教室に行く前に、持ち歩いていた抗不安薬を久しぶりに飲んだ。リーゼ錠という、お嬢さまみたいな名前の薬。しばらくすると、とても息が楽になる。
午前中はなんとか教室で授業を受けた。でも咲季ちゃんの席のほうは見られない。血の気が引いていたのか、幸田さんが「顔、白いよ」と心配してくれた。力なく笑ってみせ、昼休みまで我慢してから保健室に行った。
「あらあら顔色悪いね。早退する?」
保健の先生が言ってくれたけど、ここに隔離してもらえば平気になるかもしれない。〈相談室にいてもいいですか〉とノートに書いた。
「かまわないけど。貧血っぽいままだったらベッドで寝てもらうことになるからね」
うなずいて相談室にこもった。お弁当を食べるとすこし落ち着いた。
だいじょうぶ、咲季ちゃん一人に否定されても死にはしない。
世界は広くて、わたしには他の居場所があるんだから。
合唱部で歌わないとしても須田くんの曲があるんだ。
……歌詞を書こうかな。まだ昼休みだし。
今日はカバン丸ごと保健室まで持ってきている。このまま教室に戻れなかったら、て考えたから。以前須田くんに持ってきてもらったのは恥ずかしかった。
作詞ノートを開いた。ゆうべメモしたところを見直す。
うん……深夜テンション? これはあまりにわたしと須田くんすぎませんか。
どうしよう「僕」の部分はちょっとアレンジしないと。ううん、「君」もかな。
山野内先生は「等身大でいい」と言っていたけど、意味が違うよね。高校生としての感覚は活かせというだけで、ストーリーはフィクションでいいんだ。
山野内先生。
ほんのすこし会っただけだけど、とてもすてきな人だった。
バンドが売れなくて、でも音楽をあきらめられなくて、食らいついて仕事にしてきた。
だから表舞台に立つのをためらう須田くんが、それでも音楽を捨てないのを喜んでくれる。
自分が間違えた道。できなかったこと。
そんな過去もひっくるめて須田くんに教えようとしている先生は、とても強い。
[お願いしますヒナちゃん
あいつを世の中に引っ張り出してやって]
届いたLINEを思い出す。
どうしてわたしにそんなお願いをするのか不思議だった。
だっていい曲を書けば誰かの耳にとまる可能性はある。ボーカルがいなくたってボカロでもなんでも使って。
PCにひとりで曲を打ち込む須田くんは、ギターのアイリちゃんに誘われても拒否してきた。今はまだ、バンドを組む気にはなれないのだろう。
須田くんの隣に、わたしがいる意味。
それは何?
山野内先生がわたしに求めていることを、しっかり考えなきゃいけない。
須田くんは、わたしの歌を聴いてなんて言ったっけ。
「うまい。声が好き。歌う人だ」
……うん、すごく嬉しい。あの言葉はわたしを救ってくれた。
「聴いたあと、いい感じの曲が書けた。ボーカルのイメージは林原」
……照れちゃう。でもそれは、須田くんがわたしを必要とする理由になるかもしれないと思った。
ひとりで音楽を作り続けていた須田くん。先生に相談できたにしても、孤独な作業だったろう。
そんな時にわたしの声を偶然耳にする。
同じドラムではなく、ギターのような楽器ですらなく、「歌」――わたしが何かしらのインスピレーションになったのだとしたら。こんなに嬉しいことはないよね。
そうか。わたしたちの曲は――弱虫の「君」と孤独な「僕」が、ふたりなら空へも行けると気づく歌なのかもしれない。
苦しい過去も糧として。
決して夢を手放さないで。
山野内先生がそうだったように。
須田くんが努力しているように。
そしてわたしが、そうありたいと願うように。
わたしは夢中でノートに言葉を書き散らした。
思いついた文章は、これまで須田くんに言われたこと。そして山野内先生が伝えてくれたこと。あとはわたしがグジグジ悩んできたことでできていた。
それはまだ、単語や短いフレーズでしかなかない。
紙の上に転がる脈絡のない記憶たち。
だけどひとつひとつをながめれば、須田くんとの思い出としてクッキリよみがえる。わたしの心をあざやかに彩る。
これはわたしの宝物だ。
わたしは五時間目が始まっても勉強そっちのけでノートに向き合っていた。気がついたらチャイムが鳴って授業時間が終わっていたぐらいには集中していた。
呼吸も普通に戻ったし、顔を出した保健の先生に「すっかり顔色いいわ」とびっくりされた。好きなことができるって健康にいいんだね。
勉強をサボっていたのはちょっと気まずい。開いてもいなかった教科書をそそくさとカバンにしまったら、ちょうどLINEが鳴った。休み時間だし、確認してみる。
――須田くんだった。
[早退?]
わたしがいなくなって、カバンもなかったから心配になったのだろう。あわてて返信する。
[保健相談室
ちょっと調子悪かったけど、もう平気]
すぐ既読になり、[よかった]のスタンプが来る。[ありがとう]スタンプを返した。
何も言わないで行動するの、よくないよね……でもほら、声が出ないから言えないんだもん。ってこの自虐ネタも使い古してきちゃったな。
スマホをしまおうとすると、また鳴った。
[普通に帰るなら
バス停の近くで話そう]
住宅街の街路樹の下が、校外でのわたしと須田くんの指定席だ。公園だとまた子どもが寄って来そうだからそうしている。
雨もやんでいるみたいだし、今書いたノートも見てもらいたい。わたしは[OK]のスタンプでこたえた。



