カナのゲイカミングアウトから数日が経ち、俺たちの間に微妙な距離が生まれていた。お互い実家に帰省する予定があるから、しばらくは顔を合わせずに済むはずだった。
でも次に会うとき、どんな表情をすればいいのか思い悩む。リョウにも相談できないし、「先輩後輩に戻りたい」と言われても困るばかりだ。
あのキスのこと、寝たふりをしていたこと、全て頭の中でぐるぐると回り続ける。カナは俺のことを好きなのか?たぶん……そういう事に違いない。自惚れじゃなく、それと映画のことも心配になる。これからどうすれば良いのだろう。
三日後、スマホが震えた。カナからのメッセージだ。
『明日から撮影、始めよう』
予定通りロケハンとリハーサルを行おうと言ってきてくれたのだ。俺の映画のために動いてくれる。彼からの連絡に心が躍った。
『夏休みも半分過ぎちゃったし、時間ないだろ?本番までリハーサルしないと』
言葉の向こうから、カナの真剣さが伝わってくる。本当に俺の映画に出る気でいるのだ。あの告白があっても、約束を守ってくれている。息を整えて返信した。
『わかった。明日からリハーサルしよう』
明日はカナと海へ行く予定だ。撮影スポットを見て回り、撮影プランについて話し合う。そしてリハーサルも兼ねて。あの日以来、まともに会話していない二人が、どんな風に向き合うのか想像もつかない。
スマホを取り出して、明日の撮影計画を立て始める。カナと一緒に作る映画。想像するだけで心がざわめく。もしかしたら、この映画を通して、俺の感情も形を変えるかもしれない。
8ミリカメラを通して見る彼と、直接見つめ合う彼。どちらも今や俺にとって、かけがえのない存在だ。それを認めざるを得ない。
脚本を手に取り、ページをめくる。
「Do you love me?」というセリフが目に飛び込んでくる。
カナに言わせる予定の重要なセリフだ。オゾンの『サマードレス』でも登場するが、俺の映画では違う意味合いで使う計画だ。
脚本の上に書かれたその言葉が、今夜はやけに響く。彼はどんな表情で、どんな感情で、それを言うのだろう。演技の中に本心が滲むのか、それとも隠されるのか。恐ろしくもあり、同時に楽しみでもある。
夜が更けるにつれ、部屋は静けさを増していく。脚本を胸に抱えたまま、カナの横顔を思い描く。窓際で写真を撮るとき、光に照らされる彼の横顔。集中した瞳、繊細な指先。
映画に出ると言ってくれたカナ。あの決意に満ちた目を思い出す。明日から始まるリハーサルは、これまでとは違う意味を持つだろう。そして、この夏の終わりには、二人の関係の行方が明らかになるはずだ。
「ありがとう、カナ」
つぶやいて、目を閉じる。夏の夜の静寂の中で、明日への期待が膨らんでいく。そして、カナへの思いも、確かに深まっていくのを感じずにはいられなかった。明日、海辺で見せる彼の表情が、今から待ち遠しい。
◇
朝9時、工学寮の最寄り駅で待ち合わせをしていた。緊張で胃の奥がきりきりと痛む。初めての二人きりの遠出だ。映画の準備だとはいえ、どこか特別な意味を感じずにはいられない。
「マリ、おはよう」
思いがけない声に振り返ると、カナが立っていた。朝の光に照らされた彼の髪がほんのりと琥珀色に染まって見える。数日ぶりに会ったからか、その存在自体が美しかった。
「おう、カナ。早いな」
カナは薄手の白いシャツに膝丈のショートパンツ姿で現れた。眩しすぎる。夏の爽やかさを全部詰め込んだようなコーディネート。このまま、ロメールの『夏物語』に出演できそうないでたち。息が詰まりそうになる。
「おはよう」思わず笑顔がこぼれた。「今日楽しみで、早く目が覚めちゃった」
カナが嬉しそうに言う。
二人で電車に乗り込む。車内は夏休みの学生で混雑していた。窓際の二人掛けの席に座ると、カナの肩が自然と俺の肩に触れた。ほんの僅かな接触なのに、全身に電流が走る。
カナは前と変わらず気さくに接してくれるが、俺はどこか意識してぎこちない。あのカミングアウトの後、何もなかったかのように振る舞う彼に拍子抜けした気持ちもある。
俺のことが好きになりそうだから距離を取ろうとしたはずなのに――そんな疑問が頭をよぎる。
「なぁ、マリ」カナが窓の外に視線を向けながら切り出す。「ユナのこと、まだ気になる?」
「ん?ああ、まあ。俺のこと嫌いだよな」
カナは少し困ったような表情を浮かべる。
「実はさ、ユナって時々押しが強すぎるんだ」
「どういうこと?」
「高校の頃、俺が彼女の写真を褒めたことがあってさ」
カナは遠くを見るような目をした。
「それ以来、ずっとその言葉に縋っているみたい。何度『友達だ』って伝えても聞き入れないんだよ」
胸に小さな痛みが走る。彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。カナに認められたい思いは俺も同じだから。
「でも、お前、彼女のことを嫌いじゃないんだろ?」
「嫌いじゃないよ」カナは微笑んだ。
「幼い頃からの友達だし、大切な存在。でも...」
「でも?」
「でも、それ以上にはなれないんだ。わかるだろ?」
カナの視線が俺に向けられる。
「最近、ユナが何か企んでるみたいでさ。映画の撮影に口出ししたり、邪魔してこないか心配で」
「あいつ...撮影邪魔してくるのはさすがに...」思わず拳に力が入る。
「でも心配しないで」カナが俺の拳に自分の手を重ねる。温かくて気持ちが落ち着く。
「俺はマリと映画を作ると決めたんだ。それは変わらない」
その言葉に心が温かくなる。駅のアナウンスが海辺の駅到着を告げ、二人で電車を降りた。潮風が香る道を歩き始める。
海への道は坂になっていて、頂上に立つと青い海が一面に広がっていた。輝く水面と空の境目がわからなくなるほどの青さだ。
「すごい...」カナが息を呑む。
「ここで撮影したら、きっといい映像になる」思わず呟く。
「ねぇ、撮り方考えてる?」カナが俺を見上げる。
「ああ、ここでドレスシーンを撮りたくて」
俺は地面に構図を描くような仕草をした。
「カナが向こうから歩いてくるショットと、海を背景に立つミディアムショット、それと膝から下だけのクローズアップもいれたいな」
カナが目を輝かせて聞いている。
「マリって、本当に映画のこと好きなんだね」
「うん、好きだな」率直に続ける。
「今回の映画は、特に大切なんだ」
「どうして?」
「カナが出てくれるから」
思わず出た素直な言葉に、自分でも驚く。
カナの頬が赤く染まる。
「ありがとう...」
二人で砂浜に降りていった。誰もいない海岸。波の音だけが響いている。カナが突然、靴を脱いで波打ち際に駆け出した。
「冷たい!」カナが嬉しそうに叫ぶ。
「マリも来て!」
躊躇う俺の腕を引っ張り、カナは波の中へ連れ込む。冷たい海水が足首を濡らした。カナが水を掬って俺に向かって投げる。その笑顔に見とれて、呼吸が止まりそうだった。
まさに、青春のキラメキそのものだ。俺の脳内では、その笑顔がスローモーションで再生される。
「やめろって!」俺の脳内は忙しいが、アクションカメラで撮影しながら、反応する。
「こっちへ来て!ほら、向こうに岩があるから、あそこの映像も撮れるよ」カナがさらに沖へと向かう。
二人で足を濡らしながら、撮影ポイントを確認していく。カナの笑顔、水しぶき、輝く海、澄んだ空。すべてを切り取る。ロケハンと称してはいるが、この映像だけでも切なく、言葉にできない感情が込み上げてくる。
カナが岩の上に立ち、振り返り俺に叫ぶ。
「マリ、ここで撮影する?」
「いいね」俺は構図を確認する。
「ちょっと動いてみて」
カナがポーズを取る。白いシャツが風になびく姿を見つめながら、俺は思わず息を飲んだ。
「どう?」カナが岩から降りてきて、アクションカメラを覗き込む。近すぎて彼の息が頬に当たる。
「完璧だ」俺はアクションカメラを見つめたまま答える。
「お前は、カメラが本当に好きだな」
「写真はユナにはまだ敵わないけどね」
カナが冗談めかして言う。
「でも、俺のカメラはお前だけを映すからな」思わず出た言葉に、二人とも驚いて見つめ合った。
「俺しか撮らないの?監督とミューズの関係みたいだけど...まあ嬉しいけどね」カナが少し恥ずかしそうに笑顔を見せる。
「お前がアンナ・カリーナで俺がゴダールってことか?ちょっとおかしいけど、近いものはあるな」俺も笑ってしまう。
「俺の映画の主役はカナにしか出来ないからな」
映画監督が、同じ俳優を使い続けることはよくあるけれど、自分がそういう気持ちになるとは思わなかった。今まで、サークルメイトの作品は手伝っていたが、自分が監督をやろうと思ったのは、主演俳優が見つかったからだ。
カナと出会えたから。やはり、この出会いは偶然を超えた何かなのかもしれない……。ファム・ファタールではなく、オム・ファタール。まさに「運命の男」に出会ってしまったのかもしれない……。
時間を忘れて海辺で過ごした後、二人は小さな海辺のカフェに入った。潮風で疲れた体に冷たいドリンクが沁みる。
「マリ」カナが突然真剣な顔で切り出す。
「何?」
「明日からのリハーサルと撮影始まるけど、ユナがなんか言ってきても、気にしないで」
カナはストローで氷をくるくる回しながら言った。
「何処かで情報仕入れて俺らの撮影スケジュールに割り込んできそう...なんか、探るようなメールが毎日くるんだ...」
「やっぱり?諦めてないよな、お前のこと」
「なんか、企んでるような気がする……」
カナは言葉を選びながら話す。
「俺がマリの映画撮影期間中、写真サークルの活動に参加しないから怒ってるみたいで」
カナの真剣な眼差しに、言葉が詰まる。ただ頷くことしかできなかった。
カフェを後にした俺たちは駅に向かう。帰りの電車は、行きよりもさらに混雑していた。二人は立ったまま、吊革につかまる。揺れる車内で、カナの体が俺にぶつかる時、内側から熱が広がるのを感じた。
「今日は楽しかった。久しぶりに海で遊んだよ」
カナが小さな声で言う。
「ああ、俺も」
「マリと一緒だと、なんか安心するんだ。不思議だよね。なんでだろう」
そう言ったカナの瞳はいつもより熱く俺を見つめた。俺の鼓動は激しさを増す。
夕暮れの中、電車は工学寮の最寄り駅に到着した。
「マリ」駅を出たところで、カナが俺を呼び止める。
「マリの映画、本当に楽しみだよ」
茜色の光にカナの姿が溶けこむ。その言葉が、ユナの影を吹き飛ばした気がした。
「ありがとう」精一杯の笑顔を返し、各自寮の部屋に戻った。
部屋のドアを開けると、リョウが待っている。
「おう、デートは楽しかったか?」
「デートじゃないって」照れ隠しに否定する。
「映画の演技指導だ」
「へぇ〜」リョウは意地悪く笑う。
「で、どうだった?カナとの二人きりの時間は」
「いっぱい撮影の練習出来た!カメラワークは掴めたきがする。それと、ユナのことを話してた」ベッドに倒れ込み答える。
「あいつ、カナの幼馴染なんだけど、押しが強いらしいし、かなりシツコイみたいなんだ」
「だろ?」リョウが頷く。「あいつ、カナの周りをいつもうろついてるもんな。気持ち悪いぜ」
「でも、幼なじみだから仕方ないのかも...カナの事、諦められないんだろうな...」どこか彼女に同情する気持ちもあった。
「甘いな、マリ」
リョウが急に真剣な表情になる。
「あいつ、お前の映画の邪魔してくるぞ絶対。ユナなんかに負けるなよ」
リョウにもバレるくらい、ユナは動いているようだ。
「絶対負けない。映画は絶対完成させるぞ」強気で答える。
「そうこなくちゃ」リョウが満足そうに笑う。
「で、明日のロケハンどうする?」
「カナと約束してる。お前も来るだろ?」リョウの顔がほころぶ。
「いいのかよ、俺も行っても」とニヤニヤしている。
俺は適当にリョウをあしらい、明日のスケジュールを立て始める。
◇
夜、撮影したカナの映像を見返す。波打ち際で笑うカナ。岩の上でポーズを取るカナ。水しぶきの中できらめくカナ。すべてが眩しいほど美しい。
「カナ……綺麗すぎる……」
名前を呟くだけで、内側から温かさが広がる。もう自分の気持ちに嘘はつけない。俺はカナが好きだ。友達としてでも主演俳優としてでもない、もっと特別な意味で。
でも、俺はゲイなのか?バイセクシャルなのだろうか?それとも、ストレートでカナだけが好きなのか?これは恋愛感情なのだろうか?男と付き合えるのか?心の中で自問自答する。
明日からのロケハン、ユナとの対立、映画の撮影。すべてを乗り越えて、カナに自分の気持ちをはっきりさせて伝えたい。それが俺の決意だった。
窓の外、夏の夜空に星が瞬いている。あの日見た星空より、もっと明るく輝いて見えた。希望の光のように。
朝九時、駅のホームへ向かう。連日の映画のリハーサルとロケハン。カナの隣を歩くことにも少しずつ慣れてきた気がする。今日の彼は白いTシャツに薄いデニムのハーフパンツ姿だ。
夏のノルマンディーを舞台にしたオゾンの『Summer of 85』の世界観を彷彿とさせる。どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。特別な格好ではないのに、視線が自然と彼に引き寄せられる。
「電車、もうすぐ来るよ」カナが時刻表を指差し、「準備はいい?」と尋ねた。
「ああ」カメラバッグを持ち上げて見せる。
「ロケハンだから、軽装備で来たけど」
「俺も持ってきた」カナも自分のバッグを披露した。
「海の写真、撮りたくて」
電車に乗り込み、二人並んで窓際の席に腰掛ける。時折カナの肩が触れるたび、背筋にかすかな震えが走った。窓の外の景色は徐々に都会から離れ、緑豊かな風景へと変化していく。
「リョウ君は来ないの?」カナが唐突に質問してきた。
「ああ、急にバイト入ったって。それに、ロケハンだし、二人で十分かなって」
「そっか」カナはわずかに口元を緩めた。
「昨日の海でのリハーサル、楽しかったね。いっぱい動画撮って。二人だけの秘密みたい」
本当に二人きりで出かけるのは2回目だ。構図の勉強やアングル検討という口実をつけて。カナの動きを撮り放題のこの環境は、監督としては最高の機会だった。それだけなのか、自分でもよくわからない。
「楽しみだな」複雑な思いは飲み込み、シンプルな言葉だけを告げた。
カナはちらりと視線を送り、「うん」と小さく返した。その横顔に朝日が差し込み、光を受け止める瞳が煌めいていた。
昨日とは異なる、少し遠方の海へは約一時間。車窓の景色を眺めつつ、映画について話し込む。カナは意外にも映画の知識が深く、好きな監督の話題になると目の奥の輝きが増す。
「マリが監督するなら、今後どんな映画が撮りたいの?やっぱりオゾンみたいな芸術映画?」
「俺か?」考え込む。
「人が変わる瞬間を捉えたいかな。何かをきっかけに、ガラッと変化する刹那を」
「例えば?」
「例えば...」言葉を探る。「誰かを好きになって、世界の見え方が一変する瞬間とか」
言いながら、はっとした。まるで自分の現状を語っているようで、思わず言葉が詰まる。
「それ、いいね」カナは真剣な表情で同意する。
「じゃあ、今回の映画は?」
「今回は...夏の終わりに、何かを得て、何かを失う物語」照れくさくなる。
「失うの?」カナは驚いた表情を浮かべた。
「ああ、夏そのものを失うんだ。でも、その代わりに何か大切なものを獲得する」
カナは窓の外を見つめ、「なるほどね」と呟く。
海に到着したのは10時半頃。駅から少し歩くと、広大な砂浜が目の前に広がっていた。真夏の太陽に照らされ、海の青さが際立っていた。
「わぁ!すごく美しい海だね」カナの声に高揚感が溢れている。普段クールな彼にしては珍しい反応だ。
「ああ」ただ頷くことしかできなかった。
二人で砂浜を歩きながら、撮影ポイントを探索する。ノートに場所や時間ごとの光の具合をメモしていく。カナは時折カメラを取り出して風景を収めている。
「ここ、いいんじゃない?」カナが岬の先端を指差した。「あそこにドレスを着た人が立つと、すごく映えそう」
「ああ、いいね。じゃあ、あそこでドレスシーンを撮影しよう」
二人で岬に向かって歩いていると、突然カナが足を止める。
「あれ、ユナ?」
視線の先には、確かにユナの姿があった。写真サークルのメンバー数人と一緒に。一瞬、身体が固まる感覚に襲われた。
「どうして...」思わず呟く。
「奏多くん!」ユナがこちらに気づいて手を振った。にこやかな表情だが、どこか意地悪な笑みが混じっている。
「偶然ね!私たちも下見に来てたの」
偶然のはずがない。不自然すぎる。どこからか情報を入手したに違いない。
「あの、そこのポイント、私たちが使うから」ユナが岬を指差した。
「私のポートレートと映画のロケ地にするの」と言い切る。
「え?でも俺たちが先に...」カナが困惑した表情で言いかけた。
「大丈夫よ」ユナが甘い声で言う。
「私が青いドレス着るから、マリ先輩のイメージ通りになるわ」
何様のつもりだ。内側から怒りが噴出しそうになる。
「ドレスはカナ以外には着せない」思わず強い口調になった。
「俺の映画では」
「えー、でも私の方が似合うと思うな」ユナが意地悪く微笑む。
「それとも、奏多くんを本当に女装させる気なんですか?マリ先輩、変態じゃないですか?」
その言葉に、カナの表情が曇った。俺の拳に力が入る。
「ユナ」カナが冷たい声で言う。
「約束したのはマリとだ。俺が着ると決めたんだ」
「何言ってるの?男の子が女の子の服着るなんて、おかしいでしょ」ユナの声には明らかな悪意が含まれていた。
「おかしくない」反論する。
「映画だ。役なんだよ」
ユナは唇を尖らせた。
「奏多くん、本当にそれでいいの?みんなに変な目で見られるよ?」
カナの表情が一瞬揺らいだ。不安?恐れ?読み取れない感情が彼の顔をよぎる。世間からの視線に敏感なカナの弱みを、ユナは正確に突いてくる。
一歩前に出て、「カナの判断だ。俺は彼を信じてる」と告げた。
「奏多くん」ユナが甘えた声で呼びかける。
「私と一緒に素敵な写真集作りましょう?青いドレスも似合うって言ってくれたじゃない」
カナが黙り込んでしまう。迷っているのか?不安が募り、その横顔を見つめる。
「マリ」突然、リョウの声が聞こえた。
「おーい、遅れてゴメン!」振り返ると、リョウが走ってきている。バイトのはずでは?
「リョウ?どうして...」
「バイト、早上がりさせてもらったんだ。お前たちが心配で」リョウが息を切らしながら説明した。
「マリ、頑張れよ」リョウの言葉に、不思議と勇気が湧いてくる。彼はやはり幼馴染だ。普段はふざけてばかりだけど、こういう時、いつも支えになってくれる。
「カナ、どうする?」彼の目をしっかり見つめた。
カナはしばらく沈黙していたが、ふっと顔を上げる。
「マリの映画に出る。約束したから。何度も言ってるよ?」
「え?でも奏多くん!」ユナが少し怯む。
「ごめん、ユナ」カナはきっぱりと告げる。「俺はマリの映画に出るから、諦めて欲しい」
ユナは悔しそうな表情を浮かべる。写真サークルの仲間の「もう行こうよ」という呼びかけに、しぶしぶといった様子で、ユナたちは別の場所へ移動していった。
「ふぅ」リョウが溜息をつく。
「なんか凄い緊張感だったな。三角関係ってこんななんだ」とおちゃらける。
「何言ってんだよ」苦笑しながらリョウの肩を叩く。
「でも来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。お前のラブストーリー、見届けないとな」と俺をからかう。
「ラブって……違うぞ!映画の話だ!」顔を熱くして反論した。
リョウは意味深に微笑み、俺はその視線に居心地の悪さを感じ、目を逸らす。
「あのさ」カナが恥ずかしそうに言った。
「本当にドレス、着るから。マリの映画のために。マリに撮ってほしいんだ、俺自身を」
その言葉に心の奥が熱を帯びる。カナは本気だ。彼は俺の映画のために、殻を破ろうとしている。
「ありがとう。必ず、最高の映画にするから」
精一杯の思いを込めて伝えると、カナは輝く笑顔をこちらに向けた。この夏の海よりも鮮やかだと思った。
三人で海辺を歩きながら、撮影プランを練る。途中、カナは俺たちにもカメラを向けた。波打ち際で笑うリョウと俺。岬に立つシルエット。無言でシャッターを切るカナの姿は美しくて、その姿を俺も撮りたくなった。
夕方近くになり、帰りの電車に乗る頃には、完璧なロケ計画が出来上がっていた。
「じゃあ、来週から本格的に撮影開始だな」リョウが言う。
「うん。楽しみ」カナが頷く。
電車の中、疲れて眠るカナを見つめながら、思いを巡らせる。この映画は、きっと特別なものになるだろう。単に自分の作品というだけではなく、カナとのこの夏の記憶として。
寝顔を見ていると、ふと気づく。もう否定できない。カナへの感情が友情の域を超えていることを。認めたくても、それが怖い。彼を受け入れたら自分はどうなってしまうのか。
リョウが以前「カナはお前のことが好きなんじゃないか」と言ったことを思い出す。そのとき即座に否定したけれど、今は違う。
カナはゲイだと打ち明けてくれた。お互いがストレートなら、もう少し単純だったかもしれない。この複雑な感情をどう扱えばいいのか。信頼を裏切りたくないし、答えを間違えたら取り返しがつかない。その責任感に押しつぶされそうになりつつも、この鼓動の高まりも無視できなかった。
窓の外に沈んでいく夕日を眺めながら、この夏がどう終わるのか、まだ想像もつかなかった。ただ、カナと過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていることだけは確かだ。
夕焼けに染まる海辺の光景が、遠ざかっていく。
◇
あのロケハンから一週間後。いよいよ本格的な撮影が始まった。海辺でのドレスシーンは特に重要で、朝早くから準備を整えていた。
「今日の天気、最高だな」
リョウが機材を並べながら声をかけてくる。
「マリ、どんな感じで撮影する?」
手元の絵コンテを指さす。
「まず岬のシルエットから始めて、それから波打ち際のシーンへ。光の角度が変わるから、時間との勝負だ」
潮風が吹く中、カナがライトブルーのドレスを身にまとい波打ち際を歩く姿は、カメラ越しでも目を奪われるほど優美だった。波が足元を濡らすたびに振り返るカナの表情が、どこか儚くて呼吸が浅くなる。
『ただの映画用のイメージじゃない。カナがこんな近くにいるからだ』と心の中で呟いたところで、リョウに「マリ、顔赤いぞ」と指摘された。「日差しが強くて暑いんだ」と誤魔化す。
午後になるにつれ潮風が強まり、撮影はより難しくなっていく。それでもカナは文句一つ言わず、何度も同じシーンを繰り返してくれる。ドレスの裾が風に舞い、彼の細い肩が夕陽に染まる光景は、まるでファンタジー映画のヒロインのようだった。
「OK!これで完璧!」
最後のカットを終え、満足げに声を上げた。カナは疲れた表情ながらも、緊張感から解放されていた。
「良かった。マリの想像通りになった?」
「想像以上だよ」正直な気持ちを伝えると、カナはホッとした表情を見せた。
撮影を終えて機材を片付けていると、リョウが突然声をひそめた。
「おい、マリ。あそこを見ろよ」
振り返った先、少し離れた砂浜にユナの姿がある。青いワンピース姿で、写真サークルのメンバーと何か話している。
「まだ諦めていないのか」思わず声が漏れる。
「気にするな。衣装まで被せてくるなんて、あいつマジでヤバい」呆れ顔でリョウが俺の肩をポンと叩き、「今日の撮影は最高だったぞ」と励ましの言葉をくれた。
◇
その夜、予約していた海辺のコテージに泊まる。夕食後、カナとリョウには先に部屋へ戻って休んでもらい、明日の撮影プランを一人で考えたくて、俺は浜辺を散策していた。波の音を聞きながらイメージを膨らませていると、背後から声がかかる。
「一人で何してるんですか?マリ先輩」
振り返ると、ユナが立っていた。月明かりに照らされた彼女の表情には、いつもの高慢さがない。どこか寂しげで、初めて素顔を見た気がした。
「ユナ...なぜここに?」
「私も撮影で来てるんです。さっきも会いましたけど」彼女は砂浜に腰を下ろそうとして、「座ってもいいですか?」と俺に許可を求める。
「ああ」警戒しながらも、隣に座ることを許す。
「奏多くんのこと、本当に大切にしてるんですか?」不意にユナが問いかけてくる。
「当然だよ」躊躇なく答えた。
「カナは俺にとって特別な存在だから」
「そうですか」ユナは遠い目をして海を見つめた。
「私、ずっと前から奏多くんの事が好きなんです。でも、最近の奏多くんの目には、マリ先輩しか映っていないみたいで...」
その言葉に息を呑む。ユナの行動は全て嫉妬からだったのか。
「私の映画、全国大学映像コンテストで一位を取ります」彼女は急に声のトーンを変えた。
「先輩達も私の味方。このままだとマリ先輩の映画は応募も難しいかもしれませんね。各大学から一本しか応募できないらしいし」
「何だって?」思わず声が上ずる。
「奏多くんに伝えておいて下さい。明日、私に会いに来てほしいって」ユナは立ち上がり、砂を払う。
「選ぶのは奏多くん自身ですよね?」そう言い残して、彼女は暗闇の中へ消えていった。
部屋に戻ると、カナとリョウはまだ起きていて編集プランを話し合っていた。ユナとの会話は二人には話せない。特にカナには余計な不安を与えたくなかった。
◇
翌朝、カナが「ちょっと出かけてくる」と言い残して部屋を出て行く。懸念が頭をよぎり、リョウを残して後を追う。
海辺のカフェで、カナとユナが向かい合っている姿を発見して、近づいて話を聞こうとすると、ユナの声が風に乗って聞こえてきた。
「マリ先輩の映画なんかより、私の映画はコンテストで一位取れるよ。私の方が撮影技術が高いし、写真も上手いでしょ?それに、あんなドレス着た映像が残るなんて、みんなの笑いものになるだけだよ」
カナは黙って聞いている。その姿を見るのが辛かった。
「藤崎先輩も言ってたよ。マリ先輩の映画は選考から外されるって。奏多くん、私と一緒に素敵な映画を作りましょう?」
「これで奏多くんは私のもの」と言わんばかりのユナの笑顔。俺は居ても立っても居られなくなり、その場から立ち去った。
部屋に戻ると、リョウが心配そうな顔で俺に話しかける。
「どうした?顔色悪いぞ」
「もうダメかも」膝を抱えて床に座り込む。
「俺の映画、選考から外されるかもしれない。カナもとられるかも...」リョウは真剣な表情で前にしゃがみ込んだ。
「選考外されるって何?それに、カナはお前を選んだんだろ?」
「ユナが言ってたんだ...」
「あいつにまたなんか言われたのか?諦めるなよ。まだ分からないだろ?」リョウがきっぱり言い切る。
「カナの事も信じてやれよ」と言うリョウの言葉に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「ユナなんかに負けたくない。カナと約束したんだ」
「そうだ」リョウが笑顔で俺を諭す。「それがお前だ」
その時、部屋のドアが開き、カナが戻ってきた。予想以上に早い帰還に驚く。
「カナ...」
「ユナに会ってきたよ」カナが静かに言う。
「彼女の誘いを断ってきたんだ」
「本当に?」
「悪いけど、俺はマリの映画に出る。ユナの企画は自分で頑張ってって伝えた」カナは照れくさそうに言う。
「ユナ、かなり怒ってたけどね」
「でも、藤崎先輩が...」
「知ってる」カナが頷く。
「コンテストの選考は、上映会で決められるから、ユナの映画に勝てばいいんだよ。マリには出来るよね?」
「上映会で皆を認めさせればいいってこと?」
「そう。いい映画が出来れば皆に認められるよ。それに審査員長は外部の専門家に依頼するらしいから、本当に実力勝負だ」カナがまっすぐに俺の目を見つめた。
「やるだけやってみよう」
カナが差し出した手を握ると、不思議な安心感が全身を包んだ。温かいその手を強く握り返す。
「よし」リョウが二人の背中を叩く。
「じゃあ、最高の映画を作ろうぜ!」
俺たちは気合を入れ直して撮影に取り組み、この日のスケジュールを計画通りに進めた。
撮影は順調で、デジタル映像の編集作業も今日から同時に行う。8ミリフィルムの編集が始まるまでに終わらせる予定だ。2つの映像を効果的に使い1本の短編映画に仕上げる。
明日はついに映画のクライマックスシーンの撮影。カナの姿を思い浮かべながら、カメラワークのシミュレーションを行う。再び心を引き締め直し、彼が俺を選んでくれたことの意味を、この映画に込めようと決意する。
撮影二日目の早朝。波の音と潮風の香りで目を覚ました。コテージを出て一人、静かな海辺に向かう。
「今日はいよいよクライマックスか」
砂浜に腰を下ろし、揺らめく波を見つめながら呟く。カナの最も重要なシーンの撮影日。彼のあのセリフを、俺のカメラに収めるのだ。
「マリ先輩、こちらですよ!」
振り向くと、映画サークルの後輩たちがすでに機材を準備していたので、慌てて駆け寄った。
「ごめん、今行く!」
緊張と期待で呼吸が浅くなる。昨夜はほとんど眠れなかった。上映会で俺の映画とユナの映画、どちらがコンテストに選ばれるのか。カナのためにも絶対に良い作品に仕上げ、みんなに認められたい。
「カナはどこ?」
「着替え中だよ」リョウが小屋の方を指差す。
「緊張してんの?顔真っ赤だぞ」
慌てて頬に手を当てる。熱い。
「うるさい。監督なんだから当然だろ」
機材をチェックしていると、不穏な空気が漂ってきた。視線を上げると、ユナが見知らぬ男性を連れて近づいてくる。
「マリ先輩、紹介します。演劇サークルの高山くんです。今日のシーン、彼に演じてもらうのはどうですか?奏多君より演技も上手いですよ」
ユナの言葉に、堪忍袋の緒が切れた。まだ諦めていなかったのだ。しつこすぎる。
「勝手なことするな。主役はカナだ」
「でも、マリ先輩の作品は演技力が必要ですし、プロっぽい高山くんじゃないと、上映会で恥をかきますよ?」
ユナの言葉には反応しない、絶対負けない、もう引かないと決めたのだから。
「黙って見ていろ」
静かに告げ、8ミリカメラを手に取る。このシーンは深い感情を伝えたいので、三脚は使わずに、手持ちで撮影する。全盛期のウォン・カーウァイ風の演出だ。
「リョウ、カナを呼んでくれ」
リョウは笑みを浮かべながら小屋へ走った。
数分後、一人の姿が現れ、俺は息を呑む。
ライトブルーのドレスを纏ったカナが、朝日に照らされて輝いている。その姿は昨日よりも洗練され、研ぎ澄まされていた。そよ風にドレスの裾をなびかせ、素足で白い砂浜に柔らかな足跡を残しながら近づいてくる。朝日が生地を透かし、カナのシルエットが波と溶け合う。
波に消される前の砂上の足跡—それは彼の存在が儚くも美しいことを物語っていた。昨日も撮影したが、今日が実質本番だ。セリフを収めるため、カナも俳優としての表情を完璧に作り上げている。
8ミリカメラを握る手に汗が滲む。これを撮らずして何を撮るというのか。
「カナ...」
思わず声が漏れる。オゾンの『サマードレス』へのオマージュだが、もはや独自の世界が展開していた。まったく違う角度から『サマードレス』を解釈し、自由に表現する。
カナが目の前で足を止めると、周囲の空気が凍りつく。彼の瞳が俺だけを見つめ、唇が動いた。
「マリが撮りたいのは俺だ」
その一言でユナの表情が硬直した。高山と名乗る男も困惑した様子で立ち尽くしている。カナの代わりにこの役ができるなど、本人も思っていないだろう。
「はい、みんなスタンバイして。準備はいいか?」
カメラを構え直す。緊張で手が震えるが、今は迷いを見せるわけにはいかない。照明スタッフがレフ板の位置を調整し、音声係、デジタルビデオカメラもセット完了。
「あそこから歩いてくれ。波打ち際から砂浜を横切るように」
カナは無言で頷き、指定した場所へ移動し、瞳を閉じて集中している。
「シーン七。第一カット!レディ...アクション!」
カナが瞳を開き、歩き始める。ドレスの裾が風にたなびき、彼の全身が物語を紡ぎだす。
突然、海からの風が強まり、三脚に固定したカメラが揺れ始める。リョウが機材に飛びついて支える。ここは長回しだから途中で止められない。
「大丈夫、撮り続けろ!」
リョウの声にうなずき、カナを捉え続ける。風は強くなる一方だが、カナは歩みを止めない。むしろ風がドレスをより美しく舞わせている。自然が味方についたようだ。
「このまま行け!」
カナはまるで風と一体化したように優雅に砂浜を進む。背後では、メンバーたちが必死に機材を守っている。
少し離れた場所で、ユナが腕を組んで見つめているのが視界の端に入った。「絶対に負けない」と再び心の中で誓う。
ファインダー越しのカナは、これまで見たどんな俳優よりも美しい。幽玄の美の化身そのものだった。彼の一挙手一投足がカメラを通して魂に刻まれていく。
「ここで振り返って」
カナがゆっくり振り返る。彼の表情をクローズアップしていく。その瞳が俺を捉えた瞬間、カナの言葉が自然と溢れ出た。
「Do you love me?」
カナが振り返った瞬間から言い終わるまで、俺は息をすることさえ忘れていた。時が止まったような静寂の中、心臓だけが脈動を続けている。
カナは完璧に指導通りの演技で、説明できない複雑な表情を見せ、感情豊かな芝居を披露してくれた。
この後「No, thank you」と書かれたテロップを映してシーンは完成する。
「カット!」
周囲から拍手が沸き起こる。リョウが俺の肩を叩いた。
「マリ、すげえ!最高傑作だろこれ!」
メンバーたちも興奮した表情で集まってくる。
「マリ先輩、素晴らしいです!」
「これ、コンテストで賞取れるんじゃない?」
「奏多の演技に引き込まれた!」
ファインダーから目を離し、カナを見る。彼は少し照れた表情で佇んでいた。視線を感じて振り返ると、ユナがこちらを見ている。彼女は唇を噛みしめ、高山の腕を引いて去っていく。
「...悔しい」
かすかに聞こえた言葉だった。彼女の背中が小さくなる中、一度だけこちらを振り返る。目に宿るのは涙か、それとも悔しさか。一瞬だけ同情を覚えたが、すぐにカナの方へ視線を戻す。
彼に歩み寄る。白い肌に映えるライトブルーのドレスを着たカナの姿は、一生忘れられないだろう。
「カナ、最高だったよ。ありがとう」
言葉にならない想いが込み上げた。カナの表情が柔らかくなる。
「マリ...」
彼が近づき、俺の頬を両手で包み、頬に流れる涙を指で優しく拭う。ドレスの裾が俺の脚に触れる。
「"Do you love me?" 上手く出来てた?」
カナの問いに頷く。
「うん。凄く良かった。気持ちが伝わってきた」
カナの瞳が揺らめく。何かを言おうとした時、リョウが声をかけてきた。
「おーい!次のシーンの準備するぞ!」このタイミングで...。苦笑しながらカナに耳打ちする。
「また後で話そう。今日の夜、コテージで」
カナは小さく頷く。その表情には、何かが始まるという予感に満ちていた。
◇
その日の撮影は順調に進む。カナのドレス姿は想像以上に美しく映像に収まり、スタッフも達成感にあふれていた。
ユナ達のその後は、撮影現場には戻る事は無く、長かった彼女の嫌がらせがようやく終わりを告げたようだ。
「お疲れ、終わりだ」
最後のカットを撮り終えても、俺は8ミリカメラが切れるまでカナの姿を追い続けた。少しでも多く彼の姿を収めたくて。そして、カラカラと最後のフィルムの巻き終わる音を確認した。
撤収が終わる頃、夕陽が海面を赤く染め始める。
「マリ」
背後からのカナの声に振り返ると、彼はもう普段着に戻っていた。少し寂しい気持ちになる。
「どうした?もう休憩してていいよ」
「さっきの...あのセリフのこと」カナの目が真剣だ。
「あれは本当に...」
続きを聞きたかったが、またしてもリョウが割り込んできた。
「おーい!打ち上げするぞ!機材片付けたら海辺でバーベキューだ!」
「また後でな。今夜、必ず話そう」
カナに小声で告げると、彼は少し不満そうな顔をして頷く。
打ち上げのバーベキューは賑やかだった。皆で今日の撮影を褒め合い、コンテストでの受賞を夢見る。でも、俺の意識はずっとカナに向いていた。彼は少し離れた場所で、一人海を見つめている。
「なあマリ」リョウが肩に手を置く。
「お前とカナ、何かあったのか?」
「え?何が?」
「隠すなよ。あの"Do you love me?"って何?あの意味深なセリフ。現実と映画が並行してんじゃないのか?」
リョウの鋭い指摘に動揺する。
「...俺の気持ちが映像に映り込んでいたのかも」
「お前らしいな。恋愛体質の監督みたいでちょっとオモロい」
リョウはいつものふざけた調子でからかう。しかし、真面目なトーンに変わる。
「でも、今日のカナは特別だったぜ。お前の映画の中のカナは、いつもと違っていた」
リョウの言葉に何も返せず、ただ頷く。彼は遠くにいるカナの方を見て、にやりと笑った。
「がんばれよ」
夜も更け、メンバーたちが次々とコテージに戻っていく。最後に残ったのは俺とカナとリョウだけだった。
「俺、先に戻るわ」リョウがわざとらしく伸びをしながら言う。
「二人でゆっくり話せよ」リョウは意味ありげな笑みを浮かべると、砂浜から立ち去った。
静寂に包まれた浜辺。波の音だけが響く中、カナが俺の隣に座る。
「今日は...ありがとう」海を見つめながら言う。
「なんで?」
「あのドレスを着てくれて。ユナが連れてきた奴じゃなくて、お前が出演してくれて」
カナはしばらく沈黙していた。そして、ぽつりと漏らす。
「マリが撮りたいのは俺しかいないのに、他の人に代わるなんてあり得ないだろ」その言葉に胸が高鳴る。
「本当に...そう思ってる?」振り向くと、カナの瞳が月明かりに照らされてキラキラと輝いていた。
「"Do you love me?"って何で俺に言わせたの?」
「『サマードレス』にも使われてるからかな...。意味合いは違うけど」
心臓の鼓動が早まる。カナが近づくにつれ、呼吸が苦しくなっていく。触れたら何かが壊れてしまうのではないかという恐れと、この瞬間が夢なら、目覚めたくないという願いが同時に押し寄せた。
「どういう意味合い?」
カナの指先が砂浜に置いた俺の手に触れる。その接触点から温かさが広がっていく。徐々に二人の距離が縮まり、膝が触れ合う位まで近づいていた。
「本当は、『愛してる?』って聞いて『うるさい』って返すんだけど、『No, thank you...』『いらない』って感じに変えてみたんだ」
「ふーん。愛してる?って俺に聞いて欲しいってこと?」
そう言って、カナは真っ直ぐな熱い視線を向けてきた。俺の心はその熱に溶かされ、本音がこぼれ落ちた。
「俺が、カナに聞いてみたい言葉かも」
「ふーん。俺は、"No, thank you"じゃないけど」
カナの指が俺の手の甲から腕へとゆっくり這い上がり、そっと身体を引き寄せられる。月光を浴びた彼の肌は磁器のように白く、琥珀色の瞳は神秘的な輝きを放っていた。俺は彼の顔の輪郭を指でなぞりたいという衝動に駆られる。
そして――彼の唇が俺の唇に重なった。
その瞬間、時は止まり異次元へ誘われる。波の音だけが鼓膜を震わせ、世界には俺とカナしか存在していないかのような夢幻的な時間。彼の唇は驚くほど柔らかく、かすかに塩味を帯びていた。海の香りだ。
「これが答えだ」
キスの後、カナが囁いた。その声が波音に溶け込む。月明かりに照らされた彼は、現世のものとは思えない美しさだった。温かい手のひらが俺の首筋に触れ、ゆっくりと髪に差し入れられる。その感触に全身が震えた。
「理解できた?」
カナの瞳が俺を見つめる。
「ああ……カナの気持ち、わかったよ。俺の気持ちもわかった?」
今度は俺がカナの顔を覗き込む。
「うん……好きって言えるようになった?」
カナの声が少し震えている。俺は心臓の鼓動を抑えながら、勇気を出して本当の気持ちを初めて語る。
「待たせたけど……ずっと好きだったんだ」
告白の言葉を紡ぐと、カナの表情が満ち足りた微笑みに変わっていく。彼の笑顔は砂浜に降り注ぐ月明かりよりも明るい。
「窓から覗いてたもんね」
「ああ。毎日見てた。本当変態だな俺」
カナは柔らかく笑った。その笑い声は海風に乗って心地よく響く。
「俺もマリのこと、変態って言えない...裸の写真いっぱい撮ったし」俺も笑みをこぼす。
「あの写真撮影の時から俺のこと好きだったの?」
「うん。撮ってる途中から確信に変わった。俺、興味ある人しか、あんな写真撮りたいって思わないから」
二人は見つめ合い、砂浜に横たわって空を仰ぐ。夏の夜空は無数の星で彩られている。カナの横顔を観察すると、いつも以上に魅力的だ。
「星、綺麗だな」
カナの言葉に頷く。だが、俺の視線は星空ではなく彼に釘付けだった。すると突然、カナが上体を起こし、俺の上に覆いかぶさるように位置を変えた。
「見つめすぎだろ。いつもだけど」
俺はバレてたかと思い笑ってしまう。しかし、カナは真剣な表情で続けた。
「でも、今日一番綺麗だったのはマリだよ」
カナの言葉に鼓動が加速する。彼の手が俺の頬を撫で、髪を耳に掛ける。その指先が耳たぶを撫でると、鳥肌が立った。
「カナ...」
言葉を失う。彼が俺の上にかがみ込み、首筋に唇を寄せる。暖かい吐息が肌を撫で、全身に小さな電流が走った。カナの手が俺の胸元に触れる。
「いい?」
その問いかけに頷くことしかできない。カナの指先が胸元を優しく辿り、首筋に続く唇の感触に言葉を失う。
やがてカナが俺の背中に両手を回し、静かに抱き寄せた。その温もりに幸福感が全身を包み込む。肌と肌が触れ合う感覚は、これまで味わったことのない特別なものだった。カナの心臓の鼓動が俺の胸に伝わってくる。
そして再び唇を重ね、互いを求め合う。波の音を伴奏に、二人の心が通じ合うように気持ちを確かめ合っていく。言葉以上に多くのことを、その夜の海辺で分かち合った。
カナの手が俺の背中を滑り、腰に回っていく。その感触に呼吸が乱れる。星空の下、波の音に包まれながら、二人は初めての愛を確かめ合った。
◇
月が西に傾き始めた頃、二人は砂浜から立ち上がった。服装の乱れを直しながら、互いの身体についた砂を払い合う。そして視線を交わす。言葉なしでも通じ合えるようになっていた。
「冷えてきたな」
カナが俺にピッタリと、寄り添う。二人でコテージへ戻る道すがら、勇気を出して切り出した。
「上映会が終わったらさ...」
言葉の続きを探していると、カナがさっと手を取ってきた。彼の指が俺の指と絡み合う。その感触だけで満たされる。
「うん、一緒に何かしよう。映画撮影が終わってもこのままでいたい」
カナの手が温かい。指が絡み合う。この繋がりが永遠に続くことを願った。
「ああ、もちろんだ」
夜道を二人で歩きながら、星空を見上げる。満天の星が未来を照らしているような気がした。静寂の中、砂を踏みしめる音だけが響く。
「でもさ、マリ」カナが立ち止まって見つめてきた。彼の眼差しに魅了される。
「今度はドレスなしでいいよね?あれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ」
思わず笑い出した。緊張が一気に解ける。カナも笑い、その笑顔は星明かりの下でキラキラと輝く。
「ドレスも似合ってたけど、普段のお前で充分だ」
コテージのライトが見えてきた。明日から編集作業が本格的に始まり、上映会に間に合わせる。これからが本番だ。カナの手を強く握る。
「でも、またマリの裸の写真は撮りたいかな」
「変態だな」二人は笑い合う。
カナが俺の唇に優しくキスをする。
「好きだよ」
「俺も好きだ」
二人の指が強く絡まり、夏の終わりに交わしたその言葉が、確かに未来へと繋がっていく。
俺は幸せを感じていた。砂浜に残る二人の足跡は、やがて波に消されるだろう。でも、映像に残るカナの姿と、今夜の記憶は永遠に消えることはない。
初夏から始まった恋は、夏の終わりに、ついに両思いとなり幕を閉じた。今年の夏は一生忘れられないだろう。指を絡ませたまま歩く二人の影が、月明かりに長く伸びていく。
月明かりがコテージの木造の窓枠を淡く照らす夜。やっと想いが通じた俺たちはここに戻り、砂まみれの身体をシャワーで流してから眠りについた。周囲に気づかれぬよう、こっそり手を繋いで。
明日は撤収予定だが、インサートカット撮影の名目でコテージ予約は残してある。そして、カナと二人きりで過ごすために。
翌朝、まぶたを開けるとリョウや後輩スタッフたちが荷造りに追われていた。リョウが俺の肩を揺らす。
「そろそろ起きろよ」
目をこすりながら尋ねる。
「みんなもう帰るの?」
「編集作業に入るからな。お前はもう少し撮影するんだろ?」
「ああ、少しね。足りないと困るから、水中からのカットもちょっと撮っておくわ」
「おう、任せた」リョウは耳元に身を寄せ、小声で囁く。
「カナと上手くいったのか?帰ったら、たっぷり聞かせろよ。楽しみにしてるからな」と下品な笑みを浮かべながら去っていく。
「嫌だ、秘密だ。また明日な!」
俺とカナだけが残り、みんなはコテージを後にする。窓の外を見渡しながらカナが呟いた。
「みんな帰ったね」
二人の間に微妙な空気が漂う。昨日のことを思い出し、どう振る舞えばいいか戸惑っていた。
「コーヒー、飲む?」カナが唐突に提案した。
「ああ、いいね」
彼はキッチンスペースへ移動し、湯を沸かし始めた。俺は椅子に腰掛け、その背中を眺める。見とれているうちに、二人が想いを確かめ合ったことが徐々に実感となって広がる。俺たちは付き合っているのだ。
「コーヒー入ったよ。パン食べる?」
「うん、食べる」
本当にカップルみたいだと感じながら、テラスで朝食を共にした。食後も他愛もない会話で穏やかで心地よい時間が流れていく。
ゆっくりした後、水着とラッシュガードに着替えて海へ向かった。アクションカメラで水中からの撮影を試みる。水底から見上げる太陽の光が幻想的で、映画に使いたくなる輝き。数時間かけて海や砂浜、空の映像も収め、撮影は終了。カナも一眼レフでの撮影を楽しんでいた。
ランチは軽く済ませ、照りつける日差しを避け、午後は部屋で編集作業に取り組んだ。
夕暮れ時、海が茜色に染まる頃、二人で海岸を散歩する。並んで座り、水平線に沈む夕日を眺めていた。言葉を交わさず見つめ合う時間。不意にカナが顔を近づけ、唇を重ねてきた。この感覚がまだ新鮮で、実感が湧かない。本当に二人は恋人同士になったのだ。
「マリ、飯、どうする?」カナの声で我に返った。
「ああ、コンビニで適当に買ってくるか」
「いや、作るよ。材料、一応買ってある」
カナが料理するなんて意外だった。編集している間に材料も買ってきてくれたらしい。有り難く作ってもらうことにして、部屋のキッチンへ向かう。
「手伝おうか?」
「いいよ。見ているだけでいい」
キッチンカウンターに腰掛け、カナの料理する姿を眺めた。包丁を握る手つきが洗練されている。この手が昨夜俺の肌に触れたのだと思うと、全身に電流が走る。
「おい、じっと見るなよ」カナが照れた様子で言った。
「悪い。でも、カナの知らない一面を見ている気がして」
「何言ってんだよ。ただの料理だろ」そう言いつつも、耳が赤くなっているのが見えた。
「そういえば、お前が撮った俺のほぼ裸の写真、どうなった?」ふと思い出して尋ねる。カナは玉ねぎを切る手を止めた。
「ちゃんと現像してある。マリに見せようと思ってた」
「え、マジで?見たい」
「今じゃないよ。飯食ってからな」
料理が完成するまでの間、俺たちは映画の話をした。普段通りの会話だが、空気感が違う。さっきのキスもあり、二人の間には甘い空気が流れているようだ。
「できた。パスタだけど」カナが皿を置いた。シンプルなトマトパスタだが、香りだけで食欲をそそられる。
「いただきます」
「いただきます」
最初の一口で、声が漏れる。
「うまっ!カナ、これ本気で美味いぞ」
「まあな。一人暮らし長いから」
「俺より料理上手いじゃん」
「当たり前だろ。マリは、インスタントばっかり食ってるもんな」
笑い合う瞬間。この自然な距離感が心地よい。
食事を終え、二人で食器の片づけを終えた後、カナがワインを取り出した時は少し驚く。
「おい、それどこで?」
「買っておいた。乾杯しよう、撮影成功に」
「お前、意外とロマンチストだよな」
「うるさいな」照れる彼の表情に、胸が温かくなる。こんな感情、初めての経験だ。
グラスに注がれた深紅の液体で俺たちは乾杯した。
「撮影成功」
「ああ、最高の夏だったな」
ワインを飲みながら、ソファに腰掛ける。窓の外は完全に闇に包まれ、月明かりだけが海面を照らしていた。波の音が静かに響いている。
「なあ、マリ」カナが不意に切り出した。
「何?」
「あの日、オゾンの『サマードレス』観てた時、どう思ってた?」
突然の質問に戸惑う。
「どうって、カナのこと?映画出て欲しいなーって思ってた。ゲイとバイのカップルの話だから、もしかして焦った?カナがゲイって知らなかったから...」
「あの時、お前のリアクション見てて思ったんだ」
「何を?」
「お前なら、俺の気持ちを理解してくれるかもって」カナの表情が真剣さを帯びる。
「マリ、前に高校の時ゲイバレした話したの覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。大変だったな」
カナはワインをグラスに注ぎながら静かに語り始めた。
「うん。高校二年の夏。写真を撮り始めた頃。クラスの男子が...気になってた」
「気になる...男子?」
「ああ。友達としてじゃなく……もっと別の意味で」
彼の声が次第に小さくなる。
「それで?」
「その子の写真をこっそり撮っていたんだ。部活中とか、下校途中とか。芸術作品のつもりだった。でも...」
カナの手の動きが止まる。
「ある日、クラスメイトに写真フォルダを見られてしまって、変な噂が広がった。『奏多はストーカーだ』って」
ワイングラスを手に持ったまま、カナは苦しそうな表情のまま続ける。
「最悪だった。友達も減ったし、あいつも俺を避けるようになって。結局、写真も全部消してしまった」
言葉を失う。カナの過去は想像以上に辛かったのだろう。
「それからは、友達と遊ぶことも無くなって、一人で映画ばかり見ていたよ」
カナが少し視線を逸らして語る。
「どんな映画?」
「マリが好きなフランソワ・オゾンの作品とか。『Summer of 85』が特に好きだった」
「そうなんだ。趣味合うな。どこが良いと思った?」
「海辺の町で出会った二人の男の子の夏の恋と……死」
カナの声がわずかに沈んだ。
「墓の上で踊るシーンがあるだろ?主人公、頭おかしいだろって思うけど...何か惹かれた」
「そうだな。墓の上で踊るよな」
「亡くなった恋人との約束を果たすために」
俺は眉をひそめた。
「頭おかしくないよ。むしろロマンチックじゃないか」
カナは微笑み、悪戯な表情を浮かべる。
「じゃあさ、俺が死んだらサマードレス着て俺の墓の上で踊ってくれないか?」
「バカか、お前」思わず笑ってしまう。
「まあ、生きているうちに撮れればいいけどな...記録として」カナは目を細めながら呟く。
「だから...」熱を帯びた眼差しで俺を見つめる。
「お前の写真なら、良いのが撮れると思ったんだ」
その言葉に心の奥底が揺さぶられる。
「ヌードモデルの条件も...本当は意地悪だけで言ったわけじゃない。マリの姿を撮ってみたくなった。封印していた欲望を解放して、永遠に残したいと思えたんだ」カナが目を逸らした。
「そうなんだ...お前も色々考えてたんだな。俺もあの日お前の欲望を受け取った気がする」
笑みがこぼれた。あの日のカナは、普段では考えられない強さを見せていたから。
「そういえば、初めて会った時、覚えてる?」唐突な質問だった。
「もちろん。真剣な顔で写真の話してたな。去年の春の、入寮パーティーの時だよな」
「うん。マリが真面目に話聞いてくれて嬉しかった」
「お前の目が……凄い真剣で自分の事話してくれて、俺も嬉しかった。俺も映画が好きだから近いものを感じた。その時からカナを撮りたいって思ってたのかも」
「そうだったのか。でも、あの時から、マリに興味があったよ俺も」
カナの告白に、鼓動が速まる。
「斜め前の部屋だと気づいた時嬉しかったし、見放題で」
俺たちは笑い合う。
「途中から気づいてだけど、気づかないフリしてあげたからね...」
「今はこんなに近くで見つめられるようになって嬉しい」
「俺も見つめたいよ、もっと。ねぇ……本当に俺の墓の上で踊ってくれない?本気なんだ」
「あぁ。わかったよ。もし、俺の方が早く死んだら、俺の墓の上で踊れよ」
俺たちは熱い視線を交わした。『Summer of 85』に影響されすぎかもしれないが、この映画の運命的な夏の恋の結末は悲しい……。俺たちとは違う。一つの愛の形としてロマンチックで、憧れてしまうのも無理はない。カナが顔を近づけ、唇にキスをしてきた。柔らかな感触とワインの甘く渋い風味が交わる。
「マリ」
「ん?」
「あの写真、見る?」
カナがカバンから封筒を取り出した。俺のほぼ裸の写真だ。なぜか緊張が走る。
「見せてくれ」
封筒を開けると、モノクロの写真が数枚入っていた。脱衣する様子を捉えたものだ。想像よりずっと芸術的で、官能性よりも美しさが際立つ写真だった。
「すげえな、カナ。こんな風に撮れるのか」
「マリ、なかなか様になってるだろ?筋肉が綺麗だよね」
「やっぱり、筋肉目当て?」
「まぁ、写真のモデルだから綺麗な身体の方がいい...」
率直なカナに笑いがこぼれる。
最後の一枚は、上半身裸で窓際に立つ後ろ姿。顔は見えず、光と影のコントラストが美しく映えていた。
「これ、一番好きだ」
カナが指さした写真は、服を脱ぎ始める瞬間を捉えたもの。表情に緊張と決意が混在している。
「なんでこれが?」
「お前らしいから。迷いながらも、前に進もうとしている」
カナの言葉に胸が震える。彼は俺のことをよく見ていた。
「カナ、俺もお前の写真撮りたい」
「え?」
「ドレス姿じゃなくて、素のお前を」
カナは少し考えた後、頷いた。
「いいよ。でも今じゃない。今は……」
言葉を切ったカナが、身を寄せてきた。
「今は?」
「もう話さないで」
再び唇が重なる。今度は先ほどより長く、深いキス。ワインの余韻が舌先に残る。
キスを終えると、カナの頬が紅潮していた。俺の体も内側から熱を帯びる。
「カナ」
「なんだよ」
「Do you love me?」
映画のセリフをそのまま引用してみる。カナは笑った。
「さあ、どうかな?」
そう言って、再び唇を合わせてくる。答えはすでに知っていた。
彼の唇が俺の首筋を滑るように降りていく。吐息が肌を撫で、それだけで身体中が反応する。
「カナ...」
彼の手が服の裾から入り込み、背中に触れる。温かな指先が肌を這うたび、震えが走る。
「マリ、いい?」
答える代わりに、俺はカナのシャツのボタンに手をかけた。1つ、また1つと外していく。開いた胸元に触れると、カナの鼓動の激しさが伝わってくる。
お互いの服を脱がせながら、ベッドへと移動した。肌と肌が触れ合う感覚が、これまで味わったことのない高揚感を生み出す。初めてのことへの不安と、カナへの想いが胸の中で交錯する。
カナが俺の上に覆いかぶさり、見つめてくる。暗い部屋の中で、彼の目だけが異様に輝いていた。月光に照らされた二人の輪郭が、壁に揺れる影を作り出す。
「マリ」カナの声が震えていた。
「俺、お前のこと大切にしたい」
その言葉に胸が熱くなる。
「俺もだよ」
キスをしながら、彼の手が俺の身体を探る。まるで大切な芸術作品を扱うように、ゆっくりと、時に大胆に。
「カナ...怖くないのか?」今度は俺が尋ねる。
「怖いさ。でも、お前となら...」
「ああ、俺も」
言葉より行動で示すかのように、二人の身体が溶け合っていく。初めての航海に出る船のように、不確かでありながらも確かな方角を目指して。
カナの吐息で耳元が熱い。彼の手が俺の内腿に触れたとき、思わず声が漏れる。
「あっ...」
「本当にいいのか?触ってもいい?」
不安そうに尋ねるカナに、俺は頷いた。
カナの指先が優しく俺の肌を這い、下腹部へと移動する。そのたびに身体が熱を帯び、息が荒くなる。未知の感覚に戸惑いながらも、心地よさに身を委ねた。
「マリ……綺麗だ……」
カナの囁きが耳を打つ。彼の温かな唇が俺の胸元から腹部へとゆっくりと移動し、敏感な箇所に触れるたびに背筋に電流が走る。
「カナ……もっと……」
思わず漏れた言葉に、彼は顔を上げ、俺を見つめた。その瞳には欲望と同時に、深い愛情が宿っていた。
「もっと見つめて」
彼はそう言って、再び俺の唇を求めてきた。
二人の身体が完全に重なり合う。肌と肌の間に何の隔たりもなく、互いの温もりを全身で感じる。カナの手が俺の背中を優しく撫で、安心感に包まれる。
触れ合うだけで心が満たされる。カナの腕の中で全ての不安が解け、波の音だけが二人を包み込む静寂の中、官能の波が押し寄せた。
「マリ……本当に綺麗だ」
カナの囁きに、恥ずかしさと歓びが入り混じる。
全てを脱ぎ捨てた二人の身体が月明かりに照らされる。カナの指先が俺の肩から胸元へ、そして腰へと滑り落ちていく。その感触だけで、喉から甘い声が漏れる。
「もっと、聞かせて欲しい……」カナが耳元で囁く。
恥ずかしさに頬が熱くなるが、彼の指が敏感な部分に触れるたび、自然と声が出てしまう。カナの手が俺の奥深くまで感じさせ、未知の快感が全身を駆け巡る。
「カナ……もう……」
限界を感じた俺を、カナは腕の中で強く抱きしめた。彼の温かな手が導くままに、俺は甘美な頂へと昇り詰める。
絶頂の後、ふたりは汗ばんだ身体を寄せ合い、互いの呼吸を感じていた。カナも同様の高みへ導こうとする俺の手を、彼は優しく止めた。
「今日はいい。お前が気持ちよくなってくれたから……」
その言葉に胸が熱くなる。カナは何も求めず、ただ俺を愛してくれている。
「でも...」
「焦らなくていい。今日は……ここまでにしよう。これからずっと一緒だろ?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「マリは初めてなんだから。それに、俺……自分を止められる自信がない」
抑えた声。まるで何かを封じ込めるような、苦しそうな表情だった。
「俺の中にあるのはさ、綺麗な感情だけじゃない。ずっと、マリを狂いそうなほど求めてた……でも、それを見せたら、お前を傷つけるかもしれない」
胸の奥がじんわりと温かくなった。こんなにも思ってくれている。それなのに――。
俺はそっと、彼の顔に触れた。
「……だったら、見せろよ。カナの全部を」
彼の目が見開かれる。
「お前がどんな風に俺を思ってたのか……その気持ち、ちゃんと受け取りたい。怖くないよ」
少し間を置いてから、俺は言った。
「俺のこと……お前の好きなようにしろよ。覚悟は、できてるから」
その一言で、カナの瞳に変化が走った。これまで抑えていた感情の堤防が壊れたかのように、静かに揺れていた瞳に明確な意志が灯る。
「……本当に、言ったな?」
「うん。俺を、お前のものにして」
次の瞬間、カナの掌が俺の頬を包み込んだ。その熱さに驚く間もなく、唇が重なる。今度は躊躇いも、遠慮もなかった。情熱的で欲望を全て俺にぶつけて来るその姿は、写真撮影時に見た捕食者の表情だった。
キスは熱く情熱に満ち、彼の指先は渇きを癒すかのように俺の肌をなぞる。
耳元に落とされた囁きが背筋に電流を走らせた。
「マリ……壊してしまいそうなくらい、お前が欲しい」
「いいよ。壊しても、またお前が直してくれれば」
カナの手のひらが俺の胸から下腹部へと滑り降りる。写真を現像する時の繊細さと、波が岸を侵食するような確かさで。
笑い合いながらも、カナの体温が徐々に俺を包み込み、二人の体温は高まっていく。息を呑むほど美しい夜。
魂が擦れ合い、重なり合い、そして――。
二人の魂は一つになり、混ざり合い、溶け合った。
肉体よりも深く、言葉よりも確かに、俺たちはひとつになった。
初めての感覚に戸惑いながらも、互いの体温を確かめ合うように二人は絡み合う。彼の温もりが俺の内側まで満たしていく。本当の意味で彼を受け入れ繋がった瞬間、これが愛し合うということなのだと全身で理解した。
波の音が祝福のように響く中、カナの動きには抑えきれぬ欲望が宿っていた。彼の動きに合わせて、未知の快感が波のように全身を駆け巡る。痛みと愛おしさが混在する中、俺は彼の名前を呼んだ。
背中を走る痛みは次第に別の感覚へと変わり、未知の領域へと誘われる。
カナの腕の中で、俺は息を整えていた。全身が火照り、胸の奥には今まで味わったことのない温かさが灯っている。
「マリ、痛かった?大丈夫?」
カナの声はかすれていた。けれど、幸福感で満たされた響きを含んでいる。
「ううん。意外と大丈夫だった」
嘘をついた。本当は少し痛かった。けれど、不思議と嫌じゃない。
カナと一つになれた――そう思った瞬間、その痛みさえも、幸福の一部に変わった。
「マリ……お願いがあるんだけど……」
俺が振り返ると、彼は真顔で続けた。
「もし俺が死んだら、やっぱり……俺の墓の上で踊ってくれよ」
思わず吹き出した。
「またそれかよ。それ、プロポーズみたいじゃん」
「うん。プロポーズだよ」
カナは照れくさそうに、それでいてどこまでもまっすぐに俺を見つめていた。
「だって、それくらいのことをしてほしいほど、マリのことが好きだから。本気なんだ。怖い?」
俺はしばらく見つめ返して、そっと額にキスを落とす。
「うん、ちょっと怖い。でも、嬉しい。……ありがと」
「マリ、愛してる」
カナは俺を強く抱きしめる。
感情が溢れた言葉に、俺は感動していた。
「俺も...カナを愛してる」
互いの腕の中で、二人は眠りに落ちた。波の音だけが静かに響く夜。この瞬間を永遠に記憶に刻みたいと願いながら。
◇
朝、差し込む日差しで目を覚ます。カナはまだ眠りの中だ。昨夜の出来事が夢のようでも、彼の体温が現実を告げている。身体の奥に残る記憶が、頬を赤く染めさせる。
そっと起き上がり、窓から海を見渡す。波は昨日と変わらず寄せては返すのに、世界全体が違った色彩を纏っているように見える。
新しい一日の幕開け、新たな世界の始まり。
朝日に照らされた海面が煌めき、同じ景色なのに奥行きまで変化したように感じる。
「...マリ?」
背後からカナの声がした。振り返ると、髪を乱したまま、まだ眠そうな表情だった。
「おはよう」
「おはよう...何時だ?」
「まだ7時だよ。ゆっくりでいい」
カナはそっと後ろから抱きしめてきた。温もりに満たされる。そして、二人で朝の海を眺める。
「マリ、昨日のこと……後悔してる?」
カナの声にはどこか不安が混じっていた。
「ううん。後悔なんてしてない。ただ……本当に俺たち結ばれたんだなって」
カナの方を向くと、朝日に照らされた琥珀色の瞳が綺麗で吸い込まれそうになる。彼は俺の手を取り、自分の胸に当てた。力強い鼓動が掌を通して伝わってくる。
「俺、幸せだ」
その率直な告白に、全身が温かさに包まれる。
「俺も幸せ」
正面から抱き合ってキスを交わす。朝の光に包まれた柔らかな一瞬。キスを終えると、カナは微笑む。
「カナ、昨日の撮影の写真って見せてもらえる?」
「いいよ。でも、帰ってからだ。現像しないと」
「じゃあ、次のデートは現像所だな」
俺の言葉にカナは、「デートか。いいね」と明るい笑顔を見せた。
朝食を簡単に済ませ、コテージの片付けに取りかかる。昨日のワインボトルを片付けながらカナが言う。
「マリ、これからどうする?」
シンプルな問いだが、未来への扉を開くような言葉だった。
「さあ、どうしよう。まずは帰るか」
「ああ、そうだな」
「それから……一緒にいよう」
単純な言葉だが、それが全てを意味していた。
「ああ、一緒にいよう」カナが頷く。
海辺のコテージで、二人の間に芽生えたものは確かだった。
「帰ったら、リョウに話すか?」
「そうだな。あいつなら理解してくれるはず」
「他の奴らは?」
「徐々にだな。急がなくていい」
カナは安堵したような表情を浮かべる。
「マリ、ありがとう」
「なんで?」
「俺の気持ち、受け止めてくれて」
「当たり前だろ。好きなんだから」
カナの目に涙が浮かぶ。
「おい、泣くなよ」
「泣いてないよ、バカ」
荷物をまとめて、大きな鞄に詰めこむ。最後にもう一度コテージを見回す。昨夜の記憶が染み込んだこの場所を、二人は名残惜しそうに見つめていた。
「また来たいな、ここ」カナが呟く。
「ああ、またここに来よう」
俺たちの映画のように、この夏の輝きが二人の未来を照らしていくのだろう。ただ、映画とは違って、俺たちの物語は終わりではなく、ここから始まったばかり。
コテージを後にし、駅へと向かう道中、カナは俺の手を握ってきた。
「みんなに見られるぞ」
「いいだろ。どうせ誰も見てない」
彼の大胆さに驚きつつも、しっかりと手を握り返す。
「ああ、そうだな」
朝の光の中、二人の影が一つに重なる。それは、これからの歩みを暗示しているようだった。
電車に乗り、工学寮に戻る途中、俺はカナの肩に頭を預け、昨夜の余韻を感じる。これから始まる関係に期待と不安が混在するが、今はただこの瞬間を噛みしめていたい。
上映会に向けた編集作業が俺たちを待つ一方で、最も大切なのは二人で踏み出したこの一歩だ。サマードレスに憧れていた俺たちは、自分たちだけの物語を紡ぎ始めていた。
「これで本当にいいのか?」
奥底から湧き上がる不安を抑えながら、モニターに映る自分の作品を見つめる。映像は既に完成し、あとは上映するだけだ。
「マリ、大丈夫だよ」
カナの声に振り向くと、普段のクールな表情とは違う、緊張の色が浮かんでいる。上映会用のパリッとした白いシャツを着ていても、いつもの儚げな雰囲気は変わらない。
「本当に新人俳優みたいだな」
俺が言うと、カナは照れたような笑顔になる。
9月に入り、大学は夏休みから戻って間もない時期。映画サークルの部室に集まった仲間たちは、それぞれの夏の作品を持ち寄っている。伝統行事「夏の上映会」の日だ。
この日の優秀賞が全国映画コンテストに出品され、予選通過作品はインディーズ映画祭で上映される特別な機会を得る。
「真梨野の作品、楽しみだな」
サークルの先輩がニヤリと笑う。カナがドレスを着ていると聞いて、からかう気満々の様子。
「普通に撮りました。でも、自信あります」
そう返しながらも、脈拍が早まるのを感じる。俺の映画『サマードレスに憧れて』は単なる学生映画のはずが、いつしか俺とカナの関係を変えてしまった作品だ。スタッフ総出で編集を重ね、コンテストに相応しい芸術性の高い短編映画に仕上がっている。
「上映開始します」
部室が暗転し、最初に映し出されたのはユナの作品。彼女が連れてきた演劇サークルの男子が主演の恋愛ドラマだ。予想以上の出来栄えに驚く。ユナの繊細なカメラワークとデジタルアートは、彼女の感性の良さを証明していた。
「次は、真梨野くんの作品です」
司会役の先輩の声に、全身に緊張が走る。カナは俺の隣で静かに座っている。
スクリーンに映し出されたのは、海辺を歩くライトブルーのドレス姿のカナ。髪が風になびき、振り返るたびに陽の光が横顔を照らす。
逆光が彼の輪郭を金色に縁取り、8ミリフィルムの粒子が肌を詩的に染めている。それは、オゾンの『サマードレス』へのオマージュでありながら、完全に俺たちだけの映像になっていた。
登場人物はカナ一人。テロップと会話する構成にしたことで、カナの魅力がより鮮明に伝わる。砂浜に残る足跡、波の音、潮風でなびくドレス。すべてが調和している。
そしてカナがゆっくりと振り返る。
「Do you love me?」
画面が切り替わり、テロップが映る。
「No, thank you」
表現不可能なカナの表情のクローズアップ。静かな音楽と共に、ドレスのまま海に向かって歩いていく後ろ姿。ゆっくりとフェードアウトして映画は終わる。
部室に明かりが灯ると、一瞬の沈黙の後、拍手が巻き起こった。
「すげえ...これマジで単館系の芸術映画みたいだぞ」
「奏多くん、めちゃくちゃ様になってる」
「真梨野、センスあるな」
その瞬間、漠然とした映画への憧れが確かな決意にかわった。
称賛の声が飛び交う中、隅の方でじっと映像を見つめていたユナが立ち上がった。彼女はゆっくりと俺の方へ歩み寄り、照れくさそうに視線を落とす。
「マリ先輩」
ユナの声には、これまでの敵意が消えていた。
「...感動しました。私、間違ってたみたい。この役は奏多くんにしか出来ませんね」
彼女の言葉は素直で、以前の険悪な空気が嘘のよう。
「ユナの作品も良かったよ。あの光の使い方とデジタルアート、本当に素晴らしかった」
俺の言葉に彼女は少し照れた様子で、小さく頭を下げる。
「奏多くんが着たいって言ってたドレス、すごく似合ってましたね。ライトブルーと海が合わさると夏そのものという感じで。8ミリフィルムとデジタルの融合も面白い編集でした」
そう言ってユナは微笑む。彼女の表情には、純粋に映像作品を愛する者としての輝きがあった。
ユナとの会話を見ていたリョウも「あいつと仲直り出来たみたいで良かったな!」と俺の肩を叩く。リョウにはこの件で、かなりメンタル面のサポートをしてもらった。親友がいて良かったと、リョウに感謝せずにはいられない。カナとの恋も応援してくれたし。
試写会では他のメンバーの作品も続々と上映され、合評会へと移っていく。先輩たちからの鋭い指摘や後輩たちからの素朴な感想があり、それぞれの視点から映像について語り合った。俺の作品は「芸術性が高くて斬新」と評価され、カナの演技は「自然で表情が豊か」と称賛された。
「今年の夏の上映会、レベル高いな。審査が難しそうだ」
部長が満足げに言いながら、最後の挨拶をして会は終了した。観客の投票結果、講師と外部の審査委員長の評価で、数週間後に結果が出る。
「お疲れさま、みんな!このあと懇親会やるけど、来れる人は来てね!」
副部長の元気な声に、サークルメンバーが応答する。カナと目を合わせると、彼は小さく首を振った。懇親会に行く気はない様子だ。
「僕たち、先に失礼します」
カナが周りに声をかける。俺も「お先に」と手を振ると、先輩の一人が意味ありげに笑いながら「楽しんできなよ」と言った。どこまで俺たちのことを察しているのか分からないが、気にしないことにした。
部室を出て、夜の大学構内を歩き始める。初秋の風が肌に心地よく、木々の間から覗く月が静かに輝いている。
「マリ、みんな映画を気に入ってくれたね」
カナの声には安堵感があった。彼の横顔を見ると、緊張から解放された柔らかな表情をしている。
「あぁ、良かった。あんなに拍手もらえるとは思わなかった」
「でも、マリの力だよ。監督が上手だったから」
カナの言葉に、頬に熱が走る。
「お前がいなきゃ撮れなかった」
そう返すと、カナは優しく微笑んだ。
「ユナも、変わったね」
「あぁ、彼女も本当に映画が好きなんだな」
二人で工学寮への道を歩きながら、カナと出会った頃からの思い出を振り返る。最初はカナに魅力を感じて窓から毎日眺めていたけれど、たまに映画や写真の話をするだけで、深く知り合うことはなかった。
単館系映画に出てきそうな雰囲気に惹かれて、映画に出てくれと声をかけただけだったのに、こんな関係になるなんて思いもよらなかった。
「季節が変わるの、早いね」
カナの言葉に頷く。確かに、あっという間だった。
「でも、この夏はとても長く感じたよ」
俺の言葉にカナが不思議そうな顔をする。
「悪い意味じゃないんだ。すごく濃密で、一日一日が大切に思えて...だから長く感じた」
理解したように、カナは静かに笑う。
工学寮に到着すると、当然のように俺の部屋へ向かう。鍵を開け、中に入ってエアコンをつける。夏休み明けだというのに、まだ昼間の暑さが残っている。
「お疲れ様」
カナがベッドに腰掛けながら言う。俺はデスクの椅子に座り、今日の試写会を振り返る。
「先輩たちの反応見てたら、映画は人に届けるためのものだとも思った」
カナが少し驚いた表情を見せる。
「でも、マリはいつも『自分が撮りたいものを撮る』って言ってたじゃん」
「それは変わらない。ただ、自分だけが満足するんじゃなくて、誰かの心に届いたときの喜びも知った気がする」
窓から差し込む月明かりが、カナの横顔を優しく照らしていた。
「なぁ、マリ」
カナが呼びかけてきた。彼の声には少し切実なものが混ざっている。
「なに?」
「この夏のこと、ずっと覚えておける?」
その質問の意味が分かる。俺たちが過ごした特別な時間のこと。映画のために始まった関係が、いつの間にか大切なものに変わっていったこと。
「忘れるわけないだろ」
俺はデスクの引き出しからDVDを取り出し、カナに手渡す。ケースの表紙には、海辺でドレスを着た彼の姿が映っている。タイトルは『サマードレスに憧れて』完全版だ。
「ほら、ちゃんとディレクターズカット版も作ったんだ。今日見せた編集版じゃなく、俺たちだけの完全版」
それには撮影中の会話や、NGシーン、海辺のコテージでの様子まで含まれている。二人の思い出がすべて詰まっていた。
カナの瞳に光が宿り、立ち上がって俺の方へ歩み寄る。
「ほんと、マリはロマンチストだね」
そう言いながら、彼の両腕が俺の腰に回る。その温かさが心地よい。
「この夏は、俺にとっても特別だった」
カナの声は静かだが、確かな思いが伝わってくる。
「高校の時のあの失敗から、ずっと自分を閉じ込めていたのに...マリと出会ってから変われた。また人を撮れるようになったし。撮りたい被写体も見つけた。何より、自分の感情にも素直になれた」
「俺もだよ」
自然と言葉が出る。
「一生忘れられない時間だった。俺の夢の映画がカナのおかげで完成したんだから」
カナとの出会いがなければ、俺はまだ単館系映画に憧れるだけの、何も作れない学生だったかもしれない。カナを見つけたことが、俺の中の創造の鍵を解き放ってくれた。勇気を出して行動することの意味を教えてくれたんだ。
カナが俺の手を優しく握る。あの海辺のコテージでの夜のような自然な流れだった。
「マリ、これからも映画を創り続けていこう」
カナの言葉で全身に温もりが広がる。
「ああ、もちろん」
窓の外では、夏の名残の花火が遠くで上がっている。青と赤の光が夜空を彩る。二人は窓辺に立ち、並んで鑑賞する。
「今度は何を撮りたい?」
カナの問いかけに、俺は少し考えてから答える。
「今度は...冬の物語かな」
彼は不思議そうに首を傾げる。
「冬?まだ先のことじゃない?」
「だって、この夏の続きを撮りたいんだ。季節が変わっても、俺たちの物語は続くだろ?それにロメールも、『夏物語』と『冬物語』を撮った。俺も撮らなきゃ」
カナも笑顔で頷く。
「そうだな、さすが映画オタクだ。そばにいて、映画手伝うよ」
そう言って、彼は俺の肩に手を回し引き寄せた。その仕草には、もう迷いがない。
「去年のあの日、初めてマリに声をかけられた時、ドキドキしたんだ。言わなかったけど」
カナの告白に驚く。彼もあの時から何かが動き出す予感があったのだろうか。
「俺も、初めてお前を見た瞬間から、何かが始まった気がしていた」
彼の姿に心惹かれ、ライトブルーのドレスを着せたいと思った衝動。それはきっと、フランソワ・オゾンの映画への憧れだけじゃなかった。
「カナへの、純粋な恋だったんだなって今なら思う」
思わず口に出した言葉に、カナの瞳が輝いた。彼は少し照れくさそうに笑いながら、俺の方へ顔を近づけてきた。
「Do you love me?」
俺が囁くと、カナは迷わず答えた。
「Yes, 狂おしいほどに」
そしてカナの唇が、やさしく俺の唇に触れた。柔らかくて温かいキス。窓から差し込む月明かりの中、俺たちの夏は新しい季節へと変わり、新しい物語へと続いていく。
――夏の終わりに。
「明日は何する?」
キスの後、カナが尋ねてきた。俺は窓の外を眺め、潮風の余韻を思い出す。
「海に、もう一度行こうか」
カナは一瞬驚いた後、柔らかな表情になる。
「いいね。でも今度は、ドレスはなしで」
「わかった。普通の二人として」
普通。その言葉が胸に染みる。もう映画のための演出じゃない。俺たちは単なる監督と役者ではなく、ただ互いを想い合う、恋人同士として海を訪れるのだ。
カナが俺のベッドに座り、手招きした。隣に腰を下ろすと、彼の頭が俺の肩に優しく寄りかかる。
「でも、カメラは持っていこう」
俺の言葉にカナがくすりと笑う。
「やっぱりね。映画監督は休みなしか。俺もカメラ持って行くよ」
「撮り合おう。喧嘩しないように、撮る・撮られるを交代で。二人の思い出を記録しよう」
カナは満足げに頷き、指を絡ませてきた。温かな手の感触に、幸福感が全身を包む。
工学寮の廊下からは学生たちの笑い声が響き、窓の外の木々には秋の風が通り過ぎる。夏は去っても、俺たちの物語はこれからも紡がれていく。
「明日も、これからも」
カナの囁きに、俺は静かに応える。
「ああ、永遠に」
二人の間に流れる静かな時間が、この瞬間を特別なものにしていた。夏の記憶と共に、新しい季節の始まりを感じながら。
◇
数週間後、上映会の審査結果が発表された。優秀賞は俺とユナの作品が選ばれ、特例で二作品ともコンテストに出品されることが決定。俺とカナはその知らせに喜び抱き合う。次はコンテストで予選通過し、スクリーンでの上映を目指す。
新たな希望を胸に、俺たちは次作『冬物語』の構想に取り掛かり始めた。カナと共に創る次の物語に胸が高鳴る。
「マリ、ちょっとこれ見て」
ある日、カナが俺の部屋に一枚の写真を持ってきた。砂浜に寝転がる俺の姿を捉えたショット。遠くを見つめ、何かを夢見るような表情が映っている。
「これ、いつ撮ったの?」
「覚えてない?あの日、マリが脚本を考えてた時」
思い出す。波の音を聞きながら、映画の構想を練っていた時のこと。
「この表情、好きなんだ」カナが優しく言った。
「何かを見つけた人の顔」
「そうか...」
「映画祭に出られたら、次は二人で監督しない?」
カナの突然の提案に驚く。
「二人で?」
「うん。マリのアイデアと、俺の写真の感覚を合わせれば、もっといい作品ができると思うんだ。ウォン・カーウァイとクリストファー・ドイルみたいに」
その言葉から、新たな可能性が広がる。カナと共同で作品を創造する道。それは役者と監督という枠を超えて、創作を共有する関係だ。
「いいね、やってみよう」
決意の言葉に、カナは満足げな笑みを浮かべた。
「約束だぞ」
そして彼の指が、俺の頬に触れる。その感触が、これからも続いていく二人の関係を確かなものにしているようだった。
◇
インディーズ映画祭の当日。会場となった小さな劇場は満員だった。俺たちの『サマードレスに憧れて』は、無事に予選通過を果たし、学生部門で上映される。
舞台の袖で、カナと俺は互いの手を握りしめている。
「緊張する?」カナが小声で尋ねる。
「ああ、心地よい高揚感だ」
間もなく俺たちの名前がアナウンスされ、スクリーンに映画が映し出される。客席からの反応を感じながら、俺はカナの手をさらに強く握る。
映画が終わると、会場から温かい拍手が湧き起こる。映像で人の心を動かせたこと、それが何より嬉しい。
審査結果の発表が始まる。まさか自分たちの名前が呼ばれるとは思わなかった。学生部門の奨励賞受賞。舞台上で賞状を受け取るとき、カナと視線が合う。彼の目には誇らしさと、これからの期待が輝いていた。
リョウやスタッフとして手伝ってくれた後輩たちも大喜び。ユナも笑顔で受賞を祝福してくれた。俺は込み上げる思いを抑えながら、受賞インタビューに答える。
「この作品に込められた思いを教えてください」
俺は少し考えてから答える。
「夏の終わりに生まれた、純粋な感情の記録を撮ったつもりでしたが...それは終わりではなく始まりだったんです」
カナが横で静かに頷くのが見えた。
映画祭の後、俺たちはいくつかの映像関係の仕事のオファーも受け、大学生ながら小さな実績を積み始めていた。それは将来への足がかりになるかもしれない。
帰り道、カナと手を繋ぎながら歩いていると、俺は突然立ち止まった。
「カナ、覚えてる?俺が言ってたこと」
「どんなこと?」カナが首を傾ける。
俺はいつもより真面目に話始めた。
「夏の終わりに、何かを得て、何かを失う物語って」
撮影前に映画の本質について語り合った夜、カナに話したコンセプトだ。
「確かに、俺たち夏そのものを失ったね」とカナは言う。
俺が続ける。
「あの海辺の日々も、あのライトブルーのドレスも、あの特別な時間も、もう戻ってこない」
カナは静かに頷く。季節は巡り、二度と同じ夏は訪れない。あの輝くような日々は過去のものになった。
「でも、カナ」
俺が彼の方を向き、真っ直ぐに目を見つめた。
「その代わりに、俺たちは何かを得たよね」
カナの瞳に映る確かな思いに、心が震える。
「ああ。お互いを得た。そして...未来を」とカナは答えた。
単なる夏の思い出ではなく、これからも続いていく関係。一時的な輝きではなく、永続する灯り。それが俺たちの得たものだった。
「映画の中じゃなく、現実の中で生きていく、俺たちの物語」
俺がそう言うと、カナは優しく微笑んだ。夏の光は失われても、手に入れたものはもっと大切だった。永遠に色褪せない、心の中の映画のように。
◇
季節は巡り、冬になった。俺たちは約束通り『冬物語』の撮影に取り掛かった。今度はカナがカメラを、俺が演出を担当する。互いの強みを活かした共同作業だ。
雪の降る日、カナが俺の手を引いている。木に積もった雪を掴んでは俺にたまに投げて来る。おふざけモードのカナを微笑ましく見守った。
二人で雪の中を歩きながら、俺は思う。あの映画がなければ出会えなかった感情。『サマードレスに憧れて』で始まった物語が、いつしか俺たちの現実になっていた。
「マリ」カナが足を止めて言う。
「次の夏も、その次も、ずっと一緒に映画を撮ろう」
雪の結晶が二人の間に舞い、白い息が重なり合う冬の朝。俺たちは新しい季節を生きていた。
「ああ、必ず」
俺たちは映画という名の物語の中で出会い、現実の中で愛を紡いでいく。
いつか俺たちの映画が、誰かの人生を変えるかもしれない。あの日の俺がオゾンの映画に心を奪われたように。
ライトブルーのサマードレスはクローゼットの奥に眠ったままだけど、あの夏の記憶は色褪せない。これからも俺たちだけの物語が続いていく。
季節が巡り、また新しい夏が来ても。そして、その先の季節が来ても。
Fin.
フランソワ・オゾン監督と映画に愛をこめて。
tommynya