あの夏、工学寮の窓辺でカナを見た瞬間、俺の胸がざわついた。
7月中旬。梅雨明け宣言はまだないのに、既に猛暑の日々が続く。扇風機がフル稼働しても部屋は蒸し風呂状態だった。汗が背中に滲み、Tシャツが肌に貼りつく。窓を開ければ外の熱気が流れ込み、遠くのセミの鳴き声が響いた。
夏休みで人が減った工学寮には静けさが漂い、扇風機の「ガーガー」という音だけがその静寂を破る。アスファルトから立ち上る陽炎。タンブラーの水はとっくにぬるくなっている。
「くそ、暑すぎる...」
軽くため息をついてベッドに寝転がり、汗ばんだ額を腕で拭う。床に散らばったDVDケースの山を見つめる。誰にも見せない、俺だけの秘密の宝物だ。
名前は 真梨野悠。あだ名はマリ。工学部3年、21歳。高校時代はラグビー部だった。筋肉質な体と日焼けした肌、短く刈り上げた髪は今は随分と伸びている。大学でも部活に誘われるけど、俺の心は既に別のものに奪われていた。
映画だ。それも単館系の、芸術的で人を選ぶような作品。
友達は「マリが?」と驚いて笑う。体育会系なのに映画オタクというギャップが面白いらしい。でも俺にとっては当たり前のこと。スポーツも映画も、人間の肉体と精神の限界に挑むものだから。
特に惚れ込んでいるのはフランソワ・オゾン監督の作品。床から『サマードレス』のDVDを手に取った。俺の人生を変えた映画だ。この約15分間のショートムービーはオゾンを世界に認めさせた斬新な作品。
高校2年の冬、小さな映画館で初めて観た時の衝撃は今でも鮮明に残っている。真冬の寒さの中で見た、眩しいほどの夏。青い海に照りつける太陽、青空にも負けないライトブルーのサマードレス。
服を盗まれた主人公が、アヴァンチュール後の女性に借りたドレスを着るシーン。アンバランスな魅力が溢れ出る様子。首にドレスを巻いて自転車で走るシーンは映画好きの心を掴む。
感情の動きを表す個性的なカメラワークと光と影が織りなす映像美。あの瞬間、映画館の暗闇で、俺は初めて映画の力を実感した。
「いつか俺もこんな映画を撮りたい」
そう思った瞬間から、夢が始まった。
DVDの表面を指でなぞる。この中に永遠の夏が閉じ込められていた。光と影、風と海、儚い恋が息づいている。
ベッドに身を投げ出して天井を見上げれば、扇風機の風で揺れるカーテンが『サマードレス』の印象的なシーンを呼び起こす。映画の中の時間が俺の部屋に重なり、暑さが少し和らいだ錯覚に浸る。
「マリ、またそこでボーッとしてるの?」
廊下から幼馴染の 高橋亮が声をかけてきた。工学部3年で隣の部屋に住んでいる。リョウとは小学校からの付き合いで、なぜか同じ大学に進学し、同じ寮の隣の部屋。
俺の恥ずかしい過去を全部知っている相棒。夏のアイスクリーム屋で転んで泣いた小学2年の俺も、初恋で振られてゲームに逃げた中学の俺も全て見てきた男だ。
入浴後らしく、濡れた髪から水滴が首筋を伝う。肩にタオルを掛け、手にはアイスキャンディーを持っている。噛む音が廊下に響き、甘い匂いが漂う。汗で濡れたTシャツが肩に張り付き、その姿を見ただけで暑さが倍増する。
「うるせぇな」
「またカナのこと見てたんだろ?」
リョウが意地悪く笑い、俺にアイスを食えと渡す。俺は廊下に出てムッとしながらもアイスを頬張る。
「見てねぇよ」
嘘だ。見てた。見ずにはいられない。
奏多怜。あだ名はカナ。工学部2年で写真サークル所属。身長175cmくらいの細身で、落ち着いた雰囲気と繊細な顔立ちが印象的だ。黒髪は少し長めで、前髪が目にかかると無意識に手でかき上げる。その仕草がアンニュイで妖艶で、目が離せない。
俺より一回り小さいけど、存在感は抜群。工学寮を歩く姿は別世界から来たように見える。物静かで言葉数は少ないが、その瞳の奥には何かが燃えていた。カナを見ていると、不思議な気持ちに包まれる。
カナの部屋は斜め前。廊下を挟んで少し離れているが、俺の窓からカナの窓がチラッと見える。夕暮れ時、写真を撮る真剣な横顔や読書に没頭する姿が目に留まった。
カーテンの隙間から漏れる光が彼を照らし、まるでルコント映画『仕立て屋の恋』の有名なシーンのようだ。見てはいけないと思いつつも見てしまう。最近では、それが密かな楽しみになっている。
「覗きとか変態じゃん」リョウが冷やかす。
「うるせぇって。見えるんだから、しょうがないだろ。あいつ、映画に出てきそうな雰囲気あるだろ?」
「はぁ?」
「単館系の俳優みたいなんだよ。なんていうか...オーラが輝いてるんだ」
リョウが目を細めて、「お前、またか」と呆れた顔をした。アイスを口に放り込み、わざとらしく首を振る。
「お前、またヘンな映画見ただろ」
「ヘンじゃねぇよ」
確かに一般受けする映画じゃないかもしれない。でも『サマードレス』は俺の人生を変えた作品だ。大学で映画サークルに入ったのも、いつかあんな映画を撮りたいと思ったから。
教授からは「真梨野の感性は面白い」と言われる。体育会系の外見と繊細な映像感覚のギャップが、俺の強みなのかもしれない。
カナを見ていると、その感性が疼く。あいつを撮れば、何か特別なものが生まれる気がしてならない。俺の映画にカナが必要だと、心の奥で叫んでいた。
「よお、カナ。暑いな」
ちょうどカナが廊下に出てきて、外に出ようとしていた。俺は自然を装い大きめな声で話しかける。心臓が早鐘を打った。
カナが振り返った。薄いグレーのTシャツに身を包み、首にカメラをぶら下げている。汗で湿った前髪が瞳を隠していたが、その奥に見える深い琥珀色の瞳には、凍てつく湖のような静寂が宿っていた。なぜか一瞬ドキッとしてしまう。まるで俳優の卵のように輝く姿。
「先輩、今日も元気ですね」
カナの声は低めで落ち着いていて、敬語が自然だ。言葉の間に微妙な間があり、それが重みを持つ。俺はその声に引き込まれ、掌が汗ばみ、喉が詰まる感覚に襲われる。
「ああ、元気だよ」照れて頭をかき、「今日もカメラか?」
「課題です。人物を撮ります」
「へぇ、俺じゃダメか?」
と言ってみると、「先輩は暑苦しいんで」とカナが小さく笑った。その笑顔が眩しくて、また胸がチクチクと痛む。だが、その笑みの裏に何か隠されているような気もした。真っ暗な映画のスクリーンに映しだされる一筋の光のように。
「何だよ、それ」
「冗談ですよ。撮りたい人がいるんで」
カナは少し上目遣いで俺を見つめた。
「誰だよ?撮りたい人って」
「秘密です」
カナが目を細めて笑う。俺は少し嫉妬を感じた。誰を撮るつもりなんだろう?俺じゃダメなのか?複雑な思いが脳を支配する。映画の話をしたい気持ちが募る。カナを誘いたいのに、言葉が出てこない。心の中で、カナを映画に出したいという思いがぐるぐると回っていた。
「あの、先輩」
カナが口を開き、少し迷うような表情を浮かべる。首を傾げる仕草が妙に可愛い。
「なに?」
「いつも……窓から僕のこと、見てますよね?」
カナが静かに言った。心の奥を覗くような視線が俺に突き刺さる。しかしその瞳は非難というより、どこか楽しんでいるようにも見えた。俺の視線に気づいていることへの優越感が滲んでいる。
「え?」
声が裏返った。リョウが「あー、バレてたか」と呟き、アイスの棒を手に意地悪く笑う。俺は慌てて目を逸らすが、心臓の鼓動は激しさを増し、溶けたアイスが手にポタポタとつたう。
「見間違いならいいですけど」カナが微笑む。控えめだが意味ありげな笑顔だ。
「失礼します」
カナが立ち去る背中を見送る。細い肩幅とまっすぐな背筋、リズミカルな足取りで廊下の奥へと消えていく。俺は目が離せない。そのシルエットが夕陽に溶け込み、映画のラストシーンのように、脳裏に焼き付いた。
「お前、バレないように覗けよ」リョウが小声でからかう。
「うるせぇな」
顔が熱くなり、恥ずかしさと別の感情が混じり合う。カナにバレているなら、もう隠す必要はないのかもしれない。それがむしろチャンスになるかも。話しかけるきっかけになるなら、恥ずかしさなど我慢できる。
「で、いつ声かけんの?」
「声?」
「お前、カナを映画に出したいんだろ?」
黙ってしまう。そうだ。俺はカナを映画に出したい。俺が撮る夏の映画に。『サマードレス』のように美しい映像の中に。あの輝きをカメラで捉えたい。カナが俺の映画でどんな表情を見せるか、想像するだけで妄想が止まらない。
「さぁな...」
工学部の先輩として誘うのはおかしくないけれど、それ以上の何かを感じていて、それが怖かった。カナの瞳が頭に浮かび、心が揺れる。リョウが肩をすくめて「がんばれよ」と言い残し、部屋に戻っていった。
俺も自室に戻り、ベッドに倒れ込む。扇風機の風が汗を乾かし、天井を見上げながらカナのことを考える。あの物憂げな表情、洗練された雰囲気、「窓から見てますよね?」という言葉が頭を巡る。バレているのかもしれない。いや、バレている。でも、それがきっかけになるかも。カナを撮るきっかけに。
デスクのノートを開き、映画の企画書を見つめる。タイトルはまだないが、夏の恋を描きたいという思いが溢れている。主人公のイメージが少しずつ固まりつつあり、カナがそれに重なった。
『主人公:大学2年生、写真家志望。内向的だが、カメラを通して生き生きとする。瞳に秘めた輝きが特別』
まさにカナそのものだ。少し恥ずかしくなるが、正直な気持ちが溢れ出す。ペンを手に取ると、言葉が自然に流れていく。
『舞台:夏の寮。そして海へ。暑さと静けさが支配する空間。風が物語を動かす』
窓の外は夕暮れで、オレンジ色の光が部屋を染め、影を作り出していた。光と影は映画に欠かせない要素だ。カナの笑顔がその光に重なるような気がして、心が温かくなる。窓辺に立つと、熱い風が顔を撫で、わずかな涼しさが混じり、カナのシルエットが夕陽に溶ける姿を思い出す。
その夜、『サマードレス』を見返した。ドレスが風に靡くシーン。光と影のコントラストが絶妙で、何度見ても感動する。「カナがこの輝きを持っている」と想像すると、胸が熱くなる。俺のカメラでその美しさを捉えたい。カナを撮れば、俺の夏が永遠になるような錯覚に陥る。
映画が終わり、部屋は静まり返っていた。夏の夜の工学寮は深い静寂に包まれ、遠くの車の音だけが微かに聞こえた。
◇
翌日、工学寮の屋上でタンブラーに入れた自作の水出しコーヒーを飲んだ。カナの「秘密です」という言葉が頭を巡り、誰を撮るつもりなのか気になって仕方がない。俺じゃダメなのか?その疑問が頭を支配して、落ち着かない。屋上の風が熱を帯び、俺の決意を後押しする。
夕方、部屋に戻ってノートにペンを走らせる。「カナを撮りたい」と書き出す。夏の終わりまでに映画を撮りたいという思いが溢れ、言葉が止まらない。あいつの輝きを映像に残したい。俺のカメラでしか捉えられないカナの美しさがあると確信していた。
ノートを閉じると、窓の外で夕陽が沈み始め、茜色に部屋を染め上げていた。
夜が深まり、耳障りな虫の音が脳裏に響く。ベッドに横になると、カナの笑顔が浮かんで心が震える。興奮と不安が入り混じり、頭はカナと映画のことでいっぱいだった。
夏はまだ始まったばかり。カナを映画に出す機会が、これから訪れるはずだ。
シャワーを浴びて汗を流し、冷たい水を一気に飲み干す。窓を開ければ、夜風が涼しく感じられる。星々が明日を予感させるように、いつもより明るく輝いていた。カナの笑顔が無数の星のように瞬き、眠れない夜を過ごす。
夏だ。カナ、お前は俺の映画にぴったりなんだ。
「真梨野!サークルの会議、始まるぞ!」
サークル棟の映画研究会部室で先輩の声が響き、窓の外をぼんやり眺めていた俺は急いで席に着いた。夏の陽射しが窓から差し込み、古びた木製の机の上にまだらな光の模様を描く。教室の隅では扇風機がゆっくりと首を振り、汗ばんだ首筋に時折心地よい風を送ってくれる。
映画サークルの夏休みプロジェクト企画会議。各自が撮影予定の作品について発表し、協力を仰ぐ場だ。俺も何か言わなければならないのに、頭の中はカナのことでいっぱいで、まともなプレゼン内容が固まっていない。
昨夜も寝る前まで脚本を書いていたはずなのに、気づけばカナの横顔を思い浮かべ、ノートには殴り書きの名前だけが残されていた。
「次、真梨野、お前はどうする?」
順番が回ってきて、俺は喉が締まる感覚に襲われる。部室の空気が急に重くなったような気がした。
「あー、俺は...」
サークルのメンバーの視線に押されながらも、練りに練った企画を発表することにした。
「フランス映画『サマードレス』のオマージュ作品を撮りたいです」
「へぇ、また芸術系か」先輩が感心したように言う。「お前らしいな」
「オマージュといっても、完全なコピーじゃなくて。日本の大学を舞台にした、夏の恋の物語...」
言いながら、頭の中で映像が形を取り始める。高2の冬、部活の合宿中に足首を捻挫して一人映画館で見た『サマードレス』。あのライトブルーのドレスを纏った主人公が海辺から去るシーン。その映像が俺の心に刻み込まれ、孤独の中で救いになったような気がしていた。
「主演は?」先輩の質問が思考を中断させる。
「それが...」
心臓が激しく鼓動する中、今こそ言うべき時だと決意した。
「工学部2年の奏多怜に頼もうと思ってます」
「奏多?あの写真サークルの?」
「はい」
「なぜ奏多?」
「他に代わりがいないからです...」
それ以上の説明はできなかった。なぜカナにこだわるのか、自分でもうまく言葉にできない。あの透明感のある表情、静かな佇まい、時折見せる遠い目。それらが『サマードレス』の主人公と重なって見えるのだ。
「でも、奏多は演技経験あるのか?」
「いや、まだ声はかけていないです」
サークルの部室が一瞬静まり返り、窓の外から蝉の声だけが聞こえてくる。
「お前、また変な勧誘するなよ」
リョウがニヤニヤしながら言う。いつの間にか映画サークルにも顔を出すようになっていた。困ったことだが、俺の言動をいちいち茶化すのが趣味らしい。
「うるせぇ」
「まあ、本人が良ければいいんじゃない?」先輩が言った。「ただ、演技経験のない人を主演に据えるのはリスクだぞ」
「わかってます。だけど、カナしかいないんです」
「カナ?」
「あ、奏多のことだ。あだ名」
正確には俺だけがそう呼んでいるだけなのだが、そんなことは言えなかった。
「なるほど。親しいのか?」
リョウが「全然」と口パクで言っているのが見えたので睨んでやる。こいつはカナと俺の距離感を知っていて、いつもからかってくるのだ。
「まぁ、頑張れよ」先輩は笑って次の人に話を振った。
会議が終わると、俺はすぐにリョウのもとへ向かう。夕暮れの校舎の廊下は赤茶けた光に染まり、窓の外では部活帰りの学生たちが帰路を急いでいる。
「お前、いつからサークル来てんだよ」
「暇だからな」リョウは肩をすくめる。
「それに、お前がまたカナに絡むって聞いたし」
「誰に聞いたんだよ?」
「サークルの渡辺が言ってたんだ」
『あいつ、また変な妄想始めたぞ』って。
「勝手な事言うなよ...」
「それより、本当にカナに声かけるの?」
「ああ」
「どこで?いつ?」
「今からでも部室に行ってみる」
「マジか」リョウの目が丸くなり、
「俺も行くわ」とテンション高めの様子。
「お前は来なくていい」
「なんで?見たいじゃん、告白現場」
「告白じゃねぇよ!映画の出演依頼だ」
「まぁまぁ」リョウは意味深に笑う。
「お前の熱い思いを、この目で見届けたいだけさ」
結局、リョウも一緒に写真サークルの部室へ向かうことになった。廊下を歩きながら、緊張はピークに達する。足音が妙に響く。どんな言葉で誘えばいい?どう説明すれば納得してくれるだろう?頭の中でセリフを何度も練習した。
写真サークルの部室のドアは半開きで、中から話し声が聞こえる。俺は軽くノックし、手の汗を急いでズボンでぬぐった。
「失礼します」
中には数人の学生がいて、それぞれカメラをいじったり、パソコンで写真を編集したりしている。壁には学生たちが撮影した写真がびっしりと貼られ、風景や人物、動物など、日常の一瞬を切り取った美しいものばかりだ。
そして、窓際の席で一人、カナがいた。夕日に照らされた横顔は、まるで青春映画のオープニングのようだった。黒縁眼鏡を掛け、画面を見つめる姿。細い指がマウスを操作するのに見とれ、一瞬言葉を失う。
「カナ」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「真梨野先輩?」
カナは静かに言う。相変わらず敬語だ。その言葉が妙に胸に刺さる。知り合って1年以上経つのに、まだ「先輩」と距離を置かれているのだ。
「ちょっといいか?話があるんだ」
「はい」
カナは素直に立ち上がる。リョウは部室の入り口で待ち、妙にニヤニヤしているのが気になるが、今はそれどころではない。俺たちは廊下に出た。
「カナ」
俺は一瞬、言葉に詰まる。初めて見る眼鏡姿は、いつもと違う魅力が溢れていた。また違う映画の構想が頭を駆け巡り始める。なぜ俳優を目指さないのか?素質ありすぎるだろう…。妄想の世界に入りそうになったが、慌てて正気に戻った。
「俺の映画に出てくれないか?」
「映画ですか?」
「ああ。夏休みに撮る短編映画なんだ。フランス映画のオマージュで」
「僕...演技は全くしたことないです」
カナは困惑したように眉を寄せるが、その表情さえも絵になる。
「大丈夫だ。セリフもそんなに多くない。存在感が大事なんだ」
「でも...」
「カナ、俺の映画に出てくれ!」
思わず声が大きくなり、廊下に響いて顔が熱くなる。だが、もう引き返せない。
「ライトブルーのドレスを着る役なんだけど、本当に似合うと思うんだ!」
カナの表情が一瞬固まる。先ほどまでの困惑とは違う、何かが閃いたような複雑な表情だった。
「ドレス……ですか?」
「ああ。『サマードレス』っていう映画のオマージュで...」
「嫌ですよ、先輩」カナはきっぱりと言った。「撮影ならいいですけど、出るのは無理です」
「え?」
「僕、カメラの後ろにいる方が得意なんで」
彼の目に冷たさが宿る。それでも、その瞳の奥に何か別の感情が渦巻いているような気がした。怒りではなく、何か...恐れ?いや、もっと複雑なものだ。
「でも...」
「先輩、諦めて下さい」
カナはそう言って、軽く会釈し、部室に戻っていった。
「振られたな」リョウが近づいてきて言う。
「映画の出演依頼だっての」
「同じようなもんだろ」リョウは笑いながら、
「それに、いきなりドレス着せるなんて言うからだよ」
「だって、あいつにはそれが似合うと思ったんだ」
俺は正直に答える。カナの静かな佇まいが、俺の中のあの夏の光と重なる。あいつならスクリーンで輝けるはずだ。
「お前、いつも変わらないよな」
リョウは呆れたように言ったが、その目は少し優しかった。
夕暮れの廊下で、俺たちは立ち尽くす。窓から差し込む橙色の光が、廊下の床を染めていた。
「諦めるのか?」リョウが尋ねる。
「諦めるわけないだろ」
「やっぱりな」リョウは笑う。
「お前、昔から好きなものには異常に固執するよな。中学の時の写真コンテストといい...」
「あれは別だろ」
「同じだよ。結局、お前の『これしかない』っていう妄想だ」
「妄想じゃない」俺は少しムッとして言い返す。
「直感だよ。監督の直感」
「はいはい」リョウはさらに笑う。
「それで、次はどうするの?」
「考えておく」
俺たちは工学寮に戻る道を歩き始めた。夏の夕暮れは長く、空はまだ明るい。けれど、木々の間に落ちる影は少しずつ濃くなっていく。カナのドレス姿を想像すると、胸がざわつく。
「なぁ、マリ」リョウが真面目な顔で言う。
「カナのこと、どう思ってんの?」
「どうって...映画に最適な俳優だよ」
「そうじゃなく」リョウは立ち止まる。
「個人的に、興味あるの?」
「は?何言ってんだよ」
「いや、お前、カナの話になると目の色変わるし」
「そんなことない」
「あるよ」リョウはまっすぐ俺の目を見た。
「『サマードレス』でも、主人公は恋をするんだろ?」
「それは...」
「お前、カナに恋してんじゃないの?」
「馬鹿言うな!」
思わず声が大きくなり、通りがかりの学生が振り返る。
「俺はただ、映画を撮りたいだけなんだ」
「ふーん。でも、お前の性趣向がどうであれ、お前は俺の友達だぞ」
リョウは悪戯に笑う。俺は返事をしなかった。食堂ではすでに夕食の準備が始まっていた。カレーの香りが漂っている。
「俺、先に飯食ってくるわ」リョウが言った。
「お前も来る?」
「いや、ちょっと考えごとがある」
「カナのこと?」
「うるせぇ」
リョウは笑いながら食堂へ向かった。俺は自室に戻るつもりだったが、足が勝手にカナの部屋の前で止まってしまう。201号室。ドアの前で数分間、立ち尽くす。
「よし」
俺は深呼吸して、ノックする勇気を振り絞った。手が震える。でも、引き下がるわけにはいかない。
ノック、ノック。
「はい」
中から声がした。ドアが開き、カナが顔を出す。彼は少し驚いたように俺を見る。髪が少し濡れていた。シャワーを浴びたばかりなのだろう。
「真梨野先輩?」
「カナ、もう一度考えてみてくれないか?」
「またその話ですか?」
カナがドア枠に寄りかかり、呆れた顔で俺を見据え、ため息をついた。その表情には戸惑いが滲んでいる。廊下の照明が彼の横顔を照らし、鮮やかな陰影を作り出していた。
「頼むよ、カナ!この夏の思い出になるって!」
「しつこいですね、先輩」
一瞬、瞳が揺れ、俺を試すように細まる。
「ライトブルーのドレスを着る役だけど、すごく美しいシーンになるんだ。お前にぴったりだよ」
「先輩、僕、男ですよ?」
「それが重要なんだ。原作の『サマードレス』も...」
「暑いし、部屋に戻ります」
カナは再びドアを閉めようとした。俺は思わずドアに手をかける。
「ちょっと待ってくれ」
「何ですか?」
カナの口調は少し冷たくなり、俺は焦る。こんなことをしたら、ますます嫌われるかもしれない。それでも、どうしても伝えたい思いが胸を締め付ける。
「ごめん、強引だったな。でも、本当にお前にしか頼めないんだ。なんとかならないか?」
「...時間をもらえますか?」
そう言って、今度こそドアを閉じると思った瞬間、カナが質問してきた。
「先輩の映画って...何を残したいんですか?」
突然の問いに俺は言葉を失う。
「夏だよ。光と影と...お前の一瞬のキラメキを残したいんだ」
カナの目が鋭くなる。
「へぇ...何か深そうですね」
そう言って、今度こそドアを閉めた。
廊下に取り残された俺の耳に、夕暮れの蝉の声が響く。
進展がないわけではない。考えてくれると言った。それだけでも一歩前進だ。
食堂は学生でにぎわう。夏休み前の最後の夕食らしく、特製カレーが出ている。俺はトレーにカレーとサラダを取り、リョウのいるテーブルに向かう。
「で、カナは何て?」
リョウがカレーをかき混ぜながら尋ねる。
「『考えておく』だって」
「まじか」リョウは感心したように言った。
「お前、しつこいな」
「だって、他にいないんだよ」
「なんでそこまで?」
俺は言葉に詰まる。なぜカナにこだわるのか。それは映画のためだけなのか。正直、自分でもよくわからない。ただ、あの透明感のある佇まい、時折見せる寂しげな表情、そして何より、カメラを構えた時の真剣な眼差し。それらすべてが俺の中で「カナ」という存在を特別なものにしていた。
「映画に出てほしいんだ」
「それだけ?」
「そうだよ」
リョウは「ふーん」と意味深な声を出し、カレーを平らげて先に食堂を出て行った。数分後、俺も食事を済ませて食堂を出る。
その時、ちょうどカナが入ってくるところだった。目が合うと、彼は軽く会釈する。それだけだ。その一瞬の視線の交差に、何か特別なものを感じた。
◇
自室に戻ると、リョウが部屋に先に戻っていた。俺の部屋の鍵を勝手に開けたらしい。ベッドに座り込んで、漫画を読んでいる。
「お前、いつの間に…」
「合鍵作っただろ、去年。忘れたのか?」リョウは平然と言う。
確かに、風邪で寝込んだ時に世話をしてもらうために、合鍵を渡したことがあった。でも、こんな風に使われるとは思わなかった。
「で、どうだった?カナと会った?」
「食堂で見かけただけだ」
「目が合った?」
「...ああ」
「お、進展あるじゃん」リョウはにやりと笑う。
「進展でもなんでもない」
「お前、絶対カナのこと気になってるよな」
リョウは漫画を閉じ、珍しく真剣な目で俺を見た。
「何度言わせんだよ。映画のためだけだって」
「はいはい」リョウは首をかしげ、意地悪そうに言った。
「じゃあ、なんで他の子じゃダメなんだ?サークルには女の子もいるだろ」
「カナの持つ雰囲気が必要なんだ」
「どんな雰囲気?」
「その...儚さというか、白に近い透明というか...」
言葉にするのが難しい。
「とにかく、カナしかいないんだよ」
「お前、本当ヤバいぞ。それがお前の個性だけどな」
リョウは立ち上がり、俺の肩をポンと叩いた。
リョウが出ていった後も、その言葉が頭に残る。部屋の中は静かで、外から虫の声が騒がしい。机の上には、書きかけの脚本が散らかっている。
カナのこと、気になってるのか?
いや、違う。あいつは俺の映画に必要なんだ。カメラを構えてファインダーを覗く真剣な横顔...その表情が俺を狂わせる...。ライトブルーのドレスを着た姿を想像すると、心が疼く。
そう、これは芸術のためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、なぜか胸の奥がざわざわする。カナの時折見せる悩ましい雰囲気、そして「考えておきます」という言葉。それらが全て混ざり合って、俺の中で何かを形作りつつあった。
俺はベッドに横たわり、天井を見つめる。外は完全に暗くなり、夜の虫の声が一層高くなる。夏の夜だ。窓から入る風が心地よい。しばしの沈黙の後、俺は小さくつぶやいた。
「諦めるわけにはいかない」
明日も、明後日も、必要なら何度でもカナに頼みに行こう。
あの夏の光を、今度は俺が形にしたい。カナと一緒に。
枕に顔を埋めると、カナの困惑した表情が浮かび、胸がキュッと締め付けられる。この感情は一体何だろう。ただの映画への情熱なのか、それとも…。
目を閉じても、カナの冷たい瞳が焼き付いて離れない。あの「考えておきます」が、俺の夏を永遠に変える予感がした。
「暑っ!」
部屋の冷房が壊れた熱帯夜。俺は汗だくでカナの扉をノックする。リョウが外出中のため、頼れるのがカナだけだ。湿度の高い空気が肌にまとわりつき、冷房のない部屋は蒸し風呂と化していた。
シャツは背中に張り付き、額の汗を何度拭っても意味がない。夏の熱気は容赦なく部屋全体を熱帯地方へと変える。窓を開けても風はほとんど入らず、せめて部屋から逃げ出したくて、カナに頼ってみることにした。
「カナ~、いる?」
指の関節が扉に触れる音が静かな廊下に響く。一度、二度、三度。返事を待つ間も首筋を汗が伝う。時計はすでに夜の10時を回る。
もう寝ているかもしれないと諦めかけた瞬間、ドアが開き、白いTシャツにグレーのハーフパンツ姿のカナが現れる。不思議そうな目で俺を見つめながら、部屋から漏れる冷気が、廊下に立つ俺の熱い肌をわずかに癒していく。
「真梨野先輩?どうしたんですか?こんな時間に」
カナの声は眠たげで、髪は柔らかく乱れていた。寝る準備をしていたのだろう。その姿を見て少し後悔するが、あまりの暑さに耐えられなかった。
「冷房壊れてさ。死にそう。助けて」
俺は慣れた様子で部屋に入り込む。そんな無遠慮な行動に、カナは少し戸惑いながら扉の前に立ち尽くした。大学二年生にして、すでに工学部内で知られた存在のカナ。
写真サークルの新星として、その美しさから女子たちの間で密かな人気を集めている。だが彼自身はそういったことに興味がないらしく、いつも一人で過ごしている。俺と話すようになったのも、偶然映画の話題で意気投合したことがきっかけだった。
「あの、入るんですか?また映画の話ですか?」
カナの声には驚きと困惑が混じっていた。日中、遭遇する度に映画出演のお願いをしていた為警戒しているようだ。それに突然の訪問は失礼だったかもしれない。しかし、今夜のために用意していたものがある。
「ごめん、ごめん。入っていい?映画の話じゃないよ。一緒に観たくて。フランソワ・オゾンの『サマードレス』とか、何本かお勧め持ってきたんだ」
DVDケースを掲げると、カナの表情が一変する。映画好きの彼らしく、瞳がキラリと輝いた。無表情だった面差しに生気が宿る。
「持ってるんですか?」
「単館系映画オタクをなめんなよ。カナが好きそうなのいろいろ選んできた」
思わず胸を張る俺に、カナは微笑み、部屋に招き入れてくれた。彼の部屋は整理整頓され、シンプルながらも洗練された雰囲気が漂っている。壁には写真が貼られ、すべてモノクロ。大半が風景か建物の写真で、一枚一枚が絶妙な構図で切り取られていて、素人目にも才能を感じさせる。しかし、人物の写真は一枚もない。
「やっぱり、写真上手いな」
俺は壁に貼られた作品を眺めながら素直に感心する。特に古い灯台を下から見上げたアングルの一枚が印象的で、モノクロの階調が美しかった。
「ありがとうございます」
カナは照れたように答えた。彼はベッドに腰掛け、俺もその横に座る。近すぎるかもと思ったが、カナは特に気にする様子もなくDVDプレイヤーのセッティングを始めた。俺たちの間にはほんの数センチの距離しかない。
「あ、そうだ」
俺はリュックから缶ビールを二本取り出した。汗で少し濡れた缶が、部屋の涼しさでみずみずしく輝いている。
「ビール、飲む?」
「え、先輩、これ...」
カナは驚いた表情を浮かべる。もしかして酒が苦手なのかと一瞬不安がよぎる。
「マリでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「マリ...さん」
まだ敬語が残るのが愛らしい。体育会系の先輩と美形の後輩。一見不釣り合いな組み合わせだが、映画という共通点で繋がっていることがなぜか嬉しかった。
「カナ、20歳だっけ?」
「先月です」
「じゃあ、飲めるな」
「実は...飲んだことないんですよね」
初々しさが滲む返事に、なぜか胸がキュンとしてしまう。体育会系の見た目の俺が単館系映画オタクというギャップで驚かれるように、カナもまた意外な素顔を持っていた。美形なのに女の子と遊んでいる様子もなく、あどけなさが残る。そんなギャップが俺の中で不思議な感情を呼び起こしていく。
「じゃあ、今日が初めてだな」
俺はプシュッと缶を開け、一本をカナに手渡す。彼は少し躊躇ってから、そっと口をつけた。その仕草にも映画の一場面のような美しさがある。
「...苦い」
顔をしかめるカナの姿が微笑ましい。
「まあね。でも慣れるよ」
俺は大きく一口飲んでから、映画を指さした。冷えたビールが喉を通り、暑さで乾いた体に染み渡る。
「それじゃ、再生しますね」
カナがDVDをセットすると、テレビ画面に『サマードレス』のオープニングが流れ始めた。海の近くのコテージ、ゲイカップルの痴話喧嘩。何度も見た映画だが、カナと観るのは初めてで、何だか新鮮に感じる。
「このオープニング、印象的だよな。こんな始まり方他にない」
俺はビールを飲みながら呟く。カナは無言で画面を見つめていたが、薄暗い部屋でも彼の目が輝いているのがわかった。
「マリさんはこの映画、何回見たんですか?」
「マリでいいって。もう100回は見たかな。大学の映画サークルでも上映会したことあるし。俺は好きな映画を何回も観るタイプなんだ」
「そうなんだ...凄いです」
映画が始まり、俺たちは肩を寄せ合って画面に集中する。オゾンの斬新な演出に、カナは釘付けになっていた。青年が海辺で過ごす夏、初めての経験、刺激的で美しい世界。ふと、カナの横顔を盗み見すると、それもまた芸術作品のように思えた。
映画の青い光に照らされた彼の横顔が作品の一部のように輝いている。長い睫毛、通った鼻筋、柔らかそうな唇。普段はクールな印象のカナだが、映画を見ているときの彼は感情を素直に表に出していた。
「この監督の演出、細部までこだわってるんだよな」
俺が言うと、カナはゆっくりと頷いた。
「パーツのクローズアップが多いですよね。特に足だけとか。感情表現が独特で面白いです」
「そう、そこ!足だけで感情とか表現しようとするところ斬新すぎる。オゾンらしいよな」
俺は興奮気味に話した。映画について語り合える相手がいることが純粋に嬉しい。サークルの仲間とは違う、カナとの会話は不思議と落ち着く。
「このシーン、見て。ドレスを首に巻くシーン、最高じゃない?」
画面では主人公が借りたドレスを返しに行くため、自転車に乗っているシーン。表現不可能な複雑な表情の主人公が印象的だ。ライトブルーのドレスと空の青との爽やかな色彩が、夏の眩しさを完璧に表現していた。
「うん...綺麗だ」
カナの声は小さかったが、確かな感動が込められていた。俺たちはそのまま映画に没頭していく。時々、カナが缶ビールを少しずつ飲む音が聞こえる。彼はゆっくりと酔いに慣れようとしているようだ。
「オゾンってゲイなんでしょ?」カナが突然言った。
その言葉に少し驚く。カナが興味を示すとは思わなかった話題だった。
「そうだよ。だからこそあの繊細さや大胆さがあるんだと思う」
「繊細、か...」
カナは少し遠い目をする。何か考え込んでいる様子。俺は彼の表情の変化に気づいたが、深く追求はしなかった。
「マリさんは、どうして映画が好きなんですか?」
「マリでいいって。敬語も禁止な」
「え...じゃあ、マリ」
彼の口から名前が出るのが嬉しくて、俺は思わず笑みをこぼした。友達が増えたような、でもそれとは少し違う喜びがある。
「なんで映画が好きかって...高校の時、この『サマードレス』見て衝撃受けたんだよね。その時から映画にドハマりした」
「へえ」
カナはもう一口ビールを飲んだ。少しずつ顔が赤くなっていく。酒に弱いようだった。その様子がなぜか愛おしく感じられた。
「カナは?写真はいつから?」
「中学からで、本格的には高校から…かな」
「何かきっかけあったの?」
「うーん...」カナは少し考えて、
「写真で切り取った景色が、実際の風景より美しく見えたから...かな」
映画を見ながら、俺たちはそんな他愛もない会話を続けた。画面では、主人公が夏の海辺で成長していく物語が幕を閉じていく。
「あっという間だった」
俺は言いながら、ふと横を見るとカナの目が閉じかけていた。ビールが進むにつれ、カナの姿勢がゆるみ、徐々に俺に寄りかかるようになっていく。アルコールが初めての彼には、一本でも効いているようだ。
「カナ、眠いの?」
「ううん...大丈夫」
そう言いながらも、カナの頭は徐々に俺の肩に近づいていく。不思議とそれを拒む気持ちにはなれず、むしろ、この距離感が心地良いとさえ思えた。映画の中の夏と、現実の夏が重なり合うような感覚に包まれる。
やがて二本目の映画の中盤に差し掛かった頃、俺の背中に何かが触れた。振り返ると、カナの腕がそこにあった。いつの間にか彼は俺の後ろに回り込み、背中から抱きしめるような体勢になっていたのだ。
「マリ……動くな……」
彼の声が耳元でささやかれ、俺の背中にカナの胸が密着する。バックハグの姿勢。突然の接触に、心臓が跳ね上がる。
「カナ...?」
返事はない。もしかして寝ぼけているのか?でも腕はしっかりと俺の胸の前で組み、何かを求めるような、すがるような強さがあった。
心臓の鼓動が大きく鳴り始める。これは何だ?どうして?自分が男を意識するなんて思ってもみなかった。しかし、背中越しに伝わるカナの体温、かすかに香る森のような匂い、すべてが俺の思考を狂わせていく。
「...映画、面白い?」
カナの小さな声が聞こえた。眠っているわけではなかったのか。でも声はとろんとしていて、確実に酔っているようだ。
「ああ、いい場面だよ」
俺は平静を装いながら答えた。だが耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。映画はまだ続いているのに、もう全く頭に入ってこない。画面の中で主人公が猫を探しているようだったが、そんなことよりもカナの事で頭がいっぱいだった。
カナの腕が少し動いて、俺の胸の前でより強く組まれる。この姿勢、友達同士でするものなのか?いや、違う……これは……まずい。
「マリ...」
カナの吐息が首筋に当たり、ゾクッとした。身体の芯から熱が上がってくる感覚。こんな経験は初めてだった。
「カナ、起きてる?」
もう一度聞いてみたが、今度は小さな寝息だけが返ってきた。本当に眠っているみたいだ。それなのに、なぜ俺はこんなにドキドキしているのだろう。映画はもう見られない...。
カナの腕の中で、俺はただ彼の呼吸を感じていた。規則正しい息遣い、時々髪が首筋に触れる感覚、すべてが新鮮で不思議だった。
気づけば映画が終わり、エンドロールが流れていた。俺はそっとカナの腕をほどき、彼をベッドに運ぶ。酔いつぶれた彼は、まるで眠り姫のように美しく見えた。
「おやすみ、カナ」
部屋を出る前に、もう一度彼の寝顔を見つめる。長いまつ毛の影が月明かりに浮かび、天使みたいだな、と思った。この感情は一体何だろう。友情?それとも……違う何か?考えるほどに混乱していく。
自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。頭の中はカナでいっぱいだった。あの腕の感触、温もり、そしてカナの匂い。映画の余韻というよりも、一緒に過ごした時間の記憶が鮮明に残った。
スマホを取り出し、リョウにメッセージを送信する。親友のリョウなら、この混乱した感情を少しは理解してくれるかもしれない。
『リョウ、ヤバい。変な気持ちになった』
すぐに返信が来た。
『寝ろ、バカ』
それだけ。しかし、明日はきっと詳しく聞かれそうだ。あいつは人の恋愛には異常に鋭い。恋愛?いや、これは恋愛ではない。単なる友情だ。そう思い込もうとしても、胸のドキドキは収まらなかった。
天井を見つめながら、俺はあの瞬間を何度も思い返す。カナの腕、彼の温もり、そして俺の中に生まれた新しい感情。窓の外は虫の声で騒がしく、夜風が少しだけ部屋に流れ込む。暑さはまだ残るものの、さっきほどは気にならなくなっている。
こんな夏が始まるとは思わなかった。カナという存在が、俺の中で大きくなっていく。それは映画のようでいて、紛れもない現実。明日、彼の顔をどう見ればいいのか分からない。でも、もう一度あの温もりが何なのかを確かめたいとも思った。
熱帯夜、映画と酒と偶然の抱擁。これが何かの始まりなのか、それとも単なる夏の夜の思い出になるのか。答えはまだ見えないが、心の奥では何かが確実に動き始めていた。
「マリ、起きろよ」
梅雨明けの朝、リョウの声で目を覚ました。部屋に勝手に入ってくる幼馴染に文句を言う気力もなく、まぶしい光を避けるように腕で顔を覆う。開けられたカーテンから夏の日差しが容赦なく部屋を満たし、寝苦しかった夜の名残で頭がぼんやりしていた。
「うるせぇ...何時だよ」
「もう10時過ぎてるぞ。昨日なんだったんだ?」
昨晩メッセージを送ってしまったことを思い出す。
「ちょっとな...もう大丈夫だから」と説明できない感情を隠した。
「さっぱりわからん。まあいいけど、今日も口説きに行くんだろ?カナ、さっき花壇の花を撮ってたぜ」
そう、今日も俺はカナを口説きに行く予定だった。映画に出てもらうため、三日連続のアタックだ。一日目も二日目も断られ、三日目の今日こそ何とかしなければならない。
昨日のことでちょっと気まずいけれど、それとこれとは話が別だ。絶対に俺の映画に出てもらうんだ。
「カナ、まだOK出してくれないんだよな...でも今日こそは良い返事をもらってやる」
リョウはベッドの端に座り、ニヤニヤと笑った。彼の笑顔には意地悪さが混じり、言葉の皮肉さを滲ませていた。
「そりゃあんな美形が出てくれるわけないだろ。特にお前みたいなヤツの映画にはな」
「うるせぇな!」
枕を投げつけると、リョウは軽々とキャッチした。反射神経の良さに腹が立つ。子供の頃からスポーツも勉強も何でもそつなくこなす彼に対し、俺は映画以外に打ち込めるものがない。だからこそ、映画だけは誰にも負けたくなかった。
「オゾンの『サマードレス』みたいな作品を撮るんだ。カナが主役でなきゃダメなんだよ」
リョウは立ち上がり、俺のDVDコレクションを物色する。『サマードレス』のケースを手に取り、パッケージの写真を見つめた。ライトブルーのドレスを着た青年が映っている印象的なカットだ。
「これみたいに、ライトブルーのドレス着せたいんだろ?変態じゃん」
「違うって!芸術的な...」
「芸術的変態ってやつか」
リョウの言葉に返す言葉が見つからない。彼は俺の弱点をよく知っている。確かに俺は、カナがあのドレスを着た姿を何度も想像してしまった。でも、それは単なる欲望ではなく、芸術的なビジョンだ。少なくとも俺はそう信じていた。
「もう話さないからな」
洗面所へ向かい、鏡に映る自分を見つめる。黒髪に濃い眉、体育会系の筋肉質な身体、それとは不釣り合いなベビーフェイスに、少し日焼けした肌。大学に入ってからは運動せず、映画ばかり見ているせいで、少しずつ筋肉が落ちていくのが分かる。
冷たい水で顔を洗い、体の熱を鎮めた。瞼を閉じたまま、少し洗面所に留まり頭を整理する。カナを説得する方法を考えたが、良い案は浮かばなかった。
部屋に戻ると、リョウがスマホをいじりながらベッドに寝転がっている。俺はそのすきに着替え始めた。
「カナとの撮影、本当にうまくいくと思ってんの?」
リョウが突然口を開く。スマホから目を離さないまま、何気ない口調だが、その問いかけには重みがあった。リョウは俺の映画への情熱を知っている。それでも「諦めろ」と言わないのは、友情からなのか、それとも単に興味がないからなのか。
「うまくいかせるさ。俺は映画監督になるんだ。その第一歩として、カナと最高の作品を作る」
リョウは肩をすくめた。彼の反応はいつもこうだ。否定も肯定もせず、ただ受け入れる。それが時々、俺には冷たく感じることもあった。
「お前が本気なのはわかった。今日はいつもと違うアプローチでも試すのか?」
そう聞かれて考え込む。確かに、いつもと同じ方法では同じ結果しか得られない。新しい策が必要だった。
「とにかく、熱意を伝えるさ。今まで以上に」
昨夜の会話を思い出す。あの時、カナは「オゾンってゲイなんでしょ?」と聞いてきた。彼も何か感じるものがあったのだろうか。俺が映画に魅せられたのと同じような感覚を持っているのかもしれない。
「行ってくる」
リョウに手を振り、部屋を出た。暑さが一気に体を包む。盛夏の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトからは熱気が立ち上っていた。工学寮の周りには、休暇を楽しむ学生たちの声が響いている。
カナがいるらしい中庭に向かう。そこで、撮影している彼を見つけた。一眼レフを持ち、花壇の花にカメラを向けている。彼の真剣な表情には情熱が宿っていた。彼も俺と同じように、芸術に魅せられているのだ。
「カナ!」
彼は振り返り、カメラを下ろした。朝日に照らされた髪に天使の輪が浮かぶ。
「あ、マリ」
もう敬語がなくなっていることに小さな喜びを感じる。昨日まで「真梨野先輩」と呼ばれていたのに、昨日からは「マリ」と親しげに呼んでくれるようになった。それだけでも進歩だと思いたい。
「二日酔い大丈夫?お前結構酒弱いな、すぐ寝ちゃったじゃん。頭痛くない?」
少し恥ずかしそうに「大丈夫です。先に寝てしまってすいません...」と答えた。
「今日も映画の話、いい?」
カナは少し困ったような表情を浮かべる。カメラをバッグにしまいながら、俺から距離を取った。その仕草が拒絶を示しているのは明らかだった。
「また映画出てくれって話ですか?」
「そう。夏に撮りたいんだよ。今しかない」
夏の光、夏の海、夏の風。全てが揃う今だからこそ撮りたい映画がある。それをカナと一緒に作りたいという思いが、日に日に強くなっていく。
「何回言えば...」
彼は苛立ちを隠さない。三日連続で同じ話をされれば、そうなるのも無理はないだろう。でも、俺は諦める気がなかった。
「カナ、夏に映画出てくれよ!」
俺の熱意に、カナはため息をつく。彼の表情が一瞬固まり、何かを決意したように見えた。そして、突然彼の口から驚きの言葉が飛び出す。
「じゃあ、脱いで」
「は?」
「脱いでくれたら、出てあげる」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。頭の中で言葉を繰り返し、それでも意味が飲み込めない。カナの表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
「俺が……脱ぐの?何でだよ」
心臓が激しく鼓動し始める。胸の内側から響く音が耳元まで届いた。喉が渇き、言葉が出にくい。暑さのせいか、それとも緊張からか、額に汗が浮かび上がる。カナの突き刺すような視線は、俺の内側まで見透かしていた。
カナは微笑んだ。その微笑みには意地悪さが混じっていたが、同時に好奇心も感じられた。後で知ることになるが、彼はこれで俺を諦めさせ、しつこい映画の話から解放されると思ったのだ。
「撮らせてよ、裸を。ヌードモデルになってくれるなら、映画に出てあげる」
その言葉が風に乗って中庭に響く。周りには他の学生もいて、その会話を聞かれたかもしれないという恐怖が脳裏をよぎる。しかし、幸いなことに近くに人影はなかった。
「俺の裸見て、何するつもりだよ...」
質問しながら、無意識に腕で体を覆う。着ていたTシャツが急に薄く感じられ、透けて見えているような錯覚に陥る。カナの目に、俺の体はどう映るのだろうか。恥ずかしさと同時に、不思議な興奮も感じていた。
「写真サークルの練習。人物撮影が苦手なんだ」
カナは淡々と説明したが、その声には緊張が混じっていた。彼の目は俺の顔を見ずに、少し下方に向けられている。言葉にどこか嘘を感じた。
人物撮影が苦手と言うのは本当かもしれない。部屋にも人物写真は一枚もなかったからだ。しかし、脱ぐのはちょっと恥ずかしい...。けれど、映画に出てくれるというなら...それは、俺の夢への一歩だ。
「恥ずかしいって...」
「気にしないよ。脱げる?」
その問いに即答できずにいる。自分の映画のために脱ぐ?そんなこと、考えたこともなかった。映画監督になるという夢のために、ここまでする必要があるのか?でも、もし脱がなければ、カナは出てくれないだろう。
「ちょっと考えさせて」
そう言って、その場を立ち去った。頭は混乱していた。カナの提案は本気なのか?それとも俺を追い払うための冗談?だとしたら効果絶大だ。俺は動揺し、一時的に映画の話すら忘れていた。
工学寮に向かって歩きながら、選択肢を考える。素直に脱ぐか、別の方法でカナを説得するか。あるいは、カナ以外の俳優を探すか。でも、俺の映画にはカナしかいない。彼の存在が、映画の核だった。
頭の中でカナの言葉が繰り返される。
「脱いでくれたら、出てあげる」
その言葉がトラウマになるか、それとも映画への飛躍になるか。まだわからない。ただ、自分の中で葛藤が続いている。
部屋に戻ると、リョウがゲームをしていた。派手な効果音と彼の熱中した表情が、俺の悩みとは無縁の世界を象徴していた。
「もう戻ってきたのか。振られたな?暗い顔してるぞ」
「リョウ、大変なんだ。カナが脱げって...」
ゲームの音が止まり、リョウが振り返る。彼の表情は驚きと好奇心が混じっていた。
「はぁ?」
「カナが言うんだよ。俺が脱いだら、映画に出てやるって」
リョウは爆笑した。その声が部屋中に響き渡り、俺の恥ずかしさを増幅させる。
「マリが脱ぐの?オモロいな!カナ、天才じゃん」
「笑い事じゃないって。どうしようか...」
俺はベッドにダイブし、枕に顔を埋め、カナの申し出について思考を巡らせる。本当に脱いだら映画に出てくれるのか?それとも、それも嘘なのか?リョウにとっては面白い冗談かもしれないが、俺にとっては真剣な悩みだった。
リョウは少し考えてから言う。彼のゲームのキャラクターは画面上で停止したまま、俺の方に向き直っていた。
「お前、そこまでしてカナに出てほしいのか?」
答えは明確だ。俺が映画監督になるための第一歩には、カナの協力が必要だった。
「出て欲しいんだよ」
「じゃあ脱げばいいじゃん」
「簡単に言うなって!」
そう言いながらも、心の奥では決断していたのかもしれない。映画のために、自分の羞恥心を捨てられるか?自分の裸をカナに晒せるか?それは、監督としての覚悟の表明でもあった。
「別にエロいやつじゃないだろ?芸術的な感じなんだろ」
リョウは再びゲームを始める。視線をゲーム画面に向けたまま、俺に言う。
「それに、お前、プール行くとき裸になるだろ?あれと同じだよ。深く考えんな」
「全然違うだろ...」
プールでの着替えと、カナの前での脱衣が同じはずがない。プールでは誰も俺を見ていないし、全員が同じ状況だ。でも、カナの前では俺だけが晒されることになる。その非対称性が恥ずかしさを何倍にも増幅させていた。
「本気で映画撮りたいなら、覚悟見せろよ」
その言葉が俺の背中を押す。リョウは時々、こういう風に核心を突いてくる。彼は映画に詳しくないし、芸術に興味もない。でも、俺の熱意だけは理解してくれていた。
◇
その後、三日間悩み続けた。部屋にこもり、映画への想いと羞恥心を天秤にかけ続けた。そして、ついに決心がつき、カナの部屋を訪ねた。ドアをノックすると、少し間を置いて開いた。ドアの向こうには明るい部屋と、そこに立つカナの姿。窓からは柔らかな光が差し込み、室内を優しく照らしている。
「マリ?」
カナは驚いた表情をした。数日間、俺からの連絡がなかったので、もう諦めたと思っていたのかもしれない。
「脱ぐよ」
一言だけ言うと、カナの目が少し大きくなる。彼の表情には驚きと共に、少しの後悔も混じっていたような気がした。
「え?」
「映画に出てくれるなら、脱ぐ。撮っていいよ」
カナは一瞬固まり、そして小さく笑った。その笑顔には俺の決意に対する驚きと、何か計算違いをしたような色が見えた。
「本当に?後悔しない?」
「後悔するかもしれないけど、それでもカナに映画に出てほしいから...」
俺の言葉に、カナは少し困ったように目を伏せる。彼はこんな展開を予想していなかったのだろう。俺が本当に脱ぐと言うとは思わず、単に追い払うための冗談のつもりだったのかもしれない。でも今、俺は本気だった。
彼は少し考え込むように視線を落とし、そして、静かに言った。
「わかった。じゃあ、来週の日曜日、海辺のスタジオで」
「海辺?」
「光の関係。それに、人のいない場所の方がいいでしょ?」
確かにそうだ。工学寮で脱ぐのは避けたい。誰かに見られたら噂になる。海辺のスタジオなら、プライバシーも守られるし、光の条件も良いだろう。カナは撮影のことを真剣に考えているようだった。
「あと、マリ」
「なに?」
「ライトブルーのドレスを持ってきて」
「ドレス?何に使うの?」
その質問に、カナは少し微笑んだ。彼の目には何か企んでいるような光が宿っていた。
「映画用だよ。約束したでしょ?」
そうか、映画に出てくれるんだ。ようやくカナを説得できた。俺は心の中で小さな喜びを噛みしめる。脱ぐことへの恐怖より、映画が撮れる喜びの方が大きかった。そして、カナがドレスを着た姿を想像すると、胸が高鳴る。
「わかった。ドレス持っていくよ」
その後、カナと別れて部屋に戻った。リョウには報告せず、一人でベッドに横たわる。窓から見える黄昏時の空を見て、少し切ない気持ちになっていた。
来週の撮影で、カナの前で脱ぐことへの緊張と恥ずかしさ。映画のためなら耐えられる。そう自分に言い聞かせた。撮影が始まることへの期待も入り混じり、複雑な気持ちが押し寄せる。心の動揺は隠しきれない。今年の夏は特別な夏になりそうだ。
カナと一緒に作る映画。そして、その前に乗り越えなければならない、脱ぐという試練。目を閉じ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。来週のことを考え過ぎず、今はただ眠りたい。
遠くで鳴く虫の声に包まれながら、徐々に意識を手放していく。脱ぐという決断が正しいかどうかはわからない。ただ、それが映画への一歩だということだけは確かだ。
夢の中で、俺はカナと海辺を歩いていた。彼はライトブルーのドレスを着て、カメラを持っていない。二人は並んでただ波の音を聴いている。
そんな平和な夢の中で、明日からの不安を忘れる。また新たな悩みが待っているかもしれない。でも今は、ただ夢の中の静けさを享受することにした。
約束の日の朝、軽い胃痛で早めに目覚める。窓から差し込む朝日が眩しく、空は抜けるような青さで猛暑を予感させる。
リュックには畳んだライトブルーのサマードレスが収まっている。鏡の前で最終チェックすると、顔色が優れない。昨夜はほとんど眠れず、今日カナの前で脱ぐという考えだけで頭がぐるぐると回転する。
外に出ると強い日差しが肌を刺し、半袖シャツでも汗が滲む。工学寮前の木々が風に揺れ、日に日に大きくなっていく蝉の鳴き声が耳に響く。
「マリ、マジで行くの?」
リョウは俺を心配して、不安そうな表情を浮かべている。俺は昨日、ようやく彼に脱ぐことを伝えたのだ。最初は冗談だと思ったらしく、真顔で「本気か?」と何度も確認してきた。
「行くよ。約束したから」
リョウは頭を掻きながら、ため息をこぼす。彼の表情には「止めても無駄だ」という諦めが刻まれている。
「お前、本当にカナのことが好きなんだな。何でもするじゃん」
その言葉に足が止まる。好き?そんな風に考えたことはない。単に自分の映画に出てもらいたいだけだ...。たぶん。
「好きって...映画に出てほしいだけだよ」
言い訳めいた言葉が口から零れる。リョウは鼻で笑う。彼の目は俺の嘘を見抜いていた。
「自分に嘘つくなよ」
その言葉が胸を抉る。俺はカナのことをどう思っているんだろう?単なる役者として見ているのか、それとも……。喉の奥が乾く。
「行ってくる」
それ以上の会話を避けるように、部屋を出る。朝の空気が肌に心地よい。でも、それも束の間だろう。これから待っているのは、もっと熱く、息苦しい時間だ。
バス停に向かいながら、カナとの出会いを思い返す。最初は斜め前の住人。美しい姿を窓から眺め、興味を抱いた。工学寮でたまに会話をするだけの関係から、主演俳優として声をかけるまでに発展。
彼の写真を撮る姿、そして彼の作品の視点にまで惹かれていった。繊細でありながら大胆な感性。彼の存在そのものが俺の映画に必要不可欠だと確信していた。
約束の場所は、カナの写真サークルが時々利用している海辺の小さなスタジオ。バスに揺られること40分、窓外の景色が徐々に変化し、都会の喧騒から遠ざかる。
木々が増え、空がより広大になる。カーブを曲がると突然、青い海が視界いっぱいに広がった。潮の香りが窓から漏れ、塩気を含んだ風が頬を撫でる。
どんな風に脱げばいいのだろう。全部見せるのか...。考えただけで頬が熱くなる。俺は部活や体育の授業以外で誰かの前で裸になった経験がない。一人のために脱ぐなんて初めてだ。
バスを降りると潮風が髪を揺らす。海岸沿いの道を歩き、砂を靴で踏むとジャリジャリと音がする。遠くからカモメの鳴き声が届き、波の音が耳に心地よい。しかし、そんな穏やかな風景とは裏腹に、俺の心は嵐のように荒れる。
スタジオは海岸から少し離れた高台に位置する。小さな木造の建物で、大きな窓からは一面の海という絶景。俺は扉の前で深呼吸した。「大丈夫、約束だから」と自分に言い聞かせる。
微かに震える手でドアノブを回す。ドアを開けると、すでにカナが機材をセッティングしている。彼は窓際に立ち、外の光を露出計で確認している。自然光に照らされた横顔が、絵画のように美しい。カナは振り返り、俺に気づく。
「来たんだ」
カナの声には少し驚きの色が混じっている。もしかして、俺が来ないと思っていたのか。彼の瞳には安堵の色が浮かんでいるようにも見える。
「約束したから」
俺はリュックを下ろし、中からライトブルーのドレスを取り出す。丁寧に広げながら、畳んだ跡がついていないか確認する。生地は思ったより薄く、柔らかい感触だ。
「カナ、持ってきたよ」
「ありがとう」
彼はドレスを受け取り、光に透かして眺めた。窓からの日差しがドレスを通り抜け、青い光が壁に映る。まるで水中にいるような幻想的な光景だった。
「きれいな色だね。思ったより良い」
カナの目が輝く。彼がこんなに嬉しそうな表情をするのを見たのは初めてかもしれない。普段は物静かで、感情をあまり表に出さないタイプだから。
「映画で着るから確認したかったのか?」
俺の質問に、カナは微かに笑みを浮かべた。彼の笑顔には何か秘密めいたものが潜んでいる。
「そうとも言える」
彼はドレスを椅子に掛け、カメラを手に取った。黒い大きなプロ仕様のカメラ。レンズが俺を覗き込んでいるようで、思わず視線を逸らす。
「じゃあ、始めようか」
その言葉に、胃がひっくり返りそうになる。ここからが本番。脱ぐんだ。カナの前で。
「どう...脱げばいいの?」
声が震えていた。カナは優しく微笑む。
「自然に。緊張しないで」
言うのは簡単だが初めての俺には難しい。カナはレンズを俺に向け、俺は凍りついたように立ちすくんだ。足がコンクリートに埋まったかのように動けない。
「マリ、リラックスして。服を一枚ずつ、ゆっくり脱いでみて」
カナの声は落ち着いていた。これが仕事なんだと言わんばかりの冷静さ。それが逆に緊張を高める。
深呼吸。まず上着から。Tシャツの裾をつかむ手が小刻みに震えた。ゆっくりと持ち上げ、頭から脱ぐ。その瞬間、カナのシャッター音が鳴る。カシャッという音が異様に大きく響いた。
「そう、いいよ。自然に」
カナの指示に従って動く。でも、自然って何だろう。こんな状況で自然な動きなんてあるのだろうか。
上半身裸になると、急に恥ずかしさが増した。スタジオ内の空気が肌に触れ、鳥肌が立つ。俺は筋肉は適度についているし、そこそこ体型には自信はあるけど、カナに見られるのは別問題。彼の視線が肌を這うような感覚がして、息が詰まる。
「マリ、こっちを向いて」
カメラを向けられ、また視線を外す。窓の外の海を見ると、青い水平線が遥か彼方に伸びていた。
「恥ずかしい...」
思わず漏れた言葉。カナは少し間を置いてから答える。
「大丈夫、綺麗に撮るから」
カナの言葉に少し心が落ち着いた。彼が俺を見るのは芸術としてだ。そう思えば……少しは恥ずかしさも和らぐかもしれない。彼の真剣な眼差しには、小動物を捕える捕食者のような強さがあった。
ゆっくりとズボンに手をかける。ボタンを外し、ジッパーを下ろす音がスタジオに響く。脱ぐ前に、もう一度カナを見た。彼は真剣な表情でカメラを構えている。その集中した姿に、少し安心感を覚える。
ズボンを脱ぎ、下着姿になる。窓から入り込む風が冷たく感じた。新鮮な空気が全身を包む。シャッター音が連続して鳴る。様々な角度からの撮影が続く。カナの息遣いすら聞こえるような気がした。
「あと少し」
カナの声が微かに震えていた。彼も緊張しているのか?それとも興奮?考えるだけで頬が熱くなる。
残るは下着だけ。本当に全部脱ぐのか?でも、約束は約束……こんな状況になるとは思わなかったけど、俺が言い出したことだ。
俺は目を閉じ、下着に手をかけた。心臓の鼓動が耳に響く。息を止めて、ゆっくりと下げようとしたその瞬間。
「待って」
カナの声が静かに響いた。俺は目を開け、彼を見る。カナの頬は少し紅潮していた。
「もういいよ」
「え?」
俺は困惑する。全部脱がなくていいの?約束と違うじゃないか。
カナは少し赤い顔を見せ、窓際に歩み寄る。
「これで十分」
彼の声は小さかった。スタジオの中に、波の音だけが満ちた。
「次は...これ」
彼がライトブルーのドレスを手に取る。陽の光が生地を通り抜け、彼の手に青い影を落とす。
「これ、着てみて」
「え?俺が?」
俺は完全に混乱した。俺がドレス?女装?そんなことは聞いていない。
カナは少し困った表情を浮かべた。言葉を選ぶように、間を置いてから話し始める。
「そう。マリがこれを着た姿を撮りたい」
「でも、映画ではカナが着るんじゃ...」
「俺に着せようとしてるんだから、マリも着れるよね?」
理屈になっていないが、反論する気力もなかった。そもそも、ここまで来て断るのも不自然だろう。俺は恐る恐るドレスを受け取った。
「着方……わからないよ」照れ隠しに笑う。カナも少し緊張を解くように微笑む。
「手伝うよ」
カナが近づき、ドレスを着せてくれた。頭からかぶらせ、腕を通し、背中のファスナーを上げる。彼の指先が俺の肌に触れるたび、落雷に打たれたかのような衝撃が走る。温かな指が背中を滑る感触に、ビクッと反応してしまう。
「少しキツイかも。ファスナー途中までにしとくね」
カナはドレスの肩紐をずらし、調整しながら、構図を決めていく。肌に触れる指の感触が羽根のように優しい。その感触により、身震いが止まらなくなる。彼の顔が近い。相変わらず長い睫毛が白い肌に影を落としている。
「女性用だから、肩幅がきついね」
彼の吐息が首筋に当たって、くすぐったい感覚が広がる。何でもない顔をして必死に平静を装う。
ようやくドレスを着終えると、カナは少し離れて俺を見つめた。彼の眼差しに何かが宿る。驚き?感動?
「マリ……綺麗だよ」
その言葉に、胸がきゅんと締め付けられた。カナが俺を「綺麗」だと思ってくれている。それだけで、恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。
「変じゃない?」
俺は自分の姿を確かめようと、スタジオの壁に掛かった小さな鏡に近づく。そこに映る自分は、確かに奇妙だった。男の筋肉質な体にドレス。でも、不思議と違和感がない。ライトブルーの色合いが、日焼けした肌の色と意外と調和している。
「全然。似合ってる。俺より似合うんじゃない?」
さすがにそれはないと思ったが、カナの真剣な表情を見ると何も言えなかった。カナは再びカメラを構え始める。「動かないで」「こっちを向いて」「もっと自然に」と指示が続く。
窓から差し込む夏の光が、ドレスの青をより鮮やかにした。俺は初めこそ恥ずかしかったが、次第にカナの指示に従うことに快感を覚え始めた。
「腕を上げて」
「こう?」
「そう、いいね。光が綺麗に当たってる」
カナの声には熱がこもっていた。彼の作品への情熱が伝わってくる。俺はそんな彼の姿に見惚れていた。カメラを持つ洗練された手つき、真剣な眼差し、時折漏れる満足げな表情。全てが魅力的に映る。
「窓際に立って」
俺は言われるままに窓に近づく。潮風が窓から入り込み、ドレスを優しく揺らす。
「完璧」
カナの声が僅かに震えていた。彼の瞳が輝いている。俺だけを見つめる熱い視線。俺はその視線の先にいることが、なぜか誇らしく感じられた。
撮影開始から一時間後。最初の緊張は徐々に消え、俺は次第にカナの世界に引き込まれていった。彼の指示に従い、時に自分から動き、様々なポーズを取る。
「マリ、もっと自由に動いて」
「こう?」
俺はドレスが舞うように回転してみた。生地が風を捉え、ふわりと広がる感覚が心地よい。
「最高だよ」
カナの声には純粋な喜びが溢れていた。彼の笑顔が、この瞬間を特別なものに変えていく。
「次はここに寝て」
床に敷かれた白いブランケットの上に仰向けに寝転ぶ。するとカナが俺の上にまたがりカメラを構えた。これは、映画で見た記憶がある。アントニオーニの『欲望』の写真撮影のシーン。これはギリギリアウトかもしれない。
「カナ、ちょっとこれは恥ずかしい...」
「いいから。少し動いて表情見せて」
もう無理だった。カナに支配される俺という感じ。まるで逃げられない籠の中の小鳥だった。集中しているカナのシャッター音は止まらない。漏れる吐息...。
「自由に動いて」という指示に答えようと試みるが、俺の羞恥心は限界を超えていった。近すぎる距離に意識が遠のく……そして、官能の渦に飲み込まれていった。
◇
撮影が終わり、俺は自分の服に着替えた。心臓はまだ早く脈打っている。これまで経験したことのない感情が全身に満ち溢れていた。
「どうだった?」
カナがカメラの画面を確認しながら尋ねた。彼は撮った写真を眺め、時折満足げに頷く。
「恥ずかしかった...でも、少し楽しかったかも」
素直な気持ちを伝える。カナは顔を上げ、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。
「そう」
彼は穏やかに微笑む。その笑顔に、俺の心は静かに揺れていた。
「カナって...カメラ持つと人格変わるんだな...いつもと違ってちょっと驚いた」
「そうかな?集中するとこんな感じかも...?ちょっと無理させた?ごめん...」
支配的で、本当に捕食者みたいだった……とは言わないでおこう。
「これで、映画に出てくれるよね?」
そうか、全ては映画のため。撮影の余韻に浸っていた、ふわふわと宙に浮いていた俺の気持ちが、現実に引き戻される。
「約束は守るよ」
俺は少し冷静さを取り戻し、カナは満足そうに写真を眺め続けた。
撮影後、俺たちは海を見下ろすカフェで休憩した。窓際の席からは、青い海と白い砂浜が一望できる。アイスコーヒーを飲みながら、カナは時折撮った写真を俺に見せて意見を聞く。彼の真剣な横顔は、撮影時と同様に惹きつけられるものがあった。
「マリ」
「ん?」
カナが突然顔を上げ、俺と視線を交わす。彼の瞳には何か言葉にできないものが宿っているように見えた。
「今日、ありがとう。勇気あるよね」
「俺もカナを撮りたいから...」
俺の言葉に、彼は少し頬を染めて視線を落とす。
「そこまでして映画に出て欲しいって言われたの……初めてだよ」
「俺の映画、最高にしたいんだ。だからカナじゃないとダメなんだよ」
その言葉に嘘はない。カナの繊細な表情と存在感は他の誰にも真似できない天性のものだ。俺の映画の主役はカナ以外に考えられないほどに...でも、それだけなのか?本当にそれだけの理由で、今日のようなことをしたのだろうか。
胸の奥で疼く感情が、その理由づけを嘘だと囁いていた。
「そんなに期待されると、プレッシャーだな」
海を見つめながら、カナはポツリと呟いた。彼の横顔が切なくも美しい。そして、突然彼は俺の手に触れた。テーブルの上で、彼の指がそっと俺の指に重なった。
「でも、頑張るから」
その接触に俺の鼓動は高まる。カナの手は柔らかく僅かに冷たい。コーヒーの冷たさか、それとも彼自身の緊張か。
俺たちはそのまま、数秒間沈黙を共有した。言葉よりも、この静かな瞬間が何かを語っているような気がした。
帰りのバスでは、互いに疲れていたのか、会話は少なかった。窓の外の景色を眺めながら、今日の出来事を思い浮かべる。脱いだこと、ドレスを着たこと、カナの「綺麗だよ」という言葉。全てが現実離れした不思議な体験だった。
でも、時折カナと目が合うと、笑い合うその笑顔に、何か共犯関係のような親密さを感じる。二人だけの秘密の関係。確実に何かが変わった。単なる映画監督と役者の絆を超えた関係に変化していると感じた。
◇
部屋に戻ると、リョウに迎えられた。彼は俺の顔を見るなり、笑い出した。
「どうだった?」
「脱いだよ...やばかった」
「マジか!全部?」
リョウの目が丸くなる。彼は俺がそこまでするとは思っていなかったようだ。
「ほぼ...」
正確には下着までだったけど、詳細は省略した。リョウは笑い声を上げる。
「マリ、勇者だな。で、写真は?」
「これから編集するらしい。それと、カナは映画に出てくれるって」
それが今日の目的だったはず。でも、なぜか達成感よりも、別の感情の方が大きかった。何か違う扉が開いたような気がする。
リョウは俺の肩を叩いた。彼の目には「やるじゃん」という尊敬の色が浮かんでいる。
「良かったじゃん。願いが叶って」
俺はベッドに倒れ込んだ。今日は色々あったな...ドレスを着たことや、撮影の内容はリョウには言えない。なぜだろう?秘密にしておきたい気持ちがある。カナとの特別な瞬間。それを誰かに話すことで、その魔法が解けてしまうような気がしたのだ。
カナとの時間。俺の裸をカメラに収める彼の真剣な表情。ドレスの感触。全てが新鮮で心に刻まれた。
そして、彼の言葉。「マリ……綺麗だよ」
その言葉を思い出すだけで、頬が熱くなるのを感じる。これは、一体なんなんだろう?俺はカナのことを、どう思っているんだろう?単なる役者として、映画の仲間として見ているのか、それとも……。
心の奥で、答えは見つかっていた。でも、まだ認めたくない……認めるのがただただ怖かった。
俺は天井を見つめながら、今日の光景を何度も思い返す。八月からの撮影で、カナと一緒に過ごす時間が増える。その事を考えるだけで、胸の高鳴りが止まらない。
蒸し暑い夜、俺はカナの部屋で映画談義に熱中していた。
「マリ、この映画どう思う?」カナが問いかけてくる。
エアコンをつけても湿った空気が肌にまとわりつく。冷えたビールを分け合いながら、フランソワ・オゾンの作品について語り合った。
「ゴダールは難解だけど、この映像の切り取り方が革新的だよな。オゾンの手法をクラピッシュのような軽快なラブストーリーに応用すれば...」
映画の話になると止まらなくなる俺に、カナは楽しそうに耳を傾け、時折質問を投げかけてくれる。彼の真摯な眼差しに心躍る。
演技指導のため毎日のようにカナの部屋に通うようになって一週間、俺達の距離は確実に縮まっていた。
「マリ、聞いてる?」カナの声で我に返る。
「あ、ごめん。考え事してた」
「何か変なことでも考えてた?」
「違うよ。大したことじゃない」
俺は視線をそらした。先日の撮影を思い出すと、顔が熱くなる。
工学部の学生が映画にハマるなんて、周りからすれば不思議かもしれない。リョウなどは「オタクかよ」と冷やかしてくるが、カナと映画を語り合う時間は特別で、かけがえのない瞬間だった。二人とも芸大志望だったが、親の希望で工学部に入ったという共通点にも最近気づいた。
「オゾンって変わった映画多いよね」とカナが言う。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」
カナはそう言って、一瞬間を置いてから続けた。
「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」
突然の質問に、言葉が詰まる。ビールのせいか、部屋の温度のせいか、顔が熱くなる。
「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
軽く答えたつもりだったが、カナの緊張した表情がふっと緩んだ。
「そっか...」
時計を見ると、もう夜中の0時を回っている。明日も1限から講義があるのに、カナとの時間はあっという間に過ぎてしまう。帰らなくてはいけないのに、この空間から離れたくない気持ちが強くなる。
「なあ、もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」カナの提案に頷こうとした瞬間、大きな欠伸が漏れる。
「あ、ごめん...少し眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」
俺は体を起こして、目を擦った。眠りに落ちれば、この時間が終わってしまう。そんな思いで、必死に眠気と闘う。しかし、映画のオープニングが終わった頃には瞼が重くなり、意識が遠のく。
「マリ、大丈夫?寝る?」
カナの言葉が遠くに聞こえる。気がつけば、瞼が閉じそうになっていた。昼間から脚本を書いていて、疲れが出たのかもしれない。カナの部屋の心地よい雰囲気と、彼のベッドの柔らかさが、俺を睡魔へと誘う。
「ごめん...少しだけ...」
そのまま、俺は寝落ちしてしまう。少なくとも、カナにはそう見えただろう。
実際は半分眠っていたのかもしれない。意識はあるのに、体は動かず、目は閉じたまま。そんな中途半端な状態で、不思議な出来事が起こる。
映画のエンドロールが流れる静かな部屋で、微かに髪に触れられる感覚。
「油断しすぎだよ、マリ...」
カナの囁きが聞こえる。そして、彼の指先が俺の頬を撫で、唇をなぞる。
「抑えきれないかも」と小さく呟く声。でも、その言葉は届かなかったかのように、カナはそのまま続けた。
「可愛いな...」その言葉と共に、唇に何かが触れる感覚。
柔らかくて温かい何か。指にしてはしっとりとしていて、微かに良きづかいまで感じられる……これは、もしかして……。
思い切って薄目を開けると、カナの顔が目の前にあった。これは……キス?
頭が真っ白になる。どう反応すべきか分からず、俺は再び瞼を閉じて息を殺した。
暫くすると、カナの温もりが離れていく。彼はどこか別の場所、おそらく机の方へ移動したようだ。カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
俺の心臓は爆発しそうなほど早く脈打つ。今のは夢?現実?カナが俺にキスした?男同士なのに?そして「可愛い」って……。ずっと眠ったふりをするわけにもいかず、少し時間を置いてから、大げさに伸びをしながら目を覚ます演技をした。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
カナはパソコンに向かって何かを打っていた。振り返ると、何でもなかったかのような表情で俺を見る。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
30分も?その間、彼は俺を観察していたのだろうか。
「なんか……変なことした?寝言とか」
わざとらしく尋ねてみる。カナは一瞬目を見開いた気がしたが、すぐに平静を装った。
「特に何も。静かに寝てたよ」
カナは視線をパソコンに戻す。その横顔には動揺の色は見えない。あれは夢だったのか。いや、確かに感じた。唇の感触、温もり、囁き声……全てリアルだった。
「そっか...」俺は自然を装いながらも、どうしても気になって仕方がない。このまま帰るべきか、それとも...。
「カナ、今何してるの?」
「ん?ちょっと写真の編集」
カナはパソコンの画面を俺の方へ向ける。先日撮影した俺の写真だった。モノクロに加工され、光と影のコントラストが際立っている。ドレスを着た俺の姿が、まるで別人のように美しく映っている。
「...すごい。アートだな」
素直に感心する。カナの技術は確かだ。彼の目に映る世界は、いつも少し違う色を持っている。
「ドレス似合ってたよ、マリ」
カナは真剣な表情で言った。目が合い、俺は慌てて視線をそらす。心臓が早鐘を打つ。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に……美しかった」
カナの声が低くなる。部屋の空気が変化した気がした。時計のカチカチという音だけが響く静寂。
「マリ、聞きたいことがあるんだ」
カナが椅子から立ち上がり、俺の方に向き直った。その表情は真剣で、わずかに緊張しているようにも見える。
「なに?」
「さっき……本当に寝てた?」
一瞬、息が止まる。カナは知っている?気づいていた?頭の中が真っ白になる。
「え?……うん、寝てたよ」
嘘をついた。なぜだろう。本当のことを言えば良かったのに。「何でキスしたの?」と本当は聞きたい。でも、その言葉は喉の奥で詰まってしまった。
カナはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そっか...なら良かった」
その言葉に、少しだけ失望を感じる。良かった?どういう意味だ?気づかれなくて安心したということか?
「...なんで?」
思わず問いかける。カナは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
そう言いながら、彼は再びパソコンに向き直った。会話は終わり。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった気がする。
「そろそろ帰るわ。もう遅いし」
「ああ、そうだね。また明日」
カナは振り返らずに言った。その背中が、どことなく寂しげに見える。
「おやすみ」
部屋を出る時、最後にもう一度カナを見た。彼はまだパソコンに向かっていたが、画面には何も映っていなかった。ただ黒い画面を見つめているだけ。
廊下に出て、自分の部屋へ向かいながら、考え込んだ。このまま知らないふりをするべきか。それとも、明日カナに話すべきか。あのキスは何だったのか。彼の気持ちはどうなのか。そして、自分の気持ちは……。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今日起きたことを思い返す。カナのキス……何かが本当に始まったと確信した。
スマホを取り出して、リョウにメッセージを送信。
『起きてる?ちょっと話したいことがある』すぐに返信が来る。
『まだ起きてる。どうした?』
『今から行くよ』
俺は深呼吸して、ベッドから起き上がった。頭が混乱している。これからどうすれば良いのか、分からない。ただ一つ確かなのは、カナが俺にキスしたということ。そして、それが嫌ではなかったということ。
◇
深夜のリョウの部屋。
「マリ、何だよこんな時間に」
リョウは眠そうな顔で、部屋のドアを開けた。俺は何も言わずに中に入り、ベッドに座り込む。
「リョウ、カナが変なんだ」
「はぁ?何それ。お前こそ変だろ、こんな時間に」
リョウは俺の向かいの椅子に座り、寝ぐせがついた髪を掻き上げながら小さく欠伸をする。
「いや、マジで。俺が寝てたら...キスしてきたんだ」
「は?」リョウの目が一瞬で大きく開いた。「カナが?」
「ああ」
「お前、それはないわ。夢だろ。お前の願望の夢か何か」
「寝たふりしてたんだよ」
「なんだそれ。変態かよ」
リョウは呆れた表情を浮かべたが、すぐに真面目な顔になった。
「で、どうするの?」
「え?」
「だから、カナのこと好きなのか?」
リョウの質問に、言葉に詰まる。カナのこと、好き?そんなの考えたこともなかった。いや、嘘だ。映画に出演してほしいと思ったのは、最初から彼に惹かれていたのかもしれない。カナの全てを映像に収めたいと思ったのは、単に映画のためじゃない……。でも、それが恋愛感情なのかは……。
「わからないよ...」
「は?何それ。お前カナのために脱いだくせに、今更何悩んでんの?それにキスされて嫌じゃなかったなら、もう答えは出てるだろ」
リョウの言葉に、俺は黙り込んだ。確かに嫌ではなかった。むしろ、もう一度あの感覚を味わいたいと思っている自分がいる。
「好きじゃなかったら嫌な気持ちになるはずだけどな!キスなんて」
リョウはそう言って、ニヤリと笑った。その表情が腹立たしかったけれど、反論できなかった。
「でも、俺たち男同士なんだぞ?」
「そんなの関係ないだろ。好きは好きじゃん」
さっき自分がカナに言った言葉を、今度はリョウから返されて、俺は苦笑いした。
「俺……カナのこと、好きなのかな?」
やっと自分の気持ちを口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。これが、好きってことなんだ...。初めての感情に心が追いつかない。それは映画のためではなく、ただ、彼と一緒にいたい、見ていたいという気持ち。
「やっと気づいたか。鈍いな」
リョウは笑いながら、俺の背中を叩いた。
「で、どうするの?告白するの?」
「いや、まだわからない...からかわれたのかもしれないし」
「え?そんなやつだっけ?まぁめちゃくちゃモテそうではある。何でお前に?とはちょっと思うけど」
「そうだろ?女の子に人気凄いし」
「まぁ悩める乙女、頑張れ!何か進展したら教えろよ。でも次からこんな時間に来るな。マジで殺すぞ」
リョウの冗談に、俺たちは笑い合う。
「うん。悪かった。ありがとう」
リョウは冗談めかして言ったが、今日はまともだった。それに、応援してくれているみたいだ。
部屋を出て、自室に戻る途中、ふと空を見上げた。夏の星空がいつもより輝いて見える。胸の内には、不安と期待が入り混じって混乱していた。
カナへの気持ち、それはいつから芽生えていたのだろう。気づけば、四六時中彼のことばかり考えている。
自室に戻ると、今日の出来事が信じられないという気持ちが溢れ出た。それでも唇の感触は確かで、あれが夢ではなかったことを物語っている。
ベッドに横になり、天井を見つめる。明日は何が待っているのだろう。どんな会話をして、どんな未来が開けるのか。興奮と不安で眠れそうにない。でも、不思議と恐怖は感じていない。むしろ、早く朝になってほしいと願う。
スマホの画面を見ると、カナからメッセージが来ていた。
『おやすみ。明日、食堂で朝食一緒に食べない?』
シンプルな文だけど、今までとは違う意味を持つ。返信を打ちながら、俺は微笑む。
『うん。おやすみ。また明日』
メッセージを送り、俺は目を閉じた。今夜は、きっといい夢が見られそうだ。
翌朝。目覚めと同時に昨夜のことが脳裏に蘇る。カナとのキス。本当に起きたことなのか、それとも夢だったのか。一瞬、現実と夢の境界が曖昧になった。
急いで着替えて、食堂へ向かう。朝食を一緒に食べるという約束が、今日はいつもより俺を浮かれさせていた。しかし、カナとどう接すれば良いのか。何を話せば良いのか。緊張と期待が混ざり合う気持ちで、食堂のドアを開ける。
中に入ると、すぐにカナを見つけた。いつもの席に座って、何かを読んでいる。その姿を見ただけで、胸が苦しくなる。
「おはよう」声をかけると、カナは顔を上げて微笑む。
「おはよう。寝相悪いね」
普段と変わらない会話。でも、その目には昨夜の記憶が確かに残っていた。緊張していた気持ちが少し和らいだ。
「うるさいな」
俺は軽く言い返して、カナの向かいに座った。何気ない日常の会話から始まり、やがて昨夜のことを話し合う時が来るのかな...。訪れる瞬間までに心の準備を整えよう。
カナと向かい合いながら、俺は確信した。昨夜のキスは偶然ではなく、俺たちの間に確かに芽生えた何かの始まりだったのだ。夏はまだ始まったばかりで、俺たちの物語も、これからが本番なのかもしれない。
カナとの朝食を終え、大学へ向かった。スマホを確認すると8時15分。一限の講義は9時から。急いで支度を済ませ、部屋を出る。ふと、昨夜のことが脳裏に浮かぶ。
カナのキス。考えないようにしても無理だった。それなのに、彼はなぜあんなに平然としていられるのか?あまりにも普段通りで拍子抜けした。本当に現実だったのか、と疑わしくなる。
校舎の廊下でリョウとばったり遭遇した。
「おはよう、恋する乙女」
「うっせぇな。普通に話せよ」
リョウは笑いながら、俺の肩を軽く叩く。
「で、決心はついたの?カナに告白する?」
「そんなの...まだ考え中だ...」
「自然体でいいんじゃね?」
そう言われても、昨夜のキスを思い出すと、顔から火が出そうになる。もしあれがからかわれただけなら?本気にした自分がバカみたいだ。カナにとって俺が単なる上級生の一人で、特別な存在でないとしたら。胸が苦しくなる。これからどう接すればいいのか。
「お前、そんな顔してたらカナにバレるぞ。気持ち丸見えだからな」
リョウが指で俺の顔を突いてきた。
「分かってるよ...でもどうしようもないんだ」
「マジで重症だな。お前がこんなに真剣になるの、初めて見たわ。恋は人をこんなにも変えるんだな」
そう言ってふざけながら、リョウは去って行く。
講義棟に向かう途中、後ろから声がかかった。
「マリ先輩!おはようございます!」
振り返ると、写真サークルの二年生、ユナが手を振っていた。彼女はいつも明るく、映画サークルも兼任しているため、こちらでも人気者だ。特にカナとは親しいらしく、二人で話している姿をよく目にする。
「あ、おはよう」
「マリ先輩の映画っていつから撮影ですか?奏多くんが出るって本当ですか?」
ユナの質問に、なぜか居心地の悪さを感じる。笑顔の奥に潜む挑発的な眼差しが気になった。
「ああ、まあ...準備中だけどな」
「私も手伝いたいです!奏多くんが出るなら、私も参加したいです!」
ユナの瞳が輝いている。彼女がカナに好意を抱いているのは、サークル内では周知の事実だった。実際、二人はよく一緒にいるし、カナも彼女に優しく接している。他の女子がカナに近づけば邪魔するような気の強さで、いつもカナを独占しようとする。はっきり言って俺は苦手だ。
「あ、いや...まだ具体的に決まってないから...」
「決まったら教えてください!私の映画にも奏多くん出てほしいんです。奏多くん、私が撮影したら絶対素敵な映像になると思うんです!」
ユナはそう言いながら、チラリと俺の表情を窺った。その瞳には明らかな挑戦の色が浮かんでいる。
「奏多くん、私の映画の方が似合いそうじゃないですか?」
彼女は笑顔で言ったが、その裏に何かを感じずにはいられなかった。
「カナは俺の映画に出ると約束したから」
思わず強い口調で応じてしまう。ユナはすぐに笑顔を取り戻した。
「ふーん、でも奏多くん、私の映画の方が大事って言ってました」
その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。嘘だ。カナがそんなことを言うはずがない。でも、もし本当だとしたら。
「嘘つくなよ」
思わず低い声で返した。ユナは一瞬表情を曇らせたが、すぐに元の笑顔に戻る。
「でも、奏多くんならきっと私の映画にも出てくれるはず!昨夜も『ユナの映画面白そうだね』って言ってくれたんですよ」
その言葉が刺ささる。カナとユナ、昨日も会っていたのか。俺がリョウの部屋にいる間、あんな夜中に?
「そうなんだ...」俺の声が虚ろに響く。
「はい!奏多くんとは昨日も夜遅くまで写真の話をしていました。彼、本当に素敵な感性の持ち主なんです。私、ずっと前から奏多くんのこと...」
ユナの言葉が、次第に遠くなっていく。昨夜、俺の部屋を出た後、本当にカナはユナと会ったの?そう考えると、心が疼く。悔しさと不安が入り混じった感情が押し寄せてくる。
昨日俺にキスしたのに、そんなことあるのだろうか?それでもカナを信じたい気持ちは消えない。この葛藤がもどかしくて、自分が情けなくなった。
「マリ先輩?聞いてます?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「もう、マリ先輩ってしつこいって噂だけど、こんなに上の空なんですね」
ユナの言葉に、思わず眉をひそめる。俺ってそんな風に見られているのか?
「しつこいって、誰が言ってるんだよ」
「え?あ、いや...そういう噂があるって聞いただけです。奏多くんに何度も映画出演頼んでるって...」
ユナは少し慌てた様子で言葉を濁した。だが、その表情に何かを感じた。最近、サークル内の視線が変わったのは、まさか、ユナが噂を広めているのか?
「まあいいや。俺、授業あるから」
足早に立ち去ろうとすると、ユナが袖を引っ張った。
「あの、先輩!一つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「奏多くん、本当に先輩の映画に出るんですか?ドレス着るって本当ですか?」
「...どこで聞いたんだ」
「はい。奏多くんから聞きました。『マリ先輩にライトブルーのドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って」
その言葉に、思考は停止した。カナは俺のことを...面白いネタとして話していたのか?昨夜のキスも、ただの遊びだったのか?心臓が鉛のように重くなる。
「そう...」
俺は何も言い返せず、足を早めて講義棟へ向かった。後ろからユナの声が聞こえたが、振り返らない。一日中モヤモヤしたまま、講義も上の空でカナのことばかり考えていた。
◇
昼休み、食堂でリョウを見つけて隣に座る。
「どうした?顔色悪いぞ」
「リョウ、カナって俺のこと、どう思ってるんだろうな」
「は?何いきなり。まだ昨日の続きか?」
「いや、今朝ユナに会ったんだ。カナがユナに『マリ先輩にドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って言ってたらしい」
リョウは箸を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「それで落ち込んでるの?バカじゃね?」
「は?」
「カナがお前のこと話題にしてるってことは、それだけお前のこと考えてるってことだろ」
「でも、『面白い』って...」
「そりゃ、ドレス着ることが面白いって言ったんだろ。お前自身のことを面白いって言ったわけじゃないだろ」
リョウの言葉に、少し気持ちが軽くなる。確かにそうかもしれない。
「でも、ユナのことが気になるんだよな...」
「嫉妬かよ」
「違うよ!...でも、カナとユナって仲良さそうだし」
「ユナってさ、マリのこと嫌いなんじゃね?」
リョウが突然言った。
「え?なんでそう思うんだ?」
「なんか最近、お前の悪口をサークル内で言ってるって話を聞いたんだよ。『マリはしつこいし自己中心的』みたいな」
その言葉に、朝のユナの態度が繋がった。あの「しつこい」という言葉は、偶然ではなかったのだ。
「マジかよ...なんでそんなことを...」
「カナを独占したいんじゃねぇの?ユナ、カナのこと好きって噂だし」
「あいつに負けたくない...」
思わず本音が漏れる。リョウは笑いながら頷いた。
「ユナはカナのこと好きだろうけど、カナの気持ちはわからないぞ。昨日お前にキスしたのは事実だろ?妄想じゃないよな?それだとユナと付き合うなんてあり得ない話だ」
確かにそうだ。でも、カナの気持ちがわからないから不安になる。
「カナを取られるかも...」
「嫉妬してんのか?恋してんな、マジで」
リョウは呆れた表情で言ったが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、気になるなら直接カナに聞けばいいじゃん。あいつとユナってどういう関係なのか」
「そんな簡単に聞けるかよ...」
「じゃあ、俺から聞いてやろうか?」
「やめろって!」
リョウは笑いながら、トレイを片付けた。
「授業行くわ。お前もいつまでもそんな顔してないで、ちゃんとカナと話せよ。あと、ユナの言うことをそのまま信じるなよ。お前、単純すぎなんだよ」
リョウが去った後、俺は一人で考え込む。確かに直接話すのが一番だけど...どうやって切り出せばいいのか?昨日のキスのこと、覚えてる?ユナとはどういう関係?そんなこと、どう聞けばいいのだろう。
カフェテリアの窓から外を見ると、ちょうどカナが中庭を歩いているのが見えた。日差しを浴びて輝く彼の姿に、複雑な気持ちが沸き上がる。女子二人がカナに駆け寄り話しかけている。
「誰だよ?」と思ったが詮索するのはおかしい。そんな関係ではないのだから。
もし、彼が俺のことを特別だと思っていなかったら……そう考えると息が詰まりそうになる。
◇
夕方、映画サークルの部室に向かうと、中からカナとユナの声が聞こえてきた。ドアを開けようとした手が止まる。
「奏多くん、私の映画出てよ。絶対素敵な作品になるから!」
「ユナ、でも俺、マリの映画に出る約束してるし...」
「えー、そんなの断ればいいじゃん。マリ先輩って、しつこいって噂だし」
ユナの言葉に、また傷つく。やはり彼女が噂を広めていると確信。不快感が胸の奥から湧き上がってくる。
「そんなことないよ。マリ、すごく真摯に映画と向き合ってる。だから俺も出たいと思ったんだ」
カナの言葉に、胸の奥で小さな希望が灯る。彼は俺のことを守ってくれている。
「でも、男がドレス着るなんて、変じゃない?私が着た方が絶対綺麗だよ」
「それは...」
カナの言葉が途切れた。俺はどうしたらいいのか分からなくなった。カナは俺の映画を守ってくれている。でも、ユナの言葉も間違ってはいない。男がドレス着るのは、確かに変かもしれない。だが、その「変」こそが俺の作品の魅力なのだ。カナにそれを理解してほしかった。
「変かもしれないけど、それがマリの映画の面白いところなんだ。俺はそれに共感したから出ることにしたんだよ」
カナの言葉に、胸がじんわりと温かくなる。まだ希望はある。そう思った瞬間、ドアの向こうから足音が近づいてきた。
慌てて少し離れたところに立つと、ドアが開いてカナが出てきた。
「あ、マリ...」
カナと目が合った瞬間、昨夜のキスを思い出して、顔が熱くなる。カナも少し頬を染めたような気がした。彼の瞳が僅かに揺れていた。
「よう、カナ。部室にいると思って」
「うん...ユナもいるけど」
「聞こえたよ。お前の映画出演の話」
カナは少し驚いた表情をしたが、すぐに真剣な顔になる。彼の瞳に迷いはなかった。
「マリ、俺は約束守るよ。ユナの映画じゃなくて、マリの映画に出る」
カナの言葉は、春の木漏れ日のように暖かい。
「ありがとな。でも、もし本当にユナの方がいいなら...」
言いながらも、心の中では「そんなこと言うな」と自分を叱っていた。どうして素直になれないのだろう。
「違うよ。俺はマリの映画に出たいんだ」
カナの真っ直ぐな目に、言葉が詰まる。その瞳には嘘がない。昨夜、彼の部屋で交わした約束を彼はちゃんと覚えていてくれている。
「奏多くん、まだ考えて...あ、マリ先輩」
ドアから顔を出したユナが、俺を見て少し表情を曇らせた。その目には明らかな敵意が浮かんでいる。
「よく会うな、ユナ」
平静を装って挨拶したが、内心は複雑な感情が渦巻いていた。
「マリ先輩、奏多くんを取らないでください。私の映画にぴったりなんです」
ユナの言葉に、カナが困惑の表情を浮かべる。彼の眉間にシワが寄った。
「ユナ、もう決めたって言ったよね。俺はマリの映画に出る」
「でも...」
「他の人を探してみたら?サークルには演技派の人もいるし」
カナの優しいけれど断固とした態度に、ユナは諦めたように肩を落とした。その表情にはまだ諦めきれない気持ちが見え隠れしていた。
「わかった...でも、奏多くん、私の映画も見てね」
「もちろん」
ユナは俺に軽く挨拶して、部室の奥へ戻っていった。その目には「まだ終わってない」という意思が感じられた。俺とカナは廊下に残される。
「ごめんな、カナ。俺のせいで...」
「ううん、俺が決めたことだから。マリの映画、楽しみにしてるよ」
カナの笑顔に、昨日からの不安が少し和らいだ。でも、まだ聞けていない。昨夜のキスのこと、ユナのこと...。
「あの、カナ...」
「うん?」
「昨日は...その...」言葉に詰まる。
どう切り出せばいいのだろう。心臓が早鐘を打つ。
「昨日?」
カナは首を傾げた。その仕草が愛らしくて、余計に言葉が出てこない。頬が熱くなるのを感じる。
「なあ、カナ...昨日、お前の部屋で寝ちゃった時さ...」
「うん?」
カナが手を止めて俺を見る。瞳が揺れているように見えた。
「なんか……変なこと、なかった?」
バカみたいだ。こんな回りくどい聞き方しかできない。カナは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑った。
「変なこと?マリが寝相悪くてベッドから落ちそうだったくらいかな」
カナは冗談で誤魔化す。その軽い口調に、ホッとする反面、モヤモヤが募る。あのキス、夢だったのか?いや、絶対現実だ。唇の感触、しっかりと覚えている。
「そっか...ならいいけど」俺も笑ってごまかす。
「うん...」
少し残念そうな表情を浮かべるカナを見て、俺は自分の臆病さを呪った。なぜ素直に聞けないのだろう。昨日のキスのこと、ユナのこと...知りたいのに。
カナの横顔を見ると、彼も何か言いたそうな表情をしていた。もしかしたら彼も俺と同じく、昨夜のことを考えているのかもしれない。それとも、別のことを悩んでいるのだろうか。
部室に入り、サークル活動が始まる。別々の場所で作業していても、時々目が合うと、お互いに微笑み合う。その度に胸が高鳴り、作業に集中できない。カナが資料を整理している姿を見ながら、俺は昨夜のキスをまた思い出していた。あの柔らかな唇の感触。確かに感じた温もり。俺は翻弄されている。
「マリ先輩、この資料どうですか?」
ユナが横から話しかけてきた。彼女の笑顔は完璧だったが、目は笑っていなかった。
「ああ、ありがとう」
資料を受け取りながら、ユナが小声で言った。
「奏多くん、私のことも大切に思ってくれてるんです。先輩にはわからないでしょうけど」
その言葉に反論しようとした瞬間、向こうからカナが歩いてきた。ユナはすぐに明るい笑顔を作り、カナに話しかける。
「奏多くん、この写真素敵!」
二人が会話しているのを見ると、俺はもどかしさを感じる。ユナの態度は明らかに敵対的だが、カナはそれに気づいているのだろうか。もし気づいていないなら、ユナの思惑通りになってしまうかもしれない。でも、さっきカナが言ってくれた言葉を信じたい。
夕暮れ時、サークル活動が終わり、メンバーが帰り始めた。俺はカナに声をかけようとしたが、ユナが先に彼を捕まえてしまう。二人は何やら話し込んでいる。
諦めて一人で帰ろうとした瞬間、背後から声がかかった。
「マリ、待ってよ」
振り返ると、カナが駆け寄ってきた。夕陽に照らされた髪が、彼の瞳と同じ琥珀色に輝いて見える。
「一緒に帰ろう」
「ユナは?」
「もう帰ったよ。今度の日曜、映画祭に行こうって誘われたけど、断った」
「断ったの?なんで?」
「その日、マリと映画の打ち合わせするって約束してたから」
そんな約束をしていただろうか?でも、カナがそう言うなら...。
「ああ、そうだった。忘れてた」
「もう、忘れるなよ。楽しみにしてたのに」
カナは拗ねたように頬を膨らませた。その仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。普段クールな彼はたまにこういう可愛い面を見せてくれる。親しくなった証拠かもしれない。彼の素直な表情に心が軽くなった。
「なに笑ってるの?」
「いや、なんでもない。可愛いなと思って。約束、守るよ」
「どこが可愛いんだよ」
二人並んで歩き始めると、黄昏時の空が幻想的に色を変化させる。他愛も無い会話で、モヤモヤが少し薄れた。
「なあ、カナ。映画の構想、もっと話してもいい?」
「うん、聞かせて」
俺たちは帰り道、映画の話をする。少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。指先が触れそうで触れない距離。それでも、昨日よりずっと近くにカナがいることを実感していた。
リョウにカナを取られるかもって言ったけど、そんなことはなさそうだ。カナはユナより俺を優先してくれている。不安になるのはやめよう。
そう思いながら、俺はカナの横顔を見つめる。マジックアワーは彼の美しさをより際立たせた。魔法のような空と一緒に撮りたい。この瞬間を切り取りたい。俺はますます彼に惹かれていく。
遠くでユナの姿が見える。彼女は俺たち二人を見つめているようだ。その表情には複雑な感情が浮かんでいる。
でも今は、そんなことを気にする余裕はない。カナとの時間を大切にしたい。俺は決意した。次こそは勇気を出して昨夜のことを聞こう。カナの気持ちを確かめ、自分の気持ちも伝えよう。
マジックアワーの終わる頃、二人は工学寮に到着していた。