なんとか午前中をやりすごし、昼休みになったとたん須田くんがわたしのところに来た。

「ちょっと来て」

 そう言う須田くんは自分のカバンを持っていて、ヒョイと示す。わたしも帰りじたくをしろってこと?

「(え)、どこ(に)」

 思わず、かすれ声で応えた。前の席で幸田さんがピクリとする。聞こえたかな。

「ほら早く」

 急かされて、わたしはとりあえず荷物をまとめた。どうせお弁当はよそで食べようと思っていたし、いいけど。
 二人で出ていくと、後ろからクラスメイトの冷やかしと笑い声とが飛んでくる。その中に咲季ちゃんの「嘘つき」が混ざっているのが聞こえた。



 須田くんは深刻な表情で歩いていった。
 階段をおり、外の渡り廊下へ向かう。ポイントポイントでわたしをチラと見るのは、ついてきているかの確認だ。
 体育館の手前で、須田くんはしれっと脇にそれた。そそくさと建物の裏側に回り込む。壁際の低い段差にカバンを置いて、須田くんはホウッとため息をついた。

「ごめん」

 まず謝られた。
 ぶんぶん。そんなことない。むしろわたしと咲季ちゃんのことに巻き込んだんだから、謝るのはわたしのほう。

「(あ)のね」

 かすれる声でしゃべりながら急いで会話ノートを取り出した。須田くんはそれを見て待ってくれる。二人並んで座った。

〈きのう、さきちゃんに言われたことあって〉

「うん」

〈ぶかつキチンとしないくせに
 彼氏はつくるの カンジわるいって〉

「……なんだよそれ」

〈ちがうって言えてないから
 さきちゃんあんなこと ごめん〉

「いやそれ……は。いいよ」

 困った声で須田くんがつぶやく。

「でも、なんで綾野は今日もあんなにトゲトゲしてるんだ?」

 わたしは手をとめた。
 咲季ちゃんの言い分は、わたしからすると理不尽だ。話したらたぶん須田くんは同調してくれる。

 でもわたし、敵と味方、みたいなの嫌だ。
 綺麗ごとなのはわかってる。
 でもケンカが怖い。他人が争っているのを見るのだって気分よくないのに、自分がするなんて。

「……ヒナ?」

 胸がズキンと痛んだ。
 大切なもののように、そっと呼ばれるわたしの名前。
 この人はわたしのことを、たくさんたくさん考えてくれている。裏切れないと思った。

〈昨日ちょうし悪くなったでしょ〉

「うん……?」

〈さきちゃんに言われたことに
 傷ついたみたいに
 ぐあいわるくして帰るのは
 あてつけだって〉

「……なに言ってんだ、あいつッ!」

 やっぱり須田くんは怒る。

「さっきのって、守ってもらえるようにわざと弱そうにしてるって意味!? 具合悪くなるのは誰だってコントロールできねえだろ! ヒナは弱くなんかない。俺がヒナのこと守りたいのは……弱いからとかじゃないよ」

 しぼり出すような声で、須田くんは顔をゆがめた。

 守りたい。
 ハッキリ言われて驚いた。
 これまでにも「協力する」とは言ってくれたし、いつも助けてくれてすごく嬉しい。だけどそれはわたしが頼りないからじゃないの? じゃあどうして。

 須田くんをのぞきこむわたしは不思議そうにしていたんだと思う。「ニブ」とうめいた須田くんは情けない顔で笑い、でもとてもやわらかくわたしを見た。

「俺、ヒナのこと好きだ。けっこう前から」

 わたしは須田くんのことを、じいっと見つめ返した。言われた言葉をかみくだくのに時間がかかった。


 好き。
 須田くんが。わたしを。


 目をパチパチし、うろたえる。心臓が高鳴りはじめた。そんな。そんなことってある?

「え、驚く? 俺けっこうわかりやすかったと思うんだけど。ぜんぜん隠せてないのにヒナに遠慮ばっかされるから、なかなか言えなくてさあ……」

 須田くんは照れくさそうに下をむく。

「でも周りにこんなん言われたら、告白するしかないよ……あの、ムリならムリって言って? あああ、でもできればコラボ曲はやってくれると嬉しいかな……」

 ゴニョゴニョと続ける須田くんに、わたしはあわてて書いてみせた。

〈yes〉

「……ん? それって」

〈わたしも〉

 好き、と書くのは恥ずかしい。声ならすぐに消えてしまうのに、このノートはずっと残るから。
 ためらっていたら須田くんがわたしを見つめ、泣きそうな顔で笑った。

「……ほんと?」

 こくこく。

「うわ……」

 座ったまま自分の膝に突っ伏し、須田くんが動かなくなった。その耳が赤い。だけどわたしだって、きっと同じだ。

 両想い、なの?
 むしろ驚きでぼんやりしてしまう。

 好きになった人が、わたしのことを好きになってくれる。そんな奇跡みたいなことが本当にあるなんて。

 たしかめたくて、わたしは口に出してみた。

「す、き」
「ぐぅっデレる……あ、声ムリすんなよ」
「うん……あ、れ?」

 これまでよりもしゃべれているような気がする。須田くんもハッとなった。

「ヒナ……」
「わた(し)、ケホッ、ケホッ」

 むずがゆくて咳が出た。でもこれまでの、苦しくて詰まってというものじゃない。呼吸は楽だ。

「おい、だいじょぶか」
「う、ん」

 うなずきながら答えても、なんとか音になった。もしかして、治ってきてる?

「すこ、し。はな、せ、そう」
「うわ、ほんとだ。すげえ」

 のどを押さえ、わたしは深呼吸する。ずっとこわばっていた筋肉が伸び、血がめぐった。気持ちいい。


 ああこれで。
 これで歌えるかもしれない。


「……ゆっくりで、いいからな?」

 気が急くわたしの横で、須田くんは心配そうだ。笑ってうなずいた。

 そうだね。急ぐことなんてない。
 わたしと須田くんは、今はじまったばかりだ。

「まず弁当食べようぜ。あー緊張した。告ったら腹へった」

 うん、賛成。
 カバンにノートをしまい、かわりにお弁当を出した。それからゆっくり、いろいろ話す。

「……俺、去年からずっとヒナのことかわいいと思ってたんだよな。んで、歌を聴いてトドメ……わりと長いこと何も言えないヘタレでごめん」
「ふえ。わ(たし)、歌聴か(れて)、から」
「えーマジ? さっさと勇気出せばよかった」

 ややかすれる声だけど、話せる。
 それだけのことがとてつもなく嬉しかった。
 二人で食べるご飯がすごくおいしい。



 いきなり話せるなんて不思議――とは思わなかった。
 声が戻るのはきっと、須田くんと気持ちが通じたから。

 わたしを見ていてくれる人がいるのは、なんて幸せなんだろう。こんなに満たされることがあるんだ。受けとめてもらえるって、とんでもなく特別な気分。



 想われていたことにまったく気づかなかったのはマヌケだ。
 それはたぶん、わたしの自信のなさのせい。自分が人から好かれることなんてないのだと、無意識に思い込んでいた。

「ヒナってニブいにもほどがあるよな。そりゃ、そーゆーとこもいいんだけど……まったく脈ナシかとビクビクしてた。俺ね、好きでもない子に名前呼ばせてとか言わないから」
「アイ(リ)ちゃ、んは」
「あ、あれは小学生の時からだし……気にする? 嫌ならやめる」

 ぶんぶん。そんなことしなくていいよ。
 わたしと会う前から須田くんは生きていて、その積みかさねで須田くんができている。わたしが好きなのは、今のこの須田くんだ。
 ゆっくりそう伝えたら、笑ってくれた。

「……うん。やっぱりヒナは強いと思う」

 そうかな。よくわからない。
 でも続けて言われたことでお腹の中がポウッとあたたかくなった。


「好きな相手なら、強くても守りたいだろ」


 うん。
 でもね、それは。

 わたしも同じ言葉を返すよ。
 ――わたしだって須田くんのこと、守りたい。