彼が俺の腕で思い切り泣いた、その翌日。
日曜日。爽やかな秋晴れだ。
ゴゾゴゾと起き出した俺に、奏くんがいつものように爽やかに挨拶する。
「おはようございます拓真さん。
これからバイトなんで。テーブルに朝食ありますから。うわ、ギリギリだ」
「んー。ありがとな。
行ってらっしゃい」
「あ、それから。
俺、今夜自分の部屋に戻ります。
帰ってきたら改めて。今時間ないんで。
じゃ行ってきます」
「——……」
そんな言葉を残して閉まった玄関を、俺は呆然と見つめた。
朝食が、まるで砂を噛むようだ。
彼が、部屋へ帰る。
そういえば、そういう約束だった。
「恋人とのあれこれが片付くまで、とりあえずここにいたら?」という、何とはなしの約束。
——戻らなきゃ、いけないのか?
当然の流れだろ。
もともと赤の他人だった青年だ。
数日か、数週間か、そのくらいの期間と予想した通りじゃないか。
彼の問題も既に片付いたのだし。
——それでいいのか?
部屋に戻れば、彼はまた一人になる。
誰にも言えない、とてつもなく重いものを抱えたまま。
その痛みや苦しみを、吐き出す場所もないまま。
それを黙って見ているつもりか?
ならば、今夜改めて「お友達宣言」を交わして、今後は彼とちょいちょい一緒に飲みにでもいけばいい。
それなら、彼を孤独に晒さずに済むだろう。お前も、腹を割って何でも話せるいい友人ができるじゃないか。
「…………
あーー。なんだこりゃ」
どうやっても、考えがうまくまとまらない。
ガシガシと両手で髪を掻き回す。
そう複雑ではないはずのこの件をざわざわと胸に抱えたまま、俺は何をするでもなく彼の帰りを待った。
*
俺がその日の夕食に作ったのは、何の工夫もないカレーとグリーンサラダだった。
2週間ほど前に彼が初めてこの部屋に来た夜、一緒に食べたのと全く同じメニューだ。
必要な材料をただ切って水と一緒に鍋にかけ、ルーを溶かすだけの、何の変哲も無いカレー。
レタスをちぎってきゅうりとトマトを乗せただけの、無愛想なサラダ。
——今日の俺の脳は、気合を入れてレシピ本を捲る余裕は全くなかった。
「ただいま」
いつも通りの穏やかな表情で、彼は帰宅した。
「おかえり」
「あ、カレーの匂いですね。拓真さんのカレー、気の利いたことは何もしていないのになんか美味しいですよね。なんでだろ、不思議です」
ジャケットを脱ぎながら、彼は相変わらず貶《けな》してるのか褒めてるのかわからないようなことを言いながらさらりと微笑む。
「ねえ、奏くん」
「拓真さん、それよりまずビール飲みましょうよ。1日中家庭教師やってくると結構疲れるんですよねー喉使うし」
俺の言葉を遮るように、彼は明るくそう持ちかける。
「……そうだね」
俺は言いかけた言葉を引っ込めて、冷蔵庫から取り出した缶ビールを二本テーブルに置いた。
もしかしたら、部屋に戻ることに複雑な思いで向き合っているのは、彼も同じなのかもしれない。
俺はビールで脳を冷却するようなつもりで胸のざわつきを何とか鎮めつつ、彼が何らかの言葉を口にするのを待った。
「——ありがとうございました。拓真さん」
350ml缶が3分の2くらいまで空く頃、彼は缶を静かにテーブルに置き、俺を真っ直ぐに見た。
「……」
「あの夜、あなたに出会わなかったら、俺は今みたいに穏やかな気持ちではいられなかった。
一体どうやってこの時間を乗り越えたか、想像もつきません。
彼との件が、こうして解決しただけじゃなくて……
俺が長い間独りで抱えてきた苦しみを、あなたに全部受け止めてもらった。
あなたに、こうして自分を丸ごと受け止め、認めてもらえて——心の中にずっと吹き荒れていた雨や風が、やっと静かになりました。
今はちゃんと、胸を張って、前を向いて歩けます。
二週間前とは、まるで別人になったみたいに。
だから。
俺は、元の場所へ戻ります」
彼の言葉に、胸に抑え込んだ思いがブレーキを踏む間もなく一気に溢れ出した。
「——なぜ?
なぜ、戻らなきゃいけないんだ?
君が何でも吐き出せる場所に、せっかくなれた気でいたのに。
俺は、まだいくらでも君の痛みを受け止めるつもりでいるのに。
どうして、元の孤独へ帰らなきゃいけない?」
「だって、俺は突然あなたの部屋に押しかけてきた迷惑な居候ですよ? いつまでも甘えていいはずが——」
「だから。そうやっていつも他人にばかり気を遣う必要はないと言ってるんだ。
宿主がこのままでいいって言ってるんだから、素直に……」
「だから! それじゃダメなんですよ!!」
「何が駄目なんだ!? ちゃんと話してくれ!」
「——あなたは、俺を好きにならないからです。絶対に」
「————」
「俺がここに居続けて、もし、あなたへ特別な想いを抱いてしまったとしたら——
それでも、あなたが同じ思いで俺を見ることは、決してない。
だからです。
俺はこれ以上、想う人に手が届かない悲しみを味わいたくない。だから、もうこれ以上1日も、ここには居られないんです」
「…………」
激しく取り乱した自分自身を何とか押さえ込むように、彼ははあっと大きく息を吐く。
俯いた肩から、弱い呟きが漏れた。
「——こんなこと、話すつもりなかったのに。
忘れてください。
これから就活も本格化してくるし、自分自身をしっかり見つめ直す時間を作らなきゃと思ってます。
今、誰かに甘えては、俺はまたきっと失敗する。
だから。
カレー、作っていただいたのに、食べられなくて済みません」
自分自身に言い聞かせるようなその低い呟きが、呆然とする俺の耳に響く。
そのまま彼は立ち上がり、隣室から荷物の詰まった大きなショルダーバッグとリュックを運び出すと、ぐいと力任せに肩に掛けた。
「——あなたのこと、忘れません。
ありがとうございました」
強い痛みを堪えるように、彼は真っ直ぐに俺を見つめ、深く頭を下げた。
そして、何も言えずにいる俺にくるりと背を向けると、静かに玄関を出ていった。
日曜日。爽やかな秋晴れだ。
ゴゾゴゾと起き出した俺に、奏くんがいつものように爽やかに挨拶する。
「おはようございます拓真さん。
これからバイトなんで。テーブルに朝食ありますから。うわ、ギリギリだ」
「んー。ありがとな。
行ってらっしゃい」
「あ、それから。
俺、今夜自分の部屋に戻ります。
帰ってきたら改めて。今時間ないんで。
じゃ行ってきます」
「——……」
そんな言葉を残して閉まった玄関を、俺は呆然と見つめた。
朝食が、まるで砂を噛むようだ。
彼が、部屋へ帰る。
そういえば、そういう約束だった。
「恋人とのあれこれが片付くまで、とりあえずここにいたら?」という、何とはなしの約束。
——戻らなきゃ、いけないのか?
当然の流れだろ。
もともと赤の他人だった青年だ。
数日か、数週間か、そのくらいの期間と予想した通りじゃないか。
彼の問題も既に片付いたのだし。
——それでいいのか?
部屋に戻れば、彼はまた一人になる。
誰にも言えない、とてつもなく重いものを抱えたまま。
その痛みや苦しみを、吐き出す場所もないまま。
それを黙って見ているつもりか?
ならば、今夜改めて「お友達宣言」を交わして、今後は彼とちょいちょい一緒に飲みにでもいけばいい。
それなら、彼を孤独に晒さずに済むだろう。お前も、腹を割って何でも話せるいい友人ができるじゃないか。
「…………
あーー。なんだこりゃ」
どうやっても、考えがうまくまとまらない。
ガシガシと両手で髪を掻き回す。
そう複雑ではないはずのこの件をざわざわと胸に抱えたまま、俺は何をするでもなく彼の帰りを待った。
*
俺がその日の夕食に作ったのは、何の工夫もないカレーとグリーンサラダだった。
2週間ほど前に彼が初めてこの部屋に来た夜、一緒に食べたのと全く同じメニューだ。
必要な材料をただ切って水と一緒に鍋にかけ、ルーを溶かすだけの、何の変哲も無いカレー。
レタスをちぎってきゅうりとトマトを乗せただけの、無愛想なサラダ。
——今日の俺の脳は、気合を入れてレシピ本を捲る余裕は全くなかった。
「ただいま」
いつも通りの穏やかな表情で、彼は帰宅した。
「おかえり」
「あ、カレーの匂いですね。拓真さんのカレー、気の利いたことは何もしていないのになんか美味しいですよね。なんでだろ、不思議です」
ジャケットを脱ぎながら、彼は相変わらず貶《けな》してるのか褒めてるのかわからないようなことを言いながらさらりと微笑む。
「ねえ、奏くん」
「拓真さん、それよりまずビール飲みましょうよ。1日中家庭教師やってくると結構疲れるんですよねー喉使うし」
俺の言葉を遮るように、彼は明るくそう持ちかける。
「……そうだね」
俺は言いかけた言葉を引っ込めて、冷蔵庫から取り出した缶ビールを二本テーブルに置いた。
もしかしたら、部屋に戻ることに複雑な思いで向き合っているのは、彼も同じなのかもしれない。
俺はビールで脳を冷却するようなつもりで胸のざわつきを何とか鎮めつつ、彼が何らかの言葉を口にするのを待った。
「——ありがとうございました。拓真さん」
350ml缶が3分の2くらいまで空く頃、彼は缶を静かにテーブルに置き、俺を真っ直ぐに見た。
「……」
「あの夜、あなたに出会わなかったら、俺は今みたいに穏やかな気持ちではいられなかった。
一体どうやってこの時間を乗り越えたか、想像もつきません。
彼との件が、こうして解決しただけじゃなくて……
俺が長い間独りで抱えてきた苦しみを、あなたに全部受け止めてもらった。
あなたに、こうして自分を丸ごと受け止め、認めてもらえて——心の中にずっと吹き荒れていた雨や風が、やっと静かになりました。
今はちゃんと、胸を張って、前を向いて歩けます。
二週間前とは、まるで別人になったみたいに。
だから。
俺は、元の場所へ戻ります」
彼の言葉に、胸に抑え込んだ思いがブレーキを踏む間もなく一気に溢れ出した。
「——なぜ?
なぜ、戻らなきゃいけないんだ?
君が何でも吐き出せる場所に、せっかくなれた気でいたのに。
俺は、まだいくらでも君の痛みを受け止めるつもりでいるのに。
どうして、元の孤独へ帰らなきゃいけない?」
「だって、俺は突然あなたの部屋に押しかけてきた迷惑な居候ですよ? いつまでも甘えていいはずが——」
「だから。そうやっていつも他人にばかり気を遣う必要はないと言ってるんだ。
宿主がこのままでいいって言ってるんだから、素直に……」
「だから! それじゃダメなんですよ!!」
「何が駄目なんだ!? ちゃんと話してくれ!」
「——あなたは、俺を好きにならないからです。絶対に」
「————」
「俺がここに居続けて、もし、あなたへ特別な想いを抱いてしまったとしたら——
それでも、あなたが同じ思いで俺を見ることは、決してない。
だからです。
俺はこれ以上、想う人に手が届かない悲しみを味わいたくない。だから、もうこれ以上1日も、ここには居られないんです」
「…………」
激しく取り乱した自分自身を何とか押さえ込むように、彼ははあっと大きく息を吐く。
俯いた肩から、弱い呟きが漏れた。
「——こんなこと、話すつもりなかったのに。
忘れてください。
これから就活も本格化してくるし、自分自身をしっかり見つめ直す時間を作らなきゃと思ってます。
今、誰かに甘えては、俺はまたきっと失敗する。
だから。
カレー、作っていただいたのに、食べられなくて済みません」
自分自身に言い聞かせるようなその低い呟きが、呆然とする俺の耳に響く。
そのまま彼は立ち上がり、隣室から荷物の詰まった大きなショルダーバッグとリュックを運び出すと、ぐいと力任せに肩に掛けた。
「——あなたのこと、忘れません。
ありがとうございました」
強い痛みを堪えるように、彼は真っ直ぐに俺を見つめ、深く頭を下げた。
そして、何も言えずにいる俺にくるりと背を向けると、静かに玄関を出ていった。



