それからのわたしは忙しかった。
発声練習。発話練習。
そして須田くんと一緒に歌詞の完成を目指した。
学校では須田くんに会うついでのようにしか勉強をしていない。ひどい態度だけど、定期テストはなんとか平均点を勝ち取った。
そのうちに、梅雨も早めに明けた。
「ねえねえ、曲、夏休み中に完成させられるといいよね」
「録音もか? 本息出して平気かよ」
「だって、早くうたいたいんだもん――」
夏休み直前、午前授業で終わった日にわたしたちは並んで校門へ向かっていた。
日射しがジリジリと暑い。足もとのコンクリートからの照り返しで、あっという間に汗がにじんだ。
夏休みに入れば須田くんとは、わざわざ約束しないと会えなくなってしまう。それがとても憂うつだった。
お互いの家でというわけにもいかないし、公園じゃ熱中症になりそうだし、とにかく毎日一緒にはすごせなくなる。
うたいたい、というのは口実でもあった。
この曲はわたしたち〈Hina〉と〈Tatu〉をつなぐものだから。同じ教室にいられなくても、心は近くにいる気になれる。
「ヒナが軽く歌っただけでも俺のテンションやばかったからな――あ、すこしアレンジ変えたやつ今度聴かせるから感想よろしく」
「たっくーん!」
話しながら歩いていたら、門の外から女の子の声に呼ばれてギョッとした。
見ればどこかの学校の制服を着ていて、大きく手を振っている。
それはもちろん、アイリちゃんだった。
「愛梨……?」
須田くんも怪訝そうにつぶやく。どうして高校の前で待ちかまえているんだろう。
わたしたちが校門を出ると、アイリちゃんは以前のように須田くんの腕にぶらさがろうとして振り払われた。
「たっくんひどぉい! せっかく見つけたのに!」
「ひどくねぇわ! こんなとこで何してんだよ」
「アタシ中三。受験生なので志望校決定のため、通いやすさや在校生の雰囲気を確かめに来ました! たっくんに会えるとは偶然だなぁ」
「出待ちしといて偶然とか言うな」
文句を言われてもフフンと笑い飛ばすアイリちゃんは、わたしに目を向けた。
「この人、前に教室のビルの近くで会ったっけ? たっくんと同じ高校なんだ」
「……こんにちは。ギター背負ってた子だよね?」
わたしは余裕を見せて応答する。これでもいちおう先輩だ。身長の関係で見おろされているけど。
「……たっくんと歌うって山野内先生が言ってたの、この人?」
「おまえ丁寧語ぐらい使えないの? ヒナは年上だし、ほぼ初対面だろ」
須田くんが厳しい顔をした。周りを通る生徒たちの視線と耳が気になるからだろう。わたしたちがコラボ曲を作っているのは内緒だ。
「だって! あたしの方がたっくんとつき合い長いし、先にたっくんを誘ってたのに!」
ぷう、と頬をふくらませアイリちゃんは言い張る。
聞きつけたクラスメイト男子が通りすがりにニヤリとしてささやいた。
「ふたまたダメ、絶対」
「うるせえな」
なぐるフリの須田くんをかわし、笑って逃げていく。アイリちゃんはピクリと眉を上げた。
「たっくん……この人とつき合ってるの」
「そうだけど?」
須田くんは怒った顔のまま断言した。たぶんちょっと照れてる。
告げられたアイリちゃんは目を見開き、フルフルしはじめた。くちびるを震わせたと思うと、への字に引き結ぶ。
「ひどい……たっくん、あたしをなんだと思ってたのよぉ!」
「はいぃ!?」
ベソベソ泣き出したアイリちゃんと大慌ての須田くんを見比べて、わたしはひと言も発することができなかった。
せっかくのどが回復してきて話せるようになったのに。思ったことを言えない性格は、なかなか変えられないものだ。
学校の前で泣かれていても困るので、アイリちゃんを引っぱって公園に行った。バス停からすこし住宅地に入ったところにある、わたしが歌を聴かれてしまった公園だ。とにかくベンチに座らせる。
ここで子どもたちとリズムを刻んで遊んだこともあった。だけど梅雨が明け暑くなった今日は、誰も遊んでいない。
「なんなんだよ愛梨……」
特大のため息と共に須田くんは苦情を言った。アイリちゃんこそが彼女だ、みたいな言い方をされても心当たりはない。道々そう必死に言い訳された。うんまあ……疑ったりはしないけど。ちょっと微妙な気分ではある。
「なにってあたし、たっくんへの罪ほろぼしに、お嫁さんになってもいいよって言ったことあったじゃないのぉ、忘れた?」
「はあ? 何年前だよ!」
座って見上げてくるアイリちゃん。立ったままの須田くんは、手の甲でひたいの汗をぬぐった。これ暑いからだけじゃなく、変な汗が混じってると思う。
「だいたい俺あの時、何言ってんだバカって答えただろ!」
「えー? そんなの照れてるだけだと思うじゃない、フツーは」
「おまえの常識は非常識なの!」
「あの……」
わたしはなんとか口を挟んだ。
「罪ほろぼしって?」
「あ。ええっとさ……」
口ごもる須田くんだったけど、アイリちゃんは平然と訴える。
「小学生の時! たっくん発表会でミスったことがあって、あたし一緒に組んでたのにフォローできなかったの。たっくん後でボロ泣きしたんだよー」
「うるせえ黙れ!」
須田くんがビシリと止めた。アイリちゃんは不服そうにしながら口をつぐむ。
……それは山野内先生から聞いた事件のことだよね。アイリちゃんに告げ口されなくても実は知ってるんだけど、言わない方がよさそうかな。
でもそんな時からアイリちゃんとは一緒だったのか。ちょっと嫉妬する。
「ミスは俺の責任だし、愛梨なんか小四のチビだった。フォローできなくて当然だよ。もういい」
「いくない! あたしずっとたっくんとバンド組みたかったのに。なんでいきなり出てきた女なんかに取られなきゃいけないの!」
プンスカしているアイリちゃんに須田くんは頭を抱える。
そんなこと言われてもね。わたしも須田くんの音楽が好きだし、ゆずるわけにはいかない。
「ええとアイリちゃん」
「なによ」
「わたしボーカルなんだけど……アイリちゃんギターでしょ。別にかぶらないし」
「あたしギターボーカルできるし! あなたの歌がどれほどのものなのか知らないけど、あたしは」
「いい加減にしろ」
さえぎる須田くんの声が低くなった。とうとう真剣に怒ったらしい。
「俺はバンド組んで表に出る気はないって言ったろ。今はヒナに歌わせることしか考えてない。ヒナの声は俺の理想なんだ」
う……わ。
わたしは一気にホテホテに火照ってしまった。
どうしよう、「好きだ」と言われた時よりも顔真っ赤だと思う。でも「理想」なんて表現されたらもう耐えられないよ。
そういえば山野内先生が「等身大の言葉の間に強い言葉を入れると引き立つ」みたいに言ってたっけ。こんなところで突然納得した。
「そん、な……じゃあ、聴かせてみなさいよ!」
ショックを受けたらしいアイリちゃんは、わたしに向かって叫んだ。
「たっくんがそんなに言うなら聴いてから判断してあげる。どうぞ歌ってみせて?」
傷ついて青ざめたアイリちゃんに詰め寄られ、わたしの頭は冷えてくる。これは……そうでもしないと納得してもらえなさそう。
どうすればいい? そんな意味をこめて須田くんに目をやると、真剣に頼まれた。
「……ヒナ。俺らの曲、ここで歌ってくれる?」
――ここで。
わたしたちの歌がはじまった、この場所で。
「あ、もちろん本気出すなよ。まだ怖いから軽くで」
「なに、たっくん。どういうこと」
「ヒナの声、ちょっとワケアリなの。ここでのど潰したら愛梨のこと許さないからな」
そう言った声色は底冷えしていて、わたしまで血の気が引いた。火照ってる場合じゃないわ、これ。
でもわたし、うたうよ。須田くんの曲。
ここで披露できるなんて、すごく嬉しい。
「――だいじょうぶ、抑えめにする。ちょっと発声するね」
「サンキュ。ついでに木陰へ移動しようぜ」
さっさと藤棚の下へ行くわたしたちにアイリちゃんは難しい顔でついてきた。
成りゆきとはいえケンカみたいになっちゃったな。こういうのって後で仲直りするのどうすればいいんだろう。ケンカしたことないからわからない。
……でもいいか、それはその時で。
わたしは水をひと口ふくみ、あー、と声を出した。うん、へいき。
二人で書いた歌詞。何度も口ずさみ、完ぺきに頭に入っている。
わたしたちのことを歌おう。
わたしたちみたいに悩んで立ちどまった人たちのために歌おう。
そう願って書いた曲。
風が緑をはらむ。
強い光が空から落ちてくる。
わたしたちを包む。
――世界はもう、音楽そのもの。
「いいよ。かけて」
わたしの言葉に、須田くんがスマホを鳴らした。軽やかなイントロが流れ出した。
✢✢
誰かと合わせ笑うのが当たり前になっていた
横並びのリズムはみ出すのを おそれていた
僕だけの空がほしいなんて ひとりよがりだ
誰にも届かない言葉を抱え込んでいた
僕の目にうつる君は
雨に濡れうずくまるヒナ鳥
踏み外した枝を悔やむよりも
その透き通る翼を広げて
君に出会った時
世界の辻つまが合った気がした
拒まれた空を望むなら
見つけるんだ 最後まで抗えばいい
叩き落されたって
いつか
降りしきる雨にも傘はないけど
手を伸ばしてもいいと言って
わかったんだよ 君がいることが
僕の世界の答え合わせ
誰のためにもなれないな そうつぶやいても
青い色の正義は風に流されていく
僕だけは違うはずだなんて そんなわけない
世界は続くんだ僕らの歌がなくても
君が教えてくれた
孤独は強さなんかじゃないと
僕の疎外感を見つめ君はさえずる
痛くたって羽ばたけ、空へ
運命なんてつかみに行くもの
僕は探し出したんだ君を
臆病も記憶も憧憬も絶望も 叩き壊した
君が歌う空の音色 僕だけには
いつも
降りそそぐ光はもう君の味方
風は鮮明に空を描いて
わかってたんだ 君と行くことが
僕の世界の答え合わせ
✢✢
わたしは伸びやかに歌い終えた。
まったく全力の声ではないけれど、悪くない。のどに頼らず、頭や体も鳴らすことで響きに幅が作れるようになったのは病気のおかげかも。
じっと聴いていたアイリちゃんは、アウトロが消えても動かなかった。
須田くんは歌のおかげでコロッと機嫌が良くなっている。スマホをしまい、アイリちゃんに向き直った。
「どうだよ、ヒナの歌。あと俺の曲も」
ムスッと視線をそらすアイリちゃん。須田くんの無言の圧力に屈し、渋々口を開いた。
「……悪くないんじゃないの」
「素直にいいと言え」
「……ッ! うっさいわね! たっくんのバーカ!!」
アイリちゃんはそのままプイッと公園から駆け出してしまった。見送った須田くんがフウゥと息を吐く。
「……ふん。ヒナが勝ったな」
「ちょ、その言い方はアイリちゃんかわいそう」
「いーんだよ。まったく無茶苦茶なこと言いやがって……」
苦笑いして、須田くんは藤棚の向こうに続く空を見やる。
「歌、すごく良かった……あの時この公園でヒナのこと見つけられて、俺、超ラッキー」
そんなふうに言ってもらえて、わたしこそものすごく幸せ。須田くんの作る音楽に出会えてよかった。
……と思っているのに、やっぱりわたしの口はすぐに動かない。
えーとえーと、となっていたら須田くんはわたしを見て笑い出した。
「ヒナさ、無理してしゃべんなくていいよ、俺の前では。まあ他のやつらには通じないかもしれないけど……」
いや、だってそんな。
「そのかわり俺の曲、ずっと歌って。歌で伝えてくれればいい」
それは、もちろんやる。やりたい。
こくこく、とうなずいてしまったら、もっと笑われた。
「声を出さなかった間に、それクセになっちゃってるし」
「うっ……そう、だね」
「でもあの時はあの時で、会話ノートとか歌詞の参考になったし助かったよなあ」
それは、まだ実は持ち歩いている。何かの拍子に声が出せなくなるかもという恐怖心はなくならなくて。そんな時のための……お守りみたいなものだ。
カバンからノートを出してみせると、須田くんはヒョイと取ってめくった。
「これ、ヒナとの大事な記録」
へへっ、と示されたのは――〈yes〉。
クラスのみんなに盛り上げられて追い込まれて、「好きだ」と伝えてくれた時のわたしの答え。そんな文字を指でなぞられて、とても恥ずかしくなる。
ずるいな、須田くんからの言葉はとっくに空気に溶けてしまっているのに。わたしの書いた心はノートにずっと残るんだ。
だけど、このノートを封印しようとは思わなかった。
そこには言葉が、心が、記憶が書きとめられている。見ればいつでも、その日のことを思い出せるから。
記されている良かったこと苦しかったことは、どちらもわたしが歩いた道のり。
わたしはノートをそっと奪い返した。
「そこだけを抜き出して思い出にひたらないでください」
「へへへ、まあそう。俺がヒナを追っかけて、ヒナが俺の前で泣いてくれたから――俺たちは近づけた。弱音だって悪いもんじゃないよ、きっと」
「そうだといいな。でもわたし、須田くんといると強くなる気がするよ」
「え……俺、負けそう? 格闘技とかやっとかなきゃダメ?」
「ちがうー!」
こんなくだらない軽口は、ノートには残らない。でも記憶には刻まれていく。それが嬉しい。
ねえ須田くん。
できればずっと、あなたの曲をうたわせて。
あなたの世界をわたしに聴かせて。
わたしはまだヒナ鳥だけど。
夏休み、わたしたちの曲を完成させよう。そして投稿してみよう。
再生数なんてつかないかもしれない。でもカウンターがひとつ回ったら。
それは誰かにわたしの歌が届いたということ。
そうしたらわたし、小鳥になれると思う。
この世界をさえずる小鳥に。
わたしは須田くんの隣で空を見上げる。
熱い真夏の風が吹き抜けた。
世界は明日も続いていく。どこまでも。
どこまでも。
了



