昼休み、須田くんと話したいことはいくらでもあった。でも予鈴が鳴る前に教室に向かう。授業はちゃんと出なくちゃ。

 ああ、わたしニヤけてないかな。
 幸せそうにクラスへ戻ったら何か言われるよ。


 カバンを持って歩くと、昼なのに登校したばかりっぽくて変な感じだった。
 須田くんがカバンを持ち出したのは、お弁当もノートも必要だったから。だけどわたしから聞き出した話の内容によっては、保健相談室行きかもしれないと考えていたそうだ。その可能性も、たしかにあった。

 咲季ちゃんとは、きちんと話さなくちゃいけない。わかってもらえるかどうか自信はないけれど。

 でも予鈴とともに教室に入ろうとしたら、その咲季ちゃんがわめいているのが聞こえた。

「なんで陽菜のことばっか、かばうのよ!」
「かばってるわけじゃないってば……」

 咲季ちゃんと話しているのは幸田さんだった。困った声。名前を出されたわたしは扉の陰で立ちどまる。

「陽菜が弱いのは本人のせいでしょ。そういうの武器にするみたいのなんなの? こっちは頑張ってるのにいちいち傷つかれて、ムカつくんだけど」
「陽菜ちゃんは弱いっていうか、繊細なんだと思う。争いごとが苦手なのは弱さとは違うよ?」

 ――わたしと須田くんが帰ってしまったと思い、朝の話を蒸し返したのだろうか。
 もれ聞こえた部分だけで、幸田さんはわたしのことを公平に分析しようとしてくれたのだと思った。あの人らしいな。

「――ヒナ。どうする? 相談室、行くか」

 須田くんがささやいた。この空気の中に戻るのは……ちょっと勇気がいる。
 それに教室にいる全員が、この言い争いにそれとなく聞き耳を立てているようだった。わたしへの意見がクラスを二分するようなことになっていたらどうしよう。返事に迷う。

「え、と……」
「どうしました、須田さん、林原さん?」

 グズグズするうちに五時間目の日本史の先生が早めに来てしまった。その声で教室にいたみんなの視線がこちらに集まる。
 先生に押されるように中に入ったわたしと、咲季ちゃんの目が合った。プイと顔をそらされた。
 すぐにチャイムが鳴り、授業が始まる。その場では誰も何も言ってこなくて、わたしは黙ったまま席についた。



 いちいち傷つかれてイライラする。

 その言葉が頭を回っていて授業に集中できなかった。
 でも同時に、目の前にある幸田さんの背中が言ってくれる。

 争いが苦手なのは弱さじゃない。



 泣きそうだ。
 つらくて。そして嬉しくて。



 教室はこんなに小さな世界。
 そのたった数十人の中に、わたしを責める人、理解する人、どちらもいる。

 学校の外の社会も同じなのかな。
 何かと敵を設定して。
 でもちゃんと味方もいて。

 それは苦しいこと。
 だけどわかり合える人と出会うことでもある。



 わたしはずっと、誰かに否定されるのが怖かった。そうしてビクビク生きてきた。
 でもそんな人たちは声が大きいだけ。その近くにはきっと、いろいろな人がいる。声に出さなくても、みんな違う意見を持っているんだ。
「別にいいんじゃない?」
「そこまで言わなくても」
 そんな気持ちは、あまり声にならない。だって言ってしまうと自分が争いの真ん中に立つことになるから。

 だけど幸田さんは真っすぐに口にした。それが彼女の正義感からなのか、咲季ちゃんとの関係性なのかはわからない。
 でもどんな理由だろうと嬉しい。
 そして、そんな人がひとりいるだけでも、わたしは保健相談室に逃げなくてよかったと思えた。

 ――もちろん、ここに須田くんがいるということがいちばん大きいんだけど。
 彼はいつでもわたしの味方だと、わたしのことが好きなのだと、さっき教えてくれたから。





 五時間目と六時間目の合間、幸田さんはわたしを振り向いてそっと笑った。

「すこしなら声、出るの?」

 小さく訊かれて、ささやき返す。

「うん。や(っぱり聞)こえ(て)た?」
「あ、でも枯れてるね。話したくないわけだ」

 ササッとノートに走り書きした。

〈れんしゅうしてる〉

「そっか。そりゃがんばるよね……病気のままでいたい人とかいないのに、咲季がゴメン」

〈幸田さんが あやまらなくても〉

「あー……あの子とは家が近くてさ。Nコンにこだわってるのとか、見てきたから」

 首をかしげたわたしを見て、幸田さんはちょっと笑った。そして聞き取れないほどの小声になる。

「私らの小学校、公立だけど合唱強くて。Nコン関東大会に連続出場してたの。でもクラブの担当だった先生が転任したら、みるみる成績落ちてね。五年生では数年ぶりの予選落ち。あ、合唱クラブは咲季だけで、私はやってなかったよ」

 たしかにその頃、市内の小学校がNコンの常連だった。全国でもいいところまでいったんじゃなかったかな。咲季ちゃんと幸田さんの母校なのか。
 わたしがうなずくと幸田さんは続けた。

「六年生になった咲季は必死で立て直そうとしたの。でも練習方法とかでもめて……クラブ内ぐちゃぐちゃになったんだ」

 ぐちゃぐちゃ。ずいぶんな言い方だ。

「その時に咲季からイジメられたって訴えた子がいて。それが弱音を吐いちゃあ周りを味方につけるみたいに立ち回る相手でさあ。陽菜ちゃんにキツいのは、そのフラッシュバックじゃないかと。だからゴメン」

 それだけ告げて、幸田さんは前を向いてしまった。すぐに六時間目になるから。

 フラッシュバック。

 気になって咲季ちゃんの方に顔を向けた。咲季ちゃんはわたしと幸田さんのやり取りを見ていたらしい。あわてて目をそらされた。

 当時のことはよくわからない。
 だけど誰かと印象が重なっていたとして、今の咲季ちゃんがイライラしたのはわたしに対してだ。わたしにも何かいけないところがあったかもしれない。
 それはわたしの欠点なのだろう。突きつけられたら悲しくなりそうな気もする。
 でもわたしが前に進むために、わたしの声で歌うために、知らなくちゃならない。そう思った。




「……そんなの気にするなよ」
「で(も)、ね」

 降り出した雨に傘をさし、わたしは須田くんの隣を歩く。
 恋人同士になって初めての帰り道は、サァと空に満ちる小雨に包まれていた。他の人たちから区切られ、世界に二人だけのよう。それが嬉しい。

「ヒナがどうこうじゃなく綾野の問題だろ。昔のその子はヒナじゃないのに、勝手にキリキリされてもさ」
「そう(だけ)ど」

 今日はたくさん話したせいで、のどが疲れてきた。声がガラガラして、ケホ、と咳をする。
 幸田さんから聞いた咲季ちゃんの事情は、ノートにメモして昇降口で見せておいた。でも雨の中だと新しい会話は書けない。

「あんま無理してしゃべらなくていいよ。俺、ヒナと歩いてるだけでもいいんだし」

 心配してくれる須田くんは照れくさそうだ。言われたわたしもニヨニヨしてしまう。
 だけどもうバス停に着いてしまうので、今日はここまで。雨の中で立ち話なんてして風邪をひくのは馬鹿らしい。でも正直いうと、なんだか名残惜しかった。

「……ちょっとだけ歌詞、書いてみた。後でLINEする」

 同じ気持ちなのか須田くんはそんなことを言ってくれた

「昼休み、ほんとはそっちの話するつもりだったんだ。うっかり告白とかするハメになったけど」
「う(っかり)」

 失礼な。ふくれっ面をしてみせて、二人で笑った。

「気合い入れて完成させなきゃ。早くしないとヒナが歌えるようになっちまう」

 だから声は、ゆっくり慣らしてくれてかまわないから。そう気をつかって、須田くんはやって来たバスに乗った。