それから咲季ちゃんはおとなしくなった。というかわたしを見なくなった。わたしにどう接していいのか、わからなくなっちゃったのかもしれない。

〈さきちゃんに悪いことしちゃったかなあ〉

 そうノートに書いたら、須田くんは「はあ!?」と叫んだ。そしてあわてて黙る。ここは図書室なのだ。

「……すこし考えて話すようになったほうがいいんだよ、ああいう奴は」

 知らん顔でつぶやかれる。そうなのかな、よくわからないけど。でもたしかに咲季ちゃんのプレッシャーがなくなってから、わたしは落ち着いて過ごせていた。



 授業を教室で受けるようになったわたしは、なんとか以前の生活に近づいている。
 短い休み時間は幸田さんがポツポツと話しかけてくれた。お弁当を食べるのは保健相談室に行ったり、購買の横の飲食スペースを使ってみたりしている。無理に誰かとペースを合わせないでいいんだと思ったらとても楽になった。


 そして昼休みは、こうやって須田くんと図書室で会ったりできる。こそこそと打ち合わせるのは、もちろん作っている曲のこと。
 この時間が今のわたしには何より楽しくて――それは須田くんと話せるからだと自覚していた。

 わたしは須田くんのことが好きだ。

 ふと気づいた気持ちは会うたびに強くなる。新しく須田くんのことを知るたび鮮明に感じる。
 以前に作った曲のデータも聴かせてもらった。すごくいいと思った。こんな人に「歌ってほしい」と言われた自分がほこらしい。まだ声は出せないけれど。

 いつか。
 できるなら、なるべく早く。
 わたしの声で、この曲をうたいたい。


「でも歌詞がないとさ……」

 暗たんとして、須田くんは肩を落とした。なんとなくのイメージはあっても言葉にするのは難しいらしい。

〈今のメロディに言葉をのせるの?〉

「基本そうだけど、詞に合わせて曲も調整する」

〈ふうん〉

「……おまえ書かない?」

〈はい?〉

「や、こうサラサラと字を書いてるの見てると、俺よりそっちのほうが向いてるんじゃないかって……」

 困り果てたようすで須田くんは机に突っ伏した。



 描きたいのは身近なことだと須田くんは言った。それを書きとめてみる。

〈自分が何者なのかわからずに苦しみ、悩む
 でもすこしずつ前に進む〉

 うん、こんな歌はきっとわたしのことも救ってくれると思う。



〈わたしのことみたいだよね〉

「そうかな。まあ俺が作ってるんだし……俺、林原のこと見てたから」

〈見てた?〉

「うぐ、あの……ほら、歌を聴いてから気になってたんで」

 照れ笑いされた。けっこうかわいい。
 図書室の机で、椅子を並べてコソコソ話して。こんな風にしていると、つき合っているみたいに思えてちょっと幸せだ。

「林原の感じたことでいいから、ほんとに書いてみてよ。最初に曲聴いた時のイメージを織り込んでもいいし。なんて書いてたっけ、あの時」

 乗り出した須田くんがノートを勝手にめくる。寄せられた体から須田くんの匂いがした。

「これだ。〈空 ことり 風が吹いた〉――いや、そんなかわいいかコレ」

 一緒にノートをのぞきこむ。その近さに心がじんわりとゆるんだ。
 そして公園のベンチで並んで座った感覚もよみがえる。

 初夏の陽射し。
 目を射らんばかりの空の青。
 汗をかわかす風。
 子どもの笑い声。

〈空 ことり 風が吹いた〉
〈すごくいい さわやか? アオハル?〉
〈もういっかいきく〉

 わたしが書いた言葉はつたない。こんな感想を言う人間が歌詞なんて書けるだろうか。

「――でも林原のこと考えて作ってた曲だしそうなるか」

 聞こえないぐらいの小ささで須田くんがつぶやいた。
 え、と首をかしげて見ると、顔をそらされる。
 フイと横を向いている耳が赤いような気がするのは……やだ、待って待って。


 今のは「そんなかわいいかコレ」に対してのセルフつっこみ?
 わたしイメージの曲だからそうなるって……あ、ダメ。心臓がバクバクしてきた。

 わたしは何も言えずに口をアワアワする。ううん元からしゃべれないんだけど!
 呼吸がうまくできないような気がするのは、声をなくしたばかりの苦しかったころと同じだった。
 なのにこの呼吸困難はぜんぜん嫌じゃない。なんてゲンキンなんだろう。


 もしかして須田くんはわたしに好意を持っていてくれたりするのだろうか。だったらいいな。
 前にも「かわいい」と言ってくれたことがあるし、一緒に音楽をやろうと言ってくれるのだから、すくなくとも嫌われてはいないと思っていいはず。
 でもそれは、わたしの歌に用があるだけかもしれない。「かわいい」のどうのだって、須田くんの求める音楽性に必要なだけの可能性が高い。わたしの声は「カッコいい」より「かわいい」寄りだ。
 そう考えてわたしは気を引きしめた。
 妙な自信はつけちゃいけないんだ、カン違いはイタイよ、陽菜。

 ぶっきらぼうな口調で須田くんは続けた。

「うーんと、まあ。ちょっとお願いしてみてもいい、作詞?」

 まだなんだか照れくさそうに言われ、わたしはあわててうなずく。

〈せきにんじゅうだい〉

「林原も責任負ってください。だって俺たちユニットだし」

〈ユニット〉

「そう。あるだろ、曲担当と歌い手の二人組。ああ、それとも林原陽菜フィーチャリング龍仁がいい? 歌手とプロデューサーがコラボした曲ですっていうやつ」

 こういうの、と須田くんはわたしのシャーペンを取った。ノートに書いてくれる。

〈Hina feat.Tatu〉

「わはは、すっげえ偉そう」

 須田くんはヒョイとシャーペンを返しながらニヤニヤした。戻ってきたグリップのあたたかさにちょっとドキドキする。このペン宝物にしよう。

「ユニットなら、その名前も考えなきゃ。やること多いな」

 書かれた文字を、わたしはあらためてかみしめた。
 ひな、ふぃーちゃりんぐ、たつ。
 ヒナ。なんだか名前を呼んでもらったみたいだ。ふわふわした気分でわたしは須田くんの字の下に線をひく。

〈これかっこいい〉

「そっか。じゃこれでもいいや。それより歌詞だよ、なんか書けない?」

〈がんばってみる
 けど いっしょに考えようよ〉

 それはわたしが仕掛ける、せいいっぱいのワナだった。
 二人でいられる時間が増えますようにっていう願いをこめて。

 須田くんが明るい顔になってうなずいてくれて、わたしは心の中でガッツポーズした。




 それからわたしは作詞用ノートを別に作った。暫定的にもらった曲データをくり返し聴きながら、言葉のイメージをふくらませる。
 でも、すぐに煮つまってしまった。困ったわたしは須田くんに相談してみた。

 帰り道。休部中のわたしと帰宅部の須田くんは、バス停のそばの街路樹の陰で立ち話をすることが多い。校内だと目立ってしまうから。ドラムも歌も、曲作りだってクラスメイトには内緒のことだしね。

〈ものすごくポエムになるか
 学校の作文みたいか
 どっちかなんですけど どうすれば〉

 訴えたら、ヒーヒーいって笑われた。そんな反応?
 恥ずかしくて怒った顔をしてみせたら真面目な表情になったけど、まだわざとらしい。にらみ続けると手でごめんと謝られた。

「ぶっちゃけ俺もそうだったけど……」

 あれ、なんだこれ須田くんも通った道なのか。

「どんなポエム? 見せてみ」

 ニヤニヤされて、わたしは作詞ノートを死守した。絶対見せたくない!
 須田くんは奪い取ったりせず、笑って空を見上げる。そしてつぶやいた。

「むずかしいよな……誰かの心に届く言葉なんて書けるんだろうか。俺らなんて、ただの高校生なのにさ」

 誰かに届く、言葉。
 わたしもつられて顔を上げた。
 そろそろ梅雨入りの空はどんより暗い。早く帰らないと降り出すかもしれないけど、須田くんといる時間がすこしだけほしかった。

 あの曲を聴いたわたしが、最初に書いた言葉も〈空〉だ。
 空はいつもそこにあって、ふだんは気にもしないのにわたしを包んでくれていて。
 ふと見上げると、心は空から何かを受けとる。厚い雲は不安を連れてくるようだ。

「――俺のドラム、聴きに来ない?」

 いきなり須田くんが提案した。

「先生には曲作りのアドバイスもらってるんだ。林原のことも話した。会わせろ、て言われてる」

 え。え。え。

〈先生 いそがしいんでしょ〉

「今ツアーのはざまで時間あるみたい。次のレッスンの日、よければ見学してよ」