他の生徒よりすこし早めに昇降口を出たわたしは、公園に先に着いた。
冬の日にわたしがうたっていた藤棚の下は今、緑の葉の影が落ちている。ちょっと前には花が咲いて甘い蜜の匂いがし、長い花房のまわりをクマバチがぶんぶん飛んでいた。
須田くんに会ったあの日は寒くて、子どももいなくて。だからわたしはうたってみたのだった。
でも今日はあたたかい。五月も下旬、遊ぶ子どもたちはシャツ一枚だ。赤ちゃんみたいな子から小学生までが駆け回る中で、わたしは空いているベンチに座ってノートを取り出した。話すなら、わたしから書かなきゃならないこともあるだろう。
「あ、悪い。遅れた」
たたた、と須田くんが近寄ってきた。ううん、誰にも見られずにすむように、わたしがチャイムと同時に下校してるだけだから。
「えーと、まず」
隣に座った須田くんは、照れた顔で口を開いた。
「……林原は歌う人、って書いたのは俺です」
目をそらしながら言う。そんなに恥ずかしがらなくても……いや、恥ずかしいか。そう言ってもらえてわたしは嬉しかったけど。
「綾野の言い方にはかなり腹立っててさ。合唱部で一緒なんだろ、なんであんなこと言うんだよ。林原はすげえ上手いじゃないか。ここで歌を聴いて、ほんとにいいなって思った。俺は林原みたいにはできないから」
え、ちょっとちょっとそんな。
〈わたしべつに、うまくないよ〉
あわててノートに書く。わたしが手を動かしたので、須田くんはそれをのぞきこんでくれた。
「何言ってんの、むちゃくちゃ上手いし。っていうか俺は好き」
〈ありがと〉
照れながら、わたしはなんとか書いた。好きって言われるのは嬉しいのに、心臓もお腹もモゾモゾして落ち着かなくなる。
「俺ドラムやってるだろ。もう……七年ぐらいかな。でも演奏はそこそこ。これからも飛びぬけることはないと思うんだ。プロになるとか、それで食ってくとか考えてないし」
そうなの? わたしはびっくりして須田くんを見つめた。かすかな苦笑いで須田くんはうなずいた。
「バンド組んで売れなくても、スタジオミュージシャンとか歌手のツアーのバックバンドとか、生き方はあるよ。俺の先生がそれ。でも俺そこまでする根性あるか自信ない」
先生はバンドでデビューできなくて、三十歳ぐらいまでずっと音楽教室の教師として食いつないでいたそうだ。収入はギリギリで、家族からニートみたいに思われててつらかったんだって、と須田くんは笑う。
「俺はそのニートな頃から生徒だったんだけどね。だんだん仕事増えて、最近はアイドルの海外ツアーに同行とかやり始めてレッスンの時間あまり取れなくなった」
〈すごい〉
「うん。でも俺がやりたいことって、そういうんじゃないかもなって思い始めてさ……人の前で演奏するんじゃなくて、音楽を作るほうにいけたらなって思ってる」
〈つくる?〉
「曲を作るとか、誰かをプロデュースするみたいな」
うわあ……思ってもいなかった話をされて、わたしは目を丸くした。でも須田くんは背中をちぢこまらせてうつむく。
わたしの方を見ないのは、たぶん恥ずかしいんだ。わたしも学校で『歌う人になりたい』って言った時にすごく勇気がいった。自分の希望を表明するって照れるし、須田くんもきっと今そうだよね。
〈おもしろそう〉
だからわたしは、須田くんの望みをはげます。わたしは須田くんに認められて嬉しかったから。
〈曲をつくるってむずかしいんじゃない?〉
「うん、すごく難しい。作曲ソフトとかは入れてるんだけど、まだまだ知識が足りなくて。俺らしい音楽っていうのもわからないから、どこかで聴いたようなのばっかりできる」
〈そんなに作ってるんだ〉
「中学のころからやってるからなあ――で、林原なんだよ」
ちょっと背すじを伸ばして、須田くんはわたしに向き直った。緊張した顔。
え、なんでそこでわたしが出てくるんだろう。
「前に林原の歌を聴いたあと、なんかいい感じのが書けたんだ。まだ荒いけど、もうちょっと編曲して仕上げてみたい。先生に聴いてもらってもイイじゃんって言ってくれてて」
ふうん。わたしにはよくわからないけど、須田くん的に良い方へ進んだってことなんだろう。話す調子が熱をおびてくる。
「その曲、イメージしてたのは女性ボーカルなんだ。ていうか林原の声で歌ってみてほしいって思ってた」
「ふぐっ」
わたしののどから、変な音がもれた。あんまりびっくりしたからだ。ついでにちょっと咳こむわたしに須田くんがあわてて立ち上がる。
「うわ、ごめん変なこと言って。ほんとはこんなキモいこと本人には言わない予定だったんだけど……」
ワタワタされて、わたしは咳を抑えこんだ。なるべくまじめな顔を作り、手でだいじょうぶだと示したら須田くんは座り直してくれる。
でもどうしようわたし、心の中はぜんぜんだいじょうぶじゃない。
「こないだまでは、勝手に曲にしてそのうちボカロにでもすればいいかなって思ってた。なのに林原がのどやっちゃったって聞いて、もう二度とおまえが歌うの聴けないのかって思ったらなんかさ……」
言い訳されながら、わたしは必死で頬のニヨニヨをがまんしていた。
わたしに歌ってほしい、だなんてそんなの最高の賛辞だよ。もう泣きそう。
「ここで歌を聴いてから、俺いっつも林原の声を耳で追ってた。卒業式で斉唱した校歌とかも、探してみたらちゃんとおまえの声だけスウって透きとおってた。すくなくとも俺にとって林原の声は特別だ。だから林原がいなくても合唱部は平気だとか言われてすげえ腹立った――勝手に怒っててごめん」
〈ううん おこってくれてありがとう〉
バクバクする心臓を無視し、なんとかお礼を書いた。たぶん今、二人とも照れてどうしようもなくなってる。
「……とまあ、そんな感じで。ちゃんとこういうの白状しないと、俺すごい変なやつになるかなって考えたんで呼び出しました、すみません。いきなり『声治るよな』とか『歌う人だと思う』とか意味わかんないし」
〈うれしかったよ ほかの人はそんなこと言ってくれないから
わたしいつも前に出られなくて
わたしの声をきいてくれる人 だいじ〉
「林原が目立たないって、合唱部なら当たり前だろ? まわりと合わせて歌わなきゃならないんだから……合唱ってよく知らないから調べたんだけど、一人で歌ってるように聴こえるぐらいまで声を揃えろみたいな指導を読んだ。すごい世界だな」
〈でも、わたしが引っこみじあんなのは本当〉
「そっか。まあ俺も人の前で演奏するのはあんまり得意じゃない。教室の発表会に出たことはあるけど、向かないなって思った。それに仕事にしたら、好きでもない曲を叩くことだってあるし」
須田くんはカバンをごそごそしてスマホとイヤホンを取り出した。
「作りかけだけど。データ入れてきたから聴いてみて」
片耳を渡される。わたしの声を聴いて作った曲ってこと?
わたしはおずおずとイヤホンをつけた。
――ピアノの音がこまやかに流れるイントロ。風が吹いたような気がした。
リズムは速い。
疾走感は流行の感じだ。
ボーカルはないけどメロディラインをシンセでつくってあるので追える。軽快な、小鳥のさえずりのよう。
だけど不穏なBメロ。メロディアスに聴かせる。
そしてサビで空に放り投げられて。
転調して希望、そしてアウトロ。
聴き終わって、わたしは目を閉じていた。横から不安げな声がする。
「……どう?」
あ、須田くんに何か感想を言わなくちゃ。あわててシャーペンを走らせる。
〈空 ことり 風が吹いた〉
「う……ん?」
須田くんが微妙な顔になった。
うわ、そうか。受け取ったイメージじゃなく、どうだったかってことだよ!
〈すごくいい さわやか? アオハル?〉
「ああ、うんまあ。俺みたいな素人が背伸びしたってしょうがないから、そんな雰囲気。まだ歌詞はないんだけど」
〈もういっかいきく〉
「え。お、おお」
ねだってみたら、須田くんがちょっとニヤけた。
また頭から流してくれるのを、さっきより落ち着いて聴く。
うん、わたしこれ好き。
体をゆらしながら聴いていたら、隣で須田くんがエアドラムを始めた。
さすが、自分で作った曲。軽々と動いている。メロディの鼻歌まで出てきたのは無意識なのかもしれないけど、わたしはなんだかとても楽しくなった。
こんな気持ちは、声をなくしてから初めてだ。
サビとともに、わたしは空を見上げる。
うつむいてばかりで、ずっと見ていなかった空。
初夏の光は強く、わたしの瞳を射た。
曲の中で飛んでいくように感じる小鳥は小さい。けれどその羽ばたきは力強く、わたしを空へ連れていってくれそうな気がした。
ふと見たら、近くに寄ってきたほんの小さな子がエアドラムと一緒に踊っていた。
腕を振って。ひざを屈伸して。すっごくかわいい。
その後ろ、困った顔で笑いをこらえているのはお母さんだろう。でもこれは止められないよね、かわいすぎて。
須田くんも気づいたみたいで、ノリノリのその子に負けるわけにもいかないのか笑いながら叩き続ける。
ふふっ。
わたしも吹き出してしまったけど、手拍子で参加した。でもすぐに曲が終わる。なんだかもったいないな。子どもも期待する目でキラキラ見てくるし。
〈もういちど 音 外に出そうよ〉
「げ。はず」
〈いいから〉
須田くんは観念したようにスマホを操作した。近くでないと聞こえないぐらいの音量だけど、子どもは大よろこびでまた踊り出す。
「おまえリズム感いいなあ」
負けじと派手に叩いてみせる須田くん。
何かやっているとみた他の子たちまでチラホラ寄ってくる。
けっきょく、踊る人数がふえるわ落ちていた枝でそこらを叩き鳴らす子が出るわの大騒ぎになった。



