約束の日の朝、軽い胃痛で早めに目覚める。窓から差し込む朝日が眩しく、空は抜けるような青さで猛暑を予感させる。
リュックには畳んだライトブルーのサマードレスが収まっている。鏡の前で最終チェックすると、顔色が優れない。昨夜はほとんど眠れず、今日カナの前で脱ぐという考えだけで頭がぐるぐると回転する。
外に出ると強い日差しが肌を刺し、半袖シャツでも汗が滲む。工学寮前の木々が風に揺れ、日に日に大きくなっていく蝉の鳴き声が耳に響く。
「マリ、マジで行くの?」
リョウは俺を心配して、不安そうな表情を浮かべている。俺は昨日、ようやく彼に脱ぐことを伝えたのだ。最初は冗談だと思ったらしく、真顔で「本気か?」と何度も確認してきた。
「行くよ。約束したから」
リョウは頭を掻きながら、ため息をこぼす。彼の表情には「止めても無駄だ」という諦めが刻まれている。
「お前、本当にカナのことが好きなんだな。何でもするじゃん」
その言葉に足が止まる。好き?そんな風に考えたことはない。単に自分の映画に出てもらいたいだけだ...。たぶん。
「好きって...映画に出てほしいだけだよ」
言い訳めいた言葉が口から零れる。リョウは鼻で笑う。彼の目は俺の嘘を見抜いていた。
「自分に嘘つくなよ」
その言葉が胸を抉る。俺はカナのことをどう思っているんだろう?単なる役者として見ているのか、それとも……。喉の奥が乾く。
「行ってくる」
それ以上の会話を避けるように、部屋を出る。朝の空気が肌に心地よい。でも、それも束の間だろう。これから待っているのは、もっと熱く、息苦しい時間だ。
バス停に向かいながら、カナとの出会いを思い返す。最初は斜め前の住人。美しい姿を窓から眺め、興味を抱いた。工学寮でたまに会話をするだけの関係から、主演俳優として声をかけるまでに発展。
彼の写真を撮る姿、そして彼の作品の視点にまで惹かれていった。繊細でありながら大胆な感性。彼の存在そのものが俺の映画に必要不可欠だと確信していた。
約束の場所は、カナの写真サークルが時々利用している海辺の小さなスタジオ。バスに揺られること40分、窓外の景色が徐々に変化し、都会の喧騒から遠ざかる。
木々が増え、空がより広大になる。カーブを曲がると突然、青い海が視界いっぱいに広がった。潮の香りが窓から漏れ、塩気を含んだ風が頬を撫でる。
どんな風に脱げばいいのだろう。全部見せるのか...。考えただけで頬が熱くなる。俺は部活や体育の授業以外で誰かの前で裸になった経験がない。一人のために脱ぐなんて初めてだ。
バスを降りると潮風が髪を揺らす。海岸沿いの道を歩き、砂を靴で踏むとジャリジャリと音がする。遠くからカモメの鳴き声が届き、波の音が耳に心地よい。しかし、そんな穏やかな風景とは裏腹に、俺の心は嵐のように荒れる。
スタジオは海岸から少し離れた高台に位置する。小さな木造の建物で、大きな窓からは一面の海という絶景。俺は扉の前で深呼吸した。「大丈夫、約束だから」と自分に言い聞かせる。
微かに震える手でドアノブを回す。ドアを開けると、すでにカナが機材をセッティングしている。彼は窓際に立ち、外の光を露出計で確認している。自然光に照らされた横顔が、絵画のように美しい。カナは振り返り、俺に気づく。
「来たんだ」
カナの声には少し驚きの色が混じっている。もしかして、俺が来ないと思っていたのか。彼の瞳には安堵の色が浮かんでいるようにも見える。
「約束したから」
俺はリュックを下ろし、中からライトブルーのドレスを取り出す。丁寧に広げながら、畳んだ跡がついていないか確認する。生地は思ったより薄く、柔らかい感触だ。
「カナ、持ってきたよ」
「ありがとう」
彼はドレスを受け取り、光に透かして眺めた。窓からの日差しがドレスを通り抜け、青い光が壁に映る。まるで水中にいるような幻想的な光景だった。
「きれいな色だね。思ったより良い」
カナの目が輝く。彼がこんなに嬉しそうな表情をするのを見たのは初めてかもしれない。普段は物静かで、感情をあまり表に出さないタイプだから。
「映画で着るから確認したかったのか?」
俺の質問に、カナは微かに笑みを浮かべた。彼の笑顔には何か秘密めいたものが潜んでいる。
「そうとも言える」
彼はドレスを椅子に掛け、カメラを手に取った。黒い大きなプロ仕様のカメラ。レンズが俺を覗き込んでいるようで、思わず視線を逸らす。
「じゃあ、始めようか」
その言葉に、胃がひっくり返りそうになる。ここからが本番。脱ぐんだ。カナの前で。
「どう...脱げばいいの?」
声が震えていた。カナは優しく微笑む。
「自然に。緊張しないで」
言うのは簡単だが初めての俺には難しい。カナはレンズを俺に向け、俺は凍りついたように立ちすくんだ。足がコンクリートに埋まったかのように動けない。
「マリ、リラックスして。服を一枚ずつ、ゆっくり脱いでみて」
カナの声は落ち着いていた。これが仕事なんだと言わんばかりの冷静さ。それが逆に緊張を高める。
深呼吸。まず上着から。Tシャツの裾をつかむ手が小刻みに震えた。ゆっくりと持ち上げ、頭から脱ぐ。その瞬間、カナのシャッター音が鳴る。カシャッという音が異様に大きく響いた。
「そう、いいよ。自然に」
カナの指示に従って動く。でも、自然って何だろう。こんな状況で自然な動きなんてあるのだろうか。
上半身裸になると、急に恥ずかしさが増した。スタジオ内の空気が肌に触れ、鳥肌が立つ。俺は筋肉は適度についているし、そこそこ体型には自信はあるけど、カナに見られるのは別問題。彼の視線が肌を這うような感覚がして、息が詰まる。
「マリ、こっちを向いて」
カメラを向けられ、また視線を外す。窓の外の海を見ると、青い水平線が遥か彼方に伸びていた。
「恥ずかしい...」
思わず漏れた言葉。カナは少し間を置いてから答える。
「大丈夫、綺麗に撮るから」
カナの言葉に少し心が落ち着いた。彼が俺を見るのは芸術としてだ。そう思えば……少しは恥ずかしさも和らぐかもしれない。彼の真剣な眼差しには、小動物を捕える捕食者のような強さがあった。
ゆっくりとズボンに手をかける。ボタンを外し、ジッパーを下ろす音がスタジオに響く。脱ぐ前に、もう一度カナを見た。彼は真剣な表情でカメラを構えている。その集中した姿に、少し安心感を覚える。
ズボンを脱ぎ、下着姿になる。窓から入り込む風が冷たく感じた。新鮮な空気が全身を包む。シャッター音が連続して鳴る。様々な角度からの撮影が続く。カナの息遣いすら聞こえるような気がした。
「あと少し」
カナの声が微かに震えていた。彼も緊張しているのか?それとも興奮?考えるだけで頬が熱くなる。
残るは下着だけ。本当に全部脱ぐのか?でも、約束は約束……こんな状況になるとは思わなかったけど、俺が言い出したことだ。
俺は目を閉じ、下着に手をかけた。心臓の鼓動が耳に響く。息を止めて、ゆっくりと下げようとしたその瞬間。
「待って」
カナの声が静かに響いた。俺は目を開け、彼を見る。カナの頬は少し紅潮していた。
「もういいよ」
「え?」
俺は困惑する。全部脱がなくていいの?約束と違うじゃないか。
カナは少し赤い顔を見せ、窓際に歩み寄る。
「これで十分」
彼の声は小さかった。スタジオの中に、波の音だけが満ちた。
「次は...これ」
彼がライトブルーのドレスを手に取る。陽の光が生地を通り抜け、彼の手に青い影を落とす。
「これ、着てみて」
「え?俺が?」
俺は完全に混乱した。俺がドレス?女装?そんなことは聞いていない。
カナは少し困った表情を浮かべた。言葉を選ぶように、間を置いてから話し始める。
「そう。マリがこれを着た姿を撮りたい」
「でも、映画ではカナが着るんじゃ...」
「俺に着せようとしてるんだから、マリも着れるよね?」
理屈になっていないが、反論する気力もなかった。そもそも、ここまで来て断るのも不自然だろう。俺は恐る恐るドレスを受け取った。
「着方……わからないよ」照れ隠しに笑う。カナも少し緊張を解くように微笑む。
「手伝うよ」
カナが近づき、ドレスを着せてくれた。頭からかぶらせ、腕を通し、背中のファスナーを上げる。彼の指先が俺の肌に触れるたび、落雷に打たれたかのような衝撃が走る。温かな指が背中を滑る感触に、ビクッと反応してしまう。
「少しキツイかも。ファスナー途中までにしとくね」
カナはドレスの肩紐をずらし、調整しながら、構図を決めていく。肌に触れる指の感触が羽根のように優しい。その感触により、身震いが止まらなくなる。彼の顔が近い。相変わらず長い睫毛が白い肌に影を落としている。
「女性用だから、肩幅がきついね」
彼の吐息が首筋に当たって、くすぐったい感覚が広がる。何でもない顔をして必死に平静を装う。
ようやくドレスを着終えると、カナは少し離れて俺を見つめた。彼の眼差しに何かが宿る。驚き?感動?
「マリ……綺麗だよ」
その言葉に、胸がきゅんと締め付けられた。カナが俺を「綺麗」だと思ってくれている。それだけで、恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。
「変じゃない?」
俺は自分の姿を確かめようと、スタジオの壁に掛かった小さな鏡に近づく。そこに映る自分は、確かに奇妙だった。男の筋肉質な体にドレス。でも、不思議と違和感がない。ライトブルーの色合いが、日焼けした肌の色と意外と調和している。
「全然。似合ってる。俺より似合うんじゃない?」
さすがにそれはないと思ったが、カナの真剣な表情を見ると何も言えなかった。カナは再びカメラを構え始める。「動かないで」「こっちを向いて」「もっと自然に」と指示が続く。
窓から差し込む夏の光が、ドレスの青をより鮮やかにした。俺は初めこそ恥ずかしかったが、次第にカナの指示に従うことに快感を覚え始めた。
「腕を上げて」
「こう?」
「そう、いいね。光が綺麗に当たってる」
カナの声には熱がこもっていた。彼の作品への情熱が伝わってくる。俺はそんな彼の姿に見惚れていた。カメラを持つ洗練された手つき、真剣な眼差し、時折漏れる満足げな表情。全てが魅力的に映る。
「窓際に立って」
俺は言われるままに窓に近づく。潮風が窓から入り込み、ドレスを優しく揺らす。
「完璧」
カナの声が僅かに震えていた。彼の瞳が輝いている。俺だけを見つめる熱い視線。俺はその視線の先にいることが、なぜか誇らしく感じられた。
撮影開始から一時間後。最初の緊張は徐々に消え、俺は次第にカナの世界に引き込まれていった。彼の指示に従い、時に自分から動き、様々なポーズを取る。
「マリ、もっと自由に動いて」
「こう?」
俺はドレスが舞うように回転してみた。生地が風を捉え、ふわりと広がる感覚が心地よい。
「最高だよ」
カナの声には純粋な喜びが溢れていた。彼の笑顔が、この瞬間を特別なものに変えていく。
「次はここに寝て」
床に敷かれた白いブランケットの上に仰向けに寝転ぶ。するとカナが俺の上にまたがりカメラを構えた。これは、映画で見た記憶がある。アントニオーニの『欲望』の写真撮影のシーン。これはギリギリアウトかもしれない。
「カナ、ちょっとこれは恥ずかしい...」
「いいから。少し動いて表情見せて」
もう無理だった。カナに支配される俺という感じ。まるで逃げられない籠の中の小鳥だった。集中しているカナのシャッター音は止まらない。漏れる吐息...。
「自由に動いて」という指示に答えようと試みるが、俺の羞恥心は限界を超えていった。近すぎる距離に意識が遠のく……そして、官能の渦に飲み込まれていった。
◇
撮影が終わり、俺は自分の服に着替えた。心臓はまだ早く脈打っている。これまで経験したことのない感情が全身に満ち溢れていた。
「どうだった?」
カナがカメラの画面を確認しながら尋ねた。彼は撮った写真を眺め、時折満足げに頷く。
「恥ずかしかった...でも、少し楽しかったかも」
素直な気持ちを伝える。カナは顔を上げ、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。
「そう」
彼は穏やかに微笑む。その笑顔に、俺の心は静かに揺れていた。
「カナって...カメラ持つと人格変わるんだな...いつもと違ってちょっと驚いた」
「そうかな?集中するとこんな感じかも...?ちょっと無理させた?ごめん...」
支配的で、本当に捕食者みたいだった……とは言わないでおこう。
「これで、映画に出てくれるよね?」
そうか、全ては映画のため。撮影の余韻に浸っていた、ふわふわと宙に浮いていた俺の気持ちが、現実に引き戻される。
「約束は守るよ」
俺は少し冷静さを取り戻し、カナは満足そうに写真を眺め続けた。
撮影後、俺たちは海を見下ろすカフェで休憩した。窓際の席からは、青い海と白い砂浜が一望できる。アイスコーヒーを飲みながら、カナは時折撮った写真を俺に見せて意見を聞く。彼の真剣な横顔は、撮影時と同様に惹きつけられるものがあった。
「マリ」
「ん?」
カナが突然顔を上げ、俺と視線を交わす。彼の瞳には何か言葉にできないものが宿っているように見えた。
「今日、ありがとう。勇気あるよね」
「俺もカナを撮りたいから...」
俺の言葉に、彼は少し頬を染めて視線を落とす。
「そこまでして映画に出て欲しいって言われたの……初めてだよ」
「俺の映画、最高にしたいんだ。だからカナじゃないとダメなんだよ」
その言葉に嘘はない。カナの繊細な表情と存在感は他の誰にも真似できない天性のものだ。俺の映画の主役はカナ以外に考えられないほどに...でも、それだけなのか?本当にそれだけの理由で、今日のようなことをしたのだろうか。
胸の奥で疼く感情が、その理由づけを嘘だと囁いていた。
「そんなに期待されると、プレッシャーだな」
海を見つめながら、カナはポツリと呟いた。彼の横顔が切なくも美しい。そして、突然彼は俺の手に触れた。テーブルの上で、彼の指がそっと俺の指に重なった。
「でも、頑張るから」
その接触に俺の鼓動は高まる。カナの手は柔らかく僅かに冷たい。コーヒーの冷たさか、それとも彼自身の緊張か。
俺たちはそのまま、数秒間沈黙を共有した。言葉よりも、この静かな瞬間が何かを語っているような気がした。
帰りのバスでは、互いに疲れていたのか、会話は少なかった。窓の外の景色を眺めながら、今日の出来事を思い浮かべる。脱いだこと、ドレスを着たこと、カナの「綺麗だよ」という言葉。全てが現実離れした不思議な体験だった。
でも、時折カナと目が合うと、笑い合うその笑顔に、何か共犯関係のような親密さを感じる。二人だけの秘密の関係。確実に何かが変わった。単なる映画監督と役者の絆を超えた関係に変化していると感じた。
◇
部屋に戻ると、リョウに迎えられた。彼は俺の顔を見るなり、笑い出した。
「どうだった?」
「脱いだよ...やばかった」
「マジか!全部?」
リョウの目が丸くなる。彼は俺がそこまでするとは思っていなかったようだ。
「ほぼ...」
正確には下着までだったけど、詳細は省略した。リョウは笑い声を上げる。
「マリ、勇者だな。で、写真は?」
「これから編集するらしい。それと、カナは映画に出てくれるって」
それが今日の目的だったはず。でも、なぜか達成感よりも、別の感情の方が大きかった。何か違う扉が開いたような気がする。
リョウは俺の肩を叩いた。彼の目には「やるじゃん」という尊敬の色が浮かんでいる。
「良かったじゃん。願いが叶って」
俺はベッドに倒れ込んだ。今日は色々あったな...ドレスを着たことや、撮影の内容はリョウには言えない。なぜだろう?秘密にしておきたい気持ちがある。カナとの特別な瞬間。それを誰かに話すことで、その魔法が解けてしまうような気がしたのだ。
カナとの時間。俺の裸をカメラに収める彼の真剣な表情。ドレスの感触。全てが新鮮で心に刻まれた。
そして、彼の言葉。「マリ……綺麗だよ」
その言葉を思い出すだけで、頬が熱くなるのを感じる。これは、一体なんなんだろう?俺はカナのことを、どう思っているんだろう?単なる役者として、映画の仲間として見ているのか、それとも……。
心の奥で、答えは見つかっていた。でも、まだ認めたくない……認めるのがただただ怖かった。
俺は天井を見つめながら、今日の光景を何度も思い返す。八月からの撮影で、カナと一緒に過ごす時間が増える。その事を考えるだけで、胸の高鳴りが止まらない。
蒸し暑い夜、俺はカナの部屋で映画談義に熱中していた。
「マリ、この映画どう思う?」カナが問いかけてくる。
エアコンをつけても湿った空気が肌にまとわりつく。冷えたビールを分け合いながら、フランソワ・オゾンの作品について語り合った。
「ゴダールは難解だけど、この映像の切り取り方が革新的だよな。オゾンの手法をクラピッシュのような軽快なラブストーリーに応用すれば...」
映画の話になると止まらなくなる俺に、カナは楽しそうに耳を傾け、時折質問を投げかけてくれる。彼の真摯な眼差しに心躍る。
演技指導のため毎日のようにカナの部屋に通うようになって一週間、俺達の距離は確実に縮まっていた。
「マリ、聞いてる?」カナの声で我に返る。
「あ、ごめん。考え事してた」
「何か変なことでも考えてた?」
「違うよ。大したことじゃない」
俺は視線をそらした。先日の撮影を思い出すと、顔が熱くなる。
工学部の学生が映画にハマるなんて、周りからすれば不思議かもしれない。リョウなどは「オタクかよ」と冷やかしてくるが、カナと映画を語り合う時間は特別で、かけがえのない瞬間だった。二人とも芸大志望だったが、親の希望で工学部に入ったという共通点にも最近気づいた。
「オゾンって変わった映画多いよね」とカナが言う。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」
カナはそう言って、一瞬間を置いてから続けた。
「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」
突然の質問に、言葉が詰まる。ビールのせいか、部屋の温度のせいか、顔が熱くなる。
「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
軽く答えたつもりだったが、カナの緊張した表情がふっと緩んだ。
「そっか...」
時計を見ると、もう夜中の0時を回っている。明日も1限から講義があるのに、カナとの時間はあっという間に過ぎてしまう。帰らなくてはいけないのに、この空間から離れたくない気持ちが強くなる。
「なあ、もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」カナの提案に頷こうとした瞬間、大きな欠伸が漏れる。
「あ、ごめん...少し眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」
俺は体を起こして、目を擦った。眠りに落ちれば、この時間が終わってしまう。そんな思いで、必死に眠気と闘う。しかし、映画のオープニングが終わった頃には瞼が重くなり、意識が遠のく。
「マリ、大丈夫?寝る?」
カナの言葉が遠くに聞こえる。気がつけば、瞼が閉じそうになっていた。昼間から脚本を書いていて、疲れが出たのかもしれない。カナの部屋の心地よい雰囲気と、彼のベッドの柔らかさが、俺を睡魔へと誘う。
「ごめん...少しだけ...」
そのまま、俺は寝落ちしてしまう。少なくとも、カナにはそう見えただろう。
実際は半分眠っていたのかもしれない。意識はあるのに、体は動かず、目は閉じたまま。そんな中途半端な状態で、不思議な出来事が起こる。
映画のエンドロールが流れる静かな部屋で、微かに髪に触れられる感覚。
「油断しすぎだよ、マリ...」
カナの囁きが聞こえる。そして、彼の指先が俺の頬を撫で、唇をなぞる。
「抑えきれないかも」と小さく呟く声。でも、その言葉は届かなかったかのように、カナはそのまま続けた。
「可愛いな...」その言葉と共に、唇に何かが触れる感覚。
柔らかくて温かい何か。指にしてはしっとりとしていて、微かに良きづかいまで感じられる……これは、もしかして……。
思い切って薄目を開けると、カナの顔が目の前にあった。これは……キス?
頭が真っ白になる。どう反応すべきか分からず、俺は再び瞼を閉じて息を殺した。
暫くすると、カナの温もりが離れていく。彼はどこか別の場所、おそらく机の方へ移動したようだ。カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
俺の心臓は爆発しそうなほど早く脈打つ。今のは夢?現実?カナが俺にキスした?男同士なのに?そして「可愛い」って……。ずっと眠ったふりをするわけにもいかず、少し時間を置いてから、大げさに伸びをしながら目を覚ます演技をした。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
カナはパソコンに向かって何かを打っていた。振り返ると、何でもなかったかのような表情で俺を見る。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
30分も?その間、彼は俺を観察していたのだろうか。
「なんか……変なことした?寝言とか」
わざとらしく尋ねてみる。カナは一瞬目を見開いた気がしたが、すぐに平静を装った。
「特に何も。静かに寝てたよ」
カナは視線をパソコンに戻す。その横顔には動揺の色は見えない。あれは夢だったのか。いや、確かに感じた。唇の感触、温もり、囁き声……全てリアルだった。
「そっか...」俺は自然を装いながらも、どうしても気になって仕方がない。このまま帰るべきか、それとも...。
「カナ、今何してるの?」
「ん?ちょっと写真の編集」
カナはパソコンの画面を俺の方へ向ける。先日撮影した俺の写真だった。モノクロに加工され、光と影のコントラストが際立っている。ドレスを着た俺の姿が、まるで別人のように美しく映っている。
「...すごい。アートだな」
素直に感心する。カナの技術は確かだ。彼の目に映る世界は、いつも少し違う色を持っている。
「ドレス似合ってたよ、マリ」
カナは真剣な表情で言った。目が合い、俺は慌てて視線をそらす。心臓が早鐘を打つ。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に……美しかった」
カナの声が低くなる。部屋の空気が変化した気がした。時計のカチカチという音だけが響く静寂。
「マリ、聞きたいことがあるんだ」
カナが椅子から立ち上がり、俺の方に向き直った。その表情は真剣で、わずかに緊張しているようにも見える。
「なに?」
「さっき……本当に寝てた?」
一瞬、息が止まる。カナは知っている?気づいていた?頭の中が真っ白になる。
「え?……うん、寝てたよ」
嘘をついた。なぜだろう。本当のことを言えば良かったのに。「何でキスしたの?」と本当は聞きたい。でも、その言葉は喉の奥で詰まってしまった。
カナはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そっか...なら良かった」
その言葉に、少しだけ失望を感じる。良かった?どういう意味だ?気づかれなくて安心したということか?
「...なんで?」
思わず問いかける。カナは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
そう言いながら、彼は再びパソコンに向き直った。会話は終わり。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった気がする。
「そろそろ帰るわ。もう遅いし」
「ああ、そうだね。また明日」
カナは振り返らずに言った。その背中が、どことなく寂しげに見える。
「おやすみ」
部屋を出る時、最後にもう一度カナを見た。彼はまだパソコンに向かっていたが、画面には何も映っていなかった。ただ黒い画面を見つめているだけ。
廊下に出て、自分の部屋へ向かいながら、考え込んだ。このまま知らないふりをするべきか。それとも、明日カナに話すべきか。あのキスは何だったのか。彼の気持ちはどうなのか。そして、自分の気持ちは……。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今日起きたことを思い返す。カナのキス……何かが本当に始まったと確信した。
スマホを取り出して、リョウにメッセージを送信。
『起きてる?ちょっと話したいことがある』すぐに返信が来る。
『まだ起きてる。どうした?』
『今から行くよ』
俺は深呼吸して、ベッドから起き上がった。頭が混乱している。これからどうすれば良いのか、分からない。ただ一つ確かなのは、カナが俺にキスしたということ。そして、それが嫌ではなかったということ。
◇
深夜のリョウの部屋。
「マリ、何だよこんな時間に」
リョウは眠そうな顔で、部屋のドアを開けた。俺は何も言わずに中に入り、ベッドに座り込む。
「リョウ、カナが変なんだ」
「はぁ?何それ。お前こそ変だろ、こんな時間に」
リョウは俺の向かいの椅子に座り、寝ぐせがついた髪を掻き上げながら小さく欠伸をする。
「いや、マジで。俺が寝てたら...キスしてきたんだ」
「は?」リョウの目が一瞬で大きく開いた。「カナが?」
「ああ」
「お前、それはないわ。夢だろ。お前の願望の夢か何か」
「寝たふりしてたんだよ」
「なんだそれ。変態かよ」
リョウは呆れた表情を浮かべたが、すぐに真面目な顔になった。
「で、どうするの?」
「え?」
「だから、カナのこと好きなのか?」
リョウの質問に、言葉に詰まる。カナのこと、好き?そんなの考えたこともなかった。いや、嘘だ。映画に出演してほしいと思ったのは、最初から彼に惹かれていたのかもしれない。カナの全てを映像に収めたいと思ったのは、単に映画のためじゃない……。でも、それが恋愛感情なのかは……。
「わからないよ...」
「は?何それ。お前カナのために脱いだくせに、今更何悩んでんの?それにキスされて嫌じゃなかったなら、もう答えは出てるだろ」
リョウの言葉に、俺は黙り込んだ。確かに嫌ではなかった。むしろ、もう一度あの感覚を味わいたいと思っている自分がいる。
「好きじゃなかったら嫌な気持ちになるはずだけどな!キスなんて」
リョウはそう言って、ニヤリと笑った。その表情が腹立たしかったけれど、反論できなかった。
「でも、俺たち男同士なんだぞ?」
「そんなの関係ないだろ。好きは好きじゃん」
さっき自分がカナに言った言葉を、今度はリョウから返されて、俺は苦笑いした。
「俺……カナのこと、好きなのかな?」
やっと自分の気持ちを口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。これが、好きってことなんだ...。初めての感情に心が追いつかない。それは映画のためではなく、ただ、彼と一緒にいたい、見ていたいという気持ち。
「やっと気づいたか。鈍いな」
リョウは笑いながら、俺の背中を叩いた。
「で、どうするの?告白するの?」
「いや、まだわからない...からかわれたのかもしれないし」
「え?そんなやつだっけ?まぁめちゃくちゃモテそうではある。何でお前に?とはちょっと思うけど」
「そうだろ?女の子に人気凄いし」
「まぁ悩める乙女、頑張れ!何か進展したら教えろよ。でも次からこんな時間に来るな。マジで殺すぞ」
リョウの冗談に、俺たちは笑い合う。
「うん。悪かった。ありがとう」
リョウは冗談めかして言ったが、今日はまともだった。それに、応援してくれているみたいだ。
部屋を出て、自室に戻る途中、ふと空を見上げた。夏の星空がいつもより輝いて見える。胸の内には、不安と期待が入り混じって混乱していた。
カナへの気持ち、それはいつから芽生えていたのだろう。気づけば、四六時中彼のことばかり考えている。
自室に戻ると、今日の出来事が信じられないという気持ちが溢れ出た。それでも唇の感触は確かで、あれが夢ではなかったことを物語っている。
ベッドに横になり、天井を見つめる。明日は何が待っているのだろう。どんな会話をして、どんな未来が開けるのか。興奮と不安で眠れそうにない。でも、不思議と恐怖は感じていない。むしろ、早く朝になってほしいと願う。
スマホの画面を見ると、カナからメッセージが来ていた。
『おやすみ。明日、食堂で朝食一緒に食べない?』
シンプルな文だけど、今までとは違う意味を持つ。返信を打ちながら、俺は微笑む。
『うん。おやすみ。また明日』
メッセージを送り、俺は目を閉じた。今夜は、きっといい夢が見られそうだ。
翌朝。目覚めと同時に昨夜のことが脳裏に蘇る。カナとのキス。本当に起きたことなのか、それとも夢だったのか。一瞬、現実と夢の境界が曖昧になった。
急いで着替えて、食堂へ向かう。朝食を一緒に食べるという約束が、今日はいつもより俺を浮かれさせていた。しかし、カナとどう接すれば良いのか。何を話せば良いのか。緊張と期待が混ざり合う気持ちで、食堂のドアを開ける。
中に入ると、すぐにカナを見つけた。いつもの席に座って、何かを読んでいる。その姿を見ただけで、胸が苦しくなる。
「おはよう」声をかけると、カナは顔を上げて微笑む。
「おはよう。寝相悪いね」
普段と変わらない会話。でも、その目には昨夜の記憶が確かに残っていた。緊張していた気持ちが少し和らいだ。
「うるさいな」
俺は軽く言い返して、カナの向かいに座った。何気ない日常の会話から始まり、やがて昨夜のことを話し合う時が来るのかな...。訪れる瞬間までに心の準備を整えよう。
カナと向かい合いながら、俺は確信した。昨夜のキスは偶然ではなく、俺たちの間に確かに芽生えた何かの始まりだったのだ。夏はまだ始まったばかりで、俺たちの物語も、これからが本番なのかもしれない。
カナとの朝食を終え、大学へ向かった。スマホを確認すると8時15分。一限の講義は9時から。急いで支度を済ませ、部屋を出る。ふと、昨夜のことが脳裏に浮かぶ。
カナのキス。考えないようにしても無理だった。それなのに、彼はなぜあんなに平然としていられるのか?あまりにも普段通りで拍子抜けした。本当に現実だったのか、と疑わしくなる。
校舎の廊下でリョウとばったり遭遇した。
「おはよう、恋する乙女」
「うっせぇな。普通に話せよ」
リョウは笑いながら、俺の肩を軽く叩く。
「で、決心はついたの?カナに告白する?」
「そんなの...まだ考え中だ...」
「自然体でいいんじゃね?」
そう言われても、昨夜のキスを思い出すと、顔から火が出そうになる。もしあれがからかわれただけなら?本気にした自分がバカみたいだ。カナにとって俺が単なる上級生の一人で、特別な存在でないとしたら。胸が苦しくなる。これからどう接すればいいのか。
「お前、そんな顔してたらカナにバレるぞ。気持ち丸見えだからな」
リョウが指で俺の顔を突いてきた。
「分かってるよ...でもどうしようもないんだ」
「マジで重症だな。お前がこんなに真剣になるの、初めて見たわ。恋は人をこんなにも変えるんだな」
そう言ってふざけながら、リョウは去って行く。
講義棟に向かう途中、後ろから声がかかった。
「マリ先輩!おはようございます!」
振り返ると、写真サークルの二年生、ユナが手を振っていた。彼女はいつも明るく、映画サークルも兼任しているため、こちらでも人気者だ。特にカナとは親しいらしく、二人で話している姿をよく目にする。
「あ、おはよう」
「マリ先輩の映画っていつから撮影ですか?奏多くんが出るって本当ですか?」
ユナの質問に、なぜか居心地の悪さを感じる。笑顔の奥に潜む挑発的な眼差しが気になった。
「ああ、まあ...準備中だけどな」
「私も手伝いたいです!奏多くんが出るなら、私も参加したいです!」
ユナの瞳が輝いている。彼女がカナに好意を抱いているのは、サークル内では周知の事実だった。実際、二人はよく一緒にいるし、カナも彼女に優しく接している。他の女子がカナに近づけば邪魔するような気の強さで、いつもカナを独占しようとする。はっきり言って俺は苦手だ。
「あ、いや...まだ具体的に決まってないから...」
「決まったら教えてください!私の映画にも奏多くん出てほしいんです。奏多くん、私が撮影したら絶対素敵な映像になると思うんです!」
ユナはそう言いながら、チラリと俺の表情を窺った。その瞳には明らかな挑戦の色が浮かんでいる。
「奏多くん、私の映画の方が似合いそうじゃないですか?」
彼女は笑顔で言ったが、その裏に何かを感じずにはいられなかった。
「カナは俺の映画に出ると約束したから」
思わず強い口調で応じてしまう。ユナはすぐに笑顔を取り戻した。
「ふーん、でも奏多くん、私の映画の方が大事って言ってました」
その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。嘘だ。カナがそんなことを言うはずがない。でも、もし本当だとしたら。
「嘘つくなよ」
思わず低い声で返した。ユナは一瞬表情を曇らせたが、すぐに元の笑顔に戻る。
「でも、奏多くんならきっと私の映画にも出てくれるはず!昨夜も『ユナの映画面白そうだね』って言ってくれたんですよ」
その言葉が刺ささる。カナとユナ、昨日も会っていたのか。俺がリョウの部屋にいる間、あんな夜中に?
「そうなんだ...」俺の声が虚ろに響く。
「はい!奏多くんとは昨日も夜遅くまで写真の話をしていました。彼、本当に素敵な感性の持ち主なんです。私、ずっと前から奏多くんのこと...」
ユナの言葉が、次第に遠くなっていく。昨夜、俺の部屋を出た後、本当にカナはユナと会ったの?そう考えると、心が疼く。悔しさと不安が入り混じった感情が押し寄せてくる。
昨日俺にキスしたのに、そんなことあるのだろうか?それでもカナを信じたい気持ちは消えない。この葛藤がもどかしくて、自分が情けなくなった。
「マリ先輩?聞いてます?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「もう、マリ先輩ってしつこいって噂だけど、こんなに上の空なんですね」
ユナの言葉に、思わず眉をひそめる。俺ってそんな風に見られているのか?
「しつこいって、誰が言ってるんだよ」
「え?あ、いや...そういう噂があるって聞いただけです。奏多くんに何度も映画出演頼んでるって...」
ユナは少し慌てた様子で言葉を濁した。だが、その表情に何かを感じた。最近、サークル内の視線が変わったのは、まさか、ユナが噂を広めているのか?
「まあいいや。俺、授業あるから」
足早に立ち去ろうとすると、ユナが袖を引っ張った。
「あの、先輩!一つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「奏多くん、本当に先輩の映画に出るんですか?ドレス着るって本当ですか?」
「...どこで聞いたんだ」
「はい。奏多くんから聞きました。『マリ先輩にライトブルーのドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って」
その言葉に、思考は停止した。カナは俺のことを...面白いネタとして話していたのか?昨夜のキスも、ただの遊びだったのか?心臓が鉛のように重くなる。
「そう...」
俺は何も言い返せず、足を早めて講義棟へ向かった。後ろからユナの声が聞こえたが、振り返らない。一日中モヤモヤしたまま、講義も上の空でカナのことばかり考えていた。
◇
昼休み、食堂でリョウを見つけて隣に座る。
「どうした?顔色悪いぞ」
「リョウ、カナって俺のこと、どう思ってるんだろうな」
「は?何いきなり。まだ昨日の続きか?」
「いや、今朝ユナに会ったんだ。カナがユナに『マリ先輩にドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って言ってたらしい」
リョウは箸を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「それで落ち込んでるの?バカじゃね?」
「は?」
「カナがお前のこと話題にしてるってことは、それだけお前のこと考えてるってことだろ」
「でも、『面白い』って...」
「そりゃ、ドレス着ることが面白いって言ったんだろ。お前自身のことを面白いって言ったわけじゃないだろ」
リョウの言葉に、少し気持ちが軽くなる。確かにそうかもしれない。
「でも、ユナのことが気になるんだよな...」
「嫉妬かよ」
「違うよ!...でも、カナとユナって仲良さそうだし」
「ユナってさ、マリのこと嫌いなんじゃね?」
リョウが突然言った。
「え?なんでそう思うんだ?」
「なんか最近、お前の悪口をサークル内で言ってるって話を聞いたんだよ。『マリはしつこいし自己中心的』みたいな」
その言葉に、朝のユナの態度が繋がった。あの「しつこい」という言葉は、偶然ではなかったのだ。
「マジかよ...なんでそんなことを...」
「カナを独占したいんじゃねぇの?ユナ、カナのこと好きって噂だし」
「あいつに負けたくない...」
思わず本音が漏れる。リョウは笑いながら頷いた。
「ユナはカナのこと好きだろうけど、カナの気持ちはわからないぞ。昨日お前にキスしたのは事実だろ?妄想じゃないよな?それだとユナと付き合うなんてあり得ない話だ」
確かにそうだ。でも、カナの気持ちがわからないから不安になる。
「カナを取られるかも...」
「嫉妬してんのか?恋してんな、マジで」
リョウは呆れた表情で言ったが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、気になるなら直接カナに聞けばいいじゃん。あいつとユナってどういう関係なのか」
「そんな簡単に聞けるかよ...」
「じゃあ、俺から聞いてやろうか?」
「やめろって!」
リョウは笑いながら、トレイを片付けた。
「授業行くわ。お前もいつまでもそんな顔してないで、ちゃんとカナと話せよ。あと、ユナの言うことをそのまま信じるなよ。お前、単純すぎなんだよ」
リョウが去った後、俺は一人で考え込む。確かに直接話すのが一番だけど...どうやって切り出せばいいのか?昨日のキスのこと、覚えてる?ユナとはどういう関係?そんなこと、どう聞けばいいのだろう。
カフェテリアの窓から外を見ると、ちょうどカナが中庭を歩いているのが見えた。日差しを浴びて輝く彼の姿に、複雑な気持ちが沸き上がる。女子二人がカナに駆け寄り話しかけている。
「誰だよ?」と思ったが詮索するのはおかしい。そんな関係ではないのだから。
もし、彼が俺のことを特別だと思っていなかったら……そう考えると息が詰まりそうになる。
◇
夕方、映画サークルの部室に向かうと、中からカナとユナの声が聞こえてきた。ドアを開けようとした手が止まる。
「奏多くん、私の映画出てよ。絶対素敵な作品になるから!」
「ユナ、でも俺、マリの映画に出る約束してるし...」
「えー、そんなの断ればいいじゃん。マリ先輩って、しつこいって噂だし」
ユナの言葉に、また傷つく。やはり彼女が噂を広めていると確信。不快感が胸の奥から湧き上がってくる。
「そんなことないよ。マリ、すごく真摯に映画と向き合ってる。だから俺も出たいと思ったんだ」
カナの言葉に、胸の奥で小さな希望が灯る。彼は俺のことを守ってくれている。
「でも、男がドレス着るなんて、変じゃない?私が着た方が絶対綺麗だよ」
「それは...」
カナの言葉が途切れた。俺はどうしたらいいのか分からなくなった。カナは俺の映画を守ってくれている。でも、ユナの言葉も間違ってはいない。男がドレス着るのは、確かに変かもしれない。だが、その「変」こそが俺の作品の魅力なのだ。カナにそれを理解してほしかった。
「変かもしれないけど、それがマリの映画の面白いところなんだ。俺はそれに共感したから出ることにしたんだよ」
カナの言葉に、胸がじんわりと温かくなる。まだ希望はある。そう思った瞬間、ドアの向こうから足音が近づいてきた。
慌てて少し離れたところに立つと、ドアが開いてカナが出てきた。
「あ、マリ...」
カナと目が合った瞬間、昨夜のキスを思い出して、顔が熱くなる。カナも少し頬を染めたような気がした。彼の瞳が僅かに揺れていた。
「よう、カナ。部室にいると思って」
「うん...ユナもいるけど」
「聞こえたよ。お前の映画出演の話」
カナは少し驚いた表情をしたが、すぐに真剣な顔になる。彼の瞳に迷いはなかった。
「マリ、俺は約束守るよ。ユナの映画じゃなくて、マリの映画に出る」
カナの言葉は、春の木漏れ日のように暖かい。
「ありがとな。でも、もし本当にユナの方がいいなら...」
言いながらも、心の中では「そんなこと言うな」と自分を叱っていた。どうして素直になれないのだろう。
「違うよ。俺はマリの映画に出たいんだ」
カナの真っ直ぐな目に、言葉が詰まる。その瞳には嘘がない。昨夜、彼の部屋で交わした約束を彼はちゃんと覚えていてくれている。
「奏多くん、まだ考えて...あ、マリ先輩」
ドアから顔を出したユナが、俺を見て少し表情を曇らせた。その目には明らかな敵意が浮かんでいる。
「よく会うな、ユナ」
平静を装って挨拶したが、内心は複雑な感情が渦巻いていた。
「マリ先輩、奏多くんを取らないでください。私の映画にぴったりなんです」
ユナの言葉に、カナが困惑の表情を浮かべる。彼の眉間にシワが寄った。
「ユナ、もう決めたって言ったよね。俺はマリの映画に出る」
「でも...」
「他の人を探してみたら?サークルには演技派の人もいるし」
カナの優しいけれど断固とした態度に、ユナは諦めたように肩を落とした。その表情にはまだ諦めきれない気持ちが見え隠れしていた。
「わかった...でも、奏多くん、私の映画も見てね」
「もちろん」
ユナは俺に軽く挨拶して、部室の奥へ戻っていった。その目には「まだ終わってない」という意思が感じられた。俺とカナは廊下に残される。
「ごめんな、カナ。俺のせいで...」
「ううん、俺が決めたことだから。マリの映画、楽しみにしてるよ」
カナの笑顔に、昨日からの不安が少し和らいだ。でも、まだ聞けていない。昨夜のキスのこと、ユナのこと...。
「あの、カナ...」
「うん?」
「昨日は...その...」言葉に詰まる。
どう切り出せばいいのだろう。心臓が早鐘を打つ。
「昨日?」
カナは首を傾げた。その仕草が愛らしくて、余計に言葉が出てこない。頬が熱くなるのを感じる。
「なあ、カナ...昨日、お前の部屋で寝ちゃった時さ...」
「うん?」
カナが手を止めて俺を見る。瞳が揺れているように見えた。
「なんか……変なこと、なかった?」
バカみたいだ。こんな回りくどい聞き方しかできない。カナは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑った。
「変なこと?マリが寝相悪くてベッドから落ちそうだったくらいかな」
カナは冗談で誤魔化す。その軽い口調に、ホッとする反面、モヤモヤが募る。あのキス、夢だったのか?いや、絶対現実だ。唇の感触、しっかりと覚えている。
「そっか...ならいいけど」俺も笑ってごまかす。
「うん...」
少し残念そうな表情を浮かべるカナを見て、俺は自分の臆病さを呪った。なぜ素直に聞けないのだろう。昨日のキスのこと、ユナのこと...知りたいのに。
カナの横顔を見ると、彼も何か言いたそうな表情をしていた。もしかしたら彼も俺と同じく、昨夜のことを考えているのかもしれない。それとも、別のことを悩んでいるのだろうか。
部室に入り、サークル活動が始まる。別々の場所で作業していても、時々目が合うと、お互いに微笑み合う。その度に胸が高鳴り、作業に集中できない。カナが資料を整理している姿を見ながら、俺は昨夜のキスをまた思い出していた。あの柔らかな唇の感触。確かに感じた温もり。俺は翻弄されている。
「マリ先輩、この資料どうですか?」
ユナが横から話しかけてきた。彼女の笑顔は完璧だったが、目は笑っていなかった。
「ああ、ありがとう」
資料を受け取りながら、ユナが小声で言った。
「奏多くん、私のことも大切に思ってくれてるんです。先輩にはわからないでしょうけど」
その言葉に反論しようとした瞬間、向こうからカナが歩いてきた。ユナはすぐに明るい笑顔を作り、カナに話しかける。
「奏多くん、この写真素敵!」
二人が会話しているのを見ると、俺はもどかしさを感じる。ユナの態度は明らかに敵対的だが、カナはそれに気づいているのだろうか。もし気づいていないなら、ユナの思惑通りになってしまうかもしれない。でも、さっきカナが言ってくれた言葉を信じたい。
夕暮れ時、サークル活動が終わり、メンバーが帰り始めた。俺はカナに声をかけようとしたが、ユナが先に彼を捕まえてしまう。二人は何やら話し込んでいる。
諦めて一人で帰ろうとした瞬間、背後から声がかかった。
「マリ、待ってよ」
振り返ると、カナが駆け寄ってきた。夕陽に照らされた髪が、彼の瞳と同じ琥珀色に輝いて見える。
「一緒に帰ろう」
「ユナは?」
「もう帰ったよ。今度の日曜、映画祭に行こうって誘われたけど、断った」
「断ったの?なんで?」
「その日、マリと映画の打ち合わせするって約束してたから」
そんな約束をしていただろうか?でも、カナがそう言うなら...。
「ああ、そうだった。忘れてた」
「もう、忘れるなよ。楽しみにしてたのに」
カナは拗ねたように頬を膨らませた。その仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。普段クールな彼はたまにこういう可愛い面を見せてくれる。親しくなった証拠かもしれない。彼の素直な表情に心が軽くなった。
「なに笑ってるの?」
「いや、なんでもない。可愛いなと思って。約束、守るよ」
「どこが可愛いんだよ」
二人並んで歩き始めると、黄昏時の空が幻想的に色を変化させる。他愛も無い会話で、モヤモヤが少し薄れた。
「なあ、カナ。映画の構想、もっと話してもいい?」
「うん、聞かせて」
俺たちは帰り道、映画の話をする。少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。指先が触れそうで触れない距離。それでも、昨日よりずっと近くにカナがいることを実感していた。
リョウにカナを取られるかもって言ったけど、そんなことはなさそうだ。カナはユナより俺を優先してくれている。不安になるのはやめよう。
そう思いながら、俺はカナの横顔を見つめる。マジックアワーは彼の美しさをより際立たせた。魔法のような空と一緒に撮りたい。この瞬間を切り取りたい。俺はますます彼に惹かれていく。
遠くでユナの姿が見える。彼女は俺たち二人を見つめているようだ。その表情には複雑な感情が浮かんでいる。
でも今は、そんなことを気にする余裕はない。カナとの時間を大切にしたい。俺は決意した。次こそは勇気を出して昨夜のことを聞こう。カナの気持ちを確かめ、自分の気持ちも伝えよう。
マジックアワーの終わる頃、二人は工学寮に到着していた。
写真サークルの部室は夏の日差しで蒸し暑く、窓を全開にしても空気が肌に張り付いた。映画サークルとは違う雰囲気で、カメラ愛好家たちの空間だ。
パーテーションで仕切られた場所は人目が気にならず、俺はカナが作業を終えるのを待ちながらソファで脚本を修正していた。しかし、全く進まない。隙間からカナの方へ視線を向ける。
カナは窓際で黙々とカメラのレンズを磨いていた。色白の肌が青い光を浴び、発光しているように見える。あんな風に光の中にいる彼を撮りたい。俺の映画の中で、その姿を。
午後五時を過ぎてもなお強い日差しが部室の隅々まで染み込んでいる。汗ばんだ額を拭きながら、再び脚本に向き合う。締め切りは迫っている。
この夏の上映会に間に合わせなければならないのに、撮影すら始められない。全部カナのせいだ。いや、俺自身の責任だろう。彼を主役に選んだのは俺なのだから。
「ねえ、奏多くん」
突然、耳障りな声が部屋に響いた。ユナだ。いつの間にか現れ、カナの隣に座っている。今にも彼の腕にしがみつきそうな勢いで。
「今度の企画、手伝ってくれない?」
ユナの甘ったるい声色に、思わず眉をひそめる。彼女がカナの隣にわざと近づいて座る。なんだこの距離感は。
「写真展に出すポートレート集なんだけど」ユナはわざとらしく髪をかき上げた。
「奏多くんが主役なの。絶対にサークルの目玉になるよ」
カナは困ったように微笑むだけで、明確な返事をしない。その曖昧さが俺の神経を逆なでする。
窓から差し込む光がユナの美しい顔を照らす。彼女は確かに魅力的で、写真サークルでも評判も良い。俺への態度はアレだが...。カナが彼女の誘いに乗っても不思議ではない。
「ユナの企画も面白そうだけど...」カナの言葉に、俺は耳を澄ませた。続きが知りたくて仕方がない。
「でも?」ユナが追及するように尋ねる。その目はまるで獲物を狙う猫のよう。
カナが答える前に、部室のドアが勢いよく開いた。
「奏多、ユナの手伝いをしてやれ」写真サークルの藤崎先輩が入って来る。写真サークルでは相当な実力者らしい。大学祭での展示会で何度も受賞したという噂を聞いている。
「ユナの企画はサークルとしても力を入れるからな。新人の時からセンスがあるし、将来有望だ」
藤崎先輩の言葉に、ユナは満面の笑みを浮かべた。その表情は勝利を確信しているように見える。俺は不安で胃がきりきりと痛んだ。カナがユナの企画に取られたら、俺の映画はどうなるのか?主役がいなくなれば、完成する見込みはなくなる。
「私の企画の方がサークルのためになるよね、藤崎先輩?」ユナが媚びるように先輩の顔を見上げ「サークルの名誉のためにも」と付け足す。
「もちろんだ」藤崎先輩は胸を張って断言すし、「真梨野の映画なんて芸術性を追求しすぎて大衆受けしないだろう。写真展なら多くの人に見てもらえる」と続けた。
その言葉で俺の自尊心は傷ついた。芸術性を追求しすぎ?大衆受けしない?確かに俺の映画はまだ誰にも評価されていない。でも、それは俺の全てなのだ。誰かに見せたくて、認められたくて、必死に考えてきたストーリーなのに。俺がいない場所ではこんな扱いなのか。
「写真サークル所属なら、写真の活動を優先すべきだろ」藤崎先輩がカナに向かって言い放つ。
「真梨野の映画に出たところで、お前に何のメリットがある?」
部室の空気が一層重い。カナを取り巻く視線の重さを感じた。俺は脚本を握りしめる。もうだめかもしれない。カナは断るだろう。誰だって自分の所属するサークルの先輩の言うことを聞くはずだ。
「すみません、藤崎先輩」カナが静かに答えた。
「僕は真梨野先輩の映画の撮影があるので」
俺は思わず顔を上げる。カナが俺を選んだ?信じられない思いで彼を見ると、その瞳は迷いなく藤崎先輩を見つめていた。
「よく考えろ。真梨野の映画が完成する保証はないだろう?」
藤崎先輩の眉間にしわが寄り、明らかな不満の表情が浮かぶ。
「僕はもう約束したんです」カナの声は柔らかいけれど、芯が通っていた。
「真梨野先輩との撮影は夏休み中ずっと予定が入っています」
カナがそう言ったとき、部室の隅で他のサークルメンバーが小声で囁き合っているのが聞こえてきた。おそらく俺がこの部屋にいることに気づいていないのだろう。遠慮のない言葉が続く。
「ユナの言う通り、真梨野の映画は変だよ」
「あんな芸術的な映画、誰が観るんだ?フランスじゃないんだから」
「奏多が出るなんて勿体ないよな。確かに日本では無理だろ」
「せっかくのルックスが無駄になる」
その囁きが針のように耳に刺さる。確かに俺の映画は芸術的で理解しにくいかもしれない。でも、それは俺が表現したい世界なのだ。カナにはそれが分かるはずだと信じていた。
「ちょっと、奏多くん!」ユナが抗議の声を上げる。
「私の企画の方が大事じゃない?展示会にも出せるし、写真集にもなるのよ?あなたのキャリアのためにもなるんだよ?」
ユナはカナの側に寄り、耳元に唇を近づける。小さな声だったけれど、俺にも聞こえた。「マリ先輩の映画なんて失敗するよ。私なら奏多君を成功させられる。どっちがあなたのためになると思う?」
その卑怯な囁きに俺は拳を握りしめた。カナがどう答えるか、息を詰めて待つ。今度こそ、ユナの企画を選ぶだろう。先輩に反抗して、サークルメイトに批判されて、それでも俺の映画に出てくれるなんて、そんな都合のいい展開はないはずだ。
カナはユナの視線を跳ね除けるように顔を上げ、「変でも、僕は出ます」その一言で部室が静まり返った。
「すみません、約束を守りたいんです」カナはきっぱりと言い切る。「僕は真梨野先輩と一緒にやります」
冷静に聞こえるカナの声の中に、どこか強い意志が感じられた。俺の方をちらりと見るカナの目は、少し照れくさそうだったが、揺るぎない決意を宿している。
「なぜそこまで真梨野の映画にこだわるんだ?お前は写真サークルなんだぞ?」藤崎先輩が呆れた表情で尋ねる。
カナは少し考えてから、静かに答えた。
「昔、僕の夢を笑われたことがあります。高校の時、写真集を作りたいって言ったら、『そんなの誰も見ないよ』って言われて」
俺は思わず息を呑んだ。
「でも、真梨野先輩は違った。入学したばかりの頃、僕の話を真剣に聞いてくれて、『それ、面白いな』って言ってくれたんです」
カナがそんなことを覚えていたなんて...。確かに入学当初、カナが写真についての自分の考えを語ってくれたとき、俺は心から「面白い」と思ったのだ。でも、それがカナにとってそんなに特別だったなんて。1年以上前のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「たった一言でも、本気で向き合ってくれる人がいるって、大きいんです」カナの声には柔らかな感謝の色が混じっている。
「真梨野先輩は僕の話を馬鹿にしなかった。それだけで...」
言葉を切って、カナは少し赤くなった。
「だから、真梨野先輩の真剣さが僕には特別なんです。他の人には変に見えるかもしれませんが、僕はそれを大切にしたいんです」
「まぁ、良いよ」藤崎先輩は諦めたように溜息をつく。
「お前が選んだ道だ。後悔するなよ」
「しません」カナは即答する。
藤崎先輩は不満そうな顔で部室を出て行った。重い足音が廊下に響く。部室のドアが閉まると重苦しい空気が流れ、ユナが憮然とした表情で立ち上がる。
「奏多くん、何でなの?あなた写真サークルなのに」
ユナの声には明らかな怒りが含まれる。
「あなたにとって何がいいのかわからないの?」
「ごめん、ユナ。でもマリの映画は……特別なんだ」
特別?俺の鼓動が速くなる。まだ形にもなっていない夢物語を、カナはそれを特別だと言ってくれた。信じられない感情が全身を駆け巡る。
「もう!奏多くんってマリ先輩のこと好きなの?」
ユナの声は半分冗談、半分怒りだった。悔しそうに唇を噛みながら、ユナは続ける。
「あんな映画、誰も見ないわよ。奏多くんのビジュアルが台無しになるだけ。あんな変な映画に出たって、何の役にも立たないわ。ドレス着せられるし ...」
カナは黙って肩をすくめる。それは肯定でも否定でもなかったけれど、俺の心は波立った。好き?カナが俺のことを好き?やっぱり...そうなのか...?
「ユナ、ごめん」俺は勇気を出して割り込む。
「カナは俺の映画に必要なんだ。諦めてくれないか?」
必要。その言葉は本心だった。カナがいなければ、俺の映画は成り立たない。彼の持つ透明感、繊細さ、そして強さ。それらすべてが、俺の描きたい世界に不可欠なピースなのだから。
ユナは俺を睨みつけた後、「いつからいたんですか...?もういいですよ ...」と吐き捨てて部室を出て行った。彼女の足音が廊下に響き、次第に遠ざかっていく。悔しさと怒りが入り混じった足音だった。きっと簡単には許してくれないだろう。
静寂が戻った部屋で、俺とカナは二人きりになった。気まずい雰囲気の中、机を挟み向かい合って座る。窓から差し込む夕陽が、カナの顔を黄金色に染め、その繊細な輪郭が浮かび上がり、骨格を際立たせる。心臓の鼓動が煩くなっていく。
「なぁ、カナ...本当にいいのか?ユナの企画の方がきっと...」
「マリ」
カナが俺の言葉を遮る。その声は柔らかいのに、芯が通っていた。
「俺がやりたいことを、決めさせてくれよ」
彼の瞳は真剣で、夏の光だけでは説明できない何かが宿っている。その視線に、思わず息を呑む。
「藤崎先輩とユナ、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないよ」
カナが苦笑する。その微笑みには諦めと決意が混ざっていた。僅かに震える唇を噛みしめる様子に、俺まで苦しくなる。
「きっと嫌われるだろうな。あの二人、粘着質だし」
そう言って、カナは窓の外に目をやる。夕陽が少しずつ傾き始めていた。彼の横顔は、茜色の光と影のコントラストで、より美しさが際立っている。
「でも、俺はマリの映画に出たいんだ」
カナが再び俺に視線を戻す。その瞳に映る決意に、心が高鳴る。
「マリもオゾンみたいに自由に映画作ればいい。他の人の言葉なんて気にせずに」
カナはカメラを持ち上げ、レンズを通して俺を見つめた。その視線に捕らえられ、動けなくなる。まるで彼のフレームの中に閉じ込められたかのようだ。
「俺がこのカメラで見る世界と、マリが映画で表現したい世界って、どこか似ているんだ」
「本当に?」
思わず声が漏れ、自分の価値を認めてもらえる喜びが、全身を駆け巡る。
「ああ」
カナは微笑む。その表情に、心が温かくなる。
「他の人には見えない美しさを、マリは見つけようとしている。俺もそうしたいんだ」
その言葉が心に灯をともす。こんな風に誰かに理解されること、選ばれることなんて今まで経験したことがなかった。
「変」「わかりにくい」と言う人はいても、「美しい」と言ってくれた人はいなかった。自分の存在をまるごと肯定してくれるようで、切なくて嬉しくて、どうしていいか分からない。
「カナ...ありがとう」
「なにが?」
カナはカメラを降ろし、レンズを磨く。その横顔が、これまで以上に愛おしく感じられた。長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋、そして、柔らかそうな唇...。この唇が俺にキスしたこと、まだ信じられない。気づけばカナの唇を穴が開くほど見つめていた。
「藤崎先輩に反抗してまで俺の映画選んで本当に大丈夫?」
「う~ん、大丈夫じゃないかも」
カナは少し考え、僅かに苦い笑みを浮かべながら視線を合わせてくる。
「でもマリの映画の方が大事だから」
その言葉の純粋さに、切なくて苦しい気持ちになる。
「……どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「どうしてって、約束したじゃないか。マリの映画に出るって」
輝く笑顔で答えるカナ。その眼差しに隠された何かを、俺は感じ取る。心の奥に溜まっていた疑問を、今こそ口にする時だと感じた。指先が微かに震える。
「あの……あの夜のことなんだけど」
「あの夜...?」
カナの声が明らかに震えた。二人の間に流れる空気が、一瞬で緊張に満ちる。
「お前の部屋で、本当は、俺……寝たふりしてたんだ。なんでキスしたんだ?」
カナの顔が一瞬で朱に染まり、それは、夕陽より鮮やかな色彩だった。彼の息が止まったように見える。
「やっぱり……起きてたんだ……」
小さな声で呟くカナ。夕陽の光が彼の頬を彩る。俺は彼の顔を近くで見たくて、無意識に体を前に倒して覗き込む。
「気づいてるんじゃないかって、実は思ってたよ...」
カナが視線を落とす。長い睫毛が震える様子に、心を奪われる。
「ごめん、マリ。あれは……なんか、衝動だったんだ」
「衝動?」
「うん……寝てるお前を見てたら、なんか……説明できないけど」
カナの言葉が途切れて、耳まで赤くなっている。
「したくなった。ごめん……怒ってる?」
頭が整理できない。カナの言葉の意味を考える。衝動って何だ?俺の頬も熱くなるのを感じる。
「別に怒ってないけど、なんでなのか知りたくて...」
「忘れてくれよ。変なことして、ごめん」
カナが照れたように笑う。けれど、その目は真剣だ。その瞳の奥に、言葉にできない感情の波が揺れているのが見えた気がした。
「忘れられるわけないだろ。ずっとモヤモヤしてたんだから」
思わず強く言ってしまう。カナの表情が変わる。驚きと何か別の感情が、彼の顔に浮かぶ。
カナが「そっか...」と呟いて、ため息をつく。
そして、覚悟を決めたように俺を見上げる。
「マリ、話がある」
カナの目は真剣で、少し怖いほどの決意を感じさせた。
「なんだよ、急に改まって」
緊張を隠すように、軽く言葉を返す。でも、心臓は激しく鼓動していた。
「このままじゃまずい……。これ以上俺に近づかない方がいいよ?」
「何で?」
急に距離を置こうとするカナの言葉に、予想以上に動揺する自分がいた。
カナの声は低く、決意に満ちていたから。
「俺、ゲイなんだ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。カナの真剣な表情を見て、それが冗談ではないことがわかる。驚きと、別の感情が腹の底から込み上げてくる。
「高校の時、ゲイバレして、色々大変で...それからずっと隠してきたんだ。誰にも知られないように...」
カナは視線を落とし、苦い表情を浮かべた。過去の傷がまだ癒えていないことが痛いほど伝わってくる。彼の肩が微かに震えていた。守りたい、という衝動が湧き上がる。
「...そうだったのか」
言葉が途切れた。カナの過去を想像して、全身に痛みが走る。きっと、俺が想像出来ないような辛い経験をしていたんだ。
「ああ。だから...このままだと、どうなっても知らないよ?また、隙を見せたら、変なことするかもしれないし」
カナの言葉は警告でありながら、どこか挑発的に響いた。この先何が起こるのか、という含みを持たせているようにも聞こえる。彼の瞳に宿る感情の複雑さに、息が詰まった。
「カナ……俺のこと……好きなのか?」
思わず口から出た言葉に自分でも驚いたが、引き下がれなかった。知りたかったのだ。カナの本当の気持ちを。
カナは少し目を見開いたが、すぐに表情を元に戻す。その一瞬の揺らぎに、答えを見た気がした。
「……俺も?って言いたいのか?」
その言葉に、心臓が跳ねる。俺も?ということは……。
「いや、その...」
言葉に詰まる俺を見て、カナはため息をつく。そのため息には、長い間抱えてきた何かが込められていた。
「マリの映画にはちゃんと出るからさ。撮影が終わったら、前の先輩後輩に戻れる?撮影後は距離を置かせて欲しい。これ以上一緒にいたら、この関係を壊しそうで怖いんだ」
その言葉に、魂が震える。カナは俺から離れようとしている。自分を守るために。そして、俺を守るために...。
俺は返す言葉を失った。距離を置く?たまに会話するだけの関係に戻る?そんなのは絶対嫌だ。
だけど、俺はゲイなのだろうか?そこから考えなければならない。今まで女性にしか興味がなかった。でも、カナのことは好きだ。四六時中考えるほどに。彼の存在が、呼吸のように自然で必要なものになっていた。
「距離を置くなんて嫌だ。こんなに仲良くなれたのに、どうしてそんな寂しいことを言うんだ?」
思わず強く言ってしまう。カナの目が微かに揺れた。
「じゃあ、マリはどうしたいの?」
その質問に、言葉が詰まる。俺は何がしたいんだろう?
カナのことは好きだ。それは間違いない。彼の笑顔を見ていたい。彼と一緒に映画を撮りたい。話したい。触れ合いたい...でも、まだ気持ちが追いつかない...。
「前向きに考えたい。もう少し時間をくれないか?心の準備をさせて」
俺の答えに、カナの表情が和らぐ。希望の光が差したような、そんな瞳だった。
「じゃあ、撮影最終日までに答えを出して」
「うん...分かった」
約束した。その約束の重みを、二人とも感じていた。ぎこちない空気が流れる。帰り道はいつもより会話は少なかった。けれど、時々偶然手が触れる度に、電流が身体に走る。
カナは俺のことを好きなのかもしれない。そう思うと嬉しくて体中が熱を帯びる。でも、俺と一緒にいることが彼にとって辛いのかもしれない...。カナは自分の気持ちを抑えて、俺との関係を守ろうとしている。
でも、俺は離れたくないのだ。男と付き合うことなんて俺にできるのだろうか?まだ自信を持って返事ができない自分がいる。女の子とも付き合ったことがない俺には難易度が高すぎた。でも、カナと離れる選択肢だけは取りたくなかった。
窓の向こうに、誰かが立っていた。
工学寮の俺の部屋、夕暮れの薄明かりでガラス越しに感じる視線。カメラを手に、窓の外を撮るふりをしながら鼓動を抑える。
あの人は、真梨野先輩だった。斜め前の部屋に住む、いつも笑顔の人。俺を覗いているなんて、きっとただの好奇心だろう。そう思って、気づかないふりをしてシャッターを切った。
それが、去年の春。俺と先輩との、始まりだった。
大型連休で人が減った寮は静寂に包まれ、遠くから鳥の鳴き声だけが微かに聞こえる。心地よい春風が暖かさを運ぶ中、真梨野先輩の視線だけが妙に冷たく感じられた。彼はなぜ俺を見ているのだろうと、不思議でしかたなかった。
高校時代、俺は写真に没頭していた。気になる子の笑顔、部活を楽しむ姿、教室に差し込む光、何気ない瞬間を切り取ることに夢中になった。でも、それが露見する。「ストーカー」と嘲笑うクラスメイト達。
男を撮るなんて気持ち悪い。ゲイだとバレた瞬間、教室は地獄に変わった。あの嘲笑が今も耳に残っている。だから大学では、誰とも心を通わせないと決めていた。
クローゼットゲイを貫き通すつもりだ。だから真梨野先輩とも、境界線を引くつもりだった。
なのに、あの人は近づいてくるのだ。課題で、人物を撮ると話したら、
「へぇ、俺じゃダメか?」
廊下で先輩が微笑みながら提案してきた。無造作な髪、太陽に焼けた引き締まった腕、自信に満ちた表情。撮ってみたい、と直感した。
正直、好みのタイプだった。ベビーフェイスに逞しい体格...見つめないよう努めながら、フレームに収めたらどんな光を放つだろうと考える。だが、すぐその感情を押し殺した。近づけば崩れる。過去の傷跡が俺を拘束している。
「先輩は暑苦しいんで」とやんわりと断った。
軽く受け流した俺に、先輩は不満げな顔を見せる。彼の突然の申し出に、どう返答すればいいか困惑し、「撮りたい人がいるんで」と言ってみた。
「誰だよ?撮りたい人って」
「秘密です」
俺の言葉に、彼はどこか悔しそうな表情を浮かべる。心がわずかに揺らぐ。その瞬間、俺は察知する。彼は、俺の設けた安全圏を難なく乗り越えてくる人なのだと。
◇
「カナ、俺の映画に出てくれ!」
それから先輩の積極的なアプローチが始まった。サークルの部室、寮の廊下、コンビニの前。どこで会っても、同じ要請を繰り返す。俺は幾度となく断ってきた。映画に出るなんて、俺とは無縁の世界だ。先輩の情熱は眩しすぎて、接近すれば火傷しそうに思える。それでも、彼は諦めない。
「本当にお前にしか頼めないんだ。なんとかならないか?」
その真摯な瞳に、内側から何かが熱くなる。入学したての頃、俺の写真の話など誰も聞く耳を持たなかった。それなのに、先輩だけは真剣に耳を傾け、「面白いな」と言ってくれたのだ。
その言葉が、氷の要塞に閉じ込められていた、俺の凍った心を溶かしていく。でも、だからこそ警戒する。再び傷つけられたら、もう回復できないから。
ある日、部室で彼の友人との会話が耳に入ってきた。映画サークルの部室の廊下で話すと写真サークルの部室に丸聴こえだ。
「それより、本当にカナに声かけるの?」
「ああ」
「どこで?いつ?」
「今からでも部室に行ってみる」
緊張で体が硬直した。先輩が今、俺に会いに来る?視界の端で他のメンバーが作業に集中している中、鼓動の音が騒がしい。何も気にしていないように装う。
「マジか。俺も行くわ」
「お前は来なくていい」
「なんで?見たいじゃん、告白現場」
告白……?って何?動揺を隠すため、マウスを握る手に力を込める。汗で滑りそうになりながら。
「告白じゃねぇよ!映画の出演依頼だ」
ああ、映画か。当然だ。先輩が俺に告白?さすがにそれはない。自嘲気味に笑う。他の先輩にも何度か映画に出演して欲しいと頼まれた事があるが、その都度丁寧にお断りしている。
「まぁまぁ。お前の熱い想いを、この目で確かめたいだけさ」
熱い想い?映画への情熱?それとも……考えすぎだろう。深呼吸して、感情を抑え込む。
ノックの音。ドアが開く。
「失礼します」
先輩の声だ。窓際の席で、モニターに向かっていた俺は、視界の隅で彼の姿を捉える。無造作に下ろされた前髪に寮内で見かけるような、ラフなTシャツにハーフパンツ。なんでもない格好が妙に魅力的で、視線を外す。
「カナ」
名前を呼ばれ、驚いたような表情で顔を上げる。演技ではない。本当に動揺していた。なぜわざわざ俺に?
「真梨野先輩?」
「ちょっといいか?話があるんだ」
「はい」
席を立つ。何を言われても拒否しよう。部室を出る際、サークルメイトが含み笑いを浮かべているのが目に入る。あの笑顔は何?俺と先輩のことを何か勘ぐっているのか...。
廊下に出ると、先輩が俺の前に立ちはだかる。その佇まいは見覚えがあった。いつもと同じ、注意深く俺の心の奥底を覗くような、何かを探るような視線。逃げられないのか?という感覚に襲われる。そして、その瞳は俺には媚薬のようだった。
「カナ」
声が少し詰まる。黙って待つ。心の備えをしようとする。
「俺の映画に出てくれないか?」
やはり映画の話か。安堵と失望が入り混じる。複雑な感情を押し隠して答えた。
「映画ですか?」
「夏休みに撮る短編映画なんだ。フランス映画のオマージュで」
「僕...演技は全く経験ないです」
困惑した様子で眉を寄せる。演技をするなんて、想像もしたことがない。カメラの後方にいるのが俺の居場所だから。
「大丈夫だ。台詞もそんなに多くない。存在感が重要なんだ」
「でも...」
「カナ、俺の映画に出てくれ!」
声が大きくて廊下に反響し、驚きで体が震えた。その熱意に、自分の感情が溢れそうになる。真剣な眼差しは、熱に満ちていた。そして、次の言葉で時が止まったかのように感じる。
「お前の役、ライトブルーのドレスを着てもらうんだけど、本当に似合うと思うんだ!」
ドレス?俺に?頭が真っ白になる。高校時代、今より華奢で中性的だった俺はゲイバレしたこともあり、「オカマ」とたまに罵られていた。その記憶が蘇る。嘲笑の顔々。軽蔑の眼差し。パニックが押し寄せる。だが、先輩の目には嘲りの色はない。ただ、純粋な期待と情熱が輝いている。
「ドレス...ですか?」
声が震える。怒りか、恐怖か、期待か、自分でも判別できない。
「『サマードレス』っていう映画のオマージュで...」
「嫌ですよ、先輩」
ときっぱりと返答する。言わなければならなかった。
「撮影なら構いませんが、出演は無理です」
「え?」
「カメラの後ろにいる方が得意なので」
凍てつく湖のような冷たい目をしていたと思う。自己防衛の本能だ。心を隠す盾だ。近づかれると、崩壊する。傷つく。だから拒絶するしかない。
だが、心の深部では別の感情が渦巻いている。
「本当の俺を見て」「俺だけを見て欲しい」。そんな願望。
しかし、それは恐ろしい。その感情に名前を付けるのが...。
「でも...」
「先輩、諦めてください」
会釈して、部室へ戻ろうとする。早く逃げたい。話を続ければ、感情が漏れ出してしまう。彼の情熱的な眼差しに、心が砕け散りそうになる。
部室に戻ると、サークルメイトたちは作業を続けていた。しかし、何人かの視線を感じる。噂になるのだろうか?先輩と俺の関係が。不安が膨らむ。高校時代の悪夢が蘇る。
ここでも同じことが起こるのか?モニターを凝視しながら、思考は巡り続ける。先輩のこと。映画のこと。ドレスのことを。
なぜ俺なのだろう?他にも適役はいるはずなのに。先輩は察しているのか?俺の秘密を?俺の本当の気持ちを?あるいは、単に外見が役柄に合っていると思っただけ?混乱するのは、先輩への想いがあるからなのか。
溜息をつく。窓の外、沈みかける夕日の光が心を照らすようだった。
◇
部屋をノックする音が聞こえ、扉を開ける。少し驚いたように先輩は俺を見る。シャワーしたてで髪が濡れていたからか。
「真梨野先輩?」
「カナ、もう一度考えてくれないか?」
「またその話ですか?」
ドア枠に寄りかかり、呆れたふりをして彼を見つめる。演技だ。本当は、この執着心が嬉しい。でも、表面には出せない。気持ちを明かしたら、先輩はどう反応するだろう?嫌悪を示すだろうか?それとも……。
「頼むよ、カナ!この夏の思い出になるって!」と先輩が言うと、「しつこいですね、先輩。でも...」と俺は答えた。
目を細めて彼を注意深く観察する。本当に俺が必要なのか?単なる配役として?もし、俺自身に関心があるなら……その可能性に、期待が膨らむ。
「ライトブルーのドレスを着る役だけど、とても美しいシーンになるんだ。お前に最適だよ」
「先輩、僕、男ですよ?」
自分自身に言い聞かせるようだった。男だ。だから、先輩と何かが起こるなんて……考えるな、危険だ。
「それが重要なんだ。原作の『サマードレス』も...」
「暑いし、部屋に戻ります」
ドアを閉めようとする。会話を続ければ、先輩に押し切られそうだし、想いが露呈してしまいそうで。しかし、先輩はドアに手をかける。
「ちょっと待ってくれ」
「何ですか?」
声音は冷淡になる。自己防衛のために。でも、目は彼をじっと見つめてしまう。
「ごめん、強引だったな。でも、本当にお前にしか頼めないんだ。なんとかならないか?」
真剣な眼差し。その熱意が、壁を溶かしていく。
「お前にしか頼めない」。特別な存在だと認められているようで。映画のためだけか、別の意図があるのか……。
「...時間をもらえますか?」
考える必要があった。先輩の映画に出演すること。それは彼との距離を縮めることを意味する。危険だ。でも、こんなに必要とされた事が今まであっただろうか?彼に惹かれる自分を止められない。
「先輩の映画って...何を残したいんですか?」
本心を知りたかった。只のフランス映画のオマージュなのか、俺へのこの執着はいったい何なのか。
「夏だよ。光と影と...お前の一瞬の輝きを残したいんだ」
熱すぎる視線と、「お前の一瞬の輝き」という言葉が刺さる。俺だけを見ているんだ……この人は……と感じる瞬間だった。
「へぇ...何か深そうですね...」
ドアを閉める。身体の奥が熱くなるのを感じた。何が起きているのか?先輩は本当に何なんだ...?考えすぎか。映画のためなんだろう...。
部屋に戻り、窓の外を眺める。夕暮れの空。セミの鳴き声。懐かしい光景。カメラを持ちたくなる。この瞬間を保存したくて。しかし、本当に留めておきたいのは、先輩との一瞬だった。
横になってスマホで『サマードレス』を検索する。フランス映画。男性同士の恋愛。海辺の夏の物語。胸が躍る。先輩は意図的に選んだのか?偶然か?
作品の内容を知り、関心が湧く。先輩の映画に参加すべきか。危険だが、俺たちの間に何かが生まれるかもしれない。期待すべきか、怖れるべきか……。
蝉の声。廊下の足音。彼が去った後も漂う気配。全てが、心を揺さぶる。
「考えておく」と言った背後に、答えは既にあった。恐れつつも、踏み出したい。
フレームの向こうの輝きに、手を伸ばしたい。彼の光の中へ。
◇
食堂で夕食を摂ろうとした時、入口で先輩に出くわす。視線が交差し、会釈する。しかし、目が合った瞬間、何かが通じ合った気がした。彼の眼差しに、諦めていない決意を感じる。
カレーの香りが立ち込める中、窓際の一人席に腰を下ろす。空を見上げると綺麗な三日月。カメラに収めたいと思った。だが、それ以上に撮りたいのは、先輩の横顔だと気づく。
カレーを口に運びながら、いろいろと考えた。思考がぐるぐると回る。もう一度断るべきか?しかし、協力すれば、先輩との距離が縮まるかもしれない。それは、喜びか、恐れか――判断がつかない。
◇
熱帯夜。ドアをノックする音が響く。開けると、額を汗で湿らせ、頬を赤く染めた先輩が立っていた。
「冷房壊れてさ。死にそう。助けて」
慣れた様子で部屋に足を踏み入れてくる。映画出演の件では無いと言いながら。遠慮のない振る舞いに戸惑いつつも、どこか嬉しさも感じた。
「あの、入るんですか?」
「ごめん、ごめん。入っていい?フランソワ・オゾンの『サマードレス』とか、何本かお勧め持ってきたんだ」
DVDケースを掲げる笑顔に、期待が膨らむ。男性同士の恋愛を描いた、淡く切ない作品。彼が好きな映画で、この映画をオマージュした作品に、俺を出したいのだ。
「持ってるんですか?」
「単館系映画オタクをなめるなよ。カナが好きそうなのいろいろ選んできた」
胸を張る彼に、自然と笑みがこぼれた。壁に貼った写真を見て、「写真上手いな」と褒めてくれる。その言葉が、思いのほか心に響く。リュックから缶ビールを取り出し、
「ビール、飲む?」
「え、先輩、これ...」
アルコールは未経験だった。
「マリでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「マリ...さん」
敬語が抜けない。でも距離が近くなって嬉しい。
「カナ、20歳だっけ?」
「先月です」
「じゃあ、飲めるな」
「実は...飲んだことないんですよね」
穏やかに笑ったマリは、プシュッと缶を開け、一本を手渡す。ためらいながら、口をつける。
「...苦い」
顔をしかめる俺に、彼は笑う。「まあね。でも慣れるよ」
DVDを再生し、映画は始まる。『サマードレス』のオープニング。海辺のコテージ、ゲイカップルの痴話喧嘩。マリは夢中で画面を注視している。
「このオープニング、印象的だよな。こんな始まり方他にない」
頷く。そして話は進み、男性たちがキスするシーン。そしてキッチンで愛し合う二人...。指先が震えた。隣で無防備にビールを飲むマリに、気づかれないよう息を潜める。心臓の鼓動が煩くて、画面の音声が遠のいていく。
俺はこの映画を紹介記事の画像でしか見たことがなく、初めて本編を見る。思ったよりも刺激的な内容で、彼はこれを俺と二人っきりで見ることをどう思っているのか?
芸術として捉えているから、見せられるのだろう。俺がゲイだと知らないから出来ることだ。それとも……誘っているのか?
「このドレスの質感、光の加減でこんなに変わるんだな」
マリはたまに感想を言いながら、俺の顔を盗み見してくる。いつも感じる熱い視線だけど、今日は隣に座っているし、距離が近いのに...。そんなに見つめて何考えてるの?と俺は思う。うっとりした表情に見える。
彼は俺の顔が好きみたいだけど、勘違いしそうだから止めて欲しい...。見返せば、きっと何かが壊れてしまう気がする...。だから、気づかないふりをしてあげた。
「ドレスを首に巻くシーン、最高じゃない?」
興奮した様子で語るマリ。主役が自転車に乗る時に、ドレスを首に巻いているこのシーンはかなり芸術性が高い。青い空にライトブルーのドレスが映えて、夏の眩しさやこの物語の切なさを表現している。
「うん...綺麗だ」
小声で返すが、隣のマリの存在が気になって集中できない。動揺を隠すため、冗談めかして言う。
「俺にこんな感じでドレス着せる気ですか?」
「似合いそうじゃん。カナ、顔キレイだから」
いつもの熱い視線で俺の心を焦がす。やはり、何か試されているのか?誘われているのか?そんなはずがないのに、頭が混乱する。
ゲイだとバレれば、嘲笑の的になるかもしれない。それでも、マリの無邪気な笑顔が、警戒心を解いていく。画面に視線を戻すが、映像は目に入らない。
「オゾンってゲイなんでしょ?」
思わず口から出てしまう。マリは少し驚くが答える。
「そうだよ。だからこそあの繊細さや大胆さがあるんだと思う」
「繊細、か...」
視線を遠くに向けた。内側に秘めた何かが、溢れ出しそうになる。
「マリさんは、どうして映画が好きになったんですか?」
「マリでいいって。敬語も禁止な」
「え...じゃあ、マリ」
呼び慣れないその名を、心臓が跳ねるほど意識しながら口にした。心の中では呼んでいたけど、口にするのをためらっていた名前が、自然と唇から零れて笑顔になる。
「高校の時、この『サマードレス』を見て衝撃受けたんだよね。それから映画にドハマりした」
「へえ」
ビールをもう一口。体が温かくなってくる。酒の力を借りなければ、話せない何かがあった。マリに接近したい、でも恐い。矛盾した感情が、アルコールで溶け始める。
「カナは?写真はいつから?」
「中学からで、本格的には高校から...かな」
「何かきっかけあったの?」
「写真で切り取った景色が、実際より美しく見えたから...かな」
実際は、もっと複雑な理由がある。だが、まだ語れない。
二本目のビールで、頭がふんわりし始める。初めての酒が回ってきた。マリの姿が、眩しく見える。少し寄りかかってみるが、彼は全く拒むことはなく、そのままぴったりと身体をもたれかけさせた。
「マリ……動くな……」
気づけば、俺はマリの背中に腕を回していた。酔っている振りをして。半分は酔った勢いで、半分の意識ははっきりしている。ただ、触れてみたい。体温、Tシャツの下の筋肉、全てを感じたくなってしまった。
ただの欲望か恋愛感情かも判断できない。ただ、触れたい。マリは身動きをせず、静かに俺の腕の中にいる。静寂が心を乱す。
「カナ...?」
マリの声が聞こえる。でも、腕をほどく気は無かった。俺は温もりを感じ続ける。映画は続いているが、内容は頭に入らない。
「……映画、面白い?」
小さな声で尋ねると、「ああ、いい場面だよ」とマリは穏やかな声で答える。
離れろと言われなかったから、俺は調子にのり背後から強く抱きしめる。自分でも信じられない行動だが、アルコールの影響か、抑圧していた欲求が解放されていた。
彼を近くに感じたくて首筋に顔を埋める。これは完全にアウトだと思う。俺はどうしたいのだろうか?自問自答する。そして意識が遠のいていく。その後の記憶は曖昧だ。気づいたときは、俺はベッドに寝ていて、マリの姿はもうなかった。
さっきまでいた夢の世界では、俺は誰かと手をつなぎ海辺を歩いていた。カメラは持っていない。二人は並んでただ波の音を聴いている。ただそれだけの平和な夢だった。
「カナ、夏に映画出てくれ!」
何度目かの懇願だった。花壇の花が咲く中庭で写真を撮っていると、マリがやって来た。朝日に照らされた彼の姿はキラキラと眩しい。諦めない彼に少し意地悪したくなり、思わず口から出た言葉。
「じゃあ、脱いで」
冗談のつもりだった。マリはそこまでするはずがない。これで諦めてくれるだろうと。案の定マリは驚いた表情を見せた。俺は我ながら意地悪だとは思うが、続けた。
「ヌードモデルになってくれたら、出てあげる」
「俺の裸見て、何するつもりだよ...」
マリは腕で体を覆う。恥じらう姿がかわいい。そんなの、見たいからに決まっている。ゲイなんだから。この提案で危機感を覚えて、もう俺に近づかないだろうとこの時は思っていた。
◇
数日後、赤い光の中で写真を現像していると、ノックの音が響く。ドアを開けるとマリが立っていた。逆光に包まれる彼の姿に、思わずシャッターを切りたくなる。
「脱ぐよ」
一言だけ告げるその表情に、言葉を失う。あの提案は彼を遠ざけるためのものだったのに。誰も受け入れないはずの無理難題。まさか承諾するとは。
「え?」
「映画に出てくれるなら、脱ぐ。撮っていいよ」
決意に満ちた瞳を見て、俺の内側から何かが波立つように動いた。彼は本気だ。映画のためなら、プライドも羞恥心も捨てられる。その純粋さに魅了されてしまいそうだ。
「本当に?後悔しない?」
声が揺れた。もう引き返せない。マリの熱意に、応えなければ。
「後悔するかもしれないけど、それでもカナに映画に出てほしいから...」
罪悪感が込み上げる。冗談のつもりだったのに、彼は真摯に受け止めてくれた。これ以上逃げられない。俺も覚悟を決めた。
「わかった。来週の日曜日、海辺のスタジオで」
海辺のスタジオを選んだのは、光の条件だけではない。人目につかない場所で、二人だけの空間が欲しかった。彼の裸を見る罪悪感と期待。誰にも邪魔されたくない。絶対に……。
「あと、マリ」
脳裏に『サマードレス』の一場面が浮かぶ。青い海を背景に立つ男性。
「ライトブルーのドレスを持ってきて」
「ドレス?何に使うの?」
戸惑うマリに微笑む。俺の願望のために必要だったけど、それは言わなかった。ここで拒否されては困るからだ。
「映画用だよ。約束したでしょ?」
約束。映画に出る約束。でも本当は、マリの裸体だけでなく、魂まで写真に収めたいと願っていた。その欲望に、自分でも驚く。
マリを撮りたい。光の中で、彼のすべてをフレームに閉じ込めたい。彼は俺を映画に出したがり、俺は彼を写真に収めたがる。奇妙な関係が始まろうとしていた。
マリが去った後も、現像作業は続く。薬品の香り、暗室の赤い光。写真が現れる瞬間には不思議な魔法のような感覚がある。けれど全く集中できない。マリの裸体を撮る。想像だけで、指先の震えが止まらない。
現像液に浸した指が痺れる。化学薬品の刺激だが、心の葛藤には比べものにならない。マリは本当に脱ぐのか?俺は感情をコントロールできるだろうか。
ベッドに横たわり、携帯で映画『サマードレス』の画像を開いた。砂浜に立つドレスを着た男性。マリの顔を重ねる。着せたい……。鼓動が速まる。
彼を好きになりかけている。認めたくなかったけれど、もう隠せない。大学に入って以来、誰とも関わらないように生きてきた。でも、マリは特別だ。
俺の心の奥底にある氷の要塞を、熱を放ちながら壊そうとする。輝く笑顔、真っ直ぐな性格、映画への情熱。眩しすぎて直視出来ない。
彼が脱いだら、俺はどうなってしまうのだろう。カメラという盾がなければ、素の自分をさらけ出してしまう。恐怖と期待が心の中で交錯した。
◇
日曜日の朝、海辺のスタジオへ向かう。波の音と潮の香りが緊張を和らげてくれる。カメラバッグを肩に、三脚を持って砂浜を歩く。マリはまだ来ていない。
スタジオは、展望台を改装した建物で、大きな窓から朝日が木の床を温かく照らしている。マリが来る前に機材をセットアップする。ライトの位置、三脚の角度、すべてを完璧に。彼の姿を最高の光で捉えたい。
「カナ、来てる?」
ドアの向こうからマリの声。逆光に浮かぶシルエットが、神秘的な輝きに見えて息を呑む。
「来たんだ」驚きが声に出た。
「約束したから」
マリは緊張した様子で周りを見回し、リュックを置き、ライトブルーのドレスを俺に渡す。
「すごいところだね」
「光の入り方がいいから」
会話は表面的なもの。本題には触れない。空気は電流を帯びていた。マリの瞳がカメラへ、そして俺の顔へと移る。不安と決意が混ざりあう。
「じゃあ、始めようか」
俺は冷静に言ったが、心は嵐のように騒がしかった。マリは頷き、携帯用タンブラーを取り出す。中身はアルコールだった。一口飲み、顔をしかめる。
「勇気を出そうと思って」
笑う彼の姿に、心が乱れる。追い詰めてしまったのか。映画のためなら脱ぐと言ってくれた思いに応えなければ。
「どう...脱げばいいの?」
声は震えて、瞳は揺れていた。
「自然に。緊張しないで」
カメラを手に構えると、マリがシャツのボタンを外し始める。震える指。緊張が伝わってくる。マリは「恥ずかしい...」と言いながらも服を脱いでいく。肌が露わになる光景に、呼吸が荒くなる。
シャッターを切る事が止められない。光に照らされたマリの肌は幻想的な輝きを放ち、彫刻のような美しい筋肉が俺の心を惑わす。夢中で撮り続けた。
下着姿のマリ。最初の緊張が消え、どこか恍惚とした表情。カメラを通して彼と見つめ合い、そして魅了される。ファインダーの向こうで、光のヴェールに彼が包まれていく所を見た気がした。
「あと少し」
声がかすれて言葉を失う。下着に手をかけた瞬間、理性が危うくなる。
「待って!」
声を上げる。驚いたマリの表情。混乱と不安が目に浮かんでいた。
「もういいよ。これで十分」
言い訳のように告げる。マリは不安そうな顔をしていたが、すぐにホッとした表情になり微笑んだ。俺は椅子に掛けていたドレスを彼に渡した。
「これ、着て」
ドレスを手に取るマリの表情は複雑だった。だが嫌な顔はせず、好奇心と挑戦心が見える。ドレスを広げ、生地に光を当て、青い影を白い壁に映す。
「でも、映画ではカナが着るんじゃ...」
俺に着せたがっていたドレスを、マリに着せる。マリの俺への執着の象徴のドレス。マリに着せて俺も撮ってみたいと強く思っていた。きっと綺麗だから...。
ドレスの着方が分からない彼に、俺が着せてあげることになった。全体的に小さいようで苦戦する。肩紐をずらすとき、指が肌に触れた。温かくて、柔らかい肌。そして、麗しい瞳...。鼓動が早まる。
ドレスを着たマリは、想像以上に美しかった。日焼けした肌と肉体美、ドレスの柔らかさが不思議な調和を見せている。恥じらいながら笑い、窓辺に立つ。
「こんな感じ?」
答えられなかった。カメラを構え、シャッターを切る。マリは輝いていた。存在そのものが光を放っているかのように。
撮影に集中しようとしたが、ふと気づく。レンズ越しではなく、直接見たくなった。衝動に抗えず、カメラを下ろし、引き寄せられるように近づいていく。
「カナ?」
声が遠くに聞こえる。頭が真っ白で、触れたいという思いだけがあった。顔が近づく。キスしそうになった瞬間、我に返った。
「ご、ごめん。光の...調整」
意味不明な言い訳を口にして距離を取る。マリは困惑していたが、何も言わなかった。心の中で何かが崩れ始めていた。自制心か、理性か…。
撮影終盤、白いブランケットにマリを仰向けに寝かせた。俺は彼にまたがり、カメラを構える。多分アウトだったと思う。しかし、この構図でどうしても撮りたかった。
シャッターを連続で切り続ける。そのうち、彼にもっと近づきたくて、触れたい……と強く思ってしまった。
「カナ...ちょっと恥ずかしい...」
声が弱まっていく。もう止まれない。どこまでも落ちていこうと思った。
「いいから。動いて表情見せて」
集中すると、俺は別の人格が目覚める。支配的なもう一人の自分。被写体をコントロールしたい。特にマリを。自分だけのフレームに閉じ込めたかった。その後はどうなったのか覚えていない。おそらく官能の渦に飲み込まれたのだろう。
◇
海辺のスタジオでの撮影後、俺たちの距離は一気に縮まった。映画に出ることになったので、毎日のようにマリに演技指導を受けるようになる。夜に俺の部屋に集まり、映画を見ては演技プランのイメージを膨らませていた。
「オゾンって変わった映画多いよね」ある夜、ふと呟く。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」
間を置いて、続ける。
「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」
言葉が詰まった。顔が熱くなる。
「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
カジュアルな肯定の言葉が、俺の心を羽のように軽くした。
「そっか...」
時計の針は0時をさす。明日も一限から講義があるのに、まだ起きている。マリとの時間があっという間に過ぎていく。
「もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」
俺の好きな映画だ。マリは少し眠そうに頷き欠伸が出る。
「あ、ごめん...眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」
マリは目を擦って、いまにも寝てしまいそうだった。
「ごめん...少しだけ...」
すぐにマリは俺のベッドで寝落ちしてしまう。一日中脚本を書き続けていて、疲れていたみたいだ。精神的にも、肉体的にも。寝顔を見つめながら、ようやく自分の感情と向き合った。
好きだ。この感情に名前をつけるなら、それしかない。好きだけど、怖い。傷つくのが、拒否されるのが怖い。
でも、彼のそばにいたい。撮り続けたい。守りたい。矛盾する感情に心が揺れ動く。
エンドロールが流れる部屋で、マリの寝顔を見つめ続けた。長い睫毛、目を閉じるといつもよりかなり幼い、赤ちゃんのような唇、すべてが心を乱した。
髪に触れる。額が見えるように、前髪を分けた指が震えた。
「油断しすぎだよ、マリ...」頬を優しく撫で、唇を親指でなぞる。
「抑えきれないかも」と声が漏れる。心の叫びだった。
「可愛いな…」
無防備な寝顔に少しずつ近づく。脈拍が激しくなる。無意識のうち、本能のままに、唇を重ねていた。柔らかく、温かい。初めてのキス。全身が震える。罪悪感と快感。許されないことだと分かっていた。でも止められない。
電気が走った。寝息が乱れ、慌てて手を引っ込める。しかし、欲望は収まらない。
数秒後、我に返って離れた。目を閉じたままのマリ。寝ていたのか、起きていたのか。不安が募る。気づいていたら?嫌悪されたら?友情すら失ってしまうのではないか?
窓の外は闇に沈み、寮は静寂に包まれている。俺の心も暗闇の中に閉じ込められた。
マリはまだ眠っているように見える。ほっとして、同時に残念にも感じた。起きていて、受け入れてくれたら...。なんて期待を抱きながら、机へ向かう。パソコンを開き、キーボードを打つ振り。頭はキスのことでいっぱいだった。
暫くすると、マリが伸びをしながら目を覚ます。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
パソコンに向かったまま答える。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
「なんか...変なことした?寝言とか」
心臓が跳ねた。バレたのか?表情は普通に見える。
「特に何も。静かに寝てたよ」
視線をパソコンに戻す。全く落ち着かないが、絶対にバレてはいけない。
「そっか...」
気まずい沈黙が流れる。このまま帰ってくれれば...。
「カナ、今何してるの?」
「写真の編集」画面を向けた。マリのモノクロの写真。
「...すごい。アートだね」感嘆の声に、心が温まった。
「ドレス似合ってたよ、マリ」
真剣に告げる。目が合い、慌てて視線をそらす。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に...美しかった」
声が低くなる。本心だった。そして、空気が変わる。時計のカチカチという音だけが響く。
「マリ、聞きたいことがある」
立ち上がり、向き直る。鼓動が早鐘を打つ。
「なに?」
「さっき...本当に寝てた?」
表情が微かに変わった。息を潜めたように見える。
「え?...うん、寝てたよ」
嘘だ。その目は、何かを隠している。気づいていたのか?認めたくないのか。
「そっか...なら良かった」
安堵のふりをする。良かった、と言ったが、本当は違った。本当のことを言って欲しかった。無理な話だ。
「...なんで?」声に不安が混じる。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
パソコンに向き直った。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった。
「そろそろ帰るわ。遅いし」
「ああ、また明日」
俺は振り返らない。背中が寂しげに見えたら、気づかれてしまう。
「おやすみ」
マリが出て行った後、黒い画面を見つめていた。寝顔が浮かぶ。柔らかい唇の感触がまだ残っていた。
◇
翌日の帰り道。ふいにマリは俺に問う。
「なあ、カナ。昨日さ、なんか変なことなかった?」
やはり、気づいていたのか?声のトーンからは何も読み取れない。息が止まりそうになる。しかし、無理やり笑顔を作った。
「マリが寝相悪くて、ベッドから落ちそうだったくらいかな」
嘘だった。真実は言えない。受け入れられる可能性より、拒絶される確率の方が高い。そんなリスクは取れなかった。
「そっか...」
表情に、何かを悟ったような影が過る。彼も何かを隠しているようだ。二人の間に、言葉にならない何かが漂っていた。空気が重く感じる。このまま、こんな感じで、はぐらかしていいのか自問自答し始めた。
◇
数日後、事態は急変する。真実を告げなければならない時が来た。
夕方、部室で二人きりになった時だった。夕陽がマリの横顔を照らしている。その美しさに、切なさがこみ上げて、胸が苦しくなった。もう隠し続けることはできない。
あの日なぜキスしたのかと、マリに聞かれて逃げられなくなった。マリはやはり寝たふりをしていたのだ。なぜキスしたのかと問われたとき、もう言うしかなかった。
「俺、ゲイなんだ」
言葉にした瞬間、力が抜けて、何かに開放された気がした。長い間抱えていた秘密を手放せたのだ。マリの驚きの表情は忘れられないだろう。だが嫌悪の色はなかった。それが唯一の救いだった。
「高校のとき、ゲイバレして、色々大変で...ずっと隠してきたんだ」
記憶が蘇る。嘲笑、侮辱、孤立。すべてが崩れた時...。大学では本当の自分を見せないと決めていた。もうあんな思いをする事に耐えられないから。
でも、本当に、マリが例外になるなんて思ってもみなかった。
「...このままだと、どうなっても知らないよ?また、隙を見せたら、変なことするかもしれないし」
キスのこと、ただの衝動だと言ったけど……嘘だ。計画的ではなかったけれど、ずっとキスしたいと思っていたから。好きだという事実から、もう逃げられない。
「カナ、……俺のこと好きなのか?」
言葉が出ない。喉が詰まった。「好きだ」と言えば関係が壊れてしまう。嘘をつけば自分を裏切ることになる。
「……俺も?って言いたいのか?」
視線をそらした。マリの言葉にかすかな期待が混じってしまう。「好きだ」と伝えたい。でも怖かった。拒絶の恐怖が、勇気を上回る。
黙り込むマリ。距離をおきたいと俺が言ったとき、思いがけない言葉が返ってきた。
「撮影最終日まで、考えさせてくれ」マリは俺に希望を与えたのだ。完全な拒絶ではない。前向きに考えてくれる。胸の奥に小さな灯りがともった。
「じゃあ、撮影最終日までに答えを出して」
「ああ」
約二週間後。どんな答えが待っているのか?期待と不安が入り混じる。
夕陽が部室を赤く染めていた。あの日、窓の向こうから俺を眺めていた彼。今は同じ空間にいる。心の距離はまだ遠い。でも、少しずつ縮まっているのかもしれない。
フレームの向こうの光。あの日見た光は、今、手の届くところにある。撮影を通して、二人の関係はどう変わっていくのか?怖いけれど、期待もある。カメラに決意を込めて、その日を待つことにした。
次の日から、俺もマリも実家に帰る予定だ。暫く会えない。その間に心の整理をしようと思う。
◇
実家に戻って三日後。明日からロケハンの予定だったから、マリに連絡した。向こうからは連絡しづらいだろうから、俺から。すると、彼は嬉しそうに返事をくれた。
明日はあの日以来マリに会える。複雑な感情を抱えながらも、会える喜びで明日が待ち遠しいと思った。
カナのゲイカミングアウトから数日が経ち、俺たちの間に微妙な距離が生まれていた。お互い実家に帰省する予定があるから、しばらくは顔を合わせずに済むはずだった。
でも次に会うとき、どんな表情をすればいいのか思い悩む。リョウにも相談できないし、「先輩後輩に戻りたい」と言われても困るばかりだ。
あのキスのこと、寝たふりをしていたこと、全て頭の中でぐるぐると回り続ける。カナは俺のことを好きなのか?たぶん……そういう事に違いない。自惚れじゃなく、それと映画のことも心配になる。これからどうすれば良いのだろう。
三日後、スマホが震えた。カナからのメッセージだ。
『明日から撮影、始めよう』
予定通りロケハンとリハーサルを行おうと言ってきてくれたのだ。俺の映画のために動いてくれる。彼からの連絡に心が躍った。
『夏休みも半分過ぎちゃったし、時間ないだろ?本番までリハーサルしないと』
言葉の向こうから、カナの真剣さが伝わってくる。本当に俺の映画に出る気でいるのだ。あの告白があっても、約束を守ってくれている。息を整えて返信した。
『わかった。明日からリハーサルしよう』
明日はカナと海へ行く予定だ。撮影スポットを見て回り、撮影プランについて話し合う。そしてリハーサルも兼ねて。あの日以来、まともに会話していない二人が、どんな風に向き合うのか想像もつかない。
スマホを取り出して、明日の撮影計画を立て始める。カナと一緒に作る映画。想像するだけで心がざわめく。もしかしたら、この映画を通して、俺の感情も形を変えるかもしれない。
8ミリカメラを通して見る彼と、直接見つめ合う彼。どちらも今や俺にとって、かけがえのない存在だ。それを認めざるを得ない。
脚本を手に取り、ページをめくる。
「Do you love me?」というセリフが目に飛び込んでくる。
カナに言わせる予定の重要なセリフだ。オゾンの『サマードレス』でも登場するが、俺の映画では違う意味合いで使う計画だ。
脚本の上に書かれたその言葉が、今夜はやけに響く。彼はどんな表情で、どんな感情で、それを言うのだろう。演技の中に本心が滲むのか、それとも隠されるのか。恐ろしくもあり、同時に楽しみでもある。
夜が更けるにつれ、部屋は静けさを増していく。脚本を胸に抱えたまま、カナの横顔を思い描く。窓際で写真を撮るとき、光に照らされる彼の横顔。集中した瞳、繊細な指先。
映画に出ると言ってくれたカナ。あの決意に満ちた目を思い出す。明日から始まるリハーサルは、これまでとは違う意味を持つだろう。そして、この夏の終わりには、二人の関係の行方が明らかになるはずだ。
「ありがとう、カナ」
つぶやいて、目を閉じる。夏の夜の静寂の中で、明日への期待が膨らんでいく。そして、カナへの思いも、確かに深まっていくのを感じずにはいられなかった。明日、海辺で見せる彼の表情が、今から待ち遠しい。
◇
朝9時、工学寮の最寄り駅で待ち合わせをしていた。緊張で胃の奥がきりきりと痛む。初めての二人きりの遠出だ。映画の準備だとはいえ、どこか特別な意味を感じずにはいられない。
「マリ、おはよう」
思いがけない声に振り返ると、カナが立っていた。朝の光に照らされた彼の髪がほんのりと琥珀色に染まって見える。数日ぶりに会ったからか、その存在自体が美しかった。
「おう、カナ。早いな」
カナは薄手の白いシャツに膝丈のショートパンツ姿で現れた。眩しすぎる。夏の爽やかさを全部詰め込んだようなコーディネート。このまま、ロメールの『夏物語』に出演できそうないでたち。息が詰まりそうになる。
「おはよう」思わず笑顔がこぼれた。「今日楽しみで、早く目が覚めちゃった」
カナが嬉しそうに言う。
二人で電車に乗り込む。車内は夏休みの学生で混雑していた。窓際の二人掛けの席に座ると、カナの肩が自然と俺の肩に触れた。ほんの僅かな接触なのに、全身に電流が走る。
カナは前と変わらず気さくに接してくれるが、俺はどこか意識してぎこちない。あのカミングアウトの後、何もなかったかのように振る舞う彼に拍子抜けした気持ちもある。
俺のことが好きになりそうだから距離を取ろうとしたはずなのに――そんな疑問が頭をよぎる。
「なぁ、マリ」カナが窓の外に視線を向けながら切り出す。「ユナのこと、まだ気になる?」
「ん?ああ、まあ。俺のこと嫌いだよな」
カナは少し困ったような表情を浮かべる。
「実はさ、ユナって時々押しが強すぎるんだ」
「どういうこと?」
「高校の頃、俺が彼女の写真を褒めたことがあってさ」
カナは遠くを見るような目をした。
「それ以来、ずっとその言葉に縋っているみたい。何度『友達だ』って伝えても聞き入れないんだよ」
胸に小さな痛みが走る。彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。カナに認められたい思いは俺も同じだから。
「でも、お前、彼女のことを嫌いじゃないんだろ?」
「嫌いじゃないよ」カナは微笑んだ。
「幼い頃からの友達だし、大切な存在。でも...」
「でも?」
「でも、それ以上にはなれないんだ。わかるだろ?」
カナの視線が俺に向けられる。
「最近、ユナが何か企んでるみたいでさ。映画の撮影に口出ししたり、邪魔してこないか心配で」
「あいつ...撮影邪魔してくるのはさすがに...」思わず拳に力が入る。
「でも心配しないで」カナが俺の拳に自分の手を重ねる。温かくて気持ちが落ち着く。
「俺はマリと映画を作ると決めたんだ。それは変わらない」
その言葉に心が温かくなる。駅のアナウンスが海辺の駅到着を告げ、二人で電車を降りた。潮風が香る道を歩き始める。
海への道は坂になっていて、頂上に立つと青い海が一面に広がっていた。輝く水面と空の境目がわからなくなるほどの青さだ。
「すごい...」カナが息を呑む。
「ここで撮影したら、きっといい映像になる」思わず呟く。
「ねぇ、撮り方考えてる?」カナが俺を見上げる。
「ああ、ここでドレスシーンを撮りたくて」
俺は地面に構図を描くような仕草をした。
「カナが向こうから歩いてくるショットと、海を背景に立つミディアムショット、それと膝から下だけのクローズアップもいれたいな」
カナが目を輝かせて聞いている。
「マリって、本当に映画のこと好きなんだね」
「うん、好きだな」率直に続ける。
「今回の映画は、特に大切なんだ」
「どうして?」
「カナが出てくれるから」
思わず出た素直な言葉に、自分でも驚く。
カナの頬が赤く染まる。
「ありがとう...」
二人で砂浜に降りていった。誰もいない海岸。波の音だけが響いている。カナが突然、靴を脱いで波打ち際に駆け出した。
「冷たい!」カナが嬉しそうに叫ぶ。
「マリも来て!」
躊躇う俺の腕を引っ張り、カナは波の中へ連れ込む。冷たい海水が足首を濡らした。カナが水を掬って俺に向かって投げる。その笑顔に見とれて、呼吸が止まりそうだった。
まさに、青春のキラメキそのものだ。俺の脳内では、その笑顔がスローモーションで再生される。
「やめろって!」俺の脳内は忙しいが、アクションカメラで撮影しながら、反応する。
「こっちへ来て!ほら、向こうに岩があるから、あそこの映像も撮れるよ」カナがさらに沖へと向かう。
二人で足を濡らしながら、撮影ポイントを確認していく。カナの笑顔、水しぶき、輝く海、澄んだ空。すべてを切り取る。ロケハンと称してはいるが、この映像だけでも切なく、言葉にできない感情が込み上げてくる。
カナが岩の上に立ち、振り返り俺に叫ぶ。
「マリ、ここで撮影する?」
「いいね」俺は構図を確認する。
「ちょっと動いてみて」
カナがポーズを取る。白いシャツが風になびく姿を見つめながら、俺は思わず息を飲んだ。
「どう?」カナが岩から降りてきて、アクションカメラを覗き込む。近すぎて彼の息が頬に当たる。
「完璧だ」俺はアクションカメラを見つめたまま答える。
「お前は、カメラが本当に好きだな」
「写真はユナにはまだ敵わないけどね」
カナが冗談めかして言う。
「でも、俺のカメラはお前だけを映すからな」思わず出た言葉に、二人とも驚いて見つめ合った。
「俺しか撮らないの?監督とミューズの関係みたいだけど...まあ嬉しいけどね」カナが少し恥ずかしそうに笑顔を見せる。
「お前がアンナ・カリーナで俺がゴダールってことか?ちょっとおかしいけど、近いものはあるな」俺も笑ってしまう。
「俺の映画の主役はカナにしか出来ないからな」
映画監督が、同じ俳優を使い続けることはよくあるけれど、自分がそういう気持ちになるとは思わなかった。今まで、サークルメイトの作品は手伝っていたが、自分が監督をやろうと思ったのは、主演俳優が見つかったからだ。
カナと出会えたから。やはり、この出会いは偶然を超えた何かなのかもしれない……。ファム・ファタールではなく、オム・ファタール。まさに「運命の男」に出会ってしまったのかもしれない……。
時間を忘れて海辺で過ごした後、二人は小さな海辺のカフェに入った。潮風で疲れた体に冷たいドリンクが沁みる。
「マリ」カナが突然真剣な顔で切り出す。
「何?」
「明日からのリハーサルと撮影始まるけど、ユナがなんか言ってきても、気にしないで」
カナはストローで氷をくるくる回しながら言った。
「何処かで情報仕入れて俺らの撮影スケジュールに割り込んできそう...なんか、探るようなメールが毎日くるんだ...」
「やっぱり?諦めてないよな、お前のこと」
「なんか、企んでるような気がする……」
カナは言葉を選びながら話す。
「俺がマリの映画撮影期間中、写真サークルの活動に参加しないから怒ってるみたいで」
カナの真剣な眼差しに、言葉が詰まる。ただ頷くことしかできなかった。
カフェを後にした俺たちは駅に向かう。帰りの電車は、行きよりもさらに混雑していた。二人は立ったまま、吊革につかまる。揺れる車内で、カナの体が俺にぶつかる時、内側から熱が広がるのを感じた。
「今日は楽しかった。久しぶりに海で遊んだよ」
カナが小さな声で言う。
「ああ、俺も」
「マリと一緒だと、なんか安心するんだ。不思議だよね。なんでだろう」
そう言ったカナの瞳はいつもより熱く俺を見つめた。俺の鼓動は激しさを増す。
夕暮れの中、電車は工学寮の最寄り駅に到着した。
「マリ」駅を出たところで、カナが俺を呼び止める。
「マリの映画、本当に楽しみだよ」
茜色の光にカナの姿が溶けこむ。その言葉が、ユナの影を吹き飛ばした気がした。
「ありがとう」精一杯の笑顔を返し、各自寮の部屋に戻った。
部屋のドアを開けると、リョウが待っている。
「おう、デートは楽しかったか?」
「デートじゃないって」照れ隠しに否定する。
「映画の演技指導だ」
「へぇ〜」リョウは意地悪く笑う。
「で、どうだった?カナとの二人きりの時間は」
「いっぱい撮影の練習出来た!カメラワークは掴めたきがする。それと、ユナのことを話してた」ベッドに倒れ込み答える。
「あいつ、カナの幼馴染なんだけど、押しが強いらしいし、かなりシツコイみたいなんだ」
「だろ?」リョウが頷く。「あいつ、カナの周りをいつもうろついてるもんな。気持ち悪いぜ」
「でも、幼なじみだから仕方ないのかも...カナの事、諦められないんだろうな...」どこか彼女に同情する気持ちもあった。
「甘いな、マリ」
リョウが急に真剣な表情になる。
「あいつ、お前の映画の邪魔してくるぞ絶対。ユナなんかに負けるなよ」
リョウにもバレるくらい、ユナは動いているようだ。
「絶対負けない。映画は絶対完成させるぞ」強気で答える。
「そうこなくちゃ」リョウが満足そうに笑う。
「で、明日のロケハンどうする?」
「カナと約束してる。お前も来るだろ?」リョウの顔がほころぶ。
「いいのかよ、俺も行っても」とニヤニヤしている。
俺は適当にリョウをあしらい、明日のスケジュールを立て始める。
◇
夜、撮影したカナの映像を見返す。波打ち際で笑うカナ。岩の上でポーズを取るカナ。水しぶきの中できらめくカナ。すべてが眩しいほど美しい。
「カナ……綺麗すぎる……」
名前を呟くだけで、内側から温かさが広がる。もう自分の気持ちに嘘はつけない。俺はカナが好きだ。友達としてでも主演俳優としてでもない、もっと特別な意味で。
でも、俺はゲイなのか?バイセクシャルなのだろうか?それとも、ストレートでカナだけが好きなのか?これは恋愛感情なのだろうか?男と付き合えるのか?心の中で自問自答する。
明日からのロケハン、ユナとの対立、映画の撮影。すべてを乗り越えて、カナに自分の気持ちをはっきりさせて伝えたい。それが俺の決意だった。
窓の外、夏の夜空に星が瞬いている。あの日見た星空より、もっと明るく輝いて見えた。希望の光のように。
朝九時、駅のホームへ向かう。連日の映画のリハーサルとロケハン。カナの隣を歩くことにも少しずつ慣れてきた気がする。今日の彼は白いTシャツに薄いデニムのハーフパンツ姿だ。
夏のノルマンディーを舞台にしたオゾンの『Summer of 85』の世界観を彷彿とさせる。どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。特別な格好ではないのに、視線が自然と彼に引き寄せられる。
「電車、もうすぐ来るよ」カナが時刻表を指差し、「準備はいい?」と尋ねた。
「ああ」カメラバッグを持ち上げて見せる。
「ロケハンだから、軽装備で来たけど」
「俺も持ってきた」カナも自分のバッグを披露した。
「海の写真、撮りたくて」
電車に乗り込み、二人並んで窓際の席に腰掛ける。時折カナの肩が触れるたび、背筋にかすかな震えが走った。窓の外の景色は徐々に都会から離れ、緑豊かな風景へと変化していく。
「リョウ君は来ないの?」カナが唐突に質問してきた。
「ああ、急にバイト入ったって。それに、ロケハンだし、二人で十分かなって」
「そっか」カナはわずかに口元を緩めた。
「昨日の海でのリハーサル、楽しかったね。いっぱい動画撮って。二人だけの秘密みたい」
本当に二人きりで出かけるのは2回目だ。構図の勉強やアングル検討という口実をつけて。カナの動きを撮り放題のこの環境は、監督としては最高の機会だった。それだけなのか、自分でもよくわからない。
「楽しみだな」複雑な思いは飲み込み、シンプルな言葉だけを告げた。
カナはちらりと視線を送り、「うん」と小さく返した。その横顔に朝日が差し込み、光を受け止める瞳が煌めいていた。
昨日とは異なる、少し遠方の海へは約一時間。車窓の景色を眺めつつ、映画について話し込む。カナは意外にも映画の知識が深く、好きな監督の話題になると目の奥の輝きが増す。
「マリが監督するなら、今後どんな映画が撮りたいの?やっぱりオゾンみたいな芸術映画?」
「俺か?」考え込む。
「人が変わる瞬間を捉えたいかな。何かをきっかけに、ガラッと変化する刹那を」
「例えば?」
「例えば...」言葉を探る。「誰かを好きになって、世界の見え方が一変する瞬間とか」
言いながら、はっとした。まるで自分の現状を語っているようで、思わず言葉が詰まる。
「それ、いいね」カナは真剣な表情で同意する。
「じゃあ、今回の映画は?」
「今回は...夏の終わりに、何かを得て、何かを失う物語」照れくさくなる。
「失うの?」カナは驚いた表情を浮かべた。
「ああ、夏そのものを失うんだ。でも、その代わりに何か大切なものを獲得する」
カナは窓の外を見つめ、「なるほどね」と呟く。
海に到着したのは10時半頃。駅から少し歩くと、広大な砂浜が目の前に広がっていた。真夏の太陽に照らされ、海の青さが際立っていた。
「わぁ!すごく美しい海だね」カナの声に高揚感が溢れている。普段クールな彼にしては珍しい反応だ。
「ああ」ただ頷くことしかできなかった。
二人で砂浜を歩きながら、撮影ポイントを探索する。ノートに場所や時間ごとの光の具合をメモしていく。カナは時折カメラを取り出して風景を収めている。
「ここ、いいんじゃない?」カナが岬の先端を指差した。「あそこにドレスを着た人が立つと、すごく映えそう」
「ああ、いいね。じゃあ、あそこでドレスシーンを撮影しよう」
二人で岬に向かって歩いていると、突然カナが足を止める。
「あれ、ユナ?」
視線の先には、確かにユナの姿があった。写真サークルのメンバー数人と一緒に。一瞬、身体が固まる感覚に襲われた。
「どうして...」思わず呟く。
「奏多くん!」ユナがこちらに気づいて手を振った。にこやかな表情だが、どこか意地悪な笑みが混じっている。
「偶然ね!私たちも下見に来てたの」
偶然のはずがない。不自然すぎる。どこからか情報を入手したに違いない。
「あの、そこのポイント、私たちが使うから」ユナが岬を指差した。
「私のポートレートと映画のロケ地にするの」と言い切る。
「え?でも俺たちが先に...」カナが困惑した表情で言いかけた。
「大丈夫よ」ユナが甘い声で言う。
「私が青いドレス着るから、マリ先輩のイメージ通りになるわ」
何様のつもりだ。内側から怒りが噴出しそうになる。
「ドレスはカナ以外には着せない」思わず強い口調になった。
「俺の映画では」
「えー、でも私の方が似合うと思うな」ユナが意地悪く微笑む。
「それとも、奏多くんを本当に女装させる気なんですか?マリ先輩、変態じゃないですか?」
その言葉に、カナの表情が曇った。俺の拳に力が入る。
「ユナ」カナが冷たい声で言う。
「約束したのはマリとだ。俺が着ると決めたんだ」
「何言ってるの?男の子が女の子の服着るなんて、おかしいでしょ」ユナの声には明らかな悪意が含まれていた。
「おかしくない」反論する。
「映画だ。役なんだよ」
ユナは唇を尖らせた。
「奏多くん、本当にそれでいいの?みんなに変な目で見られるよ?」
カナの表情が一瞬揺らいだ。不安?恐れ?読み取れない感情が彼の顔をよぎる。世間からの視線に敏感なカナの弱みを、ユナは正確に突いてくる。
一歩前に出て、「カナの判断だ。俺は彼を信じてる」と告げた。
「奏多くん」ユナが甘えた声で呼びかける。
「私と一緒に素敵な写真集作りましょう?青いドレスも似合うって言ってくれたじゃない」
カナが黙り込んでしまう。迷っているのか?不安が募り、その横顔を見つめる。
「マリ」突然、リョウの声が聞こえた。
「おーい、遅れてゴメン!」振り返ると、リョウが走ってきている。バイトのはずでは?
「リョウ?どうして...」
「バイト、早上がりさせてもらったんだ。お前たちが心配で」リョウが息を切らしながら説明した。
「マリ、頑張れよ」リョウの言葉に、不思議と勇気が湧いてくる。彼はやはり幼馴染だ。普段はふざけてばかりだけど、こういう時、いつも支えになってくれる。
「カナ、どうする?」彼の目をしっかり見つめた。
カナはしばらく沈黙していたが、ふっと顔を上げる。
「マリの映画に出る。約束したから。何度も言ってるよ?」
「え?でも奏多くん!」ユナが少し怯む。
「ごめん、ユナ」カナはきっぱりと告げる。「俺はマリの映画に出るから、諦めて欲しい」
ユナは悔しそうな表情を浮かべる。写真サークルの仲間の「もう行こうよ」という呼びかけに、しぶしぶといった様子で、ユナたちは別の場所へ移動していった。
「ふぅ」リョウが溜息をつく。
「なんか凄い緊張感だったな。三角関係ってこんななんだ」とおちゃらける。
「何言ってんだよ」苦笑しながらリョウの肩を叩く。
「でも来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。お前のラブストーリー、見届けないとな」と俺をからかう。
「ラブって……違うぞ!映画の話だ!」顔を熱くして反論した。
リョウは意味深に微笑み、俺はその視線に居心地の悪さを感じ、目を逸らす。
「あのさ」カナが恥ずかしそうに言った。
「本当にドレス、着るから。マリの映画のために。マリに撮ってほしいんだ、俺自身を」
その言葉に心の奥が熱を帯びる。カナは本気だ。彼は俺の映画のために、殻を破ろうとしている。
「ありがとう。必ず、最高の映画にするから」
精一杯の思いを込めて伝えると、カナは輝く笑顔をこちらに向けた。この夏の海よりも鮮やかだと思った。
三人で海辺を歩きながら、撮影プランを練る。途中、カナは俺たちにもカメラを向けた。波打ち際で笑うリョウと俺。岬に立つシルエット。無言でシャッターを切るカナの姿は美しくて、その姿を俺も撮りたくなった。
夕方近くになり、帰りの電車に乗る頃には、完璧なロケ計画が出来上がっていた。
「じゃあ、来週から本格的に撮影開始だな」リョウが言う。
「うん。楽しみ」カナが頷く。
電車の中、疲れて眠るカナを見つめながら、思いを巡らせる。この映画は、きっと特別なものになるだろう。単に自分の作品というだけではなく、カナとのこの夏の記憶として。
寝顔を見ていると、ふと気づく。もう否定できない。カナへの感情が友情の域を超えていることを。認めたくても、それが怖い。彼を受け入れたら自分はどうなってしまうのか。
リョウが以前「カナはお前のことが好きなんじゃないか」と言ったことを思い出す。そのとき即座に否定したけれど、今は違う。
カナはゲイだと打ち明けてくれた。お互いがストレートなら、もう少し単純だったかもしれない。この複雑な感情をどう扱えばいいのか。信頼を裏切りたくないし、答えを間違えたら取り返しがつかない。その責任感に押しつぶされそうになりつつも、この鼓動の高まりも無視できなかった。
窓の外に沈んでいく夕日を眺めながら、この夏がどう終わるのか、まだ想像もつかなかった。ただ、カナと過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていることだけは確かだ。
夕焼けに染まる海辺の光景が、遠ざかっていく。
◇
あのロケハンから一週間後。いよいよ本格的な撮影が始まった。海辺でのドレスシーンは特に重要で、朝早くから準備を整えていた。
「今日の天気、最高だな」
リョウが機材を並べながら声をかけてくる。
「マリ、どんな感じで撮影する?」
手元の絵コンテを指さす。
「まず岬のシルエットから始めて、それから波打ち際のシーンへ。光の角度が変わるから、時間との勝負だ」
潮風が吹く中、カナがライトブルーのドレスを身にまとい波打ち際を歩く姿は、カメラ越しでも目を奪われるほど優美だった。波が足元を濡らすたびに振り返るカナの表情が、どこか儚くて呼吸が浅くなる。
『ただの映画用のイメージじゃない。カナがこんな近くにいるからだ』と心の中で呟いたところで、リョウに「マリ、顔赤いぞ」と指摘された。「日差しが強くて暑いんだ」と誤魔化す。
午後になるにつれ潮風が強まり、撮影はより難しくなっていく。それでもカナは文句一つ言わず、何度も同じシーンを繰り返してくれる。ドレスの裾が風に舞い、彼の細い肩が夕陽に染まる光景は、まるでファンタジー映画のヒロインのようだった。
「OK!これで完璧!」
最後のカットを終え、満足げに声を上げた。カナは疲れた表情ながらも、緊張感から解放されていた。
「良かった。マリの想像通りになった?」
「想像以上だよ」正直な気持ちを伝えると、カナはホッとした表情を見せた。
撮影を終えて機材を片付けていると、リョウが突然声をひそめた。
「おい、マリ。あそこを見ろよ」
振り返った先、少し離れた砂浜にユナの姿がある。青いワンピース姿で、写真サークルのメンバーと何か話している。
「まだ諦めていないのか」思わず声が漏れる。
「気にするな。衣装まで被せてくるなんて、あいつマジでヤバい」呆れ顔でリョウが俺の肩をポンと叩き、「今日の撮影は最高だったぞ」と励ましの言葉をくれた。
◇
その夜、予約していた海辺のコテージに泊まる。夕食後、カナとリョウには先に部屋へ戻って休んでもらい、明日の撮影プランを一人で考えたくて、俺は浜辺を散策していた。波の音を聞きながらイメージを膨らませていると、背後から声がかかる。
「一人で何してるんですか?マリ先輩」
振り返ると、ユナが立っていた。月明かりに照らされた彼女の表情には、いつもの高慢さがない。どこか寂しげで、初めて素顔を見た気がした。
「ユナ...なぜここに?」
「私も撮影で来てるんです。さっきも会いましたけど」彼女は砂浜に腰を下ろそうとして、「座ってもいいですか?」と俺に許可を求める。
「ああ」警戒しながらも、隣に座ることを許す。
「奏多くんのこと、本当に大切にしてるんですか?」不意にユナが問いかけてくる。
「当然だよ」躊躇なく答えた。
「カナは俺にとって特別な存在だから」
「そうですか」ユナは遠い目をして海を見つめた。
「私、ずっと前から奏多くんの事が好きなんです。でも、最近の奏多くんの目には、マリ先輩しか映っていないみたいで...」
その言葉に息を呑む。ユナの行動は全て嫉妬からだったのか。
「私の映画、全国大学映像コンテストで一位を取ります」彼女は急に声のトーンを変えた。
「先輩達も私の味方。このままだとマリ先輩の映画は応募も難しいかもしれませんね。各大学から一本しか応募できないらしいし」
「何だって?」思わず声が上ずる。
「奏多くんに伝えておいて下さい。明日、私に会いに来てほしいって」ユナは立ち上がり、砂を払う。
「選ぶのは奏多くん自身ですよね?」そう言い残して、彼女は暗闇の中へ消えていった。
部屋に戻ると、カナとリョウはまだ起きていて編集プランを話し合っていた。ユナとの会話は二人には話せない。特にカナには余計な不安を与えたくなかった。
◇
翌朝、カナが「ちょっと出かけてくる」と言い残して部屋を出て行く。懸念が頭をよぎり、リョウを残して後を追う。
海辺のカフェで、カナとユナが向かい合っている姿を発見して、近づいて話を聞こうとすると、ユナの声が風に乗って聞こえてきた。
「マリ先輩の映画なんかより、私の映画はコンテストで一位取れるよ。私の方が撮影技術が高いし、写真も上手いでしょ?それに、あんなドレス着た映像が残るなんて、みんなの笑いものになるだけだよ」
カナは黙って聞いている。その姿を見るのが辛かった。
「藤崎先輩も言ってたよ。マリ先輩の映画は選考から外されるって。奏多くん、私と一緒に素敵な映画を作りましょう?」
「これで奏多くんは私のもの」と言わんばかりのユナの笑顔。俺は居ても立っても居られなくなり、その場から立ち去った。
部屋に戻ると、リョウが心配そうな顔で俺に話しかける。
「どうした?顔色悪いぞ」
「もうダメかも」膝を抱えて床に座り込む。
「俺の映画、選考から外されるかもしれない。カナもとられるかも...」リョウは真剣な表情で前にしゃがみ込んだ。
「選考外されるって何?それに、カナはお前を選んだんだろ?」
「ユナが言ってたんだ...」
「あいつにまたなんか言われたのか?諦めるなよ。まだ分からないだろ?」リョウがきっぱり言い切る。
「カナの事も信じてやれよ」と言うリョウの言葉に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「ユナなんかに負けたくない。カナと約束したんだ」
「そうだ」リョウが笑顔で俺を諭す。「それがお前だ」
その時、部屋のドアが開き、カナが戻ってきた。予想以上に早い帰還に驚く。
「カナ...」
「ユナに会ってきたよ」カナが静かに言う。
「彼女の誘いを断ってきたんだ」
「本当に?」
「悪いけど、俺はマリの映画に出る。ユナの企画は自分で頑張ってって伝えた」カナは照れくさそうに言う。
「ユナ、かなり怒ってたけどね」
「でも、藤崎先輩が...」
「知ってる」カナが頷く。
「コンテストの選考は、上映会で決められるから、ユナの映画に勝てばいいんだよ。マリには出来るよね?」
「上映会で皆を認めさせればいいってこと?」
「そう。いい映画が出来れば皆に認められるよ。それに審査員長は外部の専門家に依頼するらしいから、本当に実力勝負だ」カナがまっすぐに俺の目を見つめた。
「やるだけやってみよう」
カナが差し出した手を握ると、不思議な安心感が全身を包んだ。温かいその手を強く握り返す。
「よし」リョウが二人の背中を叩く。
「じゃあ、最高の映画を作ろうぜ!」
俺たちは気合を入れ直して撮影に取り組み、この日のスケジュールを計画通りに進めた。
撮影は順調で、デジタル映像の編集作業も今日から同時に行う。8ミリフィルムの編集が始まるまでに終わらせる予定だ。2つの映像を効果的に使い1本の短編映画に仕上げる。
明日はついに映画のクライマックスシーンの撮影。カナの姿を思い浮かべながら、カメラワークのシミュレーションを行う。再び心を引き締め直し、彼が俺を選んでくれたことの意味を、この映画に込めようと決意する。
撮影二日目の早朝。波の音と潮風の香りで目を覚ました。コテージを出て一人、静かな海辺に向かう。
「今日はいよいよクライマックスか」
砂浜に腰を下ろし、揺らめく波を見つめながら呟く。カナの最も重要なシーンの撮影日。彼のあのセリフを、俺のカメラに収めるのだ。
「マリ先輩、こちらですよ!」
振り向くと、映画サークルの後輩たちがすでに機材を準備していたので、慌てて駆け寄った。
「ごめん、今行く!」
緊張と期待で呼吸が浅くなる。昨夜はほとんど眠れなかった。上映会で俺の映画とユナの映画、どちらがコンテストに選ばれるのか。カナのためにも絶対に良い作品に仕上げ、みんなに認められたい。
「カナはどこ?」
「着替え中だよ」リョウが小屋の方を指差す。
「緊張してんの?顔真っ赤だぞ」
慌てて頬に手を当てる。熱い。
「うるさい。監督なんだから当然だろ」
機材をチェックしていると、不穏な空気が漂ってきた。視線を上げると、ユナが見知らぬ男性を連れて近づいてくる。
「マリ先輩、紹介します。演劇サークルの高山くんです。今日のシーン、彼に演じてもらうのはどうですか?奏多君より演技も上手いですよ」
ユナの言葉に、堪忍袋の緒が切れた。まだ諦めていなかったのだ。しつこすぎる。
「勝手なことするな。主役はカナだ」
「でも、マリ先輩の作品は演技力が必要ですし、プロっぽい高山くんじゃないと、上映会で恥をかきますよ?」
ユナの言葉には反応しない、絶対負けない、もう引かないと決めたのだから。
「黙って見ていろ」
静かに告げ、8ミリカメラを手に取る。このシーンは深い感情を伝えたいので、三脚は使わずに、手持ちで撮影する。全盛期のウォン・カーウァイ風の演出だ。
「リョウ、カナを呼んでくれ」
リョウは笑みを浮かべながら小屋へ走った。
数分後、一人の姿が現れ、俺は息を呑む。
ライトブルーのドレスを纏ったカナが、朝日に照らされて輝いている。その姿は昨日よりも洗練され、研ぎ澄まされていた。そよ風にドレスの裾をなびかせ、素足で白い砂浜に柔らかな足跡を残しながら近づいてくる。朝日が生地を透かし、カナのシルエットが波と溶け合う。
波に消される前の砂上の足跡—それは彼の存在が儚くも美しいことを物語っていた。昨日も撮影したが、今日が実質本番だ。セリフを収めるため、カナも俳優としての表情を完璧に作り上げている。
8ミリカメラを握る手に汗が滲む。これを撮らずして何を撮るというのか。
「カナ...」
思わず声が漏れる。オゾンの『サマードレス』へのオマージュだが、もはや独自の世界が展開していた。まったく違う角度から『サマードレス』を解釈し、自由に表現する。
カナが目の前で足を止めると、周囲の空気が凍りつく。彼の瞳が俺だけを見つめ、唇が動いた。
「マリが撮りたいのは俺だ」
その一言でユナの表情が硬直した。高山と名乗る男も困惑した様子で立ち尽くしている。カナの代わりにこの役ができるなど、本人も思っていないだろう。
「はい、みんなスタンバイして。準備はいいか?」
カメラを構え直す。緊張で手が震えるが、今は迷いを見せるわけにはいかない。照明スタッフがレフ板の位置を調整し、音声係、デジタルビデオカメラもセット完了。
「あそこから歩いてくれ。波打ち際から砂浜を横切るように」
カナは無言で頷き、指定した場所へ移動し、瞳を閉じて集中している。
「シーン七。第一カット!レディ...アクション!」
カナが瞳を開き、歩き始める。ドレスの裾が風にたなびき、彼の全身が物語を紡ぎだす。
突然、海からの風が強まり、三脚に固定したカメラが揺れ始める。リョウが機材に飛びついて支える。ここは長回しだから途中で止められない。
「大丈夫、撮り続けろ!」
リョウの声にうなずき、カナを捉え続ける。風は強くなる一方だが、カナは歩みを止めない。むしろ風がドレスをより美しく舞わせている。自然が味方についたようだ。
「このまま行け!」
カナはまるで風と一体化したように優雅に砂浜を進む。背後では、メンバーたちが必死に機材を守っている。
少し離れた場所で、ユナが腕を組んで見つめているのが視界の端に入った。「絶対に負けない」と再び心の中で誓う。
ファインダー越しのカナは、これまで見たどんな俳優よりも美しい。幽玄の美の化身そのものだった。彼の一挙手一投足がカメラを通して魂に刻まれていく。
「ここで振り返って」
カナがゆっくり振り返る。彼の表情をクローズアップしていく。その瞳が俺を捉えた瞬間、カナの言葉が自然と溢れ出た。
「Do you love me?」
カナが振り返った瞬間から言い終わるまで、俺は息をすることさえ忘れていた。時が止まったような静寂の中、心臓だけが脈動を続けている。
カナは完璧に指導通りの演技で、説明できない複雑な表情を見せ、感情豊かな芝居を披露してくれた。
この後「No, thank you」と書かれたテロップを映してシーンは完成する。
「カット!」
周囲から拍手が沸き起こる。リョウが俺の肩を叩いた。
「マリ、すげえ!最高傑作だろこれ!」
メンバーたちも興奮した表情で集まってくる。
「マリ先輩、素晴らしいです!」
「これ、コンテストで賞取れるんじゃない?」
「奏多の演技に引き込まれた!」
ファインダーから目を離し、カナを見る。彼は少し照れた表情で佇んでいた。視線を感じて振り返ると、ユナがこちらを見ている。彼女は唇を噛みしめ、高山の腕を引いて去っていく。
「...悔しい」
かすかに聞こえた言葉だった。彼女の背中が小さくなる中、一度だけこちらを振り返る。目に宿るのは涙か、それとも悔しさか。一瞬だけ同情を覚えたが、すぐにカナの方へ視線を戻す。
彼に歩み寄る。白い肌に映えるライトブルーのドレスを着たカナの姿は、一生忘れられないだろう。
「カナ、最高だったよ。ありがとう」
言葉にならない想いが込み上げた。カナの表情が柔らかくなる。
「マリ...」
彼が近づき、俺の頬を両手で包み、頬に流れる涙を指で優しく拭う。ドレスの裾が俺の脚に触れる。
「"Do you love me?" 上手く出来てた?」
カナの問いに頷く。
「うん。凄く良かった。気持ちが伝わってきた」
カナの瞳が揺らめく。何かを言おうとした時、リョウが声をかけてきた。
「おーい!次のシーンの準備するぞ!」このタイミングで...。苦笑しながらカナに耳打ちする。
「また後で話そう。今日の夜、コテージで」
カナは小さく頷く。その表情には、何かが始まるという予感に満ちていた。
◇
その日の撮影は順調に進む。カナのドレス姿は想像以上に美しく映像に収まり、スタッフも達成感にあふれていた。
ユナ達のその後は、撮影現場には戻る事は無く、長かった彼女の嫌がらせがようやく終わりを告げたようだ。
「お疲れ、終わりだ」
最後のカットを撮り終えても、俺は8ミリカメラが切れるまでカナの姿を追い続けた。少しでも多く彼の姿を収めたくて。そして、カラカラと最後のフィルムの巻き終わる音を確認した。
撤収が終わる頃、夕陽が海面を赤く染め始める。
「マリ」
背後からのカナの声に振り返ると、彼はもう普段着に戻っていた。少し寂しい気持ちになる。
「どうした?もう休憩してていいよ」
「さっきの...あのセリフのこと」カナの目が真剣だ。
「あれは本当に...」
続きを聞きたかったが、またしてもリョウが割り込んできた。
「おーい!打ち上げするぞ!機材片付けたら海辺でバーベキューだ!」
「また後でな。今夜、必ず話そう」
カナに小声で告げると、彼は少し不満そうな顔をして頷く。
打ち上げのバーベキューは賑やかだった。皆で今日の撮影を褒め合い、コンテストでの受賞を夢見る。でも、俺の意識はずっとカナに向いていた。彼は少し離れた場所で、一人海を見つめている。
「なあマリ」リョウが肩に手を置く。
「お前とカナ、何かあったのか?」
「え?何が?」
「隠すなよ。あの"Do you love me?"って何?あの意味深なセリフ。現実と映画が並行してんじゃないのか?」
リョウの鋭い指摘に動揺する。
「...俺の気持ちが映像に映り込んでいたのかも」
「お前らしいな。恋愛体質の監督みたいでちょっとオモロい」
リョウはいつものふざけた調子でからかう。しかし、真面目なトーンに変わる。
「でも、今日のカナは特別だったぜ。お前の映画の中のカナは、いつもと違っていた」
リョウの言葉に何も返せず、ただ頷く。彼は遠くにいるカナの方を見て、にやりと笑った。
「がんばれよ」
夜も更け、メンバーたちが次々とコテージに戻っていく。最後に残ったのは俺とカナとリョウだけだった。
「俺、先に戻るわ」リョウがわざとらしく伸びをしながら言う。
「二人でゆっくり話せよ」リョウは意味ありげな笑みを浮かべると、砂浜から立ち去った。
静寂に包まれた浜辺。波の音だけが響く中、カナが俺の隣に座る。
「今日は...ありがとう」海を見つめながら言う。
「なんで?」
「あのドレスを着てくれて。ユナが連れてきた奴じゃなくて、お前が出演してくれて」
カナはしばらく沈黙していた。そして、ぽつりと漏らす。
「マリが撮りたいのは俺しかいないのに、他の人に代わるなんてあり得ないだろ」その言葉に胸が高鳴る。
「本当に...そう思ってる?」振り向くと、カナの瞳が月明かりに照らされてキラキラと輝いていた。
「"Do you love me?"って何で俺に言わせたの?」
「『サマードレス』にも使われてるからかな...。意味合いは違うけど」
心臓の鼓動が早まる。カナが近づくにつれ、呼吸が苦しくなっていく。触れたら何かが壊れてしまうのではないかという恐れと、この瞬間が夢なら、目覚めたくないという願いが同時に押し寄せた。
「どういう意味合い?」
カナの指先が砂浜に置いた俺の手に触れる。その接触点から温かさが広がっていく。徐々に二人の距離が縮まり、膝が触れ合う位まで近づいていた。
「本当は、『愛してる?』って聞いて『うるさい』って返すんだけど、『No, thank you...』『いらない』って感じに変えてみたんだ」
「ふーん。愛してる?って俺に聞いて欲しいってこと?」
そう言って、カナは真っ直ぐな熱い視線を向けてきた。俺の心はその熱に溶かされ、本音がこぼれ落ちた。
「俺が、カナに聞いてみたい言葉かも」
「ふーん。俺は、"No, thank you"じゃないけど」
カナの指が俺の手の甲から腕へとゆっくり這い上がり、そっと身体を引き寄せられる。月光を浴びた彼の肌は磁器のように白く、琥珀色の瞳は神秘的な輝きを放っていた。俺は彼の顔の輪郭を指でなぞりたいという衝動に駆られる。
そして――彼の唇が俺の唇に重なった。
その瞬間、時は止まり異次元へ誘われる。波の音だけが鼓膜を震わせ、世界には俺とカナしか存在していないかのような夢幻的な時間。彼の唇は驚くほど柔らかく、かすかに塩味を帯びていた。海の香りだ。
「これが答えだ」
キスの後、カナが囁いた。その声が波音に溶け込む。月明かりに照らされた彼は、現世のものとは思えない美しさだった。温かい手のひらが俺の首筋に触れ、ゆっくりと髪に差し入れられる。その感触に全身が震えた。
「理解できた?」
カナの瞳が俺を見つめる。
「ああ……カナの気持ち、わかったよ。俺の気持ちもわかった?」
今度は俺がカナの顔を覗き込む。
「うん……好きって言えるようになった?」
カナの声が少し震えている。俺は心臓の鼓動を抑えながら、勇気を出して本当の気持ちを初めて語る。
「待たせたけど……ずっと好きだったんだ」
告白の言葉を紡ぐと、カナの表情が満ち足りた微笑みに変わっていく。彼の笑顔は砂浜に降り注ぐ月明かりよりも明るい。
「窓から覗いてたもんね」
「ああ。毎日見てた。本当変態だな俺」
カナは柔らかく笑った。その笑い声は海風に乗って心地よく響く。
「俺もマリのこと、変態って言えない...裸の写真いっぱい撮ったし」俺も笑みをこぼす。
「あの写真撮影の時から俺のこと好きだったの?」
「うん。撮ってる途中から確信に変わった。俺、興味ある人しか、あんな写真撮りたいって思わないから」
二人は見つめ合い、砂浜に横たわって空を仰ぐ。夏の夜空は無数の星で彩られている。カナの横顔を観察すると、いつも以上に魅力的だ。
「星、綺麗だな」
カナの言葉に頷く。だが、俺の視線は星空ではなく彼に釘付けだった。すると突然、カナが上体を起こし、俺の上に覆いかぶさるように位置を変えた。
「見つめすぎだろ。いつもだけど」
俺はバレてたかと思い笑ってしまう。しかし、カナは真剣な表情で続けた。
「でも、今日一番綺麗だったのはマリだよ」
カナの言葉に鼓動が加速する。彼の手が俺の頬を撫で、髪を耳に掛ける。その指先が耳たぶを撫でると、鳥肌が立った。
「カナ...」
言葉を失う。彼が俺の上にかがみ込み、首筋に唇を寄せる。暖かい吐息が肌を撫で、全身に小さな電流が走った。カナの手が俺の胸元に触れる。
「いい?」
その問いかけに頷くことしかできない。カナの指先が胸元を優しく辿り、首筋に続く唇の感触に言葉を失う。
やがてカナが俺の背中に両手を回し、静かに抱き寄せた。その温もりに幸福感が全身を包み込む。肌と肌が触れ合う感覚は、これまで味わったことのない特別なものだった。カナの心臓の鼓動が俺の胸に伝わってくる。
そして再び唇を重ね、互いを求め合う。波の音を伴奏に、二人の心が通じ合うように気持ちを確かめ合っていく。言葉以上に多くのことを、その夜の海辺で分かち合った。
カナの手が俺の背中を滑り、腰に回っていく。その感触に呼吸が乱れる。星空の下、波の音に包まれながら、二人は初めての愛を確かめ合った。
◇
月が西に傾き始めた頃、二人は砂浜から立ち上がった。服装の乱れを直しながら、互いの身体についた砂を払い合う。そして視線を交わす。言葉なしでも通じ合えるようになっていた。
「冷えてきたな」
カナが俺にピッタリと、寄り添う。二人でコテージへ戻る道すがら、勇気を出して切り出した。
「上映会が終わったらさ...」
言葉の続きを探していると、カナがさっと手を取ってきた。彼の指が俺の指と絡み合う。その感触だけで満たされる。
「うん、一緒に何かしよう。映画撮影が終わってもこのままでいたい」
カナの手が温かい。指が絡み合う。この繋がりが永遠に続くことを願った。
「ああ、もちろんだ」
夜道を二人で歩きながら、星空を見上げる。満天の星が未来を照らしているような気がした。静寂の中、砂を踏みしめる音だけが響く。
「でもさ、マリ」カナが立ち止まって見つめてきた。彼の眼差しに魅了される。
「今度はドレスなしでいいよね?あれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ」
思わず笑い出した。緊張が一気に解ける。カナも笑い、その笑顔は星明かりの下でキラキラと輝く。
「ドレスも似合ってたけど、普段のお前で充分だ」
コテージのライトが見えてきた。明日から編集作業が本格的に始まり、上映会に間に合わせる。これからが本番だ。カナの手を強く握る。
「でも、またマリの裸の写真は撮りたいかな」
「変態だな」二人は笑い合う。
カナが俺の唇に優しくキスをする。
「好きだよ」
「俺も好きだ」
二人の指が強く絡まり、夏の終わりに交わしたその言葉が、確かに未来へと繋がっていく。
俺は幸せを感じていた。砂浜に残る二人の足跡は、やがて波に消されるだろう。でも、映像に残るカナの姿と、今夜の記憶は永遠に消えることはない。
初夏から始まった恋は、夏の終わりに、ついに両思いとなり幕を閉じた。今年の夏は一生忘れられないだろう。指を絡ませたまま歩く二人の影が、月明かりに長く伸びていく。