ドラム教室。それはどんなところだろう。
 見学に誘われて、わたしはレッスンの日に須田くんと待ち合わせた。
 放課後なので私服に着替え、すこし遅くなるからと親の了解も取る。行き先は、初めて須田くんのエアドラムを見たショッピングモールの近くだ。

「お、君がヒナちゃん? いらっしゃい」

 山野内拓斗さんというドラムの先生は、いきなり名前呼びで距離を詰めてくる。わたしの声が出ないことはご存じだそうなので、ペコリと頭だけ下げた。
 三十二歳だと聞いていたけど、先生はすごく若い。シンプルなパンツと無地のカットソーで、大学生みたいな人だ。

「狭いけど、どうぞー」

 招き入れられたのは本当に小さな部屋だった。ドラムセットが二つとスピーカーがあり、それでギリギリ。防音の扉をガコンと閉めて、わたしは扉の前に立っているしかない。

「ごめんね、見学用の椅子もなくて」

 いいえ、お邪魔してしまってすみません。そんな意味をこめて首を横にフルフルした。
 先生が右、須田くんは左側のドラムの前に座り、椅子の位置を合わせる。カバンから出したスティックでタムタムタムと軽く鳴らすと、須田くんはチラリとわたしに視線をくれた。

「あー、すげえうるさいと思うから、なんなら耳押さえてて」

 押さえるほどの音量なのか。間近でドラムなんて聴いたことないし、わからない。こくんとうなずいた。

「タツは先週の曲、もう一度やりたいって言ってたな」
「そうです。なんか回し切れてなくて気持ちよくなかったし」
「たしかに」

 須田くんは「タツ」と呼ばれているんだ。
〈Hina feat.Tatu〉の由来がわかった気がしてニコニコしてしまった。
 山野内先生には小学生の頃からお世話になっているというから、とても影響を受けているのかもしれない。というか、なついているんだな。そんな空気感。ちょっと年の離れた兄弟のようにも思えた。

「じゃあ一回流すぞ」

 山野内先生がスマホで何か操作すると、スピーカーからJポップが流れる。

 ドドン!

 突然、音のかたまりがわたしにぶつかってきた。
 それはもちろん、須田くんが叩いたドラム。音圧にひるんでしまう。
 よろけかけるのを踏みとどまって、わたしはドラムセットの向こう側で真剣な顔をしている須田くんを見つめた。
 華やかなスネア、軽快なタム、そして右足が踏むバスがおなかに響く。内臓から揺さぶられるようだ。

 演奏しているのは何年か前の曲だった。男性シンガーソングライターのもので、映画の主題歌だったはず。
 間奏の終わりには派手なドラムの見せ場があって、わたしには何をどう叩いているのかまったくわからなかった。ただ、須田くんが格好よかった。
 そこを過ぎると余裕が出たのか、須田くんは軽くわたしを見る――そして、ドヤ顔で笑った。



「おっけータツ。クリアしてきたな」
「いちおうね、家で練習したもん」

 曲が終わると山野内先生はダラダラダラとドラムロールを鳴らし須田くんをほめた。
 すこし上気した須田くんへ、わたしはそっと拍手する。先生は自慢げにふんぞり返ってみせた。

「どうだった、ヒナちゃん。タツうまいだろ」

 こくこくこく。
 わたしは勢いよくうなずいた。まあ正直いうとわたしにはドラムがよくわからないし、今は耳がキーンとなっているんだけど。それでも見とれたのは本当だ。

「こいつがドラム始めたのは小……四? 五?」
「四です」
「そう。まだチビでさ、椅子いちばん低くして、足が届くかギリギリで」
「なんでそんな話すんの! 親戚のおじさんじゃないんだから、そーゆーのいいんで!」

 思い出を語られて須田くんが居心地悪そうにさえぎる。わたしは吹き出してしまったけど、そんなかわいい須田くんを知っている先生がすこしうらやましかった。

「別にいいじゃーん。でね、そんな頃からドラム大好きなタツだけど、ドラマーで一本立ちするより曲作るのやってみたいって言われてさ。いろいろ教えてるわけだよ」
「お世話になってまーす!」
「おう、感謝しろ。ヒナちゃん、歌が上手いんだって?」

 話のほこ先がきて困ってしまう。上手いのかどうか、自信なんてなかった。あいまいな笑みで応えてしまったら、須田くんがタタタタとタムを叩く。応援するみたいに。

「上手いよ。そりゃプロに比べたらまだまだかもしれないけど、自信持てって」
「あー、まあ上を見るとキリがない世界だもんな。ヒナちゃん、自分の才能を信じられないタイプかい?」

 それにはそっとうなずいた。
 情けないことだと思うけど、そのとおり。

「うん、それもいいんじゃない? そういう人間は努力も忘れないからね。ぶっちゃけるとさ、才能あっても潰れる奴は潰れるもんだよ」

 山野内先生はサラリと笑った。その言い方は突き放していて冷たい――もしかしたら身近にそんな人を知っているのかなと思った。

「勝つのはね、最後までやってた奴なんだ。才能の有無じゃない」

 先生はわたしを真っすぐ見、静かに言い渡す。

「だからタツと一緒にあがいて抗ってみな。覚悟決めれば声も戻るかも」
「ちょ、やめ!」

 須田くんがあわてて止めた。デリカシーないって! とささやくのが丸聞こえだった。こんな狭さだから。

 山野内先生は、わたしの心因性の病気を知っているのかもしれない。須田くんがどう話したかわからないけど、ちょっと調べれば出てくる病名だ。
 でもこの人になら知られていてもかまわないと思った。須田くんに親身になってくれる先生なのだから、きっといい人。

 わたしはゴソゴソとノートを取り出す。

〈須田くんの曲
 うたいたいです〉

 ドラムセットのあっち側に向けて見せたら、先生はアハハと笑った。

「なんだよ、やったなタツ」

 ニヤリとするのが、なんだか怪しい。男同士だとどんな話をしてるのかな。気になったけど知らんぷりでノートを書く。

〈いい歌になると思いますか?〉

「うん、今回のはいいよ。メロディラインにタッチ効いてて、聴かせてくると思った。だけど歌うには高音に跳ねたり転調くり返したり、難しいんじゃね?」
「そうですけど……林原なら歌えると思う。でも今、歌詞で詰まってて。先生の昔のバンド、オリジナル曲ってどう書いてました?」

 須田くんの質問に、山野内先生はうーんと考えて目を伏せた。
 昔の……というのは、売れなかったと聞いたバンドのことか。嫌な記憶に踏みこんでしまったのではと心配になる。
 でも先生は気を悪くしたようすもなく、真剣に答えてくれた。
 
「曲はキャッチーな若向けだろ? じゃあ歌詞も等身大でいいんじゃないの。リアル高校生だろ、おまえら」
「いやあ、なんか作文みたいになっちゃって」
「作文かー」

 苦笑いされてしまった。でもわたしを見た目はとてもやさしい。

「ヒナちゃんは……いろんなこと、たくさん悩んでるよな、たぶん。そういうのタツに伝えたかい? これまで二人でどんなこと話した? そういうの思い出してみたらどうだろうか」

 悩み。
 須田くんには、いろいろ知られている。目の前で泣いてしまったりもした。
 そういう恥ずかしかったことも、歌ってしまえば昇華できるだろうか。すくなくともただの黒歴史ではなくなるかもしれない。
 わたしたちが話したことは――このノートには半分だけ、わたしの言葉だけなら書かれている。それを読み返せば。

「本当の言葉は強い。まずはヒナちゃんとタツが感じたこと見たこと、書いてみなよ。んで、そこにちょっとだけ意外なフレーズとかキツめのワードを入れると引き立つ」
「なるほど。テクがあるんだ」
「たりめーよ。まあ売れなかった作品のことだから、話半分に聞こうな?」

 山野内先生はスティックをクルクル回して笑う。

「あと、青春だからって悩んで立ち上がるだけじゃだめだ。恋愛を入れようぜ。君と僕の物語にしろ」
「えええー!」
「恥ずかしがってる場合じゃねーの。タツだって悩み多き純文学よりラブコメ漫画のほう読むくせに偉そうにすんな。ヒロイン必要、絶対。聴く側の立場だったらどうよ」
「そりゃ……そうだけど」

 須田くんはぶつくさ言っている。でもわたしは、先生の主張がなんだかストンとふに落ちた。

 これまでに試し書きした詞は、世間で聴かれている歌と何か違うと思っていた。足りないものがあると。
 それは、たとえば恋愛なんだ。
 ほかにもプラスできるものはいろいろあるだろう。でもわたしたちが求めているのは、苦しさに寄りそってくれる相手。心にいちばん近いのは恋人だもんね。片想いでも失恋でも、もちろん成就する恋でもかまわない。

 わたしはパラパラとノートをめくった。

「どうした、林原?」

 どんな曲にするのか話した時。わたしはノートにメモしていたはず――あった。

〈自分が何者なのかわからずに苦しみなやむ
 でもすこしずつ前に進む〉

 それを須田くんに見せると、ああ、と思い出してくれた。わたしはその下に書き足す。

〈だれかと出会い
 たすけて たすけられてがんばる〉

 そのノートを山野内先生も見てくれた。

「正解。君がそこにいるから、君のためだから、みたいのがあると盛り上がるだろ」
「うん……まあ、そうッスね」

 須田くんはまだ恥ずかしそうにしていた。
 まあね、わたしだって恥ずかしいよ?
 でもこれはフィクションの歌。だから恋を描いてもだいじょうぶなのだ――ちょっと本当のことも入っている気はするけど。


 だってわたしが泣かずにいられるのは須田くんのおかげだ。これがわたしの歌ならば、「君と僕」が出てくるはず。

 自信をなくし、声もなくした「君」。
 泣いていた「君」に手をのばした「僕」。
 
 そんな歌にできるだろうか。