つづく世界をうたえ、小鳥よ


 わたしは身のほどを知っている。

 わたしはただの女子高生で。
 歌が好きだけど人に聴かせる自信はないし、合唱部のみんなに隠れ歌うしかできない。
 ただの弱虫。
 だけど。だけどね、ほんとうは。


 わたし、この世界をうたいたい――――。





 高校一年の冬、うっすら曇った二月のある日。
 わたしの世界はほんのすこし、変わった。

「――俺、おまえの歌、好きだ」

 そう言ってくれる人があらわれたから。



 この日、先生たちの研究会だとかで部活は全休だった。わたし、林原陽菜(はやしばら ひな)が入っている合唱部だってもちろんお休み。声が出せなくてちょっとつまらない。
 でも学年末テストが近い。勉強もやらなくちゃと思ったわたしは、駅へ向かう友だちと別れ歩き出した。自宅が近いので徒歩通学なのだ。
 大通りを駅とは反対側へちょっと歩くと、バス停の近くで住宅地へと角を曲がる。そこからすぐにある公園は、小学生が集まってゲームしているのが普通。なのに寒いからか、誰も遊んでいなかった。

「……うたっても、いいかな」

 好きな曲を、好きなだけ歌う。
 そんなことができる場所はあまりなかった。合唱部でも音楽の授業でも勝手なことはできないし、家では昼間お母さんが在宅勤務していてうるさくしづらい。カラオケならいくらでも歌っていられるけど、おこづかいの問題であまり行けないし。

 でもこの公園ならそこそこ広いし、たぶん邪魔にはならない。わたしは声量もないので。
 道路から少し中に入った、広場の横には藤棚がある。葉が落ちたその下に立ち、わたしは息を吸った。

「あ――、あ――」

 ドレミファソラシド――。

 軽く発声してみた。
 やっぱり歌いたくなる。

 ドミソドソミド――。

 我ながら細い声だ。
 パンチのある曲には似合わない。

「しょうがないよね。これが、わたしだから」

 ちょっとだけ笑った。
 偽善っぽいと思った。



 わたしはわたし? それでいいと思うなら、ちゃんと人前で歌ってみせればいいのに。

 でも恥ずかしい。
 下手だと言われるのが怖くて、否定されるのが怖くて、みんなの間でひっそり歌うしかできない。笑われたらと考えると息が詰まって苦しいの。

 だからこんな日ぐらい。
 ひとりで、そうっと練習させて。



 大好きなミュージカル曲を口ずさんでみた。お気に入りを数えるその歌は、CMにも使われる。
 落ち込んだとしても、大好きなものがあればだいじょうぶ。そう歌うと元気が出た。よし、がんばろ。

 そしてj−popでアニメの主題歌。
 すこしわたしと似た細い声のアーティストは、わたしよりも風をふくんだ歌い方がやさしい。歌詞の言葉えらびもとても好み。
 どの曲もきれいで心によりそってくれる。彼女のような、誰かに力をあげられる歌い手になりたい。



 わたしには夢がある。無理だと思うけど。
 それは、歌のおねえさんになること。

 小さいころ、わたし保育園が苦手だった。ううん、小学校も中学校もかな。だって他人がいっぱいで怖くて。いろいろなことが上手くできなくて注意されると死にそうな気持ちになった。
 そういうのをね、はげましてくれたのが、歌。
 熱を出して家にいた日、テレビで聴いたおねえさんの歌はわたしの救いだった。

 でも、その存在にあこがれてはいるけどほとんどあきらめの境地だ。
 だって歌のおねえさんって、その時に世界でひとりしかいないでしょ?
 競争率すごそうだし、ちょうどよく代替わりがあるかどうかもわからない。それに音大で学んだ人とかが選ばれるものだろうけど、そんなお金のかかる進路は選べないと思う。そもそもわたしは背も低いから、〈おねえさん〉って雰囲気じゃないのが致命的。

 ――だけど、あこがれるのは自由だよね。絶対になれないとしても。

 無理だと考えただけで泣きそうになっちゃったけど、わたしは一人でうなずいた。
 次の曲は幼児番組の行進曲にする。大好きなうた。
 どんな時でも空へ高くとび上がろうっていう応援ソングだ。

 すう。
 息を吸ったわたしは、イントロのリズムをとると笑顔で声を張った。
 そうしたら。

「ふへ?」

 妙な声とともに公園の入り口近くのしげみが鳴った。

 びっくりして振り向くと、そこに男の子がいる。
 わたしはその人の顔を知っていて――同級生の、須田龍仁(すだ たつひと)くんだった。

 視線が合う。ばっちり合う。

「え。あ」
「お、あの、えっと」

 二人して口をパクパクした。言葉が出てこない。
 わたしはカチンコチンに硬直してしまった。顔も真っ赤だと思う。


 ――どうしよう、聴かれてた? わたしの歌を?


 須田くんも、一ミリも動かなかった。ものすごくバツの悪い顔をして、固まったまま大声で謝ってくれる。

「ご、ごめん! すげえ歌うまい人がいるって思ってのぞいたら――俺、おまえの歌、好きだわ!」

 須田くんはそう叫ぶと、くるりと後ろを向いて走り去った。


 ――やっぱり聴いてたんだ。


 わたしはザアア、と冷や汗にまみれた。こんなに寒い日なのに。

 どこから聴いてたの?
 まさかずっと、最初から?

 でもそんなことより。


 『おまえの歌、好きだ』

 
 そう言ってもらえたことに驚いて。
 うたを認めてもらえて嬉しくて。

 ――わたしはちょっとだけ泣いた。





 だけど須田くんは同級生。つまり次の日に学校に行けば会っちゃうんだよね。
 どうしようかと心臓をバクバクさせながら登校したけど、それは向こうも同じだったらしい。

「あ、林原――ごめん」

 朝、須田くんはいつもより早く来ていた。そしてわたしの顔を見るなり近づいてきて、小さな声で謝ってくれた。

「謝られることじゃないよ……」

 わたしはまた恥ずかしくなってしまい、ぼそぼそとこたえた。

「でも盗み聴きはダメだろ。わりぃ」
「う、まあ。びっくりしたけど……」
「ほんと、うまくてさ……すげえカッコよかった」
「あり、がと……」
「あのアニメ、俺も観てた。難しい曲なのに軽く歌っててビビったー。でも次にいきなり子ども番組になってズッコケたんだ。なつかしかったけどさ」

 ははは、と笑って須田くんは離れていった。
 コケさせてしまったか……それでザザッて枝が鳴ったわけね。

 でも『うまい』『カッコいい』と言われたのはとても嬉しい。ちょっとだけ自信をもらって、わたしは須田くんに感謝した。


 教室の自分の席に着き、須田くんのことをチラリと盗み見る。友だちと何かをしゃべっている横顔にドキドキした。こっちを見ないから、わたしのことをどうこう言ったりはしていないらしい。
 いい人、だな。
 これまではただの同級生だったけど、なんだか意識してしまう。ヘンなところを見られちゃったせい。

 ……歌が聴こえて立ちどまるなんて、須田くんも音楽をやっていたりするのかな?






 須田くんと音楽の謎は、春休みに解けた。


 一年生が終わり、宿題もないお休みの日々。たった十日ぐらいだけど、なんだか宙ぶらりんで落ちつかなかった。
 入学の準備で忙しかった去年みたいにはドキドキしないし、クラス替えはあるけど知らない人ばかりになるわけないし、まだ大学受験じゃないからそんなに憂うつでもない。高校二年生ってほんとうに中途半端。
 でも、自由って思えばいいのかも。


 春休みの真ん中ごろ、わたしはひとりで駅前の大きなショッピングモールまで行ってみた。
 友だちと待ち合わせたりしないのは音楽イベントがあるからだ。誰にも気をつかわずに、好きなものを好きなだけ聴いていたい。

 ――そこで、須田くんを見つけた。



 二階のイベントステージは、地元の人が組むバンドが次々に演奏しているところだった。
 混んだフロアを避けたわたしは吹き抜けになっている三階に逃げた。上に抜ける音だけでもいいかなって。
 そこに須田くんが、いた。
 ステージを見下ろす通路部分のベンチに座り、音楽に合わせて脚でリズムを刻む須田くん。腕も小さく動かしている。

 踊ってるみたい――。

 わたしはきょとんとなった。
 だって、足が単純なタン、タン、じゃないんだもん。タタ、て早く踏んだり、つま先とかかとを使い分けたり。なんだろう、これ。


 聴こえてくる音楽と完全に溶けあったその動きに目をうばわれて、わたしは近づく。
 ちょっと横からのぞいても、やっぱりその人は須田くんだ。真剣な目だけど、とても楽しそうで――。

「……ぐわっ」

 チラ、と視線がこちらに動いたと思ったら須田くんが妙な悲鳴をあげて止まった。

「あ、ごめん……!」

 わたしは謝る。
 これは、以前の公園で私の歌を聴かれた時の逆パターン。
 のぞき見って、しちゃったほうも気まずいのね。わたしは冷や汗をかいた。

「はや、林原……」
「あの、ええと。それなんだっけ、タップダンス?」

 アワアワされてしまい申し訳なくなったわたしは早口でたずねた。すごいリズム感だなって思ったから。
 だけど須田くんは眉をよせてヘンな顔になる。

「タップ……?」
「あ、違う? フラメンコかな。ごめんわたし、よくわかんなくて」
「ちげえって俺、踊らないし」

 あわてた感じで須田くんが否定した。周りに人がいるからか、あんまり大きな声じゃないけど恥ずかしそうにされる。わたしの冷や汗はますます止まらなくなった。

「え……違ったの?」
「これはドラム。俺が習ってる先生が今、演奏中なんだよ」
「ドラム」

 わたしはぼんやりと立ちつくした。
 踏み込む足。細かく動く腕――エアでドラムを叩いていたのか。

「や――っ!」

 恥ずかしすぎて、わたしは顔をおおいしゃがみこんだ。
 須田くんのこと脳内で勝手に踊らせちゃった!

「おい? 林原?」
「ごめ、ごめん。ダンスと勘違いするなんて、わたしむっちゃバカだ」

 しゃがんだまま須田くんを見上げる。指のすきまからチラっと見えただけでも、わたしの顔は真っ赤だったんじゃないかな。須田くんが困ったように目をそらした。
 ちょうど曲が終わって、ラストの決め部分だけ須田くんはダダン、とかかとを鳴らす。
 立ち上がった須田くんは照れながらわたしに手を伸ばした。ヒラヒラするのは、立てということだろう。
 その手につかまるわけにもいかなくて、わたしは自分で立った。ホッとしたような笑顔を向けられる。

「先生の出番、終わり。俺ちょっと声かけてくるから」
「……せっかく聴いてたのに邪魔しちゃったのね。ほんとごめん」
「いいって。今の曲は俺も教室で叩いたから、つい動いちゃってさ……くっそ、ドラムバレしたし」
「バレ?」
「学校のやつらには言ってないんだ。なんか恥ずくて。だからしゃべるなよ」
「え……でも今の曲とか叩けるんでしょ。かっこいいじゃない」
「カッコつけたくないから秘密でいいんだって。バラしたら、おまえの歌のことだって言いふらすからな」

 ビシ、とわたしに指を突きつけると、須田くんは逃げてしまった。取り残されて、わたしの眉が情けなくハの字になる。
 
「えええ……」

 わたしがひとり、公園でうたっていたこと。それはたしかに友だちに知られたくなかった。
 でもあれから一ヶ月ちょっと、須田くんは誰にも言わないでくれたみたいだ。
 そのことにホッとしたし、いい人だなって思ってたし。須田くんのこと気になってチラチラ観察したりしちゃったけど、他意はないんだよ……ううん他意ってそんな。好きとかじゃなくて気になってるだけだもんね。でもわたしのことも嫌がられたくない。だからつまり。

「須田くんのことだって、ほかの人に言ったりしないよ……」

 つぶやいてイベントフロアのほうを見下ろすと、ステージ裏のついたての中から出てきた男の人が須田くんの頭をこづいているのが見えた。きっとあれが、先生。
 バンドだなんて、須田くんにそんな印象なかったからびっくりだ。パッと見は服も髪型も派手じゃないし。でも出てきた他のメンバーさんたちとも楽しそうに話してる。


 そっか、須田くんはちゃんと音楽をやっているんだ。
 バンドを組むような先生について本格的に習い、プロの世界を見すえて。

 わたしのうた、ほめてくれたけど。
 須田くんのほうが、ずっとすごいじゃないか。

 ――置いていかれたように感じて、わたしは勝手に傷ついた。





 四月、わたしは高校二年生になった。

陽菜(ひな)、今年は同じクラス!」
「あ、咲季(さき)ちゃん一緒なんだ、よろしくね」

 合唱部の咲季ちゃんがわたしのところに駆けよる。ニカッとハイタッチし、咲季ちゃんはすぐに別の子のところにも同じようにしにいった。友だち多いんだな。
 去年わりと話したのにクラスが離れてしまった子もいるけど、こうして部活仲間と机を並べられるんだからがんばろう。まったく未知の子とだって友だちになれるかもしれないし。新年度はとにかくドキドキしっぱなしだ。


 そしてわたしのクラスには、今年も須田くんがいた。なんとなく胸がざわついた。

 お互いに歌のことも、ドラムのことも誰にも言わない。そんな無言の協定がわたしたちの間には結ばれている。
 でも須田くんのドラムって、どんなだろ。わたしはエアを見たことがあるだけで音は聴いていない。上手いのかな。きっとそうなんだと思う。
 だってドラムってバンドにひとりだけだもんね。わたしみたいに仲間の陰に隠れて歌うわけにはいかないんだ。
 先頭に立つボーカルやギターとは違うけど、リズムを支えて音楽を作る。
 そんなことができる須田くんに最近のわたしはあこがれていて――でも本当は、嫉妬のほうが大きいかもしれなかった。

 わたしはひとりでは何もできないから。
 自分の夢を語ることすら、怖くてしてこなかったから。





 ところで新学期、新学年ということは、わたしにも後輩ができたりするわけで。
 音楽室に集合した合唱部員たち。ぐるりと見渡し、部長と副部長は宣言した。

「それではぁ、パート分けオーディション開催しまーす!」
「いぇーい!」

 パチパチパチ。
 一年生たちに拍手があびせられる。今年はもう九人も入部してくれていて、二年生・三年生の顔色は明るかった。

 オーディションといっても、今日やるのはふるい落とすためじゃない。声質を聴くものだった。
 ただのパート分けなのでお祭り騒ぎすることじゃないんだけど、今の三年生は軽いノリ。合唱部なんて陰キャっぽいと言われたくないと、部長は張り切っていた。
 新入部員のうち六人いる女子は、ソプラノとアルトに。男子三人はテノールとバスに分けたいところだけど、声質次第でどうなるかわからない。
 ちなみにわたしはソプラノ。この細い声だからそれしかできない。音域も高いからいいんだけど。

「んじゃ、順番にひとりづつ。女子からいこっか」
「えー、ひとりなんですかあ? 緊張しますー!」

 副部長が仕切ると、一年生女子たちがクスクスしながら小突きあった。最初になりたくないんだね。
 でもそうだった、去年のわたしは「じゃあ陽菜からね」とみんなに押し出されたっけ……いちばん小さいからって理由は意味がわからなかった。

「……だいじょぶだよ、声の雰囲気とか、出せる音域を聴くだけだから」

 いちおう先輩として、一年生を後押ししてみる。後輩たちはへにゃ、と笑った。

「陽菜ちゃんセンパイは見るからにソプラノですよね」
「このフンイキで豊かな低い声とか出されたら詐欺ですって!」

 すでに一年生からも「ちゃん」付けされている自分が、ちょっと悲しい。

「陽菜はなんてゆーか、小鳥がさえずってるみたいだもんね」

 便乗してケラケラ笑ったのは咲季ちゃんだ。ピアノが弾ける咲季ちゃんは、音取り役として椅子に陣取って待っていた。

「ほら、もう端の人から順番で早くやろ。つべこべ言わない!」
「はーい!」

 声を掛けた咲季ちゃんの勢いに巻き込まれ、すぐにオーディションが始まった。

 しっかり者で、グイグイ前に出られる咲季ちゃん。人数のすくないアルトを引っ張って歌える咲季ちゃん。
 こういう人が来年は部長になるのかな。

 ……わたしには無理だよな。






「――ううん、陽菜はこの頃がんばってると思うよ」

 教室でお弁当を食べている時、咲季ちゃんに言われた。集まっているクラスの子、五人それぞれの部活の話だった。

「ほんと?」
「うんうん。去年は言われたことにうなずいてるだけでさ。歌う声もちっちゃいし。いるかいないかわかんなかった」
「あは、は……」

 わたしはごまかして笑った。やっぱりそんな風に思われてたんだ。わたしの顔が引きつったからだろうか、咲季ちゃんは手をヒラヒラして謝った。

「あーごめん。まあ陽菜かわいいし、正直マスコットみたいに思ってたんだよね。でも今は一年の指導しようとしてるんでしょ? ソプラノの子が言ってた」

 へええ、と意外そうに笑った三人は、今年から話すようになった子たちだった。
 みんな咲季ちゃんの友だちで、わたしもお昼に誘われ混ぜてもらっている。教室の中でひとりになるのが回避できてラッキーだけど、まだわたしだけ浮いている気がした。こんなんじゃ彼女たちも困るよね。

「陽菜ちゃんてあまりしゃべらないけど。そういえば声、かわいいかも。カラオケとかは行く?」

 質問は嬉しかった。わたしがどういう人なのか、話せる機会にアピールしなくちゃ。

「行くことはあるよ」
「へー、じゃ今度いっしょに行こっか」
「うん。あ、おこづかいがある時だけね」
「あーわかる。私もいつも足りなくて。陽菜ちゃんどんなの歌うの?」

 えーとね、と口を開いたら咲季ちゃんがさえぎった。

「合唱曲はカンベンしてよ? 『大地讃頌』とか『アヴェ・マリア』とか」
「なにそれ、讃美歌? そういうのも合唱部でやるんだ」
「やるやる! うち浄土真宗の檀家だけどおかまいナシよ」
「日本はおおらかだもんねー」

 きゃあきゃあとそれていく話題に取り残され、わたしは口をつぐんだ。

 何も言えない。
 かすかな笑顔で、わたしはここにいるだけだった。




 新クラス、そして後輩。
 そんなものに慣れなくちゃと思いながら、空回りしている気分がぬぐえなかった。
 だけどわたしのあせりを置き去りにして、あっという間にゴールデンウィークが近づいてくる。もうすぐ五月になるっていうのに、わたしは何をしているんだろう。

 あと二日で連休入りという日の昼休み、近くで男子が話していた。そこには須田くんもいて、友だちに訊かれている。

「ゴールデンウィークなんか予定ある?」
「親がアウトレットモール行くって。つき合うと思うけど、それぐらいかな」

 須田くんは家族関係も良好、と。
 あ、いや、わたしだって悪くはないけど。

「買い物めんどくね? えらいじゃん」
「飯食わせてもらえるだろ。いつも行くとこソフトクリームもうまいし」

 男子らしい言い分にわたしはこっそり微笑んだ。
 そんなのが聞こえたせいで、こっちもみんなで遊びに行くかどうかの話になる。前に言っていたカラオケとか、だ。

「あたし親と旅行だからパス」

 あっさり言ったのは咲季ちゃんだ。ならわたしも参加したくない。今ここにいる人たちとは、まだそんなに仲良くなくて迷惑がられると思う。

「そっか、まあどこも混むしねー」
「カラオケとかなら普通の日のがいいよ」
「私おばあちゃんとこ顔出すし、塾もあるから忙しいかも」

 口々に言うのが、わたしと会わない理由づけのように聞こえて苦しくなった。咲季ちゃん抜きでつき合うほどの関係じゃないと知らされた気がした。

「……塾、行ってるんだね」

 忙しいと言った幸田さんに、なんとか話しかけてみた。わたし以外のみんなには当たり前のことなんだろうな、きっと。

「そうなの。私ちょっといい大学、受けたくてね。今からそなえてるんだ」
「弁護士目指すんだって」

 横から咲季ちゃんが口をはさむ。やっぱりみんなの共通認識だったらしい。知らないのはわたしだけ。でもそんな立派な夢があるなんて、わたしは素直にびっくりした。

「すごいなあ」
「いやー、なれるかどうかわかんないし。陽菜ちゃんは進路とか考えてる?」

 さらりと訊かれてわたしは一瞬、口ごもった。
 わたしの夢。それは。

「――歌う人になれたら、うれしいけど」

 小さく言った。勇気を振りしぼって。
 でも、みんなキョトンとする。

「え……まさかアイドル?」
「ううん! じゃなくて、歌のおねえさん、とか?」

 どんどん声が尻すぼみになる。
 笑われる、絶対。
 子どもみたいだって。なれるわけないって。馬鹿にされる。

「歌のおねえさん……ってあれだ、教育番組!」
「やーん、なつかしいね」

 そう言い合うのは、困惑しているからなんでしょ? つき合いの浅いわたしに、なんて返せばいいのか迷うよね。ごめんなさい、変なこと語り出して。
 そしたら咲季ちゃんがズバリと言いきった。

「やだ陽菜ったら、そんなのムリに決まってるじゃない」

 ムリ。
 自分でもそう思っていたのに、他人から言われるとズシンと胸が重くなった。

「ちょっと咲季、そんな」
「だってあれは難関すぎるよ。弁護士どころじゃないもんね、総理大臣レベル。日本に一人だもん」
「へえ……そうなの?」
「だったと思うよー。それに〈おねえさん〉って陽菜のキャラじゃないしさ、あり得ないって」

 明るくわたしの背中をバン、とする咲季ちゃん。息が詰まった。

「そ……だよ、ね。でもわたし、そんなんじゃなくても、歌えたら、いいなって」
「合唱ならそこらのママさんコーラスでもできるよ」
「あれ、そういう言い方は今まずくない? ママさんとかって」
「あ、差別か。昔うちの親がやってたんだけどな」

 またわたしを置いてどこかに行ってしまう会話。
 苦しい。息ができない。
 必死でパクパクと口を動かそうとしたら、向こうで須田くんがわたしを真っすぐに見ていた。
 なんだか不思議そうな目で。何かを言いたそうにして。


 ――――やだ。
 見ないで。
 こんなどうしようもない、何もうたえないわたしを見ないで。


 夢を叩きつぶされても言い返せないわたしのこと、嫌いにならないで――――。





 それからわたしは、ひと言も話さずに午後の授業を乗り切った。当てられなくて助かった。

 なんだか頭が重い。ぼんやりする。でも熱はないみたいだし、どこか痛いわけでもない。
 ただ、教室にあるものがだんだん色を失っていった。
 やっとホームルームが終わった時には、黒板がぐにゃりと曲がった気がした。

 もうだめだ。帰りたい。
 カバンをつかんだわたしは、誰よりも早く教室を飛び出した。
 だいじょうぶ、足はふらついていない。ちゃんと歩けるから、すぐ帰ろう。



 ――部活のことを忘れていたのに気づいたのは、帰りついた家のドアの鍵を開けている時だった。でももう、今さらどうしようもない。

「あれ、陽菜おかえり」

 在宅勤務中のお母さんがリビングの隅のデスクから振り返る。もっと遅くなるはずのわたしがいきなり戻って驚いたみたいだ。

「……(ただいま)」

 口を開いたら、かすれた空気みたいな言葉しか出なかった。
 ン、ウン。ケホ。
 咳ばらいして言い直す。

「(た)……、……(ま)?」

 かろうじて出るのは、ささやくような声。

「あれ、陽菜? のどやっちゃったの?」

 お母さんが眉を寄せる。そんなはずない、わたし普通にしゃべれるってば。風邪っぽくもないし。

「(へいき)」
「平気って言った? そんなことないでしょ、声ぜんぜん出てないじゃない」

 嘘だ。
 どうしてしゃべれないの。
 さっきまでできてたのに。

 わけがわからなくて怖くなる。のどがこわばり、声の出し方を思い出せなくなった。わたしは手でのどをつかんだ。

「――ゲホッ、ゲ! コフッ!」
「ちょっと陽菜!? 咳、抑えて。のど荒れるよ。なあに何かあったの?」
「(お母さ、なん、こえ、出な)……?」

 なんでなんでなんで。
 お昼まではちゃんと話してた。なのに、わたしの声どうしちゃったの。

 のどが締められたように苦しい。
 息はかろうじてできるけど、かすれた音しか出てこない。




 ――――この日、わたしの声はどこかへいなくなった。


 心因性失声症、というらしい。
 それがわたしの状態。


 かすれた声しか出なくてボロボロ泣き出したわたしを必死になだめたお母さんは、仕事を早退して耳鼻咽喉科に駆け込んだ。検査をしてもらったけど、のどにこれといった異常はなくて感染症っぽくもなくて、ならばと紹介されたのは心療内科だった。
 そちらは予約制で、ゴールデンウィークの飛び石の狭間でなんとか診てもらえた。学校は連休前からずっと休んでいた。そこで告げられたのが、心因性失声症という病名。

「疲れた、て体が言ってるんですよ。すこし気楽にすごしましょう」

〈わたしの声、出るようになりますか?〉

 渡された紙とペンで、わたしはお医者さんに訊いた。うなずかれてホッとする。

「のどの機能が壊れたわけじゃないですから。咳はできるし、泣けばしゃくり上げる声なんかは出ると思います――どうですか?」
「あ、ああはい。話す時よりも音になっています」

 お母さんが代わりに答えてくれる。

「陽菜さんは今、声帯を動かすやり方を忘れてるだけなんです。あ、声帯の周りの筋肉を、ですね」
「そんなことあるんですか」
「人間の心と体は思うようにならないものです。原因はまあ、なんらかのストレスなことが多いですね……だからしばらく、陽菜さんがキツいと感じることはあまりしないでおきましょう。治るまでには個人差がありますけど、一生話せないなんてことにはならないです。だいじょうぶですよ」

 そしてお医者さんは抗不安薬というものを出してくれた。息が苦しい時に飲んでください、と。





 ゴールデンウィークの最後の日、自分の部屋でゴロゴロしながらわたしは考えていた。

 ストレスが原因。
 つまり、わたしは苦しかったんだ。
 それは……なんのせいだろう。理由はたくさんあるのかもしれない。



 あの日にわたしがした最後の会話。それはわたしの夢の話だった。
 うたいたい、という夢。

 咲季ちゃんに否定されて、わたしはそんなに悲しかったのか。声を忘れるほどに。


 でも、こうして咲季ちゃんのことを思い出しても怒りがわいたりはしない。ちょっと苦しいだけ。
 だってわたし、いつもグイグイ進んでいける咲季ちゃんのことすごいな、て思ってしまう。怒るより、負けたと感じる。

 そうだ、須田くんのこともうらやましがっていたっけ。きちんと音楽に向き合っていることにヤキモチ焼いて。


 ――――ああ。

 そうか、わたしのストレス。
 それはきっと、〈わたしがわたしであること〉そのもの。
 わたしは他の誰かをうらやんでばかり。自分のことが嫌なんだ、たぶん。


 わたしはいつも他人の顔色をうかがって生きていて。
 誰かに笑われるのが怖くて。だから目立つことが嫌で。
 とにかく臆病者なんだ。

 そして、そんな自分を変えたくて必死に夢を口にしてみたのに――否定された。ただひとりの歌い手になど、なれるわけないと。



 うたえないよ。もう。
 わたしの歌に価値なんかない。

 そう思ってしまったんだね、わたしの声は。だから消えたんだ。


 ――そうなの?
 わたしの声ってもう、いらないのかな。
 あきらめるしかないのかな。





 連休が明けて数日後、わたしは学校に行くことにした。
 お母さんは心配したけど、体は元気なんだし。ズル休みしているような気がして落ち着かない。
 自分がますます駄目な人間だと思えてきて不安になるから登校したい、と親を説得した。あ、もちろん紙に書いて。

 わたしはノートとシャーペンを手放さないようにしていた。
 声は、かすれたささやきなら出せる。でも聞きとりづらいし、何度も聞き返されるとさすがにイライラしてしまう。だからもう、しゃべる努力はしないで筆談に切り替えた。
 学校でもしゃべらなくていいように、先生に相談してある。

「おーい、席につけー」

 ガララ。
 久しぶりの学校で、朝、担任の先生は前扉から教室に入った。わたしはその後ろについていく。口にはマスク。できるだけ無表情で。
 しばらく欠席していたわたしがあらわれてクラスがざわついた。

 だいじょうぶ、怖くない。何もしゃべらなくていいんだから楽なものでしょ?

「あー、この林原さんなんだが……のどを傷めてしまって、今は声が出せなくなっている。感染症とかじゃないんで学校には来るということだから、みんな配慮するように!」

 心因性のものだとか、そんなことは一切伏せるようにお母さんが交渉してくれていた。先生も当然のように応じてくれたらしい。ハッキリいじめとかがあったわけじゃないけど、学校側に問題があったと言われたくなくて腫れ物にさわるような扱いをされているらしかった。

「林原さんは、必要な時だけ筆談で応じることになる。ノートに書かなきゃいけないからな、無駄話するんじゃないぞ」

 先生の指示の横でわたしは軽く頭を下げると、自分の席に着いた。
 前の席は、一緒にお弁当を食べていた塾通いの幸田さん。振り向いて小さく「だいじょうぶ?」とささやいてくれて、わたしは小さくうなずいた。




「なあに陽菜ったら、大声でも出したの? のど潰すなんてさ」

 昼休み、お弁当を食べるために集まっていた咲季ちゃんは、モグモグしながらも普通にしゃべる。
 わたしだってお弁当を広げているから、ノートに書いて答えることはしなかった。軽く首をかしげて聞こえているよと反応したけど。

「あ、絶叫マシン? ゴールデンウィークに遊園地行ったんでしょ」
「陽菜ちゃんならオバケ屋敷でも悲鳴あげそうだね」
「やだあ誰と行ったのよう。白状しろ!」

 きゃあきゃあ笑われても、わたしは微笑むだけ。しゃべらなくていいって楽かもしれない。

 食べるためにマスクは外しているので、顔や口に怪我をしたんじゃないことは伝わったはずだ。だから叫びすぎてのどを潰したと思われているのだけど、それならすぐ治るよね。
 
 でもわたしの声は、いつ戻るのかわからない。
 数ヶ月、それとも数年。調べたら、そんなにかかったという症例も出てきて血の気が引いた。
 わたしの体と心は、もう声なんていらないと決めてしまうのだろうか。

「で、部活ってどうするの? せっかく先輩になったし顔だけ出す?」

 咲季ちゃんに訊かれて首をふるふる振った。

「出ない? 休むの?」

 こくこく。
 ひとまず休部扱いにしてくれ、とお母さんから学校へ話してある。

「そっか。でももうすぐNコン用の選曲と課題曲の譜読みやるんじゃない? 陽菜だけ遅れちゃうよ。早く復帰しないと」

 うーん。ちょっと残念だけど、しかたないよね。声が出ないままなら、そのうち退部になるのかな。わたしは黙ってお弁当を食べ終わる。

「ま、陽菜がいなくても、なんとかなるけどねー」

 わたしがいなくても。
 そう言って、咲季ちゃんはケロリとしていた。わたしはピクリとしたけど何も言わずにお弁当箱を片づける。だってどうせ声も出せないし。
 ちょっと外すねとみんなに目くばせし、わたしはマスクだけをつかんで席を立った。廊下に出る後ろで咲季ちゃんがブツブツ言うのが聞こえた。

「どうしたの陽菜。なんにも教えてくれないとか、ひどいんだけど」

 ……ひどい?
 わたしってひどかったの?

 サアァ、と体が冷たくなった。
 わたしは今どんな顔をしているだろう。誰にも見られたくなくて急いでマスクをする。
 
 ワアワアと生徒が行き交う昼休みの廊下、歩きながら人のいない場所を探した。
 トイレは嫌だ。個室に閉じこもっていても誰かのうわさ話が聞こえることが多い。知らない人が笑われているのも文句を言われているのも聞きたくなかった。
 図書室なら話さずにいられるけど、不特定多数の視線はあるはず。それは無理。

 誰にも見られたくない。会いたくない。消えてしまいたい。
 息が苦しい。

 廊下を早足で逃げるように特別教室棟まで行った。美術室、物理教室、史学準備室。そんなところの前はガランとしていて、すみっこの手洗い場では水がポタポタ垂れていた。
 校舎の端、ほとんど人が通らないスロープの手すりの陰にかくれる。ここなら、ひとりで居られるかも。

 苦しい。息が。
 制服のシャツの胸もとをつかんだ。
 ああ、薬を忘れた。苦しい時に飲むやつ。カバンの中だ。でも取りに戻りたくない。
 にじむ涙をふいた。落ち着こう。きっとだいじょうぶ。

「――林原?」

 静かに呼ばれて背中がビクンとふるえた。
 わたしの名前を呼んだのは――。

「(すだ、くん)」

 振り返り、わたしはかすれる声でつぶやいた。
 でもすぐに、その声が聞こえていなければいいと願った。こんなわたしを、知られたくないよ。

「ぐあい悪いのか? 保健室行く?」

 須田くんは普通に尋ねてくれる。

「……」

 わたしは黙って首を横に振った。それしか意思を伝える手段がない。ノートは教室に置いてきた。

「そっか。でもなんかつらそうだから」

 どうしてそんなに優しいこと言うの。話し方はそっけないけど、心配してくれているのがよくわかった。
 ていうか、こんなところにいるのはなぜ? もしかしてわたしを追いかけてきたの? そんなわけはないか。
 でも須田くんの言葉でとても落ち着いた。息苦しさも楽になってくる。
 わたしは顔を上げて笑ってみせた。マスク越しだけど伝わったみたいだ。

「だいじょうぶならいいけど。あのさ、林原――」

 須田くんはためらったように口ごもる。でも言わずにはいられなかったみたいで言葉がこぼれ出た。

「――のど、治るんだよ、な?」

 須田くんの言葉は、なぜか切実な響きをおびていた。
 真っすぐにこちらを見るそのまなざしで、わたしの心は音もなく崩れ落ちる。


 治ってほしいと、須田くんは思ってくれるの?


 首をたてにも横にもしないまま、わたしは一瞬かたまってしまい――それからボロボロと涙をこぼした。

「え、ちょっと――」

 泣き出したわたしに大あわてでワタワタとした須田くんは、伸ばした手をすぐ引っこめる。女子にさわったりできないよね。
 ごめんなさい困らせて。どうしよう。でも止まらない。
 須田くんは同級生の男子なだけ。たまたまわたしが歌うのを聴いたことはあるけど、それだけだ。そんな人に迷惑をかけてしまい、わたしは情けなさでスロープにペタリと座りこんだ。

 マスクのすき間から入った涙が、口にまで届く。
 もう歌うこともできない、しゃべれもしない、役立たずのわたしの口。
 なのにわたしの声を気づかってくれる須田くんは、きっと神さまだ。


 ならばお願い。
 わたしに声を、歌を、取り戻してください。助けてください。


「林原……?」

 須田くんはわたしの前にしゃがみ、顔をのぞきこむ。目が合って、もう駄目だった。
 わたしは須田くんのシャツの袖をつかんだ。すがりつくように。

 でもその腕は、ごく普通の男の子だった。我に返る。
 須田くんは神さまなんかじゃないよ。しっかりしなさい、わたし。自分の馬鹿さかげんが恥ずかしくてうつむいた。
 なのに須田くんは、わたしを振りほどいたりしない。どうして。


 どうして心配してくれるの?
 わたしの声が治ればいいと、本当に思ってくれるの――?