高校一年の冬、うっすら曇った二月のある日。
わたしの世界はほんのすこし、変わった。
「――俺、おまえの歌、好きだ」
そう言ってくれる人があらわれたから。
この日、先生たちの研究会だとかで部活は全休だった。わたし、林原陽菜が入っている合唱部だってもちろんお休み。声が出せなくてちょっとつまらない。
でも学年末テストが近い。勉強もやらなくちゃと思ったわたしは、駅へ向かう友だちと別れ歩き出した。自宅が近いので徒歩通学なのだ。
大通りを駅とは反対側へちょっと歩くと、バス停の近くで住宅地へと角を曲がる。そこからすぐにある公園は、小学生が集まってゲームしているのが普通。なのに寒いからか、誰も遊んでいなかった。
「……うたっても、いいかな」
好きな曲を、好きなだけ歌う。
そんなことができる場所はあまりなかった。合唱部でも音楽の授業でも勝手なことはできないし、家では昼間お母さんが在宅勤務していてうるさくしづらい。カラオケならいくらでも歌っていられるけど、おこづかいの問題であまり行けないし。
でもこの公園ならそこそこ広いし、たぶん邪魔にはならない。わたしは声量もないので。
道路から少し中に入った、広場の横には藤棚がある。葉が落ちたその下に立ち、わたしは息を吸った。
「あ――、あ――」
ドレミファソラシド――。
軽く発声してみた。
やっぱり歌いたくなる。
ドミソドソミド――。
我ながら細い声だ。
パンチのある曲には似合わない。
「しょうがないよね。これが、わたしだから」
ちょっとだけ笑った。
偽善っぽいと思った。
わたしはわたし? それでいいと思うなら、ちゃんと人前で歌ってみせればいいのに。
でも恥ずかしい。
下手だと言われるのが怖くて、否定されるのが怖くて、みんなの間でひっそり歌うしかできない。笑われたらと考えると息が詰まって苦しいの。
だからこんな日ぐらい。
ひとりで、そうっと練習させて。
大好きなミュージカル曲を口ずさんでみた。お気に入りを数えるその歌は、CMにも使われる。
落ち込んだとしても、大好きなものがあればだいじょうぶ。そう歌うと元気が出た。よし、がんばろ。
そしてj−popでアニメの主題歌。
すこしわたしと似た細い声のアーティストは、わたしよりも風をふくんだ歌い方がやさしい。歌詞の言葉えらびもとても好み。
どの曲もきれいで心によりそってくれる。彼女のような、誰かに力をあげられる歌い手になりたい。
わたしには夢がある。無理だと思うけど。
それは、歌のおねえさんになること。
小さいころ、わたし保育園が苦手だった。ううん、小学校も中学校もかな。だって他人がいっぱいで怖くて。いろいろなことが上手くできなくて注意されると死にそうな気持ちになった。
そういうのをね、はげましてくれたのが、歌。
熱を出して家にいた日、テレビで聴いたおねえさんの歌はわたしの救いだった。
でも、その存在にあこがれてはいるけどほとんどあきらめの境地だ。
だって歌のおねえさんって、その時に世界でひとりしかいないでしょ?
競争率すごそうだし、ちょうどよく代替わりがあるかどうかもわからない。それに音大で学んだ人とかが選ばれるものだろうけど、そんなお金のかかる進路は選べないと思う。そもそもわたしは背も低いから、〈おねえさん〉って雰囲気じゃないのが致命的。
――だけど、あこがれるのは自由だよね。絶対になれないとしても。
無理だと考えただけで泣きそうになっちゃったけど、わたしは一人でうなずいた。
次の曲は幼児番組の行進曲にする。大好きなうた。
どんな時でも空へ高くとび上がろうっていう応援ソングだ。
すう。
息を吸ったわたしは、イントロのリズムをとると笑顔で声を張った。
そうしたら。
「ふへ?」
妙な声とともに公園の入り口近くのしげみが鳴った。
びっくりして振り向くと、そこに男の子がいる。
わたしはその人の顔を知っていて――同級生の、須田龍仁くんだった。
視線が合う。ばっちり合う。
「え。あ」
「お、あの、えっと」
二人して口をパクパクした。言葉が出てこない。
わたしはカチンコチンに硬直してしまった。顔も真っ赤だと思う。
――どうしよう、聴かれてた? わたしの歌を?
須田くんも、一ミリも動かなかった。ものすごくバツの悪い顔をして、固まったまま大声で謝ってくれる。
「ご、ごめん! すげえ歌うまい人がいるって思ってのぞいたら――俺、おまえの歌、好きだわ!」
須田くんはそう叫ぶと、くるりと後ろを向いて走り去った。
――やっぱり聴いてたんだ。
わたしはザアア、と冷や汗にまみれた。こんなに寒い日なのに。
どこから聴いてたの?
まさかずっと、最初から?
でもそんなことより。
『おまえの歌、好きだ』
そう言ってもらえたことに驚いて。
うたを認めてもらえて嬉しくて。
――わたしはちょっとだけ泣いた。



