つづく世界をうたえ、小鳥よ


 他の生徒よりすこし早めに昇降口を出たわたしは、公園に先に着いた。
 冬の日にわたしがうたっていた藤棚の下は今、緑の葉の影が落ちている。ちょっと前には花が咲いて甘い蜜の匂いがし、長い花房のまわりをクマバチがぶんぶん飛んでいた。

 須田くんに会ったあの日は寒くて、子どももいなくて。だからわたしはうたってみたのだった。
 でも今日はあたたかい。五月も下旬、遊ぶ子どもたちはシャツ一枚だ。赤ちゃんみたいな子から小学生までが駆け回る中で、わたしは空いているベンチに座ってノートを取り出した。話すなら、わたしから書かなきゃならないこともあるだろう。

「あ、悪い。遅れた」

 たたた、と須田くんが近寄ってきた。ううん、誰にも見られずにすむように、わたしがチャイムと同時に下校してるだけだから。

「えーと、まず」

 隣に座った須田くんは、照れた顔で口を開いた。

「……林原は歌う人、って書いたのは俺です」

 目をそらしながら言う。そんなに恥ずかしがらなくても……いや、恥ずかしいか。そう言ってもらえてわたしは嬉しかったけど。

「綾野の言い方にはかなり腹立っててさ。合唱部で一緒なんだろ、なんであんなこと言うんだよ。林原はすげえ上手いじゃないか。ここで歌を聴いて、ほんとにいいなって思った。俺は林原みたいにはできないから」

 え、ちょっとちょっとそんな。

〈わたしべつに、うまくないよ〉

 あわててノートに書く。わたしが手を動かしたので、須田くんはそれをのぞきこんでくれた。

「何言ってんの、むちゃくちゃ上手いし。っていうか俺は好き」

〈ありがと〉

 照れながら、わたしはなんとか書いた。好きって言われるのは嬉しいのに、心臓もお腹もモゾモゾして落ち着かなくなる。

「俺ドラムやってるだろ。もう……七年ぐらいかな。でも演奏はそこそこ。これからも飛びぬけることはないと思うんだ。プロになるとか、それで食ってくとか考えてないし」

 そうなの? わたしはびっくりして須田くんを見つめた。かすかな苦笑いで須田くんはうなずいた。

「バンド組んで売れなくても、スタジオミュージシャンとか歌手のツアーのバックバンドとか、生き方はあるよ。俺の先生がそれ。でも俺そこまでする根性あるか自信ない」

 先生はバンドでデビューできなくて、三十歳ぐらいまでずっと音楽教室の教師として食いつないでいたそうだ。収入はギリギリで、家族からニートみたいに思われててつらかったんだって、と須田くんは笑う。

「俺はそのニートな頃から生徒だったんだけどね。だんだん仕事増えて、最近はアイドルの海外ツアーに同行とかやり始めてレッスンの時間あまり取れなくなった」

〈すごい〉

「うん。でも俺がやりたいことって、そういうんじゃないかもなって思い始めてさ……人の前で演奏するんじゃなくて、音楽を作るほうにいけたらなって思ってる」

〈つくる?〉

「曲を作るとか、誰かをプロデュースするみたいな」

 うわあ……思ってもいなかった話をされて、わたしは目を丸くした。でも須田くんは背中をちぢこまらせてうつむく。
 わたしの方を見ないのは、たぶん恥ずかしいんだ。わたしも学校で『歌う人になりたい』って言った時にすごく勇気がいった。自分の希望を表明するって照れるし、須田くんもきっと今そうだよね。

〈おもしろそう〉

 だからわたしは、須田くんの望みをはげます。わたしは須田くんに認められて嬉しかったから。

〈曲をつくるってむずかしいんじゃない?〉

「うん、すごく難しい。作曲ソフトとかは入れてるんだけど、まだまだ知識が足りなくて。俺らしい音楽っていうのもわからないから、どこかで聴いたようなのばっかりできる」

〈そんなに作ってるんだ〉

「中学のころからやってるからなあ――で、林原なんだよ」

 ちょっと背すじを伸ばして、須田くんはわたしに向き直った。緊張した顔。
 え、なんでそこでわたしが出てくるんだろう。

「前に林原の歌を聴いたあと、なんかいい感じのが書けたんだ。まだ荒いけど、もうちょっと編曲して仕上げてみたい。先生に聴いてもらってもイイじゃんって言ってくれてて」

 ふうん。わたしにはよくわからないけど、須田くん的に良い方へ進んだってことなんだろう。話す調子が熱をおびてくる。

「その曲、イメージしてたのは女性ボーカルなんだ。ていうか林原の声で歌ってみてほしいって思ってた」
「ふぐっ」

 わたしののどから、変な音がもれた。あんまりびっくりしたからだ。ついでにちょっと咳こむわたしに須田くんがあわてて立ち上がる。

「うわ、ごめん変なこと言って。ほんとはこんなキモいこと本人には言わない予定だったんだけど……」

 ワタワタされて、わたしは咳を抑えこんだ。なるべくまじめな顔を作り、手でだいじょうぶだと示したら須田くんは座り直してくれる。
 でもどうしようわたし、心の中はぜんぜんだいじょうぶじゃない。

「こないだまでは、勝手に曲にしてそのうちボカロにでもすればいいかなって思ってた。なのに林原がのどやっちゃったって聞いて、もう二度とおまえが歌うの聴けないのかって思ったらなんかさ……」

 言い訳されながら、わたしは必死で頬のニヨニヨをがまんしていた。
 わたしに歌ってほしい、だなんてそんなの最高の賛辞だよ。もう泣きそう。

「ここで歌を聴いてから、俺いっつも林原の声を耳で追ってた。卒業式で斉唱した校歌とかも、探してみたらちゃんとおまえの声だけスウって透きとおってた。すくなくとも俺にとって林原の声は特別だ。だから林原がいなくても合唱部は平気だとか言われてすげえ腹立った――勝手に怒っててごめん」

〈ううん おこってくれてありがとう〉

 バクバクする心臓を無視し、なんとかお礼を書いた。たぶん今、二人とも照れてどうしようもなくなってる。

「……とまあ、そんな感じで。ちゃんとこういうの白状しないと、俺すごい変なやつになるかなって考えたんで呼び出しました、すみません。いきなり『声治るよな』とか『歌う人だと思う』とか意味わかんないし」

〈うれしかったよ ほかの人はそんなこと言ってくれないから
 わたしいつも前に出られなくて
 わたしの声をきいてくれる人 だいじ〉

「林原が目立たないって、合唱部なら当たり前だろ? まわりと合わせて歌わなきゃならないんだから……合唱ってよく知らないから調べたんだけど、一人で歌ってるように聴こえるぐらいまで声を揃えろみたいな指導を読んだ。すごい世界だな」

〈でも、わたしが引っこみじあんなのは本当〉

「そっか。まあ俺も人の前で演奏するのはあんまり得意じゃない。教室の発表会に出たことはあるけど、向かないなって思った。それに仕事にしたら、好きでもない曲を叩くことだってあるし」

 須田くんはカバンをごそごそしてスマホとイヤホンを取り出した。

「作りかけだけど。データ入れてきたから聴いてみて」

 片耳を渡される。わたしの声を聴いて作った曲ってこと?
 わたしはおずおずとイヤホンをつけた。
 


 ――ピアノの音がこまやかに流れるイントロ。風が吹いたような気がした。

 リズムは速い。
 疾走感は流行の感じだ。
 ボーカルはないけどメロディラインをシンセでつくってあるので追える。軽快な、小鳥のさえずりのよう。
 だけど不穏なBメロ。メロディアスに聴かせる。
 そしてサビで空に放り投げられて。
 転調して希望、そしてアウトロ。



 聴き終わって、わたしは目を閉じていた。横から不安げな声がする。

「……どう?」

 あ、須田くんに何か感想を言わなくちゃ。あわててシャーペンを走らせる。

〈空 ことり 風が吹いた〉

「う……ん?」

 須田くんが微妙な顔になった。
 うわ、そうか。受け取ったイメージじゃなく、どうだったかってことだよ!

〈すごくいい さわやか? アオハル?〉

「ああ、うんまあ。俺みたいな素人が背伸びしたってしょうがないから、そんな雰囲気。まだ歌詞はないんだけど」

〈もういっかいきく〉

「え。お、おお」

 ねだってみたら、須田くんがちょっとニヤけた。

 また頭から流してくれるのを、さっきより落ち着いて聴く。
 うん、わたしこれ好き。
 体をゆらしながら聴いていたら、隣で須田くんがエアドラムを始めた。
 さすが、自分で作った曲。軽々と動いている。メロディの鼻歌まで出てきたのは無意識なのかもしれないけど、わたしはなんだかとても楽しくなった。


 こんな気持ちは、声をなくしてから初めてだ。
 サビとともに、わたしは空を見上げる。
 うつむいてばかりで、ずっと見ていなかった空。
 初夏の光は強く、わたしの瞳を射た。
 曲の中で飛んでいくように感じる小鳥は小さい。けれどその羽ばたきは力強く、わたしを空へ連れていってくれそうな気がした。


 ふと見たら、近くに寄ってきたほんの小さな子がエアドラムと一緒に踊っていた。
 腕を振って。ひざを屈伸して。すっごくかわいい。
 その後ろ、困った顔で笑いをこらえているのはお母さんだろう。でもこれは止められないよね、かわいすぎて。
 須田くんも気づいたみたいで、ノリノリのその子に負けるわけにもいかないのか笑いながら叩き続ける。
 ふふっ。
 わたしも吹き出してしまったけど、手拍子で参加した。でもすぐに曲が終わる。なんだかもったいないな。子どもも期待する目でキラキラ見てくるし。

〈もういちど 音 外に出そうよ〉

「げ。はず」

〈いいから〉

 須田くんは観念したようにスマホを操作した。近くでないと聞こえないぐらいの音量だけど、子どもは大よろこびでまた踊り出す。

「おまえリズム感いいなあ」

 負けじと派手に叩いてみせる須田くん。
 何かやっているとみた他の子たちまでチラホラ寄ってくる。
 けっきょく、踊る人数がふえるわ落ちていた枝でそこらを叩き鳴らす子が出るわの大騒ぎになった。





 何回もリピートさせられて、すこし音量も上げさせられて、そのうちスマホの充電がヤバいから勘弁してと言った須田くんといっしょにわたしは逃げ出した。すごく楽しかった。

「あー、えらいことになった」

 歩きながら須田くんは笑っている。公園から見えないところまできて立ちどまり、わたしはノートを開いた。

〈ごめんね ムリ言って〉

「なんで? 俺の曲、うっかり一般にも初披露したけど好評だったみたいだし、いいよ」

〈わたしも たのしかった〉

「ならよかった。なんかすこし……笑い声、出てなかった?」

 え。
 そんなこと、ある? わたしは自信がなくて首をかしげる。

〈かすれごえなら今でも出るから それかな〉

「へえ。なんだ、声まったく出なくなったのかと思ってた。じゃあちゃんと治るんだな」

 すごくホッとされたけど、わたしはくちびるをかんだ。

〈じかん かかるかも〉

「……怪我なのか? 病気? あ、言いたくなきゃいいんだけど」

 遠慮がちに訊かれて考えてしまった。

 須田くんは、自分の抱えていたことをこんなに教えてくれた。
 やりたいこと。作った曲。わたしに期待していた歌。
 そして今日、わたしが楽しんでいるのを、喜んでくれた。

 そんな人に、わたしだけが事情を秘密にしているのはフェアじゃない気がする。
 ゆっくりと、わたしは書いた。

〈心因性 失声症〉

 その文字を、須田くんはじっと見つめていた。意味をかみくだくように。

「――それって、ストレス?」

 おそるおそる言われて、うなずく。

「何か嫌なことがあって、声が出なくなったってことか……」

 ぼうぜんとつぶやく須田くんは道路に視線を落とした。

「……俺にそんな事情、話していいのかよ」

 申し訳なさそうにされる。
 違うよ、須田くんだから知ってもらいたいんだと思う。

〈わたしダメなところたくさんある
 考えこんじゃって 声はそのせい
 須田くんは わたしをほめてくれたから言う〉

「そんなの、めっちゃほめるし。だっておまえ歌もすごいけど、そんな状態で学校来てるの尊敬しかねえよ」

 そう言って須田くんは、泣きそうな顔で笑った。
 尊敬。意外な言葉が出てきてわたしはきょとんとなった。でも須田くんはうんうん、と勝手に納得している。

「前に歌ってたろ、行進曲。あの歌みたいだな」

 ――それは、須田くんがコケてしまった曲のことだろう。教育番組の応援ソング。


  こまったことがあったら
  足ぶみしてみよう
  すすんでいない気がしても きみはもう
  空にとびあがれるって知ってる?
  きみの足の中にはね
  ロケットがついているんだよ


 あれはわたしが小さいころいつも歌っていたもの。泣き虫のわたしが次の日がんばるためには欠かせない歌だった。

〈ブースター点火、3、2、1!〉

「それ。すげーなつかしい――林原は今、キツくても逃げてないじゃないか。その場で足踏みしてロケット燃料を充填中ってこと。そのうち治るよ、きっと」

 え、わたし逃げてないの?
 そう言われてびっくりした。声が出なくなること、病気になることそのものが弱さだと思ってた。
 須田くんは心配そうな目でわたしを見た。

「なんかあったのって、学校だろ? 家のことは知らないけど……」

 わたしは首をかしげ考える。

 苦しいのは学校? 家?
 ――それともわたし自身?

「……なのに学校には来てるんだから、すごいなって話。クラスのやつらのことなら俺もすこしは協力するからさ。解決したら声も戻るんだよな?」

〈もどる と思う〉

「よし! って俺が歌を聴きたいだけなんだけど。だから俺にできることあったら遠慮なく言ってくれ。つーか書いて教えてくれ」

 はげまそうとするのか笑顔になった須田くんだけど、わたしは考えこんでしまった。

〈でも〉

 手を止めたわたしのことを須田くんはニコニコ待ってくれる。

〈わたしの 心のことだから
 わたしがだいじょうぶって思えなきゃ
 だめなんだよ〉

「……そうだろうけど。ええと、なんだ? いじめられたりしてる? それか勉強できないとか? 成績悪い印象ないけど」

 一生懸命考えてくれる須田くんを、わたしは手でとめた。そして書く。

〈自信ない じぶんに〉

 書いてから、顔が上げられなくなった。


 そう、けっきょくはこれなんだ。すべてはわたし次第。
 たとえば咲季ちゃんに何を言われたって、クラスでちょっと浮いた存在になったって、部活で後輩になめられたって。
 わたしはわたし。気にしなければいい。

 でも、わたしは人の目が怖い。


「自信……」

 うーん、と困った顔で、須田くんはわたしのことを見おろした。

「えーどこがダメ? 林原は普通に勉強も部活もしてて歌がうまくて、かわいいのに……あ、うわ、ごめん今のナシ!!」

 須田くんはバッと後ろを向いてしまった。わたしもピキンと真っすぐに立ちつくす。

 かわいい。
 ……って言った!?

「……ええと、ええとさ。とにかく林原は自信持っていいと思う! じゅうぶんすごいから! 俺、バスで帰るんで。じゃな!」

 まくしたてると、須田くんは大通りの方に走っていく。でもその途中、振り返ると大きな声を出した。

「LINE! してもいいか!」

 わたしは硬直したままギクシャクうなずいた。須田くんは小さく片手でガッツポーズすると、今度は歩いて去った。
 赤面したまま動けなくなっていたわたしはノロノロ歩き出す。帰ろう。なんだか怒涛の時間をすごして疲れた。
 保健室登校して。須田くんと待ち合わせして。子どもたちと踊って。それから――。


 ――自信を持て。
 うん、わたしもそう思う。そうなりたい。
 いちおうね、自分がまったくぜんぜん駄目な人間だ、とまでは考えていないし容姿だって……。

「ケホッ、ケホン」

 かわいいと言われたのを思い出して咳が出た。本気にしちゃダメ。
 あれはそう、一般的な基準でひどくない、ぐらいのことだよ。うん、きっとそう。
 ええっとね、自分ではちょっと身長が低いのがコンプレックスかな。顔は……すごく普通じゃないかと。

 なんだか言い訳めいたことを考えながら歩いていたら、カバンの中でスマホが鳴る。ビクンとした。須田くんさっき、LINEと言ってたよね。
 クラスLINEに入っているからお互いを登録はしている。なのにわたしが須田くんに手紙を書いたのは、公共のツールとして手に入れたIDを私的に使うのは失礼だと思ったからだ。下書きしたらすごく長文になって自分でも引いたし。あれをLINEするのはね。
 ドキドキしながら取り出すと、やっぱり須田くんだった。

[今日、話せてよかった!]

 ありがとう、のスタンプ。

 既読にしてしまったので、わたしもあわてて笑顔のスタンプを返した。
 動きが早いな、須田くん。まだバスの中でしょうに。


 須田くんはわたしのことをすごいと言ってくれたけど、知れば知るほど須田くんのほうがすごいと思えてくる。行動力があるし、やさしいし。

 わたしのために怒ってくれて、教室を出たのを追いかけてくれて、保健室に連れていってくれた。
 わたしの歌を好きだと言ってくれて、歌えと勧めてくれて、声を取り戻すためにできることがあれば協力すると申し出てくれるんだ。

 それは、わたしの声を聴いたおかげでいい曲ができたから、なんて理由だけど。そんなの須田くんの実力だと思う。
 今日、公園で聴いた曲。とてもすてきだった。あれをもし、わたしが歌えるなら。


 うたいたい。
 そう、感じた。


 泣きそうになった。
 ああもう、高校二年にもなって泣き虫! でも胸が詰まってしまい、くちびるをかんで我慢する。
 でも、このあいだは感じていたんだよ、歌おうとしたら苦しくなるって。なのに。


 ――わたしはまだ歌が好き。
 そう思えることが嬉しかった。
 





 夜になってベッドでゴロゴロしていたら、また須田くんからLINEがきた。ちょっと長いのが。

[自信、ての考えてたんだけど
 よくわかんないんだ
 林原は客観的にちゃんとしてるし]

[外向きでちゃんとしていられるように
 がんばってるからキツいのか?
 そういうのあるかも]

[がんばらなきゃダメな自分、ていうのも
 情けなくなるよな
 俺もたまに、まあまあヘコむ]

 着信を読みながら、わたしはどう返せばいいか考えてしまっていた。
 なのにまだ須田くんの言葉は続く。返信がぜんぜん間に合わなかった。

[経緯とか知らないくせに失礼すぎるけど
 的はずれだったらごめん]

[だいじなのは
 林原自身がどうなりたいかだと思う
 違うかな]

 既読にしているのに返信の文面がまとまらないわたしの手は、完全にとまった。
 わたしがどうなりたいか。
 それは――――。

[歌う人になれればいいって言ってたのは
 まだ有効?]

 わたしがトークを開いていると知りながらたたみかける須田くんの言葉は、世界から逃げようとしていたわたしののどに刺さった。

 知らずに息があがる。
 鼓動が速まる。
 歌いたい。
 気持ちがふくれあがった。

[俺、林原はそうなれると思う
 声が戻ったら俺の曲、歌ってよ]

 ――――ああ。

[自信持ってくれ
 俺が林原を
 歌う人にするから]

 わたしはくちびるをかみ、必死に文字を打つ。指がふるえた。

[ありがとう]

[わたし]

[うたいたい]

 かろうじてそれだけを返す。
 スマホを胸に抱えて深呼吸した。

 そっと画面を確認すると、須田くんから返ってきたのはクラッカーを鳴らすスタンプ。通話じゃないけど、つぶやいてみる。

「(うたいたい、よ)」

 のどから出たのは、まだかすれたままのささやきだった。



 ――こんな声じゃうたえない。
 須田くんの作る曲をうたうんだ、わたしは。

 そう思うのに、ままならない自分ののど。くやしくて泣きそうで、顔をゆがめた。
 でも我慢する。もう泣きたくない。



 取り戻したい。声を。
 うたいたい。もういちど。

 須田くんの曲が完成したら、それをうたうのはわたしでありたいと願った。
 ほかの人にうたわせたくない。

 とても我がままなことを考えたわたしは、須田くんが書いてくれたメモを取り出してながめた。


〈林原は 歌う人だと思う〉


 ――そうなりたい。
 わたしは机の引き出しから糊を探し出し、そのメモを大事にスクラップした。会話用ノートのいちばん最後のページに。

 その言葉の場所へたどり着けるよう、祈りをこめて。






「陽菜、あんた公園で音楽流して子どもたちと遊んでたんだって? ご近所さんに言われたわよ」

 お母さんがあきれた顔をしたのは何日か過ぎた朝だった。ゴミを出しに行き、近所のおばさんにつかまって聞かされたらしい。
 あちゃ。さすがのネットワーク。べつに悪いことをしたんじゃないし、わたしはあいまいに笑ってうなずいた。
 たしかにあの公園、町内ではあるんだけど。その場にいたのは小さい子と母親、あとは小学生だったから、うちのお母さんと接点はないと思ったのに。

「男の子が一緒だったって聞いたの」

 あ……須田くんのことか。しかたなくノートを広げ、答える。

〈クラスの人〉

「え? なんで公園で?」

〈音楽の相だんだった〉

 ……嘘ではない。ドラムのこと、曲づくりのことを打ち明けられたんだしね。お母さんは勝手に解釈し納得した。

「なんだ合唱部関係なの。陽菜は今しゃべりにくいのに……でもそうか、悩みを聞いてもらう相手としては最適かな。余計な口を挟まないもんね」

 お母さんは何かとわたしを持ち上げる。
 しゃべれないわたしでもいいのだと、はげまそうとしているんだ。
 でも、そうされるたび申し訳なくなる。娘がこんなことになって、お母さんだってつらいだろうに。
 無理して笑わないでいいよ、お母さん。わたしがんばってみるから。

〈あのね、わたしやっぱり教室でじゅぎょう受けたい〉

「え……」

 わたしはなるべくまじめな顔をした。

〈べんきょう わからなくなりそう
 ひる休みだけ ほけん室に休みにいくとかで〉

 わたしも考えたんだ。
 たぶん授業中だけなら困ることは起きない。たくさん話す時間がある昼休みに逃げ場があれば、教室に戻れそうな気がした。

「……大丈夫かしらねえ」

〈ためしてみたい〉

 わたしが言い張ると、お母さんは心配そうにうなずいた。このままじゃいけないのはわかっているのだ。
 だって高校には、留年も退学もある。ずっと特別扱いでは進級できないだろう。通信制などに転校を勧められるかもしれない。

 それは嫌だ。
 だって、須田くんと離れちゃうから。



 須田くんは、あれからたまにLINEをくれる。どうということのない朝のあいさつとかだけど。
 あ、ゆうべは[ギターパート、いいフレーズできた!]の言葉と踊ってるスタンプがきて笑った。編曲は進んでいるらしい。


 だからわたしは他所には行かない。
 わたしの声を待っていてくれる須田くんの、近くにいたい。
 そう思った。




 学校に向かう途中、大通りに出るとバス停がある。須田くんはここを使っているんだ。バス通学だったんだね。知らなかった。
 あの冬の日に公園に来たのは、バス停近くの自販機より公園にあるやつが安いからなんだって。そんな話もした。

 この数日で、わたしと須田くんはどんどん近くなっているような気がする。
 須田くんはわたしの味方だ。教室でも、どこにいても。だからわたしはだいじょうぶ。


 ……たぶんわたしは須田くんのこと、好きなんだ。

 歩きながら不意に思う。
 でもふしぎと照れたりあわてたりはしなかった。


 朝の光がわたしを包む。
 それでいいんだよ、と言われたような気がした。




 久しぶりに教室に行くと、ざわめきがわたしを迎えた。
 咲季ちゃんたちが目をまるくして手を振ってくれる。須田くんももう来ていてニヤっと笑いかけられた。だいじょうぶ、わたしには居られる場所がある。

「陽菜、やっと来た! ぐあいどうよ、のど治ったんだね」

 相変わらずグイグイ話してくるのは咲季ちゃんだ。わたしは首を横に振って、机にカバンを置く。前の席にいた幸田さんが苦笑して、たしなめてくれた。

「待ちなって咲季。陽菜ちゃん困るでしょ……まだしゃべるのは駄目なカンジ?」

 こくこく。

「そっかあ、たいへんだ。でも、授業に出てもいいぐらいに元気になったなら見とおし明るいって思っとく。なんか助けがいるならメモ書いて見せて」

 わたしはニッコリしてみせた。
 あ、もうマスクはしていない。声を出さないことにも慣れたし、いいかなって。
 それに、しゃべらないなら表情をよく見せたほうが相手に気持ちが伝わると思ったんだ。嬉しいことも、嫌なことも。

「なあに陽菜、もう六月だよ? ずいぶん長くかかるじゃない……潰したんじゃなくて病気なのか。歌手とかだとよくあるよね、ポリープの手術って。そういうのだった?」

 咲季ちゃんはどうしても、わたしが話さない理由を知りたいみたいだ。なんでもハッキリさせないと気がすまないんだよね。それはリーダーシップにはつながるんだろうけど、わたしにはすこしつらい。

 でもつらいと感じてもいいんだ。
 親切で言ってくれているのに受けとめられない自分を責めなくていい。
 それが最近わかった。

 わたしはゆっくりとノートを取り出して白いページを開いた。須田くんとやり取りしたところは、ほかの人には秘密。

〈ポリープじゃないけど、びょうき〉

「えー、なんの?」

〈げんいん、わからない〉

「うっそ、難病みたいなやつなの!? えー陽菜かわいそう……」

 ショックを受けた顔になる咲季ちゃんに、わたしはしかめっ面をした。

 かわいそうなんて言ってくれなくてもいいよ、咲季ちゃん。
 わたしの心はたしかに弱くて、そのせいで声をなくしたけど、これからがんばって強くなろうと思えたもん。

 それは、須田くんのおかげ。
 須田くんがわたしの声を好きだと言ってくれたおかげだ。

「病気なんか、誰でもなる可能性はあるんだぞ」

 向こうから口を挟んだのは、その須田くんだった。わたしも、咲季ちゃんも振り返る。須田くんはため息をついた。

「ひとのことだと思って難病かわいそーとか言ってんなよ。本人がんばってるんだから」
「なによ、たいへんだと思ったらそれぐらい言うでしょ! 友だちだもん!」
「ああはいはい、綾野がやさしいのはわかったからさ。でもおまえ、自分が病気の時にかわいそがられて嬉しいか? あわれみって、なんか上から目線ぽいよな」
「そんな……!」

 言い返しにくくなったのか、咲季ちゃんはムスッとうつむいた。わたしはびっくりして須田くんを見つめる。そしたら向こうから笑いを含んだ目くばせが返ってきた。
 これが「教室のことなら協力する」ってやつ……?

「まあまあ、たしかに須田くんが言うのもそうかもね。咲季は気持ちのまんまポンポンしゃべるからさ」

 その場を取りなしてくれたのは幸田さんだった。この人はわりといつも客観的で、信用できる気がする。わたしは急いで書いた。

〈みんなありがと
 びょうきのことは
 あんまり言わないでいてほしいかな〉

「……わかった。ごめん」

 ノートに目を落とした咲季ちゃんは、しぶしぶ謝ってくれた。





 それから咲季ちゃんはおとなしくなった。というかわたしを見なくなった。わたしにどう接していいのか、わからなくなっちゃったのかもしれない。

〈さきちゃんに悪いことしちゃったかなあ〉

 そうノートに書いたら、須田くんは「はあ!?」と叫んだ。そしてあわてて黙る。ここは図書室なのだ。

「……すこし考えて話すようになったほうがいいんだよ、ああいう奴は」

 知らん顔でつぶやかれる。そうなのかな、よくわからないけど。でもたしかに咲季ちゃんのプレッシャーがなくなってから、わたしは落ち着いて過ごせていた。



 授業を教室で受けるようになったわたしは、なんとか以前の生活に近づいている。
 短い休み時間は幸田さんがポツポツと話しかけてくれた。お弁当を食べるのは保健相談室に行ったり、購買の横の飲食スペースを使ってみたりしている。無理に誰かとペースを合わせないでいいんだと思ったらとても楽になった。


 そして昼休みは、こうやって須田くんと図書室で会ったりできる。こそこそと打ち合わせるのは、もちろん作っている曲のこと。
 この時間が今のわたしには何より楽しくて――それは須田くんと話せるからだと自覚していた。

 わたしは須田くんのことが好きだ。

 ふと気づいた気持ちは会うたびに強くなる。新しく須田くんのことを知るたび鮮明に感じる。
 以前に作った曲のデータも聴かせてもらった。すごくいいと思った。こんな人に「歌ってほしい」と言われた自分がほこらしい。まだ声は出せないけれど。

 いつか。
 できるなら、なるべく早く。
 わたしの声で、この曲をうたいたい。


「でも歌詞がないとさ……」

 暗たんとして、須田くんは肩を落とした。なんとなくのイメージはあっても言葉にするのは難しいらしい。

〈今のメロディに言葉をのせるの?〉

「基本そうだけど、詞に合わせて曲も調整する」

〈ふうん〉

「……おまえ書かない?」

〈はい?〉

「や、こうサラサラと字を書いてるの見てると、俺よりそっちのほうが向いてるんじゃないかって……」

 困り果てたようすで須田くんは机に突っ伏した。



 描きたいのは身近なことだと須田くんは言った。それを書きとめてみる。

〈自分が何者なのかわからずに苦しみ、悩む
 でもすこしずつ前に進む〉

 うん、こんな歌はきっとわたしのことも救ってくれると思う。



〈わたしのことみたいだよね〉

「そうかな。まあ俺が作ってるんだし……俺、林原のこと見てたから」

〈見てた?〉

「うぐ、あの……ほら、歌を聴いてから気になってたんで」

 照れ笑いされた。けっこうかわいい。
 図書室の机で、椅子を並べてコソコソ話して。こんな風にしていると、つき合っているみたいに思えてちょっと幸せだ。

「林原の感じたことでいいから、ほんとに書いてみてよ。最初に曲聴いた時のイメージを織り込んでもいいし。なんて書いてたっけ、あの時」

 乗り出した須田くんがノートを勝手にめくる。寄せられた体から須田くんの匂いがした。

「これだ。〈空 ことり 風が吹いた〉――いや、そんなかわいいかコレ」

 一緒にノートをのぞきこむ。その近さに心がじんわりとゆるんだ。
 そして公園のベンチで並んで座った感覚もよみがえる。

 初夏の陽射し。
 目を射らんばかりの空の青。
 汗をかわかす風。
 子どもの笑い声。

〈空 ことり 風が吹いた〉
〈すごくいい さわやか? アオハル?〉
〈もういっかいきく〉

 わたしが書いた言葉はつたない。こんな感想を言う人間が歌詞なんて書けるだろうか。

「――でも林原のこと考えて作ってた曲だしそうなるか」

 聞こえないぐらいの小ささで須田くんがつぶやいた。
 え、と首をかしげて見ると、顔をそらされる。
 フイと横を向いている耳が赤いような気がするのは……やだ、待って待って。


 今のは「そんなかわいいかコレ」に対してのセルフつっこみ?
 わたしイメージの曲だからそうなるって……あ、ダメ。心臓がバクバクしてきた。

 わたしは何も言えずに口をアワアワする。ううん元からしゃべれないんだけど!
 呼吸がうまくできないような気がするのは、声をなくしたばかりの苦しかったころと同じだった。
 なのにこの呼吸困難はぜんぜん嫌じゃない。なんてゲンキンなんだろう。


 もしかして須田くんはわたしに好意を持っていてくれたりするのだろうか。だったらいいな。
 前にも「かわいい」と言ってくれたことがあるし、一緒に音楽をやろうと言ってくれるのだから、すくなくとも嫌われてはいないと思っていいはず。
 でもそれは、わたしの歌に用があるだけかもしれない。「かわいい」のどうのだって、須田くんの求める音楽性に必要なだけの可能性が高い。わたしの声は「カッコいい」より「かわいい」寄りだ。
 そう考えてわたしは気を引きしめた。
 妙な自信はつけちゃいけないんだ、カン違いはイタイよ、陽菜。

 ぶっきらぼうな口調で須田くんは続けた。

「うーんと、まあ。ちょっとお願いしてみてもいい、作詞?」

 まだなんだか照れくさそうに言われ、わたしはあわててうなずく。

〈せきにんじゅうだい〉

「林原も責任負ってください。だって俺たちユニットだし」

〈ユニット〉

「そう。あるだろ、曲担当と歌い手の二人組。ああ、それとも林原陽菜フィーチャリング龍仁がいい? 歌手とプロデューサーがコラボした曲ですっていうやつ」

 こういうの、と須田くんはわたしのシャーペンを取った。ノートに書いてくれる。

〈Hina feat.Tatu〉

「わはは、すっげえ偉そう」

 須田くんはヒョイとシャーペンを返しながらニヤニヤした。戻ってきたグリップのあたたかさにちょっとドキドキする。このペン宝物にしよう。

「ユニットなら、その名前も考えなきゃ。やること多いな」

 書かれた文字を、わたしはあらためてかみしめた。
 ひな、ふぃーちゃりんぐ、たつ。
 ヒナ。なんだか名前を呼んでもらったみたいだ。ふわふわした気分でわたしは須田くんの字の下に線をひく。

〈これかっこいい〉

「そっか。じゃこれでもいいや。それより歌詞だよ、なんか書けない?」

〈がんばってみる
 けど いっしょに考えようよ〉

 それはわたしが仕掛ける、せいいっぱいのワナだった。
 二人でいられる時間が増えますようにっていう願いをこめて。

 須田くんが明るい顔になってうなずいてくれて、わたしは心の中でガッツポーズした。




 それからわたしは作詞用ノートを別に作った。暫定的にもらった曲データをくり返し聴きながら、言葉のイメージをふくらませる。
 でも、すぐに煮つまってしまった。困ったわたしは須田くんに相談してみた。

 帰り道。休部中のわたしと帰宅部の須田くんは、バス停のそばの街路樹の陰で立ち話をすることが多い。校内だと目立ってしまうから。ドラムも歌も、曲作りだってクラスメイトには内緒のことだしね。

〈ものすごくポエムになるか
 学校の作文みたいか
 どっちかなんですけど どうすれば〉

 訴えたら、ヒーヒーいって笑われた。そんな反応?
 恥ずかしくて怒った顔をしてみせたら真面目な表情になったけど、まだわざとらしい。にらみ続けると手でごめんと謝られた。

「ぶっちゃけ俺もそうだったけど……」

 あれ、なんだこれ須田くんも通った道なのか。

「どんなポエム? 見せてみ」

 ニヤニヤされて、わたしは作詞ノートを死守した。絶対見せたくない!
 須田くんは奪い取ったりせず、笑って空を見上げる。そしてつぶやいた。

「むずかしいよな……誰かの心に届く言葉なんて書けるんだろうか。俺らなんて、ただの高校生なのにさ」

 誰かに届く、言葉。
 わたしもつられて顔を上げた。
 そろそろ梅雨入りの空はどんより暗い。早く帰らないと降り出すかもしれないけど、須田くんといる時間がすこしだけほしかった。

 あの曲を聴いたわたしが、最初に書いた言葉も〈空〉だ。
 空はいつもそこにあって、ふだんは気にもしないのにわたしを包んでくれていて。
 ふと見上げると、心は空から何かを受けとる。厚い雲は不安を連れてくるようだ。

「――俺のドラム、聴きに来ない?」

 いきなり須田くんが提案した。

「先生には曲作りのアドバイスもらってるんだ。林原のことも話した。会わせろ、て言われてる」

 え。え。え。

〈先生 いそがしいんでしょ〉

「今ツアーのはざまで時間あるみたい。次のレッスンの日、よければ見学してよ」


 ドラム教室。それはどんなところだろう。
 見学に誘われて、わたしはレッスンの日に須田くんと待ち合わせた。
 放課後なので私服に着替え、すこし遅くなるからと親の了解も取る。行き先は、初めて須田くんのエアドラムを見たショッピングモールの近くだ。

「お、君がヒナちゃん? いらっしゃい」

 山野内拓斗さんというドラムの先生は、いきなり名前呼びで距離を詰めてくる。わたしの声が出ないことはご存じだそうなので、ペコリと頭だけ下げた。
 三十二歳だと聞いていたけど、先生はすごく若い。シンプルなパンツと無地のカットソーで、大学生みたいな人だ。

「狭いけど、どうぞー」

 招き入れられたのは本当に小さな部屋だった。ドラムセットが二つとスピーカーがあり、それでギリギリ。防音の扉をガコンと閉めて、わたしは扉の前に立っているしかない。

「ごめんね、見学用の椅子もなくて」

 いいえ、お邪魔してしまってすみません。そんな意味をこめて首を横にフルフルした。
 先生が右、須田くんは左側のドラムの前に座り、椅子の位置を合わせる。カバンから出したスティックでタムタムタムと軽く鳴らすと、須田くんはチラリとわたしに視線をくれた。

「あー、すげえうるさいと思うから、なんなら耳押さえてて」

 押さえるほどの音量なのか。間近でドラムなんて聴いたことないし、わからない。こくんとうなずいた。

「タツは先週の曲、もう一度やりたいって言ってたな」
「そうです。なんか回し切れてなくて気持ちよくなかったし」
「たしかに」

 須田くんは「タツ」と呼ばれているんだ。
〈Hina feat.Tatu〉の由来がわかった気がしてニコニコしてしまった。
 山野内先生には小学生の頃からお世話になっているというから、とても影響を受けているのかもしれない。というか、なついているんだな。そんな空気感。ちょっと年の離れた兄弟のようにも思えた。

「じゃあ一回流すぞ」

 山野内先生がスマホで何か操作すると、スピーカーからJポップが流れる。

 ドドン!

 突然、音のかたまりがわたしにぶつかってきた。
 それはもちろん、須田くんが叩いたドラム。音圧にひるんでしまう。
 よろけかけるのを踏みとどまって、わたしはドラムセットの向こう側で真剣な顔をしている須田くんを見つめた。
 華やかなスネア、軽快なタム、そして右足が踏むバスがおなかに響く。内臓から揺さぶられるようだ。

 演奏しているのは何年か前の曲だった。男性シンガーソングライターのもので、映画の主題歌だったはず。
 間奏の終わりには派手なドラムの見せ場があって、わたしには何をどう叩いているのかまったくわからなかった。ただ、須田くんが格好よかった。
 そこを過ぎると余裕が出たのか、須田くんは軽くわたしを見る――そして、ドヤ顔で笑った。



「おっけータツ。クリアしてきたな」
「いちおうね、家で練習したもん」

 曲が終わると山野内先生はダラダラダラとドラムロールを鳴らし須田くんをほめた。
 すこし上気した須田くんへ、わたしはそっと拍手する。先生は自慢げにふんぞり返ってみせた。

「どうだった、ヒナちゃん。タツうまいだろ」

 こくこくこく。
 わたしは勢いよくうなずいた。まあ正直いうとわたしにはドラムがよくわからないし、今は耳がキーンとなっているんだけど。それでも見とれたのは本当だ。

「こいつがドラム始めたのは小……四? 五?」
「四です」
「そう。まだチビでさ、椅子いちばん低くして、足が届くかギリギリで」
「なんでそんな話すんの! 親戚のおじさんじゃないんだから、そーゆーのいいんで!」

 思い出を語られて須田くんが居心地悪そうにさえぎる。わたしは吹き出してしまったけど、そんなかわいい須田くんを知っている先生がすこしうらやましかった。

「別にいいじゃーん。でね、そんな頃からドラム大好きなタツだけど、ドラマーで一本立ちするより曲作るのやってみたいって言われてさ。いろいろ教えてるわけだよ」
「お世話になってまーす!」
「おう、感謝しろ。ヒナちゃん、歌が上手いんだって?」

 話のほこ先がきて困ってしまう。上手いのかどうか、自信なんてなかった。あいまいな笑みで応えてしまったら、須田くんがタタタタとタムを叩く。応援するみたいに。

「上手いよ。そりゃプロに比べたらまだまだかもしれないけど、自信持てって」
「あー、まあ上を見るとキリがない世界だもんな。ヒナちゃん、自分の才能を信じられないタイプかい?」

 それにはそっとうなずいた。
 情けないことだと思うけど、そのとおり。

「うん、それもいいんじゃない? そういう人間は努力も忘れないからね。ぶっちゃけるとさ、才能あっても潰れる奴は潰れるもんだよ」

 山野内先生はサラリと笑った。その言い方は突き放していて冷たい――もしかしたら身近にそんな人を知っているのかなと思った。

「勝つのはね、最後までやってた奴なんだ。才能の有無じゃない」

 先生はわたしを真っすぐ見、静かに言い渡す。

「だからタツと一緒にあがいて抗ってみな。覚悟決めれば声も戻るかも」
「ちょ、やめ!」

 須田くんがあわてて止めた。デリカシーないって! とささやくのが丸聞こえだった。こんな狭さだから。

 山野内先生は、わたしの心因性の病気を知っているのかもしれない。須田くんがどう話したかわからないけど、ちょっと調べれば出てくる病名だ。
 でもこの人になら知られていてもかまわないと思った。須田くんに親身になってくれる先生なのだから、きっといい人。

 わたしはゴソゴソとノートを取り出す。

〈須田くんの曲
 うたいたいです〉

 ドラムセットのあっち側に向けて見せたら、先生はアハハと笑った。

「なんだよ、やったなタツ」

 ニヤリとするのが、なんだか怪しい。男同士だとどんな話をしてるのかな。気になったけど知らんぷりでノートを書く。

〈いい歌になると思いますか?〉

「うん、今回のはいいよ。メロディラインにタッチ効いてて、聴かせてくると思った。だけど歌うには高音に跳ねたり転調くり返したり、難しいんじゃね?」
「そうですけど……林原なら歌えると思う。でも今、歌詞で詰まってて。先生の昔のバンド、オリジナル曲ってどう書いてました?」

 須田くんの質問に、山野内先生はうーんと考えて目を伏せた。
 昔の……というのは、売れなかったと聞いたバンドのことか。嫌な記憶に踏みこんでしまったのではと心配になる。
 でも先生は気を悪くしたようすもなく、真剣に答えてくれた。
 
「曲はキャッチーな若向けだろ? じゃあ歌詞も等身大でいいんじゃないの。リアル高校生だろ、おまえら」
「いやあ、なんか作文みたいになっちゃって」
「作文かー」

 苦笑いされてしまった。でもわたしを見た目はとてもやさしい。

「ヒナちゃんは……いろんなこと、たくさん悩んでるよな、たぶん。そういうのタツに伝えたかい? これまで二人でどんなこと話した? そういうの思い出してみたらどうだろうか」

 悩み。
 須田くんには、いろいろ知られている。目の前で泣いてしまったりもした。
 そういう恥ずかしかったことも、歌ってしまえば昇華できるだろうか。すくなくともただの黒歴史ではなくなるかもしれない。
 わたしたちが話したことは――このノートには半分だけ、わたしの言葉だけなら書かれている。それを読み返せば。

「本当の言葉は強い。まずはヒナちゃんとタツが感じたこと見たこと、書いてみなよ。んで、そこにちょっとだけ意外なフレーズとかキツめのワードを入れると引き立つ」
「なるほど。テクがあるんだ」
「たりめーよ。まあ売れなかった作品のことだから、話半分に聞こうな?」

 山野内先生はスティックをクルクル回して笑う。

「あと、青春だからって悩んで立ち上がるだけじゃだめだ。恋愛を入れようぜ。君と僕の物語にしろ」
「えええー!」
「恥ずかしがってる場合じゃねーの。タツだって悩み多き純文学よりラブコメ漫画のほう読むくせに偉そうにすんな。ヒロイン必要、絶対。聴く側の立場だったらどうよ」
「そりゃ……そうだけど」

 須田くんはぶつくさ言っている。でもわたしは、先生の主張がなんだかストンとふに落ちた。

 これまでに試し書きした詞は、世間で聴かれている歌と何か違うと思っていた。足りないものがあると。
 それは、たとえば恋愛なんだ。
 ほかにもプラスできるものはいろいろあるだろう。でもわたしたちが求めているのは、苦しさに寄りそってくれる相手。心にいちばん近いのは恋人だもんね。片想いでも失恋でも、もちろん成就する恋でもかまわない。

 わたしはパラパラとノートをめくった。

「どうした、林原?」

 どんな曲にするのか話した時。わたしはノートにメモしていたはず――あった。

〈自分が何者なのかわからずに苦しみなやむ
 でもすこしずつ前に進む〉

 それを須田くんに見せると、ああ、と思い出してくれた。わたしはその下に書き足す。

〈だれかと出会い
 たすけて たすけられてがんばる〉

 そのノートを山野内先生も見てくれた。

「正解。君がそこにいるから、君のためだから、みたいのがあると盛り上がるだろ」
「うん……まあ、そうッスね」

 須田くんはまだ恥ずかしそうにしていた。
 まあね、わたしだって恥ずかしいよ?
 でもこれはフィクションの歌。だから恋を描いてもだいじょうぶなのだ――ちょっと本当のことも入っている気はするけど。


 だってわたしが泣かずにいられるのは須田くんのおかげだ。これがわたしの歌ならば、「君と僕」が出てくるはず。

 自信をなくし、声もなくした「君」。
 泣いていた「君」に手をのばした「僕」。
 
 そんな歌にできるだろうか。




 それからは、普通にドラムのレッスンだった。
 違う雰囲気の曲もわたしに聴かせなくちゃと山野内先生が言い出して、選んでくれたのはジャズ。
 ポップスもロックもジャズもだなんて、先生はなんでも叩くんだと驚いた。
 チッチチー、チッチチー、から入るジャズ。須田くんは苦手なんだって。スイング感がわからない、と言う。わたしも聴き慣れないけど、歌えたら格好よさそうだと思った。



 レッスン終わり、スタジオから出た山野内先生は、わたしにスマホを振ってみせた。

「LINE交換しよう?」

 え、わたし? ただの高校生なんですが、プロのドラマーさんとつながったりしていいのでしょうか。
 首をかしげたけど、先生はニコニコと言ってくれた。

「なんか質問あったら相談にのるからね」

 そういうことならお願いしたい。須田くんもうなずいているので、わたしもスマホを出し友だち登録させてもらった。先生にあらためて頭を下げ、ビルを出る。
 外では小雨が降り出していた。もう梅雨が始まっている。

「林原はバスで帰るんだよな」

 こくこく。いつも須田くんが通学に使っている路線バスだ。

「送ってくか……?」

 迷ったように訊かれたけど、両手を振ってお断りする。そんなの申し訳ないよ。

「でも暗くなってるし」
「たっくーん!」

 突然かわいい声が聞こえたと思うと、須田くんの腕にガシッと抱きつく女の子がいた。二人の傘がぶつかる。

「え!? あ、なんだ愛梨!」

 ビクッとした須田くんが腕から引っぺがしたのは、どこかの制服を着た子だ。身長は高いけど、顔を見るかぎりではちょっと年下かもしれない。
 アイリと呼ばれたその子はキラキラした目をして、背中にギターを背負っていた。須田くんの音楽仲間……なの?

「何やってんだよ中学生。さっさと帰れ」
「えー? 今年から普通にこの時間にレッスン入れたんだもーん。たっくんだって、たった二コ上のくせに」

 というと、この子は同じ音楽教室のギタークラスなのだろう。そして中学三年生。
 また腕を組もうとするアイリちゃんを須田くんは振り払った。くちびるをとがらせたアイリちゃんは、わたしを値踏みするように見る。

「たっくん、女の子連れて何してんの」
「いいだろ別に」

 須田くんはぶっきらぼうだった。まずいところを見られた、という感じだ。
 それはわたしに対して?
 それともアイリちゃんに、なのかもしれない。「たっくん」呼びして腕も組むアイリちゃんが、実は須田くんの彼女なのだとしたら――わたしはとんだおジャマ虫の道化者だ。

「(ン、ウン)」

 しゃべれないことを呪った。小さな咳ばらいしかできない。

 送ったりしなくていいよ。
 楽しかった。先生によろしく。
 ――彼女なの? かわいいね。

 言いたいことも言いたくないことも胸に詰まってしまい、わたしの心はどうにもならなくなる。

「林原、あの」

 話しかける須田くんに作り笑いで手を振って、わたしはバスターミナルへと走った。

 須田くんは、追いかけてこなかった。





 雨が強まる中、ドラムレッスンから逃げるように帰宅したわたしはいつもより遅めの夕食をとった。
 その間、部屋に置きっぱなしのスマホでLINEが鳴っている気がした。でも食事を中断して見にいくのは怖くて無視する。


 須田くんからだったらどうしよう、と思ってしまった。

 さっきの子、彼女なんだ。
 バレちゃったのに紹介しなくてごめん。
 ギターアレンジは彼女にも手伝ってもらってるんだよね。

 そんな言葉が送られてきていたら。
 想像するだけで胸がさわぎ、ご飯の味がしなかった。



 でも食べ終わっておそるおそる確認したLINEは、山野内先生からだった。


[やっほー、初メッセ]

[タツのことよろしく]

[あいつ実は
 表舞台に立つの怖いんだと思う
 あ、告げ口したの内緒ね]


 ……え?
 先生からのLINEは、そんな暴露から始まっていた。


[タツ、小学生のころの発表会で
 曲の途中でまっしろになって
 止まったんだ]

[ライブハウスの舞台でタツは
 すくんで動けなくなった
 でもドラム抜きで演奏すすんだよ
 やり直すとかナシ]

[他のメンバーも子どもだから
 どうすればいいか誰もわかんなかったんだ
 あれはキツかった]

[だけどタツはそれからも
 ドラムを好きでいてくれた]

[あいつが曲を作るの
 応援してる理由がそれ]

[どんな形でも音楽を
 手放さないでいてくれて嬉しい]

[お願いしますヒナちゃん
 あいつを世の中に引っ張り出してやって]


 そんな言葉と、[お願い]のスタンプ。そこで先生のLINEは止まっていた。
 わたしは身じろぎもできずに立ちつくす。


 須田くん――そんなことがあったんだ。
 子どもバンドでの大失敗。
 そういえば言っていた。人の前で演奏するのは得意じゃなくて、発表会は出たけど向いてないって。このことなのか。


 だけどドラムはやめられなくて。
 音楽は大好きで。
 曲を書いてみたいと頑張っている。

 須田くんにも苦しい過去があり、それを乗り越えて進もうとしていて――そう知らされ、わたしの心臓は跳ねた。


 わたしたちは、同じなのかもしれない。


〈自分が何者なのかわからずに苦しみなやむ
 でもすこしずつ前に進む〉
〈だれかと出会い
 たすけて たすけられてがんばる〉

 ノートに書いたこの言葉は、そのままわたしと須田くんのことだ。



 ――お願いします。あいつを世の中に引っ張り出して。



 先生からの依頼に心がふるえた。

 わたしが? そんなことできる?
 須田くんの曲を歌うことで、須田くんを助けられるの?


 ……音楽に寄りそうならアイリちゃんでもいいよね。そう思いついて手足が冷たくなる。
 ううん、だけど。


 あの曲は〈Hina feat.Tatu〉のものだから。


 ギターは任せてもいい。
 だけど、あの曲を歌うのはわたしだ。

 歌おう。
 めいっぱい。
 わたしが須田くんの役に立てるなら、いくらでも歌う。助けられてばかりなんて嫌だから。
 わたしからも須田くんに、手を差し出さなくちゃいけないんだ。


 ……なんて大言壮語するなら、まず声を取り戻さなくちゃいけないのはわかってる。
 わたし、情けないね。




 考えたすえ、わたしは先生のLINEに返信した。

[がんばります]

 言えるのは、そんなひと言しかない。
 だけどわたしなりに、せいいっぱいの誠意と覚悟をこめ送信ボタンを押した。





 その夜は、なんだか眠れなかった。
 ドラムの音に圧倒されたのもある。でも歌詞の方向性がみえてきて頭がグルグルしてとまらなくなっていた。それに須田くんの過去を教えられたし――アイリちゃんという女の子にも出会った。
 たくさんのことがありすぎて、完全にキャパオーバー。


 ああもうダメだ。
 起き上がって明かりをつけノートを開く。会話ノートをめくりながら、気持ちのポイントになる言葉を歌詞ノートに転写する作業をした。

〈おこってくれて ありがとう〉
〈前に出られなくて〉
〈もういっかい きく〉
〈音 外に出そう〉
〈だいじょうぶ、て思えなきゃだめ〉
〈自信ない〉

 読み返してみると、まだまだわたしたちの会話はすくない。たいしたことが言えていない。もっと須田くんと話したいよ。
 須田くんとのLINEも、もう一度見てみる。


[がんばらなきゃダメな自分、ていうのも
 情けなくなるよな
 俺もたまに、まあまあヘコむ]

[だいじなのは
 林原自身がどうなりたいかだと思う]

[歌う人になれればいいって言ってたのは
 まだ有効?]

[俺、林原はそうなれると思う
 声が戻ったら俺の曲、歌ってよ]

[自信持ってくれ
 俺が林原を
 歌う人にするから]


 そして、わたしの返信。

[ありがとう]
[わたし]
[うたいたい]



 心が、風に吹かれたみたいにざわめく。
 外は雨なのに、深く青い空を見上げた気がした。

 ――わたしはどうなりたい。どうしたい。

 ううん、もう答えは出ている。
 
「う(たい)、(た)い」

 つぶやいたら、すこし声になった気がした。




 眠れないまま歌の流れを考えてみた。

 世界が怖くて窓の中からながめているだけの「君」。
 ながめるのは「空」だ。じゃあ「君」は「小鳥」。力のない、弱い鳥。
 「君」は失敗が怖い。窓を開け、空へ飛ぶことができない。小さな部屋でさえずるだけ。

 そのさえずりを聴いたのが「僕」。
 窓の外からほめてくれた「僕」に勇気をもらい、「君」は外に出る。小さくはばたき、さえずってみる。
 だけど強く大きな鳥たちから笑われて、さえずることをあきらめるんだ。

 飛ぶこともさえずることもできない「君」。そして寄りそう「僕」にも実はおそれていることがある。
 「僕」のことを理解した「君」は――。



 ――ここから、どうすればいいだろう。
 この歌がわたしと須田くんの物語だとしたら。まだこの続きは決まっていないんだ。

「(はな)そう。須(田)くん(と)」

 しゃべってみた言葉はカサカサして聞き取りにくい。
 だけどわたしは、わたしの声をあきらめないことにした。ちょっとずつ発声練習を続けていこう。





 次の日、やや寝不足で登校したら、なぜか昇降口近くの廊下でウロウロする須田くんを見つけた。わたしに気づいてサッと顔色がかわる。

「はやしば――」

 遠くから声をかけようとしてあわてて口をつぐむのは周りを気にしてだろう。立ちどまったわたしのところに、さりげなく寄ってくる。目をそらし気味にしながらボソりと言われた。

「あのさ、愛梨は小学校中学校も同じだったんだけど、ただの後輩だからな。前から一緒に組もうって誘われてて、でも俺はそんな気ないから」

 あ。
 アイリちゃんのことを教えようとしてくれてたのか。わたしが逃げるみたいに帰ったから気にしたのかな。悪いことしちゃった。でも須田くんの彼女のような振る舞いをされたからびっくりしたんだもん。
 そうか、あの子は須田くんをバンドにスカウトしてるんだね。恋人などではないとわかってすごく気持ちが楽になった。

「林原と組んでるってハッキリ言った。あいつ距離感近くて困ってたんだ」

 きまり悪そうに須田くんはブツブツ言う。腕組みの言い訳? 彼女でもなんでもないわたしに、そんなのいいのに。
 でもそうか、わたしが陰キャっぽいからかも。一緒に音楽をやろうとしてる相手にドン引きされるのはよくないと気をつかってくれたんだろう。
 わたしは小さく笑ってうなずいた。何も気にしてないよ、と。そして思いつき声にしてみる。

「いい、よ」
「え、しゃべれんの」

 ハッとした須田くんが目をまんまるにした。そんなに反応されると恥ずかしい。

「ちょっ(とずつ)、(がんば)る」

 聞き取れたか心配だったけど、須田くんは嬉しそうな笑顔になった。

「すげえ。でも無理すんなよ」
「(きょう)しつ、では。(しゃべら)ない」
「ん。いきなりたくさん話すと普通にのど傷めそうだしな。俺ともノートでかまわないから」

 こくこく。
 喜んでもらえて、さらにやる気が出た。

 須田くんは「じゃな」と先に歩いていった。あまり二人でいると、つき合っているのかとクラスメイトにからかわれそうだから。「そういうの嫌だろ?」と須田くんに申し訳なさそうにされたことがある。
 そこで〈いやじゃない〉なんて答えたら告白みたいなものだ。わたしはあいまいに首をかしげるしかできなかった。


 音楽活動のことは学校では秘密だった。
 わたしの声が戻って曲が完成したとしても内緒にすると決めている。動画の再生数に同級生の興味本位アクセスが混ざるのを避けたいからだ。
 初投稿の再生数なんて一桁、よくて二桁になるはず。そんな結果を突きつけられても受けとめなくちゃいけない。そう言われていた。
 須田くんは、それだけ本気なんだよね。
 わたしだって――その想いに応えられる歌い手になりたい。
 そのためには、とりあえず声を戻すこと。それと、歌詞をもっと形にすること。
 すこしずつでしかないけれど進まなくちゃ。

 ところが教室に向かおうとしたら後ろから呼びとめられる。

「陽菜、おはよ」

 咲季ちゃんだった。
 振り向いたわたしは笑顔だけであいさつを返した。咲季ちゃんは並んで歩き出す。
 最近はわたしが昼休みに教室を抜け出しているのもあって、あまり一緒にいる時間もなくなっていた。避けるみたいなことをして申し訳ない。気を悪くされたかもしれないと思いついた。

「まだしゃべれないの」

 つまらなそうに咲季ちゃんは訊いてきた。かすれ声しか出ないのは本当なので、うなずく。

「ふうん……じゃあNコンの頭数には、もういれないからね。ずっと休部だし。どんな状態かぐらい連絡しなよ」

 ブスッと文句を言われ、わたしは息をのんだ。そうだよね、わたし曲作りのことばかり考えて、そっちをほったらかしてた。
 両手を合わせ、ゴメンとおがむ。廊下じゃノートを出して書けないから。咲季ちゃんは肩をすくめてフンと鼻を鳴らした。

「まあ体調がよくないのはわかってるけどさ……このごろ須田くんと仲いいじゃない。なんかコソコソ会ってるでしょ、図書室とかで。彼氏作るヒマあるのに部活には音さたナシとか、そういうの感じ悪いよ」

 吐き捨てて、咲季ちゃんは小走りに行ってしまった。

 ――感じ悪い。

 須田くんのことを誤解されたより何より、その言葉が胸に刺さってわたしは立ちつくした。そんなふうに思われてたんだ。

 咲季ちゃんにはお世話になった。合唱部に入部したばかりの時から。いつもたくさん話しかけてくれて嬉しかった。
 グイグイ人を引っぱっていける咲季ちゃんにしてみたら、わたしなんかぼんやりしていてイラつくだろうと思ったこともある。でも非難を言葉で明確にぶつけられると――。

「ケホ、ゴホッ」

 のどが苦しくなって咳が出た。久しぶりだ。
 さっきは須田くんと話せたのに、口を開くのも無理になる。きっとパクパクするだけで、音なんかすこしも出なくなっているはずだ。胸がしめつけられた。



 ごめん須田くん。
 わたしやっぱり、歌えないかもしれない。