それからは、普通にドラムのレッスンだった。
違う雰囲気の曲もわたしに聴かせなくちゃと山野内先生が言い出して、選んでくれたのはジャズ。
ポップスもロックもジャズもだなんて、先生はなんでも叩くんだと驚いた。
チッチチー、チッチチー、から入るジャズ。須田くんは苦手なんだって。スイング感がわからない、と言う。わたしも聴き慣れないけど、歌えたら格好よさそうだと思った。
レッスン終わり、スタジオから出た山野内先生は、わたしにスマホを振ってみせた。
「LINE交換しよう?」
え、わたし? ただの高校生なんですが、プロのドラマーさんとつながったりしていいのでしょうか。
首をかしげたけど、先生はニコニコと言ってくれた。
「なんか質問あったら相談にのるからね」
そういうことならお願いしたい。須田くんもうなずいているので、わたしもスマホを出し友だち登録させてもらった。先生にあらためて頭を下げ、ビルを出る。
外では小雨が降り出していた。もう梅雨が始まっている。
「林原はバスで帰るんだよな」
こくこく。いつも須田くんが通学に使っている路線バスだ。
「送ってくか……?」
迷ったように訊かれたけど、両手を振ってお断りする。そんなの申し訳ないよ。
「でも暗くなってるし」
「たっくーん!」
突然かわいい声が聞こえたと思うと、須田くんの腕にガシッと抱きつく女の子がいた。二人の傘がぶつかる。
「え!? あ、なんだ愛梨!」
ビクッとした須田くんが腕から引っぺがしたのは、どこかの制服を着た子だ。身長は高いけど、顔を見るかぎりではちょっと年下かもしれない。
アイリと呼ばれたその子はキラキラした目をして、背中にギターを背負っていた。須田くんの音楽仲間……なの?
「何やってんだよ中学生。さっさと帰れ」
「えー? 今年から普通にこの時間にレッスン入れたんだもーん。たっくんだって、たった二コ上のくせに」
というと、この子は同じ音楽教室のギタークラスなのだろう。そして中学三年生。
また腕を組もうとするアイリちゃんを須田くんは振り払った。くちびるをとがらせたアイリちゃんは、わたしを値踏みするように見る。
「たっくん、女の子連れて何してんの」
「いいだろ別に」
須田くんはぶっきらぼうだった。まずいところを見られた、という感じだ。
それはわたしに対して?
それともアイリちゃんに、なのかもしれない。「たっくん」呼びして腕も組むアイリちゃんが、実は須田くんの彼女なのだとしたら――わたしはとんだおジャマ虫の道化者だ。
「(ン、ウン)」
しゃべれないことを呪った。小さな咳ばらいしかできない。
送ったりしなくていいよ。
楽しかった。先生によろしく。
――彼女なの? かわいいね。
言いたいことも言いたくないことも胸に詰まってしまい、わたしの心はどうにもならなくなる。
「林原、あの」
話しかける須田くんに作り笑いで手を振って、わたしはバスターミナルへと走った。
須田くんは、追いかけてこなかった。
雨が強まる中、ドラムレッスンから逃げるように帰宅したわたしはいつもより遅めの夕食をとった。
その間、部屋に置きっぱなしのスマホでLINEが鳴っている気がした。でも食事を中断して見にいくのは怖くて無視する。
須田くんからだったらどうしよう、と思ってしまった。
さっきの子、彼女なんだ。
バレちゃったのに紹介しなくてごめん。
ギターアレンジは彼女にも手伝ってもらってるんだよね。
そんな言葉が送られてきていたら。
想像するだけで胸がさわぎ、ご飯の味がしなかった。
でも食べ終わっておそるおそる確認したLINEは、山野内先生からだった。
[やっほー、初メッセ]
[タツのことよろしく]
[あいつ実は
表舞台に立つの怖いんだと思う
あ、告げ口したの内緒ね]
……え?
先生からのLINEは、そんな暴露から始まっていた。
[タツ、小学生のころの発表会で
曲の途中でまっしろになって
止まったんだ]
[ライブハウスの舞台でタツは
すくんで動けなくなった
でもドラム抜きで演奏すすんだよ
やり直すとかナシ]
[他のメンバーも子どもだから
どうすればいいか誰もわかんなかったんだ
あれはキツかった]
[だけどタツはそれからも
ドラムを好きでいてくれた]
[あいつが曲を作るの
応援してる理由がそれ]
[どんな形でも音楽を
手放さないでいてくれて嬉しい]
[お願いしますヒナちゃん
あいつを世の中に引っ張り出してやって]
そんな言葉と、[お願い]のスタンプ。そこで先生のLINEは止まっていた。
わたしは身じろぎもできずに立ちつくす。
須田くん――そんなことがあったんだ。
子どもバンドでの大失敗。
そういえば言っていた。人の前で演奏するのは得意じゃなくて、発表会は出たけど向いてないって。このことなのか。
だけどドラムはやめられなくて。
音楽は大好きで。
曲を書いてみたいと頑張っている。
須田くんにも苦しい過去があり、それを乗り越えて進もうとしていて――そう知らされ、わたしの心臓は跳ねた。
わたしたちは、同じなのかもしれない。
〈自分が何者なのかわからずに苦しみなやむ
でもすこしずつ前に進む〉
〈だれかと出会い
たすけて たすけられてがんばる〉
ノートに書いたこの言葉は、そのままわたしと須田くんのことだ。
――お願いします。あいつを世の中に引っ張り出して。
先生からの依頼に心がふるえた。
わたしが? そんなことできる?
須田くんの曲を歌うことで、須田くんを助けられるの?
……音楽に寄りそうならアイリちゃんでもいいよね。そう思いついて手足が冷たくなる。
ううん、だけど。
あの曲は〈Hina feat.Tatu〉のものだから。
ギターは任せてもいい。
だけど、あの曲を歌うのはわたしだ。
歌おう。
めいっぱい。
わたしが須田くんの役に立てるなら、いくらでも歌う。助けられてばかりなんて嫌だから。
わたしからも須田くんに、手を差し出さなくちゃいけないんだ。
……なんて大言壮語するなら、まず声を取り戻さなくちゃいけないのはわかってる。
わたし、情けないね。
考えたすえ、わたしは先生のLINEに返信した。
[がんばります]
言えるのは、そんなひと言しかない。
だけどわたしなりに、せいいっぱいの誠意と覚悟をこめ送信ボタンを押した。
その夜は、なんだか眠れなかった。
ドラムの音に圧倒されたのもある。でも歌詞の方向性がみえてきて頭がグルグルしてとまらなくなっていた。それに須田くんの過去を教えられたし――アイリちゃんという女の子にも出会った。
たくさんのことがありすぎて、完全にキャパオーバー。
ああもうダメだ。
起き上がって明かりをつけノートを開く。会話ノートをめくりながら、気持ちのポイントになる言葉を歌詞ノートに転写する作業をした。
〈おこってくれて ありがとう〉
〈前に出られなくて〉
〈もういっかい きく〉
〈音 外に出そう〉
〈だいじょうぶ、て思えなきゃだめ〉
〈自信ない〉
読み返してみると、まだまだわたしたちの会話はすくない。たいしたことが言えていない。もっと須田くんと話したいよ。
須田くんとのLINEも、もう一度見てみる。
[がんばらなきゃダメな自分、ていうのも
情けなくなるよな
俺もたまに、まあまあヘコむ]
[だいじなのは
林原自身がどうなりたいかだと思う]
[歌う人になれればいいって言ってたのは
まだ有効?]
[俺、林原はそうなれると思う
声が戻ったら俺の曲、歌ってよ]
[自信持ってくれ
俺が林原を
歌う人にするから]
そして、わたしの返信。
[ありがとう]
[わたし]
[うたいたい]
心が、風に吹かれたみたいにざわめく。
外は雨なのに、深く青い空を見上げた気がした。
――わたしはどうなりたい。どうしたい。
ううん、もう答えは出ている。
「う(たい)、(た)い」
つぶやいたら、すこし声になった気がした。
眠れないまま歌の流れを考えてみた。
世界が怖くて窓の中からながめているだけの「君」。
ながめるのは「空」だ。じゃあ「君」は「小鳥」。力のない、弱い鳥。
「君」は失敗が怖い。窓を開け、空へ飛ぶことができない。小さな部屋でさえずるだけ。
そのさえずりを聴いたのが「僕」。
窓の外からほめてくれた「僕」に勇気をもらい、「君」は外に出る。小さくはばたき、さえずってみる。
だけど強く大きな鳥たちから笑われて、さえずることをあきらめるんだ。
飛ぶこともさえずることもできない「君」。そして寄りそう「僕」にも実はおそれていることがある。
「僕」のことを理解した「君」は――。
――ここから、どうすればいいだろう。
この歌がわたしと須田くんの物語だとしたら。まだこの続きは決まっていないんだ。
「(はな)そう。須(田)くん(と)」
しゃべってみた言葉はカサカサして聞き取りにくい。
だけどわたしは、わたしの声をあきらめないことにした。ちょっとずつ発声練習を続けていこう。
次の日、やや寝不足で登校したら、なぜか昇降口近くの廊下でウロウロする須田くんを見つけた。わたしに気づいてサッと顔色がかわる。
「はやしば――」
遠くから声をかけようとしてあわてて口をつぐむのは周りを気にしてだろう。立ちどまったわたしのところに、さりげなく寄ってくる。目をそらし気味にしながらボソりと言われた。
「あのさ、愛梨は小学校中学校も同じだったんだけど、ただの後輩だからな。前から一緒に組もうって誘われてて、でも俺はそんな気ないから」
あ。
アイリちゃんのことを教えようとしてくれてたのか。わたしが逃げるみたいに帰ったから気にしたのかな。悪いことしちゃった。でも須田くんの彼女のような振る舞いをされたからびっくりしたんだもん。
そうか、あの子は須田くんをバンドにスカウトしてるんだね。恋人などではないとわかってすごく気持ちが楽になった。
「林原と組んでるってハッキリ言った。あいつ距離感近くて困ってたんだ」
きまり悪そうに須田くんはブツブツ言う。腕組みの言い訳? 彼女でもなんでもないわたしに、そんなのいいのに。
でもそうか、わたしが陰キャっぽいからかも。一緒に音楽をやろうとしてる相手にドン引きされるのはよくないと気をつかってくれたんだろう。
わたしは小さく笑ってうなずいた。何も気にしてないよ、と。そして思いつき声にしてみる。
「いい、よ」
「え、しゃべれんの」
ハッとした須田くんが目をまんまるにした。そんなに反応されると恥ずかしい。
「ちょっ(とずつ)、(がんば)る」
聞き取れたか心配だったけど、須田くんは嬉しそうな笑顔になった。
「すげえ。でも無理すんなよ」
「(きょう)しつ、では。(しゃべら)ない」
「ん。いきなりたくさん話すと普通にのど傷めそうだしな。俺ともノートでかまわないから」
こくこく。
喜んでもらえて、さらにやる気が出た。
須田くんは「じゃな」と先に歩いていった。あまり二人でいると、つき合っているのかとクラスメイトにからかわれそうだから。「そういうの嫌だろ?」と須田くんに申し訳なさそうにされたことがある。
そこで〈いやじゃない〉なんて答えたら告白みたいなものだ。わたしはあいまいに首をかしげるしかできなかった。
音楽活動のことは学校では秘密だった。
わたしの声が戻って曲が完成したとしても内緒にすると決めている。動画の再生数に同級生の興味本位アクセスが混ざるのを避けたいからだ。
初投稿の再生数なんて一桁、よくて二桁になるはず。そんな結果を突きつけられても受けとめなくちゃいけない。そう言われていた。
須田くんは、それだけ本気なんだよね。
わたしだって――その想いに応えられる歌い手になりたい。
そのためには、とりあえず声を戻すこと。それと、歌詞をもっと形にすること。
すこしずつでしかないけれど進まなくちゃ。
ところが教室に向かおうとしたら後ろから呼びとめられる。
「陽菜、おはよ」
咲季ちゃんだった。
振り向いたわたしは笑顔だけであいさつを返した。咲季ちゃんは並んで歩き出す。
最近はわたしが昼休みに教室を抜け出しているのもあって、あまり一緒にいる時間もなくなっていた。避けるみたいなことをして申し訳ない。気を悪くされたかもしれないと思いついた。
「まだしゃべれないの」
つまらなそうに咲季ちゃんは訊いてきた。かすれ声しか出ないのは本当なので、うなずく。
「ふうん……じゃあNコンの頭数には、もういれないからね。ずっと休部だし。どんな状態かぐらい連絡しなよ」
ブスッと文句を言われ、わたしは息をのんだ。そうだよね、わたし曲作りのことばかり考えて、そっちをほったらかしてた。
両手を合わせ、ゴメンとおがむ。廊下じゃノートを出して書けないから。咲季ちゃんは肩をすくめてフンと鼻を鳴らした。
「まあ体調がよくないのはわかってるけどさ……このごろ須田くんと仲いいじゃない。なんかコソコソ会ってるでしょ、図書室とかで。彼氏作るヒマあるのに部活には音さたナシとか、そういうの感じ悪いよ」
吐き捨てて、咲季ちゃんは小走りに行ってしまった。
――感じ悪い。
須田くんのことを誤解されたより何より、その言葉が胸に刺さってわたしは立ちつくした。そんなふうに思われてたんだ。
咲季ちゃんにはお世話になった。合唱部に入部したばかりの時から。いつもたくさん話しかけてくれて嬉しかった。
グイグイ人を引っぱっていける咲季ちゃんにしてみたら、わたしなんかぼんやりしていてイラつくだろうと思ったこともある。でも非難を言葉で明確にぶつけられると――。
「ケホ、ゴホッ」
のどが苦しくなって咳が出た。久しぶりだ。
さっきは須田くんと話せたのに、口を開くのも無理になる。きっとパクパクするだけで、音なんかすこしも出なくなっているはずだ。胸がしめつけられた。
ごめん須田くん。
わたしやっぱり、歌えないかもしれない。
教室に行く前に、持ち歩いていた抗不安薬を久しぶりに飲んだ。リーゼ錠という、お嬢さまみたいな名前の薬。しばらくすると、とても息が楽になる。
午前中はなんとか教室で授業を受けた。でも咲季ちゃんの席のほうは見られない。血の気が引いていたのか、幸田さんが「顔、白いよ」と心配してくれた。力なく笑ってみせ、昼休みまで我慢してから保健室に行った。
「あらあら顔色悪いね。早退する?」
保健の先生が言ってくれたけど、ここに隔離してもらえば平気になるかもしれない。〈相談室にいてもいいですか〉とノートに書いた。
「かまわないけど。貧血っぽいままだったらベッドで寝てもらうことになるからね」
うなずいて相談室にこもった。お弁当を食べるとすこし落ち着いた。
だいじょうぶ、咲季ちゃん一人に否定されても死にはしない。
世界は広くて、わたしには他の居場所があるんだから。
合唱部で歌わないとしても須田くんの曲があるんだ。
……歌詞を書こうかな。まだ昼休みだし。
今日はカバン丸ごと保健室まで持ってきている。このまま教室に戻れなかったら、て考えたから。以前須田くんに持ってきてもらったのは恥ずかしかった。
作詞ノートを開いた。ゆうべメモしたところを見直す。
うん……深夜テンション? これはあまりにわたしと須田くんすぎませんか。
どうしよう「僕」の部分はちょっとアレンジしないと。ううん、「君」もかな。
山野内先生は「等身大でいい」と言っていたけど、意味が違うよね。高校生としての感覚は活かせというだけで、ストーリーはフィクションでいいんだ。
山野内先生。
ほんのすこし会っただけだけど、とてもすてきな人だった。
バンドが売れなくて、でも音楽をあきらめられなくて、食らいついて仕事にしてきた。
だから表舞台に立つのをためらう須田くんが、それでも音楽を捨てないのを喜んでくれる。
自分が間違えた道。できなかったこと。
そんな過去もひっくるめて須田くんに教えようとしている先生は、とても強い。
[お願いしますヒナちゃん
あいつを世の中に引っ張り出してやって]
届いたLINEを思い出す。
どうしてわたしにそんなお願いをするのか不思議だった。
だっていい曲を書けば誰かの耳にとまる可能性はある。ボーカルがいなくたってボカロでもなんでも使って。
PCにひとりで曲を打ち込む須田くんは、ギターのアイリちゃんに誘われても拒否してきた。今はまだ、バンドを組む気にはなれないのだろう。
須田くんの隣に、わたしがいる意味。
それは何?
山野内先生がわたしに求めていることを、しっかり考えなきゃいけない。
須田くんは、わたしの歌を聴いてなんて言ったっけ。
「うまい。声が好き。歌う人だ」
……うん、すごく嬉しい。あの言葉はわたしを救ってくれた。
「聴いたあと、いい感じの曲が書けた。ボーカルのイメージは林原」
……照れちゃう。でもそれは、須田くんがわたしを必要とする理由になるかもしれないと思った。
ひとりで音楽を作り続けていた須田くん。先生に相談できたにしても、孤独な作業だったろう。
そんな時にわたしの声を偶然耳にする。
同じドラムではなく、ギターのような楽器ですらなく、「歌」――わたしが何かしらのインスピレーションになったのだとしたら。こんなに嬉しいことはないよね。
そうか。わたしたちの曲は――弱虫の「君」と孤独な「僕」が、ふたりなら空へも行けると気づく歌なのかもしれない。
苦しい過去も糧として。
決して夢を手放さないで。
山野内先生がそうだったように。
須田くんが努力しているように。
そしてわたしが、そうありたいと願うように。
わたしは夢中でノートに言葉を書き散らした。
思いついた文章は、これまで須田くんに言われたこと。そして山野内先生が伝えてくれたこと。あとはわたしがグジグジ悩んできたことでできていた。
それはまだ、単語や短いフレーズでしかなかない。
紙の上に転がる脈絡のない記憶たち。
だけどひとつひとつをながめれば、須田くんとの思い出としてクッキリよみがえる。わたしの心をあざやかに彩る。
これはわたしの宝物だ。
わたしは五時間目が始まっても勉強そっちのけでノートに向き合っていた。気がついたらチャイムが鳴って授業時間が終わっていたぐらいには集中していた。
呼吸も普通に戻ったし、顔を出した保健の先生に「すっかり顔色いいわ」とびっくりされた。好きなことができるって健康にいいんだね。
勉強をサボっていたのはちょっと気まずい。開いてもいなかった教科書をそそくさとカバンにしまったら、ちょうどLINEが鳴った。休み時間だし、確認してみる。
――須田くんだった。
[早退?]
わたしがいなくなって、カバンもなかったから心配になったのだろう。あわてて返信する。
[保健相談室
ちょっと調子悪かったけど、もう平気]
すぐ既読になり、[よかった]のスタンプが来る。[ありがとう]スタンプを返した。
何も言わないで行動するの、よくないよね……でもほら、声が出ないから言えないんだもん。ってこの自虐ネタも使い古してきちゃったな。
スマホをしまおうとすると、また鳴った。
[普通に帰るなら
バス停の近くで話そう]
住宅街の街路樹の下が、校外でのわたしと須田くんの指定席だ。公園だとまた子どもが寄って来そうだからそうしている。
雨もやんでいるみたいだし、今書いたノートも見てもらいたい。わたしは[OK]のスタンプでこたえた。
「よかった、ほんとに元気そうだ」
待ち合わせた須田くんは、わたしを見るなりへニャ、と笑った。
「午前中ずっと顔色悪かったから。俺、なんかマズいこと言ったかと」
それでLINEをくれたのか。そんなことないよ、とブンブン首を振る。
「だって朝イチは普通だったろ。なのに教室来たら倒れそうな顔でさ。どうしようかと思ってチラチラ見てた」
えええ。
見られてたの? 気づかなかった……あ、須田くんの席が咲季ちゃんに近いからか。そっちを向かないように意識してた。
「俺さ、あの……いや」
須田くんはモゾモゾし落ち着かない様子だった。水たまりを傘の先でかきまわす。
「ええと林原、何かあった? 昨日わざわざドラムに来させちゃったし。疲れさせて悪かったと思ってるけど」
ちゃんと答えなきゃと思って、わたしはノートを引っぱり出した。会話用の。
書いていく文字を須田くんがそっとのぞき込む。
〈部活のこと ちゃんと連らくしなよ、て
さきちゃんに言われた〉
「綾野に? ……それだけ?」
拍子抜けしたように言われたけど、どうしよう。「感じ悪い」の発言は教えてはいけないと思った。
須田くんはまた怒ってくれるだろうけど、咲季ちゃんの印象をあまり悪くするのもよくない。クラスメイトなんだから。
〈わたしダメだなって おちこんだ〉
「そんなことないって言ってるだろ」
須田くんの笑顔はとてもやさしい。包むようなまなざしって、きっとこういうの。
「ドラムの先生から後でLINE来た。しっかりした子だなって。自信持てよ」
こくこく。わたしにも来たけど、それは内緒だ。
〈先生すごくいい人〉
「そう、俺が話せる中でいちばん楽しい大人。ニートあがりだけどさ」
軽口を言える間柄なんだね。そんな大好きな先生に紹介してくれて嬉しかった。
そうだ山野内先生は、歌詞を考えるヒントにもなったんだ。ごそごそとそっちのノートも取り出す。
「なになに?」
開いたのは、さっき授業時間中に書きなぐったページだ。そのすみに書き足す。
〈かし 考えてた〉
「おお……」
須田くんが真面目な顔で横からのぞき込む。
〈やまのうち先生の言ったこと すごく参考になった〉
ノートにポツポツと散りばめられた言葉は、わたしたちや先生のもの。
空 とうめいな風 光が目を刺す だれかに届く言葉 青春 才能
さいごまでやってた人が勝ち 前に 外へ とびあがる 置いていかれる
くやしさ 望み ひとりでは何も あこがれ できない 友だち
そがいかん いっしょにいられない いたくない ゆめ 消えてしまう
いきができない こどく せいぎかん うたいたい ふたりなら
きみとぼく 会えたから あらがって 世界に こばんできたけど
手放さないで わたしの居場所 ためらっちゃいけない どうありたいのか
「……すごい。なんか最近考えてたことの要約みたいだな。まだ単語だけど」
にらむようにノートを見ながら須田くんは考え込む。
そのままヒョイと前のページをめくられ、わたしは息だけで悲鳴をあげた。それは夜中に書いていたボツなストーリーです!
「こっちは要素じゃなくて流れか……ん? なに?」
〈これはちょっと しんやテンション〉
世界が怖くて窓から世界をながめている「小鳥な君」うんぬんだもん。
「ああ、ポエムってこと? いや歌詞なんてさ、それぐらいのノリと覚悟で書かなきゃダメなんじゃないかなあ。参考になる――あと、この〈小鳥〉ってのいいな」
うん?
どういうことか首をかしげたら、須田くんはわたしを指差した。
「おまえ、ヒナだから。歌の中でヒナ鳥が小鳥に育って飛び立つとか〈Hina feat.Tatu〉のファースト曲としてピッタリな気がする」
おおお。大きくうなずく。
そっか、わたし〈Hina〉だった。漢字で陽菜ってすると鳥な感じないけど、音はそうだよね。ローマ字表記だとそんな意味も乗せられる。
「あれ、でもこのストーリーだとチグハグな感じが……なんでだ?」
須田くんはわたしの深夜ノートを真剣に読み始めた。とっても居心地が悪い。
いいかげん耐えがたくなったところで、「あ」と須田くんは納得の声をあげた。
「これ視点が林原に寄ってるんだよ。なのに最初に出る小鳥の側が「君」って表現されてて。「僕」から見た物語で始まるほうがわかりやすいかな」
……うわ。
わたしはノートをまじまじと読み直し、その指摘に赤面した。そうか、二人称の「君」が主人公のわけないじゃない! 特におかしい文章はここだ。〈窓の外からほめてくれた「僕」〉。視点がチグハグって須田くん国語センスあるなあ。
「先生が〈君〉と〈僕〉の物語って言ったから、まんまやってみたんだろ? 〈僕〉がいるなら林原は〈君〉になるだろうし――どうしようこれ、使えそうな気がしてしょうがないんだけど。〈僕〉視点で俺が書き換えてみてもいい?」
かきかえ?
「こっちのページの言葉とか取り入れて。なんか見えてきた気がするんだ。歌詞ってさ、どこから手をつければいいのか俺にはわからなかったんだけど。このノートで全体像がぼんやりつかめたと思う」
須田くんはスマホを取り出し、ノートに書かれた文字を写真に撮りはじめた。ノートそのものを借りていくのは悪いから、だそうだ。
撮り終えた須田くんはなんだか自信ありげな顔でノートを返してくれる。真っすぐにわたしを見る目が興奮に輝いていた。
「すげえ助かった。たぶん俺だけじゃ歌詞なんかできなかったし……さすがヒナ」
ヒナ。
名前を呼ばれ、ドキンとする。
これはアーティスト名としての〈Hina〉のことだとわかっているのに嬉しくて耳が赤くなった。でも髪に隠れているからバレないバレない!
「あのさ……これからヒナって呼んでいい?」
追い打ちのような提案に、顔まで赤くなってしまった。これはさすがに見えてるでしょ。でもわたしはうなずく。
「おっけ? やった。じゃあ俺のことは……」
ほれほれ、とうながすみたいに期待の視線を寄越される。
え、それは……〈タツ〉にしてってことですか?
〈須田くん、でおねがいします〉
「ええー!?」
ずっこけられたけど、なんかね。わたしの中では須田くんなんだもん。それか、龍仁くん。「たっくん」ではないなと思ってしまうのは、我ながらちょっと心がせまい。
「ま、しょうがないか――なあ今、声、出る?」
苦笑いした須田くんは、唐突な質問をした。
声。
朝、なるべく発声を練習すると宣言したのだから、しゃべらなきゃいけない。でもその後すぐにのどを詰まらせてしまったので声を出すのがこわくなっていた。
「出せそうなら、俺のこと呼んでみて」
名前を呼んで。そんな注文に、わたしは戸惑う。
でも大事な人の名前だから――。
「(す)だ(く)ん」
かすれてはいたけど、なんとか出た。
呼ばれた本人は照れくさそうに笑う。だからもう一度、わたしはがんばった。
「す、だ、くん」
一音ずつ。大切に。言えた?
「ちゃんと聞こえた! ありがとうヒナ!」
跳び上がりそうになって喜んでくれて、わたしはホッとする。それを見つめた須田くんは――。
「ヒナ、俺……! えっと。いや、なんでもない。また明日な!」
クルリと走っていく須田くんを見送り、わたしは不思議とふわふわした気分だった。
次の朝、わたしはちょっと寝坊した。前夜が寝不足だったこととか「ヒナ」呼びされた興奮とか、いろいろのせい。それでゆっくりめに教室に入ったら、まだ須田くんも来ていなかった。
だけどわたしを見るなり、咲季ちゃんが冷たい目をした。
「なんだ来るの? 昨日は途中で帰ったくせに」
びっくりして立ちすくむ。
咲季ちゃんの机の周りには、四月にわたしも混ざってお弁当を食べていた人たちがいた。咲季ちゃん含め、四人。その中で幸田さんはため息まじりだった。
「だから体調悪けりゃ帰るし、ちゃんと寝て治れば来るのよ。それだけでしょ」
「私ちょっと注意しただけなんだよ? なのに当てつけるみたいに貧血起こすとか、おかしくない?」
「ほんとに顔色白かったって言ったじゃないの」
扉のところで突っ立っているわたしと、不機嫌な咲季ちゃん。教室のあちこちから様子をうかがう視線が飛んできた。
咲季ちゃんは何を言ってるんだろう。
昨日のこと? 合唱部への連絡をしていないのは本当だから、身ぶりで謝ったよね。
でも須田くんを彼氏だと思われてるのは誤解だ。そうなったら嬉しいけど。
それに「感じ悪い」と言われたのがショックで具合が悪くなったのは仕方ないことだ。午後の授業で教室に戻らなかったのは咲季ちゃんへの当てつけなんかじゃない。わたしの心が弱いせいだけど、抗不安薬が効くということは逆に、実際に症状が出ていた証明でもあるし。
だいたいわたし、昨日は早退してないよ。保健相談室にいても全日出席扱いになっているはず。勝手に帰ったことにされてしまいモヤモヤした。
一瞬で、咲季ちゃんに対してたくさんのことを考えた。
でもわたしはしゃべれない。頭の中で反論しても咲季ちゃんには伝わらないんだ。もどかしさでカッと体が熱くなった。
「おはよー。あれヒ……どうした?」
遅刻ギリギリ、わたしの後ろから教室に駆け込んできたのは須田くんだった。ヒナ、と呼ぶのはみんなの前だから自粛したらしい。
ただ空気がピリついているのは感じたみたいだ。変なところで立ちどまったままのわたしの視線の先にいるのは咲季ちゃん。昨日の不調の原因は彼女だと、須田くんは知っている。
「あら彼氏登場。いいよね、か弱い女の子はいつも守ってもらえて」
咲季ちゃんが吐き捨てた言葉にクラスがざわつき、須田くんも表情を変えた。チラリとわたしを見る。戸惑い黙ったままのわたしは――そもそも話せない役立たず。須田くんは、代わりに口を開いた。
「なに言ってんだよ。俺ら、つき合ってねーし」
「うっそ、このごろいつも一緒じゃない」
「それは……!」
クラスメイトには内緒の音楽作り。須田くんがドラマーなことも、高校ではわたし以外知らない。
言い返せなくなった須田くんのため、わたしはとっさに黒板に駆け寄った。
学外の活動なの
チョークでそう書いた。
「はあ?」
咲季ちゃんは馬鹿にしたように笑う。
まあそうだよね、内容がわからなきゃ納得できない。でもこれ以上はどこまでバラしていいか迷った。須田くんと相談しないと。
頭の上のスピーカーから始業のチャイムが降ってきた。でもわたしたちの成りゆきを見守るクラスメイトは動かない。そのうちに廊下を行き交っていたザワザワが静まり、担任の先生が入ってきてしまった。
「ん? どうした林原、学外がなんだ?」
読まれてしまい、あわてて字を消す。ペコリとして席につこうとしたら須田くんが立ちふさがった。
「……保健室行かなくて平気か」
小声で訊かれた。
そう、だね。咲季ちゃんにひどいこと言われたんだった。
でもなんだかだいじょうぶ。須田くんが味方してくれたし――ここに須田くんをひとりで残していくのは嫌だ。
だいじょうぶだと小さくうなずき、わたしは机に向かう。
「……言い訳ばっかして、フツーに仲良しじゃない」
咲季ちゃんが嫌みっぽくつぶやくのが聞こえた。
たしかに教室の居心地はよくなかった。須田くんが心配したとおりだ。
誰も話しかけてこないのは、どうせわたしがしゃべれないとわかっているからだろう。最近はノートに書いて答えるのもせず、表情だけですませることも多いし。
だって、それって楽だ。
教室での会話は、スルーしてみるとほとんど意味のないものばかり。
ろくに興味のないことに感心したり笑ったり、そうしないと一緒にいられない友だちってなんだろうか。
授業中、あちこちから視線を感じた。休み時間にはヒソヒソと何か言われている気もした。
咲季ちゃんグループの仲間割れだと思われているのかな。ううん、お情けでくっついていた金魚のフンが切り捨てられた、ぐらいかも。わたしなんてそんな立場。
でもたいへんなのは須田くんだった。ちゃんと話せるんだからクラスメイトは遠慮してくれない。
「……なんだよ須田、いつからつき合ってんの?」
「隠すことないじゃないかよー」
「林原って去年も同クラだっけ」
そんなことを言われているのがわたしのところまで聞こえる。須田くんはムスッと「そういうんじゃない」とだけ言い、黙秘していた。
そういう――彼氏彼女、てこと。
うん。わたしたちはそんな関係ではない。
ただの音楽コラボ〈Hina〉と〈Tatu〉。
でもわたしは須田くんが好きなんだ。
カレカノになれたらなと、あこがれる。
――だから黙りこくっている須田くんの横顔に、わたしは勝手に傷ついた。
なんとか午前中をやりすごし、昼休みになったとたん須田くんがわたしのところに来た。
「ちょっと来て」
そう言う須田くんは自分のカバンを持っていて、ヒョイと示す。わたしも帰りじたくをしろってこと?
「(え)、どこ(に)」
思わず、かすれ声で応えた。前の席で幸田さんがピクリとする。聞こえたかな。
「ほら早く」
急かされて、わたしはとりあえず荷物をまとめた。どうせお弁当はよそで食べようと思っていたし、いいけど。
二人で出ていくと、後ろからクラスメイトの冷やかしと笑い声とが飛んでくる。その中に咲季ちゃんの「嘘つき」が混ざっているのが聞こえた。
須田くんは深刻な表情で歩いていった。
階段をおり、外の渡り廊下へ向かう。ポイントポイントでわたしをチラと見るのは、ついてきているかの確認だ。
体育館の手前で、須田くんはしれっと脇にそれた。そそくさと建物の裏側に回り込む。壁際の低い段差にカバンを置いて、須田くんはホウッとため息をついた。
「ごめん」
まず謝られた。
ぶんぶん。そんなことない。むしろわたしと咲季ちゃんのことに巻き込んだんだから、謝るのはわたしのほう。
「(あ)のね」
かすれる声でしゃべりながら急いで会話ノートを取り出した。須田くんはそれを見て待ってくれる。二人並んで座った。
〈きのう、さきちゃんに言われたことあって〉
「うん」
〈ぶかつキチンとしないくせに
彼氏はつくるの カンジわるいって〉
「……なんだよそれ」
〈ちがうって言えてないから
さきちゃんあんなこと ごめん〉
「いやそれ……は。いいよ」
困った声で須田くんがつぶやく。
「でも、なんで綾野は今日もあんなにトゲトゲしてるんだ?」
わたしは手をとめた。
咲季ちゃんの言い分は、わたしからすると理不尽だ。話したらたぶん須田くんは同調してくれる。
でもわたし、敵と味方、みたいなの嫌だ。
綺麗ごとなのはわかってる。
でもケンカが怖い。他人が争っているのを見るのだって気分よくないのに、自分がするなんて。
「……ヒナ?」
胸がズキンと痛んだ。
大切なもののように、そっと呼ばれるわたしの名前。
この人はわたしのことを、たくさんたくさん考えてくれている。裏切れないと思った。
〈昨日ちょうし悪くなったでしょ〉
「うん……?」
〈さきちゃんに言われたことに
傷ついたみたいに
ぐあいわるくして帰るのは
あてつけだって〉
「……なに言ってんだ、あいつッ!」
やっぱり須田くんは怒る。
「さっきのって、守ってもらえるようにわざと弱そうにしてるって意味!? 具合悪くなるのは誰だってコントロールできねえだろ! ヒナは弱くなんかない。俺がヒナのこと守りたいのは……弱いからとかじゃないよ」
しぼり出すような声で、須田くんは顔をゆがめた。
守りたい。
ハッキリ言われて驚いた。
これまでにも「協力する」とは言ってくれたし、いつも助けてくれてすごく嬉しい。だけどそれはわたしが頼りないからじゃないの? じゃあどうして。
須田くんをのぞきこむわたしは不思議そうにしていたんだと思う。「ニブ」とうめいた須田くんは情けない顔で笑い、でもとてもやわらかくわたしを見た。
「俺、ヒナのこと好きだ。けっこう前から」
わたしは須田くんのことを、じいっと見つめ返した。言われた言葉をかみくだくのに時間がかかった。
好き。
須田くんが。わたしを。
目をパチパチし、うろたえる。心臓が高鳴りはじめた。そんな。そんなことってある?
「え、驚く? 俺けっこうわかりやすかったと思うんだけど。ぜんぜん隠せてないのにヒナに遠慮ばっかされるから、なかなか言えなくてさあ……」
須田くんは照れくさそうに下をむく。
「でも周りにこんなん言われたら、告白するしかないよ……あの、ムリならムリって言って? あああ、でもできればコラボ曲はやってくれると嬉しいかな……」
ゴニョゴニョと続ける須田くんに、わたしはあわてて書いてみせた。
〈yes〉
「……ん? それって」
〈わたしも〉
好き、と書くのは恥ずかしい。声ならすぐに消えてしまうのに、このノートはずっと残るから。
ためらっていたら須田くんがわたしを見つめ、泣きそうな顔で笑った。
「……ほんと?」
こくこく。
「うわ……」
座ったまま自分の膝に突っ伏し、須田くんが動かなくなった。その耳が赤い。だけどわたしだって、きっと同じだ。
両想い、なの?
むしろ驚きでぼんやりしてしまう。
好きになった人が、わたしのことを好きになってくれる。そんな奇跡みたいなことが本当にあるなんて。
たしかめたくて、わたしは口に出してみた。
「す、き」
「ぐぅっデレる……あ、声ムリすんなよ」
「うん……あ、れ?」
これまでよりもしゃべれているような気がする。須田くんもハッとなった。
「ヒナ……」
「わた(し)、ケホッ、ケホッ」
むずがゆくて咳が出た。でもこれまでの、苦しくて詰まってというものじゃない。呼吸は楽だ。
「おい、だいじょぶか」
「う、ん」
うなずきながら答えても、なんとか音になった。もしかして、治ってきてる?
「すこ、し。はな、せ、そう」
「うわ、ほんとだ。すげえ」
のどを押さえ、わたしは深呼吸する。ずっとこわばっていた筋肉が伸び、血がめぐった。気持ちいい。
ああこれで。
これで歌えるかもしれない。
「……ゆっくりで、いいからな?」
気が急くわたしの横で、須田くんは心配そうだ。笑ってうなずいた。
そうだね。急ぐことなんてない。
わたしと須田くんは、今はじまったばかりだ。
「まず弁当食べようぜ。あー緊張した。告ったら腹へった」
うん、賛成。
カバンにノートをしまい、かわりにお弁当を出した。それからゆっくり、いろいろ話す。
「……俺、去年からずっとヒナのことかわいいと思ってたんだよな。んで、歌を聴いてトドメ……わりと長いこと何も言えないヘタレでごめん」
「ふえ。わ(たし)、歌聴か(れて)、から」
「えーマジ? さっさと勇気出せばよかった」
ややかすれる声だけど、話せる。
それだけのことがとてつもなく嬉しかった。
二人で食べるご飯がすごくおいしい。
いきなり話せるなんて不思議――とは思わなかった。
声が戻るのはきっと、須田くんと気持ちが通じたから。
わたしを見ていてくれる人がいるのは、なんて幸せなんだろう。こんなに満たされることがあるんだ。受けとめてもらえるって、とんでもなく特別な気分。
想われていたことにまったく気づかなかったのはマヌケだ。
それはたぶん、わたしの自信のなさのせい。自分が人から好かれることなんてないのだと、無意識に思い込んでいた。
「ヒナってニブいにもほどがあるよな。そりゃ、そーゆーとこもいいんだけど……まったく脈ナシかとビクビクしてた。俺ね、好きでもない子に名前呼ばせてとか言わないから」
「アイ(リ)ちゃ、んは」
「あ、あれは小学生の時からだし……気にする? 嫌ならやめる」
ぶんぶん。そんなことしなくていいよ。
わたしと会う前から須田くんは生きていて、その積みかさねで須田くんができている。わたしが好きなのは、今のこの須田くんだ。
ゆっくりそう伝えたら、笑ってくれた。
「……うん。やっぱりヒナは強いと思う」
そうかな。よくわからない。
でも続けて言われたことでお腹の中がポウッとあたたかくなった。
「好きな相手なら、強くても守りたいだろ」
うん。
でもね、それは。
わたしも同じ言葉を返すよ。
――わたしだって須田くんのこと、守りたい。
昼休み、須田くんと話したいことはいくらでもあった。でも予鈴が鳴る前に教室に向かう。授業はちゃんと出なくちゃ。
ああ、わたしニヤけてないかな。
幸せそうにクラスへ戻ったら何か言われるよ。
カバンを持って歩くと、昼なのに登校したばかりっぽくて変な感じだった。
須田くんがカバンを持ち出したのは、お弁当もノートも必要だったから。だけどわたしから聞き出した話の内容によっては、保健相談室行きかもしれないと考えていたそうだ。その可能性も、たしかにあった。
咲季ちゃんとは、きちんと話さなくちゃいけない。わかってもらえるかどうか自信はないけれど。
でも予鈴とともに教室に入ろうとしたら、その咲季ちゃんがわめいているのが聞こえた。
「なんで陽菜のことばっか、かばうのよ!」
「かばってるわけじゃないってば……」
咲季ちゃんと話しているのは幸田さんだった。困った声。名前を出されたわたしは扉の陰で立ちどまる。
「陽菜が弱いのは本人のせいでしょ。そういうの武器にするみたいのなんなの? こっちは頑張ってるのにいちいち傷つかれて、ムカつくんだけど」
「陽菜ちゃんは弱いっていうか、繊細なんだと思う。争いごとが苦手なのは弱さとは違うよ?」
――わたしと須田くんが帰ってしまったと思い、朝の話を蒸し返したのだろうか。
もれ聞こえた部分だけで、幸田さんはわたしのことを公平に分析しようとしてくれたのだと思った。あの人らしいな。
「――ヒナ。どうする? 相談室、行くか」
須田くんがささやいた。この空気の中に戻るのは……ちょっと勇気がいる。
それに教室にいる全員が、この言い争いにそれとなく聞き耳を立てているようだった。わたしへの意見がクラスを二分するようなことになっていたらどうしよう。返事に迷う。
「え、と……」
「どうしました、須田さん、林原さん?」
グズグズするうちに五時間目の日本史の先生が早めに来てしまった。その声で教室にいたみんなの視線がこちらに集まる。
先生に押されるように中に入ったわたしと、咲季ちゃんの目が合った。プイと顔をそらされた。
すぐにチャイムが鳴り、授業が始まる。その場では誰も何も言ってこなくて、わたしは黙ったまま席についた。
いちいち傷つかれてイライラする。
その言葉が頭を回っていて授業に集中できなかった。
でも同時に、目の前にある幸田さんの背中が言ってくれる。
争いが苦手なのは弱さじゃない。
泣きそうだ。
つらくて。そして嬉しくて。
教室はこんなに小さな世界。
そのたった数十人の中に、わたしを責める人、理解する人、どちらもいる。
学校の外の社会も同じなのかな。
何かと敵を設定して。
でもちゃんと味方もいて。
それは苦しいこと。
だけどわかり合える人と出会うことでもある。
わたしはずっと、誰かに否定されるのが怖かった。そうしてビクビク生きてきた。
でもそんな人たちは声が大きいだけ。その近くにはきっと、いろいろな人がいる。声に出さなくても、みんな違う意見を持っているんだ。
「別にいいんじゃない?」
「そこまで言わなくても」
そんな気持ちは、あまり声にならない。だって言ってしまうと自分が争いの真ん中に立つことになるから。
だけど幸田さんは真っすぐに口にした。それが彼女の正義感からなのか、咲季ちゃんとの関係性なのかはわからない。
でもどんな理由だろうと嬉しい。
そして、そんな人がひとりいるだけでも、わたしは保健相談室に逃げなくてよかったと思えた。
――もちろん、ここに須田くんがいるということがいちばん大きいんだけど。
彼はいつでもわたしの味方だと、わたしのことが好きなのだと、さっき教えてくれたから。
五時間目と六時間目の合間、幸田さんはわたしを振り向いてそっと笑った。
「すこしなら声、出るの?」
小さく訊かれて、ささやき返す。
「うん。や(っぱり聞)こえ(て)た?」
「あ、でも枯れてるね。話したくないわけだ」
ササッとノートに走り書きした。
〈れんしゅうしてる〉
「そっか。そりゃがんばるよね……病気のままでいたい人とかいないのに、咲季がゴメン」
〈幸田さんが あやまらなくても〉
「あー……あの子とは家が近くてさ。Nコンにこだわってるのとか、見てきたから」
首をかしげたわたしを見て、幸田さんはちょっと笑った。そして聞き取れないほどの小声になる。
「私らの小学校、公立だけど合唱強くて。Nコン関東大会に連続出場してたの。でもクラブの担当だった先生が転任したら、みるみる成績落ちてね。五年生では数年ぶりの予選落ち。あ、合唱クラブは咲季だけで、私はやってなかったよ」
たしかにその頃、市内の小学校がNコンの常連だった。全国でもいいところまでいったんじゃなかったかな。咲季ちゃんと幸田さんの母校なのか。
わたしがうなずくと幸田さんは続けた。
「六年生になった咲季は必死で立て直そうとしたの。でも練習方法とかでもめて……クラブ内ぐちゃぐちゃになったんだ」
ぐちゃぐちゃ。ずいぶんな言い方だ。
「その時に咲季からイジメられたって訴えた子がいて。それが弱音を吐いちゃあ周りを味方につけるみたいに立ち回る相手でさあ。陽菜ちゃんにキツいのは、そのフラッシュバックじゃないかと。だからゴメン」
それだけ告げて、幸田さんは前を向いてしまった。すぐに六時間目になるから。
フラッシュバック。
気になって咲季ちゃんの方に顔を向けた。咲季ちゃんはわたしと幸田さんのやり取りを見ていたらしい。あわてて目をそらされた。
当時のことはよくわからない。
だけど誰かと印象が重なっていたとして、今の咲季ちゃんがイライラしたのはわたしに対してだ。わたしにも何かいけないところがあったかもしれない。
それはわたしの欠点なのだろう。突きつけられたら悲しくなりそうな気もする。
でもわたしが前に進むために、わたしの声で歌うために、知らなくちゃならない。そう思った。
「……そんなの気にするなよ」
「で(も)、ね」
降り出した雨に傘をさし、わたしは須田くんの隣を歩く。
恋人同士になって初めての帰り道は、サァと空に満ちる小雨に包まれていた。他の人たちから区切られ、世界に二人だけのよう。それが嬉しい。
「ヒナがどうこうじゃなく綾野の問題だろ。昔のその子はヒナじゃないのに、勝手にキリキリされてもさ」
「そう(だけ)ど」
今日はたくさん話したせいで、のどが疲れてきた。声がガラガラして、ケホ、と咳をする。
幸田さんから聞いた咲季ちゃんの事情は、ノートにメモして昇降口で見せておいた。でも雨の中だと新しい会話は書けない。
「あんま無理してしゃべらなくていいよ。俺、ヒナと歩いてるだけでもいいんだし」
心配してくれる須田くんは照れくさそうだ。言われたわたしもニヨニヨしてしまう。
だけどもうバス停に着いてしまうので、今日はここまで。雨の中で立ち話なんてして風邪をひくのは馬鹿らしい。でも正直いうと、なんだか名残惜しかった。
「……ちょっとだけ歌詞、書いてみた。後でLINEする」
同じ気持ちなのか須田くんはそんなことを言ってくれた
「昼休み、ほんとはそっちの話するつもりだったんだ。うっかり告白とかするハメになったけど」
「う(っかり)」
失礼な。ふくれっ面をしてみせて、二人で笑った。
「気合い入れて完成させなきゃ。早くしないとヒナが歌えるようになっちまう」
だから声は、ゆっくり慣らしてくれてかまわないから。そう気をつかって、須田くんはやって来たバスに乗った。
家に帰って「ただいま」と言ったら、いつもよりハッキリ出た声にお母さんが大喜びした。心配かけているんだな。
部屋で着替え、小さく発声練習をする。
「あー、あー」
小さいけど、声はちゃんと聞こえた。夢じゃないんだ。気持ちが上向いて楽になったおかげだね。ありがとう、須田くん。
「これ、から。だよ」
そうだ。どんどん戻して、元気にならなくちゃ。
今のわたしは自分の心だけでせいいっぱい。気にかけてくれている両親にも須田くんにも、学校の先生たちやドラムの山野内先生にも、何も返せていなかった。申し訳ないなと、あらためて思った。
しっかりしたい。
須田くんは、わたしのことを「強い」と言ってくれたけど、そんなことないよ。
「弱いのを武器にする」
そう咲季ちゃんが言ったのは、わたしがわかりやすく体調を崩したり保健相談室にこもったりしちゃうからだろう。そういうの、あざといと思う人もいるのかもしれない。でもそうしないと長期欠席するしかなくなるから……。
「こっちは頑張ってるのに」
うん、咲季ちゃんは一生懸命だよ。それはわたしも知ってる。ああでも……同じことを求められたら困っちゃうな。咲季ちゃんはわたしが頑張れないから怒ってるのかな。
考えていたらLINEが鳴った。須田くんだ。
[歌詞みてくれ]
[ヒナがメモってたストーリーラインを参考に
孤独な僕とヘタレな君の話で作ってる]
むむ。
なんか失礼?
[ヘタレで悪かったなー!]
秒速で返信し、プンプンのスタンプもつけた。
ゲラゲラ。ごめん。二つのスタンプが戻ってくる。なんか気安くていい。だって今日から恋人なんだもんね。
[Aメロしかないけど
僕視点で]
そして送られてきたのは、こんな詞だった。
[誰かと合わせ笑うのが
当たり前になっていた
横並びのリズムはみ出すのを
おそれていた]
[僕だけの空がほしいなんて
ひとりよがりだ
誰にも届かない言葉を抱え込んでいた]
頭にもう染みついているメロディに、その言葉をはめこんでいった。
くっきりと歌の意味が輝きだす。
[まず僕の状況の提示
どんなもん?]
息だけで口ずさんでいたら意見を訊かれた。あ、そっか感動してる場合じゃない。感想を送らなきゃ。
[すごくいいです]
[なぜに丁寧語]
[いえいえ、とても素敵だと思います
須田先生と呼ばせてください]
冗談だけど、半分本気だった。だってすごい。わたしが感じていたことを言い当てられた気がした。
話せなくなったことで、わたしはクラスの輪から外れた。友だちに合わせ笑ったり、一緒に行動したり、そんなことから一歩引いた場所でみんなをながめていた。
その疎外感。
同時に感じた自由。
わたしは否も応もなくそうなったけど、誰だってすこしは周囲に合わせようと頑張っているはずで。
そうして自分をねじまげることに苦しんでいるかもしれなくて。
そんな誰かに届く歌になればいい。そう願った。
[続きもこの調子でお願いします]
[編集さんなの!?]
ダラダラと汗をかいたスタンプが来て笑いこける。
[わたしのことみたい
聴いた人が元気になれるように
うたいたい、です]
いちおう真面目に抱負も述べてみた。しばらくしてややふざけたノリが返ってくる。
[了解
鋭意続きを執筆します]
[期待しておりまーす]
LINEがとまってから、わたしはその歌詞を繰り返し読んだ。
✢✢
誰かと合わせ笑うのが当たり前になっていた
横並びのリズムはみ出すのをおそれていた
僕だけの空がほしいなんてひとりよがりだ
誰にも届かない言葉を抱え込んでいた
✢✢
ため息が出た。
人と違ってはいけないと怖れ、みんなの意見をうかがう。
本当は感じていることがあるのに、そんな言葉は押し殺して。
だからだよ、わたしの声が出なくなったのは。
わたしがバカだったんだ。
この歌は、わたしが生きてきたやり方そのまま。
咲季ちゃんに誘われるまま、初めての人たちの意見を気にして合わせようとしてオドオドして。
ぜんぜん自分の気持ちを伝えようとせず、病気を言い訳にいきなり逃げる。それを指摘されたらショックを受ける。なんて面倒くさい奴だろう。
最初から自分はこうだと主張できていれば、人に合わせるばかりじゃなかったはず。そういうところに咲季ちゃんはイライラしたのかもしれない。
流されて。迎合して。自分の心を自分で殺して。
間違えていたのはわたし自身だ。
咲季ちゃんと、きちんと話したい。
そう思ったわたしはノートとシャーペンを持って咲季ちゃんに突撃しようと決めた。けど。
「……え、何言ってんの」
翌日朝イチ、昇降口で会うなり宣言したわたしに、須田くんは困惑の顔を向ける。
「苦手だろ? ああいうグイグイくるヤツ」
「(す)ごいと思っ(てる)」
でも緊張はしているのか、声がかすれた。あわててノートも引っぱり出し併用する。
〈にがてとは ちがう
気がひけるだけ〉
「いやいや。ほぼヒナのストレスの原因だし。話すなら俺も付きそうよ」
「だ、め」
〈また守られてるって言われる
わたしひとりで〉
「そうだけどさぁ……」
不満そうにされたけど、頑張るんだ。
わたし、自分の気持ちを自分の言葉で伝えられるようになりたい。
だけど咲季ちゃんはつかまらなかった。授業が終わるとフイと教室を出ていってしまうのだ。
どんくさいわたしがアタフタしている間に姿を消す咲季ちゃん。お弁当タイムの昼休みならと思ったのに、そこでも逃げられた。この手はわたしもずっと使っていたから文句を言える立場じゃないけど……。
ガッカリしていたら幸田さんが苦笑いする。
「咲季に言ったの、小学校の時のこと教えたよって。それできまり悪くて避けてるんだろうね。だって八つ当たりみたいじゃない? 陽菜ちゃんはあの時の子とは別人なんだし、いいかげんにしなきゃ」
「そん、な。(わた)しも(悪かっ)たの」
とっさに答えた言葉はたどたどしい。でも近くにいた人たちが聞きつけて、驚きの声をあげた。
「あれ、陽菜ちゃんの声、治ってきたの?」
「へー良かったじゃない」
あ。
つい発してしまった声に注目され、バツの悪さに縮こまる。教室で話したのは二ヶ月ぶりぐらいだ。でもガサついた声を笑われたりはしなかった。
「のど、まだ痛かったりする? あ、返事ムリしないでいいよ」
「元がおとなしかったし、しゃべってなくてもそんなに違和感ないからね」
「たしかに」
サラリと受け入れてもらえ、わたしはむしろ何も答えられなくなった。
それでいいの?
何も言えずに座ってるだけの子がいたら、うっとうしいかと思ってた。おしゃべりに参加できなきゃ友だちではいられないと思ってた。
わたしがオロオロしていたら、やり取りを聞いた男子が遠くから茶々を入れてくる。須田くんの友だちだ。
「なになに林原しゃべれるんだ? よかったなー、林原の声かわいいもんなー。ってそういうこと言うと須田に怒られるか?」
いくつかのニヤニヤする視線を向けられた須田くんは、余裕の顔をしてみせた。
「べつにー? 俺そんなに心の狭い彼氏じゃないんで!」
「はあっ!?」
突然の彼氏宣言に教室がざわつく。いじった友だちのほうが驚いて声を裏返した。
「なんでだよ、違うって言ったの昨日じゃなかったか!?」
「だーかーらー! なんと昨日の午後から、そうなりました!」
もったいぶって須田くんが言い放つ。
沸き立つクラスメイトから冷やかしと拍手を浴びせられ、わたしは硬直した。
助けを求めて泳ぐわたしの視線がなんとか須田くんにたどり着く。へへ、とドヤ顔をされた。またみんなが騒いだ。
……あれ。
このクラスって、こんなに気安い感じだったっけ。ずっと居心地悪く思っていたのは気のせい?
わたしはぼう然とした。
なんでだろう。
もしかして、今までもこう? わたしが勝手になじまずにいただけ?
だってだって、わたしの話なんてつまらないし、そもそもあまり話せてないし、話題についていけてなかったし。みんなに迷惑かけてるかと。
「そんなわけだから、二人で昼めし食ってくる! 行こうぜヒナ」
須田くんがお弁当を取り出し、わたしを誘った。その「ヒナ」という呼び方に女子からうらやましげな悲鳴があがる。
見回しても、わたしに向けられるのは笑顔だけだ。ずっと感じていた疎外感は妄想だったのだろうか。
わたしは急いでノートとお弁当を抱え、須田くんと教室を出た。