外装はどこかボロボロでもあるが、ちょっと古くさいちいさな建物だ。中からむわっと、湯気が飛んでいて、油の匂いがする。
 どうも、この小さな店には人が多く並んでいた。
 そこは、某有名なラーメン屋だった。
 全国の店舗数は百店舗もあり、フレンズチャイルド契約で有名なラーメン屋だ。
 俺は食券機の前に立つと、購入方法を教える。
「まずは、金を入れる。そして、注文したいラーメンのボタンを押す。俺のおすすめはこのシャーシューラーメンだ。シャーシューが、柔らかく、肉汁があふれる肉なんだ。有名だから、おすすめだ」
「ほへえ。そんなものもあるのですね。わたし……感激です」
 奈々絵はどこか驚いたような表情になる。
 こんな有名なラーメンの注文の仕方もわからないのは……いいこなんだな。
 そこで、奈々絵は食券を購入すると、店員が俺たちの席を案内する。
「次は……店員が量を訪ねてくるんだ。油、野菜、にんにく。どれも量を頼むんだ」
「はい。でも、どうやってですか?」
「まあ、俺を真似すればいい」
 俺がそう言っていると、丁度店員が俺のところにやってくる。
「兄ちゃん。量は?」
「はい。油普通。野菜普通。にんにくを普通でお願いします」
「はいよ!」
 そういうと、店員はラーメンの準備に取り掛かる。
「こういうこと」
「はい。わかりました。わたしもやってみます!」
 奈々絵は自信満々にそう言い出した。
 そこで、店員は再び俺達の前にやってきて、奈々絵の注文を聞きに来る」
「おじょうちゃん。量は?」
「油ましまし。野菜ましまし。にんにくましまし」
「奈々絵!?」
 奈々絵が唱える呪文に思わず目を大きく見開く。
 だって、奈々絵が頼んだものは……多めの量だ。一人の成人がやっと食べ切れる量なのだ。
「あれ? なにか間違いました?」
 奈々絵は涼しい顔で尋ねてくる。
 なので、俺は彼女が間違ったことを指摘する。
「量は多めで注文したけど、いいの?」
「はい。お腹がぺこぺこに空いているので、丁度いい量だと思います」
 ……この子の胃袋はブラックホールだと勘違いしているのかな?
「はいよ!」
 と、店員は疑いもなく、ラーメンの準備に取り掛かったのだ。
 まあ、食べきれなかったら、俺が食べるか。
 そう、覚悟をするのだった。
 数秒後にはラーメンが提供される。
 俺には普通サイズのラーメン。奈々絵の前には野菜のタワーと油マシマシと分厚いシャーシューがあった。
 こんなラーメン、誰が食べ切れるの!?
「じゃあ、いただきましょう。正広さん」
「あ、ああ。そうだな」
 奈々絵は先に箸を取ると、いただきます、と言ってからラーメンを食べ始める。
 彼女が食べるスピードは凄まじくて早かった。
 野菜をパクパクと口の中に運んでいく。
 そんな食べっぷりを見ていると、俺もラーメン食べないと。
 なので、俺もラーメンを食べる。
 もやしがしゃきしゃきとして、鮮度が高かった。
 シャーシューも美味しい。肉汁がふわと感じ、脂身も乗っていた。
 麺までたどり着くまではまだ、遠いが、俺は口の中にラーメンを運んだ。
 やっと、具材が全部食べきり、残りはラーメン本題になると、俺は奈々絵をちらっと眺める。
 彼女は楽しそうに、具材を完食した。
 あのタワーにあった、ラーメンを一瞬にして、食べきっていた。
「野菜。美味しいですね!」
「あ、ああ。そうだな」
「最初は量にびっくりしましたけど、普通でしたね」 
 ……いや、普通にびっくりするのはキミの食べる速さだけど? 俺より量が倍以上もあるのに、もう具材を全部食べきったのか?
 それより、普通でしたね。って、どういう意味?
 それ、成人男性でも苦戦する量なんだよ?
 と、俺は心の中でツッコミを入れる。
 けれど、口にはせず、ラーメンを食べ続ける。
 太くてもちもちしている麺は腹に溜まっていく。
 濃厚な豚骨のスープは舌を刺激する。
 こんなに体が悪いものは心が満たされていくのだった。
 この店のラーメンの虜になった理由がわかったような気がする。
 やがて、俺達はラーメンを完食する。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
 と、二人同時に手を合わせる。
 奈々絵は満足したそうに、ラーメンを完食したのだ。
 あの山の野菜と山ほどあるにんにくを……
「美味しかったですね。正広さん」
「あ、ああ。美味しいだろ?」
「はい。また来たいです」
 奈々絵はどこか満足した表情を浮かべながら、お腹をさする。
 どうやら、本当にこの店のラーメンに満足したのだろう。
 まあ、それはよかった。
 と、いうわけで、俺達はラーメン屋から出たのだ。
 胃袋がまだ溜まっているため、俺達は散歩がてらに駅の周辺を歩く。
 胃がラーメンを消化するのを待つのだった。
「それで、奈々絵」
「はい。なんでしょうか? 正広さん」
「キミのことをもっと話したい」
「それは、もうひとりのわたしではなくて、わたしですか?」
「そうだ。どちらも大事だからだ」
 俺がそういうと、奈々絵はどこか悲しい表情を浮かべるのだった。
「両親は忙しくて、わたしの面倒をみることはありませんでした。だから、わたしはイマジナリーフレンドのもう一人の自分を作りました。彼女と交友関係を抱いていると、実は彼女がわたしなのじゃないかと願ったのです」
「それが、ドッペルゲンガー奈々絵だろ?」
「はい。わたしができないことを平然とできる自分を想像した結果です。だから、わたしは自分ではできないことをできる彼女こそ本当の自分なんじゃないかと」
「それは違う」
 俺は否定する。だって、それは正しくないのだ。
 善良な奈々絵、ドッペルゲンガー奈々絵も奈々絵だ。ただ違う面だけであって、決して分離しているのではない。
 そんなことを伝えたくて、俺は彼女の考えを否定しなければいけないのだ。
「奈々絵。キミは奈々絵だ。あの子も奈々絵なんだ。誰が正しくて、間違っているなんて、ありえないだ」
「正広さんは優しいですね」
 奈々絵はキラリと、水滴を瞳から流れ出す。
「でも、わたしは自分自身のことをよく知っています。そろそろ、わたしが消えて、完全にあの子になるのでしょう」
 それは事実なのだろう。
 あのとき、魔法少女ドッペルゲンガーミオの鑑賞会、奈々絵は意識あるうちに、ドッペルゲンガー奈々絵にすり替わった。それも、自然に変わり果てた。
 いつもだと、日にちを跨いてから人が変わる。
 それも、奈々絵の記憶と共通している。
 でも、こんかいはエスカレートして、奈々絵がドッペルゲンガー奈々絵に変わっていた。そして、記憶も共通していない。まるで、別人と話しているようだった。
 ……このままでは、ドッペルゲンガー奈々絵が善良な奈々絵にすり替わっれしまう。
 それくらいはわかっている。わかっている。
 でも、賢くない俺は何をすれば正しいのか、わからない。
 だから、俺は心の声に従って進むのだ。
「なあ、奈々絵」
「はい」
「来週また、デートしよう」
 そういうと、奈々絵は目をパチパチとさせる。
「デートですか?」
「そうだ。遊園地ならどうだ? そこで、一緒にばかなことをしよう」
 俺がそう誘うと、奈々絵はどこか素っ頓狂な表情になる。
 まるで、その誘いが来ることを予想していなかったのだ。
 いい子ちゃんにはご褒美を与えなければいけない。
 なら、善良な奈々絵に羽目を外すことを教えなければいけない。
 それが、彼女を救う方法だと思った。
「いいですね」
「じゃあ、来週の土曜日だね」
「はい。わかりました」
「それと、キミが来るんだぞ。ドッペルちゃんはダメだぞ」
「頑張ってみます」
 奈々絵は承諾する。けど、俺は少し心配だった。
 善良な奈々絵がデートにやってくるように、俺はポケットの中から何かを出す。それは、ぬいぐるみのストラップだった。
「奈々絵。キミがキミであるときは、これを見せてくれ」
「わたしがわたしのとき?」
「そう。もう一人のときは、クマの顔を裏返す」
「わ、顔が変わった」
「そう、このクマは二面持っているんだ。だから、ドッペルちゃんのときは顔を回してくれ」
「はい。わかりました」
 奈々絵はそのクマのストラップを受取、大切そうにするのだった。
 そう見ると、俺は奈々絵のことを愛しく思う。
 そして、俺はあの満月の日を思い出す。
 奈々絵が自分自身を海に落としてしまったといったことに。それは本当の自分自身をおとしてしまったことなのだろうか?
 善良な奈々絵とイタズラ好きな奈々絵に二分割した。
 それが一つになれるのだろうか?

◇   ◇   ◇

第六話 幼馴染は危険を感じる

 翌日。憂鬱な月曜日。
 俺はいつものように家族と駄弁ってから、外に出る。
 今度は新しく購入したイヤホンを再購入して、耳にはめる。
 そして、魔法少女ドッペルゲンガーミオの曲をスマホから流す。
 音楽が耳に鳴り響く。それは現代Jpopの代表とも言っていい、すごく楽しい音楽のリズムだ。
 俺が流している音楽はオープニング音楽ではなく、挿入歌だ。
 あの魔王と退治するときの音楽に心が踊った。
 楽しく、勇気をくれる音楽だ。
 このアニメが生放送のときに見られなかったのは、すごく残念だった。
 でも、奈々絵と楽しめたし、俺は後悔していない。
 それと、尊い命の一つを救い出せたし、これ以上幸福はない。
「おはよう。正広」
 と、俺が家に出ると、むすっとした表情をしている幼馴染のまなかが腕を組んで待っていた。
「おはよう。まなか。今日は朝練がないの?」
「ないわ。月曜日は憂鬱な日だから、ないと決めたの」
「それは、決めた人には平和イグノーベル賞を与えたいなあ」
「馬鹿にしている?」
「いや、褒めている」
 俺がそう笑うと、まなかは『やっぱり馬鹿にしているよね』と言い出す。
 それで、俺達は学校に一緒に登校するのだった。
「昨日……なにしていたの?」
 ふいと、まなかは口を開いて尋ねてくる。
 俺は片耳のイヤホンを取り出し、まなかの方を見る。
 どうも、まんざらではない表情だった。まだ、むすっとしていた。
 何がそんなご機嫌ななめなのか、俺には理解できないけれど、奈々絵と過ごしたことを伝えてもいいと思った。
「クラスメイトと遊んでいた」
「女でしょう?」
「なぜ、わかる?」
 俺がそう尋ねると、まなかは腕を組み、鼻の息を鳴らす。
「あたしを舐めないで頂戴。駅前で女の子と一緒に歩いているのを見たわ」
「それはそれは」
 俺は苦笑いで、答える。
 けれど、まなかは怒りを抑えることなく、どこか不満があるように俺を睨みだす。
「言ったわよね。あの子と関わるのはやめてって」
「そうだな」
「じゃあ、なんで、関わっているのよ?」
 まなかは真剣に尋ねる。
 それは女の勘なのだろうか。まなかの勘は当てになる。いつも、鋭い勘に、なんど助けられたか。
 試験勉強をしたとき、彼女は勘で、この出題がでるといい、本当に出たのだ。
 だから、女の勘は馬鹿にしたものじゃない。
 そして、俺は知っている。
 まなかがこうなれば、話を誤魔化すことはできない。
 ここは正直に話さないといけないと。
「放っておけないだ。あの子が」
「それって恋心?」
「うーん。どうだろう、俺にもよくわからない」
「なにそれ?」
「まあ、本当なんだ」
 ……だって、奈々絵に恋をしているか、と訊かれると、難しい答えだと思った。
「話をもどそう。彼女を放っておけないだ。じゃないと、彼女は死んでしまうかもしれない」
「それって、あの子供を助けたときと同じだよね?」
「そうかも」
「そうかも……って。あんたわかっているの?」
「なにが?」
「あんた、死ぬかもしれないよ!」
 まなかの言葉に、俺はぴたっと、足を止める。
 彼女の顔をみると、小さな身体がふるふると震えていた。
 それは、どこか俺を失うことへの恐怖なのだろう。
 ……あの事故の日みたいに。
「なあ、まなか」
「なによ」
「心配させて、ごめんな」
「んな! 誰があんたのことを……」
「でも、俺、彼女のこと放っておけないだ。彼女を放っていくと、彼女が死んでしまうかもしれないだ」
 そうだ。奈々絵を放って置くと、奈々絵の人格が消えてしまうかもしれない。
 それは奈々絵が望んだことかもしれないけど、俺はそんなことを望んでいない。
 奈々絵は奈々絵だ。いい子の奈々絵もイタズラ好きの奈々絵も奈々絵だ。
 だから、片方が消えてしまうなんて、俺は黙ってみていることはできない。
「わかった……もう、あんたなんか知らない!」
 まなかはどこか不機嫌になりだして、足を早く進ませる。
 やばい、彼女を怒らせてしまった。
 じゃあ、彼女の機嫌をとらないと。
「なあ、まなか、今日の放課後は公園にあるクレープ屋にいかないか?」
「なによ。いきなり!」
「そこで、彼女のことを話そう。どうして、俺が彼女を放っておけないのか」
 ぴたっと、まなかは歩いている足を止める。
 そして、俺の方を見つめる。
 真っ赤な目。それは涙を流した目だった。
 だから、俺は手を伸ばし、彼女の流している涙を拭く。
「馬鹿!」
 でも、まなかは俺の手を弾く。
 それは照れ隠しなのか、それとも、俺が本当の馬鹿であることを再認識したのか。
 そして、ギクシャクした関係になり、校門にたどり着く。
 昇降口に到着すると、俺達は自分の下駄箱のところに行く。
 靴を履き替え、廊下に出ると、俺は奈々絵に出会った。
「あ、正広くん! おはよう!」
「おはよう。今日はドッペルちゃんの方か?」
「もう、すぐにわかっちゃうだから」
 にしし、とイタズラな笑みを浮かべるドッペルゲンガー奈々絵だった。
「今日の放課後は空いている?」
「放課後は……すまん。予定を入れている」
「予定?」
 ふと、首を傾げる奈々絵。
 そこで、まなかが後ろから出てくる。
「正広? どうしたの?」
 俺はまなかの方に顔を振り向くと、説明する。
「いや、知り合いに出会っただけ」
「ふーん。あなたが、噂の北沢奈々絵ね」
 まなかは奈々絵の天辺から足の底まで眺める。
 あまりの失礼な態度なので、俺はまなかに注意をする。
「まなか、彼女に対して失礼でしょ?」
「そう? 悪い虫は排除するのが、あたしの仕事よ」
「悪い虫って……」
 ……まなかは何を言っているのだ?
「ああ、もしかして、嫉妬ですか?」
 奈々絵はにやりとどこか狐のような笑みを浮かべる。
「っつなにを……」
「あたしが、正広くんと仲良くなっているのを見て、嫉妬したのですか?」
「っつ違うわよ。こいつとの関係はそういうものじゃないわよ」
 まなかはどこか吠えるように訴える。
 ……そう大声で訴えると、俺が悲しくなんちゃうじゃん。
「じゃあ、正広くんとどういう関係なんですか? あたしたちは秘密を共有し合う関係ですよ」
 奈々絵がそういうと、まなかはギロリと俺を睨む。
 ……そうなんだけど、そうじゃないだ。
 秘密があるのは確かだ。でも、大声では言えないのだよ。奈々絵が二重人格であることって。
「あたしたちは幼馴染よ! 泥棒ネコ!」
「いやあ、そうですか? 泥棒ネコはあなたの方では? アタシは正広くんと交友関係をもっているのですよ。ねえ、正広くん」
「っつ!?」
 まなかは顔を真っ赤にし、肩を震わせる。
 彼女の怒りがここまで伝わってくる。
 まさか、まなかが押されているなんて、予想外だ。
「じゃあ、あたしたちは同じクラスなので、負け犬さんは退場してください。しっし」
「ざけんじゃないわよ。あたしが負け犬なんて」
 そういうと、まなかは俺の左腕をがちっと掴む。
「いえいえ。正広くんはあたしとクラスに入るので、幼馴染さんは退場する場面ですよ」
 奈々絵も負けずに、俺の右腕をがちっと掴む。
 二人はにらみ合いをするのだった。
 ジリジリと、見えない火花が彼女たちの目から放たれる。
 俺というと、その中間に立ち、どうすればいいのか、わからなかった。
「喧嘩か?」
「なんだ、修羅場だ! 修羅場!」
「二股かよ。最低だな!」
 ……全然違うのだけど?
 なんだか、生徒たちが集まってくる。
 みんなは何がおきたのか、気になり、視線を俺達に向ける。
 ……なんだか、すごく恥ずかしいのだけど? 俺が二股したように勘違いされているのだけど?
 え? これって、俺が悪いの?
 そんなときに、パンパンと手を叩く音がした。
 振り向くと、そこには田中先生が立っていた。
「はいはい。みんな喧嘩しない。そろそろ、予鈴が鳴るから、みんな教室に戻って」
「はーい」
 と、みんなは冷めたように、返事をすると、自らのクラスに戻っていく。
 ……ふう、助かった。田中先生がいて、よかった。じゃないと、俺はこんな晒されている。
 でも、ことはそんな簡単にいかなかった。
 田中先生は俺を見るとはあ、とため息を吐き出す。
「あと、HRの前に、二階さんと話があります」
「はい」
 ……というわけで、俺は田中先生に呼び出される。
 まなかと奈々絵は自分のクラスに戻っていく。
 そして、俺は田中先生の後について行き、職務室に入った。
 田中先生の机につくと、彼女ははあ、とため息を吐き出して、事情を尋ねる。
「で、何がおきたの?」
「えっと、話すと複雑なんですけど、実は幼馴染のまなかと一緒に登校していたのですが、昇降口で、奈々絵に見つかって、いざこざになりました」
「それ……だめな彼氏の言い訳みたいよ?」
 ……俺もそう思った。
「二階さんは、北沢さんの事情は知っている?」
 ふいと、田中先生は不思議にそう尋ねる。
 事情というのは、二重人格の問題のことなのだろう。
 担任の先生まで、知っているのか。
 でも、知らないほうが問題だと思った。
 なので、俺はフラットに誤魔化す。
「えっと、少なくとも知っています。彼女が精神科に通っていること」
「そう。なら、わたしがいうのもなんだけど、この事情は彼女の問題で、二階さんは関わらないほうがいいわ」
「えっと、それってどういうことでしょう?」
「うーん、悪気みたいに聞こえたなら、ごめんなさい。そうではなくて、彼女を助けようと思わないほうがいいって言いたいの?」
 ……それってどういうこと?
 俺が首をかしげていると、田中先生は追加に説明を加える。
「大人だから言えることなんだけど、この世界には助けられると助けられないことがあるの。で、彼女はどうしようもない問題。彼女を決して助けようと思わないこと」
「……」
 なんとなく、大人の言葉はわかった。
 田中先生が言いたいのは、奈々絵という子を助けるな。ではなく、助けられないから、放って起きなさいだ。
 それは、俺を心配してのことなのだろう。
 俺は、田中先生がどこまで知っているのか、わからない。
 ドッペルゲンガー奈々絵はどれほどの問題なのか、俺は馬鹿だから、よくわからない。
 でも、あのとき、浜辺に会ったときの彼女の顔が頭の片隅に現れる。
 それは、どうしようもない、助けを求めている少女の顔だった。
 自分を落としてしまった……だから、自分を探している。とのこと。
「ごめんなさい。田中先生。俺……やっぱり、奈々絵の力になりたいと思います」
 ぎゅうと、拳を握りしめて。
 血が出るかと思うほど、俺は強く手を握ってしまった。
 でも、俺は悔しかったのだ。
 だって、みんなが、彼女を救うことを放棄している。みんな彼女の事情を知っているけど、見向きもしないで、救えないからやめろ、と言い出す。
 これが、なんだか悔しかった。
 井上先生もそうだった。
 俺には彼女を救うことは出来ないと言い出す。
 田中先生も、彼女とかかわらないほうがいいと言い出す。
 だから、俺はなんだか、悔しかった。
 まるで、子供の俺になんの役に立たないと言っているようだった。
 俺は悔しそうにそんな言葉を紡いでいると、田中先生はどこか声を細める。
「二階くんって……優しいのね」
「え?」
 ……俺が優しい? どうしてそうなる?
 俺はただ、奈々絵の力になりたいだけだ。
 彼女が自分を取り戻すようなことをしたいだけだ。
「でも、具体的に彼女をどう救うの?」
「……」
 そうだ。俺は彼女を救う手段はわからない。
 彼女とのデートしてみたり、一緒にラーメン食べたり、一緒にアニメを鑑賞したりしかできない。
 それが、俺にできる唯一のことだった。
「うーん。奈々絵さんに面倒見させたのは間違いだったかな?」
「え……?」
 田中先生はどこかため息混じりで答えると、俺は唖然とする。
「キミは優しすぎる。解決出来ない問題も、解決しようとする。でもね、この世の中はそういう数学で解決できるものだけじゃない」
「……」
 井上先生と同じ言葉をいう田中先生に俺はどこか落胆する。
 俺は……奈々絵をどうしたいのだろうか?
 本当の自分を取り戻す。それって、ドッペルゲンガー奈々絵の方を消すことなのか?
 俺には何一つわからない。
 だから、田中先生が言うのは頭では正しいなのかもしれない。
 でも……
「それでも、俺は、奈々絵を見捨てることはできません」
 ……心は違うとそう叫んでいる。
 俺の行動が俺自身に破滅を迎えるなら、それでいい。
 後悔がないように生きる、それが俺の道だったからだ。
「そう。やっぱり、キミは優しいのね」
 田中先生は大きなため息を吐き出すと、散らかっている資料の山から何かを取り出す。
「あった」
 と、田中先生はそれを取り出し、それを俺の方に差し伸べる。
 俺はそれを受取とその表紙を読み上げる。
「……Kの昇天」
「短編小説よ。結構面白いの」
 田中先生はそれを説明する。でも、俺はなぜこの本が差し伸べられたのか、わからない。
 なので、素直に尋ねる。
「あの。この本は?」
「気晴らしよ。読書はいいよ。本は世界を広げるからね」
 田中先生がそう指摘すると、俺は納得する。
 この本の意味はとくにない。
 ただ、気晴らしに俺が読書するだけのもの。要は、趣味を俺に持たせて、奈々絵の関わりを最小限にするようにすること。
 俺は、馬鹿だから、その忠告を鵜呑みにすることができないのだ。
「はい。話は終わり。そろそろ授業が始まるから、二階くんも教室に戻って」
「はい……」
 田中先生が授業の準備に取り掛かると、俺はその本を持ち出しながら、職務室から出た。
 そして、俺は自分のクラスに入る。
 席に座ると、丁度数学の先生が教室にやってきた。
 退屈な時間が始まろうとするのだった。
 その時間を凌ぎ、放課後になるまで待つしかない。
 そこで、幼馴染のまなかの機嫌を取るのだ。
 俺は窓の外を眺める。緑の樹木がサラサラと風に揺られていた。
 春が終わりそうだ。4月もあと二週間。
 再来週からゴールデンウイークに入る。その長期休日になにか、予定を入れたほうがいいと思ったのだ。

◇   ◇   ◇

 時間の経過とは早いものだ。気づけば、もう放課後だった。
 放課後のチャイムが鳴ると、生徒たちは緊張感から開放される態度だった。
 俺は荷物をまとめて、帰宅する準備を行う。
 今日は先客がある。まなかの機嫌を取るのだ。公園でクレープを奢ることを約束していたからだ。
 チラと、隣席の奈々絵を見る。
 彼女は屈託のない笑顔で友達と談話していた。
 それも、ドッペルゲンガー奈々絵の方だ。
 なので、笑顔でいっぱいで、友達に冗談を言い合える仲だった。
 そう見ると、俺は不思議に思う。
 彼女……奈々絵の望む姿とはどういう姿なのか?
 善良な奈々絵は自分が消えることを望んでいる。
 でも、ドッペルゲンガー奈々絵も自分が消えることを望んでいた。
 二律背反なのだ。
 その正しい道は一体どういう道なのか?
 俺はそう考えると、荷物をまとめて、クラスを出る。
 すると、俺は幼馴染のまなかと遭遇する。
 彼女は腕を組んで、こちらを睨んでいたのだ。
「遅い!」
「まだ、放課後に入って3分も経過していないよ」
「あたしが遅いと言うなら遅いの」
 ……乱暴なお姫様だ。
 本当にわがままな幼馴染を持ってしまった。
 そう思うと、俺は一度ため息を吐き出してから、謝罪する。
「すまん」
「わかればよろしい。行くわよ」
 そういうことで、俺たちは移動する。
 クラスを出る間際に俺は奈々絵の様子を眺める。
 友達と輪を作り、談笑していたのだ。
 その姿を見れば、なんだか安心ができた。
 俺がいなくても、なんとかやっていけそうだ。
 とはいえ、友達は奈々絵が二重人格であることに気づいているのだろうか。
 それはまあ、彼女たちの問題であり、俺から明かす事はできない問題だ。
「何をしているのよ? 置いていくわよ?」
「すぐに行く!」
 と、行けない。
 まなかに呼ばれた俺は彼女のあとをついていき、昇降口の方に移動する。
 靴を履き替えると、俺達は校舎の外に出る。
 そして、帰宅する生徒たちに紛れて、歩く。
 俺達が向かうのは、近くにある公園だ。 
 そこには、いくつかのキッチンカーがあり、簡単なものが販売されている。
 以前は奈々絵と一緒に来たけど、今回はまなかと来ている。
 なんだか、俺が完全に二股している彼氏みたいだ。
 そんなことを考えながらも、俺達は公園にやってきた。
 そこは、子供や老人が集う場所でもあった。
 ボール遊びをする子供たちに、ベンチの椅子で日向ぼっこをしている老人たち。
 暖かい春風が肌に当たると、俺は背を伸ばし、空気を肺いっぱい吸う。
 いい風で、眠くなりそうだ。
 でも、いま寝たら、きっと、今夜の夜は眠れなるのだろう。
「クレープ、買うわよ」
「はい」
 俺達はキッチンカーの一つ、クレープ屋の列に並ぶ。
 子供たちに紛れて、並ぶのは少々恥ずかしいが、ここのクレープの味を思い出すと、並ぶ恥ずかしさもそんなにしなかった。
 あまりにも美味しさに、大人を魅了するクレープを作るのだから、人気になるのもおかしい話ではないからだ。
 そこで、順番が回ってきて、まなかの番になる。
「えっと、ストロベリーアイスクレープを一つ」
「お会計は俺と一緒で、あ、俺は、チョコバナナクレープで」
 俺が2000円を差し出すと、店員さんはその金を受け取ると、お釣りの400円を返す。
 まあ、クレープにしては、少々高い部類にはなるけど、美味しいからとくに気にはしなかった。
 やがて、クレープが完成すると、俺達は店員からクレープを受け取る。
 そして、近くに空いているベンチに腰をかけて、クレープをほふる。
「やっぱり、ここのクレープは美味しい!」
「美味しいわね。ここのクレープ」
「だろ?」
 まなかは満面な笑みでクレープを食べると、俺の心の中ではガッツポーズをする。
 なにせ、まなかの機嫌を取れたのだから。
「さあて、話をしましょう」
「え……」
 俺がチョコレートの部分を食べきって、バナナのところを食べようとしていると、まなかは口を開く。
 そして、俺の方を見つめるのだった。
「奈々絵っていう子。いったい、どういう子なの?」
「それ……なんだか、彼女面しているような」
「言い返さない。あたし、かなり怒っているんだからね」
 まなかはム、という口になると、俺は考える。
 どこから話せばいいのか、わからないのだ。
 なので、俺はフラットに伝えようとすることにする。
「まあ、奈々絵は二重人格なんだ。今も、俺と同じ病院の精神科に通院している」
「二重人格?」
「うん。いいこと悪い子がいるんだけど、今日は悪い子の方かな?」
「だから、そういう意味?」
「え……どういうこと?」
 俺がそう尋ねると、まなかは眉を潜めていた。
「彼女の噂はどこか矛盾しているところがあるのよ。まあ、イタズラしたり、クラスのみんなを助けたり。最初はお調子物だと思ったけど、正広がそう説明すると、腑に落ちるわ」
 ガブっと、クレープの最後の切れを食べるまなかだ。
 その仕草はどこか疑っているようだった。
「あ、奈々絵だ」
 そんなときに奈々絵がギターをもって公園にやってきている。
 俺達の視界に入るが、彼女の視界には俺たちがはいっていないため、俺達に気づかずにいた。
 先週と同じベンチに座ると、ギターのカバンを開く。
 そして、ギターを鳴らし出したのだ。
 その音楽に、俺は知っている。
 先週と同じ音楽、魔法少女ドッペルゲンガーミオのオープニング曲だ。
 耳触りに残る、旋律を奏でる。
 すると、子供たちは奈々絵の方に集まると、一緒に奈々絵と歌を歌い出す。
 その姿はどこか微笑ましく、感じるのだった。
「俺さあ……イタズラっ子の奈々絵を見ていると、あいつが悪いやつだと思わないんだ」
 そう、俺はドッペルゲンガー奈々絵を憎めないのだ。
「彼女はあとから作られた人格なのだろうけど、彼女が消えるのは、悲しいなあと思う」
「じゃあ、アンタはどうするの?」
 まなかはベンチの隣にあるゴミ箱にゴミを捨てると、そう尋ねる。
 無論、俺はその質問に答えられなかった。
 井上先生、田中先生、まなかに同じ質問をされているけど、俺はその問を答えることができなかった。
 何が正しいのか、何が間違っているのか、わからなかったのだ。
「悪いことは言わないわ。答えがわからないものに首を突っ込むんじゃないわよ?」
「そうだな……まなかの言うとおりだ」
 奈々絵の問題は奈々絵が解決すべきものなのかもしれない。
 俺がああだ、こうだ、というのは間違っている。
 俺は馬鹿で無力だ。
 一人の少女をどうやって救えばいいのか、わからない。
「でもさあ、奈々絵の選択を最後まで見届けてもいいんじゃないか?」
 そう思った。
 俺に答えは用意できないけど、彼女の選択を最後まで見届けられると。
「やっぱり、馬鹿は死なないと治らないわね」
 ふと、まなかは皮肉交じりにそう言い出す。
 それは、俺のことか?
「それって、俺のことか?」
「ええ。あんたは馬鹿なんだから、あの子供を救ったときもそう、自分が危険の目に合うくらいわかっているよね」
「まあ、そうだな」
「だから、あたしも乗るわ。その選択を見届けるのを」
「え?」
 俺はまなかを見つめる。
 彼女は小さい体で威張りながら、腰に手を当てて、どこか傲慢に笑みを浮かべる。
「あんた、どうせ、彼女と関わるのをやめないでしょう? なら、あたしが一緒にいるわ。そうすれば、あんたは無謀なことはしないでしょう」
「いいの? まなか」
「べ、別にあんたのためじゃないだからね。あの子のためよ」
 まなかはどこか恥ずかしそうにそう威張る。
 それは、嘘でも本当でも、俺は嬉しく思ったのだ。
「わかっているよ。まなかはいつも優しいだから」
「べ、別にそうではないわ。あんたが変な目にあったら、わたしがおばさんに怒られるのよ?」
 ……そうか、怒られるのか。
「じゃあ、まなか。まずは、奈々絵に自己紹介しに行こうか」
「ええ? 今日から?」
「だめか?」
「心の準備みたいなものがあるわ。できれば、いい子の方と話したい」
「なら、今日はお預けだな」
 俺はそう笑って答えると、ふと奈々絵の方を見る。
 彼女は楽しそうに、ギターを鳴らしながら、子供と戯れていた。
 ドッペルゲンガー奈々絵。イタズラ好きで、勇気があり、どこか子供に人気な彼女。
 それは悪意があるというよりかは、奈々絵のもう一つの面でもある。
 奈々絵の姉妹みたいな存在だな。

◇   ◇   ◇

「紹介したい人がいるから、今日の昼は一緒に過ごさないか? 奈々絵」
「はい。大丈夫です。正広さん」
 翌日の朝。
 俺は奈々絵に慣用的に説明する。
 すると、奈々絵はどこか大人しく応対するのだった。
 どうやら、今日は善良な奈々絵の方だ。
「今日は、食堂で昼を取る予定なので、そこであれば、ゆっくりと話せますね」
「そうだな。俺も弁当は持ってこなかったから、丁度いい」
「では、わたしは用事があるので、先に失礼します」
 そういうと、奈々絵はペコリと頭を下げて、教室を出ていく。
 このあと、花壇の水やりがあるとのことだ。
 俺はそんな彼女を姿を見ながら、少し考え事をする。
 善良な奈々絵って天使過ぎないか? いろんなことに手伝うなんて。
「あ、あの。二階くん。すこしいいかな?」
「ふむ?」
 そんな考え事をしていると、クラスメイトの女の子が俺に声をかけてくる。
 その子は、確か仁美さんだったような。
「どうしたの?」
「北沢さんのことで相談なんだけど」
「奈々絵? それがどうしたの?」
 俺は首を傾げていると、仁美さんはもじもじとしてから尋ねる。
「どうやったら、北沢さんと仲良くなれるのか、相談したくて」
「あれ? キミは奈々絵と仲がいいのでは?」
 俺はそうたずねると、仁美はどこか難しい表情を作る。
「うん。仲がいいのか、悪いのか、ちょっと難しい関係なの?」
「どういうこと?」
 それから、俺は仁美から話を聞く。
 時々、彼女は奈々絵にイタズラをしかけられるけれど、その翌日には何回も謝ってきて、色々と助けてくれる。
 まるで、奈々絵という人物がよくわからずに付き合っているようで、彼女はどこか読めないところがあるとのこと。
「なるほど。彼女の態度がよくわからないのだな」
「うん。二階くんは奈々絵と一緒にいるから、なんかコツがあるんじゃないかなって」
「コツまではないけど……まあ、強いて言えば、機嫌の見方かな?」
「機嫌の見方?」
 仁美はどこか首をかしげる。
 二重人格であることを隠しながらも、俺はフラットに答える。
「まあ、まず、彼女の態度を見て、話をする。彼女がご機嫌斜めであれば、イタズラを仕掛けるから、そのときは怒っていい。彼女がご機嫌のときは、色々と人助けをするから、そのときは自ら接触してもいい……まあ、それが彼女という人物のコツかな?」
 俺はそう説明すると、仁美はどこか納得したように顔になる。
「なるほど。ご機嫌ななめのときにイタズラを仕掛けるのね」
「そのときは、まあ、彼女を叱らないでくれ、そのへんの犬に噛まれたと思えばいい」
「その言う文だと、奈々絵ちゃんは犬よりひどいと思うけど?」
 ……そうなるのか?
「とにかく、よく彼女を観察することが大事かな?」
「うん、わかった。奈々絵ちゃんのことをよくしれたよ。ありがとう、二階くん」
「いえいえ、どういたしまして」
 そういうと、仁美は自分の席に戻っていくのだった。
 さて、俺といえば、動画配信サイトに入り、アニメをスマホで流し、イヤホンをつけるのだった。
 今季のアニメが始まってから2、3話。
 丁度、アニメが盛り上がる展開になったような展開だ。
 なので、俺はそんなアニメを眺めるのだった。
「うん、エルフの旅は感動的だな」
 そう言いながら、俺はアニメを鑑賞するのだった。

◇   ◇   ◇

「というわけで、紹介したい人は、俺の幼馴染。神谷まなかだ」
「まなかよ。よろしくね、後輩」
 俺はうどんのトレイを机に置くと、まなかを奈々絵に紹介する。
 奈々絵はどこか難しい表情になるのだった。
 それはそうだ。昨日は少々手荒で、まなかに喧嘩を
「き、北沢奈々絵です。一年A組で、正広さんの隣に座っている人です」
「知っているわよ。この泥棒ネコ」
「ひい」
 と、奈々絵は顔を机の下に隠す。
 ……どうやら、昨日のことを思い出しているようだ。
 昨日の自分のしたこと、ドッペルゲンガー奈々絵の方の記憶はもっているようだった。
「大丈夫だよ、奈々絵。まなかはちょっと意地悪しただけだから」
「別に、そこまで意地悪したんじゃないわよ」
 ふん、と顔をそっぽを向くまなかだった。
 そこで、ひょっと、奈々絵は顔をほんの少しだけ、出すと、恐る恐ると尋ねてくる。
「き、昨日のわたしのことは怒っていないですか?」
「大丈夫。昨日の奈々絵と今日の奈々絵は別人だと、まなかもわかっているから」
「そ、それなら、よかったです」
 ふう、と大きく息を吐いてから、机から上がってくる奈々絵。
 そして、自ら自己紹介を始める。
「わたしは、北沢奈々絵と申します。1年A組の生徒です。よろしくお願いいたします」
「あたしは、神谷まなか。こいつの幼馴染。1年先輩ね。よろしくね」
 と、二人は仲良く(?)互いに自己紹介をする。
「まなか先輩って、陸上部のまなか先輩ですか? あの伝説に小さいのに足が速いと噂されている先輩ですか」
「そうよ。とはいっても、そんなに早くないわ。あたしもこれ以上はタイムを伸ばせないわ」
「それって、限界っていうこと?」
「まあ、そうね。限界ね」
 まなかは苦笑いを浮かべながら、俺の問に答える。
 どうやら、足の長さは速さと関係するのは本当らしい。
 まなかは小さい足を持っている。だから、これ以上タイムを伸ばすことはできないのは本当のことなのだろう。
「それより、昨日、公園でみたわ。あんた、歌、歌えるんだね」
「は、はい。でも、今練習中でして、そんなに歌が歌える人ではありません」
「そんけいしなくてもいいわ。あんたの歌、こいつの鼻声よりましだから」
「俺をディスるのやめない? まなか」
 俺はそういうと、うどんを吸う。
 うん、出汁の味が効いている。
 もちもちとした食感は本当に素晴らしいのだ。
 食堂でも、ばかにしてはいけない、家庭の美味しさを提供できる。
「それにしても、やっぱり、あんたって別人格なのね」
 まなかはそう言うと、カツ丼を食べ始める。
 その分厚いカツはどうも、美味しそうで、パリパリとしている食感が感じられる。
 まなかはは本日部活活動があるため、体力を蓄えているのだろう。
「は、はい。わたしにももうひとりのわたしがなにをするのか、想像にもつきません」
「それは本当?」
「え?」
 まなかがそう尋ねると、奈々絵は自分の箸を止める。
 奈々絵は俺と同じくうどんであるためか、まなかの問を聞くと、するっと、麺が箸から滑り落ちた。
「あんた、もう一人の人格を予想できるんじゃないの?」
「……」
 そして、空気は再び重くなる。
 その質問はどう考えても、一線を超えている。
 なので、俺はまなかに注意をする。
「まなか、もう一人の人格は聞かないほうがいいよ」
「そうね。あたしが悪かったわ」
 そういうと、まなかはご飯を口にいれるのだった。
 そして、話題を変えるように、まなかは口を開く。
「楽しい話でもしましょう。最近は、趣味とかある?」
「あ、はい。最近、魔法少女ドッペルゲンガーミオを見ました」
「ふーん。あれね、こいつがハマっていた作品」
「ハマていて、悪かったな」
 俺はスープを飲む。
 うん、鶏ガラの出汁が舌を柔めて、うまい。
 やっぱり、家庭の味が感じる。この食堂は神か?
「あたしも、見たわ。去年だけどね」
「そ、そうなんですか? わたし、すごく感動しました。とくに、二人が一つになるシーン」
「わかる。それは尊いシーンよね。敵だった二人が一つになって、大魔王を倒すのは、すごく心が踊るわね」
 うんうん。その気持はわかる。
 でも、俺が出しゃばれば、うるさいオタクみたいになるから、ここは黙って、彼女たちの話題に耳を傾けることにしよう。
「はい。どうして、このアニメが子供の間に人気なのか、わかる気がします。単に、悪を倒す物語ではなく、自分への和解を意味するですから、子供から大人への人気がすごいです。わたし、変身グッズを購入しました」
 奈々絵はえへへ、と言いながら、自分のポケットから変身グッズを取り出して、自慢をする。
 それは、仁美さんの弁当箱に仕掛けられた玩具なのだ。
 それを大切に身から離さずに持っているのは、さすがと言いようがない。
「じゃあ、奈々絵はどっちが好き? ミオの方? それとも、ドッペルゲンガーミオの方?」
「あたしは……」
 一泊、遅れるようにして、奈々絵は口を止める。
 そして、考えた仕草を浮かべてから、てへへと苦笑いを浮かべてから、こう答える。
「ドッペルゲンガーミオに憧れます」
 そんな以外な答えに感じた、俺達は、奈々絵を見つめる。
 はたまた、主人公ではなく、悪役を恋する乙女のようなものだった。
 それを確認するようにまなかは質問を投げる。
「どうして?」
「やっぱり、出来ない自分になれるなんて、憧れるじゃないですか。きっと、ミオもドッペルゲンガーミオに嫉妬しているんじゃないかと思います。じゃないと、最後は受け入れるなんてできませんから」
 奈々絵は苦笑いでそう答える。
 すると、まなかはふーん、といいようにする。
 それから、お互い無言になり、自分が注文した料理を食べる。
 ……あれ? なんだ、この会話は? 何でどうミスったのだろう?
 すこし場の空気が淀んてしまったので、俺は話題を作る。
「そうだ。まなか、今度は俺達三人でカラオケに行こうよ」
「カラオケ? なんでよ?」
「奈々絵の美声を聞きたいだろ?」
 俺はウインクして言うと、奈々絵はどこか恥ずかしそうにブンブンと顔を左右に振る。
「わ、わたしの声はそこまできれいではないですよ」
「あら? でも公園のときは人気だったわよ?」
「そ、それとこれとは違うのです」
 そういうと、俺達はははは、と笑い出す。
 善良な奈々絵の謙遜はドッペルゲンガー奈々絵とは大違いだ。
 ドッペルゲンガー奈々絵なら、傲慢な態度をとり、遠慮なく、歌い出すだろう。
 でも、奈々絵は奈々絵だ。
 この人格も奈々絵でもあるため、俺達はそれを受け入れるのが筋なんだ。
 ともあれ、昼休みの時間は有意義な時間を過ごせた。
 別れ際には、まなかと奈々絵は連絡先を交換し、仲を深めた。
 二人が仲良くなっていき、奈々絵に徐々友達ができていき、大きくなっていく姿は想像ができる。
 いつか、この学校のみんなと仲良くなって、奈々絵は奈々絵でいられるようになってほしいと俺はそう願ったのだ。

◇   ◇   ◇

 放課後になる。俺は一通のメッセージを受け取る。
 それは病院からだ。井上先生からの相談内容だった。
 本日、奈々絵の面談があるため、よかったら、俺の話も聞きたいから、病院に来ないかとのことだ。
 無論、俺は即答OKをした。
 なにせ、俺は暇人だ。
 定期的に病院にかよっているけど、とくに異常がないと言われるだけの繰り返し通院に嫌気が指した。
 でも、奈々絵のためなら、俺は何でもできると思えたのだ。
 なので、本日は家でゴロゴロするよりは、病院で井上先生と面談をすることになった。
 学校を出て、俺は知っている道並を歩く。
 数十分経過したところで、俺は病院に隣接している浜辺に目を向ける。
 最初、奈々絵とあった日。
 それは夜だった。奈々絵の人格がどちらでもなく、善でも悪でもない奈々絵に出会えた。
 彼女は自分を落としてしまって、探していると言っている。
 海の中に本当の彼女がいるのだろうか?
 そんなことを考えていると、潮風が吹いてくる。
 それは海の匂いを運んできているのが、鼻腔で感じたのだ。
 この病院に隣接している浜辺の景色がいいのだと、再度そう思った。
 それから、俺は病院の中に入り、精神科のところへと行く。
 目的地は井上先生の診断室だ。
 診断室の前に到着すると、俺はコンコンとドアを二回ノックする。
 すると、中から、どうぞ、という声がしたので、俺は中に入る。
「あら、決まった時間より早かったわね」
「まあ、学校から直接来たので、これくらい普通ですよ」
「学生なんだから、もっと遊んでもいいのよ?」
「まあ、友達が少ないので、遊ぶところがないです」
「ボッチなのは可哀想ね」
 と、井上先生は苦笑まじりにそう答える。
「さあ、座って、本日の面談を始めるわ」
 そういうと、井上先生は蝋燭に火をつける。
 アロマの匂いがふんわりと漂ってきて、鼻を刺激する。
 いい匂いだ。とくに嫌な感じがしない。
「さて、二階くん。北沢ちゃんの様子はどうかしら?」
 開口からかなりせめて質問が問われる。
 その質問を聞くと、俺はカリカリと頭を掻いてから、口を開く。
「別に進展があったのではない。奈々絵とは適切に距離を保ちながら接しています」
「具体的には?」
「善良な奈々絵にはご褒美したり、もうイタズラの奈々絵には少し付き合ったりとかしていますね」
 俺はこの最近の行動を率直に言う。
 嘘ではない。善良な奈々絵には、遊びやちょっとしたデートの約束をしたりとかをする。
 そして、イタズラ、ドッペルゲンガー奈々絵の方には彼女のわがままに付き合って、見守る。
「ふむふむ。それは興味深いね。キミは、善良な奈々絵にご褒美を与えて、生きる楽しさを提供しているのかな?」
「まあ、そうなるんじゃないですか。いい子にはご褒美があったほうがいいと思って」
「その考え、嫌いじゃないわ」
 カリカリとカルテに書き出す井上先生だった。
「悪いことではないわ。いい子ちゃんにご褒美を与えるのは、いい方向になると思う。でもね、差別はダメよ? 悪い子ちゃんの方にも同じく接触しないと、大問題よ?」
「大問題ですか?」
「そう、わたしなのに、どうしてわたしとして扱わないのか! ってね」
 冗談なのか、本気なのか、真剣に聞かないと判断できないものだった。
 でも、井上先生が言いたいことは大体わかる。
 要は、奈々絵に差別行動をしないことだ。
 そして、俺はある異変に気づき、井上先生に尋ねる。
「井上先生。イタズラの奈々絵はギターを弾くのですが、善良な奈々絵もそんなことはできなすか?」
「そうねえ、彼女の症状を見ると、できると思うわ。記憶が完全に分離されていないし、共通の記憶を持ち、人格だけが変わっているだけだから、普通に考えれば弾けると思うわ。でも、人格的にはそうやらない、方向性なんでしょう?」
「やらない方向性?」
「まあ、善良な北沢さんはシャインということよ」
 ……シャインか。
 そう思うと、納得ができる。
 善良な奈々絵はどこかど派手なことをしない。子供と戯れることをするなんて、イタズラの奈々絵がやることだ。
 やはり、人格が違うと同じ記憶をもっていても、行動は違うのだろうか。
 そんなときに、ふと、奈々絵とまなかのことを思い出す。
 イタズラな奈々絵はまなかをいじっていたけど、善良な奈々絵はまなかを怖がっていた。
 あとあとから、その行動が恥ずかしい行為だと知ったからだろうけど、やはり、人格が違っては、行動も変わってくるのだろう。
「さて、本題に入りましょう」
「本題ですか?」
「そう、重要なことでね」
 井上先生はメガネを取る。
 すると、どこか真剣な眼差しで俺を睨んでいた。
 彼女もある意味、二重人格なのだろう。
 でも、これはわかりやすいほど、オンオフがされている。
「北沢についてだけど……人格が崩壊したようなことはないか?」
 ドクン、と心臓が跳ね上がる。
 それは浜辺であったときの彼女。
 一人称がめちゃくちゃで、俺を呼ぶ名前も変わっていた。
 本当に怖く感じる人格であって、一体だれが話しているのか、わからなかった。
 どうも、気持ち悪い用な感じがしたのだ。
 でも、その夜で起きたことは、夢だと思った。
 なぜならば、奈々絵も浜辺のことを話さなかったし、俺もその夜のことを覚えていない。
 なので、俺は顔を左右に振る。
「奈々絵は……人格崩壊したことはありません」
 そう伝えると、井上先生はカルテにカリカリと書き出す。
 蝋燭の火が消える。
 部屋は消毒液の匂いになる。
 外は風が窓を叩いている。
 どうも、この雰囲気がどんよりと重くなってきたのだ。
 そんな空気が重くなったことい感じた井上先生は、再びメガネを取り出すとつける。
「じゃあ、一応様子見ね。気をつけてね、北沢の人格がめちゃくちゃになったら、それは危険なサインよ」
「危険っていうのは?」
「彼女が自分自身がわからなくなることよ」
 そう伝えると、俺の肌は逆立っている。
 ……奈々絵の人格が崩壊する。
 そんなことはありえるのか?
 俺は医者でもなく、専門家でもない。だから、こうなることは予想はしなかった。

◇   ◇   ◇

 その夜。俺は帰宅すると、自室のベッドでだらだらしている。
 鞄の中をちらっと見ると、そこには昨日、田中先生から借りてきた、本があった。
 確か、『Kの昇天』という短編小説だ。
 なぜ、この本が紹介されたのか、わからなかった。
 でも、この本を借りた以上は、読む義務があると思った。
「そういえば、前の本も返していなかったな」
 と、俺は机にあるジギル博士とハイド氏の小説を見つめる。
 返す期限が明日までなので、明日に返還しようと思った。
「さあて、本を読むか……」
 俺はベッドから立ち上がり、鞄を手に取る。
 本を取り出す。
 そして、パラパラとページをめくり、俺はKの昇天を読み出した。
 この作品もファンタスティックな物語だ。
 Kくんが昇天していく話。
 ものがたりはこうだ。
 療養のためN海岸を訪れていた「私」は、満月の夜にK君と出会い、1か月ほど親しく交流した後に先に療養地を去る。後にK君の知人から、K君が溺死したとの知らせを受け
「私」は彼の死が事故か自殺か思い悩む。
 K君は月夜に自分の影を見つめるうち、影が人格を持ち、自身の魂が月へ昇るような感覚を語っていた。満月の夜に海に入ったK君は、その幻想に導かれたように海へ歩み入り、帰らぬ人となった。
「私」は、K君の死は影に取り憑かれた末の無意識の行動だったと考え、魂は月に昇ったのだと手紙で語っている。
 それは溺死でもあり、魂だけが月に登っていく。
 もしかすると、奈々絵も昇天してしまうんじゃないかと思った。
 でも、俺は誓った。
 奈々絵を救い出すと。
「小説は不思議なものだ。いろんな不思議な物語が書いているなんて」
 俺はそう呟くと、本を閉じる。
 変な物語だ。
 でも、納得がいける作品でもある。
 Kは昇天したのだ。
 抜け殻のドッペルゲンガーを置いていき、魂が月の引力に吸い込まれていったのだ。
 そう考えると、ロマンがあるものだ。
「でも、田中先生はなぜ、この本を俺にくれたのか?」
 ……それは、ドッペルゲンガー奈々絵と関係しているのか。
 するとも、この件について足を引くように言うのだ。
 俺には全くわからない。
 それでも、俺は奈々絵を救い出す。
 彼女が落とした人格を取り戻すのだ。

◇   ◇   ◇

第六話 人格崩壊

 翌日の昼休み。
 俺は、片手に本をとり、図書館へと向かった。
 図書館に入ると、返却口の本に先週いた少女が本を整理していたのだ。
 なので、俺は声をかける。
「どうも」
「あ、こんにちわ」
「先週は、助かったよ。二重人格についてよりしれた」
「それはそれは、よかったですね」
 少女はハニカムように笑うと、俺の手にしている本を受け取る。
 そして、その本をじっと見つめるのだった。
 一体、この本になにか愛情でもあるのか、気になっていると、ふと、彼女は俺の顔を見つめる。
「ジギル博士の行動は間違えと思えですか?」
 その質問を聞いた俺は思考を巡らせる。
 ……ジギル博士の選択、それは薬物を手にしてしまって、ハイド氏になったこと。
 悪方面の姿に永遠になったことは、間違っているのか?
「俺は……仕方がないと思っている」
「といいますと?」
「人は誘惑に負けるものだ。どんなに精神が強くても、負けてしまう。だから、その誘惑には触れてはいけないものだと考えている。まあ、賭博を最初から触れないこととか、薬物に手を触れないこととか、そういうものだと思うよ。可愛そうなジギル博士ですよ」
 俺は馬鹿だから、何が正しいのかはよくわからない。
 でも、これは俺なりに出た答えだと思っている。
「そうですね。でも、わたしは少々考えが違います」
「それは?」
「それは、神への罰ではないでしょうか」
 それを聞いた俺は目をパチパチとする。
 この少女の言葉の意味を理解できていなかったのだから。
「す、すみません。わたし……少々暴走してました。悪い癖です。順に追って説明いたします」
 少女は深呼吸をしてから、思考を整理する。
 そして、順に追って、説明を開始する。
「そもそも、ジギル博士はどうしてハイド氏になれたか? それは薬で善と悪を完全に分けられたからです。その薬は未知なものであり、神の視点からは禁句なものであるため、罰に永遠にハイド氏なってしまったのだと思います」
 ……なるほど。薬物を作ったことに罰をもらったのか。
 神の視点では、善悪を完全に分けることは罰だという意見になる。
 それはあまりにも面白い意見でもあった。
 善悪は完全に分けることはできない、人はどうあっても、バランス的な状態にある。善があり、悪も存在する。完全に二分化することが禁句なのだ。
 そこで、俺の頭にちらりと奈々絵の姿が出てくる。
 善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵。彼女は人格を完全に二分化してしまった。
 ブレーキをかける奈々絵、善良な奈々絵。
 アクセルを踏む奈々絵、ドッペルゲンガー奈々絵。
 この二人格は奈々絵から生まれ、神から見たらご法度なものなのだろうか?
 もし、それが罰なのであれば、奈々絵にどんなものが下される?
 俺はそんな事を考えながらも、悪寒を感じたのだ。
「うん、参考になったよ」
 考えを一旦放棄した俺は少女にお礼を言う。
「はい。では、わたしは自分の仕事に戻りますので、またどのような小説を探していましたら、遠慮なく訪ねてください」
 少女はペコリと頭を下げると、そのまま受付の方へと小走りに行くのだった。
 図書委員も忙しいのだ。
 こんな昼休みでも、作業をするのだから。
「さあて……俺も昼食を食べないと」
 と、俺は図書室から出ていく。
 そして、購買の方に向かった。
 この時間……食堂は絶望的に席がないのだろう。今言っても、完売商品しかない。残っているのは、ワカメうどんなのだろう。
 と、いうわけで、俺は賑やかになっている購買の方に足を運ばせた。
 今日も、一日平和であって、いい日なんだ。
 と、思っているときに、食堂を素通りする。
 そこで、血相を変えたまなかが走り出してきた。
「正広!」
 俺を見つけると、まなかは俺を呼ぶのだった。
 一体、何が起きたのか、気になった俺はまなかを見る。
 確か、まなかは奈々絵と昼を過ごす約束をしていたような気がした。
 俺は図書館に用事があるため、二人で行かせたのだ。
 ……それが最大なミスだと、その時の俺は予想をしなかったのだ。
「どうした? まなか?」
「奈々絵が変なの!」
「変?」
 俺はその言葉に首を傾げる。
 まなかの説明は謎が多いため、俺は自分の目で確かめに行く。
「奈々絵はどこだ?」
「ついてきて!」
 まなかに連れられて、俺は食堂に入る。
 そこで、奈々絵が顔をうつむき、どこか床を見ているようになる。
 確かに様子がおかしい。善良な奈々絵でもドッペルゲンガー奈々絵でもない。
 どこか、様子がおかしかった。
「奈々絵?」
 俺は彼女の名前を呼ぶ。
 すると、奈々絵は顔を上げる。
「あたし、わたし……はだあれ? 正広さん、わたしは自分自身がわからなくなっています」
 それは、見たことがない奈々絵の表情。ぬっぺらぼうのように、力が抜けた表情。どの奈々絵にも該当しない奈々絵の姿だった。
「っつ!?」
 俺の毛は逆立つ。
 なので、まなかのほうに顔を向けて、尋ねる。
「まなか……今日の奈々絵はどんな奈々絵だった?」
「それが、イタズラ好きな方だと思う」
「何がおきた?」
「話をしていると、いきなり、奈々絵が顔を俯いて、それしか言わないの!?」
「っつ!?」
 まなかの状況説明は大体把握した。
 つまり、まなかは奈々絵と普通に話していると、奈々絵が唐突におかしくなった。
「先生を呼んで!」
「う、うん」
 俺がまなかに命令すると、まなかは走り出す。
 壊れかけた奈々絵を俺は呼ぶ。
「奈々絵! しっかりしろ。奈々絵」
「正広くん、さん。あたし……わたしは自分がわからないの」
「いいんだ。わからなくていい。今は考えるな! そうだ。魔法少女ドッペルゲンガーミオのことを考えろ。あのとき、一緒にアニメみただろ? その楽しさを思い出せ」
 必死に奈々絵に訴えかける。
 奈々絵は無気力な表情に、死んだような魚の目を浮かんでいた。
 ……これはもしや、あのとき、井上先生が言っていたこと、人格の崩壊なのだろうか?
 すると、奈々絵はぱたっと、気を失った。
 俺は奈々絵を担ぐ。
「先生! 呼んできたよ!」
 まなかは走って返ってくると、後ろに先生がやってきた。
 なので、俺は状況を説明する。
「先生、救急車です。病院に搬送してください」
「それは?」
「精神科の井上先生に見させてください。彼女を救うことができるのは、井上先生だけです!」
「わ、わかったわ」
 そして、奈々絵は病院に搬送される。
 俺は、午後の授業を受けずに、奈々絵の隣にいた。
 救急車の隣に、俺は意識を失った奈々絵を見つめる。
 こんな症状は初めてだ。
 奈々絵が自分のことを見失う人格が現れるなんて、それは神のご法度なのだろうか。
 善と悪を完全に切り分けるのは、タブーなのか。
 俺はそんなことを考えながらも、奈々絵の右手をぎゅうと握りしめた。

◇   ◇   ◇

「結論から言う。北沢なら無事だ」
 井上先生はメガネをとると、カルテを見つめる。
 でも、真剣な表情であるのはかわらないため、俺は少々焦る。
「それだけじゃないですよね?」
 そして、井上先生に状況を尋ねる。
 すると、井上先生は俺を睨むように見つめてから、カルテを机の上に置く。
「状況を話す前に……一体なにがあった?」 
「はい。実は……」
 俺は経験したことをすべて話した。
 奈々絵が自分のことをよくわからなくなる現象。
 自分は誰だ? と言い出す現象について。
「なるほどね。二階さんの言う文はよくわかったわ」
 井上先生はメガネを付けると、爽やかな声で答える。
 井上先生も二重人格ではないかと疑うような仕草だ。メガネをかけた彼女と外した彼女はまるで別人だ。
 声のトーンも少々違ってくる。
 それと、俺の名前を、さん付けをする。
 もしかすると、井上先生は奈々絵の症状を理解しているじゃないか。
「結論からいうと、北沢さんの症状はよくないわ。悪い方へ進んでいる」
「え……」
「人格が入り混じっているの」
 井上先生は宣言するとカルテを見直す。
「先生、それはどういう意味ですか?」
「言葉のままの意味よ。本来、人格とは記憶に関連して、一つしかない。でも、北沢さんは2つ目の人格を芽生えた。それも、元の人格があるところに。その人格の切り替えがわからなくなった北沢さんは人格が崩壊して、気絶した。こんな経緯なのでしょう」
「ちょ、ちょっとまってください。奈々絵の人格が同時に出たというのですか?」
「そうよ。それはありえないのよ。普通の人はね」
 カルテを机に置くと、井上先生はため息を大きく吐き出す。
「人は仮面を被って生きている。それがペルソナという意味なの。現場によって、仮面を変えていき、生きていく。でもね、北沢さんの症状はね、その仮面を同時にかぶろうとする現象なの。結果、どの人格にもならなくて、人格が崩壊した。それは心理学でもあり得ない現象ね」
「それって、奈々絵が無理にでも、人格を変えようとしたのでしょうか?」
「それはわからないわ」
 井上先生ははっきりと宣言する。
「でも、このままじゃあまずいわね」
「といいますと?」
「人格がどちらにもならないで、崩壊し続ける。よくても、一秒ごとに人格が変わっていく、変人になるのだろうね」
「っつ!?」
 その言葉を聞くと、俺は戦慄する。
 ……奈々絵の人格が崩壊する。
 それは、奈々絵はどの奈々絵にもならず、またわけのわからないような行動をとる。一秒ごとに善良な奈々絵、その一秒後にドッペルゲンガー奈々絵になる。
 想像するだけで、戦慄するものだ。
 奈々絵の本当の奈々絵はどの奈々絵になるのか。
「あの、対処法はありますか?」
「あるにはある。けれど、おすすめしない」
「それは?」
「奈々絵の記憶を消す。パソコンでいうと初期化をすることね」
 そう聞くと、俺はぐっと、拳を握りしめる。
 痛さが拳全体に広がっていく。
 でも、この痛さは奈々絵の苦痛と比べれば痛くはない。
 奈々絵の記憶を全部消す。そんなことはあんまりだ。
「まあ、そんな簡単にはいかないよ。今の技術で、人の記憶を消すことはできない」
 井上先生の言葉を放つと、足を組み直す。
「でも、彼女は壊れ続けていく。それは覚悟したほうがいい」
「……」
 俺はただただ、うつむくことしかできなかった。
 ……奈々絵の人格が崩壊していく。
 一秒ごとに奈々絵が奈々絵ではなくなる症状。
 それは、俺にしかすれば、恐怖しかなかった。

◇   ◇   ◇

 奈々絵が眠っているベッドの横で、俺は奈々絵の手を握りしめていた。
 彼女が起きて、人格が安定するのを見届けたいからだ。
 時刻は夕方の4時だ。学校はもうすでに放課後に突入している。
 でも、俺は帰ることを躊躇した。奈々絵が起きるまで、待っていたのだ。
「ん?」
 すると、奈々絵はどこか唸るように目を開く。
「大丈夫か? 奈々絵?」
 俺は奈々絵に声をかける。
 すると、奈々絵は目を開き、体の上半身を起こす。
「わたしは……」
「無理しないで、奈々絵。人格が崩壊しかけたのだから」
「なるほど。わたしの人格が崩壊しかけたのですね」
 奈々絵はどこか納得したように言葉を浮かべる。
 どうやら、そのときの状況を覚えていたようだった。
 でも、俺は彼女にそのことを思い出して欲しくない。なにせ、それは彼女にとっては辛いことだと思うから。
「あの、正広さん。あなたに話さないといけないことがあります」
「なんだ」
「わたしが、どうして二重人格になったのか」
「それは、聞いた。キミのイマジナリーフレンドが人格になったのだろ」
「はい。でも、それだけじゃありません。本当のきっかけは、あのアニメなんです。魔法少女ドッペルゲンガーミオなんです」
「え……?」
 俺は言葉を失う。
 あの、アニメがどうして奈々絵の人格とか変わっているのか?
 あれは、フィクションであり、現実的ではない。
 だから、奈々絵とは関係ないはずだ。
 そんな混乱していると、奈々絵は真相を話す。
「わたしが、イマジナリーフレンドが本当になったらいいのに、と思ったきっかけは魔法少女ドッペルゲンガーミオなんです。アニメの一話をみたとき、わたしは、こう願ったのです。自分に勇気があって、我慢しない人格が本当になればいいのにって。そして、わたしは二重人格になりました。もう一人のわたし。ドッペルゲンガー奈々絵は、わたしができないことを平然とできる、勇気をもったわたしがいたのです。だから、わたしは本当のわたしを失ってしまったのです」
「いや、奈々絵は奈々絵だ。どっちの奈々絵でも奈々絵は奈々絵なんだ」
 俺はそういうと、奈々絵は首を左右に振る。
「違います。わたしが、ドッペルゲンガー奈々絵の人格をもってから、わたしは我慢するようになりました。夜、出歩くのを我慢したり。甘いものを食べたいと我慢したり、悪いことをしたいと我慢したり。でも、その我慢が限界で、わたしはドッペルゲンガー奈々絵がわたしの代わりに発散してくれます」
「だから、なんだ。ドッペルゲンガー奈々絵は奈々絵が我慢したことを発散してくれた悪い人格というのか?」
「そこまではいいません。でも、わたしは我慢をする反動に、ドッペルゲンガー奈々絵が発散するような人格になります。なら、本当のわたしはどのわたしですか? 我慢するわたしですか? 発散してくれるドッペルゲンガー奈々絵の方ですか?」
「それは……」
 ……わからない。
 俺は、彼女の人格がどれが本当でどれが偽物なのか、わからない。
 でも、いい子の奈々絵も悪い子の奈々絵も本当の奈々絵だ。
 この2つの人格に何が本当で何が偽物なんて、決めることはできない。
「わたし……こう思いました。わたしがいなくなって、ドッペルゲンガー奈々絵がいたほうが幸せなんじゃないかって」
 奈々絵は歯を食いしばってこう答える。
 奈々絵は苦しそうだった。それは、本当の自分を落としてしまったせいだ。
 そして、善良な奈々絵は自分の存在が邪魔になっていると思っている。
 そんなことはない、と俺ははっきりとは言えないのだ。
 だって、どの奈々絵も魅力的な少女だからだ。
 だから、俺はこう言い出す。
「なあ、奈々絵」
「はい。なんでしょうか?」
「デートの約束は覚えているよね?」
「はい。今週の土曜日ですね」
「その日はいっぱい楽しもう。それで、俺は人生の素晴らしさを教えてやるよ」
 俺がそういうと、奈々絵は目をパチパチとさせる。
「それって……どういう意味ですか?」
「言葉のまんまの意味だ。人生は楽しいことを教えて上げる。だから、奈々絵は我慢する必要はないだ。いい子の奈々絵は我慢する必要なんてないだよ」
 俺は奈々絵にそう訴えかける。
 そうだ。奈々絵は我慢する必要はない。
 いい子が我慢するから、悪い子が出る。
 なら、いい子が我慢をする必要性はないのだ。
 そうすれば、悪い子である、ドッペルゲンガー奈々絵が表にでることはない。
 きっと、そうなるはずだ。
 奈々絵が奈々絵になれる方法はこれしかないのだ。
「だから、土曜日は楽しもうね」
「はい!」
 奈々絵は満面な笑みを浮かべる。
 その笑顔は奈々絵の純粋な心からやってきたのだと、俺はわかった。
 だから、俺は奈々絵が自分を取り戻すために、最後まで協力するつもりだった。

◇  ◇   ◇

第七話  遊園地デート

 土曜日になる。
 俺はとある場所にやってきた。
 そこは近所から遠くて、東京都内の場所である。
 大きな噴水を目印に俺は相手を待っていた。
 現在午前9時45分。約束時間より、15分前だ。
 噴水がシャーシャーと水を飛ばす前に俺はまっていた。
 相手はもちろん、奈々絵だ。
 今日の奈々絵はどんな奈々絵に来るのかは、わからない。
 できれば、いい子の方。善良な奈々絵が来ることを期待していた。
「正広さん!」
 と、俺が待っていると、駅の方から俺を呼ぶ声がする。
 声もとに視線を向けると、奈々絵が小走りに走ってきた。
 今日の格好は淡い、白いワンピースに麦わら帽子。それは女子としては、かわいい格好ではあったのだ。
 いつもより、女の子らしい格好ではあった。
「待ちました?」
 奈々絵は訪ねてくると、俺は顔を左右に振る。
「いや、今ついたばかりだ」
「よかったです。遅刻したらどうしようと思いました。正広さんに迷惑かからなくてよかったです」
「奈々絵。今日はそんな堅苦しいのはなしだ。一緒に楽しもう」
 俺は奈々絵にそういうと、奈々絵は顔を引き締める。
「そうですね。ごめんなさい」
「謝罪はしないの、さあ、チケットを買いに行こう」
 そういうと、俺は彼女に手を差し伸べる。
 奈々絵は一瞬だけ躊躇するけれど、右手を前に出すと、俺はその手を掴む。
 そして、チケット売り場に駆け込むのだった。
「はい。行くよ」
「わわ、ちょっと待ってください。正広さん!」
「だめだ。まずはジェットコースターに乗らなければいけない。最初に乗らないと、5時間まちになるから、初手でいきたい」
「正広さん。案外子供ですね」
「いいじゃないか。子供で」
 そんな冗談を言い合いながらも、俺達はチケット売り場にやってくる。
 チケットの学割で二枚を購入する。
 本日のデートは俺がエスコートする形になるから、俺が先に金を払ったのだ。
「え、チケット代はいいのですか?」
「俺からの誘いだから、いいよ。次回は割り勘にしよう」
「わ、わかりました」
 と、言うわけで、俺達はチケット二枚をゲット。
 そして、そのチケットで入場する。
 最初に俺達を出迎えたのは、遊園地のマスコットだ。
 マスコットは観客達に手を振っている。
 そんな可愛らしいマスコットに俺達は手を振り返す。
「かわいいですね。マスコットちゃん」
「そうだな。かわいもんだな」
 そういうと、俺達は足を進ませて、アトラクションエリアにやってくる。
 最初のアトラクションは、宣言したジェットコースターだ。
 幸い、開園したばかりで、並ぶ人も多くはない。
 なので、俺達は初手で乗れることになった。
 二人仲良く、手をつなぎながら、ジェットコースターの車両に乗り込む。
「あの~手を離さだいでくださいね」
「怖い?」
「はい。わたし、こういうのはちょっと苦手で」
「なら、今日は好きになれるよ」
 俺はウインクしながら答える。
 やがて、列車は動き出す。
 まずはゆっくりとした速度で上昇していく、80度の斜度をゆっくりと登っていくのだった。
 それはまるで、恐怖を呼ぶ序盤のようで、一歩手前の落下を予知するものだった。
 それにしても、景色がいいところだ。なにせ、この遊園地は東京都内にあるものであり、東京の高層ビルがよく見られるのだった。
 そんな高層ビルを堪能してくれないように、列車は落下していく。
 時速130キロ、車のアクセルより早くも、列車は落下する。
「わああああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
 そして、俺達は悲鳴を上げるように全力で叫んだ。
 落下すると、急転回になり、ぐるぐると列車がスピンしだす。
 それも、ブレーキを踏むことなく、早い速度でスピンする。
 急転回が終わると思えば、今度はまた上昇し、ぐるっと、一周するのだった。
 頭の血が足に流れてくるような感覚に、しびれを感じて、俺は悲鳴を上げることしかできなかった。目が回るかと思った。
 ぐるっと、一周すると、列車はまたも急上昇、急落下を繰り返す。
 それは胃袋のものが口から戻ってきそうな感覚だったのだ。
「こわーい!」
「最高!」
 と、俺達の感覚はバクッたように叫び出す。
 それから、最後の上昇し、急落下をする。
 速度は140キロもあり、さっきよりは早くなっている気がした。
 俺たちは悲鳴を上げることしかできなかった。
 しかし、俺達の手は繋いだままだ。
 離すことをせずに、ぎゅうと、強く握りしめたままだった。
 そんな悲鳴を上げていると、列車は減速し、最初の位置に戻ってきたのだった。
 これで、要約一周ができたということだ。
「はい。皆様! お疲れ様です」
 従業員の声で俺は意識を取り戻す。
 ……最高な感覚だったのだ。
 俺は安全ベルトを取ると、奈々絵の方を見る。
「奈々絵? 大丈夫?」
 奈々絵は一瞬固まった。
 これはまずかったかな、と俺は少し後悔をする。
 初手のデートコースで精神崩壊させるのは、悪手だと思った。
「す……」
「す?」
「すごいです! この乗り物!」
 奈々絵はピカピカと光った目つきで俺を見つめる。
「こんな乗り物は初めてです。すごく楽しかったです!」 
 と、恍惚の感覚に浸ったあとは、感情をあらわに申す奈々絵だった。
「ああ。よかったな。でも、この乗り物からでよう。あとに並んでいる客の邪魔になる」
「あ、そうですね」
 俺の忠告を理解したのか、奈々絵は安全ベルトを取る。
 そして、俺達はそのジェットコースターから降りるのだった。
 出口に降りていくと、俺は地図を広げる。次に乗るアトラクションを探したのだ。
「さあて、次はなにがいいかな?」
「刺激が高いものがいいです!」
 奈々絵はピカピカと目から光を放ち、俺を見る。
 そう見ると、俺は笑い出す。
 まさか、遊園地の初心者がジェットコースターに魅了されて、もっと刺激が高い乗り物を所望するとは。
「じゃあ、次はゆっくりもできるコーヒーカップにしよう」
「コーヒーカップですか?」
「ああ、ゆっくりできるし、刺激にもできる。遊び方が様々なアトラクションだ」
「そんな素晴らしい乗り物があるのですか! 乗りたいです」
「よし、じゃあ次はコーヒーカップに決まりだ」
 こうして、俺達の次の乗り物が決まる。
 コーヒーカップだ。アトラクションの列に並び、順番に呼ばれるのを待つ。
 でも、5分もしないうちに俺達は呼ばれる。
 二人は仲良く、コーヒーカップに乗り出したのだ。
「では、動きます!」
 従業員が合図をすると、コーヒーカップはゆったりと、動き出す。
 円を書くように中心を回るのだった。
「あの~正広さん」
「どうした?」
「これ。どうやって遊ぶのですか?」
 奈々絵は真ん中にあるハンドルを見つめると、遊び方を尋ねる。
 こうもぐるぐると中心にゆっくり回っているのが、退屈に感じたのか、周囲を見回す。
 とあるカップルが、ハンドルを名一杯回しているため、コーヒーカップも回りだすのだった。
「ああいうようにこのコーヒーカップを回転させてほしかったら、このハンドルを回すんだ」
「こうですか?」
 奈々絵はそういうと、名一杯ハンドルは回す。
 すると、コーヒーカップは周り始めた。
「ちょ、ちょっと奈々絵! 回しすぎ!」
「あはは。楽しい~」
 コーヒーカップは踊りだすように回る。
 俺の目の焦点はぐるぐると回った。
 やがて、時間になると、コーヒーカップは止まったのだ。
「終わりましたね」
「ああ、終わったな」
 というわけで、俺達二人はコーヒーカップから降りるのだった。
 降りると、俺は地図を広げて、次のアトラクションを相談する。
「次、どういうものが乗りたい?」
「えっと」
 奈々絵は指を口に咥えて考える仕草を浮かべる。
 それはどれもが楽しすぎて、悩みに悩むものだった。
 その気持ちはよく分かる。俺も最初のときはどれもが楽しすぎて、悩みに悩んだのだから。
 なので、こんな多いアトラクションにどれから先に乗るのは悩みに悩むはずだ。
 俺は奈々絵の答えを待つ。
 彼女が提示する乗り物は、以外なものだった。
「次は……ゆっくりのものにしましょう」
「ゆっくりね」
 地図で指を指し、俺はとあるアトラクションに目をつける。
「メリーゴーランドはどう?」
「いいですね!」
 奈々絵は満面な笑みで答える。
 その笑顔は心の底から楽しく感じられるものだった。
 なので、俺達の次のアトラクションが決まる。 
 それが、メリーゴーランドだった。
 しかし、俺はメリーゴーランドには乗らず、奈々絵一人でメリーゴーランドに乗らせた。
「あれ? 正広さんは乗らないのですか?」
「ああ。役割があって、乗れない」
「役割ですか?」
「まあ、お楽しみだね」
 俺はそう答えると、メリーゴーランドの近くに立つ。
 奈々絵は少し困惑したけど、大人しくユニコーンの上に乗る。
 やがて、アトラクションは動き出す。
 ゆっくりと、ユニコーンは上下しながら、回っていく。
 俺はスマホを構えて、動画撮影にする。
「はい。奈々絵、笑って~」
 奈々絵は俺が動画を撮っているのを知ると、どこか顔を赤くする。
「わたし、子供みたいじゃないですか!」
「俺達は二十歳じゃないから、子供だよ」
「そ、それは詭弁です!」
 ……少々怒られてしまった。
 なので、俺は動画撮影をやめて、普通の写真を撮る。
 何枚か、奈々絵の笑顔を写真に収めるのだった。
 やがて、メリーゴーランドは止まり、奈々絵はぱたぱたとユニコーンから降りてくる。
「どうだった?」
「はい。楽しかったです。案外、楽しい乗り物ですね」
「そうだろ? メリーゴーランドはゆっくりできるからね」
 俺達は笑いあってから、次のアトラクションを決める。
 俺は再び地図を広げると、奈々絵に尋ねる。
「次はなにがいい?」
「次は……」
 奈々絵はまた悩み出す。
 こんな多くのアトラクションがあるなかから、一つ選ぶのは、子供が飴の瓶の中から一つだけ飴を選ぶような悩みだ。
 微笑ましい悩みでもある。
 そんなときに、悲鳴が聞こえてくる。
 声元を向くと、船の乗り物が急上昇していくのが見えたのだ。
 ビックなスイングをして、観客を恐怖のドン底に落としていく、絶叫系なアトラクションだ。
「あれ! あれ! に乗りましょう! 正広さん」
 奈々絵は船の乗り物に指を指すと楽しそうに呼ぶ。
「オーケー。バイキングね」
「そういう名前なんですね」
「ああ、船になっているから、バイキングだ」
「勉強になります」
 と、いうわけで、俺達はバイキングの列に並ぶ。
 そして、自分たちの番になるのを待つのだった。
 5分もしないうちに、俺達の順番になる。
 俺達は船に乗る。そして、一番奥の場所。いわば、端列の席にする。
 そうすれば、一番高く飛べて、一番奥までスイングできるからだ。特等席でもあったのだ。追加料金を500円払うことで乗れる場所でもあったのだ。
 そんな特等席に乗り、安心ベルトを身につけると、船はスイングしだした。
 最初はゆっくりと、そんなに上昇しなかった。
「もっと!」
 と、俺はそう叫ぶと従業員に声が届いたのか、急にスイングが激しくなる。
 船は急にスイングし出す、床から90度までスイングしだす。
「きゃあああああ!」
「うわあああああ!」
 俺達はジェットコースターみたいに悲鳴を上げる。
 でも、悲鳴を上げたからって、船のスイングが止まることはない。
 船は強くスイングすると、胃袋のものが口から飛び出そうとなる。
 でも、そんなスリルを体験しながらも、俺は楽しく感じたのだ。
 こんなにも絶叫系なアトラクションが楽しく感じられるのは、この遊園地の魅力の一つにもある。
 高層ビルが見える。
 東京都内にある遊園地だから、こうも、高く見えてくるのだった。
「わあああああああ!」
「きゃああああああ!」
 急落下にスイングすると、頭に登っている血が今度は足に向けて流れていくのが感じられる。
 強い風に当てられながらも、悲鳴をあげられるのは止められない。
 やがて、船は減速し、スピードを落ちて、止まった。
 安心ベルトを取り出して、俺達は船から降りる。
「楽しかったねえ」
「はい。すごく楽しかったです。胃袋のものが吐き出しそうです!」
「そうだ、次はちょっと休憩しよう。食堂に行こう」
「はい!」
 そういうわけで、一旦休憩。
 スリルがある乗り物に乗ったあとは、ゆっくりとしたい。
 俺達は手を繋いで、フードコートに向かって歩いた。
 昼前であるため、まだ客は多くなかった。
 なので、俺達はゆっくりとくつろぐことができるのだ。
 席を案内されると、献立表を開く。
 そこには、期間限定のチキンレッグと、ハヤシライスというものがあった。
「奈々絵はどうする?」
「わたしは……ハヤシライスにします」
「そうか。じゃあ、俺は期間限定なチキンレッグにしよう」
 というわけで、俺達は店員に注文をする。
 そして、俺達は談話をする。
「このあと……どんな乗り物に乗りたい?」
「えっと、ご飯もありますし、ゆっくりと見れるものがいいですね」
「トロッコ列車と噴水が妥当かな?」
「最後は観覧車に乗りたいです!」
「オーケー、観覧車は最後にな。夕焼けが見れてきれいなははず」
「あ、お化け屋敷にも行きたいです」
「え? 奈々絵はおばけ大丈夫なの?」
 俺はそう尋ねると、奈々絵がどこか照れたように、苦笑する。
「えっと、苦手です」
「じゃあ、なんで、お化け屋敷なの?」
「それは……耐性はつけたくて」
「おばけの体制?」
「はい」
 奈々絵は恥ずかしそうにそう答えると、俺は笑い出す。
「え~そんなおかしいですか?」
「おかしいよ。無理してお化けに会うことはないと思うよ?」
「でも、実際に会ったらどう対応すればいいのか、わかりません」
「いや、お化けはいないから」
 そんな冗談を言い合っていると、料理が運ばれてくる。
 俺の前には大きなチキンレッグ。
 奈々絵の前にはハヤシライス。
 というわけで、俺達は手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
 声を揃わせるようにしてから、俺達は自分が注文した料理に手を付ける。
 チキンレッグを一切れ、口の中にいれる。
「っつ!?」
 柔らかい食感と、甘みが口全体に広がっていく。
 それは肉のジューシーな脂身と、鳥独特の甘みが舌を緩和していく。
 あまりにも美味しさに、俺は感激する。
「このチキンレッグすごく美味しい!」
「わたしのハヤシライスも美味しいです。肉の味がします」
 奈々絵は満足したような表情を浮かべて、頬をさすった。
 どうやら、ハヤシライスがそんなにも美味しかったのだろう。
 これがほっぺから落ちてくるということわざのことなのだろう。
「これ食べたら、また乗り物を再開しようね。奈々絵」
「はい!」
 こうして、俺達は食事を堪能してから、乗り物を再開した。
 一応、胃袋に優しい乗り物にしたため、胃袋のものが出すことはなかったのだ。
 充実した乗り物に、俺達は笑い合った。
 奈々絵は満面な笑みを浮かべ、心の底から楽しんでいたのだ。
 この奈々絵の微笑みが永遠に続くことを心の奥から願っていた。

◇   ◇   ◇

 俺達は乗り物を一周したところで、とある乗り物の列に並んでいた。
 それが最後に乗る予定の乗り物でもあり。
 俺達はこの乗り物を最後に楽しみたいと最初から話し合っていたのだ。
 その乗り物は、この世でもきれいな景色が見れる乗り物でもある。
 それが観覧車だ。
 順番がやってくると、俺達は観覧車のワゴンに乗り、トンブラコーと揺れていくのだった。
「わあ! 東京の高層ビルがよく見える!」
 上昇するたびに奈々絵は大はしゃぎをする。
 それはまるで、子供が新しい玩具を見つけたような目つきでもあった。
 キラキラで、純粋で、まっすぐな感想だ。
 そんな彼女が永遠に純粋無垢であることを俺は祈ったのだ。
「奈々絵。この乗り物が終わったら、何かしたいことはあるか?」
 ふと、俺はこのあとの予定を訪ねてみる。
 すると、奈々絵はどこかちょっと難しい表情を浮かべてからこう放つ。
「わたし、あの浜辺に行きたいです」
「浜辺?」
「はい。正広さんと出会った浜辺です」
 俺は奈々絵と出会った浜辺を思い出す。
 それは、奈々絵と初めてあった場所で、奈々絵が自分を落としてしまった場所だと言ったところだった。
 一体、そこで、なにをするのだろうか。
 気になった俺は、尋ねる。
「奈々絵。その浜辺に何をするの?」
「自分を取り戻すのです」
「自分を?」
 俺はそう尋ねると、奈々絵は「はい」と答えてから続けてこう放つ。
「わたしは、イマジナリーフレンドの奈々絵を作りました。そして、魔法少女ドッペルゲンガーミオを見て、月のひかりでわたしのイマジナリーフレンドが本当に出てこないか、願った結果、わたしは、二重人格になったのです。そして、わたしが初めて二重人格になった場所が、あの浜辺なんです」
「あの浜辺で……?」
「はい。海に写っている自分に話しかけて、わたしはドッペルゲンガー奈々絵に変身できたのです。だから、今日、彼女と決着をつけようと思います」
 俺は今夜の月の出を思い出す。
 確か、満月だった。
 だから、月のひかりが完全に受けられるのだろう。
「奈々絵」
「はい。なんでしょうか?」
「終わったら、浜辺に行こう」
「はい」
「でも、その前には、この遊園地を最後まで楽しもう。何か乗りたいもの、みたいものは他にある?」
「ジェットコースター、コーヒーカップ、お化け屋敷、メリーゴーランド、ウオータースプラッシュも乗りました。すごく楽しかったです」
「うん。そうだね」
「わたしは、今日のデートはもう満足です。だから、決着をつけなければいけないのです」
「そうか」
 俺はそれだけしか話せなかった。
 奈々絵が言う、決着とはどういうことか?
 俺には理解できなかった。
 でも、俺は奈々絵を信じる。
 彼女たちが和解をできることを祈っている。
 そう思いながらも、俺は奈々絵の横顔を見る。
「あ、正広さん。見てください。あれ、東京スカイツリーです」
「おお、高いね」
「次のデートは東京スカイツリーにしましょう」
「そうだね。展望台で、東京を制覇しよう」
「東京を制覇って、笑いますね!」
「いいだろう? 男のロマンなんだから」
 そう話し合いながらも、俺達は笑いあった。
 馬鹿なことをしようとして、馬鹿みたいに笑いあった。
 でも、これでいい。
 善良な奈々絵と、ドッペルゲンガー奈々絵が和解をすることを思った。
 彼女たちが、幸せになるように願ったのだ。

◇   ◇   ◇

 そして、観覧車は下まで、降りると、俺達は観覧車を出た。
 とある行にならび、パレードを眺める。
 ピエロやきれいなお姉さんたちがショーを開始する。
 火を拭くピエロ。
 ジャクリンを始めるお姉さん。
 ボールの上を滑る小人。
 どれもこれも、楽しそうに観客を楽しませていたのだ。
 俺達はパレードを眺めながら、笑いあった。
『ただいま、閉園まで30分前です』
 どうやら、閉園間際まで俺達はこの遊園地を楽しんでいた。
 これは帰りが大変になるな。
「さあ、奈々絵。浜辺に行こうか」
「はい。それが最後です」
 その最後という言葉に気付けない俺は、本日の最後だと思った。
 なので、そのことを予想をすることなく、俺達は遊園地を退場した。
 近くの駅の電車に乗る。
 奈々絵は疲れ切ったのか、居眠りをする。
 座っている椅子に、奈々絵が頭を俺の方に寄せる。
 俺はそんな眠っている奈々絵の横顔を見つめる。
 フィーフィーと、かわいい寝息を放つ。
 そんな横顔を見て、俺はほっとする。
 本日のデートは奈々絵が安心してできるような生活を送るようにしたい。
 ゆらりと、電車に揺られて、俺達は乗り換えの駅に到着する。
「奈々絵。乗り換えだよ」
「ふえ?」
 寝ぼけているような言う奈々絵。
 俺は彼女を支えながらも、奈々絵を立たせる。
「さあ、乗り換えしよう」
「はあい」
 ぽかぽかと寝ぼけているように目をさする奈々絵を支えて、列車を出る。
 ホームを乗り換えると、最寄り駅にたどり着く列車に乗る。
 運良く座れると、俺は奈々絵に寝かせる。
 頭をコンと、俺の肩に乗せてから、フィーフィーと寝息を浮かべるのだった。
 本日のデートの残り最後の行動。
 浜辺でのデートだ。
 奈々絵は自分との和解ができるか、気になった。
 でも、彼女の言う分だと、和解できると思う。
 俺は、彼女の選択を最後まで見るつもりだった。
 彼女が安らかに生きていき、自分の新たな道を見つけるようにしたいのだ。

◇   ◇   ◇

第八話 キミの昇天

「わあ、きれいな浜辺」
「そうだな」
 そして、俺達はこの海辺にやってくる。
 ここは病院が隣接している浜辺でもあり、奈々絵と初めて出会った場所でもある。
 彼女が海で何かをしているか、当時はわからなかった。
 自分自身を落としてしまった、と言っていただけだ。
「海に入りませんか? 正広さん」
「海に?」
「はい。今は丁度気持ちいいと思います」
 そういうと、奈々絵は靴を脱ぐと、裸足になり、海の漣に足を踏み入れる。
 ざざあ、と海の波が奈々絵の足をあたる。
「冷たくて気持ちいい」
 奈々絵はどこか楽しそうに、足をぱちゃぱちゃと踏み入れる。
 波の上に踊るようにして、奈々絵はぱちゃぱちゃと踊りだす。
 俺はその様子を見ながらも、奈々絵の様子を見ながらも、安堵する。
 それは、子供の無邪気なように彼女は海を楽しむ。
 俺と言うと、そんな彼女を見ながらも、少し笑い出す。
 それは、彼女があまりにも子供っぽくて、楽しそうだったからだ。
「奈々絵は案外子供だな」
「む。正広さんは意地悪ですね。海がこんなに優しいのに」
「海が優しい?」
「はい。こんなにわたしの足元に優しく波を打っているのは、わたしに優しくしているからです」
「なんだそれ?」
「なんでしょうね?」
 ……なぜ、疑問形なの? 奈々絵。
 奈々絵は踊りだすように、海を踏む。
 俺は子供っぽい奈々絵を眺めながらも、微笑むことしかできない。
 彼女は海辺で楽しそうになっていて、無邪気にしていた。
 なので、俺は秘密兵器を鞄から取り出す。
「奈々絵。花火をやろう」
「え?」
 線香花火を俺は手にすると、奈々絵は目を丸くする。
 ライターで花火につけると、ふわっと、火が灯る。
 そして、七色を放つように線香花火は踊りだす。
「奈々絵。ほら、手にしてみて」
「うん」
 奈々絵は線香花火を手に取ると、楽しそうに海の上に踊りだす。
 そんな無邪気な少女が一人、海の上に踊っていた。
 花火を上下に振りながらも、楽しそうに笑いながらも、浜辺の上を踏む。
「あははは! 楽しいですね。花火」
「ああ、楽しいな」
 俺が返事をすると、奈々絵は海の上を走り出す。
 本当に元気な女の子だ。
 奈々絵が自分を取り戻すために、俺は彼女のとなりに立つと決めた。
 だから、善良な奈々絵がこうも永遠に幸せになるようになることが、俺の願いだった。
 やがて、線香花火の火が消えた。
 時間とともに俺達ははしゃぎすぎたのだ。
 遊ぶ玩具が終わってしまった。
 けれど、俺達はまだ海から出ることはない。
「えい!」
「うわ!」
 と、奈々絵は俺に水をかける。
 驚いた俺は、海の上に転倒。びしょ濡れになった。
「やったな!」
 俺は仕返しをするように、水を奈々絵にかける。
 奈々絵は笑いながらも、海の水を避ける。
 そんな馬鹿みたいに、俺達は海の上で遊んだのだ。
 奈々絵は笑うように、俺も笑うように、彼女に水を掛ける。
 今宵は満月。なので、必然的に漫湖になっている。
 月が俺達に微笑むように、まんまるでいた。
 もしも、月の上にうさぎがいるなら、餅つきをしながらも、俺達が馬鹿をしているのを眺めているのだろう。
 でも、俺は一つ大事なことを忘れていた。
 それは、月は無慈悲な女王様であることだ。
 奈々絵が二重人格になったのは、月に祈って、人格が2つに別れたのだ。
 善良な奈々絵とドッペルゲンガー奈々絵。
 この2つが別れたのは、奈々絵が月に祈ったからだ。
 ふと、俺の背筋は凍った。
 陸のほうに振り向く。
 誰かが、俺達を見ているようだった。
 でも、視線の先は誰もいなかった。
 ……気のせいだ。
 俺はふうと、安心すると、奈々絵と遊ぶ続きをしようとする。
「奈々絵?」
 でも、奈々絵はそこにはいなかった。
 俺は慌てて海の方を見渡す。
 奈々絵がいない。
 奈々絵はどこにもいないのだ!
 焦った俺は、海の中に入り、奈々絵を探す。
「奈々絵!」
 彼女の名前を叫ぶ。
 けれども、誰も答えることはない。
 焦って、俺は浜辺の向こうを見る。
 海の波が高く、ざざあ、と波を打っていた。
 月は無慈悲な女王であり、俺の焦っているようすを見守るだけしかない。
 俺は慌てて、海のもっと向こうを見つめる。
 そこには、一つの影が、海の奥に向かって歩いているのが、わかる。
 ……奈々絵だ。
 奈々絵は機械仕掛けのように歩いていた。
「奈々絵!」
 俺は奈々絵の名前を呼ぶ。
 けれども、奈々絵は前へと歩く。
 俺の声が聞こえないのか、あるいは、魂が抜かれてしまったのか、彼女は海の向こうを向かって歩いていく。
 このままでは、奈々絵は海の底に連れて行かれてしまう。 
「奈々絵!」
 俺は彼女を呼ぶと、海の向こうに歩いていく。
 でも、波が強くて、俺を浜辺に押し返そうとする。
 だめだ。歩いていては、彼女に追いつくことは出来ない。
 俺は泳ぎ始めた。
 中学校までは、水泳部の選手だった俺は、泳ぎに自信がある。
 だから、奈々絵が沈む前には彼女にたどり着くのだろう。
 でも、一年間のブランクは大きかった。
 筋肉は衰えていた。
 スピードが思った以上に出せない。
 それも、この波の強さもあり、俺を浜辺に押し戻そうとする。
「奈々絵! だめだ! 戻ってきて!」
 俺は海の水を飲みながらも、彼女のほうに叫ぶ。
 波が強い。
 でも、俺は諦めない。
 奈々絵は危険領域に入る。
 このままだと、奈々絵は溺死してしまう。
 俺はKの昇天を思い出す。
 Kくんは海で溺死をして、月に昇天していく物語。
 それは、奈々絵がなろうとしていることだ。
 鳥肌が全身立つ。
 奈々絵が死ぬのを避けなければいけない。
 俺は足に力を入れて、海を蹴る。
「いけえええええ!」
 そして、全力で泳ぐ。
 奈々絵のところにたどり着く。
 やっと、奈々絵に追いついた。
 奈々絵は機械仕掛けのような、死んだような表情になっていた。
「奈々絵!」
 俺は奈々絵と呼ぶ。
 でも、反応がない。
 一体、奈々絵はどうしたのか?
 そして、奈々絵は海岸を踏み落ちたように、沈む。
 俺は慌てて、奈々絵脳の手を掴み。
 浜辺の方に戻るために泳ぐ。戻るのは意外にも簡単だった。
 波の力もあって、俺達は無事に浜辺に到着する。
 浜辺につくと、俺は奈々絵を浜辺の上に寝かせて、彼女の顔を叩く。
「奈々絵! 起きて、奈々絵!」
 彼女の名前を呼ぶ。
 外傷はないけれど、海が肺に入ったのか、俺は彼女が息をしているのか、確認する。
 幸い、彼女は息をしていた。
 なので、俺は彼女を呼ぶ。
「奈々絵!」
「ん?」
 そして、彼女は目を開くのだった。
 一体、何がおきたのか、まだわかっていない様子でもある。
「正広さん?」
「よかった。奈々絵が海の向こうに歩いていくから……」
「それはわたしの意思です」
「え?」
 奈々絵の意外な言葉に、俺は耳を疑う。
 濡れている彼女は、どこか、真剣に月を見つめる。
「わたしは、月に行こうと思いました。満月の今日ならいけると思って、海の向こうには月と繋がっていると思って。体を海の底において、魂だけ月に行こうと思いました」
 そこで、俺はわかる。
 彼女は昇天しようとしたのだった。
 Kの溺死を思い出す。
 身体を海の底に残して、魂だけを月の引力に引っ張られていく。
 それは、身体がおもすぎて、魂だけが月にたどり着くことだった。
 でも……
「月の世界は存在しないだ。奈々絵」
 ……月の世界は存在しない。
「奈々絵が魂だけ、月に行くことはないだ。死は死なんだよ! 奈々絵」
 俺は彼女にそう訴える。
「俺は死にかけた。だから、わかるんだ。月の世界なんて、存在しない。月はただの物体なんだ。あの世界に魔王もいないし、誰もいない。うさぎもいなければ、誰もいないだよ」
 俺は自分の思いを口にする。
 そして、奈々絵をしっかりと掴む。
「月の世界は存在しない。ここが君の場所なんだ! 生きるのは生きることで、素晴らしいことがある。生きることは演劇の舞台に立つことと同じだ。舞台でどのようなことをするのかが重要だ。だから、死なないでくれ! 奈々絵」
 俺は大きく訴える。
 すると、奈々絵は大きく目を開く。
 彼女は息を止めるように、俺をじっと見つめる。
 そして……
「なんだか、わたしが馬鹿みたいじゃないですか。正広さん」
 ……涙を流す。
「わたしが、月に行こうとしたのは、自分を取り戻すためなんです」
「だから、キミはキミなんだよ、奈々絵」
 俺は奈々絵にもう一度訴えかける。
 奈々絵は月に行く必要はない。
 奈々絵自身はここにあるのだ。
「奈々絵は奈々絵だ。誰にもキミの代わりにはなれない。もちろん、ドッペルゲンガー奈々絵も奈々絵なんだ」
 ……善良な奈々絵も、ドッペルゲンガー奈々絵も、どれも奈々絵なんだ。
「だから、月に行く必要もないだ。自分を取り戻さなくてもいいんだ。奈々絵は奈々絵なんだから!」
 俺がそう訴えると、奈々絵の瞳から水滴が流れ出る。
 俺は奈々絵に生きてほしい。善良な奈々絵もイタズラ好き奈々絵も、どちらにも生きてほしかった。彼女たちが和解をすることを望んでいたのだ。
「そんなことを言われたら、わたし、月に行けないじゃないですか」
「行く必要ないだ。奈々絵は奈々絵だから」
「正広さんは意地悪です」
 奈々絵は涙を拭き、立ち上がる。
 海辺の方を眺めてから、奈々絵はこう呟く。
「わたし、ドッペルゲンガー奈々絵と和解をしようかなと思います」
 そして、和解の宣言をする。
 善良な奈々絵はドッペルゲンガー奈々絵が和解するのは、それは俺が願ってもないことなのだ。
「奈々絵、そんなことができるの?」
「やってみます」
 そういうと、奈々絵は海辺に踏み入る。
 奥には進まずに、足が沈む程度に進む。
 月光が彼女を照らす、影が映す。
 影が映っているのは、奈々絵ではない、奈々絵がいた。
 俺にはわかる。それは、ドッペルゲンガー奈々絵だ。
「わたし……あたしは……一つになります。わたしがあたしであるようにして、これから二人で一つになって生きていきます」
 奈々絵はそういうと、影もそういう。
 それは二人が誓い合って、これからの人生を一緒に生きることを決定したことだ。
 影の奈々絵が微笑む。
 それは、ドッペルゲンガー奈々絵もその和解を承諾したのだった。
 そして、月光は雲に隠れる。
 ドッペルゲンガー奈々絵は消えたのだ。
「奈々絵」
 俺は奈々絵の名前を呼ぶ。
 奈々絵は目を閉じたままだった。
 彼女の和解が成功したのか、失敗したのか、俺にはわからない。
 これから、奈々絵は二重人格になるのか、わからない。
 でも、和解が成功したのだと、すぐに分かる。
 それは、月が再び出たときだ。
 雲から月が出て、月光に照らされた奈々絵の影は奈々絵だった。
 ドッペルゲンガー奈々絵ではない。善良な奈々絵だ。
 いや、奈々絵はもう善良もドッペルゲンガー奈々絵もいない。
 いまは……普通の女の子、奈々絵だった。
「正広さん……なんだか、すごく疲れました」
 奈々絵が苦笑いを浮かべると、俺は奈々絵の方に歩む。
 彼女の腕をとり、歩き出す。
「今日は、おしまいだ。帰ろう」
「はい。帰りましょう」
 そして、奈々絵の二重人格事件は収束した。
 本当に収束したのか、素人の俺にはわからないけれど、きっと大丈夫だ。
 奈々絵が安定しているからだ。
 俺は、奈々絵の家まで送ると、自分の家に帰る。
 そして、ベッドの上で眠る。
 夢の中で、俺は二人の奈々絵と出会った。
 彼女たちは俺と最後の別れを言ったような気がする。
 でも、朝起きたら、俺は夢のことを忘れる。
 いい朝を迎えるのだった。
 小鳥が窓の外を囀る。
 爽快な空に、いい天気だった。

◇   ◇   ◇