それからは、普通にドラムのレッスンだった。
 違う雰囲気の曲もわたしに聴かせなくちゃと山野内先生が言い出して、選んでくれたのはジャズ。
 ポップスもロックもジャズもだなんて、先生はなんでも叩くんだと驚いた。
 チッチチー、チッチチー、から入るジャズ。須田くんは苦手なんだって。スイング感がわからない、と言う。わたしも聴き慣れないけど、歌えたら格好よさそうだと思った。



 レッスン終わり、スタジオから出た山野内先生は、わたしにスマホを振ってみせた。

「LINE交換しよう?」

 え、わたし? ただの高校生なんですが、プロのドラマーさんとつながったりしていいのでしょうか。
 首をかしげたけど、先生はニコニコと言ってくれた。

「なんか質問あったら相談にのるからね」

 そういうことならお願いしたい。須田くんもうなずいているので、わたしもスマホを出し友だち登録させてもらった。先生にあらためて頭を下げ、ビルを出る。
 外では小雨が降り出していた。もう梅雨が始まっている。

「林原はバスで帰るんだよな」

 こくこく。いつも須田くんが通学に使っている路線バスだ。

「送ってくか……?」

 迷ったように訊かれたけど、両手を振ってお断りする。そんなの申し訳ないよ。

「でも暗くなってるし」
「たっくーん!」

 突然かわいい声が聞こえたと思うと、須田くんの腕にガシッと抱きつく女の子がいた。二人の傘がぶつかる。

「え!? あ、なんだ愛梨!」

 ビクッとした須田くんが腕から引っぺがしたのは、どこかの制服を着た子だ。身長は高いけど、顔を見るかぎりではちょっと年下かもしれない。
 アイリと呼ばれたその子はキラキラした目をして、背中にギターを背負っていた。須田くんの音楽仲間……なの?

「何やってんだよ中学生。さっさと帰れ」
「えー? 今年から普通にこの時間にレッスン入れたんだもーん。たっくんだって、たった二コ上のくせに」

 というと、この子は同じ音楽教室のギタークラスなのだろう。そして中学三年生。
 また腕を組もうとするアイリちゃんを須田くんは振り払った。くちびるをとがらせたアイリちゃんは、わたしを値踏みするように見る。

「たっくん、女の子連れて何してんの」
「いいだろ別に」

 須田くんはぶっきらぼうだった。まずいところを見られた、という感じだ。
 それはわたしに対して?
 それともアイリちゃんに、なのかもしれない。「たっくん」呼びして腕も組むアイリちゃんが、実は須田くんの彼女なのだとしたら――わたしはとんだおジャマ虫の道化者だ。

「(ン、ウン)」

 しゃべれないことを呪った。小さな咳ばらいしかできない。

 送ったりしなくていいよ。
 楽しかった。先生によろしく。
 ――彼女なの? かわいいね。

 言いたいことも言いたくないことも胸に詰まってしまい、わたしの心はどうにもならなくなる。

「林原、あの」

 話しかける須田くんに作り笑いで手を振って、わたしはバスターミナルへと走った。

 須田くんは、追いかけてこなかった。





 雨が強まる中、ドラムレッスンから逃げるように帰宅したわたしはいつもより遅めの夕食をとった。
 その間、部屋に置きっぱなしのスマホでLINEが鳴っている気がした。でも食事を中断して見にいくのは怖くて無視する。


 須田くんからだったらどうしよう、と思ってしまった。

 さっきの子、彼女なんだ。
 バレちゃったのに紹介しなくてごめん。
 ギターアレンジは彼女にも手伝ってもらってるんだよね。

 そんな言葉が送られてきていたら。
 想像するだけで胸がさわぎ、ご飯の味がしなかった。



 でも食べ終わっておそるおそる確認したLINEは、山野内先生からだった。


[やっほー、初メッセ]

[タツのことよろしく]

[あいつ実は
 表舞台に立つの怖いんだと思う
 あ、告げ口したの内緒ね]


 ……え?
 先生からのLINEは、そんな暴露から始まっていた。


[タツ、小学生のころの発表会で
 曲の途中でまっしろになって
 止まったんだ]

[ライブハウスの舞台でタツは
 すくんで動けなくなった
 でもドラム抜きで演奏すすんだよ
 やり直すとかナシ]

[他のメンバーも子どもだから
 どうすればいいか誰もわかんなかったんだ
 あれはキツかった]

[だけどタツはそれからも
 ドラムを好きでいてくれた]

[あいつが曲を作るの
 応援してる理由がそれ]

[どんな形でも音楽を
 手放さないでいてくれて嬉しい]

[お願いしますヒナちゃん
 あいつを世の中に引っ張り出してやって]


 そんな言葉と、[お願い]のスタンプ。そこで先生のLINEは止まっていた。
 わたしは身じろぎもできずに立ちつくす。


 須田くん――そんなことがあったんだ。
 子どもバンドでの大失敗。
 そういえば言っていた。人の前で演奏するのは得意じゃなくて、発表会は出たけど向いてないって。このことなのか。


 だけどドラムはやめられなくて。
 音楽は大好きで。
 曲を書いてみたいと頑張っている。

 須田くんにも苦しい過去があり、それを乗り越えて進もうとしていて――そう知らされ、わたしの心臓は跳ねた。


 わたしたちは、同じなのかもしれない。


〈自分が何者なのかわからずに苦しみなやむ
 でもすこしずつ前に進む〉
〈だれかと出会い
 たすけて たすけられてがんばる〉

 ノートに書いたこの言葉は、そのままわたしと須田くんのことだ。



 ――お願いします。あいつを世の中に引っ張り出して。



 先生からの依頼に心がふるえた。

 わたしが? そんなことできる?
 須田くんの曲を歌うことで、須田くんを助けられるの?


 ……音楽に寄りそうならアイリちゃんでもいいよね。そう思いついて手足が冷たくなる。
 ううん、だけど。


 あの曲は〈Hina feat.Tatu〉のものだから。


 ギターは任せてもいい。
 だけど、あの曲を歌うのはわたしだ。

 歌おう。
 めいっぱい。
 わたしが須田くんの役に立てるなら、いくらでも歌う。助けられてばかりなんて嫌だから。
 わたしからも須田くんに、手を差し出さなくちゃいけないんだ。


 ……なんて大言壮語するなら、まず声を取り戻さなくちゃいけないのはわかってる。
 わたし、情けないね。




 考えたすえ、わたしは先生のLINEに返信した。

[がんばります]

 言えるのは、そんなひと言しかない。
 だけどわたしなりに、せいいっぱいの誠意と覚悟をこめ送信ボタンを押した。