それからわたしは、ひと言も話さずに午後の授業を乗り切った。当てられなくて助かった。

 なんだか頭が重い。ぼんやりする。でも熱はないみたいだし、どこか痛いわけでもない。
 ただ、教室にあるものがだんだん色を失っていった。
 やっとホームルームが終わった時には、黒板がぐにゃりと曲がった気がした。

 もうだめだ。帰りたい。
 カバンをつかんだわたしは、誰よりも早く教室を飛び出した。
 だいじょうぶ、足はふらついていない。ちゃんと歩けるから、すぐ帰ろう。



 ――部活のことを忘れていたのに気づいたのは、帰りついた家のドアの鍵を開けている時だった。でももう、今さらどうしようもない。

「あれ、陽菜おかえり」

 在宅勤務中のお母さんがリビングの隅のデスクから振り返る。もっと遅くなるはずのわたしがいきなり戻って驚いたみたいだ。

「……(ただいま)」

 口を開いたら、かすれた空気みたいな言葉しか出なかった。
 ン、ウン。ケホ。
 咳ばらいして言い直す。

「(た)……、……(ま)?」

 かろうじて出るのは、ささやくような声。

「あれ、陽菜? のどやっちゃったの?」

 お母さんが眉を寄せる。そんなはずない、わたし普通にしゃべれるってば。風邪っぽくもないし。

「(へいき)」
「平気って言った? そんなことないでしょ、声ぜんぜん出てないじゃない」

 嘘だ。
 どうしてしゃべれないの。
 さっきまでできてたのに。

 わけがわからなくて怖くなる。のどがこわばり、声の出し方を思い出せなくなった。わたしは手でのどをつかんだ。

「――ゲホッ、ゲ! コフッ!」
「ちょっと陽菜!? 咳、抑えて。のど荒れるよ。なあに何かあったの?」
「(お母さ、なん、こえ、出な)……?」

 なんでなんでなんで。
 お昼まではちゃんと話してた。なのに、わたしの声どうしちゃったの。

 のどが締められたように苦しい。
 息はかろうじてできるけど、かすれた音しか出てこない。




 ――――この日、わたしの声はどこかへいなくなった。