つづく世界をうたえ、小鳥よ


 次の朝、わたしはちょっと寝坊した。前夜が寝不足だったこととか「ヒナ」呼びされた興奮とか、いろいろのせい。それでゆっくりめに教室に入ったら、まだ須田くんも来ていなかった。
 だけどわたしを見るなり、咲季ちゃんが冷たい目をした。

「なんだ来るの? 昨日は途中で帰ったくせに」

 びっくりして立ちすくむ。
 咲季ちゃんの机の周りには、四月にわたしも混ざってお弁当を食べていた人たちがいた。咲季ちゃん含め、四人。その中で幸田さんはため息まじりだった。

「だから体調悪けりゃ帰るし、ちゃんと寝て治れば来るのよ。それだけでしょ」
「私ちょっと注意しただけなんだよ? なのに当てつけるみたいに貧血起こすとか、おかしくない?」
「ほんとに顔色白かったって言ったじゃないの」

 扉のところで突っ立っているわたしと、不機嫌な咲季ちゃん。教室のあちこちから様子をうかがう視線が飛んできた。


 咲季ちゃんは何を言ってるんだろう。
 昨日のこと? 合唱部への連絡をしていないのは本当だから、身ぶりで謝ったよね。
 でも須田くんを彼氏だと思われてるのは誤解だ。そうなったら嬉しいけど。

 それに「感じ悪い」と言われたのがショックで具合が悪くなったのは仕方ないことだ。午後の授業で教室に戻らなかったのは咲季ちゃんへの当てつけなんかじゃない。わたしの心が弱いせいだけど、抗不安薬が効くということは逆に、実際に症状が出ていた証明でもあるし。

 だいたいわたし、昨日は早退してないよ。保健相談室にいても全日出席扱いになっているはず。勝手に帰ったことにされてしまいモヤモヤした。


 一瞬で、咲季ちゃんに対してたくさんのことを考えた。
 でもわたしはしゃべれない。頭の中で反論しても咲季ちゃんには伝わらないんだ。もどかしさでカッと体が熱くなった。

「おはよー。あれヒ……どうした?」

 遅刻ギリギリ、わたしの後ろから教室に駆け込んできたのは須田くんだった。ヒナ、と呼ぶのはみんなの前だから自粛したらしい。
 ただ空気がピリついているのは感じたみたいだ。変なところで立ちどまったままのわたしの視線の先にいるのは咲季ちゃん。昨日の不調の原因は彼女だと、須田くんは知っている。

「あら彼氏登場。いいよね、か弱い女の子はいつも守ってもらえて」

 咲季ちゃんが吐き捨てた言葉にクラスがざわつき、須田くんも表情を変えた。チラリとわたしを見る。戸惑い黙ったままのわたしは――そもそも話せない役立たず。須田くんは、代わりに口を開いた。

「なに言ってんだよ。俺ら、つき合ってねーし」
「うっそ、このごろいつも一緒じゃない」
「それは……!」

 クラスメイトには内緒の音楽作り。須田くんがドラマーなことも、高校ではわたし以外知らない。
 言い返せなくなった須田くんのため、わたしはとっさに黒板に駆け寄った。


 学外の活動なの


 チョークでそう書いた。

「はあ?」

 咲季ちゃんは馬鹿にしたように笑う。
 まあそうだよね、内容がわからなきゃ納得できない。でもこれ以上はどこまでバラしていいか迷った。須田くんと相談しないと。

 頭の上のスピーカーから始業のチャイムが降ってきた。でもわたしたちの成りゆきを見守るクラスメイトは動かない。そのうちに廊下を行き交っていたザワザワが静まり、担任の先生が入ってきてしまった。

「ん? どうした林原、学外がなんだ?」

 読まれてしまい、あわてて字を消す。ペコリとして席につこうとしたら須田くんが立ちふさがった。

「……保健室行かなくて平気か」

 小声で訊かれた。
 そう、だね。咲季ちゃんにひどいこと言われたんだった。
 でもなんだかだいじょうぶ。須田くんが味方してくれたし――ここに須田くんをひとりで残していくのは嫌だ。
 だいじょうぶだと小さくうなずき、わたしは机に向かう。

「……言い訳ばっかして、フツーに仲良しじゃない」

 咲季ちゃんが嫌みっぽくつぶやくのが聞こえた。



 たしかに教室の居心地はよくなかった。須田くんが心配したとおりだ。
 誰も話しかけてこないのは、どうせわたしがしゃべれないとわかっているからだろう。最近はノートに書いて答えるのもせず、表情だけですませることも多いし。

 だって、それって楽だ。
 教室での会話は、スルーしてみるとほとんど意味のないものばかり。
 ろくに興味のないことに感心したり笑ったり、そうしないと一緒にいられない友だちってなんだろうか。



 授業中、あちこちから視線を感じた。休み時間にはヒソヒソと何か言われている気もした。
 咲季ちゃんグループの仲間割れだと思われているのかな。ううん、お情けでくっついていた金魚のフンが切り捨てられた、ぐらいかも。わたしなんてそんな立場。

 でもたいへんなのは須田くんだった。ちゃんと話せるんだからクラスメイトは遠慮してくれない。

「……なんだよ須田、いつからつき合ってんの?」
「隠すことないじゃないかよー」
「林原って去年も同クラだっけ」

 そんなことを言われているのがわたしのところまで聞こえる。須田くんはムスッと「そういうんじゃない」とだけ言い、黙秘していた。


 そういう――彼氏彼女、てこと。
 うん。わたしたちはそんな関係ではない。
 ただの音楽コラボ〈Hina〉と〈Tatu〉。

 でもわたしは須田くんが好きなんだ。
 カレカノになれたらなと、あこがれる。
 
 ――だから黙りこくっている須田くんの横顔に、わたしは勝手に傷ついた。





 なんとか午前中をやりすごし、昼休みになったとたん須田くんがわたしのところに来た。

「ちょっと来て」

 そう言う須田くんは自分のカバンを持っていて、ヒョイと示す。わたしも帰りじたくをしろってこと?

「(え)、どこ(に)」

 思わず、かすれ声で応えた。前の席で幸田さんがピクリとする。聞こえたかな。

「ほら早く」

 急かされて、わたしはとりあえず荷物をまとめた。どうせお弁当はよそで食べようと思っていたし、いいけど。
 二人で出ていくと、後ろからクラスメイトの冷やかしと笑い声とが飛んでくる。その中に咲季ちゃんの「嘘つき」が混ざっているのが聞こえた。



 須田くんは深刻な表情で歩いていった。
 階段をおり、外の渡り廊下へ向かう。ポイントポイントでわたしをチラと見るのは、ついてきているかの確認だ。
 体育館の手前で、須田くんはしれっと脇にそれた。そそくさと建物の裏側に回り込む。壁際の低い段差にカバンを置いて、須田くんはホウッとため息をついた。

「ごめん」

 まず謝られた。
 ぶんぶん。そんなことない。むしろわたしと咲季ちゃんのことに巻き込んだんだから、謝るのはわたしのほう。

「(あ)のね」

 かすれる声でしゃべりながら急いで会話ノートを取り出した。須田くんはそれを見て待ってくれる。二人並んで座った。

〈きのう、さきちゃんに言われたことあって〉

「うん」

〈ぶかつキチンとしないくせに
 彼氏はつくるの カンジわるいって〉

「……なんだよそれ」

〈ちがうって言えてないから
 さきちゃんあんなこと ごめん〉

「いやそれ……は。いいよ」

 困った声で須田くんがつぶやく。

「でも、なんで綾野は今日もあんなにトゲトゲしてるんだ?」

 わたしは手をとめた。
 咲季ちゃんの言い分は、わたしからすると理不尽だ。話したらたぶん須田くんは同調してくれる。

 でもわたし、敵と味方、みたいなの嫌だ。
 綺麗ごとなのはわかってる。
 でもケンカが怖い。他人が争っているのを見るのだって気分よくないのに、自分がするなんて。

「……ヒナ?」

 胸がズキンと痛んだ。
 大切なもののように、そっと呼ばれるわたしの名前。
 この人はわたしのことを、たくさんたくさん考えてくれている。裏切れないと思った。

〈昨日ちょうし悪くなったでしょ〉

「うん……?」

〈さきちゃんに言われたことに
 傷ついたみたいに
 ぐあいわるくして帰るのは
 あてつけだって〉

「……なに言ってんだ、あいつッ!」

 やっぱり須田くんは怒る。

「さっきのって、守ってもらえるようにわざと弱そうにしてるって意味!? 具合悪くなるのは誰だってコントロールできねえだろ! ヒナは弱くなんかない。俺がヒナのこと守りたいのは……弱いからとかじゃないよ」

 しぼり出すような声で、須田くんは顔をゆがめた。

 守りたい。
 ハッキリ言われて驚いた。
 これまでにも「協力する」とは言ってくれたし、いつも助けてくれてすごく嬉しい。だけどそれはわたしが頼りないからじゃないの? じゃあどうして。

 須田くんをのぞきこむわたしは不思議そうにしていたんだと思う。「ニブ」とうめいた須田くんは情けない顔で笑い、でもとてもやわらかくわたしを見た。

「俺、ヒナのこと好きだ。けっこう前から」

 わたしは須田くんのことを、じいっと見つめ返した。言われた言葉をかみくだくのに時間がかかった。


 好き。
 須田くんが。わたしを。


 目をパチパチし、うろたえる。心臓が高鳴りはじめた。そんな。そんなことってある?

「え、驚く? 俺けっこうわかりやすかったと思うんだけど。ぜんぜん隠せてないのにヒナに遠慮ばっかされるから、なかなか言えなくてさあ……」

 須田くんは照れくさそうに下をむく。

「でも周りにこんなん言われたら、告白するしかないよ……あの、ムリならムリって言って? あああ、でもできればコラボ曲はやってくれると嬉しいかな……」

 ゴニョゴニョと続ける須田くんに、わたしはあわてて書いてみせた。

〈yes〉

「……ん? それって」

〈わたしも〉

 好き、と書くのは恥ずかしい。声ならすぐに消えてしまうのに、このノートはずっと残るから。
 ためらっていたら須田くんがわたしを見つめ、泣きそうな顔で笑った。

「……ほんと?」

 こくこく。

「うわ……」

 座ったまま自分の膝に突っ伏し、須田くんが動かなくなった。その耳が赤い。だけどわたしだって、きっと同じだ。

 両想い、なの?
 むしろ驚きでぼんやりしてしまう。

 好きになった人が、わたしのことを好きになってくれる。そんな奇跡みたいなことが本当にあるなんて。

 たしかめたくて、わたしは口に出してみた。

「す、き」
「ぐぅっデレる……あ、声ムリすんなよ」
「うん……あ、れ?」

 これまでよりもしゃべれているような気がする。須田くんもハッとなった。

「ヒナ……」
「わた(し)、ケホッ、ケホッ」

 むずがゆくて咳が出た。でもこれまでの、苦しくて詰まってというものじゃない。呼吸は楽だ。

「おい、だいじょぶか」
「う、ん」

 うなずきながら答えても、なんとか音になった。もしかして、治ってきてる?

「すこ、し。はな、せ、そう」
「うわ、ほんとだ。すげえ」

 のどを押さえ、わたしは深呼吸する。ずっとこわばっていた筋肉が伸び、血がめぐった。気持ちいい。


 ああこれで。
 これで歌えるかもしれない。


「……ゆっくりで、いいからな?」

 気が急くわたしの横で、須田くんは心配そうだ。笑ってうなずいた。

 そうだね。急ぐことなんてない。
 わたしと須田くんは、今はじまったばかりだ。

「まず弁当食べようぜ。あー緊張した。告ったら腹へった」

 うん、賛成。
 カバンにノートをしまい、かわりにお弁当を出した。それからゆっくり、いろいろ話す。

「……俺、去年からずっとヒナのことかわいいと思ってたんだよな。んで、歌を聴いてトドメ……わりと長いこと何も言えないヘタレでごめん」
「ふえ。わ(たし)、歌聴か(れて)、から」
「えーマジ? さっさと勇気出せばよかった」

 ややかすれる声だけど、話せる。
 それだけのことがとてつもなく嬉しかった。
 二人で食べるご飯がすごくおいしい。



 いきなり話せるなんて不思議――とは思わなかった。
 声が戻るのはきっと、須田くんと気持ちが通じたから。

 わたしを見ていてくれる人がいるのは、なんて幸せなんだろう。こんなに満たされることがあるんだ。受けとめてもらえるって、とんでもなく特別な気分。



 想われていたことにまったく気づかなかったのはマヌケだ。
 それはたぶん、わたしの自信のなさのせい。自分が人から好かれることなんてないのだと、無意識に思い込んでいた。

「ヒナってニブいにもほどがあるよな。そりゃ、そーゆーとこもいいんだけど……まったく脈ナシかとビクビクしてた。俺ね、好きでもない子に名前呼ばせてとか言わないから」
「アイ(リ)ちゃ、んは」
「あ、あれは小学生の時からだし……気にする? 嫌ならやめる」

 ぶんぶん。そんなことしなくていいよ。
 わたしと会う前から須田くんは生きていて、その積みかさねで須田くんができている。わたしが好きなのは、今のこの須田くんだ。
 ゆっくりそう伝えたら、笑ってくれた。

「……うん。やっぱりヒナは強いと思う」

 そうかな。よくわからない。
 でも続けて言われたことでお腹の中がポウッとあたたかくなった。


「好きな相手なら、強くても守りたいだろ」


 うん。
 でもね、それは。

 わたしも同じ言葉を返すよ。
 ――わたしだって須田くんのこと、守りたい。


 昼休み、須田くんと話したいことはいくらでもあった。でも予鈴が鳴る前に教室に向かう。授業はちゃんと出なくちゃ。

 ああ、わたしニヤけてないかな。
 幸せそうにクラスへ戻ったら何か言われるよ。


 カバンを持って歩くと、昼なのに登校したばかりっぽくて変な感じだった。
 須田くんがカバンを持ち出したのは、お弁当もノートも必要だったから。だけどわたしから聞き出した話の内容によっては、保健相談室行きかもしれないと考えていたそうだ。その可能性も、たしかにあった。

 咲季ちゃんとは、きちんと話さなくちゃいけない。わかってもらえるかどうか自信はないけれど。

 でも予鈴とともに教室に入ろうとしたら、その咲季ちゃんがわめいているのが聞こえた。

「なんで陽菜のことばっか、かばうのよ!」
「かばってるわけじゃないってば……」

 咲季ちゃんと話しているのは幸田さんだった。困った声。名前を出されたわたしは扉の陰で立ちどまる。

「陽菜が弱いのは本人のせいでしょ。そういうの武器にするみたいのなんなの? こっちは頑張ってるのにいちいち傷つかれて、ムカつくんだけど」
「陽菜ちゃんは弱いっていうか、繊細なんだと思う。争いごとが苦手なのは弱さとは違うよ?」

 ――わたしと須田くんが帰ってしまったと思い、朝の話を蒸し返したのだろうか。
 もれ聞こえた部分だけで、幸田さんはわたしのことを公平に分析しようとしてくれたのだと思った。あの人らしいな。

「――ヒナ。どうする? 相談室、行くか」

 須田くんがささやいた。この空気の中に戻るのは……ちょっと勇気がいる。
 それに教室にいる全員が、この言い争いにそれとなく聞き耳を立てているようだった。わたしへの意見がクラスを二分するようなことになっていたらどうしよう。返事に迷う。

「え、と……」
「どうしました、須田さん、林原さん?」

 グズグズするうちに五時間目の日本史の先生が早めに来てしまった。その声で教室にいたみんなの視線がこちらに集まる。
 先生に押されるように中に入ったわたしと、咲季ちゃんの目が合った。プイと顔をそらされた。
 すぐにチャイムが鳴り、授業が始まる。その場では誰も何も言ってこなくて、わたしは黙ったまま席についた。



 いちいち傷つかれてイライラする。

 その言葉が頭を回っていて授業に集中できなかった。
 でも同時に、目の前にある幸田さんの背中が言ってくれる。

 争いが苦手なのは弱さじゃない。



 泣きそうだ。
 つらくて。そして嬉しくて。



 教室はこんなに小さな世界。
 そのたった数十人の中に、わたしを責める人、理解する人、どちらもいる。

 学校の外の社会も同じなのかな。
 何かと敵を設定して。
 でもちゃんと味方もいて。

 それは苦しいこと。
 だけどわかり合える人と出会うことでもある。



 わたしはずっと、誰かに否定されるのが怖かった。そうしてビクビク生きてきた。
 でもそんな人たちは声が大きいだけ。その近くにはきっと、いろいろな人がいる。声に出さなくても、みんな違う意見を持っているんだ。
「別にいいんじゃない?」
「そこまで言わなくても」
 そんな気持ちは、あまり声にならない。だって言ってしまうと自分が争いの真ん中に立つことになるから。

 だけど幸田さんは真っすぐに口にした。それが彼女の正義感からなのか、咲季ちゃんとの関係性なのかはわからない。
 でもどんな理由だろうと嬉しい。
 そして、そんな人がひとりいるだけでも、わたしは保健相談室に逃げなくてよかったと思えた。

 ――もちろん、ここに須田くんがいるということがいちばん大きいんだけど。
 彼はいつでもわたしの味方だと、わたしのことが好きなのだと、さっき教えてくれたから。





 五時間目と六時間目の合間、幸田さんはわたしを振り向いてそっと笑った。

「すこしなら声、出るの?」

 小さく訊かれて、ささやき返す。

「うん。や(っぱり聞)こえ(て)た?」
「あ、でも枯れてるね。話したくないわけだ」

 ササッとノートに走り書きした。

〈れんしゅうしてる〉

「そっか。そりゃがんばるよね……病気のままでいたい人とかいないのに、咲季がゴメン」

〈幸田さんが あやまらなくても〉

「あー……あの子とは家が近くてさ。Nコンにこだわってるのとか、見てきたから」

 首をかしげたわたしを見て、幸田さんはちょっと笑った。そして聞き取れないほどの小声になる。

「私らの小学校、公立だけど合唱強くて。Nコン関東大会に連続出場してたの。でもクラブの担当だった先生が転任したら、みるみる成績落ちてね。五年生では数年ぶりの予選落ち。あ、合唱クラブは咲季だけで、私はやってなかったよ」

 たしかにその頃、市内の小学校がNコンの常連だった。全国でもいいところまでいったんじゃなかったかな。咲季ちゃんと幸田さんの母校なのか。
 わたしがうなずくと幸田さんは続けた。

「六年生になった咲季は必死で立て直そうとしたの。でも練習方法とかでもめて……クラブ内ぐちゃぐちゃになったんだ」

 ぐちゃぐちゃ。ずいぶんな言い方だ。

「その時に咲季からイジメられたって訴えた子がいて。それが弱音を吐いちゃあ周りを味方につけるみたいに立ち回る相手でさあ。陽菜ちゃんにキツいのは、そのフラッシュバックじゃないかと。だからゴメン」

 それだけ告げて、幸田さんは前を向いてしまった。すぐに六時間目になるから。

 フラッシュバック。

 気になって咲季ちゃんの方に顔を向けた。咲季ちゃんはわたしと幸田さんのやり取りを見ていたらしい。あわてて目をそらされた。

 当時のことはよくわからない。
 だけど誰かと印象が重なっていたとして、今の咲季ちゃんがイライラしたのはわたしに対してだ。わたしにも何かいけないところがあったかもしれない。
 それはわたしの欠点なのだろう。突きつけられたら悲しくなりそうな気もする。
 でもわたしが前に進むために、わたしの声で歌うために、知らなくちゃならない。そう思った。




「……そんなの気にするなよ」
「で(も)、ね」

 降り出した雨に傘をさし、わたしは須田くんの隣を歩く。
 恋人同士になって初めての帰り道は、サァと空に満ちる小雨に包まれていた。他の人たちから区切られ、世界に二人だけのよう。それが嬉しい。

「ヒナがどうこうじゃなく綾野の問題だろ。昔のその子はヒナじゃないのに、勝手にキリキリされてもさ」
「そう(だけ)ど」

 今日はたくさん話したせいで、のどが疲れてきた。声がガラガラして、ケホ、と咳をする。
 幸田さんから聞いた咲季ちゃんの事情は、ノートにメモして昇降口で見せておいた。でも雨の中だと新しい会話は書けない。

「あんま無理してしゃべらなくていいよ。俺、ヒナと歩いてるだけでもいいんだし」

 心配してくれる須田くんは照れくさそうだ。言われたわたしもニヨニヨしてしまう。
 だけどもうバス停に着いてしまうので、今日はここまで。雨の中で立ち話なんてして風邪をひくのは馬鹿らしい。でも正直いうと、なんだか名残惜しかった。

「……ちょっとだけ歌詞、書いてみた。後でLINEする」

 同じ気持ちなのか須田くんはそんなことを言ってくれた

「昼休み、ほんとはそっちの話するつもりだったんだ。うっかり告白とかするハメになったけど」
「う(っかり)」

 失礼な。ふくれっ面をしてみせて、二人で笑った。

「気合い入れて完成させなきゃ。早くしないとヒナが歌えるようになっちまう」

 だから声は、ゆっくり慣らしてくれてかまわないから。そう気をつかって、須田くんはやって来たバスに乗った。





 家に帰って「ただいま」と言ったら、いつもよりハッキリ出た声にお母さんが大喜びした。心配かけているんだな。
 部屋で着替え、小さく発声練習をする。

「あー、あー」

 小さいけど、声はちゃんと聞こえた。夢じゃないんだ。気持ちが上向いて楽になったおかげだね。ありがとう、須田くん。

「これ、から。だよ」

 そうだ。どんどん戻して、元気にならなくちゃ。
 今のわたしは自分の心だけでせいいっぱい。気にかけてくれている両親にも須田くんにも、学校の先生たちやドラムの山野内先生にも、何も返せていなかった。申し訳ないなと、あらためて思った。
 しっかりしたい。
 須田くんは、わたしのことを「強い」と言ってくれたけど、そんなことないよ。


「弱いのを武器にする」
 そう咲季ちゃんが言ったのは、わたしがわかりやすく体調を崩したり保健相談室にこもったりしちゃうからだろう。そういうの、あざといと思う人もいるのかもしれない。でもそうしないと長期欠席するしかなくなるから……。

「こっちは頑張ってるのに」
 うん、咲季ちゃんは一生懸命だよ。それはわたしも知ってる。ああでも……同じことを求められたら困っちゃうな。咲季ちゃんはわたしが頑張れないから怒ってるのかな。


 考えていたらLINEが鳴った。須田くんだ。

[歌詞みてくれ]
[ヒナがメモってたストーリーラインを参考に
 孤独な僕とヘタレな君の話で作ってる]

 むむ。
 なんか失礼?

[ヘタレで悪かったなー!]

 秒速で返信し、プンプンのスタンプもつけた。
 ゲラゲラ。ごめん。二つのスタンプが戻ってくる。なんか気安くていい。だって今日から恋人なんだもんね。

[Aメロしかないけど
 僕視点で]

 そして送られてきたのは、こんな詞だった。



[誰かと合わせ笑うのが
 当たり前になっていた
 横並びのリズムはみ出すのを
 おそれていた]

[僕だけの空がほしいなんて
 ひとりよがりだ
 誰にも届かない言葉を抱え込んでいた]



 頭にもう染みついているメロディに、その言葉をはめこんでいった。
 くっきりと歌の意味が輝きだす。

[まず僕の状況の提示
 どんなもん?]

 息だけで口ずさんでいたら意見を訊かれた。あ、そっか感動してる場合じゃない。感想を送らなきゃ。

[すごくいいです]

[なぜに丁寧語]

[いえいえ、とても素敵だと思います
 須田先生と呼ばせてください]

 冗談だけど、半分本気だった。だってすごい。わたしが感じていたことを言い当てられた気がした。



 話せなくなったことで、わたしはクラスの輪から外れた。友だちに合わせ笑ったり、一緒に行動したり、そんなことから一歩引いた場所でみんなをながめていた。

 その疎外感。
 同時に感じた自由。

 わたしは否も応もなくそうなったけど、誰だってすこしは周囲に合わせようと頑張っているはずで。
 そうして自分をねじまげることに苦しんでいるかもしれなくて。

 そんな誰かに届く歌になればいい。そう願った。



[続きもこの調子でお願いします]

[編集さんなの!?]

 ダラダラと汗をかいたスタンプが来て笑いこける。

[わたしのことみたい
 聴いた人が元気になれるように
 うたいたい、です]

 いちおう真面目に抱負も述べてみた。しばらくしてややふざけたノリが返ってくる。

[了解
 鋭意続きを執筆します]

[期待しておりまーす]




 LINEがとまってから、わたしはその歌詞を繰り返し読んだ。


✢✢

誰かと合わせ笑うのが当たり前になっていた
横並びのリズムはみ出すのをおそれていた
僕だけの空がほしいなんてひとりよがりだ
誰にも届かない言葉を抱え込んでいた

✢✢


 ため息が出た。

 人と違ってはいけないと怖れ、みんなの意見をうかがう。
 本当は感じていることがあるのに、そんな言葉は押し殺して。

 だからだよ、わたしの声が出なくなったのは。
 わたしがバカだったんだ。


 この歌は、わたしが生きてきたやり方そのまま。
 咲季ちゃんに誘われるまま、初めての人たちの意見を気にして合わせようとしてオドオドして。
 ぜんぜん自分の気持ちを伝えようとせず、病気を言い訳にいきなり逃げる。それを指摘されたらショックを受ける。なんて面倒くさい奴だろう。
 最初から自分はこうだと主張できていれば、人に合わせるばかりじゃなかったはず。そういうところに咲季ちゃんはイライラしたのかもしれない。



 流されて。迎合して。自分の心を自分で殺して。
 間違えていたのはわたし自身だ。



 咲季ちゃんと、きちんと話したい。
 そう思ったわたしはノートとシャーペンを持って咲季ちゃんに突撃しようと決めた。けど。

「……え、何言ってんの」

 翌日朝イチ、昇降口で会うなり宣言したわたしに、須田くんは困惑の顔を向ける。

「苦手だろ? ああいうグイグイくるヤツ」
「(す)ごいと思っ(てる)」

 でも緊張はしているのか、声がかすれた。あわててノートも引っぱり出し併用する。

〈にがてとは ちがう
 気がひけるだけ〉

「いやいや。ほぼヒナのストレスの原因だし。話すなら俺も付きそうよ」
「だ、め」

〈また守られてるって言われる
 わたしひとりで〉

「そうだけどさぁ……」

 不満そうにされたけど、頑張るんだ。
 わたし、自分の気持ちを自分の言葉で伝えられるようになりたい。



 だけど咲季ちゃんはつかまらなかった。授業が終わるとフイと教室を出ていってしまうのだ。
 どんくさいわたしがアタフタしている間に姿を消す咲季ちゃん。お弁当タイムの昼休みならと思ったのに、そこでも逃げられた。この手はわたしもずっと使っていたから文句を言える立場じゃないけど……。
 ガッカリしていたら幸田さんが苦笑いする。

「咲季に言ったの、小学校の時のこと教えたよって。それできまり悪くて避けてるんだろうね。だって八つ当たりみたいじゃない? 陽菜ちゃんはあの時の子とは別人なんだし、いいかげんにしなきゃ」
「そん、な。(わた)しも(悪かっ)たの」

 とっさに答えた言葉はたどたどしい。でも近くにいた人たちが聞きつけて、驚きの声をあげた。

「あれ、陽菜ちゃんの声、治ってきたの?」
「へー良かったじゃない」

 あ。
 つい発してしまった声に注目され、バツの悪さに縮こまる。教室で話したのは二ヶ月ぶりぐらいだ。でもガサついた声を笑われたりはしなかった。

「のど、まだ痛かったりする? あ、返事ムリしないでいいよ」
「元がおとなしかったし、しゃべってなくてもそんなに違和感ないからね」
「たしかに」

 サラリと受け入れてもらえ、わたしはむしろ何も答えられなくなった。
 それでいいの?
 何も言えずに座ってるだけの子がいたら、うっとうしいかと思ってた。おしゃべりに参加できなきゃ友だちではいられないと思ってた。
 わたしがオロオロしていたら、やり取りを聞いた男子が遠くから茶々を入れてくる。須田くんの友だちだ。

「なになに林原しゃべれるんだ? よかったなー、林原の声かわいいもんなー。ってそういうこと言うと須田に怒られるか?」

 いくつかのニヤニヤする視線を向けられた須田くんは、余裕の顔をしてみせた。

「べつにー? 俺そんなに心の狭い彼氏じゃないんで!」
「はあっ!?」

 突然の彼氏宣言に教室がざわつく。いじった友だちのほうが驚いて声を裏返した。

「なんでだよ、違うって言ったの昨日じゃなかったか!?」
「だーかーらー! なんと昨日の午後から、そうなりました!」

 もったいぶって須田くんが言い放つ。
 沸き立つクラスメイトから冷やかしと拍手を浴びせられ、わたしは硬直した。
 助けを求めて泳ぐわたしの視線がなんとか須田くんにたどり着く。へへ、とドヤ顔をされた。またみんなが騒いだ。


 ……あれ。
 このクラスって、こんなに気安い感じだったっけ。ずっと居心地悪く思っていたのは気のせい?
 わたしはぼう然とした。

 なんでだろう。
 もしかして、今までもこう? わたしが勝手になじまずにいただけ?
 だってだって、わたしの話なんてつまらないし、そもそもあまり話せてないし、話題についていけてなかったし。みんなに迷惑かけてるかと。


「そんなわけだから、二人で昼めし食ってくる! 行こうぜヒナ」

 須田くんがお弁当を取り出し、わたしを誘った。その「ヒナ」という呼び方に女子からうらやましげな悲鳴があがる。
 見回しても、わたしに向けられるのは笑顔だけだ。ずっと感じていた疎外感は妄想だったのだろうか。

 わたしは急いでノートとお弁当を抱え、須田くんと教室を出た。





「あー、交際宣言とかしてごめん。なんつーか成りゆきで」
「ううん……」

 わたしは照れつつ首を振った。むしろよかったと思う。自分じゃ絶対に言い出せないもん。お付き合いを隠すつもりはないけど、結果的に隠してるみたいになりそう。


 わたしたちが向かったのは、やや静かな特別教室棟だ。外は雨が降ったりやんだりして濡れている。
 声を失くしてすぐ、泣いてしまったわたしを須田くんが助けてくれた場所は特別教室棟のスロープだった。でも今日は階段で最上階まで行く。屋上の手前なら誰も来ないだろうし。

 ……と思ったのたけど、先客がいた。

「(さ)き、ちゃ」

 階段にひとり座ってお昼ごはんにしていたのは咲季ちゃんだった。
 名前を呼んだわたしと視線が合い、動きをとめる。かじりかけの購買のパンからポロ、と屑が落ちた。

「なによ……」

 わたしと須田くんをにらみ、咲季ちゃんはノロノロ手をおろす。大きく息をし、憎々しげに吐き出された。

「二人でこんなとこ来るなんて、やっぱりつき合ってるじゃない。嘘つき」
「あ、それクラスでも言ってきたんだけど、俺らつき合うことにした。昨日の午後からな。綾野があおったからだぞ。こっちの都合だってあるのに、おまえ無神経にさあ」

 須田くんが言い返すと咲季ちゃんは怪訝な顔をする。

「は……? あの後そうなったってこと?」

 こくこく。
 最近のクセでうなずくだけしたら、嫌な目で見られた。

「陽菜、いちおうしゃべれるって聞いたよ。ハッキリしないのやめて」
「のど使わなくて答えられるならそれでもいいだろ。また潰させたいのか」

 須田くんの反論はちょっと嘘だ。今しゃべりすぎるとのどを痛めそうな気はするけど、元々の症状は心が原因。


 ああでも、わたしってずるいんだろうな。すぐ逃げる。泣いてすまそうとする。そう咲季ちゃんに思われてもしかたない。

 自主的に動くこともできず、咲季ちゃんにくっついてばかりだった。
 そりゃ先頭に立って番組を引っぱる「歌のおねえさん」になんかなれっこないよ。そのくせハッキリそう言われたらショックを受けて話せなくなるなんて。
 合唱部に音さたナシで、須田くんとの曲作りに夢中だったのも本当だ。


「さき、ちゃん。わ(たし)」

 言いかけて、口を開け閉めした。考える。
 咲季ちゃんにブスッとうながされた。

「……なに」
「咲季ちゃ(んみた)いには、(がんば)れなくて。ごめん」

 声は、ところどころかすれる。
 自分の思いを伝えるのは怖いから。

「さ(きちゃ)んの後ろ(に、かく)れてたよね」
「……そんなのべつに。それが陽菜だもん」
「こ(れから)は、がんばる」

 お腹に力を入れて言い切った。すると咲季ちゃんは鼻にしわを寄せる。

「どういうこと。私と部活なんかやれないって?」
「え……じゃな(くて)」
「私が小学校のクラブぶち壊したの聞いたんでしょ? もういいわよ。私さ、陽菜が何も言わない子だから仲良くしてたの。わかる?」

 ……わからない。
 きょとんとするわたしの代わりに須田くんが後ろから口を出した。

「都合のいい手下がいればよかったって?」
「手下って動くでしょ。動かなくていいの。私のやり方に賛成してくれれば。陽菜はなーんにも言わないでウンウン、てするだけだもんね」
「ヒナはそんなんじゃねえよ」
そんなん(・・・・)よ! ずっとそうだった」
「おまえ!」
「やめ(て)」

 前に出ようとする須田くんをとめる。
 ダメだよ。今度は須田くんの後ろに隠れるだけになっちゃう。わたし自身が咲季ちゃんと話さなきゃ。

「(言う)とおりだから」

 本当にそう。
 わたしは咲季ちゃんに守られていた。

「わた(し自分で)考えられ(るよう)になりたい。いろいろ(できな)いの本当なのに、すぐ傷つい(て、ご)めん。だから咲季ちゃ(ん嫌な)ら、わたし合唱部、やめ」
「なんで私に決めさせるのよ!」

 ……あ。
 咲季ちゃんが叫んで、ハッとした。
 そうだよね、わたしのことなのに咲季ちゃん次第にするなんて無責任にもほどがある。

「陽菜はそんななのに私のこと責めるの? ねえ須田くん、これでも私が悪いの? いいかげんにしてくれない?」
「ごめ、ごめん」
「そりゃ私だって悪かったわよ。ひどいこと言ったと思うわよ。だからもう陽菜は自分でちゃんとしてね、私は面倒みないから!」

 咲季ちゃんは食べかけのパンを袋に戻して立ち上がると階段を下り、すれ違う。そしてボソッと言った。

「陽菜がいい子なのぐらい知ってる。でも私、弱音吐いてすぐ他人任せにするのとか無理」

 捨てゼリフを残し、咲季ちゃんはどこかに行ってしまった。教室に戻るのかもしれない。わたしがここにいるなら逃げ回る必要はないもんね。

「……なんだよ、あれ」

 はああ、と須田くんが大きなため息をついた。トントンと数段上に座り込む。ちょっと怒ってる顔だ。

「ううん……わたしがもう、咲季ちゃんの言いなりにならないって認めてくれたんだよね?」
「ポジティブシンキーン」

 あきれ笑いをした須田くんは、何かに気づいたように目を見開いた。

「ヒナ、今めっちゃしゃべれてた」
「……ほんとだ」

 咲季ちゃんと話している時はかすれがちだった私の声。
 張りつめた気持ちがゆるんだとたん、スルスル話せている。なんて正直なの。

「……ヒナ頑張ったな」
「そう、かな」

 本当はひとりで話そうと思ってた。思いがけずに須田くんも居合わせてしまったし、すこし口ぞえしてくれたけど。
 あれでもわたしなりに頑張ったと言っていいのだろうか。思い返すと、ろくにしゃべれなかった気がする。考えていたらもう一度言われた。

「だいじょうぶ、めっちゃ頑張ってたって」

 うなずいたわたしは須田くんの隣に行って座った。お弁当を食べなくちゃ。するといきなり肩をグイッとされる。
 ポテン。
 うわ。うわわわわ!


 真っ赤になってるわたしを片手で胸に抱え、頭をグリグリとなでる須田くんは力強くささやいてくれた。

「だいじょうぶ、ヒナはちょっとずつ羽ばたいてる」



 須田くんに寄りかかりながら、わたしはふるえた。

 羽ばたいて――――。

 わたしはまだ、巣の中のヒナ鳥だ。
 だけどその翼にも、羽は生えてきているだろうか。
 いつかわたしは空へ飛べるだろうか。
 須田くんの音楽を連れて、世界をうたえるだろうか。

 いや、うたいたい。
 うたうんだ。

 そう誓った。




 それからのわたしは忙しかった。
 発声練習。発話練習。
 そして須田くんと一緒に歌詞の完成を目指した。

 学校では須田くんに会うついでのようにしか勉強をしていない。ひどい態度だけど、定期テストはなんとか平均点を勝ち取った。
 そのうちに、梅雨も早めに明けた。



「ねえねえ、曲、夏休み中に完成させられるといいよね」
「録音もか? 本息(ほんいき)出して平気かよ」
「だって、早くうたいたいんだもん――」

 夏休み直前、午前授業で終わった日にわたしたちは並んで校門へ向かっていた。
 日射しがジリジリと暑い。足もとのコンクリートからの照り返しで、あっという間に汗がにじんだ。

 夏休みに入れば須田くんとは、わざわざ約束しないと会えなくなってしまう。それがとても憂うつだった。
 お互いの家でというわけにもいかないし、公園じゃ熱中症になりそうだし、とにかく毎日一緒にはすごせなくなる。

 うたいたい、というのは口実でもあった。
 この曲はわたしたち〈Hina〉と〈Tatu〉をつなぐものだから。同じ教室にいられなくても、心は近くにいる気になれる。

「ヒナが軽く歌っただけでも俺のテンションやばかったからな――あ、すこしアレンジ変えたやつ今度聴かせるから感想よろしく」
「たっくーん!」

 話しながら歩いていたら、門の外から女の子の声に呼ばれてギョッとした。
 見ればどこかの学校の制服を着ていて、大きく手を振っている。

 それはもちろん、アイリちゃんだった。


「愛梨……?」

 須田くんも怪訝そうにつぶやく。どうして高校の前で待ちかまえているんだろう。
 わたしたちが校門を出ると、アイリちゃんは以前のように須田くんの腕にぶらさがろうとして振り払われた。

「たっくんひどぉい! せっかく見つけたのに!」
「ひどくねぇわ! こんなとこで何してんだよ」
「アタシ中三。受験生なので志望校決定のため、通いやすさや在校生の雰囲気を確かめに来ました! たっくんに会えるとは偶然だなぁ」
「出待ちしといて偶然とか言うな」

 文句を言われてもフフンと笑い飛ばすアイリちゃんは、わたしに目を向けた。

「この人、前に教室のビルの近くで会ったっけ? たっくんと同じ高校なんだ」
「……こんにちは。ギター背負ってた子だよね?」

 わたしは余裕を見せて応答する。これでもいちおう先輩だ。身長の関係で見おろされているけど。

「……たっくんと歌うって山野内先生が言ってたの、この人?」
「おまえ丁寧語ぐらい使えないの? ヒナは年上だし、ほぼ初対面だろ」

 須田くんが厳しい顔をした。周りを通る生徒たちの視線と耳が気になるからだろう。わたしたちがコラボ曲を作っているのは内緒だ。

「だって! あたしの方がたっくんとつき合い長いし、先にたっくんを誘ってたのに!」

 ぷう、と頬をふくらませアイリちゃんは言い張る。
 聞きつけたクラスメイト男子が通りすがりにニヤリとしてささやいた。

「ふたまたダメ、絶対」
「うるせえな」

 なぐるフリの須田くんをかわし、笑って逃げていく。アイリちゃんはピクリと眉を上げた。

「たっくん……この人とつき合ってるの」
「そうだけど?」

 須田くんは怒った顔のまま断言した。たぶんちょっと照れてる。
 告げられたアイリちゃんは目を見開き、フルフルしはじめた。くちびるを震わせたと思うと、への字に引き結ぶ。

「ひどい……たっくん、あたしをなんだと思ってたのよぉ!」
「はいぃ!?」

 ベソベソ泣き出したアイリちゃんと大慌ての須田くんを見比べて、わたしはひと言も発することができなかった。
 せっかくのどが回復してきて話せるようになったのに。思ったことを言えない性格は、なかなか変えられないものだ。





 学校の前で泣かれていても困るので、アイリちゃんを引っぱって公園に行った。バス停からすこし住宅地に入ったところにある、わたしが歌を聴かれてしまった公園だ。とにかくベンチに座らせる。
 ここで子どもたちとリズムを刻んで遊んだこともあった。だけど梅雨が明け暑くなった今日は、誰も遊んでいない。

「なんなんだよ愛梨……」

 特大のため息と共に須田くんは苦情を言った。アイリちゃんこそが彼女だ、みたいな言い方をされても心当たりはない。道々そう必死に言い訳された。うんまあ……疑ったりはしないけど。ちょっと微妙な気分ではある。

「なにってあたし、たっくんへの罪ほろぼしに、お嫁さんになってもいいよって言ったことあったじゃないのぉ、忘れた?」
「はあ? 何年前だよ!」

 座って見上げてくるアイリちゃん。立ったままの須田くんは、手の甲でひたいの汗をぬぐった。これ暑いからだけじゃなく、変な汗が混じってると思う。

「だいたい俺あの時、何言ってんだバカって答えただろ!」
「えー? そんなの照れてるだけだと思うじゃない、フツーは」
「おまえの常識は非常識なの!」
「あの……」

 わたしはなんとか口を挟んだ。

「罪ほろぼしって?」
「あ。ええっとさ……」

 口ごもる須田くんだったけど、アイリちゃんは平然と訴える。

「小学生の時! たっくん発表会でミスったことがあって、あたし一緒に組んでたのにフォローできなかったの。たっくん後でボロ泣きしたんだよー」
「うるせえ黙れ!」

 須田くんがビシリと止めた。アイリちゃんは不服そうにしながら口をつぐむ。

 ……それは山野内先生から聞いた事件のことだよね。アイリちゃんに告げ口されなくても実は知ってるんだけど、言わない方がよさそうかな。
 でもそんな時からアイリちゃんとは一緒だったのか。ちょっと嫉妬する。

「ミスは俺の責任だし、愛梨なんか小四のチビだった。フォローできなくて当然だよ。もういい」
「いくない! あたしずっとたっくんとバンド組みたかったのに。なんでいきなり出てきた女なんかに取られなきゃいけないの!」

 プンスカしているアイリちゃんに須田くんは頭を抱える。
 そんなこと言われてもね。わたしも須田くんの音楽が好きだし、ゆずるわけにはいかない。

「ええとアイリちゃん」
「なによ」
「わたしボーカルなんだけど……アイリちゃんギターでしょ。別にかぶらないし」
「あたしギターボーカルできるし! あなたの歌がどれほどのものなのか知らないけど、あたしは」
「いい加減にしろ」

 さえぎる須田くんの声が低くなった。とうとう真剣に怒ったらしい。

「俺はバンド組んで表に出る気はないって言ったろ。今はヒナに歌わせることしか考えてない。ヒナの声は俺の理想なんだ」

 う……わ。
 わたしは一気にホテホテに火照ってしまった。
 どうしよう、「好きだ」と言われた時よりも顔真っ赤だと思う。でも「理想」なんて表現されたらもう耐えられないよ。
 そういえば山野内先生が「等身大の言葉の間に強い言葉を入れると引き立つ」みたいに言ってたっけ。こんなところで突然納得した。

「そん、な……じゃあ、聴かせてみなさいよ!」

 ショックを受けたらしいアイリちゃんは、わたしに向かって叫んだ。

「たっくんがそんなに言うなら聴いてから判断してあげる。どうぞ歌ってみせて?」

 傷ついて青ざめたアイリちゃんに詰め寄られ、わたしの頭は冷えてくる。これは……そうでもしないと納得してもらえなさそう。
 どうすればいい? そんな意味をこめて須田くんに目をやると、真剣に頼まれた。

「……ヒナ。俺らの曲、ここで歌ってくれる?」

 ――ここで。
 わたしたちの歌がはじまった、この場所で。

「あ、もちろん本気出すなよ。まだ怖いから軽くで」
「なに、たっくん。どういうこと」
「ヒナの声、ちょっとワケアリなの。ここでのど潰したら愛梨のこと許さないからな」

 そう言った声色は底冷えしていて、わたしまで血の気が引いた。火照ってる場合じゃないわ、これ。


 でもわたし、うたうよ。須田くんの曲。
 ここで披露できるなんて、すごく嬉しい。


「――だいじょうぶ、抑えめにする。ちょっと発声するね」
「サンキュ。ついでに木陰へ移動しようぜ」

 さっさと藤棚の下へ行くわたしたちにアイリちゃんは難しい顔でついてきた。
 成りゆきとはいえケンカみたいになっちゃったな。こういうのって後で仲直りするのどうすればいいんだろう。ケンカしたことないからわからない。
 ……でもいいか、それはその時で。

 わたしは水をひと口ふくみ、あー、と声を出した。うん、へいき。



 二人で書いた歌詞。何度も口ずさみ、完ぺきに頭に入っている。


 わたしたちのことを歌おう。
 わたしたちみたいに悩んで立ちどまった人たちのために歌おう。
 そう願って書いた曲。


 風が緑をはらむ。
 強い光が空から落ちてくる。
 わたしたちを包む。
 ――世界はもう、音楽そのもの。


「いいよ。かけて」

 わたしの言葉に、須田くんがスマホを鳴らした。軽やかなイントロが流れ出した。



✢✢


誰かと合わせ笑うのが当たり前になっていた
横並びのリズムはみ出すのを おそれていた
僕だけの空がほしいなんて ひとりよがりだ
誰にも届かない言葉を抱え込んでいた

僕の目にうつる君は
雨に濡れうずくまるヒナ鳥
踏み外した枝を悔やむよりも
その透き通る翼を広げて

君に出会った時
世界の辻つまが合った気がした
拒まれた空を望むなら
見つけるんだ 最後まで抗えばいい
叩き落されたって
いつか

降りしきる雨にも傘はないけど
手を伸ばしてもいいと言って
わかったんだよ 君がいることが
僕の世界の答え合わせ



誰のためにもなれないな そうつぶやいても
青い色の正義は風に流されていく
僕だけは違うはずだなんて そんなわけない
世界は続くんだ僕らの歌がなくても

君が教えてくれた
孤独は強さなんかじゃないと
僕の疎外感を見つめ君はさえずる
痛くたって羽ばたけ、空へ

運命なんてつかみに行くもの
僕は探し出したんだ君を
臆病も記憶も憧憬も絶望も 叩き壊した
君が歌う空の音色 僕だけには
いつも

降りそそぐ光はもう君の味方
風は鮮明に空を描いて
わかってたんだ 君と行くことが
僕の世界の答え合わせ


✢✢



 わたしは伸びやかに歌い終えた。
 まったく全力の声ではないけれど、悪くない。のどに頼らず、頭や体も鳴らすことで響きに幅が作れるようになったのは病気のおかげかも。

 じっと聴いていたアイリちゃんは、アウトロが消えても動かなかった。
 須田くんは歌のおかげでコロッと機嫌が良くなっている。スマホをしまい、アイリちゃんに向き直った。

「どうだよ、ヒナの歌。あと俺の曲も」

 ムスッと視線をそらすアイリちゃん。須田くんの無言の圧力に屈し、渋々口を開いた。

「……悪くないんじゃないの」
「素直にいいと言え」
「……ッ! うっさいわね! たっくんのバーカ!!」

 アイリちゃんはそのままプイッと公園から駆け出してしまった。見送った須田くんがフウゥと息を吐く。

「……ふん。ヒナが勝ったな」
「ちょ、その言い方はアイリちゃんかわいそう」
「いーんだよ。まったく無茶苦茶なこと言いやがって……」

 苦笑いして、須田くんは藤棚の向こうに続く空を見やる。

「歌、すごく良かった……あの時この公園でヒナのこと見つけられて、俺、超ラッキー」

 そんなふうに言ってもらえて、わたしこそものすごく幸せ。須田くんの作る音楽に出会えてよかった。
 ……と思っているのに、やっぱりわたしの口はすぐに動かない。
 えーとえーと、となっていたら須田くんはわたしを見て笑い出した。

「ヒナさ、無理してしゃべんなくていいよ、俺の前では。まあ他のやつらには通じないかもしれないけど……」

 いや、だってそんな。

「そのかわり俺の曲、ずっと歌って。歌で伝えてくれればいい」

 それは、もちろんやる。やりたい。
 こくこく、とうなずいてしまったら、もっと笑われた。

「声を出さなかった間に、それクセになっちゃってるし」
「うっ……そう、だね」
「でもあの時はあの時で、会話ノートとか歌詞の参考になったし助かったよなあ」

 それは、まだ実は持ち歩いている。何かの拍子に声が出せなくなるかもという恐怖心はなくならなくて。そんな時のための……お守りみたいなものだ。
 カバンからノートを出してみせると、須田くんはヒョイと取ってめくった。

「これ、ヒナとの大事な記録」

 へへっ、と示されたのは――〈yes〉。

 クラスのみんなに盛り上げられて追い込まれて、「好きだ」と伝えてくれた時のわたしの答え。そんな文字を指でなぞられて、とても恥ずかしくなる。
 ずるいな、須田くんからの言葉はとっくに空気に溶けてしまっているのに。わたしの書いた心はノートにずっと残るんだ。

 だけど、このノートを封印しようとは思わなかった。
 そこには言葉が、心が、記憶が書きとめられている。見ればいつでも、その日のことを思い出せるから。
 記されている良かったこと苦しかったことは、どちらもわたしが歩いた道のり。

 わたしはノートをそっと奪い返した。

「そこだけを抜き出して思い出にひたらないでください」
「へへへ、まあそう。俺がヒナを追っかけて、ヒナが俺の前で泣いてくれたから――俺たちは近づけた。弱音だって悪いもんじゃないよ、きっと」
「そうだといいな。でもわたし、須田くんといると強くなる気がするよ」
「え……俺、負けそう? 格闘技とかやっとかなきゃダメ?」
「ちがうー!」

 こんなくだらない軽口は、ノートには残らない。でも記憶には刻まれていく。それが嬉しい。



 ねえ須田くん。
 できればずっと、あなたの曲をうたわせて。
 あなたの世界をわたしに聴かせて。
 わたしはまだヒナ鳥だけど。


 夏休み、わたしたちの曲を完成させよう。そして投稿してみよう。
 再生数なんてつかないかもしれない。でもカウンターがひとつ回ったら。
 それは誰かにわたしの歌が届いたということ。
 そうしたらわたし、小鳥になれると思う。
 この世界をさえずる小鳥に。



 わたしは須田くんの隣で空を見上げる。
 熱い真夏の風が吹き抜けた。

 世界は明日も続いていく。どこまでも。
 どこまでも。



   了

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