カナのゲイカミングアウトから数日が経ち、俺たちの間に微妙な距離が生まれていた。お互い実家に帰省する予定があるから、しばらくは顔を合わせずに済むはずだった。
でも次に会うとき、どんな表情をすればいいのか思い悩む。リョウにも相談できないし、「先輩後輩に戻りたい」と言われても困るばかりだ。
あのキスのこと、寝たふりをしていたこと、全て頭の中でぐるぐると回り続ける。カナは俺のことを好きなのか?たぶん……そういう事に違いない。自惚れじゃなく、それと映画のことも心配になる。これからどうすれば良いのだろう。
三日後、スマホが震えた。カナからのメッセージだ。
『明日から撮影、始めよう』
予定通りロケハンとリハーサルを行おうと言ってきてくれたのだ。俺の映画のために動いてくれる。彼からの連絡に心が躍った。
『夏休みも半分過ぎちゃったし、時間ないだろ?本番までリハーサルしないと』
言葉の向こうから、カナの真剣さが伝わってくる。本当に俺の映画に出る気でいるのだ。あの告白があっても、約束を守ってくれている。息を整えて返信した。
『わかった。明日からリハーサルしよう』
明日はカナと海へ行く予定だ。撮影スポットを見て回り、撮影プランについて話し合う。そしてリハーサルも兼ねて。あの日以来、まともに会話していない二人が、どんな風に向き合うのか想像もつかない。
スマホを取り出して、明日の撮影計画を立て始める。カナと一緒に作る映画。想像するだけで心がざわめく。もしかしたら、この映画を通して、俺の感情も形を変えるかもしれない。
8ミリカメラを通して見る彼と、直接見つめ合う彼。どちらも今や俺にとって、かけがえのない存在だ。それを認めざるを得ない。
脚本を手に取り、ページをめくる。
「Do you love me?」というセリフが目に飛び込んでくる。
カナに言わせる予定の重要なセリフだ。オゾンの『サマードレス』でも登場するが、俺の映画では違う意味合いで使う計画だ。
脚本の上に書かれたその言葉が、今夜はやけに響く。彼はどんな表情で、どんな感情で、それを言うのだろう。演技の中に本心が滲むのか、それとも隠されるのか。恐ろしくもあり、同時に楽しみでもある。
夜が更けるにつれ、部屋は静けさを増していく。脚本を胸に抱えたまま、カナの横顔を思い描く。窓際で写真を撮るとき、光に照らされる彼の横顔。集中した瞳、繊細な指先。
映画に出ると言ってくれたカナ。あの決意に満ちた目を思い出す。明日から始まるリハーサルは、これまでとは違う意味を持つだろう。そして、この夏の終わりには、二人の関係の行方が明らかになるはずだ。
「ありがとう、カナ」
つぶやいて、目を閉じる。夏の夜の静寂の中で、明日への期待が膨らんでいく。そして、カナへの思いも、確かに深まっていくのを感じずにはいられなかった。明日、海辺で見せる彼の表情が、今から待ち遠しい。
◇
朝9時、工学寮の最寄り駅で待ち合わせをしていた。緊張で胃の奥がきりきりと痛む。初めての二人きりの遠出だ。映画の準備だとはいえ、どこか特別な意味を感じずにはいられない。
「マリ、おはよう」
思いがけない声に振り返ると、カナが立っていた。朝の光に照らされた彼の髪がほんのりと琥珀色に染まって見える。数日ぶりに会ったからか、その存在自体が美しかった。
「カナ。早いじゃん」
カナは薄手の白いシャツに膝丈のショートパンツ姿で現れた。眩しすぎる。夏の爽やかさを全部詰め込んだようなコーディネート。このまま、ロメールの『夏物語』に出演できそうないでたち。息が詰まりそうになる。
「おはよう」思わず笑顔がこぼれた。「今日楽しみで、早く目が覚めちゃった」
カナが嬉しそうに言う。
二人で電車に乗り込む。車内は夏休みの学生で混雑していた。窓際の二人掛けの席に座ると、カナの肩が自然と俺の肩に触れた。ほんの僅かな接触なのに、全身に電流が走る。
カナは前と変わらず気さくに接してくれるが、俺はどこか意識してぎこちない。あのカミングアウトの後、何もなかったかのように振る舞う彼に拍子抜けした気持ちもある。
俺のことが好きになりそうだから距離を取ろうとしたはずなのに――そんな疑問が頭をよぎった。
「なぁ、マリ」カナが窓の外に視線を向けながら切り出す。「ユナのこと、まだ気になる?」
「ん?そうだな。まあ、俺のこと嫌いだよな」
カナは少し困ったような表情を浮かべる。
「実はさ、ユナって時々押しが強すぎるんだ」
「どういうこと?」
「高校の頃、俺が彼女の写真を褒めたことがあってさ」
カナは遠くを見るような目をした。
「それ以来、ずっとその言葉に縋っているみたい。何度『友達だ』って伝えても聞き入れないんだよ」
胸に小さな痛みが走る。彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。カナに認められたい思いは俺も同じだから。
「でも、お前、彼女のことを嫌いじゃないんだろ?」
「嫌いじゃないよ」カナは微笑んだ。
「幼い頃からの友達だし、大切な存在。でも...」
「でも?」
「でも、それ以上にはなれないんだ。わかるだろ?」
カナの視線が俺に向けられる。
「最近、ユナが何か企んでるみたいでさ。映画の撮影に口出ししたり、邪魔してこないか心配で」
「あいつ...撮影邪魔してくるのはさすがに...」思わず拳に力が入る。
「でも心配しないで」カナが俺の拳に自分の手を重ねる。温かくて気持ちが落ち着く。
「俺はマリと映画を作ると決めたんだ。それは変わらない」
その言葉に心が温かくなる。駅のアナウンスが海辺の駅到着を告げ、二人で電車を降りた。潮風が香る道を歩き始める。
海への道は坂になっていて、頂上に立つと青い海が一面に広がっていた。輝く水面と空の境目がわからなくなるほどの青さだ。
「すごい...」カナが息を呑む。
「ここで撮影したら、きっといい映像になる」思わず呟く。
「ねぇ、撮り方考えてる?」カナが俺を見上げる。
「うん、ここでドレスシーンを撮りたくて」
俺は地面に構図を描くような仕草をした。
「カナが向こうから歩いてくるショットと、海を背景に立つミディアムショット、それと膝から下だけのクローズアップもいれたいな」
カナが目を輝かせて聞いている。
「マリって、本当に映画のこと好きなんだね」
「うん、好きだな」率直に続ける。
「今回の映画は、特に大切なんだ」
「どうして?」
「カナが出てくれるから」
思わず出た素直な言葉に、自分でも驚く。
カナの頬が赤く染まる。
「ありがとう...」
二人で砂浜に降りていった。誰もいない海岸。波の音だけが響いている。カナが突然、靴を脱いで波打ち際に駆け出した。
「冷たい!」カナが嬉しそうに叫ぶ。
「マリも来て!」
躊躇う俺の腕を引っ張り、カナは波の中へ連れ込む。冷たい海水が足首を濡らした。カナが水を掬って俺に向かって投げる。その笑顔に見とれて、呼吸が止まりそうだった。
まさに、青春のキラメキそのものだ。俺の脳内では、その笑顔がスローモーションで再生される。
「やめろって!」俺の脳内は忙しいが、アクションカメラで撮影しながら、反応する。
「こっちへ来て!ほら、向こうに岩があるから、あそこの映像も撮れるよ」カナがさらに沖へと向かう。
二人で足を濡らしながら、撮影ポイントを確認していく。カナの笑顔、水しぶき、輝く海、澄んだ空。すべてを切り取る。ロケハンと称してはいるが、この映像だけでも切なく、言葉にできない感情が込み上げてくる。
カナが岩の上に立ち、振り返り俺に叫ぶ。
「マリ、ここで撮影する?」
「いいね」俺は構図を確認する。
「ちょっと動いてみて」
カナがポーズを取る。白いシャツが風になびく姿を見つめながら、俺は思わず息を飲んだ。
「どう?」カナが岩から降りてきて、アクションカメラを覗き込む。近すぎて彼の息が頬に当たる。
「完璧だ」俺はアクションカメラを見つめたまま答える。
「カナって、カメラ本当に好きだよな」
「写真はユナにはまだ敵わないけどね」
カナが冗談めかして言う。
「でも、俺のカメラはお前だけを映すからな」思わず出た言葉に、二人とも驚いて見つめ合った。
「俺しか撮らないの?監督とミューズの関係みたいだけど...まあ嬉しいけどね」カナが少し恥ずかしそうに笑顔を見せる。
「お前がアンナ・カリーナで俺がゴダールってことか?ちょっとおかしいけど、近いものはあるな」俺も笑ってしまう。
「俺の映画の主役はカナにしか出来ないからな」
映画監督が、同じ俳優を使い続けることはよくあるけれど、自分がそういう気持ちになるとは思わなかった。今まで、サークルメイトの作品は手伝っていたが、自分が監督をやろうと思ったのは、主演俳優が見つかったからだ。
カナと出会えたから。やはり、この出会いは偶然を超えた何かなのかもしれない……。ファム・ファタールではなく、オム・ファタール。まさに「運命の男」に出会ってしまったのかもしれない……。
時間を忘れて海辺で過ごした後、二人は小さな海辺のカフェに入った。潮風で疲れた体に冷たいドリンクが沁みる。
「マリ」カナが突然真剣な顔で切り出す。
「何?」
「明日からのリハーサルと撮影始まるけど、ユナがなんか言ってきても、気にしないで」
カナはストローで氷をくるくる回しながら言った。
「何処かで情報仕入れて俺らの撮影スケジュールに割り込んできそう...なんか、探るようなメールが毎日くるんだ...」
「やっぱり?諦めてないよな、お前のこと」
「なんか、企んでるような気がする……」
カナは言葉を選びながら話す。
「俺がマリの映画撮影期間中、写真サークルの活動に参加しないから怒ってるみたいで」
カナの真剣な眼差しに、言葉が詰まる。ただ頷くことしかできなかった。
カフェを後にした俺たちは駅に向かう。帰りの電車は、行きよりもさらに混雑していた。二人は立ったまま、吊革につかまる。揺れる車内で、カナの体が俺にぶつかる時、内側から熱が広がるのを感じた。
「今日は楽しかった。久しぶりに海で遊んだよ」
カナが小さな声で言う。
「俺も楽しかった」
「マリと一緒だと、なんか安心するんだ。不思議だよね。なんでだろう」
そう言ったカナの瞳はいつもより熱く俺を見つめた。俺の鼓動は激しさを増す。
夕暮れの中、電車は工学寮の最寄り駅に到着した。
「マリ」駅を出たところで、カナが俺を呼び止める。
「マリの映画、本当に楽しみだよ」
茜色の光にカナの姿が溶けこむ。その言葉が、ユナの影を吹き飛ばした気がした。
「ありがとう」精一杯の笑顔を返し、各自寮の部屋に戻った。
部屋のドアを開けると、リョウが待っている。
「どうだった?デートは楽しかったか?」
「デートじゃないって」照れ隠しに否定する。
「映画の演技指導だ」
「へぇ〜」リョウは意地悪く笑う。
「で、どうだった?カナとの二人きりの時間は」
「いっぱい撮影の練習出来た!カメラワークは掴めたきがする。それと、ユナのことを話してた」ベッドに倒れ込み答える。
「あいつ、カナの幼馴染なんだけど、押しが強いらしいし、かなりシツコイみたいなんだ」
「だろ?」リョウが頷く。「あいつ、カナの周りをいつもうろついてるもんな。気持ち悪いぜ」
「でも、幼なじみだから仕方ないのかも...カナの事、諦められないんだろうな...」どこか彼女に同情する気持ちもあった。
「甘いな、マリ」
リョウが急に真剣な表情になる。
「あいつ、お前の映画の邪魔してくるぞ絶対。ユナなんかに負けるなよ」
リョウにもバレるくらい、ユナは動いているようだ。
「絶対負けない。映画は絶対完成させるぞ」強気で答える。
「そうこなくちゃ」リョウが満足そうに笑う。
「で、明日のロケハンどうする?」
「カナと約束してる。お前も来るだろ?」リョウの顔がほころぶ。
「いいのかよ、俺も行っても」とニヤニヤしている。
俺は適当にリョウをあしらい、明日のスケジュールを立て始める。
◇
夜、撮影したカナの映像を見返す。波打ち際で笑うカナ。岩の上でポーズを取るカナ。水しぶきの中できらめくカナ。すべてが眩しいほど美しい。
「カナ……綺麗すぎる……」
名前を呟くだけで、内側から温かさが広がる。もう自分の気持ちに嘘はつけない。俺はカナが好きだ。友達としてでも主演俳優としてでもない、もっと特別な意味で。
でも、俺はゲイなのか?バイセクシャルなのだろうか?それとも、ストレートでカナだけが好きなのか?これは恋愛感情なのだろうか?男と付き合えるのか?心の中で自問自答する。
明日からのロケハン、ユナとの対立、映画の撮影。すべてを乗り越えて、カナに自分の気持ちをはっきりさせて伝えたい。それが俺の決意だった。
窓の外、夏の夜空に星が瞬いている。あの日見た星空より、もっと明るく輝いて見えた。希望の光のように。
でも次に会うとき、どんな表情をすればいいのか思い悩む。リョウにも相談できないし、「先輩後輩に戻りたい」と言われても困るばかりだ。
あのキスのこと、寝たふりをしていたこと、全て頭の中でぐるぐると回り続ける。カナは俺のことを好きなのか?たぶん……そういう事に違いない。自惚れじゃなく、それと映画のことも心配になる。これからどうすれば良いのだろう。
三日後、スマホが震えた。カナからのメッセージだ。
『明日から撮影、始めよう』
予定通りロケハンとリハーサルを行おうと言ってきてくれたのだ。俺の映画のために動いてくれる。彼からの連絡に心が躍った。
『夏休みも半分過ぎちゃったし、時間ないだろ?本番までリハーサルしないと』
言葉の向こうから、カナの真剣さが伝わってくる。本当に俺の映画に出る気でいるのだ。あの告白があっても、約束を守ってくれている。息を整えて返信した。
『わかった。明日からリハーサルしよう』
明日はカナと海へ行く予定だ。撮影スポットを見て回り、撮影プランについて話し合う。そしてリハーサルも兼ねて。あの日以来、まともに会話していない二人が、どんな風に向き合うのか想像もつかない。
スマホを取り出して、明日の撮影計画を立て始める。カナと一緒に作る映画。想像するだけで心がざわめく。もしかしたら、この映画を通して、俺の感情も形を変えるかもしれない。
8ミリカメラを通して見る彼と、直接見つめ合う彼。どちらも今や俺にとって、かけがえのない存在だ。それを認めざるを得ない。
脚本を手に取り、ページをめくる。
「Do you love me?」というセリフが目に飛び込んでくる。
カナに言わせる予定の重要なセリフだ。オゾンの『サマードレス』でも登場するが、俺の映画では違う意味合いで使う計画だ。
脚本の上に書かれたその言葉が、今夜はやけに響く。彼はどんな表情で、どんな感情で、それを言うのだろう。演技の中に本心が滲むのか、それとも隠されるのか。恐ろしくもあり、同時に楽しみでもある。
夜が更けるにつれ、部屋は静けさを増していく。脚本を胸に抱えたまま、カナの横顔を思い描く。窓際で写真を撮るとき、光に照らされる彼の横顔。集中した瞳、繊細な指先。
映画に出ると言ってくれたカナ。あの決意に満ちた目を思い出す。明日から始まるリハーサルは、これまでとは違う意味を持つだろう。そして、この夏の終わりには、二人の関係の行方が明らかになるはずだ。
「ありがとう、カナ」
つぶやいて、目を閉じる。夏の夜の静寂の中で、明日への期待が膨らんでいく。そして、カナへの思いも、確かに深まっていくのを感じずにはいられなかった。明日、海辺で見せる彼の表情が、今から待ち遠しい。
◇
朝9時、工学寮の最寄り駅で待ち合わせをしていた。緊張で胃の奥がきりきりと痛む。初めての二人きりの遠出だ。映画の準備だとはいえ、どこか特別な意味を感じずにはいられない。
「マリ、おはよう」
思いがけない声に振り返ると、カナが立っていた。朝の光に照らされた彼の髪がほんのりと琥珀色に染まって見える。数日ぶりに会ったからか、その存在自体が美しかった。
「カナ。早いじゃん」
カナは薄手の白いシャツに膝丈のショートパンツ姿で現れた。眩しすぎる。夏の爽やかさを全部詰め込んだようなコーディネート。このまま、ロメールの『夏物語』に出演できそうないでたち。息が詰まりそうになる。
「おはよう」思わず笑顔がこぼれた。「今日楽しみで、早く目が覚めちゃった」
カナが嬉しそうに言う。
二人で電車に乗り込む。車内は夏休みの学生で混雑していた。窓際の二人掛けの席に座ると、カナの肩が自然と俺の肩に触れた。ほんの僅かな接触なのに、全身に電流が走る。
カナは前と変わらず気さくに接してくれるが、俺はどこか意識してぎこちない。あのカミングアウトの後、何もなかったかのように振る舞う彼に拍子抜けした気持ちもある。
俺のことが好きになりそうだから距離を取ろうとしたはずなのに――そんな疑問が頭をよぎった。
「なぁ、マリ」カナが窓の外に視線を向けながら切り出す。「ユナのこと、まだ気になる?」
「ん?そうだな。まあ、俺のこと嫌いだよな」
カナは少し困ったような表情を浮かべる。
「実はさ、ユナって時々押しが強すぎるんだ」
「どういうこと?」
「高校の頃、俺が彼女の写真を褒めたことがあってさ」
カナは遠くを見るような目をした。
「それ以来、ずっとその言葉に縋っているみたい。何度『友達だ』って伝えても聞き入れないんだよ」
胸に小さな痛みが走る。彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。カナに認められたい思いは俺も同じだから。
「でも、お前、彼女のことを嫌いじゃないんだろ?」
「嫌いじゃないよ」カナは微笑んだ。
「幼い頃からの友達だし、大切な存在。でも...」
「でも?」
「でも、それ以上にはなれないんだ。わかるだろ?」
カナの視線が俺に向けられる。
「最近、ユナが何か企んでるみたいでさ。映画の撮影に口出ししたり、邪魔してこないか心配で」
「あいつ...撮影邪魔してくるのはさすがに...」思わず拳に力が入る。
「でも心配しないで」カナが俺の拳に自分の手を重ねる。温かくて気持ちが落ち着く。
「俺はマリと映画を作ると決めたんだ。それは変わらない」
その言葉に心が温かくなる。駅のアナウンスが海辺の駅到着を告げ、二人で電車を降りた。潮風が香る道を歩き始める。
海への道は坂になっていて、頂上に立つと青い海が一面に広がっていた。輝く水面と空の境目がわからなくなるほどの青さだ。
「すごい...」カナが息を呑む。
「ここで撮影したら、きっといい映像になる」思わず呟く。
「ねぇ、撮り方考えてる?」カナが俺を見上げる。
「うん、ここでドレスシーンを撮りたくて」
俺は地面に構図を描くような仕草をした。
「カナが向こうから歩いてくるショットと、海を背景に立つミディアムショット、それと膝から下だけのクローズアップもいれたいな」
カナが目を輝かせて聞いている。
「マリって、本当に映画のこと好きなんだね」
「うん、好きだな」率直に続ける。
「今回の映画は、特に大切なんだ」
「どうして?」
「カナが出てくれるから」
思わず出た素直な言葉に、自分でも驚く。
カナの頬が赤く染まる。
「ありがとう...」
二人で砂浜に降りていった。誰もいない海岸。波の音だけが響いている。カナが突然、靴を脱いで波打ち際に駆け出した。
「冷たい!」カナが嬉しそうに叫ぶ。
「マリも来て!」
躊躇う俺の腕を引っ張り、カナは波の中へ連れ込む。冷たい海水が足首を濡らした。カナが水を掬って俺に向かって投げる。その笑顔に見とれて、呼吸が止まりそうだった。
まさに、青春のキラメキそのものだ。俺の脳内では、その笑顔がスローモーションで再生される。
「やめろって!」俺の脳内は忙しいが、アクションカメラで撮影しながら、反応する。
「こっちへ来て!ほら、向こうに岩があるから、あそこの映像も撮れるよ」カナがさらに沖へと向かう。
二人で足を濡らしながら、撮影ポイントを確認していく。カナの笑顔、水しぶき、輝く海、澄んだ空。すべてを切り取る。ロケハンと称してはいるが、この映像だけでも切なく、言葉にできない感情が込み上げてくる。
カナが岩の上に立ち、振り返り俺に叫ぶ。
「マリ、ここで撮影する?」
「いいね」俺は構図を確認する。
「ちょっと動いてみて」
カナがポーズを取る。白いシャツが風になびく姿を見つめながら、俺は思わず息を飲んだ。
「どう?」カナが岩から降りてきて、アクションカメラを覗き込む。近すぎて彼の息が頬に当たる。
「完璧だ」俺はアクションカメラを見つめたまま答える。
「カナって、カメラ本当に好きだよな」
「写真はユナにはまだ敵わないけどね」
カナが冗談めかして言う。
「でも、俺のカメラはお前だけを映すからな」思わず出た言葉に、二人とも驚いて見つめ合った。
「俺しか撮らないの?監督とミューズの関係みたいだけど...まあ嬉しいけどね」カナが少し恥ずかしそうに笑顔を見せる。
「お前がアンナ・カリーナで俺がゴダールってことか?ちょっとおかしいけど、近いものはあるな」俺も笑ってしまう。
「俺の映画の主役はカナにしか出来ないからな」
映画監督が、同じ俳優を使い続けることはよくあるけれど、自分がそういう気持ちになるとは思わなかった。今まで、サークルメイトの作品は手伝っていたが、自分が監督をやろうと思ったのは、主演俳優が見つかったからだ。
カナと出会えたから。やはり、この出会いは偶然を超えた何かなのかもしれない……。ファム・ファタールではなく、オム・ファタール。まさに「運命の男」に出会ってしまったのかもしれない……。
時間を忘れて海辺で過ごした後、二人は小さな海辺のカフェに入った。潮風で疲れた体に冷たいドリンクが沁みる。
「マリ」カナが突然真剣な顔で切り出す。
「何?」
「明日からのリハーサルと撮影始まるけど、ユナがなんか言ってきても、気にしないで」
カナはストローで氷をくるくる回しながら言った。
「何処かで情報仕入れて俺らの撮影スケジュールに割り込んできそう...なんか、探るようなメールが毎日くるんだ...」
「やっぱり?諦めてないよな、お前のこと」
「なんか、企んでるような気がする……」
カナは言葉を選びながら話す。
「俺がマリの映画撮影期間中、写真サークルの活動に参加しないから怒ってるみたいで」
カナの真剣な眼差しに、言葉が詰まる。ただ頷くことしかできなかった。
カフェを後にした俺たちは駅に向かう。帰りの電車は、行きよりもさらに混雑していた。二人は立ったまま、吊革につかまる。揺れる車内で、カナの体が俺にぶつかる時、内側から熱が広がるのを感じた。
「今日は楽しかった。久しぶりに海で遊んだよ」
カナが小さな声で言う。
「俺も楽しかった」
「マリと一緒だと、なんか安心するんだ。不思議だよね。なんでだろう」
そう言ったカナの瞳はいつもより熱く俺を見つめた。俺の鼓動は激しさを増す。
夕暮れの中、電車は工学寮の最寄り駅に到着した。
「マリ」駅を出たところで、カナが俺を呼び止める。
「マリの映画、本当に楽しみだよ」
茜色の光にカナの姿が溶けこむ。その言葉が、ユナの影を吹き飛ばした気がした。
「ありがとう」精一杯の笑顔を返し、各自寮の部屋に戻った。
部屋のドアを開けると、リョウが待っている。
「どうだった?デートは楽しかったか?」
「デートじゃないって」照れ隠しに否定する。
「映画の演技指導だ」
「へぇ〜」リョウは意地悪く笑う。
「で、どうだった?カナとの二人きりの時間は」
「いっぱい撮影の練習出来た!カメラワークは掴めたきがする。それと、ユナのことを話してた」ベッドに倒れ込み答える。
「あいつ、カナの幼馴染なんだけど、押しが強いらしいし、かなりシツコイみたいなんだ」
「だろ?」リョウが頷く。「あいつ、カナの周りをいつもうろついてるもんな。気持ち悪いぜ」
「でも、幼なじみだから仕方ないのかも...カナの事、諦められないんだろうな...」どこか彼女に同情する気持ちもあった。
「甘いな、マリ」
リョウが急に真剣な表情になる。
「あいつ、お前の映画の邪魔してくるぞ絶対。ユナなんかに負けるなよ」
リョウにもバレるくらい、ユナは動いているようだ。
「絶対負けない。映画は絶対完成させるぞ」強気で答える。
「そうこなくちゃ」リョウが満足そうに笑う。
「で、明日のロケハンどうする?」
「カナと約束してる。お前も来るだろ?」リョウの顔がほころぶ。
「いいのかよ、俺も行っても」とニヤニヤしている。
俺は適当にリョウをあしらい、明日のスケジュールを立て始める。
◇
夜、撮影したカナの映像を見返す。波打ち際で笑うカナ。岩の上でポーズを取るカナ。水しぶきの中できらめくカナ。すべてが眩しいほど美しい。
「カナ……綺麗すぎる……」
名前を呟くだけで、内側から温かさが広がる。もう自分の気持ちに嘘はつけない。俺はカナが好きだ。友達としてでも主演俳優としてでもない、もっと特別な意味で。
でも、俺はゲイなのか?バイセクシャルなのだろうか?それとも、ストレートでカナだけが好きなのか?これは恋愛感情なのだろうか?男と付き合えるのか?心の中で自問自答する。
明日からのロケハン、ユナとの対立、映画の撮影。すべてを乗り越えて、カナに自分の気持ちをはっきりさせて伝えたい。それが俺の決意だった。
窓の外、夏の夜空に星が瞬いている。あの日見た星空より、もっと明るく輝いて見えた。希望の光のように。



