連休が明けて数日後、わたしは学校に行くことにした。
 お母さんは心配したけど、体は元気なんだし。ズル休みしているような気がして落ち着かない。
 自分がますます駄目な人間だと思えてきて不安になるから登校したい、と親を説得した。あ、もちろん紙に書いて。

 わたしはノートとシャーペンを手放さないようにしていた。
 声は、かすれたささやきなら出せる。でも聞きとりづらいし、何度も聞き返されるとさすがにイライラしてしまう。だからもう、しゃべる努力はしないで筆談に切り替えた。
 学校でもしゃべらなくていいように、先生に相談してある。

「おーい、席につけー」

 ガララ。
 久しぶりの学校で、朝、担任の先生は前扉から教室に入った。わたしはその後ろについていく。口にはマスク。できるだけ無表情で。
 しばらく欠席していたわたしがあらわれてクラスがざわついた。

 だいじょうぶ、怖くない。何もしゃべらなくていいんだから楽なものでしょ?

「あー、この林原さんなんだが……のどを傷めてしまって、今は声が出せなくなっている。感染症とかじゃないんで学校には来るということだから、みんな配慮するように!」

 心因性のものだとか、そんなことは一切伏せるようにお母さんが交渉してくれていた。先生も当然のように応じてくれたらしい。ハッキリいじめとかがあったわけじゃないけど、学校側に問題があったと言われたくなくて腫れ物にさわるような扱いをされているらしかった。

「林原さんは、必要な時だけ筆談で応じることになる。ノートに書かなきゃいけないからな、無駄話するんじゃないぞ」

 先生の指示の横でわたしは軽く頭を下げると、自分の席に着いた。
 前の席は、一緒にお弁当を食べていた塾通いの幸田さん。振り向いて小さく「だいじょうぶ?」とささやいてくれて、わたしは小さくうなずいた。




「なあに陽菜ったら、大声でも出したの? のど潰すなんてさ」

 昼休み、お弁当を食べるために集まっていた咲季ちゃんは、モグモグしながらも普通にしゃべる。
 わたしだってお弁当を広げているから、ノートに書いて答えることはしなかった。軽く首をかしげて聞こえているよと反応したけど。

「あ、絶叫マシン? ゴールデンウィークに遊園地行ったんでしょ」
「陽菜ちゃんならオバケ屋敷でも悲鳴あげそうだね」
「やだあ誰と行ったのよう。白状しろ!」

 きゃあきゃあ笑われても、わたしは微笑むだけ。しゃべらなくていいって楽かもしれない。

 食べるためにマスクは外しているので、顔や口に怪我をしたんじゃないことは伝わったはずだ。だから叫びすぎてのどを潰したと思われているのだけど、それならすぐ治るよね。
 
 でもわたしの声は、いつ戻るのかわからない。
 数ヶ月、それとも数年。調べたら、そんなにかかったという症例も出てきて血の気が引いた。
 わたしの体と心は、もう声なんていらないと決めてしまうのだろうか。

「で、部活ってどうするの? せっかく先輩になったし顔だけ出す?」

 咲季ちゃんに訊かれて首をふるふる振った。

「出ない? 休むの?」

 こくこく。
 ひとまず休部扱いにしてくれ、とお母さんから学校へ話してある。

「そっか。でももうすぐNコン用の選曲と課題曲の譜読みやるんじゃない? 陽菜だけ遅れちゃうよ。早く復帰しないと」

 うーん。ちょっと残念だけど、しかたないよね。声が出ないままなら、そのうち退部になるのかな。わたしは黙ってお弁当を食べ終わる。

「ま、陽菜がいなくても、なんとかなるけどねー」

 わたしがいなくても。
 そう言って、咲季ちゃんはケロリとしていた。わたしはピクリとしたけど何も言わずにお弁当箱を片づける。だってどうせ声も出せないし。
 ちょっと外すねとみんなに目くばせし、わたしはマスクだけをつかんで席を立った。廊下に出る後ろで咲季ちゃんがブツブツ言うのが聞こえた。

「どうしたの陽菜。なんにも教えてくれないとか、ひどいんだけど」

 ……ひどい?
 わたしってひどかったの?

 サアァ、と体が冷たくなった。
 わたしは今どんな顔をしているだろう。誰にも見られたくなくて急いでマスクをする。
 
 ワアワアと生徒が行き交う昼休みの廊下、歩きながら人のいない場所を探した。
 トイレは嫌だ。個室に閉じこもっていても誰かのうわさ話が聞こえることが多い。知らない人が笑われているのも文句を言われているのも聞きたくなかった。
 図書室なら話さずにいられるけど、不特定多数の視線はあるはず。それは無理。

 誰にも見られたくない。会いたくない。消えてしまいたい。
 息が苦しい。

 廊下を早足で逃げるように特別教室棟まで行った。美術室、物理教室、史学準備室。そんなところの前はガランとしていて、すみっこの手洗い場では水がポタポタ垂れていた。
 校舎の端、ほとんど人が通らないスロープの手すりの陰にかくれる。ここなら、ひとりで居られるかも。

 苦しい。息が。
 制服のシャツの胸もとをつかんだ。
 ああ、薬を忘れた。苦しい時に飲むやつ。カバンの中だ。でも取りに戻りたくない。
 にじむ涙をふいた。落ち着こう。きっとだいじょうぶ。

「――林原?」

 静かに呼ばれて背中がビクンとふるえた。
 わたしの名前を呼んだのは――。

「(すだ、くん)」

 振り返り、わたしはかすれる声でつぶやいた。
 でもすぐに、その声が聞こえていなければいいと願った。こんなわたしを、知られたくないよ。

「ぐあい悪いのか? 保健室行く?」

 須田くんは普通に尋ねてくれる。

「……」

 わたしは黙って首を横に振った。それしか意思を伝える手段がない。ノートは教室に置いてきた。

「そっか。でもなんかつらそうだから」

 どうしてそんなに優しいこと言うの。話し方はそっけないけど、心配してくれているのがよくわかった。
 ていうか、こんなところにいるのはなぜ? もしかしてわたしを追いかけてきたの? そんなわけはないか。
 でも須田くんの言葉でとても落ち着いた。息苦しさも楽になってくる。
 わたしは顔を上げて笑ってみせた。マスク越しだけど伝わったみたいだ。

「だいじょうぶならいいけど。あのさ、林原――」

 須田くんはためらったように口ごもる。でも言わずにはいられなかったみたいで言葉がこぼれ出た。

「――のど、治るんだよ、な?」

 須田くんの言葉は、なぜか切実な響きをおびていた。
 真っすぐにこちらを見るそのまなざしで、わたしの心は音もなく崩れ落ちる。


 治ってほしいと、須田くんは思ってくれるの?


 首をたてにも横にもしないまま、わたしは一瞬かたまってしまい――それからボロボロと涙をこぼした。

「え、ちょっと――」

 泣き出したわたしに大あわてでワタワタとした須田くんは、伸ばした手をすぐ引っこめる。女子にさわったりできないよね。
 ごめんなさい困らせて。どうしよう。でも止まらない。
 須田くんは同級生の男子なだけ。たまたまわたしが歌うのを聴いたことはあるけど、それだけだ。そんな人に迷惑をかけてしまい、わたしは情けなさでスロープにペタリと座りこんだ。

 マスクのすき間から入った涙が、口にまで届く。
 もう歌うこともできない、しゃべれもしない、役立たずのわたしの口。
 なのにわたしの声を気づかってくれる須田くんは、きっと神さまだ。


 ならばお願い。
 わたしに声を、歌を、取り戻してください。助けてください。


「林原……?」

 須田くんはわたしの前にしゃがみ、顔をのぞきこむ。目が合って、もう駄目だった。
 わたしは須田くんのシャツの袖をつかんだ。すがりつくように。

 でもその腕は、ごく普通の男の子だった。我に返る。
 須田くんは神さまなんかじゃないよ。しっかりしなさい、わたし。自分の馬鹿さかげんが恥ずかしくてうつむいた。
 なのに須田くんは、わたしを振りほどいたりしない。どうして。


 どうして心配してくれるの?
 わたしの声が治ればいいと、本当に思ってくれるの――?